ぼくは地球上でひとりきりだ

(ぼくがそばにいるよ)

こんなに孤独でいられるものだろうか

(ぼくは君以上に孤独だよ

ぼくは君の顔を見ているのに

だれもぼくを見たことはない)

 シュペルヴィエル『未知の友』より

 

 

 

 

 

 

 音楽が流れている。

 パガニーニなんて嫌いだ。

 技巧を見せつけるようで、うざったい。自分に酔っている。

 腕が、痛かった。

 肩も腰も、全身が痛い。医者に見せても、何も悪いところはないと言われた。母がすぐに連れて行ったのだ。心因性の可能性もあると言われて、母は笑った。

 じゃあ大丈夫ね。よかった。

 全身が痛い。関節という関節に、毒を流し込まれたみたいな気がする。

 パガニーニなんて嫌いだ。

 ――さすが天才少年、この歳でこんなに難しい曲が弾けるなんて。

 ――やっぱり将来はヴァイオリニストに?

 外に、遊びに行きたいと思ったことはなかった。公園で泥にまみれて遊ぶなんて、何が楽しいのかわからない。一緒に遊ぶような友だちもいない。

 でも、家や教室の中でずっとずっと練習を続けたいわけじゃなかった。一人ならいい。いくらでも弾きたい。でも、レッスンには母や教師が立ち会う。

 もっと情感を込めて。ここで盛り上げる、そう!

 譜面にない指示が降ってくる。良い評価をされるように。審査員の覚えがよくなるように。毒を流し込まれ続けている。毎日少しずつ、身体に確かに溜まっている。

 どうしてだろう。ちゃんとやっているはずなのに。なのに、結果は出ない。あのステージの照明が自分を焼く。眩しすぎて何も見えなくなる。

 レッスン後、一人で帰るように母から連絡があった。

 もうすぐ大きなコンクールの予選がある。母はまたあれこれ言ってくるだろう。家に帰りたくない。だけど、寄れるようなところもどこにもなかった。

 乙彦は音楽教室の建物内をぶらぶらと歩き回る。

 わずかにドアが開いている空き教室があった。真っ暗だ。

 ふと乙彦はその部屋に入った。

 電気はつけずに、ドアを閉める。そうして深く深呼吸した。暗闇は落ち着く。誰も、自分を見ない。

 誰を見返さなくてもいい。何をしても、しなくても自由だ。

 乙彦は何度も、大きく息を吸い込む。

 ――何もかも全部、終わればいいのに。

 早く、世界が滅びてくれればいい。

 この町もこの音楽教室も、父も母も消えてしまえばいい。そのあとに残った荒野でなら、演奏してやったっていい。

 とびきり感動的なパガニーニだって、きっとその日には弾いてやれる。

「大丈夫?」

 ふいに、自分のものではない声がした。きっと空耳だろう。それか、別教室のレッスンの音を聞き違えたか。

「ねぇ、君」

 乙彦はびくりとして後ずさる。確かに声がしたのは、間近からだった。

 後ずさったはずみで、部屋の中にある机に背中をぶつけた。部屋の中は真っ暗だ。どこに何があるかもわからなかった。

「誰かいるのか!?」

 声を出してからしまったと思った。真っ暗なのは、相手にとっても同じだ。黙っていれば、乙彦の居場所だって相手にはわからないはずだった。

 でも、確かに感じた。

 ――いる。

 部屋の中は相変わらず真っ暗だ。防音機能がある部屋なのでドアもぴたりと閉まっている。外の光は差し込まない。この部屋にもピアノや机が置かれているはずだったが、その影ひとつ見えなかった。

 だけど感じた。見えないけれどわかった。

 確かにいる。

「ねぇ」

 声はまだ若い、男のようだった。たぶん、乙彦とそう変わらないくらいの、子供だった。

「僕と、友だちにならない?」 

 

 ・

 

 母は本当は、「音彦」という名前にしたかったのだという。

 だけど父が反対した。将来、音楽に関係のない仕事につく可能性もあるのだといって。

「考えすぎよねぇ」

 どちらがよかったのかはわからない。そんな可能性、本当に自分にあるのだろうか。父のように、毎日会社に勤めることが自分にできるとも、とても思えなかった。

 ちなみに数年前に生まれた弟の名前は「弓生」という。これも母がつけた。ヴァイオリンの弓から取ったもので、音楽が好きな男の子になるようにという、彼女の願いが込められているそうだ。

