コンクリートに座った尻が冷えていた。

 

「あの……お隣、今日は帰らないんじゃないすかね?」

 

 ドアが開いた、と思ったらそれは隣の部屋だった。

 大学生だろうか。二十代くらいの若い男だった。

 

「あ、すみません」

 

 反射的に立ち上がり、俺は謝る。

 音を立てたりはしていないつもりだったが、アパートの廊下に男がずっと座っているというのも怖いだろう。だが帰るつもりはなかった。

 

「寒くないすか……?」

 

 男は遠慮がちに声をかけてくる。どこかのバンドのTシャツに、パーカーを羽織っていた。

 俺は朝までだって、ここで粘るつもりだった。

 浮気の証拠を、掴まないといけないのだ。

 

「あのこれ、よかったら」

 

 男はそう言って、ひざ掛けを差し出してきた。

 

「いや、大丈夫です」

 

 そう言って俺はかろうじて笑みを浮かべる。

 毬子はたぶん、俺を裏切っている。連絡が通じなくなったのがその一番の証拠だ。

 今日だって、LINEをしているけれど既読にならない。

 平日の夜に、定時に仕事を終えたOLがなぜ家に帰らないのか。もう10時を回っている。でも、彼女は帰ってこない。

 こうなったら、帰ってくるまで待つつもりだった。

 

「いや、あの、大したものでもないんで」

 

 男は食い下がる。別にそこまでして断るものでもないかと思い、俺はひざ掛けを受け取る。

 薄い黄土色のごわごわしたそれは、会社で同僚が使っているようなかわいらしいものとは全然違う。

 だけどその素朴さが、何だか心に染みた。

 スーツのままで、上着を着てこなかったのは確かに失敗だった。

 10月のこの季節、遮るもののない廊下は冷えた。特にコンクリートの床がいけない。

 

「すみません」

「ドアの前に、置いといてくれればいいんで……」

 

 そう言って、男はまた部屋に戻っていった。一瞬、彼の部屋の中の温かい空気が漏れ出してくるのがわかった。

 何をしているんだろうと、思わなくはない。

 彼女の家の前にずっと陣取って。

 浮気の証拠を抑えたとして、どうするつもりなのか。

 すがるのか、脅すのか。終わりにするなら、さっさとすればいい。

 俺は未練たらしく携帯を確認する。

 やっぱり連絡は来ていない。

 

「はぁ……」

「あの」

 

 また隣の部屋のドアが開いた。男は手に、鍋を持っていた。

 湯気が立っている。

 職場からそのまま来たので、夕飯も食べていない。身体は冷え切っていて、出汁の匂いに思わず腹が鳴りそうになる。

 

「おでん、食べます?」

 

 ・

 

 男は下田代勇夫、と名乗った。

 名前とあまり合わない印象の、ちょっとちゃらそうな男だった。髪はごく短く、こざっぱりとしている。よく見ると少し茶色く染めているようだった。

 

「いや、すみません、あんなとこで……」

「いやうちこそ散らかってんすけど」

 

 だがそう言う彼の部屋は、鞠子の部屋よりもよほど片付いていた。

  俺はさっき借りたひざ掛けを畳んで部屋の隅に置く。

 

「これ、ありがとう」

「ああ……その色、似合いますね」

「え? ああ……どうも」

 

 そこらのホームセンターで買ってきたような安っぽい家具ばかりだが、大学生らしい部屋だった。見慣れない分厚い教科書が積んであるのも新鮮だった。

 

「理系?」

「工学部です」

 

 この近くには大きな大学がある。きっとそこの生徒なのだろう。

 

「普段研究室詰めてばっかしだから、たまに家帰ると料理したくなるんすよね」

 

 部屋に上がったのは、単純に暖かそうだったから。それから食べ物にも惹かれた。

 しかし他にも理由はあった。ここなら、おそらく鞠子が帰ってきたら音ですぐにわかるはずだった。

 暖かい場所で食事をしながら鞠子を待つ。悪くない。

 下田代は、いいと言ったのに缶ビールも出してきた。

 

「いや、このおでんだけで十分だから」

「でも、おでんといえばビールじゃないすか?」

 

