1.野木

 クラスで一番かっこいいのは誰か、と聞いたらたぶん意見は一致する。

「また鮎原が一位かよ」

 ちなみにそれは、さっき張り出された期末テストの順位とも一致する。

「まぁ、しょうがねぇえだろ」

「鮎原だからな」

 鮎原は非の打ち所がない、クラスの人気者だ。

 顔がよくて運動神経抜群、勉強も得意。気遣いができて同性からも異性からも好かれている。母親は元モデルで、父親は社長。でも家族仲は円満で、美人の姉がいる。

 もちろんモテるけれど、彼女がいないのは部活と勉強に専念したいから。

 

 

「――付き合いてぇようないい女がいないんだよ。どいつもこいつも、量産型雑魚って感じ」

 でも僕だけは、彼の裏の顔を知っている。

「ほら、これ見るか?」

 屋上で、僕はスマートフォンの画面を見せられていた。

 女の子が見たら失神してしまうんじゃないかと思う。渾身の告白を、こんな風に回し見されているなんて。見たくないのに、僕はつい目をやってしまう。

「なんで告白でスタンプ使うんだ? ギャグなのか? 脳みそも金太郎飴なんだろ」

「まぁまぁ……」

 あんまりじっと見るのは憚られて、僕はすぐに携帯を鮎原に返す。

 鮎原はクラスにいるとき、いつもにこやかだ。でもそれは彼の表の顔に過ぎない。

「いいじゃん、鮎原はモテて」

 同じ高校生でも、僕は一度も告白されたことがない。

「いいんだよ、野木はその素朴な感じが」

「それ褒めてないよね」

 鮎原は大口を開けて笑う。クラスにいるときの、ちょっと澄ましたような笑顔とはまるで違う。

 実際、僕はこれといった特徴もないし平凡な人間だと思う。たまたま鮎原と親しくなれたのは、僕が彼の本当の顔を見せても安全な人間だからだろう。

「あー、こんな田舎じゃなくてさっさと東京に出てぇな」

「大学、東京受けるんだろ?」

「ああ」

 はい消去、と言いながら鮎原は携帯を操作する。鮎原は、教室にいるときとは全然違う。彼が本当は、斜に構えた態度でクラスのみんなを馬鹿にしているなんて、誰も気づいてはいないだろう。

「野木は? いい加減志望校決めたか?」

「いや、僕はまだ……」

 もともと屋上を使おうと思ったのは、タバコを吸おうと思ったかららしい。屋上で一緒に過ごすようになって、僕は彼の色んな面を知った。

 美人な母親にも堅苦しい父親にも、辟易しているということ。一人暮らしをして免許を取ってバイクを運転したいこと。本当は学校が退屈で仕方がないということ。

「一緒のとこ受けようぜ」

 みんな、全然鮎原のことを見れていない。

 きらきらした表面と、彼の本当の姿は全然違う。

「うーん、僕のレベルだとどうかな」

「何とかなるだろ」

 でも僕は、こんな鮎原の素の姿が好きだった。

 

 今日もクラスで誰かが言っていた。たぶん、彼に成績が負けたことが悔しい誰かだろう。

「鮎原ってほんと、苦労してなさそうだよな」

 僕は苦笑するしかなかった。

 僕だけが、彼の本当の顔を知っている。

 

2.小海

 

