生まれたときから、何も不自由なんてなかった。

 きっと死ぬまで、そうだと思っていた。

 

「今度来るやつ、オメガなんだって」

「何考えてんだ?」

「あれじゃん? 人類皆平等、仲良くしましょうーみたいなやつ」

 

 八尋は悪友たちと空き教室にたまりながら笑った。

 何だって思い通りになった。小学生の頃、好きになった女の子と無理矢理手をつなごうとして泣かれた。

 その日の夜、彼女は親と一緒に謝罪に現れた。彼女の親は、「ほらつないでもらいなさい」と言った。彼女の表情は蒼白だった。

 もう八尋は彼女に興味を持てなかった。

 かわいそうだったからじゃない。単に、生気をなくした表情が人形みたいだったからだ。

 泣いていた顔の方が、よっぽどよかった。

 

「平等なわけねぇじゃんな」

「何考えてんだろうなー、ほんと」

 

 今笑い合っている悪友たちのことを、八尋は本心では認めていない。

 最近事業に成功した成金ばかりだ。調子に乗っていても、家柄はない。

 八尋の家は、数百年以上はゆうに続く名門で、地元ではいまだに殿様扱いだった。

 

「生まれた時点で、勝ち負けなんて決まってる」

 

 何も不自由なんてなかった。

 何だって、自分の好きなようになると思っていた。

 

 転入してきた少年は、細身で色が白かった。茶色っぽい、くりっとした目をしていて小動物のようだった。

 犯してくれと言っているようなものだ。

 マットレスの上に押さえつけられながら、彼はぼろぼろ泣いていた。茶色い目から、涙がとめどなく零れ落ちていった。

 少しだけ、あの女の子のことを思い出した。

 初恋だった。

 だけどあの日以来会話もしなかった。八尋を見ると彼女はぱっと逃げるようになった。βだと後で聞いた。彼女がどんなタイプかなんて、そのときの八尋は考えもしていなかった。

 もし、自分がまったく違う家柄の子供だったら、彼女とはどんな関係だったのだろう。ふと、そう思った。

 

 

 転校生は泣いていた。

 八尋たちは笑った。

 それは、ありふれた日常の一コマに過ぎなかった。

 ウサギが巣穴に入ってきたから食っただけ。無防備なオメガがいたから犯しただけ。

 それだけだった。

 八尋はそのことに意味も、価値も見いだしてはいなかった。

 

 それが後々の自分の人生を大きく変えることになるなんて、思っていなかった。

 

 

 ・

 

 

「優生思想に頼るのは政情が不安定だからだ。大戦後の某国を例に出すまでもない」

 

 日出人の勉強量はすさまじい。そのことは、そばで見ていて認めざるをえなかった。部屋にはいつも、小難しげな本や雑誌が積まれている。

 学校の勉強のレベルはとうに超えていた。何でもかんでも手を出して、だけど一定の知識を得るまで決してあきらめなかった。

 

「なぁ、そう思うだろ?」

 

 八尋は答えない。これは、たぶん答えることを期待されていない質問だから。

 語学、経済、法律、機械工学から遺伝子学まで。彼は財閥の跡継ぎとして、必要な学問のすべてを学んでいた。

 際限がないほど貪欲だ。彼ほど自分を痛めつけるかのように努力をする人間を八尋は知らない。

 

「本当に自分に自信がある人間は、血筋を持ち出したりしない。そうだろ、八尋?」

 

 日出人はひたすら、毎日を研鑽に捧げている。八尋が使用人として心を殺して労働をしている間に。

 彼の知識や人脈は育っていく。

 

「言いたいことがあるなら言えよ、許す」

 

 それでも、彼の腕は八尋より太くはならなかった。

 

「血筋は絶対です」

 

 なるべく淡々と、八尋は言う。

 

「へぇ。どうしてそう言える」

「例えば……そうですね、背は伸びましたか?」

 

 それが彼を怒らせる問いだとわかっていて、わざと口にした。それを期待されていることがわかっているから。

 