 そう言われて手が迷う。部屋の中は暖かく、おでんはおいしかった。

 なんと、下田代が自分で作ったものだという。これも鞠子よりよほどうまい。鞠子が一度作ってくれた肉じゃかは、焦げて黒い汁にまみれていた。

 酒を飲むのは久しぶりだった。

 普段は飲み会でも、あまり飲みすぎないように気をつけている。ビール一本で顔が赤くなる体質なことは知っているし、そもそも強くない。

 

「……だから、俺は何をしてるんだろって、思わなくもなくて」

「そうっすねー」

 

 気がつくと、俺はぺらぺらと自分の苦悩を話し始めていた。

 鞠子とは、俺が元いた職場で知り合った。今は異動しているが、その頃の同僚は俺と彼女の付き合いをみんな知っている。

 理想のカップルだとか、結婚は秒読みだろうとか、そんなことばかり言われた。

 愚痴は言いづらかった。

 おそらく浮気されている――そんなこと、言えなかった。

 

「別れちゃえばいいんじゃないすか?」

「若いから、そうあっさり言えるだろうけど」

 

 俺だって、大学の頃の恋人は何人だったか思い出すのにも苦労する。多分、五人くらいか。誰も、半年くらいしか続かなかった。

 

「いろいろと、しがらみがあるんだよ」

 

 十歳近く年下であろう、初対面の大学生相手に何を言っているのか。

 

「これで後輩とかと付き合い始めるとまた評判下がるしなぁ」

 

 正直にいえば、そちらに心惹かれなくもなかった。でも、周囲の人間関係だってあるし、やはり大学生の頃みたいには気軽にはいかない。

 

「モテるんすね」

「いやいや」

 

 喋りすぎているという自覚はあった。

 

「下田代くんは?」

「俺は、のめり込むと周りが見えなくなっちゃうんで、自重してんです」

「へぇ」

 

 とてもそんなふうには見えなかった。こうして俺を部屋に誘うだけのコミュニケーション能力もある。軽々と世渡りをしていそうだ。

 だが、意外とストーカーというのはこういうタイプだったりするのかもしれないなと思った。いや今まさに、ストーカーじみたことをしている自分が言えたことではないのだが。

 こういうタイプが意外と、というのが何となくリアリティがある気がした。

 

「帰ってこないすね、お隣さん」

「飲み会かもしれない」

 

 もうそろそろ終電の時間だった。最初は朝まで待つくらいのつもりだったが、俺も明日の仕事がある。

 下田代と飲んで、俺は少し冷静さを取り戻していた。

 誰かの作った温かい食事なんて食べたのが久しぶりだったかもしれない。

 

「最近、遅いみたいすね」

「わかるのか?」

「だいたいは、音で。ほらここ、壁薄いんで」

「何か、変わったことがあったら教えてくれないか」

 

 そうして彼と連絡先を交換した。

 だからといって、特に俺から連絡するつもりはなかった。

 

 

 鞠子からは翌日の昼になって、携帯の電源が切れていたから返信できなくてごめんと連絡があった。

 昨日は部屋に早めに戻って寝ていたという。

 嘘だ。

 俺より先回りをして帰って、部屋に一切電気をつけずに眠っていたということになる。

 ありえなくはないだろうけれど……たぶん違う。

 彼女はたぶん、浮気をしていて、その相手の家にいるのだろう。

 

 

 そのうち、自分の部屋にも浮気相手を連れてくるだろうと思っていた。

 だが、むしろ彼女をつけるべきなのかもしれない。

 そう思いかけてきた頃だった。

 今日はちゃんと上着を着て、マフラーもしてきたけれどやはりアパートの廊下にいるのは寒い。

 俺の頭の中では、もう何度も俺はその浮気相手と対決している。

 手をつないでこの部屋に戻ってきた鞠子が唖然とした顔をするのだ。

 

 ”俊輝くん……どうして”

 

 がさりと落ちるビニール袋。つないだ手を慌てて離す二人。

 空想の中の浮気相手の顔は、真っ黒なまま形を結ばない。

 はっきりとした証拠はどこにもなかった。

 ただ、半年くらい前から鞠子とは徐々に連絡が取りにくくなっていた。

 今までべったりだったのに、急によそよそしくなった。

 将来の話もあまりしなくなった。

 寒さのあまり、俺は思わずくしゃみをする。

 どれだけ防寒をすればいいのだろう。

 今日は鞠子には連絡をしていなかった。してもきっと、未読のまま放置されるだろうと思ったからだ。ここまで来たなら、いっそ別れ話をしてしまったほうが早いのはわかっている。

