下田代の家には行かない。

 俺は十も年下の男のペットになるつもりはない。俺は固くそう心に決めた。何が「行動を見せろ」だ。どうせやつは遊んでいるのだろう。相手だっていくらでもいるはずだ。

 その証拠が、「新しいペット」という言葉だった。

 思い返すだけではらわたが煮えくりかえりそうになる。

 古いペット、新しいペット。俺は結局、遊ばれているわけだ。それがわかっていてどうして、なかったことにできないのだろう。

 

「絶対に行かないからな……」

 

 何度か、下田代からは連絡があった。彼は魅力的な食事を色々とちらつかせた。煮込みハンバーグ、もつ鍋……。

 だが俺はこらえた。

 正直に言えば、怖かった。今度は、と彼は言っていた。

 

 〝今度は、俺のことも気持ちよくさせてくれてもらえますか?〟

 

 それはつまり、彼のものを俺の中に――。

 俺は思いきり首を振る。そんなことは考えられない。ありえないのだ。いくら鞠子と別れたといっても、男と付き合うつもりなんてない。

 だが、次に来た下田代からのメッセージは俺の予想外なものだった。

 

 〝風邪引いたんで来ないでください〟

 

 ・

 

 俺の出身は埼玉だ。とはいえ田舎の方なので、東京の会社に就職するのと同時に会社の寮に入った。

 寮だけど共用部はほぼなく、ただのマンションみたいなものだった。食事も出ないし、横の繋がりは薄い。

 働き始めるのと同時に、初めての一人暮らしになった。そのときの心細さは覚えている。ちょうどその年の冬、インフルエンザになって本当に死ぬかと思った。

 油断しまくっていたので、家には薬も置いていなかった。命からがらコンビニまで行って、薬や粥を買った。店員が「お大事にして下さいね」と言ってくれて、惚れるかと思った。そのくらい心細かった。

 寝ていれば治るような風邪でも、一人では心細い。

 下田代は、半年前にあの部屋に越してきたと言っていた。それまでは実家に住んでいて、それは俺の会社の近くだと。

 俺の勤める会社は、別にそれほどの大企業でもないが、都心も都心、東京のほとんどど真ん中にある。あんなところに実家があるなら、一人暮らしの必要は本来ないだろう。

 それでも彼は一人暮らしを始め、そしてまだ半年だ。

 もちろん、あのホストみたいな男に限らず、友人はいるだろう。助けてくれる相手だって、きっといるに違いない。

 でも、もしかしたら。

 もしかしたら、一人きりでベッドの中で苦しんで「このまま死ぬのかも」なんて思っているのだとしたら……。

 俺はドラッグストアで粥や熱を冷ますシートなどを買い、アパートに向かった。別に腐るものじゃないから、たくさんあっても置いておけばいいだろう。

 俺は一応、下田代よりだいぶ長く生きている。これくらいのことは、してやってもいいだろう。彼がどういうつもりかとか、俺がどうするかといったこととは関係なく。

 下田代は眠っているのか、なかなかチャイムに対する返事はなかった。俺はもう一度ベルを鳴らし、ドアをノックした。

 

「おい」

「うっせーな、いい加減にしろ頭に響くんだよ」

 

 ドアが開いたかと思うと、唾の飛ぶような激しい罵倒を浴びる。

 

「あ」

 

 不機嫌そうに顔を歪めていた下田代は一瞬、迷子みたいな不安げな目で俺を見た。

 

「あ、いや、え?」

 

 それを見ていたら、俺は罵倒されたことに対して怒る気力も萎えてしまった。

 

「大丈夫か、風邪」

「いや、俺、来ないでくれって言いましたよね?」

 

 まるで自分が「来るな」と言ったら俺は絶対に来るはずがないというような口ぶりだった。

 一体何様か、と思う。下田代が来るなと言っても俺が行くことはあるし、逆ももちろんだ。

 

「風邪引いてるんだろ?」

「いや、そうですけど……」

 

 確かにこうやって見ると顔が赤い。いつも着ているバンドのTシャツも、心なしかよれて見える。

 

「入るぞ」

 

 俺はやっと主導権を握れた気がして、少しだけ楽しかった。だから、「もう来ない」と決めたはずの下田代の部屋に自分から足を踏み入れていることにも、大した疑問は抱かなかった。

 

「いや、ほんと……別に寝てれば治るんで」

 

 風邪のせいか、今日の下田代は気弱だった。

 