「何読んでんだ?」

 彼が無言で指し示した辞書みたいに分厚い本の表紙には、「罵倒語辞典」と書いてある。

「罵倒語……?」

 学校からかなり離れた予備校に通い始めたのは、そこに教わってみたい先生がいたからだ。だが鮎原がここを選んだのは、単に知り合いに会いたくなかったかららしい。

 ――小海がいたのは、計算違いだ。

 悔しそうに言っていた。

「そんな辞典あんのかよ」

 さすがに小海も呆れる。自分なら、そんなものなくても罵倒の言葉くらい百二百は思い浮かぶ。いくらでも普段から考えているから。

「あるんだ。苦労してるんだよ」

 でも、この友人は違う。

 鮎原憲はすべてに恵まれた、非の打ち所のない男だ。

「お前が好きでやってることだろ」

 彼の愚痴はもう聞き飽きている小海は言う。授業までにはまだ時間があるから、自分の参考書を開いてサンドイッチを取り出す。

「違うんだよ……俺はやりたくないんだ……!」

 鮎原は暗澹とした表情で言った。

「じゃあやめろよ」

 サンドイッチを頬張りながら野木は答える。そうすると、鮎原は言葉に詰まった。そんなこと彼だって、百も承知だろう。

 でも、やめられないのだ。

 彼は、クラスの中では地味な存在である野木と仲がいい。とはいっても、学校で話すのではなく主に屋上で会う秘密の仲らしい。

 なんじゃそりゃ、と思う。

「でも、野木は俺のこと『性格が悪い』って信じてるから」

 鮎原はいくぶん小さな声で言った。

 鮎原は野木に対して、キャラを偽っている。

「俺、こういうのマジでわかんないんだよ。なんで人を罵倒するんだ、褒めて育てたほうが絶対いいって」

 罵倒語辞典を叩きながら鮎原は言う。よっぽどストレスがたまっているらしい。

「じゃあそうすりゃいいだろ」

「でもそれは、野木の求めてる俺じゃないんだよ……!」

 野木とは、たまたま二人きりになったときに、クラスメイトの悪口を言ったところ、ひどく受けてしまったというのだ。

 それ以来、野木はきらきらした目で見つめてくるのだ、という。だから彼はこうやって、勉強の時間も惜しんで罵倒の言葉を覚えている。

「バカじゃねぇの」

 人には向き不向きがある。鮎原は頭が悪いわけではないのだが、とにかくまっすぐだ。本来なら、人に嘘をつくことなんて考えられないタイプ。

「今更キャラは変えられない……」

 正直どうでもいいのだが、本気で困っている鮎原を見ているのはおかしかった。

「なんでこんな、悪口を言うのは複雑で難しいんだ……褒めるのなら簡単なのに」

 真面目に辞書なんて探してきて勉強しているのも、彼らしくておかしかった。

「幸福な家庭はどれも似たものだが、 不幸な家庭はそれぞれに不幸である、か」

「え、何? 今使えそうなこと言った?」

「いいや」

 恵まれた家で愛情いっぱいに育てばこうなるのだろう。

 友だちもたくさん、先生からも評価され、何不自由ない生活を送っている。一時期はバイトもしていたらしいが、それは社会勉強としてやってみなさいと親に言われたからで、経済的には申し分ない環境にある。

 ちなみに酒もタバコもやってみたが、鮎原自身どうしても好きになれないのだという。複雑な文学よりもわかりやすい勧善懲悪の物語が好き。そもそも家にいるより外で遊びたい。ゲームより人と会話するのが好き。人間が好き。

 こうやって並べていると小海は嘘だろ、と思ってしまう。でもそれが、鮎原という男だった。

「お前、こういうの得意だろ?」

「……まぁな」

 小海とは、ほとんど対極にある。

「そろそろ悪口のボキャブラリーも限界なんだよ……どういうこと言ったらそれっぽいかな?」

 小海はクラスメイト一人ひとりにつけているあだ名がある。もちろんとても口には出せないような言葉だ。呪詛や罵倒なら自然と湧き出てくる。いくらでも。

「何か引用とかしてみれば? ことわざとか」

「なるほど」

 鮎原はあろうことか、ノートを取り出してメモをし始める。

 最初は面白がって見ているだけだった。でも、こんなことでさえ真面目に真っ正面から取り組んでいる鮎原を見ていると、少しだけ複雑な気持ちになる。

「そうだな、例えば……地獄への道は善意で舗装されている」

 野木はこんな彼の必死な努力を、知ることはないのだろう。いい気なもんだ、と思った。

 

