1.

 

 決意を固めた後にはもう、何も考えなかった。

 仕事をするときと同じだ。やると決まっていることをやるだけ。仕事と違うのは、最終的な判断を下すのが自分だということ、そしてその結果として、自分自身が死ぬということだけだ。

 水は冷たかった。

 足を踏み出すたび、服が水を吸って重くなっていく。迷いを押し殺して、蒔田は足を進めた。水は腰の位置になり、さらに深く、胸に、肩に届くようになる。

 これで終わる。もう何もかも。

 湖面は穏やかだった。はるか上空を鳥が群れをなして飛んでいくのが見える。あれは何という鳥だろう。

 ――何であっても、もう関係がない。

 身体は重くなり、一歩一歩がおっくうになる。だが蒔田は進み続けた。顔に水がかかる。ずっと前にも、この湖で死んだ人間がいることは知っていた。死ぬのに十分な水深であることは間違いない。そもそも、蒔田は泳げない。

「……っ!」

 急にずぶり、と足が滑り、頭のてっぺんまで水に浸かった。一気に視界が水に覆われて、くぐもったような水中の風景に混乱する。とっさに水上に出ようと身体がもがく。

 だけどもう足はどこにもつかず、虚しく水をかくばかりだった。開けた口から水が流れ込んでくる。

 苦しい。反射的に、来た方向に戻ろうとする自分がいた。固めたはずの決意があっけなく揺らぐ。これでいいのか。本当に。だけど悠長に悩んでいるだけの余裕も、もうなかった。

「……っ、誰か……っ!!」

 息ができない。苦しい。喉に直接水が流れ込んでくる。水中の藻が揺れている。

 湖面はあんなに穏やかに見えたのに、襲いかかる水は重い。

 苦しい、苦しい、誰か。みっともなくもがきながら、蒔田は意識を失っていた。

 

 ・

 

 ぱち、と火のはぜるような音が聞こえた。

 うっすらと目を開けると、薄暗い中に、炎が揺らいでいた。赤というよりも、オレンジ色に近い炎が、揺れている。

「ぅ……」

 地獄の炎だろうか。きれいな橙色だった。

「大丈夫ですか」

 身体が重かった。まだ水を吸っているみたいに、じわりと重く、不快感がある。頭上に知らない天井と、知らない男の顔があった。

 薄暗い部屋だった。焦げ茶色をした太い木の梁が見える。男が背中をゆっくりと起こしてくれた。

 だんだん目が慣れてきて見渡すと、そこは博物館にあるような、古風な日本家屋の囲炉裏の前だった。ぱちぱちと、火がはぜている。本物なのか、一瞬疑う。だけどあまりにリアルなそれが、作り物とは思えなかった。

「どこか、気持ち悪いところは?」

 ここは地獄だろうか。だが違うのだろうとは薄々わかっていた。

「……君が、連れてきたのか」

 蒔田はぼんやりと口にする。

「ええ」

 男は蒔田よりいくつか若いように見えた。二十代前半くらいだろうか。髪は短く、さっぱりしたシャツを着ている。整ってはいるが、あっさりとした顔立ちだった。

「湖から?」

 頭が痛い。ここはたぶん、地獄じゃない。その現実を、まだ認めたくない自分がいた。つまり、自分はしそこねたのだ。やるべきことを、やろうと思ったことを、ちゃんとやり通せなかった。プロジェクトは失敗だ。だが、責任を取ってくれる上司はいない。

「覚えてるんですね。大丈夫ですか?」

「なんで助けた!」

 蒔田は声を荒げる。男はあっけにとられた様子で押し黙り、ぱちりと火の音だけがした。

「俺が足を滑らせて落ちたとでも? あんなところで?」

「落ち着いて下さい」

 男の態度は穏やかだった。そんなところもかえって気に障った。男の体格は良く、痩せた蒔田一人ならきっと湖から引っ張り上げることもできただろう。

「ふざけるなよ……! ふざけるな!!」

 この男がいなければ、自分はちゃんとやれていた。何もかも終わりにできていたのだ。

 ちゃんと、やれるはずだった。

 蒔田は怒りに任せて男に掴みかかる。

「なんで放っておかなかったんだよ……!」

 こいつさえいなければ、何もかも終わっていたのだ。蒔田は男の身体を乱暴に揺さぶる。

 悔しくて涙がぼろぼろとこぼれた。水が口の中に流れ込んできた時、すごく苦しかった。あんなことに耐えるのは一度でたくさんだ。

 ……だけど死ねなかった。

 ちゃんと覚悟をしていたし、うまくやれると思ったのに。もう二度と現実になんて戻りたくない。仕事?そんなものたくさんだ。職場になんて金輪際行きたくない。

 黙って揺さぶられていた男が、ふいに蒔田の手を振り払った。

「寝覚めが悪かったからですよ。別にあんたを助けたかったわけじゃない」

 見下すように強い口調で言い、男は立ち上がる。

 彼は自分の境遇には無関係だ。たまたま助けてくれただけ。わかっているのに、突き放されたことで反射的に涙が浮かんでくる。

 みっともなく初対面の男の前で泣くことも、もうどうでもよかった。

「もう嫌だ……」

 蒔田は両手に顔を埋めて呟く。身体がだるい。

 ここは、湖のそばなのだろうか。そうだとしても、もう一度湖に飛び込む気力はなかった。だが、このまま生きてもいたくない。誰かスイッチを切るみたいに死なせてくれればいいのにと思う。

 もう何も、考えたくなかった。

 男はそのまま、部屋を出て行った。家の中はしんと静かで、まるで自分しかいないみたいだった。ぱちぱちと火が燃え続けている。魅入られるように、蒔田はそれをじっと見ていた。

 そうしているうちに何分が経っただろう。

「飲みますか」

 戻ってきた男の仏頂面を見て、心の底からほっとした。彼は日本酒の一升瓶と、小さなおちょこを手にしていた。

 縋るように、蒔田はコップを手にとった。男が慣れた手つきで日本酒を注ぐ。

 酒に口をつけると、じわりとアルコールが染みた。口の中にふくよかな米の甘みが広がる。今まで飲んだどんな酒よりおいしかった。もう泣きたくないと思うのに、また涙が溢れてくる。

「おいしい」

 蒔田は深く息を吐いた。細胞が生き返っていくような気がする。

 酒はびっくりするほど甘く、味が濃かった。

 一体ここは、どこなのだろう。自分が助けられたことはわかったが、古びた家のせいもあって、現実感がない。

 酒を持ってきてくれた男は、相変わらずの無表情だった。

「……君」

「え?」

「君も飲め」

 男は呆れたような顔で蒔田を見た。若いが、成人はしているだろう。

「俺は、苦手で」

「付き合ってくれ、頼む」

 男はしばらく不満そうな顔で黙っていた。だけど立ち上がると、おちょこをもうひとつ持って戻ってきた。

「知らないですよ」

 男は眉根を寄せて、困ったように言った。

 

 

 本当に古い家だった。時折、どこからともなく家の軋む音がする。蒔田の祖母の家だって、もっと近代的だ。博物館の中にでも迷い込んでしまったみたいだった。

 天井を通る梁は太く、部屋の隅にはじっとりとした影が落ちている。ぱちぱちと、囲炉裏の火は燃え続けていた。

「この家に住んでるのか?」

「そうです」

 男は豊、とだけ名乗った。年は蒔田の五つ下の二十三歳。とにかく愛想のない男だった。

「何かスポーツでもやってるのか?」

 上背があり、姿勢もいい。痩せてはいるが、ほどよく筋肉がついていることが見て取れた。

「水泳を……もうやめました」

 豊はそれ以上のことは口にしなかった。大会に出てた? 部活? 疑問は浮かぶが、聞いてほしくなさそうだったので、蒔田は話題を変える。

「じゃあ、仕事は? もしかしてまだ学生?」

「学生ではないです」

 その話題にも答えたくないのか、それ以上話を広げようとしない。

 随分と人見知りをするタイプのようだった。学生ではない、という言い方からすると、無職なのかもしれない。

「この家、ずいぶん広いみたいだけど、他の家族は寝てるのか?」

「ここに家族はいません」

 そう言って豊は、なぜか笑った。これまで愛想がなかったのに、唐突だった。

 ふいを突かれて、蒔田は一瞬息を飲む。

 確かに彼の顔立ちは整っている。それに、笑うタイミングも謎だった。でも、そのせいだけではなく、なぜか胸を突かれた。大人びたようで、子供っぽいような……不思議な笑顔だった。

 見た目にはよくわからないが、酔っているのかもしれない。彼はまだおちょこ一杯分くらいしか飲んでいないのだが、強くはないと言っていた。

「いない? じゃあどこに?」

 ここに来るまでには電車を乗り継ぎ、一日に三本しかないバスに乗ってきた。若者が一人で住むには辺鄙な場所だ。

 昔は観光地だったらしいが、今はもうほとんど来る人はいないようだった。だがそれ以上蒔田が口を開く前に、豊が言った。

「じゃあ俺も聞いていいですか、なんで死のうとしたんです?」

 まるで踏み込まれたことへの意趣返しみたいだった。

「……色々あるんだよ」

「色々って何ですか?」

「君には関係ない」

 図星を指され、蒔田は思わず強い口調で口にする。

「関係ない? びしょ濡れのあなたを引っ張ってきて、服まで着替えさせてこうやって酒を振る舞ってるのに、関係ないんですか」

 それまで口数が少なかったのが嘘のように、豊は強く口にする。

「ありがた迷惑だ、誰も頼んでない。君、酔ってるのか?」

「じゃあさっさともう一回溺れてきたらどうですか」

「……言われなくてもそうする」

 反射的に言い返したが、蒔田は立ち上がる代わりに酒を口に運ぶ。変な男だ、と思った。

 酒は本当においしかった。じわりと身体の奥から熱が湧いてくる。そうすると、思い出したくないことまでもが湧いてきてしまう。

”淳彦、何も恥ずかしがることはないよ”

 あの男を、この世から消してしまえたらどれだけいいだろう。

 でもそれができないから、自分が消えようと思った。

「死にたい……」

 思わず言葉が口をついていた。蒔田はうつむき、更に酒を口に含んだ。

「死にたいんだ」

 如才ない友人知人らには決して冗談でも言えなかった。だから、誰にも言わずにここに来た。ずっと昔に小さな新聞記事で、この湖での身投げ事件について見たことがあったからだ。

 死ぬ方法はいくらでもある。それこそ通勤電車に飛び込むことだって可能ではある。

 それでも、東京を離れて静かな湖にひとり沈む。そんな死に方を、できるならば選びたかった。

「だから、何でです」

「ふられた」

 もうこうなったら、恥をかくのも今更だ。

「ふられたくらいで?」

 豊は淡々と尋ねる。それくらい、のことなのかもしれない。だけど蒔田にとっては大事件だった。

「職場の先輩で、初めての同性の恋人で……俺は、恋愛とかできない人間だって思ってたんだ……でも、違った。俺は恋愛相手の性別を間違えてただけだった」

 今までは女性と付き合っていたし、それが当然だと思っていた。だけどいつもうまくいかなかった。

 同性の先輩にアプローチを受けたときは、最初は気持ちが悪いと思った。たちの悪い冗談だろうと。だけど気が付くと、はまっているのは蒔田の方だった。

 滑稽なほど夢中になった。

 今まで自分がしていたのは、きっと恋愛ではなかった。目を見開かされるような思いだった。その恋愛に蒔田は浮かれ、我を失った。

「……気持ち悪いだろ」

 誰にも言ったことはなかった。同性が恋愛の対象なんてありえないと、昔の蒔田自身が思っていたからだ。

 なのにするすると言葉が口をついた。どうせ、彼とは二度と会うこともないだろう。

「別に普通じゃないですか」

「え?」

「恋っておかしくなることでしょう」

 豊が仏頂面のまま言うので、蒔田は思わず笑ってしまった。バカにされたと思ったのか、豊は顔をしかめる。

「あんたが気持ち悪いのはゲイだからじゃなくて、めそめそ泣いて死のうとしてるからじゃないんですか」

 咎めるような口調で言われても、もう腹は立たなかった。

「ひどいな、死のうとしてた相手に」

 まだ笑いが収まらなかった。豊はむっとした顔で蒔田を見る。

「そういうこと言うのはうざいです」

「うざいとか言うなよ」

「うざい人にうざいって言って何が悪いんですか」

 蒔田はまた笑った。豊は蒔田を慰めるようなことは一言も言わなかった。ただ、蒔田の杯が空いたら、まめに一升瓶から酒を注いでくれた。

「さすがに飲み過ぎてるような……」

 酔いが回って、体がふらふらとしてくる。

「あなたはうるさいから、酒でも飲んでればいいんですよ」

「君ももっと飲め」

「俺は弱いんで」

 酒はおいしく、豊と話すのも楽しかった。

 変わらずに、暖かな火がはぜている。ぱちぱち、というその音が静かに続く。

 死のうと思った時、こんな穏やかな時間が過ごせるなんて、夢にも思っていなかった。

 そうやって飲み続けているうちに、いつしか蒔田は意識を失っていた。

 

 

”理解をしてほしいな。お前は、選ばれなかったってことだ”

 二度と聞きたくもない声がする。思い出したくもないのに。

”恋愛はそういうものだろう”

