愛することが、失望させることやだますことを意味していないとは誰にも言えない、と私は言った。   
 イーユン・リー『理由のない場所』


1
「別れる」
「別にいいけど。仕事はどうすんだよ」
 携帯から顔も上げずに言われた。どうせまたこっそりファンの女の子とやり取りしてるんだろう。刺されて死ねばいいのに。
「続けるよ、当たり前だろ」
 もとから関係は「仕事」として始まった。
 新しいドラマのカップル役。SNSで仲のよい様子を発信し、バラエティ番組では必要以上にいちゃついた。簡単にトレンドが取れてびっくりした。本当に付き合っているのでは、という噂が出るのに時間はかからなかった。
 下積みの頃、どれだけ演技を頑張っても、人気は伸びなかった。でも男の肩に手を回せば、簡単にフォロワーは万単位で増えた。
 なんだ、と思った。こんなに簡単なことだったのか。
 もとから恋愛をする演技はドラマの中でやっている。だから、それを少し広げるだけだ。膝に頭を乗せ、肩に手を回し、耳元で囁く。SNSの投稿にはこまめにコメントし、さりげない共通点を仕込む。
 ゲームと同じように、現実にも攻略法がある。気づいてしまえば簡単だった。知名度は飛躍的に上がった。新しい仕事もどんどん舞い込んだ。ほとんど全部が、「二人で」という条件付きだったけれど。
「何? 引き留めて欲しい?」
 ちらと俺の方を見て男は感情のない声で言う。偉そうにソファに寝転がっているこの男が、俺の相手役だった。
 カメラが回れば今すぐに俺たちは笑顔を浮かべるだろう。でも、普段の姿は違う。彼はモデル上がりで、もとから俺より人気があった。
「別れないで、って言ってほしいんだろ」
 あざ笑うように言うこいつの顔を、ファンたちに見せてやりたい。
 普段から触れるのには慣れてしまった。お互いの家庭環境も、食べ物の好みも過去の恋愛も全部知っている。仕事だから。仕事だったから。
 キスだってドラマの中で何度もした。だから自然なことだった。セックスなんてしてもしなくてもどうだってよかった。でも、酔った勢いで手を伸ばしたのはどっちだっただろう。思い出せない。
「違ぇよ」
「仕事に差し障り出すなよ」
 こいつがクズだとは知っていた。皮肉屋で人間嫌い、そのくせ性欲だけは強い。モデル上がりのイケメン俳優なんてそんなものだろう。こいつが歩いているのは食い散らかした女の悲鳴で舗装された道だ。普段は家事も勉強もろくにせず、携帯でゲームばかりしている。
「当たり前だろ」
「お前、ほんとにわかってんのか?」
 だるそうに男は体を起こし、笑った。
「下手こくなよ」
「わかってるよ、最初から演技だろ」
 どうせファンだって、次々出てくる新しい娯楽にすぐに夢中になるだろう。俺たちは歳を取っていくし、若くてより顔のいい俳優が過激なことをしたら、きっと簡単に人気は奪われる。
「わかるか? 昔の人は、地球の周りを太陽が回ってるって思ってた」
 一体何の話をし出すのか、と思った。またどうせお得意のゲームで仕入れたネタだろう。
「本当は、太陽の周りを地球が回ってる。でもそんなことみんな信じなかった。だからガリレオは有罪になった」
「……何が言いたいんだよ」
「お前、今更俺と別れて同じことやれると思ってんの?」
 男は淡々と話す。髪は寝起きで乱れたままだし、着ているものもカジュアルな私服だ。でもこいつのファンなら、色気があると悲鳴を上げるだろう。ずっと身近にいるからわかる。こいつの何が支持されて、何が求められていて、何が魅力なのか。全部知っている。
 ――俺は、攻略法を見つけたんだと思っていた。
 ずっと前から俳優になりたかった。誰からも支持されるような人気俳優へ、ショートカットしていける道。そのためにこの男を利用する。
「女とキスの一つでもしてみろよ。殺されるぞ」
「誰に」
「『みんな』に」
 俺はかっとして手を握りしめる。この澄ました顔を殴ってやりたい。でもできない。だってこの顔には価値があるから。
「女遊びしてんのはお前だろ」
「やれるわけないだろ、この状況で。いつの話だよ」
 呆れたように男はため息をついて見せる。それが様になるのがまた腹が立つ。
 すべては仕事として始まったものだ。俺は演技が得意だ。だって仕事だから。いくらだって甘い声も出す。
 でもいつから? いつから俺たちは寝ているんだったか? 現実が歪む。テレビの中で口にした、無数の甘い言葉。繰り返したキス。
「何なんだよ、別にいいだろ、全部嘘なんだから」
 全部作り物だ。
 俺は男なんて好きじゃないのだから。そういう振る舞いをすれば、喜んでもらえるからそうしただけ。触れた回数が増えるたび、肌に慣れていった。キスの癖も普段の癖も、何もかも知っている。
「嘘だろうがそうじゃなかろうが、同じだろ」
 男の手が俺の腕を掴む。別にそんなことをされても何も感じない。
 お互いにふれ合うのは日常のことだったから。
 全部が演技だ。好きと言った。ドラマの中でも、現実でも。繰り返し目を見て笑い合った。すべてが自然だった。だってそう求められていたから。
 演技でキスはできる。セックスも。でもわからない。
 ――「触れること」に、嘘はあるんだろうか。
「同じなわけないだろ!」
 見つめ合うこと、に嘘はあるんだろうか。
 あのとき、あの夜、なぜ俺は彼と寝たんだったか。カメラは回っていなかったのに。そうするのがただ当たり前のように感じた。二人だけの夜。きっと死ぬまで誰にも明かさない「本当」。
「わかってないな。お前は自分で思ってるより、ずっと演技が下手なんだよ。だからずっと芽が出なかったろ?」
 今度こそかっとなって、俺は男に殴りかかる。
 だけど簡単に体勢を入れ替えられ、ソファに押しつけられる。緊張はしない。こんな場面を、前にも演じたことがあるような気がする。二人の男の修羅場。だれた関係と、睦言みたいな別れ話。いつ俺はその脚本を読んだのか。
「でもお前が、いい芝居ができる方法は一つだけある」
 嘘でも嘘じゃなくてもキスは甘い。溶けていく意識の中で思った。
 そう、ここでカメラはきっと、ソファに押さえつけられた俺の手に寄っていく。重なる指と指、縫い止められた手。それから、……それから。



