いつもと同じ、朝七時に目が覚めた。見慣れない天井と布団の手触りに、旅館に来たのだと思い出す。

 せっかくの休日なのだから、もっと眠っていてもいいはずだった。だが、なかなか再びは寝付けなかった。

 こうなったら朝の温泉に入りに行ってもいいかもしれない。

 和が起きる気配はない。部屋の中はやっぱり静かだった。変な感じだ。家でもないところで、和と目覚めるなんて。

 朝から温泉。そう考えると気持ちが躍る。和も起こそうか少し迷ったけれど、気持ちよさそうに寝ているのでやめておくことにした。起きてからでも温泉には入れるだろう。

 俺はいそいそと温泉に向かう。まだ眠っているのか、それとも泊まり客自体がそれほど多くないのか、誰とも行き会わなかった。更に、温泉にも誰も先客がいなかった。早起きはしてみるものだ。

「貸し切りじゃん」

 軽く体を洗い、湯船につかる。気持ちよく体がほぐれていく。

 室内風呂で軽く温まってから、すぐに露天に向かった。昨日の夜は、真っ暗で外は何も見えなかったけれど、今日は景色が見える。

 空は昨日よりずっと晴れていた。

 竹でできた柵の向こうに川が見える。柵は川の方から覗かれないように、角度を工夫してあるようだった。こちらからは川と、生い茂る木々が見える。

「あー」

 お湯が気持ちよく、川の流れる音もいい風情だった。それほど遠くに来たわけでもないのに、はるばる旅をしたような気分になる。

 ――和と温泉に来るなんてな。

 俺は自分の体を点検する。痕をつけるようなことをするなとは言ったけれど、大丈夫だろうか。昨夜の痕跡がどこかに残っているんじゃないかと心配になってしまう。

 思い返すと変な気持ちになりそうだったので、俺は自分を落ち着かせ、川を眺めることにする。

 ぼんやりと川を見ながら湯に浸かっていると、がさがさと木々の鳴る音がした。

 何か動物がいるよな音だった。まさか女湯と間違えた覗きだろうか。あるいは男湯を覗くつもりなのか。

 とりあえず俺は肩まで湯につかる。だがこんな朝早い時間だし、清掃の人とか、あるいは狸とかかもしれない。そう思っていると、どこかで見たようなピンク色のものが目に入る。

 玩具のステッキだった。

 かのこだった。昨日も持っていた玩具のステッキを手にして、温泉のそばを抜けていく。そのまま川に歩いていくようだった。

「おい」

 思わず立ち上がって声をかけたが、柵で見えないだろうとはいえこちらは全裸だ。こちらを振り向いたかのこは駆けだした。

「待て、走るな!」

 そんなことを言っても無駄なことはわかっていた。追いかけられたらいいのだが、何しろこちらは全裸だ。俺はすぐに風呂を出て、脱衣所に早足で戻った。

「くそっ」

 あのルートでいつもかのこは家を出ているのかもしれない。旅館そばの川をそのまま下っていけば、昨日彼女と出会ったあたりに出るはずだった。

 だが、河原は場所によってはきつい斜面だし、岩でごつごつしている。実際、昨日も彼女は転んでいた。何かあってからでは遅い。

 女将さんにも伝えるべきだろうが、今追いかければ捕まえられるかもしれない。俺は浴衣に着替え、すぐに通用口から外に出た。

「おい、かのこ」

 清掃用の小屋らしきものを通り過ぎ、木々の間を走る。だが、もともと外に出るつもりではなかったので浴衣は走りにくいし、足元もサンダルだ。

「怒らないから、とりあえず戻れ」

 河原に出ると、少し先を歩いているかのこが見えた。昨日彼女と会った下流の方より、このあたりの川は浅かった。

 俺の声が届いたらしい。かのこはちらと振り向くと、焦った様子で飛び石を渡って、向こう岸に渡ろうとする。あくまで逃げるつもりのようだった。

 逃げようとして足が滑る可能性もある。追い詰めたらかえって危ないかもしれない。

「こら、焦るな、パフェおごってやるから」

 ちらとかのこが振り向く。

「パフェじゃなくてもいい、何でもなんかおごってやるから、待て」

 かのこは怪訝そうな顔をして、でもまたきびすを返して向こう岸に渡ってしまった。川の向こうは、森のように木々が生い茂っている。

「あの野郎……」

 俺はサンダルで、慣れない足場に苦戦しつつも彼女と同じように川を渡る。

 ――本当の家じゃない。

 かのこの母は女将さんで、父親は料理人だ。彼女たちはここの離れに住んでいる。それで何が不満なのだろうか。あまり構ってもらえなくて寂しい、とか。でも、学校から帰っても親がいない子供なんていくらでもいるだろう。かのこの場合、両親が自営業だから近くにはいるのだからまだマシな方だろう。もっと両親と会えない子どもだっていくらでもいるはずだ。

