「ったく、やってらんねー」

 陸は新しいタバコに火をつける。いつもは大抵一本のタバコを吸えば気持ちが落ち着くのに、今日はもう三本目だった。

「安見さん、大丈夫ですか……」

 同じく喫煙室でタバコを吸っていた後輩の中田が、控えめに声をかけてくる。

「この路線で行くってあれほど念を押したのにこれだよ。課長級は全員ボケてんのか

 社内のミーティングでまた案をボツにされた。クライアントに却下されるならまだ許せなくはないが、何も手を動かしていない上司に文句を言われるのは腹が立つ。しかも、一週間前とまったく違うことを言い出すのだからたまらない。

「まぁ、これで方向性は固まったじゃないですか」

 不況とはいえ、中堅デザイン事務所の仕事は山積みだった。クライアントとの調整、アイデア出し、スケジューリング、やることは尽きず職場にいる間は忙殺されている。平日は終電で帰れればいい方、という生活が続いていた。

「そうだ、安見さん、今彼女いないんですよね」

 中田は片手にタバコ、片手に携帯電話を手にしながら言う。

「なんで

「飲み会しようと思ってるんですけど、来ませんか

「合コン

「まぁ、そうすね。大学時代のダチなんすけど、男連れて来いって」

「あー、パス」

「誰か今、いるんすか

 陸は答えずにタバコを吸い続けた。喫煙室の汚れた窓から見える空は暗い。

「……まぁな」

 陸はまだ半ばまでしか吸っていないタバコを灰皿に押し付けた。火の消えたそれを、ぐりぐりと何度もねじる。

「安見さんの彼女なら美人なんでしょうね」

 中田は携帯の画面を見ながら笑う。確か彼は先月だかに彼女と別れたばかりだったはずだ。

「まぁな」

 陸は乾いた笑い声を立てて、タバコを手放した。



 湾岸のマンションのふもとは、いつも強い海風が吹いている。

 付近には、背の高い建物が立ち並んでいた。舗装された道は広く、少し遠くには大きな工場が見える。都心から来るとどこか別世界のようだ。

 陸は名前を告げてオートロックの入り口を抜け、エレベーターに乗る。真新しいマンションは、エレベーターも清潔だ。これまで陸は、同じマンションの住人に行き会ったことがない。

 七階のその部屋は、施錠されていなかった。ドアを開けると、玄関にはサイズの大きな革靴が一足、きちんと揃えて置かれていた。

 陸は何も声をかけずに、薄暗い手前の部屋に入る。クローゼットとダンボールが置かれているだけの、何もない部屋だ。陸はシャツとジーンズを脱いでいく。

 クローゼットには質のよい服がずらりと並んでいる。陸はそこから一枚のシャツを取り出した。手触りがいい。細身の陸なら腕を通すことができるが、ボタンの作りはいつも着ているものとは逆だった。陸はそれからスカートを手に取り、丁寧に身に着けていく。

 最後に、地毛をおさえるネットをかぶった後、黒く長い髪のウィッグを手に取る。

 この部屋には鏡がない。だから、陸は自分の姿を見ることができない。見たいとも思わなかった。

 骨ばった足も、尖った喉仏も隠していない。化粧もしていないから、女のようなシルエットでも、ちゃんと見たらすぐに男だとわかる滑稽な姿だろう。

 風が強いらしく、リビングへの扉はなかなか開かなかった。力を込めて開けると、いきなり突風に襲われる。白いカーテンがはためいていた。

「茉莉」

 ソファに座っていた男が、すがるように強い力で陸を抱きしめる。ドアが背後でバタンと閉まった。

 陸はこの部屋で女として飼い殺されている。






 一年前、やっと訪れた土曜日を寝て過ごしていた陸を起こしたのは、母からの電話だった。

「ちょっと暇だったら、加川さんの様子見てきてくれない

「なんで俺が」

「加川さん、やっぱりなかなか立ち直れないみたいなのよね。仕事も休職したんですって

「だから、なんでそれで俺が行くんだよ」

「あんたのお義兄さんになるはずだった人でしょ」

「……結果的に他人だろ」

「なんでそう陸は冷たいこと言うの……。ほら、たくさんゼリーもらったの送ったでしょ、少し加川さんにも持ってってよ」

 もし相手が友人や同僚であったら、誰に言われるまでもなく様子を見に行っただろう。陸は加川が苦手だった。

 茉莉の葬式の時、彼は延々と泣いていた。なりふり構わず、世界が終わったみたいに泣き続けていた。加川のあまりの嘆きぶりを見ていたら、陸の涙は引っ込んでしまった。

 いい大人がみっともないと親戚が陰口を叩いていた。だけど、そんな声は加川の耳には入っていなかっただろう。誰の言葉もきっと届いていなかった。

 茉莉との出会いを、彼は運命だと言ってはばからなかった。茉莉が初めての恋人だったという。そう言われても意外ではないような、冴えない男だった。服のセンスは最悪、会話のテンポも遅くて、人の良いところだけが取り柄。

 陸は加川が苦手だった。



「いらっしゃい、陸くん」

 南向きの部屋の窓は開け放たれていて、白いカーテンが大きく風に舞っていた。二人の新居になるはずだった部屋だ。

「すみません、急に」

「いいんだ、特にすることもないから」

 家具はきっと茉莉が選んだのだろう。モダンでシンプルなものでまとめられていた。

「座ってて」

 加川は体格のいい男だが、前に見た時より痩せたように見えた。善良そうな顔が、痩せて少し鋭くなっている。

「これ、母から、ゼリーです。よかったら」

「ありがとう。陸くんもひとつ食べていく

「俺の分も家にあるんで」

「でも、ありがたいけど俺、甘いもの得意じゃないから、よかったらひとつ食べていってくれないかな」

 そこまで言われて、陸は断れなかった。

 加川はキッチンに消えると、上品な茶碗に茶を入れて戻ってきた。二人分のゼリーも、それぞれ薄い水色の器に入っている。そういえば、彼は料理が上手だと茉莉が言っていた。

「……どうも」

 加川は陸の斜め前のスツールに座った。

 こぎれいな部屋なのに、落ち着かなかった。三十を過ぎた男の一人暮らしにしては、物がなさすぎて、きれいすぎる。

 静かだった。テレビでも付けてくれればいいのにと陸は思ったが、言えなかった。カーテンが風にはためく音だけがしている。

「きれいな家ですね」

 水色のゼリーの中には、赤い金魚が泳いでいた。

「ありがとう。俺一人だと、広すぎるくらいだよ」

 加川はそう言って優しげに笑った。陸はそっと視線をゼリーに戻す。ゼリーは思ったより甘くなく、ほんのり酸味があった。

「……いい天気ですね」

 白いカーテンの向こうに、青空が見えていた。ベランダに出たら、きっと海も見えるのだろう。茉莉がここに住んでいるところを想像しようとしたけれど、うまくいかなかった。

 ゼリーの中には、赤い金魚が泳いでいる。スプーンですくったそれを口にするのに、陸はわずかにためらった。噛むのが怖くて、そのま飲み込んでしまった。

「そうだね」

 加川の前のゼリーは、ほんのひとかけしか手をつけられていなかった。

「……ねぇ、陸くん、茉莉の残した服、見る

「服

 茉莉はこの家で暮らしていたことはない。入院直前まで、神奈川の実家に住んでいた。

 泊まっていった時に置いていったものだろうか。気は進まなかったが、弱々しげな加川の様子に、陸は断れなかった。



「ここは、茉莉の部屋になるはずだったんだ。日陰だからやめたらって言ったんだけど、寒いくらいの方がいいって」

 加川は微笑む。確かに北向きの部屋は、リビングと違ってひんやりしていた。

 体調が良くなったら結婚し、茉莉はこの家に住む予定だった。残りの家具は実家から持ってくるつもりだったのか、部屋にあるのはクローゼットだけだ。

「ほら」

 加川がクローゼットの扉を開ける。落ち着いた色味の、質のよさそうな服が並んでいた。樟脳のような匂いがかすかにする。

 服はワンピースが多かったが、ブラウスもスカートもある。全部で三十枚以上はあった。黒やグレー、白のものが多い。

 茉莉のイメージと合わず、陸は戸惑う。茉莉は普段、もっと華やかな服を好んでいた。

「これって……」

 タグを確認すると、どれも高級ブランドだった。

「茉莉が

 思った以上に怪訝そうな声が出た。

 茉莉は特にブランド物好きではなかった。大人になって好みが変わったにしても、度を越しているような気がした。全部で一体何万円になるのだろう。男に貢がせて喜ぶような妹だったとは思いたくなかった。

「これ、加川さんが買ったんですか

「そう。よく一緒に買い物に行って……」

 加川は微笑んでいる。

 陸はわからなくなる。それほどおかしいことでもないのかもしれない。加川は茉莉が初めての恋人だと言っていた。蓄えもそれなりにはあるのだろう。年若い恋人かわいさゆえの、ちょっと度を越したプレゼント。

 だけど、並んだきれいな服を、陸は気持ちが悪いと思った。

「別に買わされたんじゃないんだよ、茉莉が着るとかわいいから、つい俺が買いたくなって」

 陸の心を読んだように、加川は言う。

 茉莉にとっては加川は何人目の恋人だっただろう。陸の知識が正しければ三人目か、四人目。どの恋人も、加川より若く見た目が良かった。

「そう……ですか。でも、もったいないから、売っても、いいんじゃないですか」

「そうだね。そのうち、とは思ってるんだけどなかなか整理がつかなくて」

 それ以上は何を言うのもはばかられて、陸は曖昧に笑った。

「早く、立ち直って下さいね」

 新しい人を見つけてくれ、とはさすがに言えなかった。

「ありがとう。陸くんは、優しいね」

 微笑み続ける加川から、陸は目を逸らした。その笑顔は、仮面以外の何ものでもない気がした。

 

 ・

 

 陸は昔から恋人に不自由したことはない。

 同性愛者だという自覚を持ってからは、適当にそういう店に行って遊んできた。陸のような、顔の整った若い男を抱きたいという男はいくらでもいた。

 陸は仕事ができて自信家で、強引なくらいの男が好きだった。

 加川は正反対だ。初対面でも、野暮ったい男だと思ったことを覚えている。

「この人、加川さん。先生の前の大学の研究室の卒業生で、今は設計事務所に勤めてるの」

 会わせろと言ったのは陸からだった。茉莉の前の恋人は束縛の強い男で、別れさせるのが大変だった。陸よりも頭がよく、大学院にまで行っているくせに、茉莉は騙されやすいところがある。

「どうも」

 加川は絵に描いたような善人に見えた。近所の床屋にしか行ったことがなさそうな、ぼさついた髪。一枚二千円くらいの安っぽそうな服。こんな冴えない男と付き合うなんて、茉莉は見る目がない。

 陸は恋愛対象が同性だと、家族に言ったことはないが、茉莉はいつからか気づいていた。とはいっても離れて暮らしていたし、男性の好みはかぶらなかったから、特段何か話をした記憶もない。

 加川もまるで好みではなかったし、まさか妹の婚約者を好きになるわけもなかった。

「本当に、そっくりなんですね」

「よく見ると似てないって言われますけど」

「陸ちゃん

 陸はその日、刺々しい態度を隠さなかった。食事中、加川は気を使っている様子で、仕事や茉莉に関する話題を振ってきたが、陸は冷たい返事ばかりを返した。

「ひどいよ、加川さん、落ち込んでたよ」

 茉莉には電話でずいぶん責められた。

「お前、あれのどこがいいんだよ」

「陸ちゃんと違って私は別にメンクイじゃないもの」

「俺は別に顔だけを言ってんじゃねぇよ」

「やっぱりメンクイなのは認めるんだ」

「おい、茉莉。鈍臭そうだし、出世できねぇぞ、あれじゃ。年収だって伸びねぇだろうし、お前やってけんのか どこが好きなんだ

「……だって、私のこと運命だって言ってくれたんだもん。私が最初の恋人なんだって。すごくない

「何だよそれ」

 笑いながら、陸はほっとしていた。貧乏になってもいい、本当の恋なの。そんなことを言われなくて、安心していた。

 

