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 最近、和はやけに眠そうだ。

「お前、学校行くんじゃないのかよ」

「んん……」

 もともと和は朝があまり得意じゃない。俺に付き合って朝食を外に食べに行っていた時期もあるが、長くは続かなかった。

 特に最近は夜更かししているようだから、それも当然なのだろう。

 俺はどちらかというと朝型だ。試験の前でも徹夜はしない。

 でも和は何か始めるとずるずる引っ張るタイプだった。最近はよく遅くまでパソコンをいじっている。

「俺朝飯食い行くからな」

 同じ家に住んでいても、俺と和の生活リズムは違う。そうするとどうなるかというと、すれ違いみたいなことが多くなる。昨日の夕飯もばらばらだった。

「……待って」

「お前まだ寝んだろ?」

 和がベッドの上から手を伸ばしてくる。何かよほど言いたいことでもあるのかと思って、俺は顔を寄せた。

「うわっ」

 だが強引に腕を引かれ、ベッドに引きずりこまれる。俺は和に半ば覆い被さるような体勢で、ベッドに倒れ込んだ。

「兄さんも、まだ寝ようよ……」

 俺はもう着替えたところだ。服が皺になってしまう。だけどそんなことはお構いなしに、まだ眠そうに和は口にする。

「だから俺は朝メシに……」

「朝ぐらいいいじゃん」

「朝はちゃんと食べた方がいいんだぞ、一日のパフォーマンスが」

「うん」

 和はもう目を閉じていた。何も聞いていやしない。俺はため息をつく。

「お前、また夜更かししてんのか」

「なんか……終わんなくて」

 和は俺と違ってバイトもしている。俺は探そう探そうと思いながら、結局まだバイトをしていない。そのことに対する引け目はあった。

 一度母に相談してみたけれど、「学生の本分は勉強なんだからいいじゃない」というもっともらしい言葉がかえってきた。仕送りはもらっているし、ただ生活するだけなら困ることはない。俺には特に金のかかる趣味もない。

 でも和が働いているのに、俺だけ仕送りにおんぶに抱っこというのは兄としてどうかと思ってしまう。

「バイト、減らした方がいいんじゃないのか」

 和の体も布団も暖かくて、俺もまた眠りたくなってきてしまう。

「パソコンとか、お金かかるから……」

 確かに、狭い部屋の中にはいつの間にか、専門的な本やパソコンが置かれている。

 俺も教科書は買うけれど、参考書は図書館で済ませることも多い。それに比べれば和はいろいろと入り用なのだろう。

 もともと大して広くない部屋で、和の荷物が増えていくのは迷惑なことのはずだった。でももともとここに来たとき、和の荷物は極端に少なかった。

 小さい頃から和は、何かを欲しがったりすることがない子供だった。遠慮していたのだろう。

 俺と和は、同じ家で育った血の繋がらない兄弟だけれど、セックスをしている。もともとは和から迫られて、仕方なくという感じで……でも別に俺だって合意してないわけじゃないというか、説明は難しい。

 和は遠い親類の子供だった。両親が不幸な事件で死んでしまい、行く場所がなくてうちに引き取られた。母は何かと厳しい人だけれど、でも和には甘かった。不幸な事故にあって傷ついた和を、守ろうと彼女なりに考えていたのではないかとは思う。

 でも、家の中で俺と和の関係は歪んでいた。俺は百点を取らないと褒めてもらえなかった。お兄ちゃんとしてしっかりしろと言われた。俺は、何もしないでも褒められて、人に好かれる和のことを、ずっと疎んじていた。

 やっと自分の弟として認められるようになったのは、最近のことだ。

 和はずっと、両親の事件のことで苦しんでいた。美人な母親と、売れない芸術家だった父親は、二人とも死んでしまうという最悪の結末を迎えたのだ。和はまだとても小さくて、でもずっと両親のことを忘れていなかった。