 でもそういう発想も、大人のものなのかもしれない。

 かのこの苦悩は彼女にしかわからない。

 俺の物心がついた頃には、母は専業主婦だったからいつも家にいた。だからこそどこにも逃げられなくて、勉強のことばかり言われて辛かったのだが、贅沢な悩みだと思う人もいるだろう。

 かのこの気持ちは、かのこに聞くしかない。

「なぁ、王子さまの話聞かせてくれよー!」

 かのこの足取りが少し遅くなった気がした。

「どういう王子さまなんだ? かっこいいのか?」

 うん、と振り向かずにかのこは答える。さすがに足の長さや体力では俺の方に利がある。このままなら逃げられることはないだろう。

「昨日俺と一緒にいたもう一人のお兄ちゃんより?」

 うん、とかのこはもう一度答えた。

「どこにいるんだ、そいつは。名前は?」

「わかんない」

「じゃあどうやって探すんだよ、やみくもにあちこち回ってもしょうがないだろ?」

 かのこは答えない。

 彼女はたぶん、わかっているような気がした。ひたすら近所を歩き回っても、彼女の求めるような答えなんてないことを。でもそれでも、何かせずにはいられないのだろう。

「ちょっとそれ、見せてくれないか」

「これ?」

 やっと立ち止まってかのこはステッキを示す。

「そう」

「ちょっとだけだよ」

 俺も立ち止まって、ステッキを手にした。小さいころ、俺もそれなりに戦隊ものは好きだった。玩具も持っていたような気がするけれど覚えていない。

 ステッキを軽く振ってみた。光が残像になって、ハートマークがきらきら瞬く。それから変身の呪文が続いた。

「よくできてんな」

「かえして」

 ステッキを返すのと同時に、俺はかのこと手をつないだ。また走りだされてはかなわない。

「もし嫌でもちょっと我慢しろよ」

 かのこが無理やり逃げ出す気配はなかった。

 俺は子どもなんて苦手だ。どうやって対応したらいいのかもいまだにわからない。和だったらもっと素直に、彼女とやり取りできたのかもしれない。昨日も彼は自然に彼女と遊んでいた。

 土産物屋でも和は話しかけられていたなと思い出す。

 昔から多くの人がすぐ、和のことを好きになった。

 でも俺は全然違う。女の子一人をこんなところまで追いかけてきて、捕まえるのがやっとだ。

 今も、手を振り払って逃げられるんじゃないかと内心びくびくしている。こんな小さな子ども相手に。

 そこまで考えて俺ははたと周囲を見渡す。木々がどこまでも続いている。川はもう見えなかった。

「……ここ、どこだ?」

 

 ・

 

 河原からそう離れてはいないはずだ。来た道を戻ればいいだけ。だが、周囲はどちらを向いても木々ばかりで、どちらが川なのかわからなかった。

 そう遠くはないはずだ。だが見当がつかない。川の流れる音がするはずだと思ったのだが、それも聞こえない。

 何しろさっきまで風呂に入っていたところなので、俺は携帯も持っていない。かのこも同じだった。

「しょっちゅう迷子になるならGPSつけてもらっとけよ……」

 かのこに愚痴を言っても仕方がない。

 そろそろ宿でも、かのこがいないことに気づいた頃かもしれない。和は起きただろうか。まだ寝ているかもしれない。

 深刻な事態ではない、と自分に言い聞かせるけれど、不安は大きく膨れ上がっていく。

「なぁ、どっちが家かわかるか?」

 本当にわからないのか、それともわかりたくないのか、かのこは首を振る。

「とりあえず戻ろう。お腹減っただろ? 今俺財布も持ってないからおごってやれないし」

 たぶんこっちだろう、という方向に俺は歩き出す。

 だが景色はどこを向いても同じだった。似たような木々が続いている。

「昨日言ってた大きいお家だよ。どっちにあるんだ?」

 俺よりは詳しいだろうと思って尋ねたが、かのこはやっぱり答えなかった。だけど黙って俺に手を引かれている。何だか今にも泣き出しそうな雰囲気だった。もしかしたら、彼女も不安なのかもしれない。

