お姫様は、塔の上に住んでいる。
 地上から見上げると、てっぺんはほとんど見えない。それほどまでに高いのだ。

「勇太、行くよ」

 慌てて僕は駆け出す。階段で上ったらどのくらいかかるのだろう。いつもエレベーターで上るからわからない。
 僕は母の手を握る。エレベーターの片側はガラス張りになっていて、外に落ちてしまいそうで少しだけ怖いからだ。母の持っているビニール袋がかさかさいう。スーパーでたくさん買った、食料品だった。
 エレベーターを降りて、その部屋の前に立ったとき、僕は母の手をぱっと離した。母がぴんぽんを押すより早く、鍵が開く音がした。

「みちる」

 玄関に入るなり母は言った。その人は廊下の奥の、リビングにいた。鍵は彼女の手元のリモコンで、自動で開く。いつもそうだ。つまらなそうな顔で、外を見ていた。

「来たの」

 ふわふわの、薄い栗色の髪が波打っている。
 お姫様だ、と思う。
 彼女は窓際にあるロッキングチェアに座っている。そうしてけだるそうに振り向いた。

「いやー、やっぱここ、高すぎて耳が変になるよ」

 母はそう言って、てきぱきとビニール袋から野菜や肉を取り出す。

「そう?」
「地震のときなんてどうするの」
「死ぬだけね」

 あっさりとみちるは言った。いつもそうだった。みちるは足が悪くて、この部屋から出られない。母はみちるの面倒を見て、僕の面倒をみちるに見てもらう。僕はそんな必要ないと言うのだけれど、学童クラブにいられない日は、かならずこの部屋に連れてこられる。

「何とかと煙は高いところが好きって言うけど」

 笑いながら母は言う。

「どうせろくに外に出れないなら、せめて高いところがいいじゃない」

 みちるが杖を持って立ち上がる。よたよたと、見ている側が不安になるような足取りで歩き、母が食料品を冷蔵庫に入れるのを見ている。
 みちるの髪は床につきそうなくらいに長い。こんなに髪の長いひとを、僕はこの家の外で見たことがない。

「そうそう、来週は来られないから」
「何かあるの」
「勇太の誕生日だし、あの人の実家行こうと思って」
「離婚した旦那の実家なんて、居心地悪くない?」

 みちるは嫌みっぽく言うけれど、母は気にしていないようだった。

「僕おばあちゃん家好き」

 その時口に出したのは単に魔が差したからだった。みちるの強い口調に母が責められているかのように感じたのだ。実際、僕はおばあちゃん家が大好きだった。みちるは呆れたような顔をしていた。

「じゃあ勇太、いい子にしててね」

 そうしてすぐに母は出ていった。最近は臨時のパートの仕事もしていて、忙しいのだ。僕は携帯ゲーム機を取り出す。
 僕とみちるは同じ部屋の中にいても、まるで違う場所にいるみたいに、全然目線も合わせないし、話もしない。

「ねえ」

 だから彼女がそう言った時、自分に話しかけられているのだとは思わなかった。
 窓の外を見ていたはずの彼女は、いつの間にか睨みつけるようにじっと僕を見ていた。

「ここにおいで」

 嫌だったけれど、そうは言えなかった。僕を外に預けるところがないから、母はみちるに頼っているのだ。僕はゲームをポーズさせてみちるのそばに近寄る。
 僕の背は、座っているみちるのちょうど腰のあたりまでだった。呼んだくせに、みちるはぼんやり外を見続けていて何も言わない。僕はみちるの髪を眺める。

「これ、はしごにできる?」
「はしご?」
「王子様に髪の毛のぼって来てもらう」
「ああ、ラプンツェルね、よく知ってるのね」

 みちるは大して関心もなさそうな声で言った。
 みちるはいつも窓の外を見ている。この塔は高すぎて、みちるの髪では全然届かない。でも、みちるはそうしたいのかと思った。髪の毛を伸ばして、誰かに来てほしいのだと。

「そうね……私は、待ってるのかもしれない」
「王子様?」
「王子様じゃなくて……」

 一体何をするのかと思った。みちるの手が伸びてきた時、頭を撫でられるのだと思った。だがみちるの手は僕の首に触れた。みちるが手に力を込める。

「えっ?」

 その段になっても、僕はまだ信じられなかった。
 まさか母の友達であるみちるが僕にそんな酷いことをするわけがない。

「……っ」

 みちるが僕の首を絞めていた。ぐっとさらに強く手に力を込められて、僕は思わず逃れようと身をよじった。すぐに拘束が解け、僕は床に倒れる。
 つまらなさそうな顔で、みちるはそれを見下ろしていた。
 お姫様みたいだと思っていた。ふわふわの髪、白い肌、小さく整った顔。
 だけど違う、こいつは魔女だ。