 俺は結局、恵まれた家に生まれたのんきなワガママな子供に過ぎなかったのだ。自分をもっと褒めてくれ、和より見てくれとだだをこねていた。

 でも和だって大概で、変な形で俺に執着している。女の子たちに、自分宛のラブレターをわざと俺に渡させたこともある。俺が和から離れるために、わざわざ京都に来て一人暮らしをしたら、和は進学と同時に追ってきて、しかも俺の彼女を奪った。

 その理由は全部、俺を好きだからだという。

 俺は和からどうにかして逃げたかった。でも俺は結局、和のことを受け入れた。理由なんか俺自身にも説明できない。でも血が繋がっていなかろうと、和は俺の弟だ。俺に全然似ていなくて、整った顔立ちはムカつくけれど。

「最近は何作ってんだ?」

「ううん……まだ、わかんない」

 和はもぞもぞと言って、また目を閉じてしまう。俺もそろそろ出ないと、と思う。でも和にはまだ腕を掴まれたままだし、布団は暖かかった。

 授業には間に合うのだから、ちょっとくらいならいいかもしれない。

「兄さん、やっぱどいて」

 和の隣で俺もうとうとし始めた頃、和が言った。

「は? お前何なんだよ」

 寝ようと言ったりどけと言ったり、人を何だと思っているのだろう。せっかく気持ちよく二度寝をしかけていたのに。

「したくなるから」

「は?」

 俺は思わず間近にある和の顔をまじまじと見る。ぼんやりとした眠そうな目をしていた。

「勉強しに行くんでしょ?」

「だから何だよ」

 和の手が俺の背に伸びて、何度か撫でたかと思うと、服の裾から入ってくる。

「できなくなるよ、勉強」

 もちろん、学生の本分は勉強だ。そんなことは母に言われるまでもない。

 和の手が輪郭を確かめるみたいに俺の肌を撫でる。そのまま胸の先に指をかすめられて、俺はかろうじて声を殺した。

「……お前に邪魔されたくらいで、できなくはならない」

「ほんと?」

 最近は和が遅くまで起きているせいで、生活リズムがばらばらだった。だから一週間以上、していなかった。だからというわけではないけれど、したくなるのは和だけじゃない。

 朝食なんて抜いたくらいでは死にはしないだろう。

「当たり前だろ」

 和がゆっくりと俺の上に覆い被さる。朝食はいい。問題は、ちゃんと授業に出られるかどうかだ。

 

 

 学校に着ていくはずだった服は、ベッドの上でぐちゃぐちゃになってしまった。仕方がなく、俺は急いで着替えて授業に出た。かろうじて始業には間に合ったのでよしとする。

 セックスにふけって勉強が捗らないなんて、母に知られたら殺される。俺としても、何としても避けたい。

「あ、八木沢。ちょっと話あるんだけどいい?」

 前山からそう言われたとき、俺は一瞬どきりとした。ありえないとはわかっているけれど、告白だったらどうしようと考えてしまう。

「いいけど。今?」

「空き時間ある?」

「三限まで入ってるから、その後だったら」

「オッケー、じゃあファミレスで待ち合わせよ」

 前山は彼氏と別れていないし、俺は今も前山のことは友人として付き合っている。でも、改まって呼び出すなんて何かあるんじゃないか。

 ちょっとだけどきどきしながら授業を受け、俺はいつものファミレスに向かった。

 だが聞かされたのは例によって、和の話だった。以前母親が来た際に、和に助けてもらったことに対してのお礼をしたいのだという。

「借りはそのままにしときたくないの」

「なんでそれを俺に話すんだよ」

 前山は和の連絡先くらい知っているはずだ。

 何かあるんじゃなんて一瞬でも考えてしまったことが恥ずかしくて、俺は自然と不機嫌な声になってしまう。そもそも、前山が和に「彼氏の振りをしてもらう」なんてことがあったから、俺も誤解をしたりして面倒なことになったのだ。