 日出人の身長は、今でも八尋より頭ひとつぶんほど低い。同じ年齢なのに、どうしてここまで差が出るのか、改めて考えると不思議なくらいだった。

 日出人が体力のトレーニングもしていることを知っている。専門的なトレーナーにつき、筋力を伸ばすトレーニングもしていた。それでも、彼の腕は太くならなかった。

 彼の母親も、線の細い美人だ。たぶん遺伝なのだろう。数年前に比べれば、そこそこに背は伸びて青年らしい面持ちになった。でもその背も、八尋よりはずっと低い。

 

「くだらない」

 

 冷静さを装いながら、日出人がいらだっているのがわかる。

 幸も不幸も、この世の中では生まれで決まる。

 そうなっているのだ。

 毎日必死な彼を見ていると、早く諦めてしまえばいいのにと思う。

 生まれは変えられない。どうしたって、彼はオメガだ。大きな目が目立つ顔立ちはかわいらしいと言えなくもない。そうはいっても、彼のまったくかわいくない内面も知っているので、もはや性欲の対象としては見れないつもりだったが、たまにどうしようもなく彼の匂いに惹かれてしまうときがある。

 こういう珍しい男を手なずけたいモノ好きはきっといるだろう。

 早く適当な家柄の男と結婚でも何でもすればいいのに。それがオメガとして生まれたものの幸せだろう。

 

「出かける」

 

 最近、日出人は両親に言わずに、あまり柄の良くない連中の集まりに参加していた。政治的な討論をしたりする若者の集まりだ。

 そんなことはどうでもいいのだが、送り迎えとして付き添わなければいけないのは面倒だった。

 八尋は中に入れるわけではなく、だいたい店の外で何時間も待たされる。

 

「ついてこい」

 

 だが、従わないなんていう選択肢は、最初から与えられていなかった。

 八尋はもう彼の同級生でなく、使用人なのだから。

 

 

 

 

 安泰なはずの八尋の人生が、狂い出すのはあっという間だった。

 父や母が、たちの悪いやつらに金を借りていたことを知ったのは、すべてが終わってからだった。文字通り身ぐるみをはがされた。あらゆる方法で、彼らは八尋の家の財産を吸い尽くしていった。

 だけどそれでも、家柄までは売れない。そのはずだった。

 どこまでいっても八尋は八尋で、誰かしらが助けてくれるだろう。そう思っていた。

 金銭程度で、自分の身がやり取りされるなんて、そんなことがあるとは思わなかった。

 

 橿原財閥は新興だ。

 だが、いち早く世界との取引網を押さえたグループ企業は、恐ろしい勢いで成長していた。

 日出人はその力をよく知っている。

 

 倉庫街を歩きながら、八尋は彼の頭を見下ろす。

 日出人はこのあたりに出入りしていることを家族に知られたくないようで、車はだいぶ前のエリアで降りていた。今は八尋と二人きりだ。

 いっそ、この薄暗い倉庫で彼を引き倒して犯してやったらどうだろうかと想像する。

 

「何を考えてる?」

 

 八尋がそんな想像をしていることを、彼もたぶんわかっている。

 八尋がぎりぎりまで迷ったとしても、結局それを、行動に移さないことも。

 家族は散り散りになった。両親に対する思いなどもうかけらもないが、妹のことだけは気になっていた。八尋と同じように、どこかの家に奉公に出ているはずだ――つまりは身売りだった。

 今、八尋が自爆するように日出人に逆らったとして、殺されるのがオチだ。いつか妹を見つけ、また自分の力で自由な世界を取り戻す。八尋はその野望を、まだ捨ててはいなかった。

 

「……何も」

 

 ちらと八尋を見上げて日出人は笑う。人を小ばかにしたような笑みだった。

 あの日、学校におどおどした顔で現れて、「はじめまして」とはにかんだ少年はもうどこにもいない。

 

