「ねえねえどうだった?」
 ぐったりと疲れて家に帰ると、わくわくした態度のいとこに出迎えられた。
「何がだよ」
 伶はとにかく早く風呂に入りたかった。だが、あまり焦っても怪しまれるだろう。怜は何でもない風に装う。
「遅かったじゃない」
「どうにか壊そうとしてたんだよ」
 べっとりと身体にまだ何かしみついているような気がする。あの化物のことが頭から消えなかった。
「やっぱり何かいたの?」
「絶対に取り壊す」
「ねえねえ聞いてるんだけど」
 いとこの留美子は楽しげな様子を隠すこともない。長めの癖っ毛を、あまりかまうことなく一本に縛っている。眼鏡の中の目は、好奇心に輝いていた。
 従兄弟だが、あまり外見は似ていないと思う。留美子は良くも悪くも、あまり特徴のない顔立ちだ。
「くそっ」
 伶は思い切り、家の壁を蹴った。
「ちょっとやめてよ、追い出すよ!」
 容赦なく留美子に頭を叩かれた。二つ年上の彼女に、小さい頃から伶は頭が上がらない。兄ともどもそうだった。
「いってえ」
「髪もこんな色にしちゃって……」
 留美子は叩くついでに、伶の髪を摘む。
「ただの茶髪だろうが!」
 この辺鄙な村に、心地の良いホテルなどあるはずがない。だから伶が頼ったのは、従兄弟の彼女だった。彼女はUターンをして今もこの村に住んでいる。伶からしたらただの変わり者だ。
 だが、田舎や伝承といったことが昔から好きだった彼女には、それなりに合っている場所なのかもしれない。大学の卒論も、民間伝承のようなことを調べて書いたと聞いた。
「あれは絶対に取り壊す」
 留美子の顔を見ることもなく、伶は呟く。もう思い出したくもなかった。記憶はぼんやりとしているが、それでも消えたわけではない。
「何かいたの?」
 伶は答えない。
「何系?」
「は?」
「神様系? 妖怪系? キリスト教系? それとも土着系? 旧支配者?」
 急に早口で彼女は言う。目が輝いている。
「何言ってんだよ……」
 この従兄弟にはときどきついていけない。
 あの塔のある一帯は、伶の父が相続したものだ。いとこである彼女の家にはこの家付近の土地が割り当てられたらしい。
 伶が土地を売ろうとどうしようと、彼女には関係ないはずだったが、塔に住む化け物については気になっているらしい。
「そんなイライラすることないって、こんな田舎なんだからのんびり調査しようよ」
 留美子は一応、唐突な怜の訪問を歓迎してくれていた。たぶん刺激がないのだろう。
「そんな暇はねぇ、さっさと帰るんだよ」
「そんなに東京がいいもんかね」
 留美子だって、大学は東京に行っていたはずだ。よほど嫌なことでもあったのか。蛇が出るとわかっているヤブを突くほど伶は間抜けではない。
 伶だって都会でいいことばかりだった、とは言えない。借金を作ったのは、伶自身の失敗もあったが、それだけではない。
 だが何にせよ、借金取りは待ってはくれない。
「とにかく、俺はさっさとあれを壊して、売る」
 決意するように、伶はぽつりと言った。
 だが、方法はまるでわからなかった。
 風呂場はかろうじてリフォームをしているので、古い家のわりには快適だ。たっぷりと満たしたお湯につかり、伶は考える。
 あの後、ブルドーザーを動かしてもらったが、まるで刃が立たなかった。通常、大きな建物を解体するには最上階から徐々に壊していくらしい。周辺への影響などもあるので、爆薬はあまり使わないとのことだった。だが頼み込んで、爆薬も用意してもらうことにした。
 あの塔には何かがいる。それは認めざるを得ない。
 水の中の手のひらを眺めて、嫌な記憶が蘇る。痕ひとつついてはいない。でも、覚えている。
「俺が好きなのは女なんだよ」
 つぶやいて、顔を湯で洗う。
 男なんてまっぴらごめんだった。なのにあんな風に男にいいようにされ逆らえなかった。あれはやはり呪術の類なのだろうか。妙にじっとりと絡みつくような甘い匂いだった。
 どうやったら壊せるのか。
 なんとか土地を売らないと、伶の未来は無い。物理的な武器を用意するにも、この田舎と伶の財力では限度がある。


「なぁもし、本当に何かがいるなら退治とかできると思うか?」
 留美子の知恵を借りるのは癪だったが、こうなったら背に腹は変えられない。風呂を上がると、伶はリビングで古びた本を読んでいるところだった。
「伶ちゃん背伸びたよね。その寝間着きつくない?」
「いいから質問に答えろ」
 彼女は昔話や現象といったことに詳しいはずだ。
「だから何系かって聞いたじゃん」
「何系?」
「神様なのか妖怪なのか」
「しらねーよ」
 いると伝わっているのは化け物のはずだ。
「化け物なんじゃねーの」
 言いながら、もし神様だったらと考えてしまう。もしあれが神様だったら、敵うはずがない。……いや神様があんなことをするものか。とんだ生臭坊主……じゃなくて神さまの時は何て言うのだろう。