 だいたいなんで彼氏役を俺じゃなくて和に頼んだのだろう。……まぁわからなくはないというか、俺が女でも和に頼むだろうけれど。

「色々考えたけどこれがいいかなと思って」

 前山はいつも通りだった。そうだ、前山はこういうやつだ。わかっていたはずなのに。

「これ」

 示されたのは、ウェブサイトだった。

「無料の宿泊券があるんだけど、私、そんなに好きじゃないんだよね」

「だからなんで和に礼することを俺に話すんだよ」

 本当は聞かなくてもわかっていた。一泊二日、お二人様の値段が書かれているからだ。

 前山はぐっと顔を近づけてくる。

 悲しいけれど、どきどきはしない。前山のことは好きだけれど、やっぱり友達だ。告白されたわけでもないのに俺はそんなことを思う。

「先に八木沢に聞いた方がいいでしょ。どう?」

 俺は答えられなかった。

 

 ・

 

「なんかこっちの方とかよく知らないし、旅行も久しぶりだな」

 俺たちはどちらも車を運転できない。だから当然、交通手段は電車になる。田園風景が窓の外を流れていく。土地勘はほぼないし、今どのあたりを進んでいるのかもよくわからない。

 本当は、せっかく実家を離れて関西にいるのだからもっと出歩いたらいいのかもしれない。伊藤にでも聞いてみたら、オススメの山を教えてくれそうだ。

「昔、行ったよな、どこだっけあれ、俺が腹壊して」

 俺たちは小さいころから、あまり熱心に家族旅行に行くことはなかった。父親は仕事で忙しかったし、母親も地域の活動などに携わっていたからだ。それでなくても俺は色々習い事や勉強があってパンクしそうになっていた。

「箱根」

 でもたまに夏休みなど、一家総出で車で出かけることはあった。せいぜい一泊で、関東近郊の父親の会社の保養所だった。

「そうだっけか?」

「そうだよ……」

「お前、眠いなら寝てれば?」

 俺は思わず声をかけてしまう。和はまた明らかに眠そうだったからだ。つい昨日、課題の提出日があったとかで、やたら遅くまで作業をしていた。

 見せてくれと言っても断られてしまったので、今回どういう作品なのかは知らない。でも、苦労の甲斐あって無事に提出はできたらしい。

「昼飯何にしようかな」

 俺は携帯を見ながら言う。

「何食いたい?」

「何でも」

 気のない返事にいら立つ気持ちを抑えた。

「眠いなら永遠に寝てろ」

 列車は川を渡っていく。俺の知らない町から、もっと知らない町へ。和は気がつくと寝息を立てていた。俺は小さくため息をつく。

 

 駅につき、事前に調べていた店に行こうとしたが、やけに並んでいた。行列に並ぶのは好きじゃないので、手近な寿司屋に入った。海鮮丼を食べたが、味は普通だった。

「適当に酒買ってくか」

 俺たちは駅前の土産物屋に入る。俺は手にもったカゴに、適当にビールや日本酒を入れていく。

 一応参考書程度は持ってきたが、あまり勉強をするつもりはなかった。とはいえ、和と一緒でぱーっと飲むというのも違う気がする。

 何だか変な感じだった。わくわく、というのとも少し違う。緊張しているわけでもない。

 やけに人の目が気にかかる。俺たちはどんな風に見えるんだろうと考えてしまう。成人した男の兄弟が、二人で温泉に来ることはどのくらいあるのだろう。

 姉妹だったら珍しくもなさそうな気がする。いや、兄弟だって仲がよかったらなくもないのかもしれない。

「食事はまぁ、宿で出るしな……」

 だけど俺たちの外見はまるきり似ていない。ぱっと見で兄弟だろうと思う人は、ほとんどいないのではないかと思う。

 だとしたら、俺たちはどんな風に見えるのだろう。

 友人同士。あるいは――恋人。

「ねぇな……」

 俺は小さく呟いて、手にしたビールの缶を見つめた。和とこうして二人だけで遠出をするのは初めてだ。このあたりにだって、誰か知り合いが来ている可能性はある。でも、大学の近くをうろつくのとはわけが違う。

 俺はふと顔を上げた。和の姿が見えないことに気づいたのだ。

「……和?」

 和の姿はすぐに見つかった。

 土産物のあたりで、女性と話している。最初、その女性は店員かと思った。だが、大きな荷物を持っていることからして違うようだ。

 道でも聞かれているのかと思った。でも、明らかに観光客の和に、こんな土産物の店の中で道を聞くだろうか。女性は何事かを和に話しかけ、微笑んでいた。和もまた持ち前の外面の良さで笑みを浮かべている。