 普段、鮎原とは最寄り駅の数駅前で別れる。でもその日は会話が弾み、彼が腹が減ったというので駅にあるそば屋に寄ることになった。

 立ち食いに毛が生えたような小さな店だ。三百円のあたたかいそばを買って席に着くと、見慣れた制服が目に入った。

「あれ、鮎原?」

「あ……」

 野木だった。鮎原が必死にキャラを作って、二人だけの関係性を演出しているまさに相手の生徒だ。小海とはクラスが違うのであまり顔を合わせることはなかった。

「おう」

 驚いているだろうに、鮎原が必死に平然とした顔を装っているのがおかしかった。

「野木は帰り?」

「あーうん、ちょっと」

「そうか、俺たちは予備校の帰り。そば食う?」

 野木はあきらかにおどおどしていた。鮎原の隣りに小海がいるからだろう。

「いい?」

 野木は小海に向かって言った。俺の所有している席じゃないし、と言ってやりたくなる。

 こういう自信のないタイプの人間が、小海は嫌いだった。

「量産型雑魚……」

「おい!」

 真剣な顔で鮎原が腕を叩いてくるのがおかしかった。野木はどう反応していいのか、戸惑った目でこちらを見ていた。

 

3.野木

 

 鮎原の性格が悪いことを、小海は知っているのだろうか。

 本性を見せているのは野木だけだ、と鮎原は言っていた。

 でももやもやする。二人は親しげだった。少し遠い予備校に行っていて、二人の他にうちの学校の生徒はいないらしい。

 性格のいいモードでの鮎原にはもともと友人が多い。でも、そういう人たちと小海は少し違う気がした。

 小海は変わった男だ。たまにふらっと勝手に休みを取っては叱られている。噂では、バックパッカーで海外を回っているらしい。授業は寝てばかりいるのに成績はとてもよく、いつも難しそうな本を読んでいる。

 鮎原が彼と親しいというのがぴんとこない。

 もし本性を見せているなら、頭のいい同士話すことはたくさんありそうだけれど、鮎原が嘘をついていることになる。

 よくわからなかった。

 

 この間たまたま三人でそばを食べたときも、変な空気だった。

「なんか、ちょっと意外な組み合わせだね、鮎原と小海って」

「俺が鮎原にお勉強を教えてやってんだよ」

 小海はずっと、にやにや笑いっぱなしだった。

「おい」

 そうして、鮎原が肘で軽く彼を攻撃する。じゃれているとしか思えなかった。どう見てもこの場では、彼ら二人が身内で自分が部外者だった。

「仲いいんだね」

「まぁね」

 小海がまたにやっと笑って鮎原を見る。鮎原は苦々しげな顔をしながら、否定はしなかった。

 さすがにそこで、鮎原の本当の性格を知っているのか、とは聞けなかった。

「今日も色々二人で本探したり、ネット見たりしたもんな」

「小海」

 鮎原は気まずそうに彼をたしなめるが、小海は黙ったりしなかった。

「へぇ……」

「いや、小海は色々詳しいんだよ。やっぱり知識があるし話してて得るものがあるっていうか」

 急に鮎原は小海のことをフォローし出す。

 別に僕だって、変わっているとは思っているけれど、小海のことを嫌っているとかではない。ただ住んでいる世界が違うのだ。たぶん向こうも、僕に興味はないと思う。

「鮎原には色んな知識が必要だからな」

 笑う小海のことを、鮎原は睨み付けていた。でも、そんなやり取りさえ親しげに見えた。

 僕は放り出されたみたいな気持ちだった。

 家に帰るともう十一時近くて、早いところ寝る支度をしなければならなかった。だが、鮎原からの着信があって僕は携帯に飛びつく。

 彼が電話をしてきたのは、初めてだった。

「どうしたの?」

「あー、いや」

 今日の鮎原はおかしい。今は小海も隣りにいないんだから、好きに話せるはずなのに。

「今日、偶然会えてよかった」

「邪魔してごめんね」

 僕は反射的に答えていた。

「そうじゃない」

「小海と仲いいんだね」

「そのこと……何か誤解してるんじゃないかと思って。違うんだよ」

「別に、僕にどうこういう必要ないよ」

 そうだ。たまたま僕一人しか彼の本性を知らないからと言って、他にばらしていけないわけでもない。

 僕は彼の恋人でも何でもない。

「本性ばらしたのか?」

「……ばらしてない」

 鮎原は言いにくそうに、口ごもった。

「俺が、本性を見せてるのは野木にだけだ」

「……うん」

 普段の彼と違う、少し心細げな声に胸が締め付けられる。

「それだけ言いたくて」

 彼と小海との関係はよくわからない。でも今は、信じたかった。わざわざ電話をしてきてくれたことが嬉しい。

 そうだ。小海と彼のことは、僕には関係がない。僕は鮎原だけ見ていればいい。大丈夫だ。

「また屋上で」

「ああ」

 