 息が苦しい。喉に水が流れ込んでくる。

 息ができない。

 誰か、誰か助けてくれ。必死でもがいて手を伸ばした。

”三番目だよ”

 必死に伸ばした指が、ひんやりしたものに触れる。

「大丈夫ですか?」

 薄く目を開けると、男の姿があった。蒔田は必死に荒い息を吐いていた。

 彼は誰だっただろう。思い出せない。

 蒔田は必死に、彼の手を掴んだ。二度と離すものかと思った。

 涙が滲んでくる。胸のうちに針をつめ込まれたみたいだったのが、急に呼吸が楽になる。

「大丈夫……落ち着いて」

 額に触れる指を感じた。指はそのまま、ゆっくりと髪を撫でる。

 泣きたいくらい気持ちがよかった。気が付くと再び、蒔田は眠りに落ちていた。

 

 目を覚ますと、ひどい頭痛がした。

 どこにいるのか、自分が何をしていたのかまるで思い出せない。見慣れない太い梁のある天井だった。囲炉裏の火は落ちている。

「あれ……」

 ぼんやりと昨日の酒盛りのことが思い出されてくる。頭がずきずきと痛い。明らかに飲み過ぎだった。あまりにおいしい酒だったし、彼がどんどん注いでくるから。

「化かされたかな……」

 男の姿はどこにもなかった。

 水が飲みたかった。ぼんやりと身体を起こし、周囲を見渡す。

 本当に古風な家だった。まるで百年前に迷い込んでしまったみたいな感じがする。外からかすかに小鳥の鳴き声がしていた。

 そのうちに足音が近づいてきたかと思うと、作務衣のような服を着た豊が顔を覗かせた。

「メシ、食いますよね」

「……食べる」

 豊はそれだけ聞くと、また部屋を出て行ってしまった。

 実在していた。狐や何かに化かされたわけではなかったようだ。ほっとして蒔田は肩を撫で下ろす。

 穏やかな朝だった。鳥の鳴き声以外は、ほとんど音がしない。

 わずかに開いた窓から、蒔田は外を眺める。荒れた庭の木々と、その向こうに湖が見えた。人の姿はどこにもない。

 蒔田が溺れそこねた湖だった。

 昨日と同じように、静かな湖面だった。ここから豊は自分を目撃したのだろうか。

 不思議な気分だった。たぶん昨日、彼はここに立っていて、自分を見つけた。そうして彼のおかげで今、自分はここに立っている。

 考えているうちに嫌なことを思い出しそうになり、また吐き気がせり上がってきた。

「気持ち悪い……」

「飲み過ぎですよ」

 えづくのをこらえて蒔田がうずくまっていると、やってきた豊が呆れた顔で言った。

 

 豊が作ってくれた朝食はおいしかった。ご飯と味噌汁、温泉卵に焼き魚という、旅館の朝食みたいなメニューだった。

「ここは、店でもやってたのか?」

「……昔、旅館を」

 まだ若いのに、本当にこんなところで一人暮らしをしているのだろうか。豊は昨夜以上に口数が少なかった。

 彼の素性も気にはなった。だがそれよりも蒔田は既に、みっともない姿を見せてしまったことを後悔し始めていた。

 誰にも言うつもりなんてなかった。

 さわやかな朝の光が差し込む部屋の中では、昨夜のように落ち着いた気分にはなれなかった。

 気まずいまま食事を終えて、蒔田は口にする。

「もう、戻らないと……」

「バス、もうすぐですよ」

 蒔田は慌てて身支度を整えた。休みは今日までだ。死ねなかった以上、東京に戻らないといけない。溺れていたときに着ていた服は、きれいに洗濯されてアイロンもかけられて出てきた。

「よければ少しだけ、食事代と宿泊代だけでも……」

「金が欲しくてやったことじゃないんで」

 豊は頑として金を受け取らなかった。

 蒔田は焦って荷物を持つと、家から出る。外から見ても驚くほど古い家だった。文化財として認定されていてもおかしくない。ぼろぼろの看板がかかっていて、旅館の文字が見えた。風光明媚なところだ。きっと昔は繁盛していたのだろう。

「あの、本当にどうもありがとう、助かった」

 豊は一瞬、蒔田の顔をじっと見た。

「どうも」

 蒔田は思わず、目をそらしてしまった。気まずい。男に捨てられて死のうとしたみっともない男。それを知られていることが、恥ずかしくて仕方がない。

 蒔田は早足で歩き出す。

 昨日の夜のことは、いっときの幻みたいなものだ。幸せな錯覚だ。

 ……何にせよ、もう二度と会うこともないだろう。

 かすかに切なく胸がうずいた。

 蒔田は湖を見ながら大きく伸びをする。

 湖面は穏やかだった。小鳥のさえずりが聞こえる。もうさすがに、飛び込もうとは思わなかった。

 

 ・

 

「蒔田さん、ちゃんと家帰ってるんですか?」

「帰ってるよ、そうじゃなきゃ毎日違う服着てるわけないだろ」

「でも、毎日遅くまで残って……」

「全然平気だよ。むしろ一昨年とかより、減ってるし」

 蒔田は完璧な笑顔を後輩の山崎に向ける。外面だけを取り繕うのは得意だ。恵まれた外見に産んでくれた両親には感謝しかない。

 仕事はいい。決まった時間に決まったことが進む。トラブルだってあるけれど、基本的には毎日何かが前に進んでいく。

 もう二度と出勤などするものかとも思ったけれど、戻ってみれば、それなりに居心地のいい場所だった。

「心配ですよ、私。ダメだって思った時にはもう遅いんですからね?」

 山崎は以前、蒔田と同じ企画営業部門にいたが、体調を崩したのを契機に庶務課に異動した。今もこうして、ちょくちょく蒔田の様子を見に来ている。

「わかってるよ」

 蒔田が笑って手を振ると、山崎は呆れたような顔をした。だけど嬉しそうでもあった。

 東京に戻った蒔田は、息をつく暇もないほど仕事をし続けた。

 仕事をしていた方が、むしろ楽だった。やるべきことがないと、考えても仕方がないことばかり考えてしまう。

 ……あれ以来、自殺未遂はしていない。

 トイレに行ってから席に戻ると、パソコン画面に電話連絡があったことを伝える付箋が五つも付いていた。どれも折り返す必要がある案件ばかりだ。

「はい……お世話になっております」

 背筋を伸ばして、蒔田は受話器を手に取る。やるべきことは山積みで、残業をしようと思えばいくらでもできた。

 入社数年で企画営業部門に移動できたのは非常にラッキーだった。ここで成果を出さないと、この会社の中で生き残ることはできない。今の部署では若手にあたる蒔田は、雑務をしなければならないことも多かった。飲み会の調整や、パソコンの保守など、くだらない割に時間がかかる。

 やるべきことに追われていると、日付が変わるまではあっという間だった。

 昼食も夕食も、時には食べ忘れる。それでも腹はほとんど空かなかった。

「あんま、根詰め過ぎるなよ」

 日付が変わった頃、フロアに蒔田以外で、唯一残っていた課長が言った。彼は、ちょうど帰り支度を終えたところだった。

「はい」

「お前には期待してるんだ。こんなところで潰れてもらっちゃ困る」

「恐縮です」

「ライフワークバランス、な?」

 何がバランスだ、と思いながらも蒔田は笑顔を浮かべる。じゃあ人員を増やしてくれと言いたいところだが、言っても無駄だから口にはしない。

「プライベートが充実してないと、いい仕事だってできないぞ」

 そんな理想論を振りかざされても困る。課長だってまだ二歳の子どもがいるが、この時間に帰っても、もう寝ているだろう。そんな生活のどこが、バランスが取れているというのか。

「そうですね」

「じゃあ、お疲れ様」

「お疲れ様です」

 課長は足早に去っていった。

 プライベートの充実なんていらない。もう恋愛にはこりごりだ。

 だがなんとなくやる気が削がれた。今すぐ出ればまだ終電に乗れる。蒔田は大きなため息をつく。

「帰るか……」

 蒔田はそれからすぐに職場を出た。フロアはもう真っ暗だった。泊まりこむような仕事バカの多い職場ではあるが、今日はもうみんな引き上げてしまったらしい。

 かつん、かつんと足音がして、驚いて振り返ると、警備員だった。

「お疲れ様です、今閉めます」

 警備員は懐中電灯を持ったまま、軽く頭を下げた。そうして蒔田がフロアをカードキーで施錠し終えるまで待っていた。ぴっと音が鳴って施錠の完了を告げる。

「お疲れ様です」

 蒔田はもう一度口にした。

「お疲れ様です」

 今度は返事が返ってきた。

 思いのほか時間を取られてしまっていた。蒔田は足早に職場を出て、駅までの道を急ぐ。終電は混んでいるから嫌いだが仕方がない。

 混んだ電車に揺られ、帰路にあるコンビニに寄った。だが何も食べる気になれなくて、結局ゼリー飲料だけを買った。

 一人暮らしの部屋には、服やペットボトルなどが散らばっている。

 ライフワークバランスと言っても、もし早い時間にこんな部屋に戻ってきてもすることはない。平日はまだいい。特段出勤の必要がない土日などは、地獄のようだった。

 これまで週末は、彼との約束が最優先だった。今思えば本当にバカバカしい。彼から会いたいと言われたら、友達との約束があってもドタキャンした。一緒に出かけるような友人はがくんと減った。

「あー、くそ」

 いつも彼からの連絡ばかりを待っていた。いつだって会いたかったから。気が狂ったように初めての同性との恋に溺れた。

 また暗い方向に気持ちがとらわれそうになり、蒔田は必死で気持ちを切り替えようとする。あんな男のことでこれ以上悩むのは無駄だ。だけど涙がにじんでくる。

 蒔田はゼリー飲料を放ったまま、冷蔵庫を開けた。これまでビール党だったが、最近、日本酒を飲むようになった。

「どれにするかな……」

 彼はどうしているのかと、ふと考える。あの家に今も一人で住んでいるのだろうか。穏やかな湖面を見ながら日本酒を口にしている彼の姿を思い浮かべる。

 それは、寂しくはないんだろうか。

 また一緒に酒を飲みたいと思う。日本酒でも手土産にして持っていったらどうだろうか。おちょこ代わりのマグカップに日本酒を注ぎながら、蒔田は想像する。

 仕方ないですねと言って、付き合ってはくれないか。

 一見穏やかだけれど、気の強い男だった。何しに来たのかとあしらわれるのが関の山かもしれない。蒔田は小さく苦笑する。

 腹は減っていなかったけれど、日本酒ならするすると飲めた。空腹で飲むのはよくないとわかっていても、止められない。

「結構、いい男だったよな……」

 同性との恋愛経験がほぼないので、どういう男が自分の好みなのかもよくわからない。豊は体格もよくて、ゲイにもモテそうな気がする。一般的なゲイのことなど知らないけれど。

 空腹のせいで、酒がよく回る。酔った勢いにまかせて、蒔田は自分の下半身に手を伸ばした。

 ふられて以来、自慰さえほとんどしていなかった。どうしても、別れた彼に触られたときのことを思い出してしまうからだった。

 すっかり酔ったまま、手を伸ばす。豊の強い目で、間近で見つめられるところを想像する。

 こんな想像、バレたら彼には迷惑だろう。だけどきっと二度と会うこともない。強引なくらいの強い力で、肩を掴まれてキスをされてみたい。想像はどんどん膨らんでいく。

「……っ」

 水泳をしていたと言っていたが、脱いだらどんな身体をしているのか。どんな風にキスをして、どんな風に相手を抱くのか。

 蒔田はそのまま、彼に抱かれる想像をして射精した。

「はぁ……」

 また彼に会いたい。だけどそれは叶うことはない望みだろうと思っていた。

 だからこそ、気軽に妄想ができた。

 リアルな恋愛は、もうごめんだった。

 

 

 ときには、気晴らしになるかと思って、同性愛者向けのサイトを覗いたりもした。だけど、並ぶプロフィールを見ていても、誰かに会いたいとは思えなかった。

 何をする気力もわかない。食欲もないままだった。豊が出してくれた朝食が懐かしい。訪ねて行くことも何度も考えたけれど、拒絶されるのが怖くてできなかった。

 酒の量ばかりが増えていく。幸い強い方なので、二日酔いになることはめったにないが、最近は体力も落ちている気がする。

 こんな気持ちで、いつまで過ごせばいいのだろう。

 死にたくなくなったわけではない。ただ、死ぬこともできず生きている。

 

 その日は朝、電車に乗っている時からめまいがひどかった。それでも多少の不調くらいなら、仕事をしている間に忘れられる。

 だが、デスクについてからもめまいはなかなかやまなかった。

「すみません、ちょっと体調悪いんで、一時間くらい外します」

「大丈夫か?」

「たぶん、ちょっと横になれば楽になると思うんで……」

 電話を取るのも辛くなり、蒔田は席を立った。フロアの隅にある休憩室に向かうつもりだった。

 視界がぐらぐら揺れていて、息が苦しい。まるであの湖で溺れたときみたいだった。連日の酒のせいだろうか。

 平らな場所を歩いているはずなのに、足が滑る。頭が重い。

 誰か……助けてほしい。だけど職場でそんなことは誰にも言えない。

 一人暮らしの蒔田に、身近に頼れる人間はいない。早退するならタクシーを呼んでもらわないといけない。この状態で電車に乗るのは無理だ。

 ぐらりと大きく視界が揺れた。倒れる――そう思った。だけど、予想した衝撃はなく、誰かの腕に支えられたまま、蒔田は意識を失っていた。

 