 ・

 

 陸と茉莉とは、同じときに同じ女性から生まれた。だけど、茉莉の心臓にだけ穴が空いていたのがなぜなのか、陸はいまだにわからない。茉莉はもっとわからなかっただろうと思う。

 幸い、子どもの頃にした手術が成功し、ほとんど普通の生活ができていた。だが茉莉は成人した頃から再び体調を崩し始め、精密検査の結果、いつ心臓が止まってもおかしくない状態だと告げられた。

 入院、自宅静養が繰り返された。再手術は体に大きな負担をかけ、成功の見込みも一回目より高くないという。

 そんなとき、茉莉と付き合っていた加川は、すぐに結婚したいと言い出した。

 ウェディングドレス、着せてあげたいんです。

 加川はすぐによくなると言い続け、茉莉の母でさえ止めたのに、マンションを買った。結婚の申込に改めて実家にやってきた。父はいまどき珍しい気概のある男だと、加川を気に入ったようだった。

 だけど結局、茉莉がドレスを着ることはなかった。ダイヤの婚約指輪を病室でプレゼントされた茉莉は、泣いていた。

「ありがとう、私……幸せだね」

 指輪は遺体と一緒に燃やした。跡形も残らなかった。



「安見さん、この間の出張の命令書、出してないですよね」

「あ、すみません」

 庶務の社員に言われ、陸は慌ててスケジュール表を見直す。

「あと、健康診断も受けてないですよね」

「……すみません、受けます」

 別に受けなくても死にはしない、という言葉を飲み込む。

 最近、細々とした記憶の抜けが増えていることには自覚があった。もともとストレスの溜まる仕事だし、双子の妹の死は陸にとっても辛いものだった。だけど、それ以上に加川のことを考えると気が重い。

 そういえば、最近は二丁目にも行っていないなと陸はぼんやり思う。

 陸はあれから、何度か加川のマンションを訪れた。

 加川はいつも微笑んで陸を迎えた。だけど、明らかに痩せていっていた。まともに食事を取っていないのだろう。眠れないとも言っていた。かろうじて平日は出勤するようになったらしいが、それも限界なのではないかと思われた。

 結局、陸は加川の家を訪れるたびに金魚入りのゼリーを食べた。

 陸は栄養ゼリーやドリンクなど、加川でも口をつけられそうなものを選んで持っていくようになった。加川はいつも礼を言って微笑んだ。痩せていくのに、その笑顔だけはまったく同じで、作り笑顔以外のなにものでもないんだなと、陸は冷静に思った。

 加川が陸の前で生々しい感情を見せたのは、一度だけだった。

 来訪中に、加川に仕事の電話が入り、陸は手持ち無沙汰になった。することもないので、陸はもう一度あの茉莉の服を見ようと思いついた。

 相変わらずそこはひんやりとして涼しく、服は異様だった。どれも数万はくだらないだろう。大人っぽい落ち着いたデザインのものが多く、やはり茉莉の好みとは思えなかった。結婚は本当に茉莉の望んでいたことなのだろうか。考え事にふけっていた陸は、加川が部屋に入ってきたことにすぐには気づかなかった。

「茉莉」

 加川はクローゼットの前に立つ陸を見て、聞いたことのない声で言った。振り返った陸は、感情のない加川の顔を見た。

 それから加川はがっくりとその場に崩れ落ちた。

「加川さん」

「茉莉、どうして……」

 魂の抜けたような表情で、加川は陸を見ていた。その目からぼろぼろと涙がこぼれ落ちる。

 加川がどの段階で病気の件を告げられたのか、陸は知らない。幼少期から知っていた家族とは、また違う大きな衝撃があったのだろう。だけど、それがどれだけ彼を苦しめたのかまではわからない。

「好きだったんだ……」

 加川は消え入りそうな声で、すがるようにして呻いた。

「ひと目見た時から好きで……そんな風に心をまるごと奪われたのは初めてだったんだ……好きで、本当に、ただ……」

「加川さん……」

 その痛々しい姿を見ていられず、陸は加川に近づく。震える肩に軽く手を乗せると、加川はびくりと過剰に反応した。陸のほうが驚いて手を離す。

 だが、加川の腕が強く陸を掴んでいた。

「……茉莉」

 加川の目には異様なほどの力があった。陸はぞくりとして、腕を振り払った。

「違います」

「……陸くん、頼みがあるんだ」

「嫌です」

 陸はしゃがんだまま、一歩後ずさる。加川はその場から動かず、目を見開いて陸を見ていた。

「まだ何も言ってないのに」

 陸は小さく首を振る。

「嫌です、そんなのおかしい。加川さんのためにもならない」

「はは……ごめん」

 背後にはクローゼットがあり、目の前には加川がいる。いつの間にか追い詰められているような気がしてぞっとした。

「ごめん、でも一度でいいんだ。茉莉の服を、着てもらえないか」

 加川はそう言って、もう見慣れたあの顔で笑った。



 お前が好きだと言った男が、一ヶ月後には別の相手と寝ている。そんなことを、陸は別に意外だとは思わない。

 気が合えば長く一緒にいるし、合わなければ別れるだけのことだ。運命なんてものはない。性的に好みな相手と、そうじゃない相手がいるだけ。

 出会った中にはまれに、長く関係を築きたいと思える相手もいた。だけどいつもうまくはいかなかった。熱情はすぐに冷めて、どの男も浮気をしたし、陸だってした。

 加川は浮気をしたことなんてないだろう。でも、それは機会がなかっただけのことだ。彼だって裸の女に迫られたらするに決まっている。そう思うのに、茉莉のことが好きだからと言って断る加川しか思い浮かばない。

 

 静岡の霊園に納骨をしたときに、加川はいなかった。

「なんだ、呼ばなかったのか」

 父は残念そうだったが、だってあの人ちょっと面倒じゃない、と母は言った。あんなに陸に様子を見に行けと言ったのに、ずいぶんそっけない態度だった。

 白い骨壷が土の中に納められて、読経が行われ、それで儀式は終わった。死の前後には泣きはらしていた両親も、意外としっかりしていた。

「思えば、最初に心臓のことを知った時から、ずいぶん時間が経ったのねぇ」

「婚約だってしたしなぁ」

「本当に」

 会話する両親を背後に、陸はぼんやりと墓石を見つめ続けていた。

 茉莉とも何度も来た墓地だ。まだ信じられないような思いの一方で、茉莉はもう本当にいないのだと感じた。

 小学生の頃初めて茉莉が手術をしたときから、どこかで覚悟をしていたように思う。十分に心の準備をする余裕もあったし、茉莉自身とも何度も話した。

 しょうがないよ。そういう心臓だったってことだもん。

 茉莉はあっけらかんと言っていた。いっそ投げやりなほどだったけれど、それが実感でもあったのだろう。茉莉はマイペースで抜けたところがあったけれど、一方でとても気丈だった。

 いつか自分も、この墓地に入るのだろう。それだけのことだ。

「ほら、陸。行くわよ」

「うん」

 茉莉は、加川を残していくことはどう考えていたのだろう。彼女自身の口から聞いたことはない。

 まだあのマンションにひとりで彼はいるのだろう。日々たったひとりで衰弱していきながら。やつれた加川の顔と、清潔な白いリビングが目に浮かぶ。



「陸ちゃん」

「おー」

 陸は店の中に友人の由利を見つけ、隣の椅子に座った。彼は本名をよしとしと言うけれど、ここではゆりと名乗っている。

 同性愛者が通うバーだ。茉莉の死のごたごたで、来るのはしばらくぶりだった。

「もう大丈夫なの

 由利は陸が仲良くしている数少ない二丁目仲間だった。

「いちおう、四十九日も終わったしな」

 仕事をして加川の様子を見に行ってということを繰り返しているうちに、あっという間に過ぎてしまった日々だった。

「あんなかわいい女の子があっけなく死んじゃうなんて、ほんと、神様は残酷よね」

「神なんていねぇよ」

「やだー、陸ちゃんリアリスト」

「あれ 久しぶりじゃん」

「おー、元気か」

 顔見知りの若い男に声をかけられ、陸は反射的に笑顔を返す。誰でもいいから寝ようと思って来たはずなのに、全然そんな気分になれなかった。



 意外な知らせではなかった。加川が倒れたという。

「びっくりしたけど、でも栄養失調みたいなのよ。ほんと、驚いちゃった」

 茉莉から伝え聞く加川は、とにかく不器用で一途な男だった。

 茉莉が運命の出会いだと言って憚らなかった。初めて茉莉とデートをするとき、彼はその町を下見したという。旅行に行けば土産を何個も買ってきた。残業の日でも出張の日でも、毎日電話をかけた。

 陸は仕事を早退し、電車で病院に向かった。いつもと同じ電車なのに、いやに速度が遅いように感じられた。

 母からの電話を受けたとき、迷わず病院名を聞いていた。行けと言われたわけでもないけれど、いてもたってもいられなくなった。

 加川は四人部屋の隅に横たわっていた。

「陸くん」

 点滴の管がその腕からは伸びている。その腕は細く骨ばって見えた。顔を見れば、また明らかに痩せていた。陸は彼の顔を直視できなくて、ダサいポロシャツばかりを見つめた。

「あんた、バカじゃないですか」

 加川はぼうっとしているように見えた。死ぬんじゃないか、ふとそう思った。

 ショックは一時的なもので、そのうち立ち直って別の相手を見つけるだろう。どこかで陸はそう思っていた。ずっと続く恋なんてない。

 だけど、加川は本当にこのまま死んでしまうのかもしれない。

「茉莉は、もういないんですよ」

 陸の声は震えた。加川の痩せ方は尋常ではない。

「うん……わかってるんだけどね。でも、辛いんだ」

 加川の目はガラス玉のようだった。スーツを着た陸のことはさすがに見間違えようもないのか、茉莉とは呼ばなかった。

「もっといい人、現れますよ」

 どうしてそんな風にたった一人だけを好きでい続けることができるのか、陸にはわからなかった。加川の様子を見ていると、胸がなぜかずきずきと痛む。

「いらないよ。俺は、彼女だけでいい。……茉莉を好きになったんだ」

「女の人はたくさんいます」

「俺は、心の底から愛せる相手なんて、そう簡単に出会えるものじゃないと思う」

 加川はほんの少し目を細めて陸を見た。自分の中に茉莉の影を探していることに、陸は気づいてしまった。胸の痛みが強くなって、なぜかイライラした。

「でも、茉莉はもういない。そんなこと言ってても結局、あんたも手ごろな女と一緒になって、茉莉のことなんか忘れるんだよ」

 加川は悲しげに顔を歪めた。それでもそれは、小さな子供が暴言を吐くのを咎めるような、優しい顔だった。

「茉莉にそっくりな顔でそれを言われると、辛いなぁ」

 四人部屋のベッドはカーテンで区切られている。隣の方からは、絞ったテレビの音が聞こえてきていた。穏やかな午後だった。

「でも、そんなことやっぱり考えられない。俺はたぶん、彼女以外をもう愛したりはしないよ」

 加川はそう言って、点滴をされている自分の腕を見つめた。

 恋愛相手になりうる人間は、この世にはまだいくらでもいる。真実の愛なんてないし、機会さえあれば誰だって浮気をするはずだ。だけど、加川は違うかもしれない。この先もずっと茉莉だけを好きなままなのかもしれない。