 鞠子が何をしているのだとしても。

 でも、彼女が浮気をしているのだと確かめられないと、納得できない気がした。

 どれだけバカバカしくても。

 

「……あれ、お隣の彼氏さん」

 

 廊下を歩いて部屋に帰ってきたのは、鞠子ではなかった。

 そういえば今日は隣の部屋も電気がついていなかった気がする。

 

「どうも」

 

 この間おでんをごちそうになった下田代だ。

 俺は何となく気まずかった。

 彼女に執着する恋人――これはまさに、ストーカーそのものじゃないのか。通報されても、言い逃れできない気がする。

 彼はビニール袋を手に持っていた。買い物に行っていたらしい。

 彼はそのビニール袋を見せて言った。

 

「今日、うち鍋なんすけど、寄ってきます?」

 

 ・

 

 おかしい。

 俺は、鞠子の浮気の証拠を掴むために来ているはずだ。

 なのになぜ、大学生の部屋でのんびりくつろいでいるのか。

 鞠子はやっぱり、終電直前になっても帰ってこなかった。

 

 そういう日が、二度三度と続いた。

 最初の頃こそ、俺は鞠子の部屋の前に座り込み、彼に呼ばれるのを待っていた。

 だがじきに、直接彼と連絡を取り、彼の家にまず行くようになっていた。

 その方が凍えないで済むし、鞠子が帰ってきたなら音でわかる。

 下田代は、家では兄弟が多かったので、どうせなら誰かと食事をしたいのだと言った。下手したらまだ十代なのではないかと思ったが、大学四年生なのだという。院に進むことをもう決めているので、就職活動はしていないらしい。

 実際、彼の作る夕飯はおいしかった。

 別に、凝った煮込み料理を作ったりするわけではない。何種類もの鍋、ちょっとしたつまみ、チャーハン、そういったざっくりした料理が多い。

 だけどどれも好みの味だった。飲食店でバイトをしているらしい。

 

「いつもお邪魔して、悪いな」

「別に気軽な一人暮らしなんで、気にしないでいいっすよ」

 

 歓迎されて、あまり良いことではないと思いつつ、ずるずると甘えるようになっていた。金を払うといっても、彼は受け取らなかった。だから最近は、食材やビールを買ってくることにしている。

 

「あ、帰ってきた」

 

 下田代の部屋に来るようになって、五回目くらいだっただろうか。

 隣の部屋のドアが開く音がした。

 一気に緊張感が高まる。足音と、それからはっきりと中身まではわからないが、話し声が聞こえた。

 高い声と、低い声。男もいる。間違いない。

 今日こそ、隣の部屋に突撃して、浮気の証拠を掴むべきときであるようだった。

 

「ここ、壁こんなに薄いのか……?」

 

 思わず俺は尋ねていた。

 思った以上に、隣の部屋の生活音は聞こえてきた。足音、水を出す音、冷蔵庫を開ける音。笑い声。

 こちらがテレビもすべて消して耳をすましているせいもあるだろうけれど、思った以上に筒抜けだった。

 俺も、鞠子の部屋には何度も上がったことがある。だがおそらく、下田代はほとんど留守だったのだろう。

 

「そうすよ」

 

 仕事帰りに寄って、少し飲んで愚痴を話したりして、それから……。

 

「だから、古津さんが彼女としてるときも、よく、声聞こえました」

 

 じわりと汗が吹き出してくる。

 確かにこれだけ音が筒抜けなら、セックス中の声もよく響くだろう。

 

「悪かった……」

 

 下田代は平然とした顔をしている。

 だが、目の前の大学生に自分の性生活が筒抜けだったとわかって、俺は冷静ではいられなかった。

 

「普段は、話してる内容までは聞こえないんすけど。夏、たまに窓開けてましたよね。そういうときは何言ってるかまでよく聞こえて」

「申し訳ない……」

 

 別に、これといって特殊なセックスはしていなかったはずだ。だけど恥ずかしくて仕方がない。

 

「え? むしろ俺は楽しかったんすけど」

 

 そうはっきり言われてしまうと、どう反応していいかわからない。

 俺の困惑を読み取ったかのように、彼は続けた。

 

「声聞きながら、おかずにしてたんで」

「……っ」

 

