最近、和が変だ。

 今まで興味もなさそうだった、男性ファッション誌を開いて言う。

 

「兄さんは、どの男に抱かれたい?」

「は?」

 

 からかわれているのだろうか。だが和は真顔だった。実は酒でも飲んでいるのか。怒ったらいいのか何なのか、俺はさすがに反応に困る。

 

「待て、前提がおかしいだろ」

「じゃあ、どの男が好み?」

 

 言われて俺は思わず紙面に目を落とす。俺も普段は、ファッション誌など読まない。高そうな服を着てポーズを取っている男を見ても、特に何の感情もわき上がってこない。

 まぁイケメンの部類なのだろうなとは思う。でも率直に言えば和ほどではなかった。

 だがさすがにそんなことは言えずに、俺は顔を上げる。一体、和は何を言わせたいのか。

 

「いや、そもそも別に俺は男が好きとかじゃ……」

「この人とか人気あるって」

 

 和は男の一人を指差す。黒髪の目つきの鋭い男だった。確かにイケメンかもしれないが、だがそれだけだ。

 

「兄さん、こういうの好きじゃない?」

「いや別に好きとかじゃないって言ってるだろ」

「でも前山さんも言ってたし」

「は?」

「兄さんは、顔のいい男が好きだと思うって」

 

 本当に、どういうつもりなのだろう。俺は頭を抱えたくなる。

 

「いや待て。それは色々語弊がある、っていうかどういう意味だよ」

 

 なんで和と前山がそんな話をしているのか。俺には理解できない。

 

「お前な、何なんだよ」

 

 和は別に喧嘩を売りたいわけでもないようだった。わけがわかない。

 

「何でもないよ」

 

 和はまだ何か釈然としないような顔で、雑誌を眺めていた。俺も変だなとは思ったけれど、それ以上追求はしなかった。

 でも、何でもなくはなかったのだと思う。

 

 

 この一週間後、和は自分で部屋を借りて出て行ってしまったからだ。

 

 

 

 ・

 

 

 そもそもの始まりはたぶん、母が突然俺たちの家に来たことだった。

 前もって何も連絡がなかったのは、意図的だった気がする。和が北海道で倒れて以来、なにかと母が気にしている気配はあった。とはいっても、母が懸念を持っているのは男だけでちゃんと暮らしているのか、掃除・洗濯をしたり野菜を食べたりしているのかということだろう。

 たまたまその日、俺は大学に行っていたから、出迎えたのは和だけだった。

 ――母さんが来てる。

 和から連絡をもらい、俺は慌てて帰宅した。

 

 

「何、観光しに来たのかよ、事前に言えよ」

 

 家の中は多少ちらかっているとはいえ、まぁ許容範囲だったと思う。

 

「ついでに寄っただけじゃない」

 

 母はいつも通りだった。

 

「なんか案内しようか?」

「いい、ちゃんと調べてきたから大丈夫」

 

 実際、俺も名所を出歩くこともないではないが、人の多いところは苦手だ。和も同じだろう。

 見せてもらった母の旅程表は、あちこちの寺や神社がぎっしり書かれていた。ぎちぎちのスケジュールだ。

 

「せっかく京都に来たんだからね! あ、もらった缶詰とかちょっと持ってきたから」

 

 そう言って母は慌ただしく出て行った。駅前のホテルをもともと予約していたらしい。翌日は一緒にランチを食べたが、ほとんど一人で京都を満喫したようだった。数日後には彼女は帰っていった。

 それが一ヶ月ほど前のことだ。その頃から、和は少しおかしかった。

 考え込んで黙りこくったり、急に突拍子もないことを口にしたりだ。あのファッション誌のことだってそうだった。

 

「だからって、出てくって……」

 

 急に広くなった部屋をどうしていいかわからず、俺はのろのろと登校の用意をする。

 和が何を考えたのかはわかる。もしも母が突然来たのがもっと早い時間だったら。あるいは夜遅くだったら。

 

 ――そうしたら、見られてたかもしれない。

 

 俺と和は普通の兄弟の関係ではない。いや、普通なんて誰にも決められないとは思うけれど。つまり俺は和とセックスしている。血も繋がっていないし子供もできないのだから、人の道に背いたりはしていない、と俺は思っている。

 でも、母は知ったらショックを受けるだろう。

 母は昔から、和をかわいがっていた。俺は百点を取らないと許さないのに、和はテスト用紙に名前が書けたら褒める勢いだった。俺はずっとそれが不満だった。和に言わせると、それはそれで彼も不満だったらしいのだが。