 留美子はあきれた様子で、ぱたんと本を閉じた。
「例えばヤマタノオロチは八個の頭にそれぞれ酒を飲まされて、寝てるところを切られた。まぁ、それが事実としてあったことじゃなくて、オロチ自体が竜神……反乱する川の象徴なわけだよね。殺すっていうのは、治水の話。殺したのが王なのは、つまりそうやって権力を正当化しているわけ」
 滔々と留美子は話すが、伶には今いちぴんとこなかった。
 あれが何かの象徴だとは思えない。実際に「いて」、伶に触れたのだ。実害が出ている。水であるはずがない。
「もっと役に立つ話はないのかよ。塩をふりかければいいとか……」
「なめくじじゃないんだから」
 留美子は呆れた様子で笑う。
「もしヤマタノオロチなら、酒と剣が武器になる。まずはもうちょっと材料を調べてきてくれないとね」
 がっかりする伶を諭すように、留美子は言った。確かに、それはもっともだった。ナイフで殺せる相手なのかどうかもわからない。
 何を判断するにしても、今は伶の記憶しかない。写真も撮れなかった。そもそも実在さえ、誰も信じてはくれないだろう。
「案外本当は人間なんてこともないの?」
「あるわけねぇだろ」
 ぽたぽたと伶の前髪からは水が滴っている。やるべきことははっきりしていた。だけど正直、気は進まない。
 せめてヒントだけでも掴む。
 そのためには、やはりもう一度あの塔の中に入るしかなかった。

 ・

「いやほんと、私は単なる解体工で……」
「黙って歩け」
 ほとんどの人間が拒否した工事を、最後になって請け負ったのが、地元で大工をしている男だった。
 気の弱い大柄な男で、伶が無理を言ったらブルドーザーを動かしてくれたのも彼だ。結局、動かしても何の意味もなかったわけだが。
 もう一度塔の中に入らないといけないにしても、一人では嫌だった。
 不安だとか、怖いとかいうわけじゃない。……嫌な記憶がよみがえる。あんな風に男に手玉に取られたことは、記憶から消したいくらいだった。
 またされたら、どうしていいかわからない。日本でも拳銃が持てたらいいのにと思う。それならば話は簡単だ。
 もし、拳銃でも通じないならそれこそお手上げだ。
 だが、もしそうだとして、なぜそんな相手がここにいるのか。日本の片田舎だ。これといって価値のある建物とも思えない。
 こんなど田舎に、なぜ。
「ひっ……何を、見られたんですか?」
「何だよ」
 わからないことだらけだった。
「何かがいたとおっしゃってましたよね?」
「男だよ」
 塔の内部は、前と変化がないように思えた。
 空気がこもっている。埃っぽい。今回はちゃんと、伶は大型の懐中電灯を持ってきていた。内部を照らすと、あちこちが痛んでいて、蜘蛛の巣が張っているのがわかる。地元の子どもだったら肝試しを喜んでしそうだ。だが、人間の気配はしなかった。
 かなり古い。百年ぐらいは余裕で経っているだろう。誰が、何のために建てたのか。
「男……人間ですか?」
 やはり最上階にまで行かないと、何かがいるかどうかはわからないようだ。あの、ベッドと机のある狭い部屋。
 わからないといえば、あの部屋もそうだ。それ以外の場所にくらべて、あそこはやけにきれいだった。そういえば、あそこには日記のようなものがあった。もし人が書き残したものなら、おそらく父か祖父のものだろう。彼らは、化物の存在を知っていたのだろうか。
「さぁな。恐ろしく美形の男だった」
 それ以外に、説明の仕様がなかった。
 女性的というわけでもない。ただきれいで、ぞくりとするような迫力があった。だからこそ、化物だとしても納得できる気がした。
「はぁ……美女だったらうれしいですけども」
 男はあまり信じていない様子だった。それも当然だと思う。伶だって、もし他の誰かが見たというだけなら信じはしなかっただろう。霊だの化物だのとは無縁の生活を送ってきた。
「そうだな」
 やはりついてきてもらってよかったと思った。他愛ないことでも、話しながら歩くとだいぶ気分が違う。
「この塔、前にも壊そうっていう話は出なかったのか」
「いやぁ、化物の話もありましたし……もうほとんど、誰も近寄っていなくて」
「父とか祖父も?」
 近寄っていなかったら、あそこに日記が置いてあるはずがない。化物はどのように生活をするのかよくわからないが、たぶんあれは、人が生活するための家具だ。
「近寄らなかったと思いますねぇ」
 せいぜい四十代の彼が、どこまで知っているかはわからない。
 だけどこの狭い田舎のことだ。もし塔に通っていたらすぐに噂にでもなっただろう。
 ――あの男は、おかえりと言わなかったか。
 だんだん思い出してくると同時に、冷や汗が噴き出してきた。あれは、自分を誰かと間違えていたのではないか?