「じゃあ寝てろよ」

「だって、なんか……飯とか食います?」

「それは俺のせりふだ。何か食うか? 卵がゆ、梅がゆ、鮭がゆ、プレーン」

 

 いつもきれいな下田代の部屋は、少しだけ乱雑になっていた。洗濯をする気力がないのか、脱いだ服やタオルが散らばっている。

 

「……あの、俺、まじで風邪なんすよ」

「わかってる」

「押してダメなら引いてみろ作戦とかじゃないんで、今構ってあげられないです」

「誰が構ってって言ったよ」

「寂しかったら、一人で慰めててください。あれ使っていいんで」

「お前な」

 

 軽口を叩いてはいるけれど、下田代は本気で困っているみたいだった。やっぱり熱があるのか、顔が赤い。

 

「なんで来たんすか?」

「一人暮らしで風邪引いて心配だからだろ、お前まじで飯食ってないな?」

 

 普段、キッチンはきれいに片付いているのに、今はビニール袋やら空のペットボトルやらが散らかっていた。

 でも、俺が二十歳くらいの頃もこんなものだったかもしれない。むしろ、もっとひどかったと思う。

 

「ポカリ飲めば治ります」

「ポカリはエリクサーじゃないぞ」

 

 余計なお世話かと思ったが、色々買ってきてよかった。

 

「だって、俺なんも……」

「粥あっためるから、寝てろ」

 

 そう強く言うと、下田代はやっとベッドに腰掛ける。

 

「病院は行ったのか?」

「寝てれば治ります」

「まぁ無理に行くことはないけど。薬あるから、辛いなら飲めよ」

 

 俺は粥を適当な皿にあけ、電子レンジで加熱する。

 

「……弱ったとこに漬け込んで惚れさせて取って食う気ですか」

「誰がお前なんか食うか」

 

 もともと下田代は几帳面だ。俺が大学生だった頃とは全然違う。

 下田代は俺みたいに、風邪くらいで心細くはなかったのかもしれない。でも、やっぱり来てよかったと思う。

 暖まった粥を持っていくと、大人しく下田代はベッドに寝そべっていた。

 

「お盆とかないのか?」

 

 持っていった粥を置く場所がどこにもなかった。

 

「俺、風邪なんで食べさしてください」

「急に元気そうだな」

「はい、あーん」

 

 下田代は口を開ける。なんだか、雛鳥のようにも思える。

 今日の下田代は、年相応な子供に見える気がする。いつもの得体のしれない男じゃなくて。

 俺はため息をつき、れんげを手にした。

 軽く吹いて冷ましたが、どのくらい冷めたかよくわからない。まず自分の口に少しだけ含んでから、これくらいなら大丈夫だろうと思って、下田代の口元に運んだ。

 下田代は何も言わず、黙って粥を口にする。

 本当に、小鳥みたいだった。前に、彼は「餌付け」と言っていたけれど、これこそそうだと思う。

 黙ったまま、俺はれんげで粥をすくい、下田代の口元に運ぶことを繰り返す。

 本当に彼はろくに食べていなかったようで、あっという間だった。

 

「もう一人前食うか?」

「もういいすよ」

 

 そう言って、下田代は枕に頭を横たえる。

 

「俺ねぇ、行動は信じるんすよ」

「前も言ってたな」

「もはや俺たち付き合ってますよね?」

「どういう論理だよ」

「風邪ひいたらかいがいしく世話してくれて、えっちなことしてて、ってもう恋人ですよね、行動として」

「どこがだ」

 

 熱のせいだろう。上気した顔で、下田代はぼんやりと呟いた。

 

「もっと、恋人っぽいことしてぇな」

 

 俺はふいをつかれて、何も言えない。俺たちが知り合ったきっかけは、そういう普通の恋人っぽさとはかけ離れていた。

 何しろ、彼は俺と彼女との情事を盗聴および録音していたのだ。

 今たまたま彼は弱っているけれど、騙されちゃいけない。ペット、餌付け、ひどいことを俺は散々言われている。

 

「そういう相手はどうせ、たくさんいるんだろ」

 

 堂々と文句を言ったつもりだったのに、随分拗ねたような声が出た。

 

「古津さん、そういうの意外と気にするんすね」

 

 何が意外となのか俺には全然わからない。

 

「まぁ、いましたけど、それは体だけの関係っていうか……利害が一致したから関係してただけで、恋人とかじゃないすよ」

「だからペットか」

「あいつは口が悪いんで、何もわかってなくて言ってるだけすよ」

 