 とにかく、母は和をかわいがっている。そんな彼女がもし、俺と和の関係を知ったらどうするだろう。

 兄なのに、和をたぶらかして悪い道に引きずり込んだと叱られるかもしれない。仕送りは止められ、学費の援助もなくなり、勘当される。ありえないことじゃない。

 金ならまだ何とかする余地はある。でも勘当などされたらまた、和は家族を失ってしまう。

 俺はがらんとした部屋を眺めながら考える。

 

 ――本当だったら、俺がもっと早く何とかするべきだったのかもしれない。

 

 こんなに和の行動が早いなんて思わなかった。

 

「でもここは俺が借りた部屋だし、あいつが出てくのは自然だろ……」

 

 和が転がり込んできたときには、迷惑で仕方がなかったはずだった。男二人には狭すぎる部屋にも辟易していた。なのにいざ和がいなくなってみると、落ち着かない。

 

「行ってきます」

 

 つい、誰もいない部屋に声をかけてしまう。答える声は当然ながらなかった。

 

 

 

「そんで弟が出て行ってさ、なんか落ち着かないっていうか、勉強もあんまり進まないんだよな……」

「人が家にいない方が勉強しやすくなんだろ」

「いや、弟だから別にいてもいなくても変わんないな」

 

 俺は学校の近くのファミレスで、ドリアを食べながら愚痴っていた。

 

「そうかよ、よかったな」

 

 嫌みっぽく垣元は言う。垣元準一郎、というのが彼の名前だった。最近、俺はたまに彼と食事をしている。同級生で同じクラスで、専攻も同じで、何かを顔を合わせるからだった。

 二浪だというから年は垣元が二つ上だが、あまり年上という感じはしない。以前から何度か授業でも一緒だったらしいが、俺が彼を認識したのは最近だ。

 

「俺んちはだめだわ。親とかいると全然やる気出ねぇ」

 

 垣元は長めの髪をかき上げて言う。一見ちゃらそうな見た目に反して、彼は根が真面目で勉強好きだ。

 酒を飲み過ぎてあまり覚えていないのだが、先日の飲み会で俺は、垣元からやたらと絡まれていたらしい。垣元はどうやら、高校の頃から俺の名前を知っていたらしかった。

 

「図書館は?」

「なんかいい席取れないと落ち着かないんだよな」

 

 垣元はたぶん、前から俺と喋りたかったんじゃないかと思う。

 

「集中すれば気にならないだろ」

「は、秀才はいいよなー、どこでも俺は勉強できるアピールか?」

 

 垣元はたまに突っかかるようなことを言ってはくるが、不思議と腹は立たなかった。垣元に勝ちたいとも何とも思わないからかもしれない。

 正直、性格の悪いやつは嫌いじゃない。

 

「ドリアうまいよな」

「聞けよ。なぁ、一日何時間ぐらい勉強してんの? 参考書は?」

 

 俺は手のひらをさしだしてみせる。

 

「何」

「情報代」

「はぁ? おま、調子に乗ってんじゃねぇぞ」

 

 これからは、実家に援助を打ち切られる可能性も考えないといけない。今までは、学生の間は学業に専念したらいいと言われていた。和はバイトをしているのだから、まぁ、していない俺は甘やかされていたわけだ。

 でも、これからはそうもいかないかもしれない。

 ――あいつ飯、食ってんのかな。

 また適当に済ませているんじゃないだろうか。離れているせいか気になって仕方がない。和はそういうところに無頓着だ。倒れていても、一人暮らしなら誰も気づかないかも知れない。

 

「弟の家、気になるなら見に行けばいいだろ」

 

 俺の気持ちを読み取ったかのように垣元が言う。

 

「弟つったって、いい大人だろ。ブラコンかよ」

 

 外野からはそう見えるのかもしれないが、心外だった。俺は和が、急にいなくなったから気になるだけだ。

 

「家族なんだから、気にぐらいするだろ」

 

 俺はつい、言い訳がましく口にしてしまう。いや、それにしても気にしすぎなのだろうか。もともと俺は、和をうざったいと思っていた。

 離れて暮らすのは、どう考えてもお互いにとっていい選択だ。

 母に不審に思われることもない。部屋は広くなって、集中できる。

 頭ではそうわかるのに落ち着かない。今日も帰っても和はいないのだと思うと、垣元とでもいいから話していたくなってしまう。

 ――和は俺のことなどもう、どうでもよくなったのだろうか。

 今になってあっさり和が出ていくなんて思わなかった。他に好きな相手でもできたのか。和に限ってないだろうと思うけれどわからない。

 

「俺も姉ちゃんいるけど、近寄りたくねぇけどな」

 