 俺はむしょうにイライラして、少し大きな声を出した。

「おい和、行くぞ」

 和が俺の方を向くと、女性は明らかに残念そうな顔で、俺に背を向けた。和はすぐに俺のもとにやってくる。

「持とうか?」

「今の人、何か用だったのか」

 俺は何でもないように尋ねる。

「いや……?」

 だが用事も何もないのに人は話しかけたりしない。

「ナンパか?」

「さぁ」

「お前、高校の頃の彼女とかなんで別れた?」

「何? 今更」

 さすがに我ながら、変なタイミングでの話題だった。でも、つい口にしないではいられなかったのだ。

「聞きたくなったんだよ、今」

 俺はあの頃和に彼女がいて、自分にはいないということばかりを気にしていた。だから実際に、和が女性とどんな付き合いをしていたのかはよく知らない。

 中学生の頃から、和には彼女がいた。でもいつも気がつくと別れていた。その理由は聞いたことがなかった。彼女たちから和を振ったのだろうか。

「別に、これって理由があるわけじゃないけど、色々だよ」

「でも、女とも付き合えるんだろ、お前」

 和は怪訝そうな顔をする。俺自身、何を聞きたいのかよくわからなかった。そんなことを言ったら、俺ももともと女性と付き合っていた。

「何、さっきから。会計する?」

「何でもねぇよ」

 さっき遠目に見た、朗らかに話す和と女性の姿がこの温泉地にとても似合っていたからかもしれない。

 和のそばに俺がいても、どんな二人だろう、と思われる。でも、和のそばに女性がいたら、それは似合いのカップルだ。誰だってそう思うだろう。

 

 当たり前かもしれないが、宿では特に関係性など聞かれなかった。俺はそもそも宿に自分でチェックインすること自体初めてでどきどきしていたけれど、何のトラブルもなく終わった。

 女将さんだという人が、部屋まで案内してくれた。

 部屋は和室で、思った以上に広かった。窓からは川が少し見える。テーブルの上には茶菓子と急須がそろえられていた。何だか一気に大人になったような気分になる。こんなところに本当に無料で泊まってしまっていいのだろうか。

 温泉は大浴場と、家族用の貸し切り風呂があるらしい。まだ日は高いけれど、さっそく入りに行ってもよかった。でも俺は何となくそんな気になれなかった。

 俺は買ってきた酒類を冷蔵庫に入れる。

「お前、寝てれば?」

 和は、さっきからやけに眠そうだった。あくびを繰り返し、ぼうっとしている。

「うーん」

 まだ布団は敷かれていないけれど、押し入れにはあるだろう。

「俺、散歩行ってくるわ」

 和が寝ている間、一人で少し気分転換してこようと思った。

 この温泉地は川沿いにある。この旅館の周囲には同じような旅館以外特に何もないけれど、川を下っていくと、もっと温泉街らしい場所に出るようだった。駅前はあまり温泉街という感じではなかったし、どうせなら少し見てきたかった。

 和はカバンを置いたきり、座椅子に座ってうとうとしてる。

「布団敷いてやろうか?」

「兄さん、さっきの何だったの」

 俺は答えないまま、押し入れを開ける。本当なら夜になったら、宿の人がひいてくれるのだろう。

 温泉の部屋に男二人で、布団も二枚。別に珍しいことでもないはずなのに、俺は何だか急に恥ずかしくなってくる。部屋に案内してくれた女将さんは、俺たちをどう見ただろう。もし、布団を一組しか使わなかったとか、汚れていたとかそんなことがあったら噂になったりするかもしれない。

 だいたい前山はどういうつもりなのだろう。何をどこまでわかって、こんなことを言い出したのか。二人となったら和が俺と行く前提で、彼女は話していた。もしかしたら、親と行くとかそういうことだってあるかもしれないのに。