 ださいだけの男。浮気をする機会もないような。胸が苦しい。

「俺、あんたみたいな人、苦手です」

 陸は、かろうじて声を絞り出した。

「……ごめんね。ありがとう、何度も家に来てくれたりして。もういいよ、大丈夫だから」

「そういうところが、嫌いなんですよ」

 拗ねた子どものような声になって、陸は自分でも困惑した。

「そっか」

「大丈夫に見えるとでも思ってんですか。嘘つくならつくで、もっとうまくやってください」

 苛立って声を荒げる陸に、加川はただ微笑んだ。社交辞令そのものでしかない笑顔だった。陸はもう何も言えなかった。加川には陸の言葉は届かない。何を言っても彼は微笑むだけだろう。

 そうして加川はきっと一人で衰弱していく。点滴を繰り返してなんとか生き延びていくにしても、彼自身に生きる気持ちがないならどうしようもない。

 このままだと、加川は本当に死ぬ。

 汗ばむ手のひらを、陸はぎゅっと握りこんだ。



 茉莉はテンポが遅くマイペースで、陸はせっかちで怒りっぽい。

 だけど外見は、親しい人でないと区別がつかないくらい、顔も体格もよく似ていた。最初の頃、保育園でもよく取り違えられそうになったくらいだ。

「茉莉、ぐずぐずすんなよ」

「こら、陸、茉莉をいじめないで」

 外見はそっくり。だけど、中身はまるで違う。家族も誰も、みんなそんな風に思っていた。

 茉莉は小学校の途中から髪を伸ばし始め、それからずっと髪型を変えなかった。長い黒髪のストレート。そしてズボンを決して履かなかった。それは、いつしか二人の間で決めた役割だった。そういう格好をしていれば、誰も見間違えはしなかった。

 利発でせっかちな兄と、穏やかで優しい妹。

 わかりやすい記号を演じるのは、何かと便利だった。



「退院、一人じゃ大変じゃないですか、荷物もあるでしょうし」

「大丈夫だよ」

「手伝わせてください」

 陸は強引に退院の日を聞き出し、仕事を休んだ。加川の家族は東京に住んでいると聞いたが、顔は見せなかった。入院したこと自体を伝えていないのかもしれない。

 医者は、きちんと食べて寝て運動をしなければ、誰だって病気になりますよと諭したが、加川は心ここにあらずだった。

 タクシーで加川の家まで向かった。工場が立ち並ぶ湾岸地帯を走る。通り過ぎる車は、トラックが多かった。川を渡ったとき、その向こうに白く光る海が見えた。

「今度、茉莉のお参り行きませんか」

「……いいよ。お墓なんて」

 加川の髪は櫛を入れているのかさえ怪しく、顔色も悪かった。陸はそれ以上何を話していいかわからず、無言でタクシーは走った。

 いいと言う加川を押し切って、陸はトランクの荷物を持った。このマンションに来るのも、久しぶりだ。

「いいから、陸くん……」

「病人は寝ててください」

 加川を寝室に押し込み、陸は病室から持ってきた服を洗濯機に放り込んだ。

「加川さん、何か食べますか

 寝室の閉まったドアの向こうに、陸は声をかける。

「……いらない」

「食べないとダメだって医者も言ってたじゃないですか。おかゆとかどうですか

「ごめん。……でも、食べたくないんだ」

 加川は閉まったドアの向こうから言った。

 静かな午後だった。相変わらずリビングは日当たりがよく、開けた窓からは風が吹き込んできていた。洗濯物もきっとよく乾くだろう。

 陸は北側の部屋に行き、クローゼットを開けた。持ってきたボストンバッグを開き、ウィッグを取り出す。

 茉莉は髪型を変えなかった。胸にかかるくらいの真っ直ぐな黒髪のストレート。

 とてもよく似た双子を見分ける、簡単な記号。

 

 ・

 

「加川さん、最近どう

「まぁ、落ち着いてるみたいだよ」

「ほんとに、いい人なんだけど、ああなっちゃねぇ……」

 土曜日の昼に、陸を起こしたのは相変わらず母からの電話だった。平日の間に部屋は散らかっているし、カーテンをまだ開けてない部屋は暗い。

「茉莉だってそんなことは望まないでしょうに」

 母の言葉にどきりとする。

「早くいい人が見つかるといいんだけど」

 あれほど様子を見に行けとせっついたのに、最近母は加川を疎んじているようでもある。忙しいから、と言って陸は通話を終わらせた。

 茉莉が何を望むかなんて知らない。辛いことがあっても、その人との思い出を大事に、前向きに生きていく--それがたぶん正しい対処法なんだろう。頭ではそうわかる。

 加川のしていることは正しくない。もちろん、陸がしていることも。



 加川は一度だけのお願いだと言った。だけど、一度で終わるわけがなかった。

 南向きの寝室は、リビングと同じく光が降り注いでいた。茉莉の服を着た陸を見た加川は、息を飲んだ。

「茉、莉……」

 加川は這うようにしてベッドから起きだしたが、陸の目の前で足をもつれさせた。その頬を涙がぼろぼろと伝っていく。

「茉莉……

 加川は立てないまま、陸の足を抱きしめた。エルメスのワンピースが汚れてしまうと思ったけれど、別にどうでもいいことだ。陸は加川の髪を撫でた。加川は枯れてしまうのではないかというほど泣き続けた。

 毎週末、陸は湾岸のマンションを訪れる。ごみごみした都心から来ると、背の高い真新しいマンションの立ち並ぶこの辺りは、別世界のように思える。

 顔がそっくりでも、さすがに声は男のものだ。だから、陸はいつも茉莉の服装をしているときには、喋らなかった。

 茉莉の格好のまま、自分と加川の分のうどんを茹でた。加川は出されたうどんを、ゆっくり一本ずつ食べた。その後トイレに行き、吐いた。

「ごめん、まだちょっと胃がびっくりしてるみたいだ」

 青い顔をしていたが、喋り方はずいぶんしっかりしていた。陸は心配しているのだと示すために、眉根を寄せた。

 加川は陸の手を取り、言った。

「おかゆを買ってこよう。これからは、ちゃんと食べるよ」

 加川は笑っていた。これまで食事になど見向きもしなかったのに。

 それは、これまで陸が見ていた笑顔とは少し違った。憔悴した顔は変わらない。だけど、目が優しい。慈愛にも似たものが満ちて、あふれている。

 陸は、自分の胸がぐしゃりと潰れるのを感じた。妹の婚約者を好きになるはずなどない。

 ……なかったのだ。





 

 加川の体調は少しずつゆっくりと持ち直していた。茉莉の格好をした陸の前では、加川はどんなに無理をしてでも食事をした。最初のうちは吐いたり下したりしていたようだが、徐々に普通に食事を取れるようになってきていた。冷蔵庫には少しずつ食品が増えてきた。

「茉莉、何か言いたいことあったら、これ使って」

 その日、加川が持ち出してきたのは、iPadだった。

 加川は気が狂ったわけではない。陸が茉莉ではないという区別はきちんとついていた。

 加川の部屋にやってくるとき、陸は男の格好をしている。できるだけすぐに着替えるけれど、加川と顔を合わせてしまうこともある。そのときはちゃんと、加川は陸として応対する。

 陸の女装は自分でもわかるくらい中途半端だ。だいたい、喋れない時点で茉莉とは間違えようもない。陸は決して喋らない。加川もそのことに、疑問は挟まなかった。喋れば男の声だということは、理解しているに違いなかった。

 それでも、加川は茉莉の服を着た陸のことを茉莉と呼んですがりつく。度を越したままごとのようなものだ、と陸は思おうとした。

 だが、普段の生活の中でも、鏡を見るのが憂鬱になった。茉莉によく似た女顔の男は、だけど決して茉莉ではない。薄い方だが髭だって生える。加川がまともな生活に戻るまでだと、陸は自分に言い聞かせた。

 陸は同性愛者だが、女の格好をする趣味はない。あくまで男性としての同性が好きなのであって、女装している男にも惹かれない。女になりたいなんて思ったこともない。こんなことでもなかったら、一生女装することはなかったはずだった。



「ほら、こうやって指で書くんだ」

 加川はipadのアプリを立ち上げ、画面を指でなぞる。まり、と彼はひらがなで書いた。下手くそな崩れた字に、胸が苦しくてたまらなくなった。

「何か書いてみる

 加川が消去のボタンを押してぱっと画面の文字を消し、ipadを渡す。

 こんなことは正しくない。加川は茉莉を忘れるべきだ。この部屋でいくらままごとを繰り返しても、何の解決にもならない。茉莉は死んでしまった。

 陸はipadの方に手を伸ばす。茉莉よりもずいぶん骨ばった手であることが、加川にはちゃんと見えているのだろうか。男の手だ。茉莉はもういない。

 陸は真っ白な画面に、ひらがなで書いた。

 すき

 

 ・

 

「見積もりもう送ったか

「あ、すみません、確認します」

 陸は職場でたくさんの言葉を喋る。部下の仕事の進捗を確認する。クライアントと打ち合わせをする。企画会議に出席する。たくさんの電話を受け、また陸からもかける。

「先週ご依頼させていただいた件ですが……」

 陸はこれまで以上に、仕事に根を詰めた。家に帰らず職場で朝を迎えることも多くなった。とにかく毎日働き続け、喋り続けた。そうすると疲れ果てて、何も考えずに家についたら風呂に入って寝るだけだ。

 できるだけプライベートな時間なんてない方が良かった。加川のことを考えると、息が苦しくなる。

 未来のない関係だ。自分を歪めて深入りしても、ろくなことがない。わかっている。

「安見さんは、結婚とかしないんですか

「結婚

 自然、タバコの本数が増える。少し軽いものに銘柄を変えてみたりしたが、結局本数が多くなり過ぎていてあまり意味はなかった。

「なんか俺の同級生、今結婚の大波が来てるみたいなんすよね」

 すっかり喫煙所仲間となった中田が、憂鬱そうに話す。

「結婚か……」

 たぶん、加川はいつか可愛らしい大人しい女の子と結婚をするのだろう。彼が嫌というほど茉莉に執着していて、彼女だけを愛していることがわかる一方で、そんな思いが消えない。いつかあっさりと新しい恋に目覚めて、平然と報告してきそうな気がする。タバコの煙で満ちた胸が、ずきずきと痛む。

「彼女さんとは、順調なんすか

 毎週末の午後、判で押したように陸はあの部屋に行く。

「まぁ、普通に会ってるけど。そんなに続くような関係じゃないから」

 行く前は気が重い。食事もろくに胸を通らないし、電車に乗っている間は本も読めず、ひたすら鬱々としている。

 だけど、加川の浮かべる笑顔ひとつで、すべての帳尻が合ってしまう。何を犠牲にしてもいいという気持ちになってしまう。こんなことは初めてだった。

「え なんでですか」

 加川のことを思うと、ほとんど物理的なまでの鈍く強い痛みを感じる。

「そのうち、期待通りのもんじゃなかったって向こうが気づくだろからだよ」

「何言ってんですか、安見さんのどこに幻滅するって言うんです」

 陸は答えずに、タバコを吸い続ける。

「……そういえば、安見さん、痩せましたね」

 夜が遅くなると、自然と食事はおろそかになる。もともと残業が多い仕事だから、そこにはちゃんと気を使っているつもりだったが、食欲のない日が増えていた。体重計になんて普段乗らないからわからない。

「別に、死にやしない」

 痩せると茉莉の服が着やすいな、とふと思って愕然とした。

 これまで付き合った相手のことも、それなりに好きなつもりでいた。だけど、相手のために何か犠牲にしてもいいとか、自分の何かを変えたいとか、そんな風に思ったことはなかった。お互いに一緒にいることにメリットがあるからいるだけで、なくなれば離れる。そんな関係だった。

 身体を歪めてもいいと思っている自分自身に、陸は空恐ろしさを感じる。

「死にはしないかもしれないですけど……ほら、あれですよ。『ご自愛ください』」

「なんだそれ」

 しゃちほこばった後輩の言葉に、陸は笑った。

 加川が求めているのは、茉莉によく似た顔だけだ。陸自身の顔や考え方や体格はいらない。陸自身の思いなんて、何の役にも立たない。安見陸なんて男自体は、加川にとってはほんの少しも必要じゃない。