4.小海

 

「こんにちはー」

 屋上に小海が顔を見せたとき、鮎原は露骨に嫌そうな顔をした。

「鮎原、顔、顔」

 小海は自分の口元を指さして笑顔を作って見せる。

「何だよ」

 鮎原は不機嫌さを隠しもせずに言う。「性格が悪いのをばらしているのは野木だけ」という設定ががばがばだ。

 鮎原と野木は、クラスの中ではほとんど話さないらしい。代わりに二人がどこで一緒にいるかというと、屋上だ。

「俺も弁当食べていい?」

 屋上は本来立ち入り禁止だが、鮎原が何らかの特権で、鍵を手に入れたらしい。恵まれた男は何でもできる。

「いいよ」

 多分本心では嫌がっているのだろうけれど、野木は言う。

「いやー、屋上って気持ちいいな」

 鮎原が声に出さずに、「なんでここに来たんだ」と言っているのがわかる。

 苛ついたのだ。鮎原の努力なんて気づきもしないで、「自分だけが知っている」なんて酔っている野木にも。つまらない演技を続けて、勉強に本腰を入れていない鮎原にも。

 野木はごく平凡な男だ。鮎原がこだわるような対象じゃない。

「別にいいけど、小海とは予備校で顔会わせるのに昼も一緒か」

 鮎原が苛立ったように言う。

「そう、昼も夜も一緒」

 小海は笑った。むすっとしたような顔をしていた鮎原は、一度ため息をついて言った。

「まぁいいけど」

 小海と鮎原が喋るたび、野木が動揺しているのが手に取るようにわかった。

 

 俺はちょっと小海と話があるから、と言って鮎原は野木を先に教室に戻らせた。そんなことをしたらきっと、野木の中で疑念が膨らんでしまう。いいのかな、と思いながらにやにや笑いそうになる。

「おい、小海」

「何だよ」

「なんでこんなことするんだ」

 鮎原はその評判の整った顔で眉根を寄せていた。

「いや、気持ちよさそうだったからさ」

「何でもいい。俺は野木と過ごしてるんだ。ここには来ないでくれ。屋上を使いたいなら、曜日を決めてもいい」

「なんの権利があってそんなこと言ってるんだ、鮎原?」

 鮎原はけげんそうな顔で小海を見る。自分の提案に、小海が協力しないことを想定できていなかったという顔だ。

「お前、自分の立場わかってる?」

「何がだよ」

「俺はいつだって、野木くんに全部ばらせるんだぜ。お前がただの善良な男で、野木が知ってるって思ってる『本性』なんてないんだって」

 鮎原が後生大事に守っているキャラなんて、どこにもいない。

「小海がそんな、俺がしてほしくないことするわけないだろ」

 鮎原はあっさりと言った。曇りのない目で。

「……は」

 皮肉で言っているのかと思った。でも違う。鮎原はただ本気で、そう信じているのだ。

「小海はいつも助けてくれるじゃないか」

「……正気かよ、これだからお坊ちゃんは」

 負けた、と思った。同時に笑えてくる。そうだ、鮎原というのはこういう男だった。まっすぐで濁りのない目。いつもひねくれた考え方ばかりしている自分とは、大違いだった。

 だから惹かれた。

「明日もお昼、食べような」

 俺が言うと、鮎原は「来んな」と呟く。でもきっと、明日も俺が来ても、追い出したりはしないのだろう。

 小海は冷静を装って、屋上からの階段をゆっくりと下りる。でも、一人になった途端力が抜けて、途中でずるりと壁によりかかって座り込んだ。

「地獄への道は……善意で……」

 なぜこんなに野木に苛立つのか。なぜ鮎原にちょっかいを出したくなるのか。まだ心臓がばくばくといっていた。

 ……そんなこと、気がつかなければ今まで通り友だちでいられたのに。