 だとしたら、誰に。
 ふっと、弱い風が吹いた気がした。唐突に明かりが消え、真っ暗になる。
「え?」
 懐中電灯は買ったばかりのものだし、電池も十分にあるはずだった。消えるはずがない。
 伶は懐中電灯を振ってみる。
「……すみません、私、やっぱり無理です」
「え、あっ、おい」
 かえって暗い中では危ないんじゃないかと思った。だが、男はどんどん階段を降りていってしまった。
「報酬払わねえぞ……!」
 そう言っても、彼は戻ってこなかった。あっという間に足音が遠くなっていく。伶は暗闇の中に一人取り残される。
 懐中電灯は、何度振っても明るくならない。
「不良品かよ……」
 別に何か特別な力のせいじゃなく、単に不良品を掴まされただけだ。そうに決まっている。
「くそっ、怖くねぇからな!」
 勢いに任せて、伶は階段を登る。懐中電灯がなくても、まだ昼間だから内部は薄明るかった。
 もしあの男がまた出てきたら、殴ってやればいい。一応、護身用のナイフは持ってきた。そんなもので殺せるかはわからないが、何もないよりマシだ。
 昨日みたいに、ただやられるつもりはなかった。
 あんな……屈辱的な。
「くそ、おい、出てこいよ!」
 長い階段の先に、ぼんやりと灯りがついているのが見えた。
 ――いる。
 ぞくりと背筋が震えた。伶以外の人間が、この塔に勝手に入っているとは思い難い。
 おそらくあの男だ。
 足が震えた。でも、もう戻るなんてことは到底できなかった。
 このまま東京に戻ったとして、借金取りはますます強く出るだけだろう。あいつらはたぶんヤクザだ。夜逃げをしたとして、どこまで逃げられるか。
 だから事業を起こす時に、本当は金を借りたりしたくなかった。費用は最初にかかるだけで、レバレッジがかかって、二次関数的に利益は増えていく……そんな妄言を信じたのがばかだったのだ。
 だがもう考えても遅い。アルバイトをして返せるような金額じゃない。進むしかないのだ。
 伶は強く、つかないままの懐中電灯を握り直した。
 かつんかつんと、伶の足音だけが響く。
 あの男は、何も食べたりはしないのだろうか。化物だから、当たり前なのか。それにしたって、栄養源か何かはあるのではないか。
 弱点はきっとあるはずだ。
 もし仮に神だとしても――神に対抗する物語なんていくらでもある。
 長い階段を登っているうちに、自然と息が上がっていた。普段は運動なんてしないからどうしたって息苦しい。
 伶はそっと、ポケットの中でナイフを握る。これがどれほどの武器になるかはわからない。でもどうなったっていい。もし刺して死ななかったら、相手が化物だとはっきりする。それだけでも収穫だ。とにかく情報が足りない。
 もうここまで来たら行くしかない。
「くそ、出てこい……!」
 弱点はきっとあるはずだ。
 頂上の部屋にまで登った伶は、ナイフをポケットの中で握りしめたまま、部屋の中を見渡した。
「動くな……!」
 そこには確かに、男がいた。
「え……?」
 だが、この間見たような、成人男性ではなかった。階段を登ってきたせいだけではなく動悸がする。
 男なんて、恋愛対象じゃない。自分が好きなのは女だ。最初の頃、会社はうまくいっていた。金はいくらでも使えて、女とは遊び放題だった。
 ――なんで、お前がいるんだ。
 伶は言葉を飲んだ。
 違う。
 髪は、この間の男と同じ、銀色がかった灰色のような不思議な色だった。だが長さはとても短い。そして姿は……子どもだった。
「……っ」
 こんなところに子どもがいるわけがない。現実とも思えない。だけど、やけに記憶が刺激される。
 その子どもはよく似ていた。
 伶が生涯でただ一人、好きになった男に。