 

”淳彦はかわいいよ、そのことをみんな気づいてないだけだ”

 からかわないでくださいと言い返した。大の男がかわいいと言われて喜ぶはずがない。

”本当だよ。ほら、みんな淳彦のことを見てる”

 同性愛者ばかりのクラブに行ったのも、その時が初めてだった。今思えば、非日常な場所に連れて行って混乱させる手法だったのだろう。

 ガンガンと低い音で音楽が鳴っていた。出された酒は、味もよくわからないまま口にした。度数のかなり強いものだった。

 その日、彼と初めてキスをした。そのまま、流されるままにセックスをしていた。

 きっと彼にとっては、赤子の手をひねるようなものだっただろう。何もわかっていない自分は、簡単に夢中になった。彼が望むことなら何でもしたかった。休みや夜中の急な呼び出しも、ただ嬉しかった。

 初めて、人を好きになれた。

 あんなに誰かに夢中になるのは初めてだった。

「気が付きましたか?」

 目が覚めて、自分がどこにいるのかわからなくて混乱した。

 タイル状になっている白っぽい天井は、どこかで見た覚えがある。

 蒔田が寝そべっていたのはソファだった。狭い部屋のあちこちに乱雑に私物が積まれている。着替えだったり、非常食だったり、様々だ。半ば物置みたいな部屋だった。

 ――休憩室だ。蒔田はやっと自分がいる場所を悟る。

「大丈夫ですか?」

 だけどここに、彼がいるはずはなかった。

「……え?」

 蒔田はただ呆然と、彼の顔を見つめた。

 他人の空似だろう、とまず考えた。世の中、似ている人間が三人はいるという。

 考えもしていなかった。あの湖までは、東京から新幹線に乗り、在来線に乗り継ぎ、一日に三本しかないバスに乗って行った。

 ここからはあまりに遠い。

「何、幽霊でも見たような顔してるんですか」

 警備服を着た豊は、相変わらず無愛想にそう口にした。

 

 

  2.

 

 会社の近くで個室がある、落ち着いた居酒屋を探したら、付き合っていた彼とよく行っていた店しかなかった。案内されたのも、何度か使ったことのある個室で、その時点で蒔田の気分は最悪だった。

 今日、目の前にいるのはあの男じゃない。

「体調、大丈夫なんですか」

 彼よりたぶん、十歳は若いだろう男だった。

「平気だ」

 再会に喜びを覚えたのは、ほんの一瞬だけだった。蒔田は彼の顔を、直視できなかった。また会いたいとは思っていたが、普段の自分とかけ離れた場所だったらという限定付きだ。

 職場でなんて、会いたくなかった。

 自分がゲイであることも、先輩との情事の顛末も、豊以外誰にも口にしたことがない。できるわけがなかった。職場では蒔田はそれなりに有望な若手として通っている。

 男にふられて自殺未遂。ざぁっと血の気が引いた。絶対に誰にも知られたくはなかった。

 彼とのんびり日本酒を飲み交わす――そんな牧歌的な夢は、もう消えていた。とにかく彼に対して、口止めをしなければならない。

 もし自分の会社に縁のある人間だとわかっていたら、絶対に言ったりしなかった。悔しい思いで蒔田は唇を噛む。

「知ってたのか」

 一杯目のビールが運ばれてきてすぐ、蒔田は本題を口にした。どうせもう、彼には本性を知られているのだ。今更隠す必要もないだろう。

「何がですか」

 豊は涼しい顔でお通しに箸をつけている。

 今日、豊は蒔田がいることに驚いたようには見えなかった。

「俺がこの会社にいるって」

「前、夜に帰った時、挨拶しましたよ」

「いつ」

「半月くらい前」

「なんで言わない」

「気づいてなかったんで」

 そういうことはあったのかもしれない。だけど仕事に疲れているときに、警備員の顔など気にしていられない。

「そういう問題じゃない」

 急に強い怒りと羞恥に襲われた。

 二度と会わない相手のはずだった。だからこそ、誰にも言ったことないことを口にし、こっそり彼に抱かれる想像までした。

 恥ずかしくていたたまれない。

 だけど豊は、彼の言によるところ週に四日は同じ会社の中にいるのだ。自分と同じ会社の中にいる相手を、ずっと遠くにいるものと思って妄想していたなんて間抜けもいいところだ。

「とにかく、誰にも言わないでくれ」

 豊は単なる警備員だし、自分が頼めばすぐに「はい」と答えるだろうと思った。

「あなたは、俺がぺらぺら『あの人死のうとしてたんですよ』とか誰にでも言うと思ってるんですか」

 だが、思いの外強い口調で豊は言い返してきた。

 そうだ。こういう強い言い方をしてくる男だった。

 豊はじっと蒔田を見ている。見ないようにしていたのに、思わず目が合ってしまった。真っ黒な目だった。

「……わからないだろ」

「は」

 口止めをされたことがよほど気に喰わないのだろうか。それまでの様子がウソのように、豊はバカにしたように小さく笑う。

「そうですね。言うかもしれないですね」

「何なんだ、君は……!」

 かあっと頭に血が上った。いいやつかも知れない、と思っていたのがバカだった。本当に、自分は大バカだ。誰にも本音なんて言うべきじゃなかった。

「俺、蒔田さんのとこのアルバイトのおばちゃんとはわりと仲がいいんですよ」

 含みのある口調で豊は言う。

 それは最悪のシナリオだった。様々な雑事を担っているアルバイト職員はどの部署にもいて、アルバイト同士の横のつながりが非常に強い。彼女たちに知られたら、社内中に知れ渡るのも時間の問題だ。

「でも、相手って社内の人なんですよね? 相手だって知られたら困るんじゃないですか?」

「あいつがそんなことで困るはずない」

 そんな噂だってきっと武勇伝のひとつにしてしまうだろう。自分とは、バイタリティが違う。

 蒔田は無理やりビールを飲み込む。苦いばかりで、まるでおいしいとは思えなかった。

 豊にまた会えて、嬉しいのも事実ではある。穏やかだけれど強い目。細いのに筋肉質な腕。今まで自分が妄想の中で思い描いていたものが、目の前にある。

 蒔田は小さく首を振った。

「とにかく、絶対に言わないでくれ、頼む」

 金なら払う、と喉元まででかけたが、さきほどの豊の反応を見てやめた。

「言わないでいてくれれば、例えば、君が正社員になれるようにも取り計らえるかもしれない」

 慎重に蒔田は口にする。あの家を見る限り貧乏ではなさそうだが、安定した仕事を求めてはいるのではないか。このご時世、誰だってちゃんとした仕事は欲しいはずだ。

「わざわざ俺をずっと社内にいさせるようなこと、あんたはしないんじゃないですか」

「うちの社の、とは言ってない」

 付き合いのある会社でどこか社員募集をしていたら、口利きくらいしてやろうかと思ったのだ。だが、豊はふんと小さく鼻を鳴らしただけだった。

 豊はビールを勧めても、ずっと烏龍茶を飲んでいた。食欲はあるらしく、頼んだつまみをほとんど片端から空にした。

「……食べないんですか?」

「俺はいい」

 対照的に、蒔田には食欲なんてなかった。お通しの切り干し大根をわずかにつまむだけで、後は酒を飲んでばかりいた。

 会話は盛り上がらなかった。蒔田が気を使って話題をふっても、豊はろくに答えない。結局すぐに席を立つことになった。

 別れ際、蒔田は頭を下げた。職場にほど近いところでこんなことをしたくはなかった。だけど背に腹は代えられない。

「とにかく、誰にも言わないでくれ。頼む」

「……そればっかりなんですね」

「え?」

「何でもないです。じゃあ、また」

 豊はあっさりと、蒔田に背を向けて駅の方に歩いて行った。

 連絡先くらい、聞けばよかっただろうか。

「……くそ」

 こんなことになるなんて、思わなかった。

 どうしてこうなってしまったのか。

 数年前まで蒔田の人生は、順風満帆だった。希望の大学に進み、競争を勝ち抜いて憧れの会社に就職した。

 二十年以上ずっと、自分は異性愛者だと思って生きてきた。女性にだってそれなりにモテた。

 だが、もう女性と付きあおうとは思えない。自分は男とするのが……男に抱かれるのが好きだ。認めたくないけれど、もう気づいてしまっていた。それでも、知らない男と付き合うのは怖い。ネットを使うことも考えたけれど、恐怖のほうが先に立った。

 気分は最悪だった。

 嫌な記憶を思い出しそうになり、蒔田は必死で考えないようにする。なんとか家路につき、ベッドに倒れこんだ。風呂は諦めて明日シャワーを浴びることにする。

「畜生……」

 だけどなかなか眠れなくて、豊の強い目線や、会社のフロアでのうわさ話や、とりとめのないシーンがちらちらと頭に浮かび続けていた。

 

 

 毎朝、職場に行くのが憂鬱だった。

 職場における憂鬱のタネが増えてしまった。

 今は別の部署にいる元恋人と会うことはほとんどないが、豊らしき人影は何度も目にした。

 普段、警備員は定期的にフロアの見回りを行っている。そのうちの何人かは、きっと豊ではなかったのだろう。

 だが、警備員はみな豊のように見えた。廊下に出るたび、鉢合わせないかとびくびくしてしまう。

 何とか心を殺して職場に行った。ただやるべきことをやるだけだ。有休を取って家にいても、かえって気が滅入るだけだともわかっていた。出勤してしまえば、仕事自体は楽しい。

 ホームドアが設置された線路を見ながら、ここに飛び込めば一瞬なのかなと考える。

 それでもかろうじて、日々をやり過ごしていった。

 豊が今のところ、誰かに蒔田のことを口にした様子はなかった。実際、同じビルの中で働いていても、職員が警備員と話をする機会はそう多くない。

 大丈夫だ。何度自分に言い聞かせても、どうしても安心はできなかった。

 

「あの、杉浦さんって、警備員の若い男の人と、知り合いって本当ですか?」

 気になって仕方がなくなり、蒔田はそれとなく探りを入れてみることにした。

「知り合い? 菊池さんのこと?」

 豊が親しいと言っていたアルバイトの杉浦は、六十歳を過ぎた女性だ。たまに旅行に行ったわけでもないのに、買った菓子を配っていたりする。

「ええと、はい」

「知り合いっていうか、たまたま重いもん運んでたとき、手伝ってもらったことがあるだけよー」

 そう言いながらも、杉浦はなんだか嬉しそうだった。

 彼女はそれ以上は聞きもしないのに、豊について詳しく話してくれた。

 もともと関西で就職もしていたのだが、家族の都合で退職してしまい、警備員のアルバイトをしているのだという。

「すごい孝行な子なのよ。一人でおばあさんの看病をするためだって。偉いわよねぇ」

 蒔田は「そうなんですね」とだけ言って笑う。

「そのおばあさんは?」

 あの広い家に、あの日彼は一人だった。寝ている病人だとしても、さすがに家の中にいたらわかっただろうと思う。

「さぁ……亡くなったんだったかしら?」

 杉浦もそれ以上のことは知らないらしかった。豊本人に聞けばいいのかもしれない。

 だけど自分から彼に話しかけることは、なかなかできなかった。

 

 

 数日後、蒔田は取引先との飲み会で想定以上の量の酒を飲まされた。蒔田は最初から社に戻ると言っていたのにも関わらずだ。

「まだ飲めるでしょう」

「ほら、もうグラス空いてるよ?」

 もう家に帰ってしまいたいような気分だった。だが、もともと社に戻るつもりだったので、朝一の出張の資料を社に置いてきてしまった。

 明日の朝に一度社によると大幅な時間ロスになる。それならばまだ、今帰ったほうがマシだ。

「……くそ」

 飲みたくないと言ったのに、ハラスメントもいいところだ。特に向こうの課長がひどかった。やたらべたべたとまとわりつくように話しかけてきて、キャバクラに行こうとしつこく誘ってきた。