 自分たちのセックスをそんな風に使われていたと聞かされて、いい気はしない。だけど、窓を開けたりしていたのはこちらが悪いのもわかる。

 壁が薄いのは仕方がないことだ。

 俺は苛立ちと恥ずかしさを何とかこらえようとする。

 そして、嫌な予感に打たれた。

 隣の部屋には仕事帰りの男女二人。しかも明日は土曜だ。部屋の中に帰ってきて……そして。

 かすかな喘ぎ声が聞こえた気がする。気のせいだと思った。

 

「始まった」

 

 まるで、テレビでも見ているかのように楽しげに下田代は言う。

 平然とした顔で、食後の茶を飲み続けている。

 

「隣……行ってくる」

 

 聞こえてきたのは、確かに鞠子の嬌声だった。

 頭が熱くなってきて、もうどうしていいかわからなかった。今押しかければ、確実に浮気の現場をとらえられる。

 確実に、浮気をしているだろうとは思っていた。だけど今、まさに壁一枚隔てた向こうで起きているのだと見せつけられると、心は乱れた。

 彼女を信じていたわけじゃなかった。

 でも、こんな裏切りはない。

 楽しい時期だって、愛し合っていた頃だって確かにあったはずなのに。

 

「普通のプレイしかしてないみたいでしたけど、一回だけ、縛ってみないかって言ってましたよね」

 

 何を言い出したのか、よくわからなかった。

 下田代はそう言って、戸棚を開けた。一瞬、何か武器でも貸してくれるのかと思った。浮気相手と鞠子をまとめて撃ち殺せるマシンガンとか。そんなわけはないのに。

 彼が取り出したのは、縄だった。

 

「何……?」

 

 確か、雑誌か何かの影響だったと思う。マンネリ防止にソフトSMとかそんなような。

 でも、鞠子には断られた。ただそれだけのことだった。

 

「どうせならやってみないすか?」

「何を言ってるんだよ」

 

 俺は何とか笑おうとした。今まさに、隣の部屋で鞠子が浮気をしているのだ。それどころじゃない。

 

「俺、得意なんすよ。師匠にも筋がいいって褒められて」

「勝手にしてくれ」

 

 喘ぎ声は続いている。俺は思い切り壁を殴りつけてやりたくなる。

 俺は携帯だけを手に、部屋を出ていこうとした。

 だが、下田代はそれを阻むように俺の腕を掴む。

 

「何なんだよ」

「縛らせてください」

「はぁ?」

 

 強引に振り払おうとした。だけど、彼の力は強かった。

 ふざけているのか。だが今日はお互い酒も飲んでいない。

 年下の細身の男になんて、負けないつもりだった。

 だが下田代は俺の力を受け流すようにして、自然な動きで俺の腕をひねった。

 

「痛っ」

 

 あまりに自然な動きだったので、俺は起きていることが信じられなかった。隣の部屋の行為の声は、どんどん大きくなってている気がする。

 早くしないと。

 今踏み込まないと、しらばっくれられるかもしれない。男が帰ってしまうかもしれない。

 早く。

 だが、掴まれた腕はまるで自由にならなかった。

 

「『試しにしてみよう、意外といいかもしれないだろ』って……言ってたじゃないすか」

 

 ・

 

 おかしい。

 俺は、これといって特殊な性向はない。

 女性を好きになって付き合ってきた。セックスだって、まぁ特に文句を言われたこともないし普通だと思う。

 なのになぜ、男に縛られているのか。

 事態が異常すぎて、ついていけない。これは現実なのか。

 焦り、動揺するのと同時になぜか頭がぼうっとしてくる。

 

「やめろ……っ」

 

 大声をあげたら、鞠子に聞こえるだろうか。助けてくれと叫べば、これだけ向こうの音が聞こえているのだ。

 たぶん向こうにも聞こえる。

 だが、浮気相手と行為直後の鞠子に、大学生に縛られているところを助けてもらう――笑えないにも程がある。こんなところ、彼女に見られたくなかった。

 

 下田代は、俺を脱がしたりはしなかった。

 上着を脱いだだけの、スーツ姿のままだ。今日はネクタイも取っていない。

 そのまま、さっきの縄を俺にかけ始めた。

 縄はいかにも縄らしい、麻のような茶色いものだった。

 

「やめてくれ……」

 