 和に対してお礼がしたい、と言っていた。でもこんな旅行が本当に、和に対しての礼になるのだろうか。

「兄さん」

 気がつくと俺は布団を敷きかけたまま考え事をして、固まってしまっていた。

 和が近づいてきて、何をするのかと思ったら、俺から奪うようにして布団を敷き始めた。

「女将さん、俺たちのこと何だと思ったんだろうな」

「何って?」

「いや……」

「俺は『兄さん』って呼んでるし、書いた名前も二人とも八木沢なんだから、兄弟だよ」

「でも、同性愛で養子縁組する人もいる」

 そのときまで、俺はその可能性に気づかなかったのに、急に口をついていた。

「……だから?」

 和が呆れたように言った。

「だとしたら、何か困る?」

 俺は答えられなかった。確かにそうだ。仮に……もし仮に俺たちが養子縁組したカップルだと思われたとしても、この宿に次また来る機会があるかどうかはわからない。あからさまな差別をされるようなことでもない限り、問題はない。

「でも、そうじゃねぇし」

 問題はないはずだけれど……やっぱり俺は、落ち着かない。

「散歩行ってくる」

「兄さん」

 和はまだ何か言いたげだった。だけど俺は和の声を振り切るようにして外に出た。

 

 

 外に出ても、いまいち気分は上向かなかった。

 空は曇っていたし、周囲を歩いているのがカップルばかりだからかもしれない。年配の夫婦も、若い大学生ぐらいの二人もいる。まれに女の子の二人連れも見かける。でも、男一人なんて全然歩いていない。

「あ-」

 俺は気がつくと、人を避けるようにして川に降りていた。

 だが、ここで一人で石を投げて水切りしたりするのも恥ずかしい気がする。何しろ周囲には、恋人同士ばかりなのだ。

 一体俺は何をやっているのだろう。

「いっそ勉強すっか……」

 だがせっかくの温泉旅館にまで来たのに、普段と同じようなことをするのも何だかなと思う。

 だいたい俺は、和とどんな風に遠出したかったのだろう。自分でもわからなかった。

 仲の良い兄弟みたいにだろうか。でも、近くにそういう兄弟がいたこともないし、男同士、大学生の兄弟がどんな風に親しく遊ぶのかもわからない。

 じゃあ、恋人みたいにだろうか。俺は、手を繋いで橋を渡っていくカップルを見るともなしに見る。あの二人は旅館に戻ったらやりまくるのだろうな、とつい下卑たことを考えてしまう。

 そんなことを思いながら、俺はぼんやり川の流れを眺めていた。たまに携帯を見るが、特に誰からも連絡は来ていない。和はきっとまだ眠っているのだろう。

 そうしているうちに、俺と同じく川の近くに一人でいる人物に気づいた。

 まだ小さな、小学校低学年くらいの女の子だった。こんなところで一人なのだろうか。たぶん近くに大人がいるのだろうと思ったけれど、しばらく経っても彼女は一人きりだった。

 大人が買い物をしているのを一人で待っているのかもしれない。だがそれにしたって、放置している時間が長すぎる気がする。

 手持ち無沙汰なこともあって、俺はつい彼女を目で追っていた。彼女は一人で川に指をつっこんだり、石をつんだり、駆け回ったりして遊んでいた。危なっかしいとも思うけれど、楽しそうだった。

 俺もあのくらいの年頃には、あんな風に遊んでいただろうか。あまり思い出せない。

 和に遊ぼうと言われて、嫌がらせをしていたような記憶しかない。

「あれは別に……俺のせいじゃないし……」

 女の子は、エネルギーを持て余しているみたいだった。そのうち川で泳ぎ出すんじゃないかと、見ているこっちが心配になるくらいだ。

 ぱたぱたと駆け回っているかと思ったら、そのうちに彼女は俺のそばで、正面から転んだ。まるで人形がこてっと転ぶような、派手な転び方だった。河原は石で埋め尽くされている。頭を打ったら痛いだろう。