 垣元は吐き捨てるように言った。まるで俺たちがすごく仲のいい兄弟かのようだ。断じてそうじゃないのに。でも実情は言えない。誰にも絶対に、言えないのだ。

 

 

 

 

 同じ家に住んでいなくても、和の活動範囲はなんだかんだいって俺と近い。というか、和がわざと俺の近くにいたのだ。

 山登りサークルにはたまに顔を出すだろうし、バイト先も俺の大学の近くだ。そういえば、と思ってその本屋に寄ってみることにした。だが、和の姿はなかった。

 

「え、来てない……?」

「八木沢ならもうやめましたよ」

 

 今日はシフトに入っていないのか、くらいの認識だった俺には衝撃的だった。バイトをやめるなんて聞いていない。

 ――本気でおかしいじゃねぇか、あいつ。

 和がどんなつもりで家を出て行ったのかはとりあえず置いておくとする。それにしたって、バイトをやめるというのはおかしい。家を借りるためには、金がいるからだ。

 実家からの仕送りはもらってはいるが、兄弟のそれぞれが一人暮らしをできるほどではなかった。だからこそ俺たちは一緒に暮らしていた側面もあるのだ。

 一人暮らしを始めるのには金がかかる。前に両親は引っ越し費用は援助すると言ってくれていた。でも、和が彼らに頼ったとは思えなかった。何だかんだいって、和はそういうところを気にするのだ。

 なら金はどこから用意したのか。家電だって必要だろう。

 

「お前、どこに住んでんだよ」

 

 俺は焦りと怒りのあまり、すぐに和に電話していた。ほっとしたのは、和がすぐに出たことだ。

 

「どうしたの、急に」

 

 和は平然とした調子で、隣町の住所を述べる。

 

「それはこっちのせりふだ、バカ。バイトやめたんだろ?」

「あー……うん」

 

 明らかに気まずそうに和は言う。言い忘れたわけじゃなく、俺に言う気はなかったということだろう。

 

「部屋借りる金、どうしたんだよ」

 

 和が借りている部屋は、普通のアパートのようだった。でも、それだって月に数万円はする。敷金とかだってかかるだろう。和はその金をどうやって工面したのか。

 嫌な予感がする。また何か変なことに巻き込まれていたら。

 

「うん、まぁ色々」

「答えになってねぇ、ちゃんと言え」

「貯金とかだよ。俺これから出かけるから、またね」

「は? これからってお前何時だと……おい」

 

 一方的に電話を切られてしまった。俺はその場に電話を叩きつけたくなった。

 何なのだろう。和は明らかにおかしい。

 

 

 

 和とは小さい頃からずっと一緒に暮らしてきた。俺が京都にうつって一年目は例外だけれど、それ以外は家に和がいるのが当たり前だった。

 実家にいた頃、それはとても疎ましいことだった。どこまでいっても和から逃げられない。そんな気がしてしまったものだ。

 

 ――和が出て行ったなら、都合がいいんじゃないのか。

 

 俺は考える。やっと、一人になれたのだ。垣元の言うように勉強だってしやすいし、もし良い感じになったら女の子を連れてくることもできる。今のところそんなことは考えられないけれど、もしも、だ。

 なのに俺は、どこか少し緊張しながら和の家に向かっている。緊張と、イライラとを俺は持て余している。

 和が出て行った理由は想像がつく。何も言わなかったけれど、あいつは母が突然来たことにショックを受けたのだろう。俺だって確かに考えた。

 

 ――もし母がもっと早くに来ていたら。

 

 母は合鍵を持っているのだ。考えただけでぞっとする。母は正義感の強い人で、一般論としてなら同性愛者を差別をしたりはしないと思う。

 でも、俺たちが寝ていると知ったらどう反応するだろう。

 

〝俺が、お前のことたぶらかしたとか言われるかもしれないだろ”

 

 かつて和にそう話したのは本心だった。きっと俺が非難される。また兄だからといって。母は和には甘い。

 

〝近くまで来たから家、行くから〟

 

 俺は和に、一方的にメッセージを送る。拒否権なんて和には与えない。イライラする。俺に無断で、勝手に出て行きやがって。

 俺はたまたま様子を見に来ただけだ。そう、母が抜き打ちで来たのと同じだ。ちゃんと和が生活できているのかどうか、兄として確かめなければならない。

 住所をアプリに入れて、表示された道筋の通りに歩く。そもそも和が京都に来たときも、青天の霹靂だった。和は突然、突拍子もないことをする。見慣れない住宅街にあるアパートは、どれも同じに見えた。ちょうど夕飯時だからか、どこからか良い匂いがする。