 下田代はやけに真剣な顔で、俺の上半身に縄を通していく。ぎゅ、ぎゅ、と縄をぐるりと身体に回すたびに力を込められる。

 どんどん俺は身動きが取れなくなっていく。

 まだ自由な下半身で暴れようにも、縄が食い込んでくる慣れない感覚に、足に力が入らない。

 

「やめろ、やめ……」

 

 隣の部屋の嬌声がまだ続いている。わけがわからなかった。俺は早く浮気現場をとらえないといけないのに。

 

 ”あっ、……っ、や、め、あ”

 

 自分の声と、女の嬌声とが混ざり合っていくような錯覚に襲われる。

 本当にやめてほしいのではないだろう彼女の声と、俺の状況とは違うはずなのに。 

 

「やっぱり、似合いますね」

 

 下田代はうっすらと紅潮した顔をしていた。力を込めているせいなのだろうか。それ以上に興奮しているようだった。

 鞠子の声がし始めても平然としていた様子とは、まるで違った。

 

「きついですか?」

 

 俺は涙目になりながら、頷く。

 

「我慢してください」

「なら聞くな……っ」

 

 女性だったら、胸が強調されるのだろうなというように、二重に彼は俺の胸に縄を回す。俺には胸なんてないから、わずかにワイシャツが乱れるだけだ。妙な形に固定されて、身体が軋む。

 鞠子には確かに縛ってみないかと言った。でも、軽く手錠をかけるとか、目隠しをするとか、そのくらいのつもりだった。

 こんなふうに縄を使うプレイのことなんて知らない。

 こんなことをしても、豊満な女性でもない限り見目よいものにはならないと思う。

 俺は大して筋肉もないし、ごく普通のサラリーマンだ。

 

「きれいだな」

 

 だが彼は、ほうっとした様子でつぶやいた。

 

「な、にを」

「写真、撮ってもいいすか?」

「だ、めに決まって……!」

「ちぇ……」

 

 いつの間にか、完成していたらしい。下田代は俺の正面にまわり、自分の縛り方の出来を確認するように縄に触れた。

 

”……っ、あ、あん、やっ”

 

 うっとりと、魅入られたように縄を見ている。あんなに普通の大学生に見えたのに。

 

「お前は……何、を」

 

 確かに、彼のことなんてろくに知らない。大学生であること。この部屋に住んでいること。飲食店でバイトしていること。彼女がいないこと。聞いたのはそのくらいだ。

 

「俺の気持ち、わかりました?」

 

 隣の部屋の声はいよいよ激しくなっていた。俺は、自分がはっきりと勃起しているのを感じる。

 

「何……」

 

 彼の手が、縛られていない俺の下半身に伸ばされる。俺は思わず腰を引きかけたが、無駄な抵抗だった。

 痛いくらいに立ち上がっているそれを服の上から握られて、俺は思わず隣の部屋から聞こえているような嬌声をもらしていた。

 

「ああ……っ」

「汚れちゃいそうだから、脱がしますね」

 

 そう言って下田代は俺のズボンをずり下ろし、性器を露出する。

 明るい部屋の中で、縛られ、下半身をむき出しにしている。異常きわまりない状況なのに、頭がぼうっとしてもう何もよく考えられなかった。

 

「あ……っ、や、め」

 

 彼の手にこすられ、声をこらえきれなかった。

”やぁっ、や、あん、あ、あん”

 それは、浮気相手に鞠子が抱かれているからだろうか。

 それとも、生まれて初めて縛られているからだろうか。

 わからなかった。

 

「んん…っ、あ……」

 

 だけどこれほどの気持ちよさを、これまでに感じたことはなかった。息が苦しい。頭に酸素が届いていない気がする。ぼうっとして、体中に熱がぐるぐると回っている。

 上半身が身動きをとれなくて、余計に熱の行き場がない。

 自由にならない。

 男の好きなようにされている。

 信じられないくらい、気持ちがよかった。体中が熱くて、声を出していないと頭がおかしくなりそうだ。

 

「あ……っ、ん、や」

 

 達する瞬間、彼は俺の顔を強引に自分の方に向かせ、キスをした。

 たったそれだけのことなのに、その刺激は強すぎるほどに感じた。口の中の粘膜に舌で触れられる。彼の舌は、生々しく濡れていた。

 身動きがとれないまま、俺は彼の手の中で射精していた。

 