2

 崖に向かって走るゲームのことをいつも考える。
 どちらがぎりぎりまで走り続けられるか、というゲームだ。
 先に止まった方が負けで、腰抜けだ。でも、二人とも走り続けたら崖から落ちる。じゃあ、どこで止めるのが正解なんだろう。

 これはゲームだ。最初からわかっている。
「愛してますよ、もちろん」
 きゃあ、とスタジオの中から悲鳴が上がる。
 今まで俺は、そんな言葉を使ったことがなかった。今まで一番長く続いた彼女にも、「好き」とは言ったが「愛してる」なんて言葉は使わなかった。何だか大仰で、嘘くさい気がした。芝居がかっているとでもいうのか。
 皮肉なことだな、と思う。飽きるほど日常の中で使っても、誰も演技だろう、なんて言わない。
「愛してるんで」
 その言葉を使うと、観客が沸き立つ。マネージャーには、今日の番組はトレンド一位がかかっているのだ、と言われた。
 愛してる、は一番簡単な魔法だ。俺たちに人気と仕事をもたらしてくれる。
 でも呟く相手は可愛い女の子なんかじゃない。筋肉のついた体つきは女の子とまるで違っていて、かわいいところなんてどこにもない。
 俺は繰り返す。愛してる、と。心にもないことを。