 和がまさかいきなり出て行くようなことをするとは思わなかった。俺に、意見を聞くとか、するものだと思っていた。

 

 ――ふざけんな。なんで俺は、こんなに和のことばっか考えてるんだよ。

 

 垣元に言った通り、実際あまり勉強も捗っていなかった。このままでは俺の生活に差し障りがある。和からは返信がないままで、既読にもならなかった。家にはいるはずだ。俺はただ、表示される地図の通りに歩き続けた。

 

「ここか」

 

 それはやっぱり、何の変哲もないアパートのようだった。二階建てで、コーポなんとかというダサい名前がついている。比較的新しい建物のようだが、高級な物件というわけではなさそうだ。

 俺は和に教えてもらった部屋の前に立ち、チャイムを押す。なぜか心臓がやけに早鐘を打っていた。なんで和の部屋を訪ねるだけで、俺がこんなに緊張しないといけないのだろう。

 ――イライラする。何もかも和のせいだ。

 

「あれ? 兄さん、どうしたの」

 

 ドアを開けた和は、俺の苛立ちにそぐわない、のんびりした顔をしていた。

 

「ラインしたろ」

「え? 見てない。俺もうすぐ出かけるんだけど」

 

 和は確かに部屋着ではなく、きちんとした格好をしていた。でも、俺が家に来ては困るから急に言い出した言い訳みたいにも聞こえた。

 やっぱり何かあるのだろうか。俺はまず玄関をそれとなく観察する。靴はどれも見覚えのある、和のものだ。女物のハイヒールなんかは見当たらない。

 ――別に俺はそんなことチェックしたいんじゃないのに。

 

「お前、こんな時間にこれから出かけるのか?」

 

 出かけると言われたのに上がり込むのも変だろうか。俺は玄関先に立ったまま、動けないでいた。

 

「ちょっと、知り合いが……」

 

 そう言って和はポケットに入れた携帯を見る。こんな時間に和を呼び出すなんて、どんな知り合いだろうか。あまりよい想像はできなかった。

 

「お前、バイトやめたんだろ? 金どうしてんだよ」

 

 廊下の向こうに部屋が見える。1Kの部屋のようだった。それほど広いわけでもないし、家具もほとんど見えない。マットレスのような、質素なベッドがあるきりに見える。

 

「あー、まぁ」

「まぁじゃねぇよ。何か仕事してんのか?」

「別に悪いことしてるわけじゃないから、気にしないで」

 

 和は何でもないことのように言う。そんな言葉で気にしないでいられると本当に思っているのだろうか。

 

「上がる?」

 

 そう言われてやっと、俺は無言のまま靴を脱いだ。

 小さい頃、同級生の家に初めて上がったときみたいだ。知らない家の匂いがして、何だか無性に落ち着かなかった。目の前にいるのは、よく知っている和なのに。

 部屋は本当に、さほど広くはなかった。贅沢をしているというわけでもなさそうだ。値が張りそうなものはパソコンぐらいだが、これは前から和が使っていたものだった。

 

「普通だな」

「何だと思ってたの」

「いや……」

 

 俺は何と言っていいのかわからない。

 ――なんで家を出たんだよ。

 その言葉が喉元まで出かかっているのに、口に出せなかった。どうしてなのだろう。別に和に遠慮なんていらないことはわかっているのに。イライラする。

 

「何やってんだよ、お前」

「何って?」

 

 和は俺をさして気にする風でもなく携帯をいじっていた。誰となのか、と聞きたいけれどさすがに過干渉かと思うと聞けない。

 俺はイライラしてじれったくて、部屋の中を眺め回した。

 キッチンはほとんど使っている形跡もない。だが換気扇の下に、タバコがあった。封を切ってあり、ライターも置いてある。

 

「お前、こんなん吸うのか?」

 

 俺の知る限り、和はタバコを吸わない。前から隠れて吸っていた可能性もないではないが、そのタバコは外国製の、匂いが少し強いものだった。

 

「あ、いや」

 

 和は目に見えて、しまったという顔をした。

 

「何でもないよ」

 

 もしかして、誰かこの家に来る知り合いのものなのだろうか。そのまま置いてあるということは、そいつはよく来るのか。

 俺は今日初めて来たのに。

 もどかしいしイライラする。何か言うべき言葉があるような気がするのにうまく声にならない。何をやってるのか。ちゃんと食べてるかなんて、母親みたいなことを言いたいわけじゃない。和がどんな生活をしていても構わないはずだ。でも、金の出所は気になる。

 

「……お前、土地とか家とか売った金、もらったのか?」

 