 名前なんて、大した意味はない。

 名付けだけでいい演奏者が作れるわけがない。

 一日の練習時間は、最低八時間。これは、学校があるか否かに関わりはない。

 大事なのは、習慣だ。

「今日、帰り遅かったんじゃない?」

 母は怪訝そうだった。無理もない。レッスン室と自宅以外、乙彦には行く場所がないことを彼女も知っている。

「……友だちといた」

「友だち?」

 驚く母の言葉に、咎められているような気がする。乙彦には行く場所も、友だちもないことを母は知っている。

「どこの家の子?」

「さぁ……」

「その子は上手なの?」

「何?」

「ピアノよ。それとも、ヴァイオリンの子?」

 答えられずに、乙彦は黙り込む。答えたくないのではなく、そもそも知らないのだ。

「あまり変な子と付き合うと、レベルが下がるわよ」

 母はわざとらしくため息をついた。

 友だちがいないことを、心配されたことはない。むしろ、変な相手と付き合わないようにとは散々言われてきた。付き合う相手は選ばないといけない、それが母の教えだった。

「弓生のお迎え行ってくるから」

「……行ってらっしゃい」

「言わなくてもわかると思うけど、ちゃんと練習はするのよ」

 それならなぜ、わざわざ口にするのだろう。

 どうせ、練習以外にすることなんてない。テレビゲームもマンガも買ってもらえない。家には膨大なクラシックのCDや楽譜があるが、それだけだ。たまにテレビを見るくらい。だけどそのたまにでさえ、低俗だと母は吐き捨てた。

 でも別に、それが苦痛だと思ったことはない。

 音楽は好きだ。演奏をするのも。三歳から習い始めたヴァイオリンは自分の身体の延長のようになじんでいる。ピアノも弾くが、やはりヴァイオリンの方が好きだった。

 乙彦は音楽室に入り、ヴァイオリンを手に取る。

 ざっと音程を調整してから、指の練習のつもりで、練習曲を一曲弾く。指はあまり思ったようには動かなかった。もっと、もうちょっと遠くに、届きたい理想の音がある気がする。練習は嫌いじゃない。だから、何時間もひたすら練習するのも、苦ではなかった。

 でも、それだけではどこか物足りない気持ちがある。

 乙彦がいくら思いを込めて弾いても、母や教師は心がこもっていないと言った。

 伝わってこない、と。もっと感情を込めなさいと繰り返し言われる。心を使って弾きなさい。だけど乙彦は必死にやっているつもりだった。

 どうやって心なんてものを、使ったりするのか。技術のことならどうすればいいかわかるが、精神的なことを言われてもわからない。

――ああ、早く彼に会いたいな。

 ふと心の隙間に忍び込むように、その気持ちが湧いてくる。彼と話がしたい。他愛ないことでいい。

 こんなに音楽教室に行く日が、待ち遠しいことはなかった。

 

 

 

「会いたかった」

「うん」

 暗闇の中で、彼と言葉を交わす。

 触れることも、顔を見ることもない。だけど声を聞くと落ち着いた。

 三階のあまり使われていないレッスン室。そこが乙彦にとっての逃げ場所になった。

「レッスン、どう?」

 電気はつけない。それが、二人にとっての暗黙のルールだった。

 でも乙彦がその部屋に行くと、彼はいつもいた。部屋に入ると、いつだってすぐにわかった。彼が「いる」と。

「まぁまぁ。弾くだけなら完璧だけど」

「すごいな」

 素朴な感嘆の言葉が心地いい。

「お前は?」

 彼は名乗らなかった。教えろと言っても、言うほどのことじゃないからという。

「僕は下手だから」

 本当は、電気をつけたいという気持ちにかられることもある。

 だけど乙彦はそうしなかった。たぶん、明るい場所で見た彼に、自分はがっかりするだろう。そんな気がした。

 学校の同級生や、音楽教室の生徒の誰とも、乙彦は親しくなりたいと思ったことがない。

――美少年、って乙彦君みたいな子のことを言うのねぇ。

――天使みたい。

 演奏を褒められるのと同じくらい、乙彦はいつも外見を褒められてきた。誘拐されないように気をつけるんだぞ、と父は冗談めかして言っていた。

 自分の容姿は、人によっては感嘆するくらい良いらしい。それは乙彦にとって自慢のひとつだった。

 悪口を言われることもある。でも、やっかみだとしか思わなかった。敵対者よりも、信者の方がいつも多かったから。母は、演奏家にとっては外見も重要な要素なのだと言っていた。