 喫煙室のガラスにうつる、男の顔を見つめる。誰も、自分が週末ごとに女装しているなんて思わないだろう。自分自身の声を封じ込めて、狭い部屋の中でままごとに興じているなんて。

 

 ・

 

「桃を買ってきたんだ」

 加川から何かを食べようと提案してくるのは初めてのことだった。

 加川は陸のいない日にも、一応はちゃんと食事をしているようだった。すぐに肉が戻るということもなかったけれど、顔色は悪くない。職場にも復帰したと聞いた。

「食べよう」

 加川はキッチンに立ち、嬉しそうに桃を剥き始めた。桃が茉莉の好物だったかは、思い出せなかった。

 陸はカウンター式になったリビングのほうからキッチンを眺める。加川の桃を剥く手つきは滑らかだった。

 すぐに加川は白い皿に、小さく切った桃を並べて持ってきた。汁がしたたっている。

 服が汚れそうだ、ということを伝えたくて陸はワンピースを指さした。今日着ているのは、ジル・サンダーのワンピースだ。

 加川は意味が伝わっているのかいないのか、フォークに桃を挿し、陸の口元まで運んでいく。汁が垂れそうになって、陸は慌てて口を開ける。

「桃は好き

 こうやって嬉しそうに差し出してくるということは、きっとそうなのだろうと陸は頷く。

「桃のタルト、恵比寿で食べたやつ、美味しかったよね」

 そんなものは知らない。

 だけど、にこにこ笑う加川を前に言えなくて、ただこくりと頷く。よく熟れた桃はべっとりと甘かった。

「また行こうか。美術館にも最近行ってないしね」

 さすがに、この中途半端な女装で外を歩こうとは思えない。加川だって、そのことはわかっているはずだった。

 加川はこれまで行った場所のことや、どこに行きたい、あれを食べたい、そんな話を繰り返した。陸が茉莉ではないという区別はついているはずだ。その証拠に、何月何日にここに出かけよう、という具体的な提案はしてこない。

 実現しようもない夢物語だ。

 陸はただ頷き続ける。あれは素敵だったね。また行こうね。茉莉と加川がどんな風に時間を過ごしていたのか、知りたくもないのに延々と加川は語る。最初のデート、二回目のデート、三回目のデート、少し遠出をした場所、初めての泊まりの旅行……。

 加川の記憶力は怖いくらいだった。茉莉と過ごした間のことは、何もかも覚えているんじゃないかと思えるほど、詳細に思い出を語った。

「ほら、茉莉の好きなあの作家さんの個展、確か来月からだよ」

 茉莉と加川の思い出を、陸はひとつずつ知っていく。二人の付き合っていた時間は、二年と少しだ。長すぎもしないが、短すぎるというものでもない。

 陸はもう、彼らが一番多く行ったホテルの場所も、二度行った映画の名前も、何でも知っている。

 だけど本当は、陸にはなにひとつ加川と共有するものなんてない。



 その日、陸が夕方に帰ろうとすると、加川は初めて引き止めた。

「ご飯、作るから一緒に食べよう」

 加川は料理が上手だという。陸は彼の手料理をまだ食べたことがなかった。昼間の桃といい、食欲が出てきたのかもしれない。あまり長居はしたくなかったが、断るのも悪い気がした。

 加川が作ったのはサラダと親子丼といいう簡単なメニューだったけれど、卵はとろとろでとてもおいしかった。

「おいしい

 陸は頷く。

 陸はいつも土曜か日曜の昼間に来て、夕食の時間の前には帰るようにしていた。加川とは本当の恋人同士なわけではない。夜まで長居して、万が一妙な雰囲気になりでもしたらと思った。陸ではさすがにそこまで茉莉の代わりはできない。

 食後に加川はコーヒーを入れ、音楽をかけた。陸はすぐにでも立ち去りたかったけれど、いつにも増して加川は優しく、名残惜しかった。

「これは好き

 熱いコーヒーを飲みながら、加川のかけたピアノ音楽を聞く。音楽は、前にも何度か聞かされていた。

 加川はどうやらクラシックが好きで、特にドビュッシーのピアノ音楽を好んでいるようだった。

 陸が普段聞くのは、ロックやポップスばかりだ。クラシックなんて特に興味もなかったけれど、切なくて感傷的で、きれいな音楽だった。

「きれいだね」

 陸はただ頷いた。ipadを使えば簡単な文字は書けるが、何を書いたらいいのかわからなかった。間違えたことを言ってしまったらと思うと怖い。

 本当は、加川に聞きたいことはたくさんあった。

 安見陸のことはどう思うか。もう茉莉がいなくてもちゃんと生きていけるか。まだやはり茉莉が好きなのか……答えは聞かなくてもわかる。

 甘く繊細な音楽が続いていた。加川は、年の離れた姉の影響でクラシックを聞くようになったのだと話した。コーヒーを飲み終えた陸がカップを机に置き、そろそろ帰ろうと思ったときだった。

「茉莉」

 加川は椅子に座っていた陸の身体を、後ろから抱きしめた。加川がそんなことをしてくるとは思わず、陸は息を飲んだ。

 女装をしていても、身体は男のものだ。胸には何も詰めていない。

「茉莉……っ」

 加川の手が服の上から身体をなぞる。

 陸は手を叩いたが、加川はその動きを止めなかった。ブラジャーなんてしていない平らな胸だ。茉莉の身体とは似ても似つかない。

 だけど加川は荒い息をして、興奮しているようだった。服の上から、陸の腰や胸を熱心にまさぐる。

 強引に身体を引き離そうとすると、反対に強く抱きしめられ、顔を無理やり加川の方に向けさせられる。まずい、と思ったときにはもうキスをされていた。

「……っ」

 声をこらえながら必死で腕で強く加川を押し戻そうとする。体格は加川のほうがいい。単純に力で押されたら勝てないかもしれない。

 陸は加川の髪を思い切り引っ張った。加川の力が一瞬抜けた隙に、思い切り彼を突き飛ばす。机の上に置いたカップが、その拍子に落ちてがしゃんと音を立てて割れた。

「やめろ……

 堪え切れずに陸は叫んでいた。息は切れ、ウィッグも服もぐちゃぐちゃだった。

「……ごめん」

 加川はうなだれていた。文句を言ってやろうと思っているのに、声にならなかった。この期に及んで、まだ男の声を出したくない自分がいる。加川が勃っているのがわかって、血の気が引いた。



 陸は足早に湾岸のマンションを立ち去った。

 怖くなってきた。平らな男の身体や、男の声で、加川は我に返るだろうと思っていた。だけど、陸が強く抵抗しなかったら、加川は陸をそのまま裸にして抱いたかもしれない。

 加川には、陸が茉莉でないという区別はついているのだと思っていた。加川は茉莉が最初の恋人だと言っていた。性癖としても、疑うところのないヘテロだろう。ならどうして、男を抱こうとすることができるのか。

 何かとんでもない方向に、自分たちが向かっていってしまっているような気がした。

 加川は自分を抱けるのかもしれない。事実としては歓迎すべきことなのに、絶望的な気分だった。もし加川が陸を抱きたいと思ったとしても、それはあくまで茉莉としてだ。求められているのは、自分じゃない。

 だけど男の身体でしかない陸を、加川は本当に抱けるのだろうか。

 考えていると、混乱してくる。どうしても今度ばかりは、加川の家に行く気にはなれなかった。

 

「安見、ちょっといいか」

 上司からの急な呼び出しに身構えたが、それは次の案件のディレクターにならないかという打診だった。自分で製作を行う時間は減るが、権限や自由度は増えるし、給料も上がるという。

 昔、就職したばかりの頃は独立して自分の事務所を持とうと思っていた。雑務の多い現実に、そんなことは面倒すぎるとしか思えなくなった。これからも仕事は続けるだろうし、いつまでも一平社員でいるよりはやりがいがあるかもしれない。

「やらせて下さい」

 すぐに来年度以降の組織体勢の相談なども始まり、いっそう忙しい日々が始まった。

 週末には本当に驚くほど何もしないで過ごした。ほとんど寝て、少し家事をするだけ。

 ベッドでうとうとしていた陸は、携帯電話の震える音に慌てて身体を起こした。焦って電話を手にしたのに、表示された名前を見てもう一度寝てしまおうかと思った。

「もしもし」

 相手は昔、何度か寝た男だった。

「おー、最近見ねぇけど元気か

「まぁね」

「暇だったら久しぶりに遊ぼうぜ」

 ふと別にこれからこの男と会って、寝てもいいんだなと思う。確か起業をしている男で、セックスも話も悪くない貴重な相手だった。少なくとも暇は潰れるし、性欲も満たされる。

「悪い、今、東京にいないから」

 それでも、適当な事を言って陸は電話を切った。好みの男だったはずなのに、まるで心が踊らない。自分がすっかり別の何かに変わってしまったみたいだった。誰からの電話だと期待したのか、わからないわけもなかった。

 甘すぎた桃の汁や、清潔な広いリビング。加川が好きだと語ったテレビ番組や、低く静かに流れていたピアノ音楽や、茉莉の服の手触り。あのきれいなマンションの部屋に帰りたい。

 一生あそこから出られなくなってもいい。

 いや、そんなことは許せない。陸には陸自身の人生がある。あんな、身勝手なことをする男のことなんて……。

 身体を弄られた時のことを思い出すと、そんなつもりはなかったのに、興奮した。

 悔しい気持ちで、陸はそっと一人で処理をした。陸として抱かれるところを想像したけれど、妄想の中でさえ、加川は陸自身を見ているようには、どうしても思えなかった。



 最近顔を見せないけれど、忙しい

 二週間、何も連絡しないでいたら、加川からメールが来た。文章を見た瞬間、頭にきた。陸が行かない理由を、忙しいからだと本当に思っているのだろうか。この間のことはなかったことにしようかと思いかけていたのに、一気に怒りで頭がいっぱいになった。

 この間みたいなことはやめてほしい

 陸は短くメールを返した。

 加川からの返信は、一時間ほどで返ってきた。

 ごめん、反省している。二度としないから、また来てくれないか。

 ずきりと胸の奥が痛んだ。加川は一体、自分が男に欲情したことについてはどう思っているのだろう。単純な文面からは何も読み取れない。

 加川は誰に対して謝っているのか、本当にわかっているのだろうか

 それでも、陸はまた自分がじきに彼の家を訪れるだろうことがわかっていた。自分のことを好きでもない男にあんなことをされて、のこのこと顔を出すなんて馬鹿だ。加川が自分を見ていないことは、痛いほどわかっているのに。

 だけど加川もちゃんとわかっているのだろうか。陸が、好きな女の姿をした別人であることを。



 週末ごとのままごとが、また繰り返された。加川は言葉どおり、陸に対して距離を保って過ごした。同じ部屋にいても、指一本触れることはない。たまに夕食を食べていかないかと誘われたが、陸は断った。

 加川は実直な男だ。触れないと彼が言えば、そうするのだろう。そうして、何もかも元に戻ったかのように思えてきた日の事だった。

「茉莉、コンサートに行かないか

 何を言い出すのかと思った。陸は小さく首を振る。

「だめかな」

 だめに決まっている。茉莉の服には腕を通せても、靴はさすがに履けない。

「いつも聴いてるCDのピアニストが来日してるっていうから、チケットを取ったんだ」

 どうして了承を取らずに先にチケットを取ったりするのだろう。陸は眉根を寄せる。

 そもそも、こんな適当な女装で外を歩くことなんてできるわけがない。茉莉がいたころだったら化粧をしてもらえたが、もうやってくれる人はいない。それに、外に出たとしても、陸は一言も話すことができない。この部屋を出たら、稚拙な幻想は通用しない。

