「いいじゃんたまには飲めよ」

 

 最初から、何となくあたりのきつい同級生だった。嫌なものは感じていたけれど、ほかにその飲み会の中に親しい相手もおらず、隣で飲み続けてしまった。

 

「まぁお前は頭いいから行けるって思ってんだろ?」

 

 そもそもあまり馴染んでいない授業の飲み会になど出たのが失敗だった。今日は和も帰りが遅いと言っていたし、勉強もあんまりはかどっていなかったし、たまにはと思ってしまった。

 

「知らねぇよ」

「まぁ大学来たら井の中の蛙だよな、お前ぐらいのやつならいくらでもいるし」

 

 もともと俺は、大学内に友人が多くない。一年生の頃は薄く広く飲み会には出ていたが、ろくに人間関係は築けていなかった。あまり馴染めていないのに、この飲み会に来たのは失敗だった。

 

「まぁ飲めって。勉強できるだけで酒は飲めないのか?」

 

 それにこいつだ。

 どうやら彼は、俺のことが嫌いなようだった。やたらと絡むような話し方をしてくる。誰とも話さないよりはと思って、相手をしてしまったのが運の尽きだ。彼以外とほとんど話せないまま、時間ばかりが過ぎていった。

 杯が空くたび、男はまめに注いできた。自分のこと頭いいと思ってんの?とかお高くとまってるよね?とか言われた気がするけれど覚えていない。気が付くともう飲み会はお開きになっていた。

 頭がぼうっとして眠い。終電はまだあるようだけれど、駅まで歩くのが、途方もなく遠く感じられた。

 会計をしている同級生をしり目に、俺はぼんやりとしゃがみこむ。このままここで横になってしまいたいような気分だった。

 

「八木沢、大丈夫か?」

 

 俺の様子に気づいた同級生が声をかけてくれる。無理だ、と言おうとしたがそれよりも早くそばにいた男が口にした。

 

「いや、俺送ってく」

「お、お前いいやつだな」

 

 同級生はなぜか彼の肩をたたいて笑っている。そしてそのまま立ち去ってしまった。どうやら二次会に行くらしい。

 俺はまたあたりのきつい男と二人きりになってしまう。もしかして、あまり良い状況ではないのかもしれない。でも、飲み過ぎた酒のせいで冷静に考えることができない。

 

「八木沢誉って、変わった名前だしどっかで聞いたことあると思った。模試で一位取ったろ?」

「模試?」

 

 理解が間違っていなければ、大学受験に備えた試験のことだろうか。一体何年前の話をしているのか。

 

「そんで今は司法試験受けようとしてて、楽勝だろうって」

 

 確かに学生の間に合格出来たらスムーズでいいと思って勉強は始めた。だけど在学中に合格するのは至難の業だ。それほどうまくいくわけはないだろうとは思っている。一体誰がそんなことを言っているのか。

 俺はつい笑ってしまった。でもそんな態度が、男の怒りに火に油を注いだみたいだった。座り込んだ俺を、見下ろしながら男はまくし立てる。

 

「ふざけんなよ……! 俺は二浪してんだからな、お前みたいなやつがいるせいで……」

 

 胸倉をつかまれる。酒が入っているせいで、俺はそんな状況になってもまだどこか冷静だった。男の顔をぼんやりと見る。

 ――あれ……こいつ……。

 

「おい」

 

 男が急に俺の目の前からいなくなった。

 

「何してんだよ」

 

 気がつくと、俺の目の前に立っていたのは和だった。

 男はそばで、尻餅をついている。俺はぼんやりと和を見上げる。

 どうしてこんなところに和がいるのだろう。あれ、そういえば飲み会で遅くなると連絡したんだっけ。店はどこかと聞かれて……俺、言ったか? 記憶はあいまいで、ぼんやりしている。

 

「何してんだって聞いてんだよ」

 

 和は男を見下ろしていた。怒鳴ったりはしなかったけれど、その声は聞いたことがないくらい低い。腹立たしいけれど和はまぁまぁ上背もあるし、すごむと迫力もある。

 こいつ、喧嘩とかできんのかなとぼんやり俺は考える。俺にとっては、小さい頃の印象が強いから、弱そうとしか思えない。でも、目の前の男はだいぶびびっているようだし、実はけっこう強いのかもしれない。

 

「俺は介抱してやってただけで……」

「どこがだよ」

 

 俺はまだぼんやりとした頭のまま立ち上がる。少しよろけたので、和の腕に掴まる。

 そうすると和が少し戸惑った様子で振り向いた。

 

「もういい、和」

「だけど」

 

 困ったような目で和は俺を見る。

 

「誰だか知らないんだ」

「は……?」

 

 険しい表情を浮かべていた男がぽかんとする。隣に座ったので話を合わせていたが、俺はどうしても彼の名前を思い出せなかった。同じ授業なのにまずいと思っていたが、たぶん、最初から知らないのだ。話したことが今まであったのかどうかはわからない。別に、どっちだってよかった。