「ねぇ、手、握っていい?」

「手?」

「いい?」

「いいよ」

 暗闇の中で、彼の姿はいつも見えない。

 だからたまに、乙彦は彼が暗闇そのものなんじゃないかと思うことがある。

 部屋のどこかにはいる。だけど、どこにいるのかはわからない。乙彦は、近くにあった椅子の上に座っていた。

 試しに両手を、机の上に置いてみる。

 しばらくして、そっと両手が握られる感触があった。ひんやりと冷たいが、確かに人の手のひらだ。机の向こうに、彼が立っているのだ。

「お前、目が見えるの?」

「見えるけど?」

「違う、今」

 まるで暗闇の中でも、乙彦がどうしているのか彼には見えているかのようだった。

 この部屋に外の光はほとんど入ってこない。だから乙彦には、彼の姿かたちはまるでわからなかった。

――もしかしたら、すごい化物かも。

 手があることは間違いない。でも、もしかしたら本当は百本もあるかもしれない。この暗闇の中だから、そうだとしてもわからない。

 乙彦は、彼の指を一本一本たどる。自分の手はマメができやすくて、指先も硬い。だが、彼の手はやわらかかった。乙彦より体温が低くて、ひんやりしている。

「真っ暗だから、見えないって」

 ならなぜ、乙彦の手の場所がわかったのか。

 やっぱり化物の嗅覚とかそういうものなんじゃないかと、乙彦は考える。

「お前、どんな形してんの」

「なに、形って」

「……何でもない」

 繋いだ腕をそのまま辿っていけば、彼の身体にも触れることはできるだろう。でも急に怖くなった。

 乙彦は外見をよく褒められる。だけどそんなこと、この暗闇では何の意味もない。

 化物なのかもしれないのは、乙彦だって同じだ。この暗闇の中では、同じ。そう思うと自分の外見だってどうでもよくなってくる。

「室長、ムカつくよな」

「叱られた?」

 ここでは、自由だ。

「楽譜を読み解くことは、作曲家へのリスペクトです、あなたはリスペクトが足りない!」

 乙彦が教師の真似をしてみせると、彼は笑った。

「似てる」

 たぶん、そんなに似ていなかったと思う。学校のクラスメイトが芸能人の真似をしているみたいには。

 だけど、彼が自分の言葉で笑ってくれたのが嬉しかった。こんな風に、気持ちよく話ができる相手は彼以外にいない。いつだって乙彦はひと目を気にしていた。学校でも友だちといえるような相手はいない。