 そんな誘いは、真剣に考えるにも値しないことだと思った。

「来週、誕生日だろう お祝いがしたいんだ。コンサートを聞いて、その後、食事をしよう」

 少しおどおどした様子の加川に言われて、虚をつかれた。

 もちろん、陸と茉莉の誕生日は同じだ。そんな日が巡ってくること自体、忘れていた。陸は加川がいそいそと取り出したチケットを眺める。それなりの値段だった。

 これまで誕生日は、たまたまそのときに恋人がいれば祝ってもらった。まれに職場の同僚や、友人が祝ってくれることもあった。だけどどちらかといえば、一人で過ごすことのほうが多かった。もう子どもでもないし、それを不満に思ったこともない。

 だけど、加川に祝ってほしいという強い欲望が沸き上がってきて、陸は動揺した。

 加川が祝おうというのは、あくまで茉莉の誕生日のはずだ。だけど、それはどうしたって、陸の誕生日と同じ日なのだった。



 結局、陸はドラッグストアで化粧道具を買い込んだ。茉莉が使っていたのと似たようなものを選べばいいだろうと思ったのだが、種類がありすぎて選ぶのが大変だった。

 ネットを見ながら家で化粧をしてみた。見よう見まねでビューラーやマスカラを使うが、顔についてしまうばかりでうまくできない。

 出来上がった顔には、やはり違和感があった。

「気持ち悪ぃ……」

 中途半端だ。受けを狙ったようなものでないからこそ、下手くそでみすぼらしかった。

 自分の生まれ持ったものを呪いたくなんてない。だけど、どうしても考えてしまう。骨ばった身体や喉仏がもしなかったら。もし、女だったら。

「……くそっ」

 陸は手持ち鏡を放り投げる。苦しむことは目に見えていた。誰か他人に相談されたら、ありえないと冷静に止める。

 だけど、もう陸にはこうする以外になかった。

 

 靴はヒールのないものを選んで購入した。体型のできるだけ出ないゆったりめのワンピース。首元にはスカーフを巻いた。一歩外に出た時から、心臓がばくばくいっていた。陸は顔を俯け気味にして歩いた。

「かわいい」

 陸は部屋の中でと同じく、一言も喋らなかった。その事情はわかっているはずなのに、加川はあれこれと話しかけてきた。

「今日の格好、すごく美人だ」

 外からはどう見えるのだろうか。あれこれ世話を焼くうるさい男と、冷たい恋人の女だろうか。

 コンサートの客は年齢層が高く、落ち着いた雰囲気だった。女装のためだけではなく、緊張で身体が強張って辛くて仕方がなかった。音楽は確かに美しかったけれど、ロックのライブのほうがずっと楽しい。向いていないと思わざるをえなかった。

 加川と茉莉とは、休日はカフェで食事をしたり、美術館に出かけたりしていた。陸とはまるで、好みが合わない。

 その後に連れて行かれたフレンチの店は、小さな店なのに予想していた以上に照明が白々と明るくて、陸は何度もトイレに立った。不格好な女装がばればれなのではないかと、気が気ではなかった。

 店員は控えめな微笑を浮かべて、丁寧に料理を説明していく。どれもとても凝ったもので、美味しかった。加川はいちいち大げさなどほど料理に感動して見せた。

「誕生日、おめでとう」

 加川は今日一日、ずっと嬉しそうだった。もう二度と女の格好で外出なんてしたくないと思ったけれど、朗らかなその笑顔を見ているとどうでもよくなってくる。

 茉莉の格好をしているとき、加川は本当に幸せそうな顔で笑う。

 自分は正真正銘のバカなんだと、ふと腑に落ちてしまった。この笑顔さえ見れるなら、きっとこの先も、どんな恥ずかしいことにでも耐えられてしまうだろう。それくらい、加川の一番そばにい続けたい。好きだと言われたい。どんなに正しくない関係でも。

「これ、大したものじゃないんだけど」

 加川が差し出したのは、小さな箱だった。女物の小さなネックレスか何かではないかという気がした。そうだとしたら、ちゃんと鎖が首に通るだろうか。陸は不安に思いながら、おそるおそる開ける。

 入っていたのは、小さな銀のピアスだった。陸は思わず顔を上げて加川を見る。ブランドからして女物だろうが、男向けに見えなくもないようなシンプルなものだった。

「……」

 思わずどうしてと声に出しそうになった。陸と違って茉莉は、ピアス穴を開けていなかった。記憶力のいい加川が、そのことを忘れているとは思えない。

 店員がデザートのプレートを持ってやって来る。大きな白い皿にティラミスがきれいに盛りつけらている。陸のプレートには、チョコレートでhappy birthdayと書かれていた。

 頭が混乱してうまく考えられない。嬉しくて、だけどわけがわからなくて、涙がこぼれてきそうになる。加川はあくまで茉莉の姿を見ているはずだ。どこまでがままごとで、どこまでなら許されるのか。例えば今陸が「ありがとう」と男の声で答えたら、魔法は解けてしまうのか。

 夢を見たくなってしまう。本当に自分の誕生日を祝ってもらっているんじゃないかと、錯覚したくなってしまう。

「誕生日、本当におめでとう」

 加川は笑っている。夢の中みたいだった。

 控えめな甘さのケーキも、添えられたアイスクリームもたぶん美味しいのだろうけれど、味はもうよくわからなかった。



 店から駅へ向かって夜道を歩いているとき、加川はそっと手を握ってきた。これまでの陸だったら、きっと振り払っただろう。

 繁華街で人通りは多いが、誰も通りすぎる人の顔なんて見てはいない。今は女の格好だ。手をつないでいても、おかしいところはどこにもない。ふわふわした気持ちで、陸は加川と手をつないだまま歩き続けた。心臓がばくばくいっていた。

 外から見たら、どこからどう見ても恋人同士だろう。茉莉と加川がそうであったように。店先のガラスにうつる姿を陸はちらりと見る。見た目通りの二人だったらどんなによかっただろう。近づいてよく見れば、たぶん陸が女の偽物であることは明白だ。

 だけど嬉しくてたまらない。カバンに入れたピアスの存在を思うだけで胸がじんと熱くなる。

 渋谷駅で乗り換えをしていたとき、声が聞こえた。

「陸ちゃん

 こちらを見ていたのは、由利だった。飲み会の帰りなのか、派手なブラウスを着ている。さあっと全身から血の気が引いた。

「あれ え

 動揺した様子の由利を目の前に、陸は立ち止まらずに足を早めた。加川は何も言わなかった。はっきりと由利は陸と呼んだから、人違いではないとはわかったはずだった。

 ここは渋谷だ。会社の同僚に会う可能性だってある。どんどん不安が湧きあがってきて、頭がいっぱいになった。陸はいつの間にか手を離していた。

「体調悪い

 電車に乗り、ポールに半ば身体をもたれかけながら陸は首を振る。今すぐこんな女装は脱ぎ捨てて帰りたい。

「辛かったら、降りて休憩しよう」

 陸はもう一度首を振る。加川が肩に手を乗せてくる。陸はそれを思い切り振り払った。

 加川はもう、それ以上何も言わなかった。



「……もしもし」

 陸はベランダでタバコを吸っていた。吸っても吸っても、胸の中がすっきりしない。三本目を吸い終わる頃、ため息をついて発信ボタンを押した。

 由利はすぐに出た。ベランダで陸は淡々と、はじめから話した。素直に言葉が出てきたのは、陸としても、誰かに話したかったのかもしれない。

 茉莉の婚約者だった加川と、週末ごとに会っていること。茉莉の残した服を着ていること。

「あんたバカじゃないの」

 由利はほんの少しも笑わずに、真剣な声でそう言った。

「うっせぇなわかってるよ」

 三階のベランダから見える風景は、ごみごみとした街並だ。加川のマンションからのさっぱりした風景とは違う。陸は四本目のタバコに火をつけ、深く吸い込んだ。

「似合ってない。似合ってなかったよ、あのワンピ」

 由利は泣きそうな声で言った。

「……知ってる」

 高級ブランドの服はまるで着こなせていない。体型だって似てはいても、同じではない。最初から無理な話なのだ。茉莉と陸は、別人で、性別も違うのだから。

 茉莉と話したい。彼女もやっぱり、ばかみたいだと笑うだろうか。叱るだろうか。意外とお兄ちゃん、抜けてるよね、と辛辣に言われるかもしれない。

 どうすればいい、茉莉。

 だけどもう彼女はどこにもいない。由利は客観的に陸を諌めてくれはする。だけど、陸だって彼の言うようなことはもうわかっている。やめるべきだとか、バカだとか、そんなことはもう痛いほどわかっている。

「知ってるんだよ」

 陸は耳の穴に通したピアスに触れる。しばらくピアスを通していなかった耳の穴は、膿んで熱を持っていた。

 

 ・

 

 加川のマンションに行くのは気が重かった。だけど行かない日は、より重苦しい気持ちと後悔に襲われる。どうしたらいいのかわからないまま、行ったり、行かなかったりする週末を繰り返した。

 加川はいつも通りに見えた。体重はいくらか戻ってきたようだったし、陸が来れば喜んで出迎えた。約束をした通り、陸には触ろうとしなかった。

「少し、話をしないか」

 だからその週末、着替える前にリビングに呼ばれたのは意外だった。

 ローテーブルの上には、ウイスキーが置かれていた。彼が飲酒しているところを見るのは初めてだった。

 加川は普段、昼間から家で飲むような酒好きではない。昨日の新聞がスツールの上に乱暴に置かれている。いつも片付いて清潔なリビングなのに、雰囲気が違った。

「飲む

 加川が小さなグラスを差し出す。陸は仕方なくグラスを受け取った。

 陸はソファの隅に、所在なげに座った。酒を舐めるように飲む加川の横顔から、その考えはうかがい知れない。

「話って何ですか」

「陸くんは……普段、デザイン会社で働いてるんだっけ」

「そうですけど」

 加川はソファに座ったまま、陸の方をなかなか見ようとしなかった。じれったい。陸はウイスキーを煽る。喉が焼けるように熱くなった。

「忙しい

「いや……まぁ、そこそこ」

 初対面の営業相手との気まずい会話みたいだ。

「恋人は、いるの

「……いると思います

 どうして加川がそんなことを聞けるのかわからず、陸は皮肉を込めて小さく笑った。加川の表情が強ばる。

「いや、陸くんみたいな人だったら、モテるんだろうなと思って……」

 加川は口ごもりがちに言った。

 普通の男だな、と陸はふと思う。彼と最初に会った頃、どん臭い冴えない男だと思った。これといって特徴的なところがあるわけでもない。町ですれ違っても、きっと一瞬後には覚えていられないだろう。

「でも俺、別に特定の恋人作るつもりとかないんで」

「え どうして」

「どうしてって……」

 陸は一瞬ためらう。だけど、露悪的な気持ちになって口を開いた。

「俺、同性愛者なんですよ。男同士だと、やっぱり目的もはっきりしてて、一晩だけっての多いし。同じ相手とずっと付き合って、ての難しいんですよね」

 加川はわずかに眉根を寄せた。きっと彼からしたら、考えたこともない世界の話なのだろう。

「……そう、なのか」

「幻滅します

「幻滅 いや……」

 自分から話をしようと言ったくせに、加川の口は重かった。陸は手持ち無沙汰で、ウイスキーを更に注ぐ。

 ちびちびと舐めるように飲んでいると、加川が自分をじっと見ていることに気づく。

「……ごめん、今日は、一人にしてくれないか」

 ベランダの向こうに、晴れた空が見えていた。加川が酒を飲んでいるのも、こんなことを言うのも、初めてだった。

「別に、俺は構わないですけど……」

「大丈夫、死のうとしたりはしないよ」

 加川は冗談のつもりらしく、笑って言ったが、陸はまるで笑えなかった。



 陸は自分の部屋に戻り、ぼうっと洗濯物を片付けた。加川は何に悩んでいるのだろう。リビングにも加川にも、どこか荒んだ雰囲気があった。

 翌週、加川の家に行くべきかどうか少し悩んだ。呼ばれるまでは、行くのをやめたほうがいいのかもしれない。

 本当は会いに行きたかった。加川の声が聞きたいし、あの笑顔が見たい。だけど、加川がこの関係をやめようとしているのなら、それに従おうと思った。鬱々と過ごしていた陸のもとに、加川からメールが届いた。