 胃の中でビールや日本酒がまだたぷたぷしている気がする。

 蒔田は駅に向かう人々と逆行して歩いた。ビルにはまだ明かりがたくさん付いている。みなまだ残業をしているのだと思うと、少しだけ勇気づけられる。

 社の中はずいぶん静かだった。そういえば、別の課でも今日は飲み会だと言っていた気がする。

 蒔田の課で残っているのは、別の班のリーダーだけだった。

「お疲れ様です」

 軽く挨拶をして、資料を手に取る。今日はもうこの体調だと仕事にならない。

「おー、お疲れ」

 疲れた顔に見送られてフロアを出たが、ひどく喉が渇いていることに気づいた。

 蒔田は給湯室に行き、蛇口を捻って、そのまま水に口をつけた。冷たい水が心地よく喉をすべり落ちていく。

 だが、気持ちがよくなったのはそこまでだった。急に吐き気に襲われ、その場で蒔田は吐き戻した。

「うえ……」

 それほどの酒量だったつもりはなかった。今までいくらでも、飲み会の後だって仕事をしてきた。

「……っ」

 息苦しくて涙がにじんでくる。そのまま水を流し続けて、なんとかシンクの吐瀉物を洗い流そうとする。

 このまま倒れてしまいたい。身体に力が入らない。

 何とか一日一日をやり過ごして、ここまできた。でも、もうダメかもしれない。初めての同性の恋人だったあの男は、単に蒔田に秘められた欲望を知らしめただけじゃない。

 ……心を奪い、そして粉々にした。

「大丈夫ですか?」

 急に懐中電灯で照らされて、思わずびくりとした。まるで何か悪いことをしていたかのようだ。

 懐中電灯を手に、こちらを照らしていたのは豊だった。

 まずいと思ったが狭い給湯室では逃げ場もない。

「……吐いたんですか?」

 洗面所の吐瀉物の残りを見て豊が言う。急に恥ずかしくなってきて、蒔田は必死にそれを水で流そうとした。だが、気持ちの悪さはまたせり上がってくる。

「う……」

 蒔田は必死に、口元を押さえた。

 豊が近づいてくる。何をするのか、と思っていたら、懐中電灯をシンクの上に置いて、蒔田の背を撫でてくる。

「全部吐いちゃえば楽になりますよ」

 びっくりするほど柔らかい手つきだった。手のひらが暖かくて、気持ちがいい。疲労にまみれ、強張っていた体からふっと息が抜ける。

「……大丈夫、だから」

「ムリしないで」

「本当に大丈夫なんだ、放っておいてくれ」

 蒔田は強引に、豊の手を振り払った。

 口元に残っていた吐瀉物を拭い、水を流した。完璧ではないがこの程度でいいだろう。

「もう行ってくれ」

 だが豊は、間近に立ったまま、なかなか立ち去ろうとしなかった。

「飲み過ぎじゃないですか?」

 呆れたように言う。

「……別に、酔ってない」

「どう見ても酔ってるじゃないですか」

 これ以上の押し問答を避けたかった蒔田は、そのまま給湯室を出ようとした。だけど足が思うように動かなくてふらつく。

 転ぶ、と思った時には豊に支えられていた。しっかりとした腕に支えられているのは安心感があって、だけど必死に蒔田は振り払った。

「まだ死にたいとか思ってるんですか」

 急に核心に迫ることを言われて、蒔田は豊を睨みつける。

「何がわかる……!」

「わかるわけないじゃないですか」

 よろけたせいか、また吐き気がせり上がってくる。

 豊に当たるのは筋違いだろう。彼は善意で自分を助けてくれただけだ。だけどこんなところで平然とそれを口に出されるのは悔しかった。しかも年下の男なんかに。

 ぐらりと視界が揺れる。

「う……っ」

「……ちょっと、ほんとにやばいんじゃないですか?」

 戸惑ったような豊の声が降ってくる。だけどもう返事をする余裕さえ蒔田にはなかった。

 

 

 あの家は暗かった。でもそれが、不思議と落ち着いた。

 古い日本家屋というのはそういうものなのかもしれない。テレビも見当たらなかった。鳥の鳴く声だけが聞こえた。あんなところで暮らすのはきっと心地がいいだろうなと思う。

 それとも、寂しくなるものなんだろうか。

 豊はあの家で、祖母の看病をしながらどのように過ごしていたのだろう。よく湖を見ていたのだろうか。

 暗い家の中から、じっと湖面を見つめている豊の姿を想像する。もしできるなら、その隣に自分がいたらいいなと思う。振り向いた豊に名前を呼ばれる。

 そんな暮らしができたら、どれほど幸せだろう。

 

「……水飲みますか?」

 気が付くと、見たことのない部屋だった。だが、あの日本家屋とはずいぶん雰囲気が違う。社内の休憩室でもない。

 目の前に差し出されたコップの水に、蒔田は口をつける。思っていたよりずっと喉が渇いていたらしい。すぐに飲み干してしまった。

「大丈夫ですか?」

 豊がいるなら、ここはまだ地獄じゃない。大丈夫だ。

「大丈夫……」

「寝ていいですよ」

 もう逆らう気力もなかった。蛍光灯の明かりが白々と部屋を照らしている。アパートかマンションの一室らしい。ベッドとテレビと机の他には、これといって物のない狭い部屋だった。

 蒔田がぼんやりと部屋を見渡していると、豊は上着を脱ぎ始めた。心臓がどくりと騒ぐ。見てはいけないと思うのに、目が吸い寄せられてしまう。

「君の部屋か……」

「そうです、朝、起こしますから寝ててください」

「君は?」

 蒔田が寝ているベッドは、セミダブルのようだが明らかに一人用だ。

「え?」

 豊が下着姿のまま、振り向いて言う。

「俺がここで寝たら、寝るとこあるのか」

「床でいいです」

「それは困る」

「なんであんたが困るんですか」

 そう言って豊は少し笑った。やっぱり、大人びた笑いをするなと思った。

「……俺が追い出したみたいじゃないか」

「その通りですけど」

 豊に目をやると、まさに上半身裸になったところで、蒔田はすぐに目を逸らした。

 こんなのはただの生理的な反応だ。そう思ったけれど心臓が鳴り止まない。

 現実の彼とはできる限り、関わり合わないようにするはずだった。なのにこんな風に、目の前にいたら気持ちが落ち着かない。

「俺が床で寝る」

 蒔田は重い体を何とか起こす。

「気にしないでください」

 床といっても、ラグがあるから、それほど寝心地は悪くないだろう。社内で眠ることもあるし、ひどい寝床には慣れている。

「いや、俺が寝る」

 蒔田が床に降りようとすると、豊がベッドの上に押さえつけてくる。寝間着らしいTシャツに着替えた豊は、いつもより少し幼く見えて、新鮮だった。

「ここで寝てください」

 伸し掛かられるような形で、間近で言われた。豊の体温を感じる。

「嫌だ」

 彼を直視できず、蒔田は顔をそむける。

「本当に、わがままですよね」

 あきれたような口調にかっと頭に血が上った。

「誰が……!」

「じゃあ、こうしましょう」

 蒔田の体をベッドに押さえつけ、豊が隣にもぐりこんでくる。鼓動が更に早くなった。

 一人用のベッドで男二人が並ぶのはかなりきつかった。どちらも小柄でもない。どうしても体が触れてしまう。だけど蒔田が体を起こそうとすると、豊の腕に押しとどめられた。

「ふたりともベッド、これでいいですよね?」

 いいわけがない。心臓がどくどくいっていてうるさいくらいだ。豊にばれたくない。

 でも、こんなのは困ると口にしたら、豊のことを意識していると告白しているようで、言えなかった。

「……狭い」

 蒔田は動揺を隠して、慎重に口にする。

「わがまま」

 豊が手元のリモコンで電気を消すと、部屋は真っ暗になった。豊の息で掛け布団が上下するのがわかる。

 こんな状況で、もう眠ってしまったのか。

 誰かの体温を、これほど身近に感じるのは久しぶりだった。淡い性的な興奮と、温かい感覚が、まだ酒が残ってぼんやりしている頭にしみてくる。寝られるわけがない、と思ったのに、酔いのせいかすぐにまぶたが重くなってきた。

 ベッドは狭く、だけど暖かくて心地がよかった。豊がそばにいると、いつも安心感がある。

 ――こんなのはずるい。

 いつの間にか、蒔田は眠りに落ちていた。

 

 ・

 

 ぐっすりと眠れるのは久しぶりだった。

 酒のせいか、寝覚めがよくない日が続いていた。だけど今日は、なんだかとてもよく眠れた。ぼんやりとした幸福感だけが、意識に残っている。

 体を起こして、蒔田は見覚えのない部屋にいることに初めて気づく。

「……え?」

 まさか行きずりの男と、と一瞬考えたが、自分にそんな度胸があるとも思えない。呆然としていると、味噌汁のいい匂いが漂ってきた。

「あ、よかった起きて。朝、ご飯で大丈夫ですか?」

 顔をのぞかせた豊を見て、やってしまった、と思った。

「……ああ」

 豊は相変わらず、平然とした顔をしている。

 また豊にみっともないところを見せて、助けられてしまった。五つも年下の男に。

 こんなに狭いベッドに二人で寝て……自分の隣を見ると、まだベッドには豊が抜けだした跡がはっきりと残っていて、それを見ただけでかあっと顔が熱くなる。手を握ってさえいないのに。

「温泉卵いります?」

「頼む」

 蒔田は頭を抑えながら答える。

 豊とはもう関わりあうべきじゃない。

 豊に弱音を吐けたのは、彼が二度と会わない相手だと思っていたからで……こんなのは、困る。

 単に恥ずかしいからだけじゃない。きっとこのまま彼のそばにいたら、欲望を抑えきれなくなる。どうしようもなく好きになってしまう。

「あの……昨日は悪かった」

 部屋を出てすぐのところのキッチンにいる豊に向かって蒔田は声をかける。

「何がですか?」

「……その、酔って絡んだというか」

「前ほどじゃ全然なかったですよ」

 フォローになっていない。豊はてきぱきと、テーブル上の本を片付けてフキンで拭き始める。手慣れた様子だった。

「別に服に吐かれたわけでもないし、俺でよければ付き合いますから、ストレス解消したほうがいいんじゃないですか」

 正論だが、てきぱきと朝から働いている年下の彼に言われると立つ瀬がない。

「わかった、次は君の愚痴を聞こう」

「別に聞いてもらうようなことないです」

 確かに、彼が愚痴を言うところはなかなか想像できない。

 そう言って豊はマグカップをふたつ持ってくる。 緑茶がなみなみと注がれていた。

「水もいりますか?」

 独身男性の部屋にしてはずいぶん綺麗だった。決して派手さはないけれど、趣味の良いインテリアがすっきりと並んでいる。

「ください……」

 豊はくすりと笑った。むしょうに蒔田は恥ずかしくなる。

「情けないって思ってるんだろ」

「危なっかしいとは思いますけどね」

 蒔田はごまかすようにマグカップに口をつける。

 豊のそばは落ち着く。だけどだめだ、と思った。これ以上弱みを見せたらだめだ。甘えていい相手じゃない。

 だって自分はもう、それ以上を求めそうになっている。

「ありがとう」

 揺れる気持ちを押し隠して、一言だけ蒔田は口にする。

 昨日介抱してくれたのが豊でなかったら、きっといまこんな今こんな気分になれていない。タクシーで家に帰って、また死にたくなるのが関の山だっただろう。

「ほめても何も出ませんよ」

 そう言いながら、豊はご飯と温泉卵、海苔と味噌汁を持ってくる。朝はろくに食べない蒔田にしてみたら、十分すぎるほどの朝食だった。

「君はなんていうか……育ちがいいんだな」

 豊は本当にしっかりしている。そのことを褒めるようなつもりで、蒔田は軽く口にした。だけど豊の表情が、わずかにこわばった気がした。

「そんなことないです」

 蒔田は豊の横顔をちらりと見る。もう笑顔はなかった。

 もし彼が、本当は何か愚痴を押し殺しているのなら、聞いてやりたいと思った。他の誰かになんて話さないでほしい。自分にだけ、打ち明けてほしい。

「うまい」

「……よかった」

 蒔田の呟きに、ほとんど無表情のまま豊は答える。だけど胸がざわついた。

 きっと、こんな風に彼と朝を過ごすことは、この先二度とないだろう。

 この朝の何もかもを覚えておきたい、と思う。穏やかで満ち足りた朝なのに、落ち着かなくて仕方がなかった。

 

 

 3.

 

 

”今日昼、行きませんか”

”いいね、行こう”

 蒔田が酔って泊まった日以来、豊との関係は少し変わった。

 まず、連絡先を交換した。そして時間を合わせて、たまに二人でランチに行くようになった。

 職場近くの店で慌ただしくとるランチはあっという間だった。だけど蒔田は、豊と会う時間を心待ちにするようになった。

 これ以上会うのはまずいと思いながらも「どうですか」とメールがあったら、断れなかった。

「なんでこう高いんだろうな、このへんのランチ」

「高くてもお客さん入りますからね」

 職場の近くは、イタリアンだったりカフェ風の店だったり、女性向けの店が多い。もちろん昼食時にはサラリーマンの一人客もたくさんいるので居心地が悪くはないのだが、値段は割高だった。

「うまいけど。でも、君が作ってくれた朝食、本当におしいかった」

「……別にそんな大したもんじゃないですよ」

 豊が目を伏せたので、たぶん照れたのだろう。

 彼は基本的に無表情だが、感情に乏しいわけではない。だんだんそうした機微がわかってくる。

 豊に関して知っていることが増えるのが嬉しい。だが、もっと知りたいと焦ってしまう気持ちは何とか押しとどめる。

「蒔田さんも、ちゃんと最近、ご飯食べてるんですね」

「え?」

「今日も完食しそうだし」

 言われて初めて、食欲がだいぶ戻ってきていることに気がついた。

 いつも昼食は食べないか、デスクについたままコンビニの弁当などで済ませることが多かった。こんなにちゃんと昼食を食べるのは、豊とランチをするようになってからだ。

「ちゃんと食べないとだめですよ」

「わかってる」

 少しふてくされたように言って、蒔田はほとんど空になった目の前のリゾットの皿を見る。

 豊といるのが楽しい。彼と一緒にいると、どんな食事も楽しい。もっと一緒にいたいと、浅ましい願いを抱いてしまう。一緒にいるだけじゃなくて、触れたい。

 手を握ったり、抱きしめあったりしたい。それからそれ以上のことも。

 蒔田は豊の顔を、もう直視できなかった。

 