 きっとこの先、関わり合うこともない。ぽかんとした顔をしていた男の顔が、徐々に赤くなっていく。

 

「行こう、俺はお前が何位だったのか知らないけど、頑張れよ」

 

 

 ・

 

 

 固い地面を歩いていると思えないくらい、足下がふわふわする。

 

「飲みすぎ」

「うーん、ぐらぐらする」

「だから、飲みすぎだよ」

 

 呆れたような声で、間近で和は言う。気がつくと俺は、和にもたれかかるようにして歩いていた。

 だいたいどうして、俺はこの飲み会に出たのだったか。

 

「……兄さん、ちゃんと歩いて」

 

 そうだ、和が今日も飲み会だと言っていたから……それなら俺も行こうかと思ったのだ。

 俺にだって一応、誘いくらいある。すぐに誰にでも好かれる、和ほどではないけれど。

 

「お前、飲んでねぇの? 飲み会だったんだろ?」

 

 一人で和を待つのは何だか嫌だった。いや別に、俺は俺の家で過ごすだけで、和の帰りを待つわけじゃないのだけれど。

 

「ちょっとだけ」

「何だよ飲めよ」

「兄さん」

「ほら、まだ店やってんだろ? もっと飲めって」

 

 俺は和の腕を強引に引く。

 

「兄さん、帰るよ」

 

 和の声は少し苛立っていた。そうすると俺は何だか楽しくなってきて、もっとこいつを怒らせてやりたくなってしまう。

 今日の飲み会は散々だった。俺があの男に、直接何かしたというわけではないのだろう。別に俺は、彼がうらやむほどの存在ではない。大学に合格したのも必死に勉強したからだ。高校時代の思い出なんてほとんどない。そんな内幕は、きっと彼にはわからないだろう。だからあんな風に言われても、見当違いだなとしか思えなかった。苛立ちもしなかった。

 和が一度いなくなって北海道に迎えに行ったあと、俺の気持ちは変に落ち着いていた。

 

「なんだよ、飲めよ」

 

 でも何となく、物足りないような寂しいような気持ちはある。だからこそ、俺はこんなに飲んでしまったのかもしれなかった。

 

「別の日にね」

「お前、なんで来たの?」

「兄さん、自分が酔っ払いだってわかってる?」

 

 杯が空くたびに注がれたから、実際には何杯飲んだかもわからない。思い返そうとしてもうまく頭が働かない。こんなに飲んだのはいつぶりだろう。

 

「来てよかった」

 

 俺はぽつりと呟いた和の顔を見上げる。むかつく顔。俺につきまとう、俺と全然違う、整った顔。今日は暗い夜で、月も見えなかった。明日あたり雨になるかもしれない。なんだか前にも、こんな風に和と二人で夜道を歩いたことがあった気がする。サークルの新歓コンパのときだ。

 何だかんだ、俺の大学生活にはこうして和がいる。

 

「まぁ、そうだな」

 

 むかつくはずなのに、当たり前になっている。

 

「兄さん、どうしたの?」

 

 合意しただけで驚かれるとは思わなかった。頭はまだぼんやりしていて、足はふわふわする。まだ飲めるのにな、と思う。気持ちがいいから、まだいくらでも飲んでいたい。

 

「何がだよ」

「……何でもないけど」

 

 和は少しだけ戸惑ったように俺を見て、それから視線を外した。俺たちはよたよたとした足取りで歩いていく。もう夜も遅いせいか、人通りはほとんどなかった。

 

「さっきのあいつ、知り合いじゃなかったの?」

「さぁ……」

「さぁじゃなくて、しっかりしてよ、兄さん」

「さっきのお前、ちょっとかっこよかったな」

「……は?」

 

 夜道に、俺たちの揃わない足音だけが響いている。できるなら早く眠りたいのと、もっと飲みたいのと、このままぼんやり支えられて歩き続けたいのと、色々な気持ちが混ざり合う。

 

「兄さん、正気?」

「だから酒が足りないんだって。持って来いよ」

 

 このふわふわして幸せな気持ちをなくしたくない。この酔った状態から、醒めてしまうのが怖い。俺はぎゅっと和の腕を掴む。

 

「お前も飲めって」

「……この酔っ払い」

 

 急に頭を掴まれ、キスをされた。生ぬるい舌の感触が、酒でふわふわした頭に気持ちがいい。俺は抵抗する方法もわからないまま、口の中に差し込まれた舌を吸う。すがりつくと抱きしめられた。

 

「ん……っ」

 

 ふわふわして幸せで、今はまだ醒めたくない。理由も意味も、今は深くなんて考えられないけれど。

 酒くさい、と和は呟いた。薄暗くてよく見えなかったけれど、大して酒は飲んでいないはずなのに、顔が少し赤く見えた。