 いつも挨拶から始まる丁寧なメールを送ってきた加川の、その日のメールはたった四文字だった。

 会いたい






 もう潮時だ、と頭のなかで声がする。

 加川はそこそこ回復した。もう、今すぐに死んでしまいそうというような状態ではない。距離を置くべきだ。

 だけど、あんなメールを送られて冷静でいられるわけがなかった。

 陸は、茉莉の服に着替えてリビングのドアを開く。リビングは、先週よりも更に散らかっていた。書類や郵便物や、脱ぎ捨てたような服があちこちに散らばっている。掃除もしていないようで、床は埃っぽかった。

 加川はソファに座り、やはり酒を飲んでいた。一人でどのくらいの時間飲んでいるのか、もう顔が赤かった。

 加川は先週の陸の時と違い、グラスを差し出してはこなかった。

「俺は……頭がおかしくなりそうだ」

 加川は熱っぽい表情で陸を見つめる。今日の加川はおかしい。陸の手のひらを握り、顔を近づけてくる。加川の手のひらは大きく、熱かった。

「茉莉」

「んっ……」

 ソファに縫い止めるように押し付けられ、キスをされた。

「や……っ」

 喋ってはいけないと思いながら、反射的に声がもれた。怖い。だけど、舌で歯をなぞられ、唇を甘咬みされて、体に力が入らなくなる。

 熱のこもった手に身体を撫でられる。疑問と混乱でいっぱいの頭が、徐々に欲望に飲み込まれていく。こんなのはおかしい。だけど深くなっていくキスに抗うことができない。唾液が唇の端からソファに滴った。

 加川の手は性急に、陸の身体を撫でる。女物の服だけれど、男の身体以外の何物でもないのに、加川はそれに臆することもなく、シャツの裾から手を入れてくる。

 言葉を奪うように加川は深いキスを重ね続けた。口蓋をなぞり、もっと奥に入り込もうかとするかのように、陸の口深くを犯す。

「ん……っ」

 裸の肌を撫でられ胸を摘まれると、堪え切れない声が漏れた。押し殺し続けてきた、陸自身の声。だけど加川は手を止めようとはしなかった。女のふくよかな胸とはまるで違うこともわかるはずなのに。

 加川は陸の小さな胸の突起を、ゆるゆると摘んで刺激する。陸はとっさに、加川の服の裾を掴んだ。

「っ、あ……」

 加川の膝が陸の足を割る。膝で刺激されて、どうにもできず性器が硬くなっていく。加川も勃起しているのが服の上からでも見て取れた。

 茉莉と勘違いしているのだろうか 本当に だけど触れている膨らみのない胸を、どうやって女のものと勘違いするというのか。こんなのはおかしい。どうかしている。

「や……」

 加川の指が奥に入り込んでくる。強張った陸の身体はその指をきつく噛み締め、容易に奥に進ませようとはしない。加川は自分の先走りをこすりつけ、どうにか滑りを足しながら指を進ませてくる。

「……ぅ、あ」

 しばらくそこを使った行為自体していなかったので、指一本だけでもきつかった。加川はむさぼるようなキスを続けながら、指で内部を押し広げてくる。

 ようやく二本目の指を飲み込むことができるようになった頃だった。まだ準備のできていない部分に、性器が押し当てられて、息を飲んだ。

「やめ……まだ無理だ……

 陸は思わず声を出していた。その声が聞こえないかのように、加川は強引にまだ慣らしきっていない場所に押し入ってくる。

「あっ……」

 ゆっくり慣らしてからでもきついのに、受け入れられるはずがなかった。だけど、加川は強引に狭い場所を押し開いてくる。裂けるような痛みがあって、陸は悲鳴を上げた。

「無理だ、やめろ……っ!!

 だけどそれでも加川はやめようとはしなかった。生ぬるい液体の感触に、血が出ているのだとわかった。

「やめ……」

 陸がどれだけ声を上げても、加川はまるで聞こえないかのようだった。強引に腰を推し進め、陸の中に押し入ってきた。異物感が強すぎて、息が苦しい。

「……茉莉」

 加川がその名前を呼んだ途端、涙が溢れ出した。あまりの痛みに、陸は意識を失っていた。

 

 ・

 

 気が付くと、裸のままベッドに横たわっていた。隣には裸のまま、加川が背を向けて寝ていた。

 広いベッドだ。カーテンが閉まっていて、今が何時なのかもよくわからなかった。

 陸はゆっくりと上体を起こした。ちゃんと血も精液もぬぐわれていたが、ずきずきと下半身は重く痛んだ。十年以上昔、初めてセックスをしたときの痛みに少し似ていたが、それよりももっとずっと鋭く重い痛みだった。

 だるい身体と対照的に、頭はとても冷静だった。

「……おはよう」

 陸の身動きで目覚めたのか、目をこすりながら加川が言った。

「まだ寝ていたら」

 起き上がろうとした陸の腕を、加川は掴む。

「……俺の名前、あんた知ってる

 ねぼけていた加川の目が、真剣なものになっていく。

 加川のベッドは、シーツもカバーもすべて白かった。毎週のように来ていたが、茉莉の格好をしていても、足を踏み入れなかった寝室。夜までいたら、いつか連れ込まれるのではないかと怖かった。陸としてなら、そうなることを夢見てさえいたのに。

「……陸くんだろう」

 加川はわずかに微笑んだ。しばらく見ていなかった、あのうそ臭い仮面みたいな笑顔だった。

 その顔を見た途端、何を聞かずともこれが答えだとわかった。重い塊が喉に詰まったみたいに感じられて、息が苦しくなる。心が粉々になるのを感じた。

 そこには、茉莉に向ける笑顔の優しさはなかった。あれは、茉莉だけに向けられる顔だ。どんなに陸が近づいても、絶対に、手に入らない。

 茉莉の代わりにされた。いや、最初からそうだった。今度こそ本当に、身体までその代用品にされただけで、最初から代わりだった。

 陸は身体を起こし、ベッドサイドにまとめられている自分の服を手にとった。目の奥がつんとしてきたけれど、泣くものかと思った。

「陸くん

「……もう、ここには来ない」

「どうして」

「どうして

 陸は笑った。

「あんたは俺が、一晩限りの関係が多いって言ったから、このくらいのこといいだろって思ったんだろ」

 加川が求めているのは、あくまで茉莉だ。加川は男の身体の陸を抱いたけれど、陸自身のことなんてほんの少しも見てはいない。

 陸は下着を履き、早急にズボンに足を通す。痛みが走ったけれど、こらえて何でもないという顔をする。

「ちがう」

「俺は適当な奴と寝てるような奴だから、茉莉の代わりとしてぞんざいに扱われても文句がないと思ったんだろ

「そんなことは考えてない、陸くん、俺は」

 加川は必死な表情をしていた。だけど、続く言葉はなかった。

 あるはずがない。彼に必要なのは、茉莉だけだ。陸は最初から、いらない不純物だった。

「俺は、確かに茉莉が好きだ、そんな気持ちで、君を求めるのは、ずるいんだろう、でも」

「さよなら」

「陸くん

 裸のままベッドを飛び出した加川が、陸の腕を掴む。滑稽な格好だったが、加川は気にしていない様子で、真剣な表情をしていた。

「……何ですか」

「俺は、確かに、茉莉のことが忘れられない。だけど……」

「いい加減にしろよ、あんたの幻想に俺を巻き込まないでくれ」

 加川の腕の力が弱まる。

「だけど、君を好きかもしれない」

「ふざけんな

 陸は叫び、加川の頬を打った。じくじくと血を流した身体の奥は痛み続けている。陸の中に茉莉の要素しか期待していないくせに、あんな風に女を抱くみたいに乱暴にしたくせに。ぬけぬけと、陸をえぐる言葉を吐ける彼が許せなかった。

 堪えていた涙が、ぼろぼろとこぼれた。加川がはっとした顔をする。

 加川は、自分の恋心のことしか考えていない。陸がどれだけ傷ついても、彼にとっては無意味だ。

「いいこと教えてやろうか、あんたが言ってる茉莉との出会い、あれはあんたの勘違いだ」

 怒りにまかせて陸は早口で言う。

「まさか、だって俺はあの日茉莉と知り合って……」

「あんたが会ったのは茉莉じゃない。俺だ」

 口にした瞬間、もう後悔していた。一生言わないつもりだった。だけど、もう遅い。

「え……

 加川は感情のない目で陸を見ていた。

 

 ・

 

「お願いお願いお願い!!

「駄目だっつってんだろ さすがに昔と違って、俺じゃばれる」

「バレないよ 陸ちゃんかわいいもん。お化粧してあげる。服も体型カバーできるの選ぶから

「やめろ

 茉莉は歴代の彼氏に対して隠してはいたけれど、とにかくある男性アイドルグループに目がなかった。

 久しぶりに電話をしてきたと思ったらこれだ。ダメ元で応募した関西でのライブのチケットが当たったとかで、茉莉ははしゃいでいた。だけど、その日はお世話になった大学の先生の講演会の手伝いをしなければならないという。

「無理だろ、俺じゃ中身の話されたらわかんねぇし、友達にでも頼めよ」

「駄目だよ、一応私がやんないといけないの……」

「じゃあやれよ」

「お兄ちゃんでも大丈夫、ただの受付だから

「俺が代わりにライブ行ってきてやるよ」

「それじゃ意味ないじゃん

 茉莉がここまで我を通そうとするのは、ファンクラブにも入っているこの男性アイドルグループに関してだけだった。

 その熱の入れようは陸も知っていた。きっとこのままだと、茉莉は手伝いを放り出してライブに行くだろう。

「……わかったよ、しょうがねぇな」

 昔から、何度か陸は茉莉の身代わりをしていた。茉莉の髪型は数年前から変わっていない。

 当日、茉莉は服や化粧用品を大量に持って陸の家に来た。そして陸は茉莉に変身させられるにまかせた。風邪で声がかすれているという設定でマスクをして、喉はタートルネックで隠した。

 長い黒髪のウィッグをすると、確かに茉莉とそっくりに見えた。ありがとう、やっぱり持つべきものは優しい兄ね、と笑って茉莉は新幹線に乗った。

 マスクをしたらどうせ見えないのに、茉莉はやたら丁寧に化粧を施していった。

 自分の通っていた場所ではないが、大学に足を踏み入れるのは久しぶりで、懐かしかった。声をかけてきた知り合いらしき相手には、曖昧に会釈するだけで、急いでいる風を装った。

 仕事は簡単な受付だった。開場から数分もすると、遅れてくる人も途絶え暇になる。同じく受付をしていたもう一人の女性は、会場の中に入ってしまった。だけど陸は特に興味もないので、そのまま受付に居続けた。

「あの、すみません」

「……はい」

 立っていたのは、純朴そうな三十歳くらいの男だった。

「このへんで、ボールペンを落としたかもしれないんですが、みかけませんでしたか

 

 ・

 

「あんたはそう言って会場に入っていった。終わった後、すみませんありましたと言って青いボールペンを見せた」

「……彼女から、聞いたんだろう」

 加川は表情のない顔で陸を見ていた。後日、加川は茉莉と再会し、連絡先を交換する。加川は茉莉が所属する研究室の教授の教え子だった。

 茉莉はその出会い自体、加川の勘違いか、自分のど忘れだと思っているらしかった。別に加川とどの瞬間に出会ったかなど、気にしてはいなかったのだろう。

「そう思いたきゃ思えばいいさ。事実は変わらない」

 加川だけがその初対面こそ、運命だったと言い続けていただ。

「嘘だ、俺は間違えたりしない。……君と茉莉はとてもよく似ている。でも、別人だ」

 その言葉を聞いた時、陸は全身の力が抜けるのを感じた。

「……は」

 ショックの次にやってきたのは、笑いの発作だった。真顔で言える言葉とは思えなかった。茉莉、と何度も呼んだくせに。あれほど茉莉と陸を混同しているような素振りを見せたのに。

「わかってんじゃねぇか」

 陸は震えながら笑い続けた。

「あんたは最初から、わかってたんだ」

 ピアスを贈ったのだってそうだ。加川は陸が茉莉でないとわかっていた。昨夜だって、男の身体だとわかっていた。それでも、故意に茉莉として扱ったのだ。

「陸、くん

「ならなんであんな茶番を繰り返したんだよ!!