「なんでこんなとこにオメガがいるんだ? 餌か?」

 

 急にぐいと日出人の体が引かれた。大柄な男だった。太い腕を見せびらかすかのようにタンクトップを着ている。

 日出人は首元をつかまれ、身体が宙に浮いていた。

 

「何するんだよ……!」

 

 日出人がもがくが、男はびくともしていない。彼は抑制剤を飲んでいるはずだが、やはりオメガであることはわかるのだろう。

 八尋だって、日出人と一緒にいて、彼がオメガであることを忘れたことは一時もない。はっきりと匂う、というほどではない。だけど日出人の体臭はどこか甘い。身体が覚えている。彼を押さえつけ、犯したときのことを。

 

「離してください」

「なんだ『ご主人』がいたのか」

 

 八尋が声をかけると、男は急に穏やかに言って、腕を離した。戦って負ける気はしなかったが、どんな武器を持っているとも限らない。穏便に解決できるなら願ってもないことだった。

 日出人は解放され、そのまま地面に落ちる。

 

「てめぇ、ふざけんな……!!」

「こうるさいペットだな」

 

 そのまま日出人は男に掴みかかろうとする。だが、あっけなくあしらわれて再び地面に倒れこんだ。

 さすがに体格が違いすぎる。

 

「突然人を襲うようなサルに言われたくねぇよ」

 

 せっかく男が興味を失いかけてくれていたのに、どうして挑発などするのか。

 

「はぁ……? お前頭おかしいんじゃねぇのか、オメガのくせに」

「クソ!!」

 

 日出人のほうがむしろ八尋の飼い主であることは、通りすがりの人間がわかるはずはない。

 外見からしたら、逆に見えるのだ。そういう風であることが、この世の中は普通なのだ。そのことを今更どうこう言っても仕方がない。

 諦めてしまえばいいのにと思う。

 俺は弱いから守ってくれとそう縋るなら、かわいらしいのに。

 

「そんなに言うならぐちゃぐちゃにしてやんよ」

 

 八尋は間に入ろうとするが、男もすっかり頭に血が上っているようだった。

 日出人が体格のいい男と戦って勝てるはずがない。武道の達人にでもなるか、武器を使わない限り。彼には無理だ。

 

「いい加減にしてください」

 

 八尋は無理やり二人の間に入り、日出人の肩をつかむ。後は適当に謝っておけばいいだろう。そう思ったのに、ぐらりと視界が揺れた。

 強烈な甘い匂いだった。単に肩を掴んだだけだ。なのに、頭の芯がぐらぐら揺さぶられているかのようだった。

 

「結局アルファの陰に隠れんのか、やっぱりオメガっていうのは弱い上に卑怯なクソだな」

 

 男が何か言っている。だけどずっと遠くからの声みたいに聞こえた。

 日出人が再び首元を掴まれ、壁に投げつけられる。軽い体は、嘘みたいに簡単に倒れている。

 

 

「……八尋?」

 

 小さくつぶやく声がした。

 父や母は贅沢をすることに慣れていた。何でも思い通りになると信じていた。自分たちは選ばれた人間で、他とは違う。そう思って疑っていなかった。

 八尋もそうだった。

 何でも思い通りになると思っていた。

 なのに、どうして彼女とは手をつなげなかったのだろう。

 

「……もういい、八尋! やめろ!」

 

 間近で日出人に顔を覗き込まれていることに気づき、はっとした。

 掌が痛い。気が付くと、八尋は男に馬乗りになり、その顔を何度も殴りつけているところだった。痛いと思ったら掌には血がついている。うう、と男がうめく。

 

 思い通りになるとはどういうことなんだろう。

 別にかしずいてほしくなんてなかった。謝ってなんてほしくなかった。ただ、もっと話がしたかった。

 手が、つなぎたかった。

 でも、母は彼女の母を強くなじり、土下座をさせた。冷たい目で、彼女は八尋を見ていた。

 

「行こう」

 