 この空気を、壊したくない。

 たぶんこんな風に打ち解けられているのは、暗闇だからだ。明るすぎる蛍光灯の下では、きっと言いたいことも満足には言えない。

「今、何の曲練習してる?」

「……ツェルニーとか」

 ピアノの練習教本を書いた作曲家の名前を彼は口にする。乙彦ももちろん弾いたことはあった。

「ピアノ?」

 生徒は大半がピアノコースだ。乙彦のように、ヴァイオリンを習いに来ている生徒はそう多くない。

「ピアノもやるけど」

「発表会は?」

 この音楽教室では、半年に一度発表会を開いている。

 コンクールではないので順位は出ない。舞台で弾く練習になるからと、嫌々ながら出させられていた。もしかしたら、彼もあそこにいたのかもしれないと思った。

「君は、きれいだった」

 出ていたかどうかを聞きたかったのに、彼は突然ぼそりと言う。

「え?」

「ステージに光がきらきら降り注いでるのが見えた」

「何だよ急に」

 そんな褒め言葉は、言われ慣れていた。だけど、彼に言われてもあまり嬉しくない。

 彼とはそんな、ありきたりな褒め言葉を言い合うような関係ではないはずだった。そんな言葉なら、自分のことを何もわかっていない評論家気取りの大人たちだって言える。

「今度、国際コンにも出るんだって? 課題曲が難しいって聞いたよ。確かパガニーニの……」

「帰る」

「え」

 彼は何が乙彦の気分を害したのかよくわかっていないらしい。慌てている様子だった。

 だが今は、コンクールの話などしたくはなかった。

「待って」

「何」

 立ち去ろうとした乙彦の腕を、彼が掴む。

 真っ暗な中だ。彼の姿は相変わらず見えない。だけど触れられていると、はっきりとわかる。確かに彼は、そこにいる。

 そこにいて、乙彦を見ている。

 実際には見えるはずなんてないのに、輝くステージ上でいくつもの目に見られるよりずっと興奮していた。暗闇の中の、たった二つの目。まるで自分を奥底から、掘り返されるような気がした。底の底を、見透かされているかのような。

 乙彦は反撃するようなつもりで、掴まれた腕を引いた。

「うわっ」

 彼はよろけたようだった。乙彦の方に倒れかかってくる。

 そのリアルな感触に、乙彦は息を飲んだ。重さがある。生きている、人間だ。とても化物とは思えなかった。

 乙彦は彼の腕を辿り、それから肩、首を通ってその顔に触れる。

「なに……?」

 きっと彼が発表会に出ていたとしても、自分はろくに見ていなかっただろう。他の生徒のことなんて、気にしたことがない。

 この部屋を出たら、彼とすれ違ってもきっと気づかない。

 でも、今は二人きりだ。

 暗闇の中で、彼の顔を辿った。指先だけで触れる顔かたちは、とびきり美しいもののように思えた。柔らかいまぶた、かすかな産毛、滑らかな頬。顎から耳にかけての丸みを帯びたライン。

「……何か、わかった?」

「イケメンかな」

「ふふ」

 彼が笑うと、その振動が指から伝わってくる。

 でも確かに、見えなくてもわかったような気がした。気立ての良さそうな顔立ちが。魅力的な笑顔が。

「きっと、明るいとこで僕を見たらがっかりする」

「じゃあ、一生見ない」

「はは」

 乙彦が冗談を言ったと思ったのか、彼は笑った。

「嘘じゃない」

「別に、どっちだっていいよ」

 優しげな彼の言葉に、だけど突き放されたような気持ちになった。

 自分がどれだけ彼を求めているか、彼にはわからないだろう。吐息がかかるほど近くに彼の顔がある。だけど、見えない。

 乙彦は顔を更に近づけた。

 鼻らしきものに、唇が触れる。そのままそっと、顔をずらすと、今度はちゃんと口に触れた。

 乙彦はそのままキスをする。たぶん時間にしたら、数秒のことだった。気がつくと乙彦は息を止めていた。

「……なんで」

 彼はただ、されるがままになっていた。

「なんとなく」

 乙彦にだってうまく説明できない。

 早熟な同級生から、告白されたこともあった。だけど、練習が忙しいからと断っていた。

 恋愛なんて知らない。誰かとわざわざ付き合うなんて、時間のムダだ。その気持ちは今も変わっていないはずなのに、彼にはもっと触れたくなる。

 もっと知りたい。

 どういう生活をしているのか。どこに誰と住んで何を食べているのか。でも別のところで会うつもりも、明かりをつけるつもりもない。

 だからこそ、飢えばかりがつのっていく。まだ名前ひとつ知らない。

「キス、したことあった?」

 こんな話を、誰かとするのも初めてだった。

「いや……」

「俺も」

 乙彦は興奮している自分に気づく。こんな風に、誰かに触れるのは初めてだ。

「初めてだ」

「……友だちだから?」

 彼は少し困ったように言った。

 友だちなんていなかった。欲しいと思ったこともない。だから乙彦自身にもよくわからない。

 だけど彼には、ずっといてほしい。もっと触りたい。

「うん」

 みんな、友だちが大事とかたくさん欲しいとか言う。それはきっと、こういうことなんだろう。

「友だちになってくれるの?」

 それは乙彦にとっては、あまりにも今更すぎる問いだった。

「当たり前だろ」

 怒ったように言うと、彼が笑うのがわかった。笑い声を立てたわけではなかったのに、確かにわかった。

「嬉しい」

「何だよ」

 今更何を言っているのだろう。もう前から、自分は友だちだと思っていた。

――友だちに、ならない?