  ・

 ラプンツェルは、正確にはお姫様ではない。塔の上に閉じ込められた女の子だ。そして王子様がやってきたときには長い髪をおろして、はしご代わりにして招き入れる。長い長い髪。王子が登れるくらいだから、きっと頑丈な髪なのだろう。
 僕はみちるにされたことを母に言わなかった。
 母の仕事のお荷物にはなりたくなかったからだ。僕は一人で留守番ができると言ったこともあるのだが、母は嫌がっていた。みちるに僕を預けられなくなったら、母はきっと困ってしまうだろう。
 みちるは僕を殺そうとしたのだろうか。それとももう来るなと言いたかったのだろうか。
 みちるが母以外と話しているところを僕は見たことがない。
 みちるはいつも部屋の中で何をするでもなく窓の外を見ているか、あるいは本を読んでいるか、絵を描いていた。ろくに仕事はしていないようだったが、絵を描いて売ることもあるらしい。
 僕は変わらず、みちるの部屋で過ごした。
 彼女が絵を描いている時には、僕は安心できた。絵筆を持っていたら首を絞めることはできないからだ。
 近寄るのを避けるようになった僕を、みちるはたまにふざけて追いかけてくることがあった。

「やめろよ」
「あはは」
「お母さんに言うぞ」
「あー、やっぱり言ってなかったんだ、言えばいいのに」

 むしろ言わないでいることに、感謝されると思っていた。みちると母は仲がいいのではなかったのだろうか。

「そんなやつのとこには王子様なんて来ないぞ」
「王子様なんていらない」

 二人は、学校で知り合ってからずっと仲良しなのだと聞いていた。みちるは足が悪く、家の中に引きこもっていて、一人では買い物もいけない。
 だから母が助けてあげていた。
 母がいなくなったら、みちるも困るはずだ。

「あなたを殺したらおあいこになるかもしれないって思ったの」
「おあいこ?」

 みちるの言う言葉の意味はよくわからなかった。何があったとしても、人を殺していいわけがない。

「私の足、ダメにしたのは千加子なんだよ」

 千加子というのは母の名だ。そのくらいのことは僕も知っていた。

「だから何だよ」
「私の足と、子供と、どっちが大事かしら」
「はぁ?」

 みちるは本気で言っているみたいだった。バカだ。別に、僕はことさら母に愛されているなんて言うつもりもないけれど、足と命とでは重さが違う。

「僕に決まってるじゃん、って思ってるでしょ。でも、そうかしら?」
「何が言いたいんだよ」

 みちるの言葉がじわじわ毒のように浸みてくる。

「あんな男の子供を産むなんてね」

 父の顔は知らない。母は、父について語りたがらなかったからだ。たまに会う祖父母も父の話はまったくしない。

「父さんのこと悪く言うな!」
「あなた、知らないんでしょう? あの男がどんなにクズで、千加子をどんな風にして捨てたか」
「やめろ!」
「千加子も千加子だよ。ばっかみたい」

 僕はほとんど泣きそうだった。こっそり夢見ていたのだ。いつか、父親と会うときのことを。
 仕事が忙しかったり、色々な都合があって今は会えないけれど、いつかきっと会いに来てくれる。
 ――そう思っていた。

 みちるは僕の父親が、他に女を作って母を捨てたのであり、溢れるほど金を持っているくせに養育費の支払いもしないクズだと言った。もっとひどいことも言っていたような気がするけれど、知らない言葉も多くてよくわからなかった。
 僕は、母が迎えに来たときに泣き止んでいるのが精一杯だった。

「どうしたの」

 みちるは何も言わなかった。僕はみちるの住んでいる家から地上に降りたとき、母に言った。

「みちるが、首、絞めてきた」
「え……」

 母は、僕の首を詳しく点検する。首を絞められたのはもうかなり前のことだから、痕があったとしても残ってはいないだろう。

「本当に」

 僕は泣きながら頷く。せっかく言わないでいてやったのに。みちるがいけないのだ。

「そんな……」
「足が大事だからなんだって」

 母の表情が固まるのがわかった。

「僕と足と、どっちが大事か確かめたいんだって」

 ざまあみろと思った。僕はもう、みちるの家には行かない。




 その日の夜、母は僕に話をした。
 みちるの足は事故のせいでダメになってしまって、その事故の原因は母だったということだった。学生時代、一緒の部活に所属していたとき、体育館の釣り天井の一部が落下したのだという。

「私は変な音がするって気づいてたのに、みちるに言わなかった……だから、お母さんが悪いところもあるの」

 でも、事故は事故だ。わざとやったわけではないだろうし、母のせいだなんて言うべきじゃないと思った。
 みちるは家の中を移動するとき、よたよたしていた。今思うと、これ見よがしだったようにも感じられた。