 そんな彼女を見ていたら、何か言わないではいられなくなって、俺は無理やり明るい声を出す。

「家がでかいの、いいと思うけどな。お城とか色々不便だろ?」

 そもそも彼女の状況について詳しいことを聞いたわけではない。女将さんたちの実の子なのか、そうじゃないのかも知らないし、学校ではどうなのか、友人がいるのかも知らない。

 でも、それは俺が聞く必要もないことだと思う。

「昨日のお兄ちゃん……っていう言い方したくないんだけど、和だな、和っていうんだけど、生まれた家にはいられなくなって、それで俺の家に来たんだんだ」

 かのこは黙ったまま、俺に手を引かれている。

「俺はそれがすごく嫌で」

 かのこが初めて興味を示すように顔を上げた。俺は大げさに顔をゆがめて見せる。

「嫌で嫌で嫌で。でも、今ではよかったんだって思ってる」

「どうして?」

「だって、新しい家を探したままでどこも見つからなかったら、寂しいだろ」

 八木沢家より、もっとよい環境もあったかもしれない。でもそれを言い始めたらもっと悪い家だってあったかもしれない。

 理想の家庭でもなかったと思うし、俺自身ももちろんそうだ。それでも、少なくとも衣食住には困らなかったと思う。教育だって受けられたし、まっとうかどうかはやや怪しいけれど、ちゃんと和は育った。

 それに、和本人は少なくとも、もっと違う家がよかったとは思っていないだろう。

「今の家がなくなっちゃったら寂しいだろ? 今のお父さんお母さんが、どっかにいなくなっちゃったら、それはそれで嫌だろ?」

「……うん」

「大人になれば、お金とか時間とか使ってどこにでも行けるから、今はもうちょっと今のお家で頑張ってみたらどうだ」

 子供にこんなことを言って、意味があるのかはわからない。でも俺に話せるのはこんなことくらいだった。

 かのこの反応は鈍かった。やっぱり、俺なんかが何か言ったって伝わらないということなのだろう。

「とにかく、帰るぞ。朝飯も食わないと」

 温泉に入ってさっぱりしたのも台無しだから、また一風呂浴びたい。とにもかくにも、戻るしかない。

 わずかに川の流れる音が聞こえた気がして、俺は足を踏み出す。

 かのこも何も言わずについてきた。素直なところもある。しかし、朝食の終わる時間までに戻れなかったらどうしたらいいのだろう。それどころか迷ったまま、昼も夜も食べられないなんてことも……俺の想像はどんどん悪い方に向かう。

 さすがにそこまで悪いことにはならないはずだ。登山中に遭難したわけではない。そう思って足を動かすが、あたりの風景は全然変わらなくて怖くなってくる。

 目印でもあればよかった。俺は川の流れる音がもっとよく耳を澄ましてみる。

 でも聞こえてきたのは別の音だった。兄さん、という声が聞こえた気がした。

「いや……幻聴が聞こえてくんには早すぎるだろ」

 周囲を見渡しても、人影はどこにもない。こんなときにとっさに和の声が聞こえてくるなんて、俺も相当いかれている。

「あ、おい」

 ぱっとかのこが走り出した。すぐに捕まえようとするけれど、サンダルがつっかかってしまい、俺はその場に転ぶ。

「いって……」

 思った以上に痛かった。さすがにこんな状態の悪い道を、サンダルで歩くのには無理があったのだ。血は出ていないようだが、ひねったのかもしれない。ずきずきと痛む。

「おい、かのこ」

 はっとして顔を上げたが、気がつくとかのこの姿が見えない。ぞっとした。見失ってしまった。慌てて歩き出そうとするけれど、足が痛む。

「って……」

 ただ彼女を連れ戻すだけなら、すぐに済むと思っていた。一度部屋に戻って和を起こすなり携帯を持ってくるなりすればよかった。浴衣のままでサンダル姿の自分が心許なさ過ぎて、不安が募る。

 じんと足の痛みが強くなった気がする。無力だった。

「和……」

 どこを見渡しても木々ばかりが続いている。俺はその場にしゃがみ込みたくなった。こんなはずじゃなかった。

 このままかのこが行方不明になってしまったら笑えない。子ども一人俺には連れ帰ることもできない。

 兄さん、という声が聞こえたときまた幻聴かと思った。でも、俺の目にはかのこと手を繋いだ誰かの姿がうつる。そのまま二人が近づいてくる。和がかのこを捕まえてくれていたらしい。ほっとしたのもつかの間、こちらに駆け寄ってくる途中で和がかのこの手を離す。