 釈然としないが、これ以上、病人相手に責めるようなことを言うのも気が引けた。俺は布団を下田代の肩までかけ直してやる。

 

「そんなこと言ってる場合じゃないな、寝ろ」

 

 下田代は、もぞもぞと布団を頭までかぶる。寒いのか、それとも顔を見られたくないのか、もともとそうやって寝るのが好きなのか。

 

「何か食べたいものは?」

「作ってくれるんすか?」

 

 くぐもった声で下田代は言う。

 

「買ってくるだけだ」

「そんなんウーバーイーツと変わんないじゃないすか」

「恋人っぽいだろ」

 

 俺がそう口にしたのは、軽口のつもりだった。顔を見せないまま、下田代はしばらくの沈黙の後に言った。

 

「……プリン」

「とろとろの? それとも固いやつ?」

「固いやつ……」

「わかった」

 

 俺は、布団の上からぽんと下田代の頭を軽くたたく。

 まともに受け取ったら、振り回されるだけだ。そうわかっているのに、彼の言葉を信じたくなってしまっている。

 だいたい、過去の相手と体だけの関係だったというのは、むしろ悪いんじゃないだろうか。俺と彼らとが違うとでもいうのか。

 ――恋人みたい?

 告白も何もないのに、一足とびでそんなことを言われても、ついていけない。

 でもどうして俺は、今はもう寝息を立てている男のために、プリンを買いに行こうとしてるんだろう。

 ――行動ですよ。

 そんな男の声が蘇る。うるさいことこの上ない。

 別にプリンくらい誰だって買う。こんなのは、何でもないことだ。

 

 

 結局その日、俺はプリンを買ってきて冷蔵庫に入れてやった。

 下田代はよく寝ていて、起きなかった。俺はテーブルの上にあった鍵を使って施錠し、その鍵はポストに入れた。

 それから数日、彼からの連絡はなかった。気になってはいたけれど、俺も仕事が忙しく、特に連絡は取らなかった。どんな対応をしていいのか、いまいちわからないせいでもある。

 一週間が経った頃、彼からメッセージがあった。

 

〝風邪まだひどいんで、絶対来ないでください〟

 

「コントかよ」

 

 俺は思わず噴き出した。

 

 ・

 

 もちろん、今回のは来てくれというメッセージだ。さすがにそのくらいことはわかるが、果たして俺は行ってもいいのだろうか。

 ――もしまだ、体調が悪いのだったら。

 そんなわけはない。あいつが、ほんとに体調が悪いのに「風邪がまだひどい」なんて送ってくるわけはない。でももしかしたら、と考えてしまう。

 結局、俺もきっかけが欲しかったのだろう。

 

「バカか俺は……」

 

 俺はもはや来慣れた下田代の家の前に立っていた。

 この間は、ドアを開けた途端に罵倒されたなと思い出す。あれもあれで、見たことのない姿だった。

 チャイムを押すと、待っていたのか下田代はすぐに出た。

 

「あ、来たんすね、来るなって言ったのに」

「元気そうだな、はい、プリン」

 

 俺はわざわざ駅の駅のデパートで買ってきたそれを掲げて見せる。案の定、にやついていた下田代の表情が固まる。

 

「プリンならなぜか冷蔵庫にたくさんあったんで、間に合ってるんすけど」

「好物だろ?」

 

 そして俺は、慣れた仕草で靴を脱いで上がり込む。

 この間と違うのはすぐに見てわかった。部屋が、きれいに片付いていたからだ。

 とてもわかりやすい。

 つまり、下田代はもう回復しているわけだ。

 

「今日は、様子を見に来ただけだからな。飯も食ってきたし」

「今日は? 前はどうだったんすか?」

 

 ソファに腰掛けた下田代はちゃんとこざっぱりしたいつもの様子で、実際に体調は悪くなさそうだった。そんな彼を見て、ほっとしている自分に気づく。

 

「プリン、マジで食い切れないんで一緒に食いましょう。茶も淹れるんで」

 

 そう言って、下田代はお湯を沸かし始めた。

 

「夕飯は?」

「今日は外で食いました。研究室のやつらと、牛丼」

 

 そういう話を聞いていると、本当に彼は大学生なのだなと思う。机の上に積まれた教科書は分厚くて、タイトルを見ているだけで頭が痛くなってくる。物理だったか数学だったか。俺にはそちらの知識はさっぱりだ。

 

「一人暮らしするとき、親御さんは反対とかしなかったのか?」

 