 その日から、僕はみちるの家に行かなくなった。僕は一人で留守番をする。みちるの家でも自分の家でも、やることはゲームや宿題なのだから変わらない。
 だけどふと顔を上げたときに、みちるの横顔や、その向こうに広がる町並みが見えなくて、少しだけ心許ない気持ちにもなった。
 母は何度か、電話でみちるとやり取りしていたが、いつも喧嘩で終わっていた。母がそんな風に声を荒げる相手はみちるだけだったからすぐにわかった。母は僕が思ったとおりに、みちるに対してとても怒っていた。ざまあみろ、と思う。でもみちるは謝ったりしようとしないようだった。

「屋上!? 何言ってるの」

 その日、電話をしていた母は急にすっとんきょうな声を上げた。

「待って!」

 ふわふわの髪。まっしろい肌。絵の具のにおい。幼稚園とかおばあちゃんの家とは、みちるの部屋はまったく違った。
 みちるみたいにきれいな女の人を、僕は他で見たことがない。
 本当に、絵本から抜け出てきたお姫様みたいなのだ。

「みちる……!」

 電話を切られたらしい。母は次の瞬間には、財布を手にしていた。母の顔色は蒼白だった。

「ちょっと、みちるのところ行ってくる」

 もう夜は九時を過ぎていた。こんな時間に母がみちるの部屋に行ったことはなかった。僕はそろそろ眠る時間だ。

「僕も行く」
「あのね、遊びに行くわけじゃないの」
「みちるにちゃんと聞きたい。なんで、僕の首絞めたのか」

 そう言うと、はっとしたように母は僕を見た。

「僕のこと嫌いなのかな?」
「……違うの」

 母は僕の手を痛いくらいに強く握って言った。外に出ると真っ暗で、こんな時間に出かけるのは随分久しぶりなことだった。
 母は暗い空を見ながらぽつりと呟いた。

「私が悪いの」


   ・


 みちるは屋上に、杖を持って立っていた。
 僕はこのマンションの屋上に入ったのは初めてだった。当然ながら、人が飛び降りたりできないようにガラスの壁が周囲を覆っている。みちるの足で、その壁を登るのは無理だろう。

「みちる」

 屋上にはいくつか明かりがあったけれど、それでも暗かった。ごうごう空が音を鳴らしていて、何だか怖い。夜空は分厚い雲に覆われていて、星は見えなかった。
 母はみちるに飛びつかんばかりだった。でも、みちるは杖で母を追い払う。
 風が出てきて、みちるの髪をなびかせていた。長い髪だ。でも地上まで下ろして王子様を迎え入れるにはとても足りない。

「あんたがあんまりその子を愛してるから、からかっただけじゃない」

 みちるの表情はよく見えなかった。母は杖で払われても、それでもみちるに近づこうとしていた。

「わかってるって、その子が何より大事なことくらい」
「みちる、私があのとき結婚したのは……」
「父親の悪口吹き込むのが反則だってことくらい、私だってわかってる」

 みちるはいつも、塔の上から窓の外を見ていた。だから僕には、誰かを待っているみたいに見えた。王子様を待っているラプンツェル。みちるもきっと、塔から連れ出してくれる王子様を待っているのだろうと。

「みちる、聞いて……! 私は確かにあの時あなたを選べずに結婚をしたけど、でも」

 みちるはずっと、いつも寂しそうに窓の外を見ていた。
 ぽつぽつと雨が頬を叩く。僕は父親の顔を見たことがない。でもおばあちゃんも言っていた。ろくな男ではなかったと。

「もういいよ、食料品なら生協が来てくれるし、千加子なんていなくても暮らせるよ」

 母がみちるに取り縋る。泣いているようだった。

「みちる」
「最近はもう、ちゃんと歩けるようになってたんだよ。でも、足、引きずってるふりしてた」

 母はみちるの足を掴んで泣いていた。僕は二人から少し離れたところで、それを見ていることしかできなかった。母はみちると話しているときだけ、いつもとは全然違う表情をする。本気で怒るし、悲しがるときも本当に悲しそうだし、いつもより大声で笑う。

「……知ってた」

 母が小さな声で言うのが聞こえた。

「ごめん、知ってた。みちるが、ここから出なければ私以外と会ったりもしないから、それでいいって思ってた」

 僕はちらと外を見る。はるか地上に小さく人の姿が見える。
 僕は気づいた。王子様なんかじゃない。
 ――みちるは母を、待っていたのだ。
 僕と一緒にやってくる母を。窓から外をぼんやりと眺めていたのは、あれは出かける母をきっと見送っていたのだ。

「ごめん」

 みちるの頬を濡らしているのは、雨だろうか涙だろうか。魔女は泣かないんじゃないかという気がした。でも、魔女だって泣くときもあるのかもしれない。僕にはわからないことだらけだ。