「あ、おい捕まえとけよ」

 だが和はそのまま駆け寄ってくると、俺を抱きしめた。

 俺はその場に棒立ちになったまま、動けなかった。気がつくとかのこは逃げることもなく、間近でじっと俺たちを見上げている。

「あ、いや」

 俺はかのこに向けて小さく首を振る。何の意味だか俺自身もわからない。

「大げさだな」

 俺は和にしがみつかれたまま動けない。まるで生き別れの兄弟を見つけたみたいな反応だった。

 遭難したみたいな気分でいたけれど、俺たちはちょっと宿から離れた場所にいただけだ。迷子というほどでもない。そりゃあ俺だってだいぶ不安にはなっていたけれど。

「兄さん」

 怒ったような声で和が言う。顔は俺の肩に伏せられていて見えない。

「設定はもういいのかよ」

「……じゃなかった、誉」

 くぐもった声で和が言う。俺はその背中をぽんぽんと叩く。本人には絶対に言わないけれど、和の顔を見たら、実際の所だいぶ元気が湧いてきていた。

「誉さん、な。さぁ帰るぞ、ほら、このお兄ちゃんみたいに、かのこの家族も心配してるからな。……いて」

 歩き出そうとしたところで、ひねった右足が痛む。

「足、どうかした?」

「いや、ちょっとひねったぐらいだから大丈夫だと……痛ぇよ」

 俺の前にしゃがんだ和が、足首に無遠慮に触れてくる。見たところ折れてはなさそうだし、特に腫れてもいないようだった。前にもやったことがあるが、軽いねんざだろう。そのうち痛みも引くと思ったが、今はまだ痛い。

「しょうがないな」

 なぜか俺が悪いかのような口ぶりで、和は俺の前にしゃがんだ。

「ほら」

「あ?」

「早く帰るよ、みんな心配してる」

 浴衣の広い背中に乗るよう促されているのだとはわかった。だが、これはかなり恥ずかしくないだろうか。まだかのこもこちらをじっと見ている。

「歩ける」

「兄さん。早く」

 まるで俺がだだをこねているみたいだ。ちょっとひねっただけだし、別に歩ける。そう思ったけれど、俺は仕方なくおぶさってやることにする。

 小さい頃だってこんなことはしたことがない、と思ってふと思い出した。北海道の夜に、必死に和を病院に連れて行ったときのことを。和の体は重くて大変だった。

「大丈夫?」

 俺を背負って、和は危なげもなく歩き出す。広い背中に体を預けていると、さっきまでの不安な気持ちがやっときれいに消え去るのを感じた。俺は落とされないよう、和の首に手を回す。

「……ん」

 

 その格好のまま宿に戻って、女将さんや従業員の人らに出迎えられて俺がひどく恥ずかしい思いをしたのはそれからすぐのことだ。

 

 ・

 

 さっきかのこを追いかけていった河原が見える。俺は改めて、温泉に浸かっていた。足は一応ということで近所の診療所で見てもらったが、軽くひねっただけだろうということだった。既にもう、ほとんど痛みも感じない。

 温泉は、今度は貸し切りというわけにはいかなかった。俺や和の他にも何人かが浸かっている。

 かのこは大人しく俺と和について家に戻った。女将さんなんかは既に泣き出しそうで、彼女に抱きしめられたかのこはもう逃げようとはしていなかった。俺と和は、またいたく謝られてしまった。もしよかったら何泊でも無料にすると言われたが、さすがにもうそろそろ戻らないとまずいので断った。

 そろそろ日常に戻らないといけない。温泉も今日でおしまいだ。

「お前俺にGPSつけてんのか?」

 俺は隣で湯に浸かる和に言う。

「何それ」

「いやわかるだろ、GPS」

 もしかしたらかのこは、仕事で忙しい両親に迷惑をかけることで、自分を見て欲しかったのかもしれない。だからわざわざ迷子になっているのだ。そう思いついたけれど、言わなかった。