 何しろ、実家からでも十分に彼の大学は通える距離だ。それに彼は大学院に行くつもりだと言っていた。しばらくまだ、収入はないわけだ。そのことからも、下田代の家が結構裕福なことはわかる。

 

「まぁ、兄弟多くて狭い家だったんで……あ、俺の実家気になります? 挨拶とかしに来ちゃいます?」

「なんでだよ。まぁわが社から近いんだろうな」

「すぐっすよ」

 

 当たり前のように下田代は答える。それからプリンとスプーンを用意し始める。

 

「俺の勤めてる会社、知ってるんだな」

 

 盗聴をしていたのだから、当然かもしれない。

 今日のプリンは、デパートで買ってきただけあって、丈夫そうなガラスの器に入っている。とろとろ滑らか、なんていうプリンもあったけれど、昔ながらの卵をたっぷりつかったプリンというやつにした。そっちの方が下田代の好みに近そうだったからだ。

 

「もちろん。最初の配属は営業、次に人事、それからまた営業ですよね。社員番号も言いましょうか?」

 

 あながち冗談に思えないのが怖い。

 

「じゃあ、不公平だからお前のこともっと話せよ」

 

 お茶を二人分淹れてきた下田代は、けげんそうな顔で俺を見た。

 

「学生番号知ってどうする気ですか。まぁ、古津さんなら院生とかで通るかもですけど」

「そうじゃない。なんで今の勉強をしようと思ったんだ? 将来の夢は?」

 

 プリンの蓋を開けていた下田代は、なおも疑うような表情で、俺の顔をじろじろと見た。

 

「言いたくないなら何でもいい。趣味は?」

「古津さんで遊ぶことっすかね」

 

 下田代はさっそくプリンを食べ始めている。食い切れないと言っていたわりに、あっという間に半分ほどを口に入れている。やっぱり若いと食欲があるんだな、と俺はぼんやりと思う。

 

「何でもいいから話せよ。好きな食べ物でも特技でも何でも……。いや、特技はあれか?」

「『あれ』って何すかねー」

 

 わかりきったことだろうに、下田代は平然と言う。

 

「どこで習ったんだ?」

「そういう店で、バイトしてんで」

「お前まだ、二十歳とかだろ?」

 

 だがまぁ、確かに成人ではあるのだし、俺がどうこう言えることじゃない。下田代はすでに、プリンを食べ終わっていた。俺はまだ一口食べ始めたばかりだ。

 

「上手だよな」

「なるほど。さりげなくそっちの話に持ってくアピール、上手いですね」

「そうじゃない。純粋に、お前のこと全然知らないなって思っただけだ。俺はプリンを食べてるんだから、邪魔するな」

「じゃあ教えてあげますよ、体に」

 

 俺はむきになったように、プリンを食べ続けた。

 

「今日はほんとに、お前の様子を見に来ただけだから。明日の朝も早いし、これを食べ終わったら帰る」

「じゃあ、もうちょっとだけ、食べ終わるの待ってください」

 

 俺がプリンをゆっくり食べていると、横から伸びてきた手が、カップを奪った。

 

「今日は最後までしないですから。しないから、ちょっとだけ、ね?」

 

 口調ばかりは甘いのに、目がまったく笑っていない。言い訳しつつ、一体俺はなぜまたこの家に足を踏み入れてしまったのか。

 

 ・

 

「だからなんで、縛る必要があるんだよ」

「だって古津さん、縛られるの好きじゃないすか」

 

 下田代は俺の足と、手とを結びつけて縛った。どこか奇妙な体勢にならざるを得なくて、足が閉じられない。

 無防備になった下半身に、下田代は口を近づける。べろ、と味見をするように俺の性器に舌を這わせる。そのまま口で愛撫されると気持ちがよくて、俺はすぐにいきそうになってしまう。

 だが下田代がそれで許してくれるはずはなかった。この間も使った、シリコン製の玩具を奥に含まされる。

 

「……っ」

 

 もちろん縛られた俺は、抵抗もできない。

 下田代は玩具にも使ったローションで、胸を同時に執拗にこねてくる。ぬめぬめしたローションの中心で、乳首が芯を持ったように立ち上がっている。

 

「んん……っ」

 

 だけど信じがたいことに、俺はこんな行為にも少し慣れてきている。触れられると、決して怖いことじゃなく、むしろ気持ちいいのだと、俺の体は知り始めている。

 ぞくりとした。

 下田代が俺のことを「傷つけたりしない」と言っていたのはそういうことなのかもしれない。俺はもう、彼のことを怖いとは思えない。彼が自分の欲望を無理やり押しつけてきたり、乱暴なことをしたりはしないと、信じてしまっている。