 最初にゲームを過激化させていったのは彼の方だった。
 突然番組の撮影中に、顔を近づけてくるのだから驚いた。事故のように唇が触れた。それだけで評判になった。
 もとからドラマの中でキスはしている。それが、バラエティ番組の中だからといって何が違うのかわからなかった。どっちにしたって作り物だ。なのに、周囲の反響は違った。
 彼の行動はどんどんエスカレートしていった。顔を寄せる。頬にキスをする。手を握り膝に頭を乗せ、後ろから抱きつく。ああゲームなのだなということはすぐにわかった。彼の行動が「正解」であることも。
 ドラマの視聴率はうなぎのぼりに上がり、社会現象だと言われた。俺だってぼけっとしていたわけではない。より一層の強さで答えた。下ネタぎりぎりの話題を振り、彼の腰を抱き寄せる。そうして低い声で囁く。
 繰り返す。何度も何度も。
 ――愛してる。
 たかが五文字。何の意味も無い。でも、みんなはそれを期待している。何を望まれているかはわかる。
 あの二人、本当にできてるんだって。そういう風に言われないといけない。
 繰り返す。飽きるほど、言葉がすり切れて意味をなくすほど。最初から何も、意味なんてないのに。
 ――愛してる。
 別れる、と言い出した彼をソファに押さえつけて抱いた。組み敷いて焦らさず挿入すると、しなやかな背が震える。
 今更、別れられると本当に思ってるんだろうか。
 野心に溢れた彼は、気づかなかったのだろう。自分がどういう道に足を踏み入れてたのか。
 世間の目はどこにもでもある。少しでもボロを出したら、すぐに叩かれるだろう。
「お前みたいなクズは嫌いだけど、でも仕方ない」
 かつて、番組の企画でたっぷりディープなキスをさせられた後、楽屋で彼はけろりとした顔をして言っていた。
「仕事が増えるんだからな、お前も協力しろよ」
 とびきり蠱惑的な娼婦のような表情で笑っておいて、今更別れるだなんて笑えるにもほどがある。
 もう戻れないのだ。
 崖に向かって走り続けるしかない。
 どれだけ相手にうんざりしても、飽きても、続ける以外にない。演じ続けるしかない。
 わかっていた。だから酒に酔った振りであの夜、当たり前みたいに引き寄せて抱いた。ドラマの中みたいに簡単じゃなかった。一度目は失敗した。全然女の子を抱くのとは違った。何とか成功しても、すぐに果ててしまった。
 あんなにみっともなくて、情けない経験は初めてだった。
「あれ……俺」
「ドラマと間違えたわ」
 普段だったらもっとうまくやる。下手くそな演技、最悪なせりふ。俺の脳裏に焼け付いた初めてのあの夜の行為を、彼は何とも思っていないことを知っている。
「何言ってんだよ、くそ、痛ぇんだけど」
 冗談みたいにそうしようかと思ったけれど、抱き寄せられなかった。何度もやったことなのに。
 言葉は出てこなかった。せりふなら何万と頭の中に入っているのに。
 ただ、疲れた顔で携帯をいじる彼を見ていた。
 そのとき彼は、さりげなく乱れたシーツの写真をSNSに投稿していた。転んでもただでは起きない男だ。
「消せよ」
「は? 何言ってんだよ。いいネタだろ。お前もなんかコメントしろよ」
 わかっている。彼の投稿は正解だ。すべては順調に進んでいる。仕事は舞い込み続けているし、どんどんフォロワーも増えている。
 でも俺は、その写真にたったひとつのコメントもできなかった。ハートマークのひとつでいい。そうすべきだとわかっていたのに。何千とついた、顔も知らない誰かのコメントが流れるのをただ、眺めていた。
 崖に向かって走っている。立ち止まったら負けだ。
 でも、たまに誘惑にかられる。
 演技をすべてやめると言ったらどうなるんだろう。これからは演技じゃなくて本当のことしかしない、と。
 俺たちの間に何も「本当」なんてないのは、よく知っているのに。
「別れるなんて許すわけねぇだろ……」
 押さえつけた体がひくりと震える。たまにとびきり乱暴に、ぐちゃぐちゃにしてやりたくなる。なにひとつ傷つけず大事にしたいのと同じくらいに。
 粉々にしていまいたくなる。せっかく築いたはずのものを。
「……」
 振り向かない背を撫でる。何百回となく繰り返した言葉は、どうしても出てこなかった。


3

 それは嘘の世界だ。
 いつも不思議だった。ドラマの中で登場人物は苦しみ、見ていると感情移入してはらはらする。優しい人が無残に殺されたりすれば涙も出るというものだ。
 でもその後のインタビューでは、その死んだはずの人がにこにこ笑っていたりする。
 冴えないいじめられっ子役は、よく見れば売れっ子のイケメン俳優で、ものすごい悪人だったはずの人が、優しげに笑う。
 そこにいるのはみんな役者で、殺人鬼も被害者も本当はいない。画面の中で起きることはすべて嘘なのだ。
 最初は騙されたと思い、次に魅了された。
 すべてが作り物だから、すべてを作り出せる。ないものも、あることになる。魅力的な殺人犯も、偉人も伝説的な人物も、どんな風にでも描き出せる。演技ひとつで。
 それならば何にでもなれる、最高の俳優になろうと思った。舞台やスクリーンの上でだけ輝く偽物を、誰より見事に演じてみせる。
 もちろんそれは本当の姿じゃない。カメラの前で起こることの、すべてはまやかしだ。でもだからこそ最高のまやかしを、作り出せる俳優になりたかった。