 あの日、彼に声をかけられた日から。

「指切りしよう」

「いやだ」

「えー」

 別に指切りくらいしてやってもよかった。だけどわざと乙彦は言った。

「指切りより、キスの方がいいだろ」

「キスってそういう意味?」

「何が」

 そっとまた、唇が触れた。今度は彼の方からしてきたのだ。

 さっきは緊張でよくわからなかったけれど、彼の唇は冷たかった。教室の中は空調が効いていて、寒くないはずなのに。

「指切りと同じ?」

「はぁ?」

「それならいいよ」

「何を指切りするんだよ」

「友だちだってこと」

 彼が何にこだわっているのか、よくわからない。できもしないことなら、乙彦だって約束したくはない。

 でも、友だちでいることなら。

 そんなことくらい、簡単だと思った。

「じゃあそれでいい」

「ほんと?」

 嬉しそうな彼の声を聞いていると、まるで自分がいいことをしたような気になった。

「じゃあ、約束だ」

「うん」

 リズミカルに彼は言葉を続ける。

「嘘ついたら針千本飲ます」

 そしてまたそっと、唇が触れた。

 

 ・

 

 六歳年下の弟は、最近保育園に通い始めた。母が仕事に復帰するためだ。

 乙彦の時は、小学校に上がるまでずっと休みを取っていた。だけど、そこまではもうしないらしい。

「この子、やっぱりピアノが好きみたい」

 当然、保育園に通い始めるより早くから、彼も音楽を習っている。だけどまだ到底、ろくに音楽とも言えないような演奏だった。

「に、に」

 たまに、乙彦がリビングにいると彼がじゃれてくることがある。

 まだ言葉もおぼつかない子どもだ。よだれが汚い。邪魔をしないでほしかった。乙彦は軽く彼を蹴る。

「ほら、弓生。お兄ちゃんの邪魔しないで」

「まー」

「はいはい」

 母がとっさに来て、弟をどこかへ連れて行った。保育園は、どうして一日中やっていないのだろう。老人ホームみたいに、ずっと預かってくれればいいのに。

 子供は嫌いだった。弟だからといってそれは変わらない。

「先生、褒めてらしたわよ」

「そう」

「乙彦は、やればできるんだから、大丈夫よ」

 どうして自分は励まされているのだろう。できないなんて、一言も言ったことはないのに。

 自分を表現して弾けと言われる。心を使って感情を込めて――だけど言われた通りに、評価されるように弾けと。矛盾している。

「うん」

「何かあったの?」

 自分はよほど変な態度を取っているのだろうか。普段通りのつもりだが、わからなかった。

「何でもないよ」

「友だちのおかげかしら」

「え?」

「よかったわね」

 母は感情のこもらない声で言って微笑んだ。いつも雑誌のインタビューなんかで見せている、完璧な顔だった。

 母に似ていると乙彦はよく言われる。確かに、母は美人ではあるのだろう。でもどこか嘘くさいと乙彦は思う。

 舞台に立ち続けると、そうなるんだろうか。

「この間も聞いたけど、どんな子なの?」

「別に、普通」

「同じ教室の子なら、私も知ってるかもしれないから、聞いておきたいのよ」

「もういい、寝る」

「そう」

 どんな子か。それが説明できるならしている。彼の外見も名前も伝えられない。母はきっと、そんな付き合いをよくは思わないだろう。やめろと言われるに決まっている。

 説明なんてできない。

 紹介もできない。誰にも伝えられない。

 だけど彼は確かに乙彦の初めての、友だちだった。

 

 

 その夜、乙彦はなかなか寝付けなかった。キスをしたのは、生まれて初めてだったからだ。

 普通、キスは恋人同士がするものだというのはわかっている。彼は友だちだ。少し混乱するけれど、でも、自分たちはこれでいいのだと思った。

 キスは気持ちがよかった。唇にそっと触れてみる。

 眠れずにいるうちに、トイレに行きたくなってきた。そっとベッドから起きて、廊下に向かう。リビングの方から、光が漏れてきていた。両親はまだ起きているらしい。

「友だちができた、って言ってるの」

 立ち聞きをするつもりはなかったのに、明らかに自分のことだとわかる言葉にどきりとした。

「いいことだろ」

 乙彦はトイレに行くこともできずに、その場に立ち止まる。

「でも……その子の名前も何も言わないのよ」

「秘密くらい持ちたい年頃なんだろ」

 父はあまり、関心がないようだった。もともとそうだ。父はほとんど乙彦のことには口を出さない。発表会にも来たことがない。

「違うの」

 母の声はやけに、神妙だった。

「あの子、ちょっとおかしいんじゃないかしら」

 乙彦は息を飲んだ。

 ――おかしい? 俺が?