 日出人に腕をつかまれ、そのまま歩き出す。強烈な甘い匂いは続いている。これは、血の匂いなんだろうか。

 いっそこの本能のまま、日出人に襲いかかってしまえたらどれほどすっとするだろう。

 日出人は顔を拭ったが、ところどころ擦り傷になっていた。家に帰る前にちゃんと処置をしないと、怪しまれるだろう。

 人通りのない道を、だけど臆することなく日出人は歩いて行く。

 

「……俺はなんで俺なんだよ」

 

 前を歩く日出人の表情は見えない。ただ悔しそうな声だけが聞こえる。

 

「どうしてお前みたいに強くなれないんだ……!」

 

 まだ危険なエリアにいることには変わりがない。早く抜けないとと冷静な頭では思うのに、身体が動かない。

 ただ八尋はじっと、日出人の後ろ頭を見ていた。

 

「……そうしたら母さんだって」

 

 自分でも何をしたのかよくわからなかった。八尋は発作的に、日出人の体を抱きしめていた。

 甘い匂いが強くなる。くらっと理性が一瞬飛びそうになり、八尋は手のひらに爪を食い込ませた。

 

「離せ……!」

 

 もし今の自分が日出人を襲ったら、さっきの男と同じになる。日出人に対して一生優位には立てないだろう。

 

「何考えてるんだよ、離せ、八尋……!」

 

 じたばたと日出人が暴れる。強く手のひらに爪を立てながら、八尋はその熱を感じる。理性が悲鳴を上げているのがどこか心地いい。本能は彼をそのままむさぼり食えと言う。でもそうしない。手のひらの痛みが、八尋の理性をぎりぎりつなぎとめている。

 

「離せ! お前もさっきのやつと同じなんだろ……!!」

 

 暴れていた日出人は、それ以上八尋が何もするつもりがないと気付いたのか、やがて動きを止めた。

 あたりは静かだった。もうすぐ日が暮れる。急がないといけなかった。でも、今だけはこうして彼を抱きしめていたかった。なぜだかはわからない。八尋にとっては苦しいだけの行為で、何もメリットなんてないはずなのに。

 

「俺はサルじゃない」

 

 八尋はぼそりとつぶやいた。

 自分の理性を試したいんだろうか。ぐらぐらと甘い匂いは続いていて、下半身が痛い。苦しくて、どこか少しだけ心地よくて、早く逃げ出したいのと同時にずっとこうしていたいような気もする。

 

「違う、みんなそうだ」

 

 日出人が小さく答える。

 本能はこいつを犯せという。

 そんなの、まっぴらごめんだ。

 八尋は強く強く、手のひらを握りしめる。もっと話がしたい。顔を見て、ちゃんと。

 

「血の匂いがする」

 

 ゆっくりと体を離すと、日出人はむっとしたような顔で八尋を見ていた。

 気が付くと、爪を食い込ませた八尋の手からは、血が流れていた。さっき殴った男の血もあるだろう。もう何度もこうして手に爪を食い込ませているので、八尋の手は傷だらけになっていた。

 日出人はおもしろそうに、八尋の手を眺める。

 

「手袋買ってやろうか?」

 

 日出人は笑っていた。

 初恋のあの女の子の、泣き顔のことばかりをいつしか思い返すようになっていた。冷たくこちらを見返していた感情のない目。

 でも、彼女の笑った顔が好きだったのだ。やっと思い出した。

 

「八尋……?」

 

 動かない八尋の顔を、不思議そうに日出人は覗き込んでくる。

 手を、つなぎたいと思ったのだ。

 指先を伝い、血が地面にこぼれ落ちていく。彼女がどんな家の人間で、どんな種族かなんて考えもしなかった。

 ただ、手がつなぎたかった。

 日出人の小さな手を見る。

 ……手を、つなぎたいと。

 

「さっさと行こう、日が暮れる」

 

 じっと日出人の手を眺め続けながら、だけど八尋はほんの少しも、自分の手を動かすことができなかった。