「いやGPSはわかるけど。なんでってこと」

「なんで俺がいるとこわかったんだよ」

 俺たちが迷子になっていたあたりは、川から近い割に木々が入り組んでいて、目印のようなものが何もなかった。

 でも昨日もそうだった。俺はどこに行くとも言わなかったのに、和は俺を見つけた。

 今朝、俺が温泉に入りに行ったことはわかっただろう。俺は温泉の脱衣所に、タオルやスリッパをそのまま残していたからだ。でも、だからといって俺がどこに行ったのかはわからなかったはずだ。

 川を上ったり、昨日のように下ったりしている可能性もあった。だけど和はそれほど時間をかけずに、俺たちを見つけ出した。

「兄さん、たまに頭悪いよね」

 和は一瞬、まじまじと俺を見て言った。温泉に浸かっているのに大して顔色も変わらない。血の巡りが悪いんじゃないだろうか。

「お前に言われる筋合いだけはねぇよ」

 俺は本気で腹が立ってきて和を睨み付ける。

「探したからだよ」

 和は川の向こうを眺めながら言った。

「何があったのかとか、何を考えてたかなとか、考えながら必死に探したんだよ。何もしないでわかったわけじゃないよ」

 ――必死に。

 確かに考えてみればそうだ。GPSなんかより、普通で当たり前の答えだった。

「……俺たちだけでも戻れたし」

 何だか悔しくなってきて俺は言う。

「でもこれ以上迷子になるなら埋め込んでもらおうかな、GPS」

「やめろ」

 どこにどう埋め込むというのか。どういう想像をしているのかはわからないが、ぞっとする。

「……あ、違う」

「何だよ」

 苛立ちをどうぶつけていいかわからなくて、軽く和の顔に湯を跳ね飛ばしてやる。

「愛だよ」

 濡れた顔を拭って和は言った。

「は?」

「兄さんを見つけられた理由」

 和はしれっとした顔をしている。どことなく得意げだが、だから何だというのか。

「同じだろ」

「……そう?」

 和は少し釈然としなさそうな顔をしていた。

 温泉は心地よくて、それほど人も多くない。でも、和と二人きりだったらよかったのになとちらと思う。二人きりだったら何だというのか。何でそんな風に思ったのかもわからなくて、俺は顎ぎりぎりまで湯に浸かる。

 川の流れる音が静かに続いていた。

 

 

「本当に、かのこがご迷惑をおかけしました」

 チェックアウトのとき、玄関にはかのこが来ていた。女将さんが挨拶をさせようと連れてきたらしい。

「いえ、こちらも楽しかったです」

 かのこは相変わらずステッキを持っていて、憮然とした表情をしている。

 連れ戻せたのはよかったけれど、彼女の家出癖が直ったとは思えないし、きっとまた繰り返すのだろう。

 女将さんは宿泊費をただにすると言い出したが、俺は何とか抵抗して、料金を支払った。豪華な食事まで出してもらい、ただというのはさすがに申し訳ない。

 俺が手続きをしている間、和はしゃがんで、かのこと何かを話していた。二人で何か親密そうに、顔を寄せて話している。一体何を語っているのか、俺の方にまでは聞こえなかった。

「ご迷惑をおかけして申し訳なかったですが、またぜひ来て下さいね」

 かのこの父親である料理長まで玄関に出てきて見送りをしてくれた。恐縮だけれど、VIPになったかのような気分だった。

 かのこと何か話をしていた和が戻ってくる。

「ばいばい」

 かのこは気がつくと、笑顔で手を振っていた。彼女がそんな風に笑ったのを、俺は初めて見た。

 和が何か言ったのだろうか。

 小さい頃から、和は誰にでも好かれてきた。特に女には。

 今朝だってかのこを見つけたのが和だったら、難なく連れ戻していたに違いない。

 ――そうしたら俺が、探しに行くハメになったのか。

 でも、俺だって和を探してちゃんと見つけたことがある。あのときはわざわざ飛行機を使って、北海道にまで行ったのだ。どこにいるかは想像が付いていたけれど、でもやっぱり考えた。