「何?」

「たぶん、そんな子、いないのよ」

 母は何を言っているのだろう。

 彼女はとうとうと話した。

 あの音楽教室に、乙彦と同じ時間帯に通っている、同世代の子はいないこと。空き教室に一人でいる時間を、乙彦は「友だちと会っている」と言っているらしいこと。おそらくそんな「友だち」は存在しないのだろうこと。

「病院に、連れて行ったほうがいいのかしら……」

「なんだ、あの年頃にはよくあることだよ」

 真剣な母の声と対照的に、父の声は笑みさえ含んでいた。

 乙彦はトイレに行くことも忘れ、そこから動けなかった。

「孤独な子供にはよくあるんだ。空想上の友だち……イマジナリーフレンド、っていうんだよ。じきにそんなの幻だと気づくさ」

 

 ・

 

 世界ががらがらと、崩れてしまったみたいだった。

 イマジナリーフレンド。空想の友人。

 多くは本人の空想の中にだけ存在する人物であり、都合よく振る舞う。一人っ子や孤独な子供に見られる症状。

 乙彦はすぐにその言葉をネットで調べた。簡単に答えは出てきた。

 そのような友人を持つのは子供にとって珍しいことではない。じきに現実の人間関係を結べるようになり、イマジナリーフレンドは消える。そう書かれていた。

 

 

 

「待ってたよ」

 声はいつもと同じく、親しげだった。

 乙彦と同じくらいの年。空想の友人なら当たり前なのかもしれない。

「元気?」

 イマジナリーフレンドの特徴には、本人にとって都合のいい相手だということも書かれていた。

 同じくらいの年の、同性の友人。乙彦に好意を持ってくれていて、話しやすい。余計なことは聞かなくて、ただ褒めてくれる。

 認めたくなかった。だけど、無視することもできなかった。

 確かにそれは、乙彦が欲しかったものだ。

 母が言ったことはおそらく事実だろう。同年代の子供はこの時間にいない。だとしたら、名前も姿も知らない「これ」は誰なのか。

 わかっている。自分が「孤独な子供」と言われるだろうことは。

 友だちなんていたことがない。幼稚園にいた頃からそうだ。小学校に上がっても、一緒に遊ぶような相手はいない。教室でも他の生徒とはずっと距離を置いていた。体育は見学していたし、グループで話し合いをしなさいと言われても一人黙っていた。

 音楽教室でも同じだ。ヴァイオリンを弾いている子供もいるが、話したこともない。

 同じレベルの相手を選べと母はいつも言っていた。そうしないと、レベルが下がるからと。だが、乙彦と同じかそれ以上に、演奏がうまい子どもはいなかった。だから仕方がなかった。