「オカズにしたって言ってたの、あなたをですよ」

 

 何が起きたのか、まるで信じられなかった。

 ぐったりと彼にもたれかかりながら、何か言われた気がした。だけどもうよくわからなかった。

  

 ・

 

 鞠子とは、正式に別れた。俺は浮気について、問いたださなかった。

 彼女もこうなることを予想していたのだろう。別れ話は拍子抜けするくらいスムーズだった。

 

「じゃあ、うちにある私物とかは家に送るから……」

「あ、引っ越したの」

「いつ?」

「先月」

「え……?」

「ちょっとばたばたしてて」

 

 彼女は少しきまり悪そうに言った。それもそうだろう。

 先月だったら、まだ付き合っていた。デートもしていた。なのに、彼女は引っ越しただなんて一言も言わなかった。

 おそらく、浮気相手の部屋に転がり込んだということなのだろう。

 だが、だとしたら「あの日」にはもう、彼女はあそこに住んではいなかったはずだ。

 さすがに、嬌声だとしても声が鞠子のものか、そうでないかくらいはわかると思う。それとも、異常すぎるシチュエーションに、たまたま別の男女のセックスを聞き間違えたのだろうか。

 だがその場合、隣の部屋に引っ越してくるのが早すぎないか。普通、清掃などの作業もするはずだ。

 身体には、あざがわずかに残っていたが、それも数日で消えた。

 インターネットで調べて、自分がされたのがどんな縛り方だったのかも知った。バーのようなところでショーをしていたり、緊縛というもの自体は思ったよりポピュラーなものであるらしかった。

 でも、知らない世界だった。

 あんな経験は他にない。初めて女性とセックスをしたときだって、あれほどの衝撃ではなかった。

 まるで、自分がそっくり変えられてしまうかのような。

 作り変えられてしまうかのような、衝撃だった。

 

「どうかした……?」

「いや、何でもない。そういえば、あの部屋、隣の部屋の住人に会ったことあるか?」

「なんで?」

「いや……ちょっと知り合いに似てた気がして、気になって」

「半年くらい前かな、引っ越してきたって挨拶してくれたよ。大学生だったかな、明るい感じの」

「そうか……変なことついでに、もう一個だけ。最近あの部屋にまた行ったか?」

「いや、ほんとに変なんだけど……なんでそんなこと聞くの?」

 

 鞠子はさすがに怪訝そうだった。無理もない。俺が彼女だったとしても、俺がおかしくなったんじゃないかと疑うだろう。

それでも答えを返してくれた。行っていない、と。

 確かに俺は、おかしくなっているのかもしれない。

 

 

 

 

 下田代から、何も連絡はなかった。

 もしかしたら、何か言ってくるんじゃないかと思っていた。あのときの写真があるから、また来ないとばらまくぞと脅すとか……。会社に知らせるぞとか……。

 緊張しながら過ごしていたが、音沙汰は何もなかった。

 彼にとっても、気まぐれだったのだろうか。

 たまたま、縛りたい相手が部屋に来たから縛っただけ。彼はそういう性向の人間。そういうことなのかもしれない。

 だが、あの音声はおかしい。

 鞠子はあのとき、もう部屋に住んでいなかった。あんなふうに、声が流れてくることはありえない。

  

 その日俺は仕事を終えるまで、まっすぐに家に帰るつもりだった。

 もう全ては終わったことだ。これから後輩と付き合ったっていい。この間飲み会で連絡先を交換した子は、わりと好感触だった。

 新しい可能性はいくらでもある。自分から危険な道に踏み外すつもりなんてない。

 軋むようだった身体の痛みを思い出す。俺は、ごく普通の趣味しかない。あんなの、犬に噛まれたようなもので、何でもない。

 家に帰ろうと思っていた。

 だけどなぜか、自然と足が鞠子のアパートへと向かっていた。

 もう彼女が住んでいないことははっきりしているのに。

  何度もたどった道だから簡単に行けた。スムーズに、迷うことなく俺はアパートにたどり着いていた。

  俺はとりつかれたように、鞠子が住んでいた部屋のチャイムを押す。

 もちろん、誰も出なかった。

 ならあの日、聞こえてきた声は何だったのか。隣の部屋に、鞠子はいないはずだった。

 隣の部屋のドアが開くのを、俺は最初からわかっていたような気がする。会社を出たときから……いや、たぶんもうずっと前からわかっていた。

 下田代は俺を認めて、驚くでもなく言った。

 