 何が起きたのか、何を考えていたのか、和の気持ちを必死に考えて、探した。

 それを和のような言葉で表現することは俺にはとてもできないけれど。

「あの子、大丈夫なのかな。これから先もずっと、家出し続けたら親御さんの精神が保たないだろ」

 宿が見えなくなったあたりで、俺はやっと口にする。

「大丈夫だと思うよ」

 和はしれっとした顔をしている。でもやけに自信がある口ぶりだった。

「お前……何か言ったのか?」

「大したことじゃないけど」

 あれだけ頑固だったかのこに、一体何を言って納得させたのだろう。

「何を言ったらそうなるんだよ」

「ほんとに大したことじゃなくて、大丈夫だよって話をしただけ」

 それだけでかのこが納得したとはとても思えない。だが、和はそれ以上語らなかった。

「そうかよ」

「兄さんにもありがとうって言ってたよ」

「何だよそれ、俺に直接言えよ」

「怖いんじゃない?」

 くそ、と俺は思わずこぼしてしまう。俺だってかのこを助けたはずなのに、結局和にすべて持って行かれる。いつものパターンだ。

「また来たらいいよ」

「……そうだな」

 定価で泊まるのは今は厳しいけれど、社会人になったら来るのもいいかもしれない。温泉も気持ちよかったし、食事も文句なかった。

 その頃にはかのこもすっかり成長していたりするのだろうか。それを見るのは怖いような気もするけれど、ちょっとだけ楽しみだった。

 

 ・

 

「はい、土産」

 俺はいつものファミレスで、前山に向かい合っていた。あっという間に、日常に戻って来てしまった。

 テーブルの上には、地域限定のフレーバーだという菓子が置かれている。最後の駅で慌てて見繕ったのだが、いかにもな温泉まんじゅうもどうかと思い、これにした。

「え、すごい、八木沢が土産とか、どうしたの今回」

 前山は目を丸くしている。

「まぁ色々、悪くなかった」

 俺としては、和との温泉旅行を提案してきた前山が、何をどこまでわかってるのか不思議で仕方がない。だが、自分から聞くのもやぶへびというやつだろう。

「そうでしょ? たまにはいいよね、温泉」

 笑っている前山の表情に、他意はないように見える。でもわからない。

 俺はその旅館の小さな娘に色々振り回されたことを話す。ふぅん、と大した興味もなさそうに前山は聞いていた。

「これで貸し、チャラだよね」

「知らねぇって」

「え、チャラでしょ?」

「和に聞けよ、なんで俺に聞くんだよ」

「うーん、何となく?」

 元はといえば、前山が「和に彼氏の振りをさせる」なんて面倒なことをしたのが原因だ。前山だって、俺に頼めばこんな面倒はなかっただろうに。

「ご両親、あれから何か和のこと言ってたか?」

「もー、すっかり婿に来てもらうなんて話してうるさいのなんのって。あ、安心して、適当なとこで別れたって話にするから」

「そうかよ」

 落ち着いた感じだった、彼女の母のことを思い出す。和のことを気に入っているなら少し申し訳ないけれど、まぁ大学生の恋人なんてそんなものだろう。

「前山も彼氏と行ったのか? 温泉」

「ううん。友達」

 俺は口にしてからしまった、と思った。

 「前山も」と言ったら、まるで俺が「彼氏と」温泉に行ったみたいだ。和が俺の彼氏かというと、もちろん違う。いや、排他的に肉体関係を結んでいるという意味ではそれに近いことは認めるが、根本的に全然違う。

 だが前山はそんな俺の逡巡にも失言にも、気づいていないようだった。

 ――和は俺の何か。

 そんなの、決まっている。弟だ。それ以上でも、それ以外でもない。

「あ、八木沢誉」

 フルネームで呼ばれて、俺は思わず振り向いた。俺をそんな風に呼ぶのは、サークルの伊藤だ。そう思ったのに、そこにいたのは垣元だった。

「この間の電話、ありがとうな」

「おう」

「助かったわ」

 意外にもあっさりそれだけ言って、垣元は立ち去っていく。彼もまた別の人間と食事中のようだった。

 俺は、垣元と電話していたときに起きたことを思い出して赤面しそうになる。垣元は特に疑問にも思っていないようで、助かった。さっきの俺の失言といい、意外と俺の回りの人は、俺の言葉を聞いていないし、様子も気にしていない。

 まぁ案外、そんなものなのかもしれない。それはそれで悲しい気もしないではないけれど、でも、助かることも事実だった。

「借りのことは、聞くならちゃんと和に聞けよ」

「わかってるよ。八木沢がちょっと面白いからからかっただけ」

「人で遊ぶな」

「だって八木沢、最近ますます和君の話するとなんか面白いんだもん」

 前言撤回だ。

 全然助かっていない。何がどう面白いというのか。

 前山はにこ、と笑う。俺もどうしていいかわからず、愛想笑いを返す。今日のこれからの授業は、きっとろくに身が入らないことになるに決まっていた。