 豊とは定期的にランチに行き続けた。少ない時は週に一回、多い時は二、三回。

 どちらもそれ以上のこと、たとえば夜に飲みに行こうとか、遊びに行こうといったことは言わなかった。正直に言えば、蒔田は何度か切り出しかけた。だが、どうしても言えなかった。

 短い時間の中で交わすのは、ほとんどは他愛無い雑談だった。それでも、たくさんのことを知った。

 豊は学生の頃は水泳部で、クロールが得意だったこと。

 前職は不動産関係で、入社すぐに辞めてしまったからろくに経験できなかったこと。

 料理は祖母から教わったこと。

 そのひとつひとつを、蒔田は丁寧に心のなかにしまっていった。それ以上を求めるつもりはなかった。求めてはいけないのだと思っていた。

 豊と食事をした後は、いつも気分が上向く。そうすると仕事に追われていても、いくらか精神的に余裕もできた。

 

 

「お前らの陰謀なんだろ!? わかってんだよ、責任者出せ!」

 仕事をしていたところ、大きな声が耳に入ってきて、蒔田は思わず顔を上げた。

「いいから、わかってんだよ!! あんたじゃ話にならん!」

 客と社員がトラブルになったり、社員同士の打ち合わせがヒートアップしてしまったりすることは珍しくない。だが、男の罵倒は一方的だった。ちらりと目をやると、ブースで若手の女性職員と打ち合わせをしていた客のようだった。職員の彼女はすっかり萎縮して一方的に罵倒される状態になっている。いわゆるクレーマーだろう。

「警備員さん呼んできて」

 誰かがそう言った。

「泣けばいいって思ってるのか、これだから女は」

 彼女の班のリーダーが入って、なんとか話をなだめようとしていたが、男は荒々しく怒鳴るばかりで話を聞こうとしていない。

 そのうちに二人の警備員がやってきて、男を取り囲む。そのうちの一人は豊だった。

「俺はお前らのせいでリストラにあったんだ!! わかってるんだぞ、全部陰謀なんだろ!」

 四人がかりでとりなしているようだが、男はどんどんヒートアップしていくようだった。見ていても仕方がないし、自分の仕事に戻ろう……そう思った時、悲鳴が聞こえた。

「きゃあ」

 どこから取り出したのか、男がナイフを持っている。職場のフロアで見るナイフには、現実感がなかった。まさか、と思ってしまい、目にしているのに頭に入ってこない。

 男が女性に向けてナイフを振りかざそうとしたところで、豊がすぐに抑えかかる。ナイフの切っ先が豊の顔をかすめたように見えた。

「豊っ……」

 思わず蒔田は駆け寄りそうになる。ばたばたと机の上にあった書類が落ちて、そばにいた同僚が振り向いた。

 しまった、と思ったが慌てて書類を拾う。

 顔を上げたときには、男は豊ともう一人の警備員とに取り押さえられていた。女性社員が泣き出している。

 落とした書類をかき集めながら、それをぼんやりと蒔田は眺めていた。

 テレビの中の出来事みたいに、現実感がなかった。なのに、まだ心臓がばくばくいっている。

 もし、あのナイフで豊が刺されていたら。

 それを思うとなかなか平静にはなれなかった。男はまだ何かうめいていた。だが、そのまま豊たちに連行されていった。

「蒔田さんって、あの警備員さんと知り合いなんですか?」

 書類を拾うのを手伝いながら、同僚が尋ねてくる。

「たまたま、気分が悪くなった時に助けてもらったことがあってね。それだけだよ」

 蒔田は極力、何でもないことのように口にする。実際、それ以上の関係なんてないも同じだ。何もやましいところはない。

「いやーでも、本当に大事がなくてよかったですね」

「これからは手荷物検査が必要だな」

 みんなめいめい、今見た事件について語り始める。

 誰もそれほど警備員に興味などないのか、その話はその場で終わったかのように思えた。

 

 ・

 

「菊池さん、急に本当にごめんなさい」

「いえ……」

「蒔田さんまで、付き合っていただいて」

 三人でテーブルに向き合いながら、蒔田にはどうしてこんなことになったのかよくわからなかった。おしゃれな音楽がかかっている、落ち着いたイタリアンレストランだった。

 豊が助けた女性社員は、古賀という名前だった。

 ”あの警備員さんとお知り合いだって聞いたんですけど、私……どうしても彼にお礼が言いたくて”

 蒔田のところを訪ねてきた彼女はそう言った。悲劇のヒロインぶるなよ、と言ってやりたかった。だが社内の人間にそんな暴言は吐けない。

 ”仕事だからね、気にしてないと思うよ”

 ”私、どうしてもお礼がしたいんです”

 やむを得ず、蒔田は豊の連絡先を彼女に教えた。単に礼がしたいというなら、金券でもあげたらいい。なぜわざわざ食事に誘うのか。下心が透けて見えて、嫌だったけれど断れなかった。

 ――でも、なんで俺まで。

 そうして今日、蒔田たちがやって来たのは小洒落た店の個室だった。

 蒔田と豊が並び、豊の向かいに古賀が座っている。普段職場にいる時より、きちんと化粧をしている。

 古賀が、お礼に食事でもと豊を誘ったところ、蒔田も一緒にと豊が言ったらしい。古賀としてはおじゃま虫もいいところだろうが、提案を断れなかったのだろう。

「俺は全然いいよ」

 蒔田は表面だけ笑う。なんで自分がこんな席に、という思いが消えなかった。古賀が礼をしたいならしたらいい。だけどあの取り押さえ事件に自分は無関係だ。

 豊はいつも以上に言葉少なだった。確かに愛想の悪いやつだが、ここまで人見知りだとは思わなかった。もしかしたら女性が苦手なのかもしれない。

「ほら、君も何か頼め。美味しそうだし」

 蒔田は精一杯気を使ったつもりでメニューを開く。

「飲み物は? 古賀さん何にする?」

「じゃあカシスオレンジで……菊池さんは、お酒は強いんですか?」

「……あまり」

「ビールでいいか?」

「蒔田さんは強いけど、飲み過ぎますよね」

「俺の話はしてないだろ」

 豊が自分から長く話したと思ったらこれだった。

「つまみも食べずに飲むから……」

「はいはい、頼めばいいんだろ」

 古賀はたぶん、豊に気があるのだろう。気に入らないが、特に邪魔をするつもりもなかった。

 豊は異性愛者だろう。望みはもとからない。

「仲がいいんですね。どこで知り合ったんですか?」

 気を使った様子で古賀が笑う。自然なその疑問は、だが蒔田と豊にとってはもっとも答えにくいものだった。豊は蒔田の方をちらと見るだけで何も言わない。

「……俺が酔ってたところを、介抱してくれたことがあるんだよ」

 仕方なく蒔田は口を開いた。

「すごい、優しんですね」

 これでまた古賀にとっての豊のポイントは上がるのかもしれない。蒔田は横目で二人の様子を見る。

 古賀とは部署が別だが、特段悪い評判は聞かないし、それなりに能力もあるのだろう。お似合いじゃないか、と思った。

 年齢も近いはずだ。このテーブルから自分だけがいなくなったら、二人はどこからどう見てもカップルだ。

「じゃあ、乾杯」

 運ばれてきたグラスを重ねる。

 自分は邪魔者だ。ここに自分がいる意味なんてない、と思うのに、豊はあまり喋らなかった。それで結局、蒔田と古賀ばかりが会話することになった。同じ会社の人間同士、話題にこと欠くことはない。

「ああ、蒔田さんも知り合いなんですね。ひどい人事だって愚痴ってました」

「そうそう、困ったもんだよな」

「ほんっと嫌になりますよね。優秀なひとなのに」

 豊はあまりにも無愛想だった。

 これまでの様子からして、彼は人の心に鈍いタイプではないと思う。古賀に好意を寄せられていることも、きっと気づいているはずだ。

 古賀が好みではないのだろうか。それとも、蒔田に内心、さっさと消えろと思っているのか。

 だんだん何も喋らない豊に腹が立ってくる。こんな場所に人を呼んでおいて何だ。気まずいのはこっちだ。

「そういえば、菊池くんは恋人とかいるの」

 豊への苛立ちから、蒔田は口にする。古賀だって聞きたいだろう。豊は一瞬、ちらと蒔田を見た。

「……いません」

「そうなんですか」

 どことなく古賀の雰囲気が華やぐ。古賀さんは?とはさすがに白々しくて聞けなかった。

「じゃあ、好きなタイプは?」

 さぁ、それとなく古賀を思わせるようなタイプを言え。そう思って蒔田は尋ねる。

「さぁ……俺がわりと、世話を焼きたいタイプなんで……そういうの、必要としてくれる人ですかね」

 なんだそれは。思わず突っ込みを入れそうになるのを抑える。それじゃあ、古賀じゃなくてどちらかといえば蒔田だ。

「へぇ、そうなんですね」

 いや、意外と古賀も面倒をみられたいタイプかもしれない。わからない。

 それ以降も豊はその日、ずっと口数が少ないままだった。古賀が感謝をいくら口にしても、豊は「はい」とか「ありがとうございます」と硬い口調で言うばかりだった。

 結局会計は、蒔田と古賀で割り勘して払った。

 古賀がついているなと思ったのは、彼女と豊が同じ路線を使っていたことだった。帰り道で、蒔田だけが別方向になる。

「じゃあ、お疲れ様」

 二人に手を振って別れると、どっと疲れを感じた。ホームに降りると、向かいのホームに豊と古賀が並んで立っているのが見えた。

 遠見に見ると、本当に二人はお似合いだった。自分のものを取られたような悔しさで胸が焼ける。

 ――豊は自分のものなんかじゃないのに。

 豊にはたまたま今恋人がいないだけで、じきにできるはずだ。無愛想だけれど、いいやつなのはわかる。

 胸が鈍くずきずきと痛む。二人の立つ距離は近すぎないだろうか。会話するたびにお互いを見る。古賀は嬉しそうだ。豊だって、まんざらでもないように見える。豊が一瞬、こちらを向いたような気がした。

 電車が向かいのホームに滑り込んできて、二人が見えなくなる。

 嫌だ、と思った。どれほど似合いでも、古賀に豊はやりたくない。豊のあの家に古賀が泊まったりするなんて耐えられない。豊のあの朝食を、古賀が食べるなんて。

 だけど、自分はそんなことを言える立場じゃない。友人と言うことさえどうかというような、薄い関係しかない。

 豊を誰にも取られたくない。

 自分だけを見て欲しい。

 ――どうしてだろう。

 恋なんてもうしたくないと思っていた。なのにどうしてこんなにあっさり、恋に落ちている自分に気づいてしまうのだろう。

 電車が走り去った時、ホームにもう二人はいなかった。

 

 ・

 

”飯行きませんか”

”悪いけど、忙しいんだ”

 それから三日ほど経って、豊からメッセージが来た。だが、彼の顔をちゃんと見れる自信がなくて、蒔田は短くそう返信した。

 露骨に好意を見せたら、きっと嫌がられる。

 蒔田は深く息を吐く。豊のことが好きだ。でも大丈夫だ、まだ大丈夫。もうあんな風に恋に狂ったりしない。

 忙しくて頭がいっぱいのはずなのに、ふっと豊のことが頭に浮かんでしまう。そうするともう彼のことしか考えられなくなる。

 だけど改めて考えてみると、彼のことで知っていることはそう多くない。普段仕事のないときは何をしているのか。祖母の看病をしていたというが、両親はどうしたのか。

 恋人がいたことはあるのか。きっとあるだろう。たぶん、彼に合う、おしとやかだけれどしっかりした女性だ。

 想像しただけで凹んでしまい、蒔田はため息をついた。その女性の姿が、古賀にそっくりだったからだ。

 蒔田は豊を避け続けた。昼食の誘いのメールに対しても、忙しいと答え続けた。これだけ断れば、きっと豊にも、誘いに乗る気がないことが伝わるだろうと思った。

 豊はたぶん、自殺未遂のことをバラしたりはしないだろう。彼のそばに少しいれば、わかる。

 最初から、何も心配することなんてなかったのだ。

 

「蒔田さん、お疲れですか?」

 コーヒーを買い、休憩スペースでひと息ついていた時だ。話しかけてきたのは、後輩の山崎だった。

「もっと休んでくださいよ」

「休んでるよ、だいぶ」

「まぁ前より、顔色は悪くないですね」

「そんな悪かったか? 顔色」

「ひどかったですよぉー、死んじゃうんじゃないかと思いましたもん」

 山崎は会議があるからと言って、足早に立ち去っていった。蒔田は休憩スペースのソファに座り、しばらくコーヒーを飲みながらぼんやりと窓の外を眺めた。

 何の変哲もない街並みが延々と広がっている。これらの建物のすべてに人がいるのだと思うと、たまにひどく不思議な気持ちになる。

「蒔田さん」

 声をかけられて反射的に振り向く。そこに立っていたのは豊だった。勤務中のようで、制服を着ている。

「何だ」

 冷たい口調で蒔田は答える。

「最近、忙しいんですか」

「そうなんだ、悪い」

 蒔田は立ち上がり、豊のそばを通って職場に戻ろうとする。あまり長い時間話していると、ぼろを出してしまいそうだった。

「俺、何かしましたか」

 ストレートに切り込まれて、蒔田は一瞬言葉を失った。

「何か気に障ることをしてたんならすみません、でも……」

「忙しいんだって言ってるだろ。それに君も勤務時間……」

「返事をくれないからじゃないですか」

 急に腕を掴まれて、蒔田は息を飲む。豊は焦ったような表情をしていた。どうしてこんなに必死な顔をしているのだろう。

 豊の真剣な目が間近にある。蒔田は慌てて、目を逸らした。

「古賀さんとうまくいくといいな」

「古賀さんに何の関係があるんですか?」

 言い争いになりそうになったときだ。

「あれ、淳彦じゃん」

 突然の声に、びくりと体がすくんだ。蒔田はとっさに豊の腕を振り払う。

 今日は厄日だ。

 しばらく顔を見ることもなかったのに、どうしてこんなときに限って鉢合わせてしまうのだろう。顔を見なくても、声だけで誰だかすぐにわかっていた。

「どうも」

 蒔田はかろうじて口にする。笑顔で男が近づいてくる。相変わらず、高級そうなスーツが似合っていた。どういう顔で自分に話しかけてくるのかがわからないと思ったが、こういう相手だとわかってもいた。