 この数ヶ月は、何だったのだろう。似合わない服を着て、自分自身の声を封印して、加川のためと思って茉莉のように振る舞った。一言も喋らず、ままごとに興じ続けた。

「ふざけんなよ、俺がどれだけ……どれだけ……」

 声が詰まって、うまく言葉にならない。男である自分自身をいっそ消したいとすら思った。加川の傍にいられて、あの笑顔を向けてもらえるなら、何でもできた。

 だけど、加川はわかっていた。わからなくなっていたのは陸の方だ。これが、ただのままごとだと。

「ごめん、俺は……」

 加川が伸ばしてきた手を、陸は振り払った。

「もう、二度とあんたとは会わない」

 陸が立ち上がっても、加川は座ったまま動かなかった。

 少しだけ、彼が追ってきてくれることを期待した自分を陸は呪った。

 

 ・

 

「嫌だって言ったのに、からだを触ってきた」

 茉莉は小学生の頃、担任の教師にいたずらをされかけたことがある。

 明日も放課後に、準備室に来いと言われているらしい。どうしよう、と茉莉は震えながら陸に打ち明けた。

 茉莉と陸は、顔立ちの整った子どもだった。その頃茉莉はまだ手術をしておらず、心臓に負担をかけないよう、あまり激しい活動はできなかった。茉莉のそんな病弱で線の細いところが、ある種の男たちをいたく刺激してしまうらしく、妙なトラブルは耐えなかった。

 その頃、茉莉の髪はまだ短かった。

 陸は、茉莉の代わりに茉莉の服を着て、その教師と会った。触ろうとしてきた彼を脅し、二度としないと約束させた。

「茉莉のことは俺が守ってやるから、何かあったら言えよ」

「……うん」

 茉莉は髪を伸ばし始めた。陸はインターネットで、ウィッグを買った。

記号は簡単なものであるほうが、入れ替わりやすかった。



 落ち込んだ声で電話に出ると、由利は食事に行こうと誘った。待ち合わせに現れた陸を、由利は死人みたいな顔だと指さして笑った。

 仕事があってまだよかった。ディレクターとしての初めての案件が落ち着くと、仕事量は少し減った。実務は部下が担うことが増えたためだ。それでもあれこれと仕事をしていれば、時間が過ぎるのはあっという間だった。

 陸は加川の連絡先を削除した。電話のひとつでもかかってくるかと思っていたけれど、何の音沙汰もなかった。

「でももう、終わらせられたからいいんだ」

 陸は強姦まがいのことをされたことは言わなかった。だけど、ろくな終わりでなかったことを、由利は察しているようだった。

「そうだよ、そんな男に関わってる時間が無駄だよ。もっと別のこと考えよう

 陸と由利は、狭い呑み屋の片隅で、日本酒を二人でわけあって飲んだ。由利は最近、二丁目で会った年下の男とよくつるんでいるらしい。子どもすぎて困るけれど可愛いのだと惚気けた。

「陸ちゃん、新しい恋は希望だよ

 そんなこと少しも考えられなかった。加川のことを、思い出さない日はなかった。加川と過ごした時間も、茉莉のいた頃のことも、今となって思い返せば、苦しいはずなのに甘い。

 陸と認められなくて苦しくても、加川と一緒に毎週末を過ごした。光に溢れたリビング、汁の滴る桃、低く流れていたクラシック音楽、手触りのいい高級な服。

「……幸せだったな」

 陸はぽつりとこぼした。

「そんな死にそうな顔して、幸せだなんて言うもんじゃないよ」

 それまで頷きながら聞いていた由利が、厳しい口調で言う。

「どんなに好きでも、お互い傷つくなら近づかない、それも大人でしょ 人生そんなに長くないんだからさ。そんな辛いことはもうやめてよかったんだよ」

 優しい言葉に、涙が溢れてくる。

 どれほど願っても、茉莉は帰ってこない。それと同じように、陸が加川のことをどれほど好きでも、何にもならない。

「……好きだったんだ」

 ぼろぼろと涙がこぼれて、止まらなくなった。

「好きだったんだよ、ばかだよな。絶対そんなことになっちゃいけない相手だったのに」

 由利は優しく陸の背中を撫でてくれた。

 運命なんてあるわけがない。偶然の出会いがあるだけだ。だけど、加川との出会いが運命ならよかったのにと思った。願う気持ちを知ってしまった。自分自身を変えてもいいと思った。そこまでしてでも、彼に求められたかった。こんな風に自分が願うことがあるなんて、知らなかった。

「好きになっちゃいけない相手なんて、いないよ」

「全然、好みじゃなかったんだよ……」

「ほら、飲も

 茉莉は短い人生を終えてしまった。陸は自分の気持ちひとつ、思うようにはいかない。だけどまだ、生きている。

「楽な方に流されて生きようよ」

 由利がビールのジョッキを持ちながら笑った。陸も小さく笑って、自分のジョッキを持って乾杯をした。



 加川と決別して三ヶ月が過ぎた頃、茉莉の一周忌に合わせて手紙が届いたと母から連絡があった。陸あてのものもあったから、転送するという。

 翌日陸の家に転送されてきたのは、飾り気のないシンプルな封筒だった。糊で封がされているから、両親は中身は目にしてはいないのだろう。彼らに見られては困るようなことが書かれているのではないかと、陸は身構えた。

 中には、封筒と同じくシンプルな白い便箋が入っていた。手書きの丁寧な文字だった。

 安見陸様、という冒頭で文章は始まった。最初は加川の近況が綴られていた。服を処分したこと。あのマンションを売ったこと。

 それから謝罪の言葉が続いた。

 どれほど謝っても許してもらえるとは思わないけれど、本当に申し訳なく思っている。

 償いのチャンスがあれば何でもする。

 几帳面そうな、整った文字だった。

 そして最後に、はっきりとした強い字でこう書かれていた。

 

 僕はもう二度と恋はしない。

 

 ・

 

 陸はゆっくりと日常に戻った。幸い仕事は忙しく、やりがいがあって日々はあっという間に過ぎた。

 それでも立ち止まると怖くなる。自分は、本当に生きていていい人間だろうか。必要とされているのだろうか。

 同じ双子なのに、茉莉だけが先天性の心疾患だった。もしかしたら、自分の心臓は、茉莉のためのものだったんじゃないだろうか。どうして双子であるはずなのに、こんな風に茉莉だけが早く死んでしまったのか。考え始めると止まらなくなる。

 仕方ないんだよ、陸ちゃん。

 茉莉は本当に心の整理なんてできていたんだろうか。あれは強がりではなかったのか。髪型だって、もう自由にすればよかったのに。

 陸は、これまで以上に仕事に没頭した。寂しくなると、職場の同僚や後輩に声をかけて飲んで帰るようになった。

 そんな風に深酒をしたある日の帰りに、陸はふと駅の外に座る占い師に目を吸い寄せられた。よくこの辺りの駅に並んでいる占い師の一人で、ことさら何の期待をしたわけでもなかった。誰かもっと人と話していたかっただけなのかもしれない。

 老婆の前に座り、陸はすっかり酔っ払った口調で言った。

「妹と話したいんです」

 まっすぐ座ることもできない陸を、老婆は見るともなしに見て言った。

「彼女はそこにいますよ」

「心の中にとかそういう安っぽい話、ほんとやめてもらえます

「そういう話でしょう。酸素、炭素、水素、窒素、カルシウム、燐、そんなものの化合物が本当にあなたの妹さんですか

 雑踏の気配が遠のいたように感じられた。フードに半ば顔を隠したまま、老婆は語った。

「歌はただの空気の流れではないし、あなたの妹さんはただのお墓にある骨ではないでしょう」

 茉莉を守りたかった。だから、彼女を弱い妹だと思い続けた。役割を分けた。わかりやすく記号を使って演じた。勝ち気な兄と、おとなしい妹。

 加川は茉莉の思い出を語った。茉莉の好みだったとはとても思えない服。二人が実際のところどういう関係だったのか、陸にはわからない。

 茉莉のふりをした。何もかもままごとだった。茉莉はもういない。

「茉莉は……」

 茉莉に会いたい。夢でもいいからと初めて強く願ったのに、茉莉は現れない。

「彼女は、あなたの中にいますよ」

 陸は茉莉を失ってから、ずいぶんしばらくぶりに泣いた。



 月命日に、陸は必ず茉莉の墓を訪れた。静岡は少し遠いけれど、日帰りできないほどではない。

 いつ茉莉の墓に行っても、そこには花が飾られていた。白い小さな花を重ねたものであったり、青い大輪の花であったり、いつも様々だった。

 母か、父か、それとも親類か友人か。

 だけど、加川なのではないかという気がした。加川が一生、他の女なんて好きにならなければいい。勝手だとわかっていながら、そう願わずにはいられなかった。

 陸は古くなった花と一緒に、ピアスを墓地のゴミ箱に捨てた。






 遅れそうだから現地に直接行く、と陸はメールを送った。

 三回忌だ。雨の降りそうな曇った日だった。電車を乗り継ぎ、駅からはバスに乗った。

 本当は両親の車に乗せてもらうつもりだったが、仕事が長引いて間に合わなかった。陸は今、秋に始まる美術祭にまつわるデザインを扱っている。行政や作家や多数のクライアントが関わる仕事で、無駄に規定が多く、調整に追われていた。

 三回忌は、亡くなってから二年後に行う。あっという間な気もしたけれど、まだ二年なのか、という気持ちのほうが強かった。

 茉莉が死ぬ前には、好みの男と適当に遊び続けていられればいいと思っていた。自分を尊重してくれて、気の合う相手と遊んでいられればと。なのに、誰より陸自身を大切にしてくれなかったたった一人だけが、胸の中に居座り続けている。

 墓地の内部は舗装されていないから、雨が降るとひどいことになる。降ってこなければいいけれどと思いながら、陸はバス停を降り、革靴で墓地を走った。

 どこを見ても墓の並ぶ似たような景色で、何度も行った場所なのになかなか見当たらない。

 やがて、ようやく隅に止めてある実家の車を見つけた。そこから墓の場所はすぐだった。

 墓の前に、数人の喪服の人物が立っている。母と父はわかる。あとは、叔父だろうか。三回忌は家族だけでやると聞いていた。

「ごめん、遅くなった」

 喪服の人物は、全部で三人だった。両親と、そこにはスーツを着た加川がいた。



 読経の声なんて全然耳に入ってきてはいなかった。雨の降りそうな空気は湿っぽく、風は肌寒い。どうして、と思ったが理由はひとつしかない。両親が呼んだのだ。おそらくは加川を評価していた父の希望だろう。

 陸は加川の方を見ることができなかった。会うのは一年と少しぶりだ。ぱっと見にはあまり変わっていないようだが、ちゃんと食事はしているのだろうか。ぐるぐる巡ってしまう思考を止めることができない。もう話のできるような間柄ではないのに。