 だから、こんな自由を奪われている状態なのに、俺は与えられる快楽にどんどん素直になっていく。

 そんな自分が怖い。

 

「あ…っ、んんっ」

 

 下田代に従っていれば、気持ちよくなれると俺の体はもう知ってしまっている。だから抗わない。むしろもっと、と思ってしまっている。

 風俗でも、男のアナルを開発するようなプレイがあることは知っている。気持ちが良くて、はまってしまう男もいると聞く。でも、知識として知っているのと、実際にされるとは全然違った。

 性器をしごかれるのとは違う、しびれるような快感に俺は体をびくつかせる。

 

「や…っ、ん」

「ここ、気持ちいんですよね? 腰、揺れてますよ」

 

 奥まった場所を刺激されると、電流が走ったような快感だった。開きっぱなしの口から嬌声が漏れる。

 

「まっ、だ、め…っ、ああっ」

 

 同時に胸の先を強く刺激される。

 明日の朝早いと言ったのは本当だ。少し遠くの出張先にまで行かないといけないから、一時間は早く家を出る必要がある。

 わずかに残った理性が警告を発している。でももう俺の頭の大部分は、そんなことはどうだっていいと言っている。早く帰るより何より、目の前の快楽に屈服したくなっている。

 

「あ、っや、ん…っ」

 

 縛られた俺は自由には動けない。下田代の手の上で転がされ、じっくりとあぶるように快楽を与えられる。

 

「俺、入れたいんすけど、古津さん」

 

 熱っぽく下田代は囁く。

 俺はなけなしの理性を総動員し、必死に首を振った。

 

「きょ、今日はしないって……言った……っ」

 

 俺はほとんど泣きそうだった。もう恥ずかしいなんて言っていられない。

 

「そうっすねー、でも、俺嘘つきすよ。今日だって風邪ひどいって言いましたし」

 

 そんなのは嘘のうちには入らない、と思う。あれは明らかに嘘だとわかるメッセージだった。心配したのは俺の勝手だ。

 

「そもそも盗聴野郎ですしね。なんで信じちゃうんすか?」

「……信じるよ」

 

 下田代はわずかに眉根を寄せた。

 俺がそう言うのは、その方が俺に都合がいいからかもしれない。俺は俺の曇った目で、下田代のことを子どものように思ったり、かわいく思ったり、性的な対象だと思ったり、都合良く扱っているのかもしれない。

 

「お前はいつも、約束は守ってくれたろ」

 

 わからない。

 手を伸ばせないのがもどかしい。自由になるのだったら彼を抱き寄せるのに。

 

「……っ、ああっ」

 

 そのまま俺はあっさりといかされた。どっと全身が弛緩する。今までの興奮が、嘘みたいに引いていく。でも、じわじわとあぶられたような熱はまだすぐには引いていかない。

 

「萎えました」

 

 冷たい顔で下田代は言ったが、それが嘘であることは、彼の下半身を見れば明らかだった。

 

「おい……」

 

 やっと縄が解かれ、玩具が抜かれて解放されたけれど、変な体勢で固定されていたせいで、体はうまく動かない。俺は床に倒れる。

 

「俺が襲わないうちに帰ったらいいんじゃないすか」

 

 下田代は投げやりに言って、俺に背を向ける。

 

「風呂入ってくるんで」

 

 一人で抜くのか、とはさすがに聞けなかった。

 下田代は、相手を縛って満足、という性癖なわけではないのだろう。それ以上の行為を彼は求めている。

 俺は手伝うとか、何かしてやったらいいのだろうか。いや、一番いいのは、その……今以上の行為を了承することなのかもしれないけれど。

 

「また来るから」

 

 俺はとっさに口にしていた。下田代は俺に背を向けたまま、振り向かない。

 

「言葉だけなら何とでも言えますよね」

「知ってるよ、行動だろ。また来る」

 

 それがどういうことを意味するのかは、わかっていた。わかっていたはずなのに、俺は自分が正しいことを言っているという確信があった。今日は無理だけれど、また来る。

 これでいい。いや、明らかに間違っている。

 でも、これでいい。

 

「プリン、ありがとうございました」

 

 ぽつりと呟く声が聞こえた。俺は何だかたまらなくなって、でも何もできなくて、自由になった手をただ強く握りしめた。