「おい、大丈夫か」

 思わず俺は声をかけていた。

 顔を上げた女の子は、額を押さえている。大きな目が見る間に潤んで、顔が歪む。

 ――泣くぞ。

 俺はもともと子供が得意じゃない。大泣きされたら迷惑だ。それに、誘拐や何かと勘違いされる可能性もある。

 そう思ったけれど、彼女はぐっと唇をかみしめて、泣き出すことはなかった。まだ小さいのに、意外と根性がある。

「えらいな」

 こくりと彼女はうなずく。

「えらい」

「さっきから、そこで何してんだ?」

「王子さまを待ってる」

「は?」

 彼女が何を言ったのか、俺ははかりかねた。おうじ、というのが実は両親の名前だったりするのだろうか。

「王子さまと、王さまと、お妃さま」

 だが少女は指を見ながら丁寧に列挙する。

 アニメのキャラか何かだろうか。それとも俺が知っている通りの意味なのか。

「あ、そう」

 俺はそれしか答えられなかった。子供は意味がわからなくて苦手だ。変質者と間違われたくもない。

「兄さん」

 急にぐいと腕を引かれた。何かと思うと、慌てた様子で和が近づいてくるところだった。

「こんなとこにいたの」

「お前寝てたんじゃないのかよ」

 和は走ってきたのか、少し上気した顔をしていた。俺はあてもなく歩いてきたし、中心部というわけでもないのによく見つけられたなと思う。

「目が覚めたから、散歩しようと思って」

「散歩つっても何もねぇぞ、饅頭くらいで、その辺はカップルばっかだし……」

「その子は?」

 少女を認めて、和が訝しげな顔をした。

「ち、違う、俺は何もしてない。そこで転んだから大丈夫か見てやってただけだ」

 和はなおも怪訝そうに俺と少女を交互に見ている。少女の怪我は幸い大したことはなそうで、赤くなったりもしていなかった。

「王子様を探してるんだと」

 少女もまた、突然現れた和を、不思議そうな顔で見ていた。まさか、和のことを王子様だと言い出さないだろうなと思う。外見からしたら、和はまぁぴったりと言えなくはないだろう。ムカつくけれど。

「あなたは何してるの?」

 少女が口を開く。思ったより大人びた口調だった。

「観光だ」

 俺が答える。

「二人で?」

「そう、俺たち似てないけどこう見えてきょうだ……」

「恋人だよ」

 和がはっきりと言った。

「は?」

 気がつくと和は俺の手を取り、恋人つなぎにしていた。俺は驚くばかりで、うまく反応できない。当然振り払うだけの余裕もなかった。

「二人で、温泉に泊まりに来たんだ」

 和は少女に微笑みかけている。こういうとき、外面だけはいいのだ。特に女には。和は小さい頃から誰にでも好かれてきた。

「おい」

「だって、間違ってないよ」

 和はふてぶてしく答える。

「……っ、全然間違ってる。だいたいこんな小さい子に」

「何か問題でもある?」

 少女はなおもいぶかしげな目で、繋いだ俺たちの手をじっと見ていた。

「あのな、ええと、世界は広くて、色んな人がいるっていうか……」

「うちのクラスにもいるよ」

 少女は俺を見返して言った。

「男の子でラブラブなの」

 今度は俺の方が反応に困る番だった。いじめにあったりはしないのだろうか。余計な心配をしそうになるけれど、問題なのは今はそれではない。

「いや、そもそもお父さんかお母さんは? お姉ちゃんでもお兄ちゃんでもいいけど、誰か大人と来たんだろ?」

 周囲を改めて見回すけれど、大人が近寄ってくる気配はない。誰も、俺たちと少女のことなど気にしていなかった。

「知らない」

「知らなくないだろ、誰かと来たんだよな?」

「ひとりで来た」

「嘘つけ」

 俺は彼女に近寄り、目線を合わせる。和とは手を繋いだままだったので、自然と和も引きずられるようになる。

「お前、迷子なのか?」

 嫌な予感がしたけれど、聞かずにはいられなかった。

 少女は宙に目をやって、しばらく考え込むようなそぶりを見せた。それから大人びた口調で言った。

「ちがうよ。王子さまを、まってるだけ」