 いつだって、一人だった。

 だから、自分はこのような相手を生み出したのだ。わかっている。病院に行く必要なんてない。おかしくなんてない。

 わかっている。事実を否定して空想の中に逃げ込むような、みっともないことだけはしたくなかった。

「お前、名前は?」

 その日、暗い部屋に入るなり乙彦は言った。電気のスイッチに手をかけたまま。

 彼が、部屋の中にいるのはわかっていた。気配を感じるからだ。

 ……だけどこれはきっと、自分の妄想なんだろう。

 ”孤独”な自分が生み出した、空想の産物。現実には友だちなんていないから。だから。

 名前も知らない。姿も見たことがない。そんな相手が友だちだと、誰も認めてはくれない。

「どうしかした?」

 彼の声は、いつも通りだった。指が震える。

「……っ」

 毎日、母や教師から毒を注ぎ込まれているかのようだった。彼と話すときだけ、自分自身でいられる気がした。でもそんなのは錯覚だ。

 だって、彼は存在しない。だから、気楽に話せるのも当たり前だ。都合のいい相手を自分で生み出したのだ。

「お前の名前を言えよ」

 そうしたら教師に、ここに通っている生徒か確認するつもりだった。

 何をやっているのだろう。自分にとどめを刺したいのか。彼が実在しないことはもうわかっているのに、確認したいのか。

「それは言えない」

 案の定、彼は固い声で言った。

 電気をつければはっきりする。いや、想像上の友人というのは、明るい場所でも見えるものなのだろうか? わからない。

 幻想。実在しない。想像上の。イマジナリーフレンド。

 このスイッチを押してしまえばいい。なのに、指が震える。

「俺を、騙すなよ」

 自分の言葉は、懇願みたいだった。

 この部屋がなかったら、彼と話す時間がなかったら、どうなってしまうのか。考えるだけでも怖い。コンクールになんて出たくない。パガニーニなんて嫌いだ。もう誰かと比べられたりしたくない。