 あのマンションを処分したというなら、今はどこで暮らしているのだろう。もしかしたら、もう誰かと結婚でもしているのではないか。

 低い読経が続く。三回忌が終わったら次は七回忌、四年後だ。そのとき自分や加川がどうしているのか、陸には想像もつかない。

 住職が帰ったタイミングで、陸はすぐに口を開いた。

「ごめん、俺仕事で急用だから、帰らないと」

「え ごはん食べてきなさいよ」

 母親の声を無視して早足で歩き出す。空はいまにも雨が降り出しそうな暗い色をしていた。

「駅まで車に乗っていけ」

 父の言葉に振り返って叫ぶ。

「歩いて帰れるから大丈夫

 陸は足早に墓の間を歩いた。両親と加川が何かを話している声がした。

 陸はもくもくと早足で歩く。懐かしい胸の痛みに襲われて、息が苦しい。もう折り合いをつけたと思っていた傷が生々しくうずく。

 来るな、来るなと思った。

「陸くん」

 陸は答えずに、歩き続ける。

「久しぶりだね」

「どうも」

 陸は立ち止まらずに早足で歩き続けていたが、加川はいつのまにか、陸に並んでいた。コンパスの違いが恨めしい。

「少し、話をしないか」

「結構です」

 あれから一年以上が経ったのに、傷は全然癒えてはいなかった。本当は、声を聞くだけで泣き出したくなるほど懐かしい。立ち止まったら二度と歩き出せない気がして、陸は歩き続けていた。

 加川の視線を感じる。

「ああ、本当に、似てないな」

 加川が吐息とともにこぼして、陸は思わず足を止めてしまった。

「何、を……」

 ぱら、と顔に雨が落ちてくる。加川はどこか悲しげな目で、陸を見ていた。

 一緒にいても何も解決しない。胸が握りつぶされたように痛むばかりだ。だけど、忘れられるわけがなかった。あんな風に人を恋したのは初めてだった。

「君に、会いたかったんだ。あんなに茉莉が好きだったのに、この一年、ずっと考えていたのは君のことだった」

 逃げようとしていると思われたのか、腕を掴んでこようとした加川の手を、陸は思い切り振り払った。

「適当なこと言うな。あんたは茉莉が好きなんだろ」

「そうだ、茉莉だけをずっと好きなつもりだった……

「何なんだよ、もうやめてくれ」

「俺だってやめられるものならやめたい…… 茉莉のことを思い出そうとしても、君のことになってしまう。……君といるとたぶん俺は本当に茉莉を失うんだろう、でも耐えられない」

 加川の声は悲痛だった。黙って歩き去ってしまおうと思うのに、足が動かない。

 肩を雨が叩く。雨は本格的に降りだし、さああという音が大きくなった。

「一年、考えた。俺にとって君がどういう存在なのか。俺が君に何をしたのか。今更顔を見せられる立場じゃないってわかってる。でも悲しいんだ……君に会えないことが」

 歩けと念じるのに、足が動かない。雨が顔や服を容赦なく濡らしていく。加川は茉莉の身代わりに自分を利用した勝手な男だ。だけど期待で胸が震えてしまう。また苦しむだけに決まっているのに。

「君を、好きになってしまった」

 陸は動けなかった。雨が墓地を覆っている。

「どうすればいい」

「俺に聞くな」

 声が震えた。泣きたくなんてないのに、涙がぼろぼろと零れる。雨に紛れるかと思ったけれど、顔を歪めてしまってはばればれだ。

「陸」

 こうやって、ずっと前から、ちゃんと加川に呼ばれたかった。自分の名前を。

 雨はますます強く降り注ぎ、墓地の土を、二人を濡らしていた。

「俺に聞くなよ……っ

 強引に腕を強く引かれ、加川の胸に倒れこむ。濡れた服の感覚に戸惑う余裕もなく、乱暴にキスをされた。雨はますます強くなる。

 まだ墓地の中だ。いつ人が通るかわからない。陸は腕で加川の身体を叩いたけれど、びくともしなかった。

「陸……っ」

 息を継ぐ暇も与えないようなキスに、余裕が奪われていく。加川は何度も、熱心に陸と呼んだ。自分が抱きしめているのが誰なのか、確かめるように。陸は濡れたスーツを握りしめながら泣き続けた。

 

 ・

 

 達するのは短い死だと聞いたことがある。

「あ……っ」

 加川はためらいなく陸の性器を口に含んだ。舌と唇による刺激は決して手慣れたものではなかったけれど、稚拙な愛撫にかえって興奮した。

 加川は繰り返し繰り返し、何度も陸と呼んだ。

 雨に濡れたまま二人で駅前まで歩いて、それからホテルに入った。寂れた古くさいラブホテルだったけれど、気にならなかった。

 お互いに余裕がなくて、部屋に入った途端に奪うように服を脱がせあった。二人とも下着までびしょ濡れだった。

 寝室が遠かったら、そのまま玄関でことに及んでいたかもしれない。幸いドアのそばにはすぐベッドがあった。だから雨でまだ濡れた身体のまま、もつれ込んだ。

「あ、あっ……出る」

 離せという意味を込めて加川の頭を押したのに、加川はそのまま陸を口の中でいかせた。

 射精して短く意識が飛んで、一度、死んだような気がした。

「は……」

 陸が息を整えている間に、加川はそれを嚥下した。

「おい、出せ

 陸がティッシュの箱を差し出すが、加川はわずかにむせただけだった。

 加川はもともと異性愛者のはずだ。驚くというより半ば呆れて陸は言う。

「あんた……なんで、そんなこと、できるんだよ……」

「君が愛しいから」

 加川が平然と言うので、陸のほうが動揺して赤面した。

「口、ゆすいでくる」

「いいから」

 加川が一瞬でも目の前からいなくなることに耐えられなかった。陸は加川の腕を引いて、その口にキスをする。青臭い匂いがするのが少し嫌だが、仕方がない。

「あんたに、会ったりしなきゃ、よかった……」

「ごめん」

 加川はそっと陸の背をかき抱いた。一年ぶりに会う加川は、茉莉の生前ほどには肉付きを取り戻していなかった。だけど、痩せたままの顔はかえって精悍にも見えた。

「君が好きだ」

 乱暴にキスをしながら、加川は陸の胸を摘む。

「前は……ごめん」

「もういい」

 謝罪の言葉を聞きたくなくて、陸は加川の口を塞ぐ。

「何か……ねぇの、ハンドクリームとか」

 焦る気持ちを押さえて探すと、洗面所のアメニティの中に小さな潤滑剤があった。

「こんなものまであるんだな」

 加川はどこか生真面目な顔つきで封を開ける。そのゆっくりした動きがじれったい。早く繋がりたいし、もっと触れていたかった。

「キス、しろよ」

 恥ずかしさをこらえて口にすると、思ったよりぶっきらぼうな声になって、陸はかえって羞恥心を覚えて俯いた。だけど望んだ通り奪うようにキスをされて、陸は加川の頭をかき抱いた。

 少し冷たい潤滑剤が、陸の奥まった場所に触れる。加川の指が身体の中に入ってくる。そこに触れられるのは、以前加川に乱暴にされたとき以来だった。誰でもいいなんてもう、思えなかった。

「ん……」

 反射的に身体がすくんだけれど、加川はキスを続けながら、丁寧に、壊れ物を扱うように陸の身体をほぐした。長い指が、ゆっくりと陸の内部をなぞっていく。

「陸」

 熱を孕んだ声で呼びながら、加川は陸の内側をいちいち確かめるように指を動かした。そのもどかしい動きに、かえって煽られて腰が動いてしまいそうになる。

「あ……」

 感じる部分に触れられて、声を押し殺せなくなる。

「や、あ」

「もっと、声、聞かせてくれ、陸」

 加川は熱っぽい声で、陸の耳元で囁く。陸は殺していた息を吐いた。

「あ……っ」

「陸」

 加川の指はいつの間にか二本に増えていたけれど、陸の身体は柔らかくそれを受け入れていた。もどかしいほど、加川の動きは丁寧だった。

「さっさとしろよ……」

 涙の浮かぶ目で陸は加川を見つめる。

「君が痛いのは、嫌だ」

「痛くねぇから」

「本当に

 加川は三本目の指を陸の中に沈ませる。圧迫感で声が漏れたけれど、決してきつすぎるということはなかった。潤滑剤で濡らされたそこは、加川の指を切なく噛みしめている。指が動くたびに、内部の壁がはしたなくうごめく。陸の性器はもう勃ち上がり、先走りをこぼしていた。

「早く……」

 指が抜かれて、もっと大きなものが押し当てられる。これから与えられる刺激を予想して、身体が震えた。

「あ……」

 加川はゆっくりと陸の中に押し入った。

「あっ、ああ」

 誰かと身体を繋げるのは、加川に乱暴にされたとき以来だった。よくほぐされていても、さすがにきつい。だけど、充溢感で胸狂おしかった。苦しいのに甘くて涙が浮かんでくる。陸は加川の背に腕を回した。

「陸……っ」

 加川は感極まったように、陸の額にキスを落とす。一番奥深くまで、加川のものが入ってくる。

「俺はもう恋はしない。……君以外には」

 陸を深々と犯しながら、加川は祈るように言った。快感が背筋を走り抜ける。体の奥から気持ちの良さが湧き上がってくる。

「……でたらめだ」

 涙が陸の目尻からこぼれた。加川にじっとそれを見られて、恥ずかしい。

「……くだらないこと言ってねぇで、動けよ」

 泣き顔を見られる恥ずかしさで、陸は乱暴に言った。

「言うね」

 加川は少し意地悪そうに微笑んで、一度引き抜きかけた性器で、深々と陸を挿し貫く。

「っあ、あ……っ」

 望む以上の刺激を与えられて、喘ぐことしかできなかった。繋がった場所が熱い。快楽に身体が溶けて、溺れていく。今ここには、陸と加川しかいない。間違えようもなく。

「んっ、あ……ああ」

 深い奥をえぐられて、陸は加川の背を痛いほど掴んだ。深い場所はつらいのに、中が熱くうずいて確かな快楽を伝えてくる。

「や……あ、っ」

 次第に加川は動きを激しくしていく。柔らかい襞を擦り上げられて声が殺せなくなった。しびれるような気持ちよさだけに頭が支配されていく。揺さぶられて、また涙がこぼれた。

「ぁ、……ぁあ」

「……好き、好きだ」

 加川は熱に浮かされたように口にした。陸も答えたかったけれど、口を開けてももう言葉にならなかった。

 陸は二度目の小さな死を迎えて、意識を手放した。

 

 ・

 

 茉莉の夢を見たりはしなかった。

 目が覚めて、隣に加川が寝ていることを確認して、陸は深く息を吐いた。

 遮光カーテンの隙間から、朝の日差しが差し込んできている。濡れたままのスーツが二着、窓際にかけられていた。まだまったく乾いてはいないだろう。一体どうやってここから帰ればいいのだろう。

 じっと見ている陸の視線に気づいたかのように、加川が身動ぎをする。

 おはよう、と言おうとしたけれど、声が出てこなかった。昨晩散々声を出したせいかもしれない。陸は小さく咳をする。

 加川は目を細め、泣き出しそうな、けれど優しい顔で微笑んだ。初めて見る顔だった。

 茉莉の格好をしていたときに向けられていた朗らかな笑顔とも、うそ臭い微笑みとも違う。喪失と悲しみをたたえた、深い海のような切ない表情だった。きゅうっと胸が痛む。

 どうしようもなく、好きだ、と思う。加川は腕を伸ばし、陸の髪を撫でた。

「君のことを、もっと教えてほしい」

 温かい手のひらだった。

「教えてくれ。君の……好きな、食べ物は 何でもいい、知りたいんだ、君のことを。好きな音楽は ……服は

「俺、は」

 かすれた声で、ようやく陸は語り始める。自分自身のことを、ゆっくりと。