「お元気そうで」

「元気だよ、おかげさまで」

 含みのある顔で戸塚は笑う。だけどいかにも業界人ぽさのある彼にはそういう表情がよく似合う。

 戸塚は研修で知り合った、三歳年上の先輩だった。そして、蒔田にとって初めての同性の恋人だった。

 人なつこい、明るい笑顔が変わっていない。戸塚は顔が広い。そしてよくモテた。バーに行ったときにも、あちこちから引っ張りだこだった。

「お前は?」

「こちらこそ、おかげさまで」

 蒔田も精一杯笑った。だけどともすると足が震えだしそうだった。

「いやぁ、よかった。気になってたんだ」

 何の悪気もなさそうな顔で、そうやって口にする戸塚が怖かった。

 彼に自分以外にも複数の恋人がいることを知ったのは、付き合って半年以上が過ぎてからだった。気づくのが遅すぎた。

 クリスマスには一緒に過ごせないと言われた。蒔田の優先順位は、今のところ三番目だと彼は笑った。

「元気なら俺も嬉しいよ」

 軽薄な笑顔を浮かべながら戸塚は言う。豊と違って、よく笑う男だった。

 自殺しようとしたなんて、絶対に彼には知られたくない。そのことを唯一知っている豊がすぐそばにいることを強く意識してしまう。

「何か揉めてた?」

 戸塚はそのとき初めて豊の存在に気づいたように、彼に目をやる。

「いや、何でもないんだ」

「何でもなくないです。あんであんた、そんなに偉そうなんですか」

 豊が低い声で言う。戸塚が少し意外そうな顔で豊を見た。

「あれ? 知り合いなの?」

「おい」

 蒔田は思わず豊の腕を叩く。面倒な戸塚と、敵対して良いことなんてない。

「俺が偉そうなのはね、偉いからだよ」

 そう言って戸塚はからからと笑った。

「あ、そうだ俺、これからあっちで会議だから。じゃあ、また」

 その場に残された蒔田は、ひとまず息を吐く。

 今日の戸塚は機嫌がよかったのかもしれない。だが、彼のことだ。それは表面的なものかもしれない。裏では何を考えているかわからない男だ。これできっと豊のことも覚えてしまっただろう。

「お前な……!」

 何か言ってやりたかったが、言葉がうまく出てこなかった。

 豊は相変わらずの無表情だった。何を考えているのかわからない。

「あんま失礼なこと言うなよ」

 言葉を選んだ末に、結局蒔田はそう口にする。どうしていいかわからない気持ちを持て余して、ため息をつく。

 今日は散々だ。早めにやらなければいけない仕事だけ片付けて、早めに帰ろうと心に決める。フロアに戻ろうとした蒔田に、豊が一言だけぼそりと言った。

「あの人なんですか?」

 血の気が引いた。あの夜は混乱していたし酒も入っていた。自分はどこまで詳細を話したのだっただろうか。

 振られたこと? 相手が男であること? ひどい扱いをされて別れたこと? 騙されて、傷を負ったこと?

「ちょっと、こっち来い」

 さすがに廊下でできる話ではない。蒔田は同じ階にある会議室に向かう。一番狭い会議室が、ちょうど未使用だった。一度、戸塚に連れ込まれたことのある場所だから覚えていた。

 豊が部屋の中に入った後、ドアが閉まっていることを確認して蒔田は言う。

「いいか、あのとき言ったことは、全部忘れろ」

 豊の目をまっすぐに見て、強く念を押すように言った。

「あのときって何ですか」

「あの湖での話だよ! 俺が死のうとしたことも、話したことも、全部忘れろ!!」

 余裕がなく、思わず声が強くなる。豊と一緒にいるところを、戸塚に見られたのは失敗だった。どこでどう弱みを嗅ぎつけてくるかわからない。

 息を荒らげた蒔田に対し、豊はあくまで平静だった。

「わざわざ、ドアが閉まるところに来ないと大声も上げられないんですね」

 かっと頭に血が上った。

「ふざけるなよ……!」

 蒔田は豊に詰め寄る。確かに臆病かもしれない。でも、職場の誰かには絶対に知られたくなかった。

 同性が好きなことも。戸塚に抱かれていたことも。ひどい目に合わされたことも。誰にも言えない。出るべきところに出れば、自分が被害者だと立証できるのかもしれない。だけどそのためには多大な労力を払わないといけない。

 ……絶対に、知られたくなかった。ボロ雑巾のように扱われたことも、それを受け入れていた過去の自分も。

「何を、されたんですか」

 急にぐいと、逆に腕を掴まれる。

「やめ」

 豊の力は、驚くほど強かった。指の跡が付きそうなくらいの力だった。

「あんな人、忘れたらいいじゃないですか」

「君には関係ない……!!」

 あっさりと言う豊が許せなかった。心から消しゴムで消すみたいに消しされるならとっくにそうしている。

 身体の傷は癒えても、ひどい扱いをされたことは消せない。自分の身体を、大事なものだと思えない。

 どうしていいかわからなくて、疲れ切ってもう死のうと思った。短絡的かもしれない。だが他の方法が思い浮かばなかった。

「関係なくありません」

「あるわけないだろう!」

「命の恩人にそういうこと言うんですか」

 振りほどきたいのに、豊の力が強すぎてできない。

「誰も助けてくれなんて頼んでない! 放っておいてくれ」

「子どもみたいですね」

 気が付くと間近に豊の顔があった。

 放っておいてほしいのは本当だ。これ以上近付かないでほしい。

 豊のことが好きだ。彼と過ごした時間はそっと、心の中で大事にしておきたかった。彼に軽蔑されたら、今度こそ生きていけない気がする。

「誰が、何だって……?」

 もうこれ以上好きになりたくない。欲しいと思ってしまいたくない。

「ダダをこねてる子どもみたいだ」

 かあっと頭に血が上るのがわかった。恥ずかしいやら怒りを覚えるやらで、頭の中はぐちゃぐちゃだった。

「今でも好きなんですか?」

「違う」

 痛いほど掴まれている腕を急に意識する。

 戸塚のことを忘れることはできない。あんなやつでも、確かに夢中になった。

 だが今、自分の心を一番支配しているのは豊だ。気を抜くといつも豊のことばかり考えている。ぐちゃぐちゃだった。彼のことが好きだ。でももう、傷つけられたくない。もう誰にも振り回されたくない。

 顔を強引に振り向かされて、気が付くと豊の顔が間近にあった。唇同士の触れ合う感触がした。

 豊の唇は少しかさついていた。

 一瞬の驚きの後に湧き上がってきたのは怒りだった。

「ふざけんな!」

 蒔田は思い切り豊を押し飛ばした。

 豊の表情はいつもと変わらなく見えた。何を考えているのか、まるで読めない仏頂面。男が好きだとわかっているから、バカにしてこういうことをしたのだろうか。少しはわかるようになったと思えていた彼の感情が、まるで読めない。

「蒔田さん」

 何か言おうとする豊を振り払い、会議室を飛び出る。そこは見慣れたオフィスのフロアで、さあっと冷水を浴びせられたような気持ちになる。

 豊は追ってこなかった。蒔田は平然を装ってゆっくりと歩いたが、心臓が信じられないくらいの速さで脈打っていた。あんな嫌がらせみたいなキスでも、動揺してしまった自分が恥ずかしい。

「はは……」

 通りがかった休憩スペースの窓からはまだ、いつもと変わりない街並みが見えていた。

 

 

 

4.

 

 戸塚と付き合いはじめて、半年ほどしてからだろうか。

 最初の頃はまめだった連絡もどんどん間延びしていき、返事が来ないことも増えた。戸塚の興味がもう自分にないことは明らかだった。はっきりと、別の相手もいると言われていた。

 それでも彼が好きだったし、彼しかいなかった。蒔田はなんとか彼をつなぎとめようと焦った。

 最初の頃は恥ずかしくてできなかったけれど、彼のものを口で愛撫するような方法も覚えた。言われるままに振る舞った。戸塚が望むようなことは何でもやった。

 恋人なのだから、恥ずかしくないと思っていた。

 そんなとき、戸塚に唐突に呼びだされた。浮かれならが行ったホテルには、戸塚以外にも男がいた。

 ――今日は、三人でやろう。

 知らない男だった。もしかしたら、バーかどこかで会ったことはあるのかもしれない。だけど覚えていなかった。

 ――いいだろ、なぁ。

 いくら戸塚の頼みでも、そんなことは嫌だった。

 ――嫌なら他のやつ呼ぶけど。

 戸塚はあっけらかんと笑いながら言った。彼は、本当にそうするだろう。

 ……同性の身体は、戸塚しか知らなかった。

 彼を失ったら、同性愛者だと気づいた自分はどうなるのか。新しく相手なんて探せない。誰が見ているかわからないバーなんかにも行けないし、出会い系にも手を出せない。

 戸塚に捨てられたくない。その一心で、蒔田は受け入れた。

 三人でする、と言っても事実上は一対ニだった。戸塚と男は代わる代わるに蒔田を犯した。無理やり知らない男のものをくわえさせられて吐きそうになった。

 それでも、戸塚を繋ぎ止められるならいい。こんなのは一時の、マンネリ予防のための刺激にすぎない。ちょっと特殊だけれど、恋人同士のセックスだ。

 そう思い込もうとした。

 だが別の日も、戸塚は別の男を連れてきた。蒔田はそれも受け入れた。だが別の日、呼び出されて行ったホテルには、もう戸塚はいなかった。

 知らない男が二人いた。嫌だと言ったけれど、彼らは無理やり蒔田を犯した。

 彼らは、戸塚に金を払ったのだから、こうする権利があるのだと言っていた。

 犯されたときの傷は、数日で癒えた。だけどもう、戸塚とは会えなかった。

 同性が好きだとわかって、初めて本当の自分を見つけたと思った。取り繕わなくていい。ありのままでいい。そうやって初めて肯定された気がした。

 だが今度は奈落の底に落とされた。どれだけ表面を取り繕っても、見透かされてゴミみたいに扱われるんじゃないかという思いが消えなくなった。

 笑顔を浮かべてうまく振る舞えば振る舞うほど、自分がなくなっていく気がした。

 金のためにやり取りされる、その程度の人間だ。戸塚とはまともに別れ話もしなかった。連絡を無視し続けていたらそのうちにメールも電話も来なくなった。

 それだけだった。

 戸塚はとっくにもう、付き合っているつもりですらなかったのかもしれない。

 

 

「おはようございます」

「おはよう」

 蒔田はいつもどおり、八時三十分には出勤する。帰りは日付が変わるくらいの時間だ。

 いつも通りの日々だった。相変わらず仕事に追われている。同僚とはたまに飲みに行く。仕事は山積みで、やることはいくらでもある。

 日々はあっという間に過ぎていく。

 表面を取り繕うことは得意だ。笑って雑談しながら、何でもないように仕事をし続けた。

 あの日以来、豊の姿は見ていなかった。話がしたい、というメールは来ていたが、蒔田は返信しなかった。

 豊のことが、好きだった。あんな風に安らぎを感じられる相手は他にいない。ただ彼のそばにいたい。それ以上のことは求めたくない。

 ……でも、本当は恋人になりたい。

 こんな思いは、きっと気持ちが悪いだろう。

 パソコンの画面を睨みながら、蒔田は湧き上がってくる思いを押しとどめようとする。気を抜くとすぐに豊のことを考えてしまう。今どうしているのだろう。なんであんなキスをしたのだろう。好意からであるはずがなかった。

 自分には何もない。

 自殺未遂のみっともない同性愛者。それだけの男に、前途有望な豊が何かを感じるはずはない。

「あー」

 どうせなら、舌でも入れておけばよかった。

 考えても仕方のないことをまた考える。会いたいなと思う。

 また、二人でのんびりと、あの田舎の家で過ごしたい。ちょっと狭いけれど、豊の一人暮らしの部屋でもいい。その両方で朝まで過ごす妄想を、繰り返しした。

 褒められることじゃないのかもしれない。だけど心の中くらいは、自由なはずだった。

 

 