 ――情感がない。

 投げつけられた言葉が頭の中を駆け巡る。正確だが感動に欠ける。言われたとおりに弾いているのだろう。ああ、母親が、あの。つまらない演奏。外見は良いが見せ場はない。

 心がない。

「どうしたんだよ」

 彼は笑っていた。彼の存在自体を、乙彦が疑っているなんてまるで思っていない様子で。

「体調悪い? 大丈夫?」

 いつも通りに優しかった。

「俺を……」

 乙彦はそれ以上、繰り返せなかった。

 スイッチにかけていた手がだらりと下がる。

「乙彦君?」

 はっとして乙彦は顔を上げた。

「俺の、名前……」

 考えてみれば、別に意外でもないのかもしれない。乙彦は彼の名前を知らないが、乙彦の生み出した空想である彼は、乙彦の名前を知っている。

 乙彦が数歩歩くと、彼もまた近づいてくるのがわかった。

「何があったのかわからないけど、元気だして」

 ふっと手に、ひんやりしたものが触れた。彼の手だった。指先は柔らかい。練習で固くなった乙彦の指とは違う。

 確かに体温は低い。だけど実在しているとしか思えない。爪もちゃんとある。妄想にしては出来が細かすぎる。

「お前は、どういう形をしてる?」

 乙彦はその手をたどる。

「いいよ」

 その腕の付け根を。

「どこでも、触って」

 恐る恐る、乙彦は彼の身体に触れる。この間触ったのは顔だけだった。だけど、今度は全身を探るように触れていく。

 はっきりと、暗闇の中に彼の身体が立ち現れてくる。

 背は乙彦と同じくらい。でも体格は、彼のほうが少しいいかもしれない。同い年かと思っていたけれど、もしかしたら彼のほうが年上かもしれなかった。

 触れると、色々なことがわかる。

「僕も君に触っていい?」

「……うん」

 反対に、彼もまた乙彦の身体を確かめるように、全身に触れてくる。

 自分の輪郭がわかる。境界を、なぞられている。

 この内側が自分だ。

 ――感情がないみたい。

 ちゃんと、彼に触れられていると自分のことがわかる。ここにはっきりとある。心臓が聞いたことのない速さで脈打っている。

 シャツの合わせ目から指が入ってきて、そのひんやりした温度に思わずびくりと身体が震えた。

「っ」

「ごめん、冷たかった?」

 乙彦は首を振った。

 肌に触れて、彼の冷たい指の温度が上がっていく。直接腰のあたりを撫でられて、くすぐったいような、妙な感覚を覚えた。

 彼の指は、乙彦の形をすべて捉えつくそうとするかのように、肌を撫でた。

 変な感じだった。ぞわぞわする。気持ちが悪いわけじゃない。だけど落ち着かない。

「……っ、なんで、そんな、とこ」

 彼は乙彦の平らな胸に触れ、胸の先端をつまんでくる。

 そんなもの、あることさえ普段は意識していなかった。だけどそこばかり執拗にいじられると、何か変な気分になってくる。

「…っ、や」

 自分の口から出た声とは思えなくてびっくりした。

「大丈夫、防音だから」

 彼の声は落ち着いているが、そういう問題じゃない。

「な、に……して」

 触っていいか、というのは形を確かめていいかという問いかけなのだろうと思った。なのに、明らかにそれだけじゃなくなっている。

「ひっ」

 胸のあたりに、湿ったものが触れて、舐められているのだと気づいた。

「や、め」

 とっさに彼の頭を掴んでしまう。

 髪は硬い感触があって、柔らかい乙彦の髪とは全然違っていた。

「あ……」

 彼は舌で乙彦の胸を舐めながら、同時に乙彦の下半身に触れてくる。

 自分が興奮していることを、彼の手によって知った。

「下着、汚れちゃうから出すよ」

「だす、って……っ」

 彼は片手で器用にホックを外し、乙彦のズボンをずり下げた。乙彦はもう立っていられずにその場にずるずると座り込む。

 彼は優しくそれを受け止めた。

「な…っ、や」

 何をされているのだろう。

 彼は、存在をしていないはずで。

 空想上の友人のはずで。

 それがどうして、こんな風に乙彦を辱めるのか。

 直接むき出しの性器をこすられて、そこがみるみる形を変えていくのがわかる。

 そういうことをすると気持ちがいいのだとは知っていた。

 だけど、母にそんなことをしていると知られたら、きっと怒られる。クラスメイトたちは携帯でエロいサイトを見たりしているみたいだったけれど、母に知られるのが怖くて乙彦は見たこともなかった。

「や……っ、あ、あ」

 気持ちが良かった。信じられないくらい。何もかもどうでもよくなってしまうくらい。

 胸と性器とを彼は同時に刺激してくる。

「や、め……」

 やめてくれと言いたかった。だけど本当は、やめてほしいなんてちっとも思っていなかった。もっと触ってほしい。彼に触れられていると、知らなかった自分がはっきりと形を取っていく。

 先端をぐりぐりと指で刺激されて声が殺しきれなくなる。

「…っん、あ」

 自分が自分でなくなっていくみたいだった。

 もっとしてほしい。もっとぐちゃぐちゃにして、自分を変えてほしい。あられのない声を上げるたび、自由になっていく気がした。

「あ…っ、ぁあ」

 そんなのはきっと錯覚なのに。

 あたりは真っ暗闇だけれど、一瞬目の前がちかちかした気がした。気がつくと乙彦は射精し、荒い息を吐いていた。

「大丈夫、教室は汚してないから」

 彼はハンカチなのか、何か布のようなもので手を拭っているようだった。

 そういう問題じゃない。だけど、声にならなかった。

 だんだん冷静になってくる。何をしてしまったのか。彼は男で……いや、それ以前の問題だ。

 幻想を、どれほどリアルに思わせることだってできるだろう。だって、妄想なのだから。自分を騙すことくらい簡単だ。自分自身なら。

”あの子、ちょっとおかしいんじゃないかしら”

 誰もいない教室で、こんなことをしているなんて、誰かに知られたら終わりだ。

 だって、この教室には本当は。

「お前は、いないんだろ?」

 ……本当は、自分ひとりしかいないはずなのだから。

 ぴくりと彼が動きを止めたのがわかった。

「俺の、想像なんだろ?」

 なぜか泣きそうになっている自分に気づいた。

 友だちなんて、欲しいと思ったこともないはずだった。教室に通っている同い年くらいの生徒もいるが、興味を持てなかった。

 みんな演奏は下手くそで、垢抜けない子どもだった。

 年齢が上の生徒だと、今度は乙彦の演奏に対して嫉妬をしているのが丸見えだった。褒めながら悔しそうに歯噛みする、そんな相手と親しくなりたいとはとても思えない。

 誰もいなかった。

 彼が唯一だった。

 なのに。

「そんなの、どっちだっていいじゃん」

 あっけらかんとした明るい声で、彼は言った。

「何……?」

 まさかそんな風に彼が返してくるとは思わず、乙彦はぽかんとする。

 口にしたら、彼は消えてしまうんじゃないか……そのくらいの覚悟は持っていた。なのに、彼はまだ乙彦に触れている。

 手を、繋いでいる。

「気にしすぎだよ」

 彼は明るい声で、あっさりと言った。まるで明日の天気の話でもするみたいに。

「いることといないことに、そんなに違いがある?」