「勇太」

 呼んだのは母の声だった。みちるに抱きついたまま、母は手招きしてくる。僕はどうしていいかわからなくて、むやみに周囲を何度か見渡したあと、ゆっくりと二人に近づいた。
 雨はぱらぱらと降り続いていて、みちるや僕や母を一様に濡らしていた。
 いつか僕の所には、お父さんがやってきてくれるのだと思っていた。
 でもたぶん、来ないのだ。僕は唐突に悟った。お父さんは来ない。

「勇太……ごめん」

 そう言ったのはみちるだった。床にしゃがんだみちるの髪は、コンクリートについて濡れてしまっている。だけど全然気にしていないみたいだった。
 僕が近づくと、母はみちると僕とを一緒にがばりと抱き込んだ。

「……みちる、王子様、来た?」

 僕は灰色の夜空を見ながら、ぽつりと呟いた。

「来たよ」

 ラプンツェルも髪を切って、それをはしごにして、たまには外に出たらいいのにと思う。そうしたら王子様にも自分から会いに行ける。

「王子様じゃなくて……お姫様だけど」

 そう言って、みちるは母の額にキスをした。それから鼻に、唇に。ぼうっと見ていた僕にも、みちるは同じことをした。それからみちると母はこつんと額を合わせて、ふふと笑った。
 僕は全然知らなかった。ラプンツェルはお姫様じゃなくて、みちるもお姫様じゃなくて、僕の母がお姫様だったのだ。僕には知らないことだらけだった。高い高い塔の上で、僕たちはしばらくそうやって抱き合っていた。

   ・


 お姫様は、塔の上に住んでいる。
 最近、母と僕はみちるの部屋に一緒に住むことになった。みちるのマンションの部屋はいくつか空いているし、そうすると家賃が安くなって母も楽になる。それなら最初からそうすればよかったんじゃないかと思うけど、色々あるらしい。
 僕も、エレベーターが長いのは好きじゃないけれど、けっこういい景色が見れるのでみちるの部屋自体は嫌いじゃない。
 みちるは改めてちゃんと、僕の首を絞めたことを謝った。それからお父さんのことについて悪口を言ったことも。
「本気なわけないじゃない」
「みちる」
「ごめんなさい」
 許さなくてもいい、と母は言っていたけれど、僕はよくわからない。あのとき母は「みちるの足の方が大事」と答えたりしなかったからそれだけでもいいような気もする。
「お父さんはね、色々……問題のある人だったの。でも、一時期私の支えになってくれたことは本当。それに、あなたを授けてくれた」
 母はたまに、ぽつぽつとお父さんのことについて話してくれるようになった。僕にとってはやっぱり知らないことばかりで、いいのか悪いのかもよくわからなかったけれど、話が聞けるのは嬉しい。
「じゃあ、行ってくるから」
 母は僕とみちるとに順番にキスをしてから家を出て行く。
「いってらっしゃい」
 僕とみちるの声が重なる。部屋の中でやることは変わらない。みちるは相変わらず、たまに絵を描く以外は暇そうに窓の外を眺めている。
 そろそろ長いエレベーターを降りた母が、外に出たのが見える頃だろうか。
 じっとみちるは外を見ている。その様子はお姫様というよりも、レコードから流れてくるご主人様の声に聞き入る犬のようでもある。怒られるから絶対に言わないけれど。
 僕はすぐに携帯ゲームを始める。一緒に暮らし始めても「宿題は」なんて言わないのがみちるのいいところだ。
「ねぇ」
 窓から外を見ていたみちるが言う。
「こっちにおいで」
 みちるはわずかに微笑んでいた。僕はゲームをポーズさせて、みちるの方に近寄る。そうすると、彼女の目線の先に母が見えた。ちょっと急いでいるような様子で、駅の方に歩いる。ここから見ると、そのサイズは人形みたいに小さい。
 そのとき、まるで僕とみちるが見てるのを察したかのように母が振り向いて手を振った。みちるが優雅に手を振り返したので、僕も一生懸命に振る。母はまたすぐに正面に向き直って、そのまま歩き去っていった。
 気づかなかったけれど、母は毎回手を振っていたのだろうか。
「あなたは大事な大事な千加子の子供だから、大事」
 そう言ってみちるは僕のほっぺたをつまんだ。
「ふぅん」
 みちるの髪は相変わらずふわふわでとても長い。でも最近は、ご飯を作ってくれることも多くて、そういうときはひとつに結んでいる。きゅっと結わいた髪は、それはそれで悪くなかった。
 今うちに、一応宿題ぐらいやっておこうかなとふと思う。母は夜になったら帰ってくる。後で怒られないようにさっさと終わらせて、母が帰ってくるときにはみちるとまた手を振ろう。ラプンツェルのはしごなんかなくたって、母がちゃんとこの部屋に帰ってこれるように。