 かろうじて口をついたのはそれだけだった。北海道の家と土地は売ったと聞いた。和が成人したら相続すると聞いたから、本当ならまだ少し早い。でもそれなら急に和が金を得た理由も納得がいく。

 

「うん。でも、そんなに使ってないよ」

 

 和は俺の方を見なかった。

 

「おい、和」

「急に来るからびっくりした。俺が女の子連れ込むとか疑ってる?」

「知らねぇよ、好きにしろ」

 

 置いてあるタバコは男が吸うのかと思ったけれど、女の可能性だってもちろんある。

 だが和は俺の言葉を聞くと、笑い出した。

 

「おい、何笑ってんだよ」

 

 人をバカにするにもほどがある。こんなところまでわざわざ来た俺がバカだった。

 

「ふざけんじゃねぇ、誰を連れ込むにしろ勝手にすればいいだろ」

 

 俺は吐き捨てて、玄関に向かおうとする。でも、急に後ろから引き寄せられ、抱きしめられた。

 

「っ」

「嫌なくせに」

 

 俺は羽交い締めにされて動けない。

 

「嫌じゃねぇよ、離せ」

 

 和は何かをはぐらかそうとしているのだろうか。表情は見えない。だけどそれにしても、触れるのは久しぶりで、胸の奥がざわざわする。

 

「何なんだよ、お前!」

「……兄さん」

 

 まるで何も聞いていない様子で、和はじっとそのままでいる。

 変な感じだった。勢いのままキスするでも、肌に触れるでもない。ただ背後から抱きしめられているだけなのは居心地が悪い。

 

「兄さんは何か、俺としたいことない?」

「お前、急に何なんだよ。今どこで主に何してんだ。ちゃんと言え」

 

 和が誰かに利用されていないとも限らない。もう彼の側には母も俺もいないのだ。

 

「おい、和」

 

 俺が語気を荒げると、和はごそごそと何かポケットを取り出す。そしてそのままの体勢で、俺の目の前に鍵を差し出した。

 

「これ、あげる」

「何だよ」

 

 それは明らかに、この部屋の鍵だった。キーホルダーも何もついていない、素のままの鍵だ。

 

「持ってて。いつ来てもいいから」

 

 家を借りたということは、俺と距離を置きたいのではないだろうか。和の考えていることが読めない。

 

「ていうか、来て」

 

 俺が身じろぎすると、和はあっさりと拘束を解いた。俺は改めて、和に向き直る。

 

「知らねぇけどでも、色々あるだろ」

「何が」

「急に来られたら困るとか」

 

 俺はさっきのタバコのことを思い起こす。誰が一体この部屋であれを吸っていたのだろう。

 

「ないよ」

 

 あっさりと彼は答えた。和の表情からは、嘘をついているようにはとても思えなかった。だが何も隠していないとは思えない。絶対に何かはあるはずなのだ。

 最近の和は何かおかしい。

 

「兄さんも俺に会えないと寂しいでしょ」

「てめぇ調子乗りすぎだろ、ふざけんな」

 

 はたいてやろうかと思った。でも和の顔色が少し悪いようにも見えて、俺は手を止める。

 

「お前……大丈夫か?」

「大丈夫じゃないって言ったら何してくれる?」

「しねぇよ、バカか」

 

 和は無理やり俺の手に鍵を握らせる。だいたい鍵をよこすつもりなら、もっと早くに俺の家に届けろと言いたい。

 

「もう行かなきゃ。いつ帰ってもいいから、ドアしめといて」

 

 和はそう言って、カバンを手に取る。

 

「おい、話は終わってねぇぞ」

 

 俺は急に焦った。今まで、和と話をするのに時間が足りないなんて思ったことはなかった。いつだって和は家にいたのだから。

 

「また今後聞くから」

「お前、何か変なことしてんじゃねぇだろうな」

 

 こんなに疲れた様子なのに、和は本当に今から出かけるのだろうか。イライラがまた湧き上がってくるのと同時に不安になる。でも和は頑固だ。きっと俺が何を言ってもやめたりしないだろう。

 

「何だったら兄さんは困るかな」

「あ?」

 

 和が俺の頬に手を伸ばす。キスされると思って、俺は反射的に目をつむってしまう。

 でも、和は俺の頬を軽くつねっただけだった。

 

「な……」

 

 俺の反応がおかしかったのか、和は小さく笑う。

 

「今度、ちゃんとしたいこと考えてきてよ」

 

 そうしてそのまま靴を履き、家を出て行った。

 

「行ってきます」

 

 ここは和の家なのに、俺だけ室内に残される。イライラする。なんで俺が和なんかに翻弄されないといけないのか。釈然としなかった。