「よう、淳彦」

 休憩スペースでコーヒーを手に、窓から町並みを眺めていた蒔田は声をかけられて振り向く。まだく口をつけていないのにコーヒーはすっかり冷めていた。

「何ぼうっとしてんだよ」

 気が付くと、間近に戸塚が立っていた。前回ほどは、びくりとしないでいられた。

「なんでここに?」

「コーヒー買いに来ちゃいけないのか」

 そう言って戸塚は笑う。見たことがない紺色の細身のスーツを着ていた。彼はコーヒーを好きではななかったはずだった。

「たまには飲んだっていいだろ?」

 戸塚は蒔田の思考を読んだようににやりと笑いながら、何か持った手を差し出してきた。警戒しながらも蒔田が受け取ると、小さなチョコレートだった。

「どうも」

「スペインに行ってきたんだ。行ったことあるか? イビサ島、最高だぞ、あそこのクラブは。日本とは全然違う」

 チョコを受け取ったとき指先が触れたのに、もう動揺はしなかった。

 その時になって初めて、自分がしばらく、まるで戸塚のことを考えていなかったことに気づいた。そんなことより、豊のことで頭がいっぱいだったからだ。

「たまにはいいよな、苦いコーヒーも」

「え、ああ、そうですね」

 戸塚は妙な表情をしていた。今日は戸塚の顔を見ても、何も思わなかった。こんなに普通の人だったか、とさえ思った。ずっと会っていなかった、古い知り合いみたいな感じだった。

 恨みも怒りも消えたわけではない。でも、反省なんてしない男であることは知っている。彼にこだわること自体がもうバカバカしく感じられた。

「体調でも悪いのか?」

「いや」

 戸塚はけげんそうな顔をしている。されたことはきっと一生忘れない。だけど記憶は刺激されるのに、それ以上ではない。一時期はあれほど自分を絶望の底に陥れた戸塚の存在が、もう恐ろしいと思えなかった。

「あの警備員、どうした?」

「どうって、何ですか」

「食ったのかよ」

「人を食べるわけないじゃないですか」

「つまんねぇな」

 戸塚は思い切り顔をしかめて見せる。

「まぁいいけど」

 戸塚は飲み終わったコーヒーのカップをぐしゃりと手のひらの中で潰した。

「また飲みにでも行こうぜ」

「行きません」

 蒔田はきっぱりと言った。冷めたコーヒーを一気に喉に流し込む。

「あんたの顔は、二度と見たくない」

 それから戸塚がまだ何か言っているのを無視して、喫茶コーナーから立ち去った。向かいから警備員が歩いてきて一瞬ぎくりとしたけれど、豊ではなかった。会いたいと、もう一度強く思った。

 

 

 豊のことは、まったく見かけなかった。

 避けられているのだろう、と思っていた。蒔田だってできれば豊を避けたかったからだ。だけどあまりに、ぱったりと姿を見なくなった。昼の見回りも夜の警備も、豊とは別の人間しか見かけなかった。

「すみません」

「はい?」

 蒔田は耐えられずに、フロアを巡回していた警備員に声をかけた。中年の男性だった。

「菊池さんって最近見ないんですけれど、受け持ちが変わったりしたんですか?」

 男はああ、と言ってから顔をしかめた。

「菊池は辞めました」

「……え?」

 足元ががらがら崩れていくような気がした。顔を合わせないようにしようと思っていたはずなのに、裏切られたような気分になる。

「……どういう」

 蒔田の驚きぶりを見てか、男はため息をつきながら話しだした。

「こっちだって困ってるんですよ。急に異動を希望してここに来たと思ったら……家族の見舞いのためって言われたら断れないじゃないですか。それで無理を言って本来の時期じゃない異動をしたのに、今度は急にやめると言われて」

 どくりと心臓が嫌な感じに脈打つ。

”ここに家族はいません”

 見舞いなんて彼の口から一言も聞いたことがない。

 蒔田は非常階段に出て、豊の携帯に電話をかける。コール音が続くばかりで、なかなか出なかった。

「……はい」

 諦めかけた時、豊の声がした。

「もしもし?」

「どうも、お疲れ様です」

 豊の声は少し聞き取りづらかった。電波が悪い場所にいるのかもしれない。今にも切れてしまいそうでひやひやする。

「うちの警備、やめたのか」

「……やっと気づいたんですか」

「今どこに?」

 一瞬、迷うような沈黙があった。

「……実家です」

「え? あの湖の?」

 豊の声は、どことなく沈んでいるように感じられた。

「ご家族、亡くなられたのか」

 関係ない、とそれこそ以前の自分のように言われるかもしれないと思った。だが、豊は沈黙したまま答えなかった。なんだか、何と答えようか迷っているように感じられた。

「……もう」

「え?」

「もう誰もいない」

 急に豊の声が遠くなる。ノイズが混じって、それ以降はよく聞こえなかった。携帯を耳から離して画面を見ると、もう通話は切れていた。かけ直したが、電波の届かない場所にいると言われつながらなかった。

 これまで自分は、彼と何を話していたのだろう。

 自分が愚痴を言うばかりだった。彼のことを何も知らない。

 脈が速く打っている。あの湖のそばの家に、豊は一人でいるのだろうか。あの古風で大きな暗い家に。

 家族の見舞いはもう必要なくなったのか――どうして、豊は実家に戻ったのか。

 彼は今日も、湖を眺めているのだろうか。その様子を想像してぞっとした。

 関係ない、とは豊は言わなかった。

 真っ黒く水をたたえた真夜中の湖面を蒔田は思い描く。蒔田はあそこで溺れそこねたけれど、本当はあの湖に連れて行かれようとしているのは、本当は豊の方なんじゃないだろうか。

 たった一人で。

 階段を叩く雨の音が聞こえて、蒔田は空を見上げる。いつの間にか空は暗雲に覆われていた。

 

 

 何をしているんだろう、と思った。

 一日に三本のバスはタイミングが悪く乗れなかった。もうすっかりあたりは暗くなっている。タクシーに乗って湖までの道を急いだ。

 ……嫌な予感がして仕方がなかった。

 もし何もなかったのなら、それを確認できるだけでも十分だ。

 豊が無事で、幸せであるならそれでいい。それ以上のことは何も望まない。いや……本当は望む気持ちはある。だけど、それは些細なことだ。

 豊自身の無事とは比べるべくもない。

 

 湖のそばは明かりがほとんどなく、暗かった。

「いやぁ、ひどい雨ですわ」

 タクシーの運転手は大丈夫かと蒔田を何度も気遣った。

「ありがとうございます。大丈夫です」

 湖は、以前とはずいぶん雰囲気が違って見えた。真っ暗で、一面海のように黒っぽく見える。雨は降り続いていた。蒔田は駅で買ったビニール傘を差す。

 雨はどんどん強くなってきていた。このまま降り続いたら、湖が溢れてしまうのではないかと、そんな想像をしてしまう。

 豊の家には明かりがついていなかった。

 眠っているだけなのかもしれないと思い、蒔田はチャイムを押す。だが、家の中はしんと静まり返っていた。

 もしかして豊は実家にいると嘘をついたのだろうか。東京の家でもここでもない、誰か恋人の家にでもいるのかもしれない。いっそ、そう考えた方が楽だった。もう心配もしないで済む。

 それでも気が済まなくて、蒔田は家の周囲をぐるりと歩いてみることにした。窓から中が見えるかもしれない。

 濡れた下草を踏みながら、蒔田は荒れた庭を歩いていく。そこに影があるのを見た時、最初は木かと思った。

 傘も差していなかった。

「……豊?」

 まるで幽霊みたいだった。呆然と彼は、湖の方を向いて立っていた。

 話しかけても、すぐには蒔田の方を見ることもなかった。まるで魂を湖に吸い取られてしまったみたいだった。

「豊」

「……え?」

 ふっと生気が戻ったように、豊は蒔田の方を向く。目が合っても蒔田はしばらく何も言えなかった。あたりは薄暗い。

「蒔田さん?」

 雨は降り続いていた。暗い湖面に音もなく吸い込まれていく。遠い街灯からのわずかな光で、全身濡れそぼった豊の表情がかろうじて見えた。

「こんなところで、なにしてるんだ。風邪引くぞ」

「また死に来たんですか」

 蒔田の傘を雨が叩いている。

「違う」

「死ぬならここ以外にしてもらえますか」

「俺は、別に死に場所を探しに来たわけじゃない」

「じゃあ何しに、こんなとこまで?」

 豊はくすりと笑った。

「君が……もし、何か助けを必要としてるなら」

「葬式ならもう終わりましたよ」

 豊はもともと、感情的な話し方をするほうではない。だけど今日はやたらと、のっぺりとした話し方をした。風が雨を蒔田の体に吹き付けてくる。

「……誰の?」

 豊はゆっくりと右手を挙げた。そうして湖を指差す。その指にも雨が降り注ぐ。蒔田は何も言えなかった。

 雨が一層強くなる。豊をこれ以上濡らしたくないと思った。蒔田が一歩近づいても、豊は何の反応も見せなかった。彼の顔は蒼白だった。

「みんな、いなくなりました」

「とりあえず家の中に入ってくれ」

「どうだっていいじゃないですか」

「いいわけないだろう……!」

 蒔田は豊の腕をつかむ。傘を差すことなんてもう思いが及ばなかった。豊の体は全身濡れそぼっていた。冷たい。ただひたすらに冷たかった。

「君が好きだ」

 触っているこちらの心臓も凍ってしまいそうな気がする。だけど豊の濡れた体を抱きしめて、蒔田は絞りだすように言った。

「……好きなんだ」

 雨は降り続いていた。ぐっしょりと豊の服は濡れている。

 ぎゅうと強く抱きしめていると、冷たい中にも確かに豊の体温を感じる。すがるようにその背を蒔田はかき抱いた。

「ごめん」

 豊はただ蒔田のされるままでいた。

「どうして……謝るんですか」

 暗くてよく見えないけれど、豊は泣いているような気がした。だから必死に、彼の身体を温めるように蒔田は彼を抱きしめ続けた。

 お互いの身体は冷え切っていた。さらに静かに雨が降り注ぐ。

「謝らなくて、いいです」

 いつしかそっと、豊が背を抱き返してきた。湖にはいつまでも雨が降り続いている。

 

 ・

 

 ぱちぱちと、囲炉裏の火が燃えている。

 何か飲みますか、と言って豊が出してきたのは以前と同じ日本酒で、蒔田はつい笑ってしまった。

 口に運ぶと、やっぱりとても美味しかった。

「祖母です」

 豊はそう言って、部屋の隅にある骨壷に目をやった。広い部屋の中で、それはぼんやりと白く浮かび上がるように見えた。他に家具もないので、それだけが本当にぽつんと置かれている。

「ご両親は、いないのか」

「母は……まだ生きてるんでしょうけど、知りません」

 豊の祖母は、蒔田の職場近くにある大学病院に入院していたという。豊はもともと、祖母が入っていた老人ホームの近くで勤務していたのだという。入院に合わせて、仕事前や終わりに見舞いに行くために配置換えを申し出た。

「でも、見舞いの必要がなくなったからって、仕事までやめることはないだろう」

 葬式のために実家に戻る必要があったのだとしても、忌引休暇くらいあるはずだ。

「もともと……見舞いのためだけじゃなかったので」

「え?」

「あなたがそこで働いていることも、知ってました。社員証を見て」

 確かにあの日、財布も豊が乾かしてくれていた。彼がちらとそれを目にするのは自然なことだっただろう。だけどだからといって豊が自分の会社に来る理由にはならない。

「……なんで」

 わざわざ、自殺未遂をした男の会社に来る理由なんてないはずだ。

「気になっただけです」

 豊はぽつりと言った。豊は、この間も着ていた作務衣に着替えていた。濡れそぼっていた髪も半ば乾いている。

 蒔田も、豊が出してくれた浴衣に着替えていた。それも祖父のものだったという。囲炉裏の火は冷えた体を溶かすかのように暖かかった。

「死んで、ないかなって……」

「自殺未遂者が珍しいのか」

「いや、そうじゃなくて……だから、そのままです。あなたが、気になって……心配で」

 豊は珍しく口ごもった。少し顔が赤いような気がするのは火にあたっているせいだろうか。蒔田はどう反応をしていいのかわからなかった。

「でも、あなたは気づかないし」

 何度も挨拶をしたのだと豊は言う。すねたような言い方だった。

 確かに、まるで蒔田は豊が社内にいることに気づいていなかった。普段、いちいち警備員の顔を見たりはしない。仕方がないじゃないかと思ったけれど、蒔田はそれ以上は口をつぐんだ。