 ・

「キスしてくれ」
 目の前の男の言われるままに唇を触れさせる。何の感情もわき上がってこなかった。ああ、触れたなというだけ。本当は感情の高まるべきシーンなのに。
 このままじゃまずい、と思っていたら案の定、監督に撮影を止められた。
「全然なってない、全然だめ、どっか悪い?」
ーー別れるなんて、許すわけねぇだろ。
 この間からやけに調子が悪い。そしてそれは、如実にカメラにうつってしまうのだった。
「ちょっと休憩しようか」
 監督がスタッフに声をかけ、一気に空気が弛緩する。自分のせいで迷惑をかけた、と思うとどっと冷や汗が出てくる。
 もっといつもうまくやってきた。目の前でぐしゃぐしゃになった紙のためにでも、一瞬で泣き出せる自信がある。そういう仕事だからだ。
「ちょっと外の空気、吸ってきます」
 気を遣われている空気は嫌になる。俺は足早にスタジオを抜け出した。
 スタジオの裏のドアから外に出たところで、ポケットに入れていた携帯が震える。母からだった。面倒だと思いつつも無視できずに通話をする。
「わかってる。今忙しいんだ、わかるだろ」
 地元のなまりに懐かしさより苛立ちを感じるようになったのはいつからだろう。
「今が大事な時なんだよ」
 母は俺の仕事を逐一見ている。そしていちいち、あれがだめだこれがだめだと言う。今更俺に干渉しようだなんてばかばかしい。そしてやたらと帰って来いとうるさい。
「俺には時間がないんだ」
 そんなに焦ることはないよ、と電話の向こうで母は言う。でも今焦らないでいつ焦るというんだろう。俺の時間は刻一刻と失われていく。若い新人にいつ仕事を奪われないとも限らない。
 だからこんなことはもうやめようと思った。表面上は何も気にしない態度を取っていた男は、だけど許さないと言った。それは演技の延長なのか、それとも。
ーー何かが少しずつ、変わっていく。
 裏口ではちょうど什器の搬入が行われているところだった。初めてセットに立ったときには、それなりに感動したものだ。カメラの画角からは完璧に、古びた町のように見えた。でもそれはもっと引いてみたらただの張りぼてで、スタッフが多数行き交っているスタジオに過ぎない。
 こんなに今日はよく晴れていたのだ、と空を見て初めて知った。スタジオの中にいると、時間も季節も何もかも曖昧になる。
「大丈夫か?」
「何しに来たんだよ」
 何となくそんな気がしたけれど、気がつくと男が間近に立っていた。
「笑いに来たのか」
「心配してんだろ」
「よく言う」
 俺は鼻で笑う。不調はカメラによくうつる。とりわけ共演者になど如実に伝わる。弱みを知られるようで嫌だったけれど、今更どうしようもない。
 俺はうまく演じられていない。視聴者が気持ちよく見られるような、恋人としての演技を彼としないといけないのに。
「恋人って、どうやんの」
 俺は投げやりに言った。目の前の男が、どうやら何かリアルな感情を自分に対して抱いていると知ってから、うまく演技できない。
「よく知ってるだろ」
「知らねぇ」
 キスもセックスも台本で学んだ。それ以外のことは何もわからない。
「いつもやってんのと同じだよ、ふりをするんだ」
 触れた熱は同じ。肌の感触も。見つめあう目の温度も同じ。なのになぜどこから、何が違っているのかわからない。
 そもそも俺の生きてきたすべてが演技なんじゃないか。母にとっての可愛い息子、祖父母にとっての孫、友達にとっての友人。台本を変えながら全部演じてきたのかもしれない。
「愛してる」
 俺は男をじっと見ながら試しに口にして、自ら噴き出してしまった。
「全然なってない、全然だめ、どっか悪い?」
 監督の口調を真似て彼が言う。
「くそくらえ」
 この青空もきっとセットだ。今にきっと穴が空くだろう。そう思って見つめ続けたのに、その青さはどこまでも変わらないままだった。
「愛してる」
 俺は繰り返す。ままごと遊びのようだ、と思う。
 長く彼女と付き合ったこともなく、その演技から始めた。学べば演じることはできた。でも満たされることもなく、外側だけをくるくる言葉が滑っていく。何の意味もない。理解などせずに子どもが玩具で遊ぶように、弄んでいるだけ。
「全然だめ、やる気あんのか?」
「じゃあお前やってみせろよ」
「――愛してる」
 彼が口にした途端、時間が止まったかのように感じた。ああ、と思った。
「キスしてくれ」
 彼は台本の言葉を繰り返す。
 彼の後ろ頭に手をやって引き寄せ、唇を合わせる。偽物だ。だからすべてを作り出せる。
 ないものも、あることになる。
 どうせすべてが偽物なら、本物を探そうとしなくたっていい。
 でもときに嘘は、本当以上の本当になる。最高の俳優になろうと誓った幼い俺はきっと、そのことをとっくに知っていた。