「今日はしゃぶしゃぶすよ」

 

 

 下田代の用意したしゃぶしゃぶは、大学生が用意するには高級な牛肉だった。

  ネギや白菜、きのこなども豊富に揃っている。

 食欲などないと思ったけれど、目の前でぐつぐつ煮える鍋を見ているうちに、自然と箸が伸びていた。

  

「……あれは、俺だな?」

 

 食事を終える頃になって、俺はようやく口にした。

 

「何のことすか?」

 

 下田代はやはり、顔色を変えなかった。

 

「あの音声だ」

 

 考えてみれば、拍子抜けするようなことだった。あのとき、男の側の声はほとんど聞こえなかった。だから気づかなかった。鞠子とは何回もしていたし、自分としているときの声だ、なんてこと判別はできない。

 下田代は、隣の部屋の音はよく聞こえてくると言っていた。

 

「いつ頃のだかわからないが、録音しておいて、こっそり再生したんだろう」

 

 今となっては、鞠子が浮気をしていたのかどうかはわからなかった。俺は、証拠を掴めなかった。だがたぶん、別れを切り出したときの反応からしてそうだったのだと思う。

 

「オカズにしようと思って録ったんすけど、あんたの声ほとんど入ってないんですよね」

 

 下田代はあっさりと認めた。

 

「俺のこと、知ってるのか……?」

「一人暮らし、半年前から始めたんです」

 

 確かに鞠子も、彼が引っ越してきた時期は半年くらい前だと言っていた。だが下田代は大学四年生のはずだ。変わったタイミングだった。

 

「慌てて揃えて、大変でした」

「それまでは、誰かと同居を……?」

「実家すよ」

 

 そう言って、下田代は都心の駅の名前を出した。かなりの都会だ。それ以上に驚いたのは、今日も俺はその駅を利用していることだ。……俺の職場の、最寄り駅だった。

 

「一人暮らしする必要ないだろ、それ……」

 

 大学にだって近いはずだ。

 

「あるに決まってるじゃないすか。このアパート、壁薄いんすよ?」

「薄いから何だ」

「こないだのみたいな音も録れて、最高じゃないすか」

 

 そもそもどうして、今日俺はここに来てしまったのか。仮に下田代に真相を尋ねて、答えが返ってきたとして、もうどうだっていいことのはずだった。鞠子とは別れたのだ。今更こだわっても仕方がない。

 むしろ、彼はこの間自分の自由を奪った、危険な存在のはずだ。

 なのになぜ、また彼の部屋に上がっているのか。

 

「即引っ越すくらいの意味は、あるってことです」

 

 彼の作る食事には、何か薬でも入っていたんじゃないだろうか。

 そんなわけないとはわかっている。

 だけどそうじゃないと理屈がつかない。

 明らかにやばい。それはもうわかっている。なのに俺は立ち上がれない。

 

 昨日の夜、男が縛られる動画を探して見た。男を縛っていく流れは、下田代の動きほど、なめらかだとは感じなかった。縛られる男も、俺なんかよりもずっと体つきがよかった。いかにもなゲイ向けのポルノだ。

 それなのに俺は、その動画を見ながら下半身に手を伸ばしていた。

 画面の中の男が、低く喘いでいた。

 俺はいつも、女性と付き合うときにはちゃんとデートコースを考えたり、おごったり、期待される振る舞いを欠かしたことはなかった。

 いい彼氏だと思われたかった。

 縛られた男は、身動きも取れずに触られるたび、びくびくと痙攣していた。

 

「ずっと、見てたんすよ。縛りたいなぁって」

 

 彼はいつの間にか、また縄を手にしていた。この間の黄土色のものとは違う、赤い色をした麻縄を。

 何をしていても冷静だった彼の顔がまた上気している。目が爛々と輝いて、獲物を見るような目で俺を見ていた。

 

「前のも良かったけど、赤も似合うと思うんです」

 

 俺は普通の性向しかなくて、こんな事態は異常で。でも、俺の足にはまるで力が入らない。

 

「ほら」

 

 差し出された、赤く艷やかに染まった縄を見ながら、俺は唾を飲み込んだ。