「この間、すみませんでした」

「え?」

「無理やり……」

 以前と同じく、もしかしたら以前以上に、日本酒はおいしかった。じわりと体に熱が広がる。溶けていく。体が熱いのはたぶん、酒のせいだけじゃなかった。

「いや……別に、嫌ではないし」

 家の中はやはり静かだった。いたたまれないような気持ちになって、蒔田は日本酒にまた口をつける。

 ふいに、豊の手が蒔田の手を掴んだ。

 おちょこが奪い取られ、少し離れた床の上に置かれる。じっと蒔田は豊を見返す。彼の黒目に、囲炉裏の炎がうつっているのが見える。

 掴まれたままの手を強く意識して、じわりと全身が熱くなる。

「あの人のこと、まだ好きなんですか」

「あの人?」

「職場で話してた……ふられて、死にたくなるような相手だったんですよね」

「いや、あれは」

 豊の目がじっと、蒔田を見ている。何でもない、と言うだけでは許されないような雰囲気だった。

「あいつに……ちょっと、別の男の相手とかを、させられて」

「は?」

 豊が声を荒らげるのを、初めて聞いた。だけど手を掴まれたままの状態で、逃げ場はなかった。

「いや、でも別に俺は男だし……そんな、大したことでは」

「性別は関係ないでしょう」

 豊の目つきはいつにもまして厳しく、声は強張っていた。

「そもそも、そんな本人の意志を無視したようなこと」

「もう、いいんだ」

「殺してやる」

「待てって」

 豊の怒りぶりを見て、なんだか申し訳ないような気さえしてくる。

 同性愛者であることは隠していたから、戸塚のことは誰にも言えなかった。友人にも、親などの家族にも。どんな扱いをされたのか、誰にも相談なんてできなかった。

「……何か訴えたりするより、今はもう、忘れたいから」

「でも、同じ会社にいるのに」

「いや、もう全然平気だった」

 豊はまだどこか納得できない様子だった。

 掴んだ手を一度離して、またゆっくり握り直してくる。まるで蒔田が嫌がるか試すみたいに。

 炎が揺れている。ぱち、とときどき大きくはぜる。

「ほんとに、平気なんですか」

「平気だよ」

 蒔田自身だって、こんなに簡単に自分の心が変わってしまうとは、少し前までは思わなかった。もうどうにもできないと思い込んでいたのだ。

 彼の存在が、自分にとってどれほど大きいか。豊にはきっとわかっていないだろう。

 だけど豊は、苦しそうに眉根を寄せた。

「俺、そんなに頼りにならないですか」

 蒔田はじっと彼を見返す。

「全部……君のおかげだ」

 手が離れたかと思うとすぐに、唇を塞がれた。

 豊の手が、蒔田の胸のあたりに触れる。ゆっくりと形を確かめるような手つきで、豊の手が肌を撫でる。

「……あ」

「さっき言ったの、本当ですか」

「何の、こと……」

 ぐいと引き寄せられたかと思うと、蒔田の体は豊の腕の中にあった。ほんの一瞬、かつて戸塚たちからされたことを思い出して体がすくむ。

 だけど間近で豊の顔を目にしたら、もう恐怖はなかった。彼は自分を傷つけたりしない。理屈じゃなくそうわかるから。じわりと凍っていたものがほどけていく。

 豊は真剣な表情をしていた。怖いくらいに。

 きれいな目だと、そう思っていた。

「触りたい……触っても、いいですか」

 そう言いながら返事を待たずに、豊は蒔田のシャツの中に手を滑りこませてくる。豊の手はまだひんやりとしていた。

「ん……」

 輪郭を確かめるかのように、蒔田の肌を豊は丁寧になぞっていった。

「君は……俺なんて、対象外だろ」

「どうしてそうなるんですか」

「だって……若いし、古賀さんとか……」

「俺は最初から、あなたにしか興味がなかったのに」

 かあと顔に熱が集まる。豊が冗談を言うタイプではないことはわかっている。だけどあまりに自分に都合の良い発言すぎて、何か勘違いをしているのじゃないかと不安になる。

「……ずっと、気になってたんです。最初から、そう言ってるじゃないですか」

 ぽつりぽつりと豊は言った。どういう表情をしているのか知りたくて、蒔田は豊の頭に手を添えて、顔を上げさせる。

「ここには、誰も来なかったから、いつも」

 不安げな黒い目が揺れていた。たったひとりで取り残されて、誰も来ないことを知っているかのような、静かな目だった。

 祖母が死んでしまったら、豊はこの家にひとりきりなのだろうか。

 引き寄せられるように、蒔田はキスをする。軽くふれただけの唇同士が、だんだん角度を変えて重なりあい、口を開き舌を絡ませ合うように深くなっていく。

「好きになったりしたらダメだと、思ったのに」

 少し怒ったような口調で豊は言う。それはそのまま、蒔田の気持ちと同じだった。

 そばにいたら今まで以上を求めてしまうと思った。でも、それが許されるのなら、もうずっと欲しくてたまらなかった。

 豊の手が、蒔田の肌を撫で上げる。

「……っ」

 胸の突起に触れられると、一瞬びくりと反応してしまう。豊はそれを見逃さずに、先端をつまむようにして刺激してくる。

「…っあ」

 驚くほど早く、胸の突起は固く尖り、鋭い快感を伝えてきた。

 豊は顔を近づけ、少し乱暴なくらいの強さでそこを舌と唇でなぶる。声を抑えられないくらい気持ちがよかった。

「……ぁ、っ」

 お互い服を脱がせあい、裸の肌に触れ合った。豊の肌は、さっき雨に濡れて冷えていた人間のものと思えないほど熱かった。

 豊の頭を抱え、蒔田はぎゅうと抱きしめる。

「ダメなわけ、ないだろ」

 もっと触れたい。そう思って更に強く腕に力を込める。

「君が欲しい」

 ふっと身体から力が抜けて、楽になった気がした。恥ずかしい言葉だった。でも、構わなかった。それが本当の気持ちだったから。

 ぐらりと身体が傾く。何が起きたのか一瞬よくわからなかった。

 気がついたら、蒔田は座布団の上に押し倒されていた。

 自分に覆いかぶさる、豊の顔はよく見えなかった。噛み付くような乱暴なキスをされて、じわりと体の芯が熱を持つ。

「や……っ」

「声、ここなら誰も、聞こえないんで、出していいですよ」

 荒い息の合間に豊が言う。そんなことを言われたって、はいと素直に声を出せるわけがなかった。だけど、押し殺してもどうしても声は漏れた。

 すっかり尖りきった乳首と、下着の上から性器とを同時に刺激される。触れ合った豊の肌は熱い。そのうちに豊の手が下着の中に入ってきて、直に性器を刺激してくる。

「すごい、濡れてる」

「……っ」

 事実だったから、うまく言い返せなかった。きっと下着もシミになっている。

「……君は、ほんとに、男でも、できるのか」

 豊がためらいもなく、同性の性器に触れてくるのが不思議だった。蒔田だって初めのときは、どうしても躊躇してしまった。

 豊はどうしてそんなことを聞くのかというような顔で答える。

「興奮、します」

 いつも通りの、真面目な顔で言うものだから、こちらが恥ずかしくなってくる。

「俺こそすみません」

 言われて豊の下半身を見ると、苦しそうにすっかり勃ち上がっている。蒔田が手を伸ばして撫でると、やめてください、と思いのほか真剣な声で言われた。

「すぐ出そうなんで……」

「別にいいけど」

「よくないです」

 蒔田がなおも手を伸ばそうとすると、急に体を床に押し付けられた。

「入れたい」

 間近で見つめられながら言われて、火照った身体の温度が更に上がった。

 セックスをするのは、戸塚の呼んだ男たちに散々な目に合わされて以来だった。だけど今、こうして豊に伸し掛かられていても、怖くはない。

 ただ彼の体温と重さを、心地よく感じる。

「……本気か?」

 蒔田がこわごわと言うと、豊はこくこくと二回うなずいた。豊のことが可愛く見えたのは、それが初めてだった。

 

 

「や……っ」

 自分はいきそうだからと蒔田を押しとどめたくせに、豊は蒔田が何を言っても、中を刺激するのをやめなかった。

「そこ……っ、や」

「ここ?」

 自ら白状してしまったことを後悔しても遅い。豊は刺激に敏感な場所を、唾液で滑らせた指で執拗に刺激してくる。久々の刺激は強すぎるほどだった。

「ん……っ」

「すごい……」

 豊に顔を覗きこまれていることがわかって死にたくなった。文句を言ってやりたいのに口を開いても出てくるのは喘ぎ声ばかりで、言葉にならなかった。

「あ……ぁ、っ」

 狭い場所を豊の指が広げていく。熱い。触れ合っている場所がもうどこもかしこも熱くて、溶けてしまいそうだった。

 蒔田はかろうじて、たった一言だけを口にする。

「……はやく」

 豊はわずかに眉根を寄せるような顔をしたけれど、すぐにその場所から指を引き抜いた。指とは比べ物にならないほどの質量が押し当てられる。

 反射的に体がすくんで、待ってくれと言おうとしたがその暇もなかった。

「や……っ、ひ、ぁ」

 強い圧迫感に、やはり言葉が出ない。信じられないくらい豊のものは熱かった。蒔田は短く息をしながら、なんとか異物感をこらえる。

 豊の生気がゆっくりと、狭い場所を押し広げるようにして進んでくる。

「ああ……っ」

 苦しかったけれど、一番奥まで飲み込んでしまうと、思わず安堵の息が漏れた。ゆっくりと、満たされていく。痛みからではない涙がにじむ。

「大丈夫、ですか……」

 大丈夫なわけがない。豊が顔を近づけてきて、浮かんだ涙を唇で吸いとってくる。それからまた、見つめ合っているうちに、引き寄せられるようにキスをした。

 深く奥まで満たされている。それだけで、胸の中がいっぱいになる。

 馴染んできた奥が、そのまま動かないでいても、じわじわとした快感を伝えてくる。思わずわずかに身動ぎすると、「あ」と短い声が漏れた。

「動いてもいいですか」

 そう聞いておきながら、返事も聞かずに豊は腰をゆっくりと動かし始める。そうなるともうだめだった。

「や……っ、あっ、あ」

 狭い内壁を擦り上げられ、全身に強すぎるほどの刺激が走る。豊は浅く揺さぶっていたかと思うと、思い切りまた奥まで突き上げてくる。

「……っ」

 もうその動きについていくだけで必死で、蒔田は豊の背に必死にしがみついた。

 気持ちがよすぎて、そのことだけが怖かった。

「いい、ですか?」

 豊の質問になんて答えられなかった。だけど間近で見る豊の顔も、少し苦しそうに歪められている。汗をかいて、髪が頬に張り付いていた。そんな彼の顔は初めて見た。

 彼の顔は、怖いくらい真剣だった。

「んっ……、もう……」

 つながった場所が、発熱でもしていかのように熱い。揺さぶられ、好き、とわけのわからないまま何度も口にした。

「俺も……好きです」

 豊が引き抜きかけたものを一層奥深くに穿つ。頭のなかが真っ白になった。

「ああ……っ」

 思い切り豊のものを締め付けてしまい、豊も中で達したのがわかった。

「…っ」

 指先までがじんとしびれる。まるで身体が、ばらばらになってしまったみたいだった。全身に、温かいものが満ちている。指先までそれが巡っている。

 視界が真っ白になる。

 蒔田はそのまま、意識を失っていた。

 

 

 ゆっくりと目を開く。一瞬自分がどこにいるのかわからなかった。

 古い日本家屋の天井に、昨夜のことを思い出す。

 最初にこの家に泊まった時と違って、豊は隣に布団を敷いて眠っていた。

 家の中はやはり静かだった。だけど昨夜ほど、恐ろしい印象は受けない。古いが手入れが行き届いている。きっと豊の祖母というのは、背筋のしゃんと伸びたしっかりした人だったんだろうなと思う。

 かすかに鳥の鳴き声がする。

「……おはようございます」

 蒔田の気配に起こされてか、豊が眠たげな顔で言う。そんな油断しきった顔は初めて見た。前髪も、寝癖ではねている。

「……何笑ってるんですか」

 たまらなく愛おしくて、蒔田は彼の前髪を撫でる。

「別に」

 硬い髪は、撫でつけてもぴょんとはねた。

「朝飯抜きにしますよ」

 ふざけた調子で、豊が腰のあたりに触れてくる。くすぐったくて、蒔田は思わずまた笑った。

 そうやってしばらくまどろんでいたけれど、豊が朝食を作ると言って起き出した。

「手伝うよ」

「寝てて下さい」

 もうちょっとゆっくりしてもいいんじゃないかと思う。でも、あまりだらだらしないのも彼らしかった。

「身体、大丈夫ですか?」

 豊が去った部屋の中で、蒔田はぼんやりと窓の外を見た。雨はもうすっかり止んでいるようだった。穏やかな湖面に日差しが降り注いでいる。

「……あ」

 蒔田は急いで、豊を呼びに行く。廊下を通ったすぐ先にキッチンがあった。改築をしているらしく、そこだけアパートの一室みたいに、近代的な設備が整っている。

「ちょっと来い」

「何ですか」

 蒔田は無理やり、豊を引きずるようにして部屋に戻る。そして、窓際に豊を押し出した。

「ほら……!」

「何なんですか……」

 湖に目をやった豊が、続く言葉を飲みこむ。穏やかな湖面から、虹が立ち上っていた。まるで湖の中から生えてきたみたいに。

 淡いけれど、はっきりとした光だった。

「いや、よく考えたら、君は見慣れてるか」

 ここで育ったのなら、湖のいろんな姿を見てきたのだろう。子どものようにはしゃいだ自分が恥ずかしくなる。

「いえ……」

 豊はぼんやりとした声で言ったかと思うと、急に蒔田を抱きしめた。痛いほど強い力だった。

「好きです」

 絞りだすような声だった。顔は見えないけれど、泣いているような声だった。

「死なないでください」

「勝手に殺すなよ」

 蒔田がおどけるように言って笑っても、豊はしばらく顔を上げなかった。強すぎるほどの力で抱きしめ続けてくるので、息が少しだけ、苦しかった。

 虹は見ているうちに、次第に薄くなっていき、やがて消えた。

 後にはただ、透き通った青空と穏やかな湖面だけが残されていた。