1.

 

 自慢じゃないけど、何でも持ってる自覚はある。

 何回もスカウトされたくらい、顔はいい。童貞は中学の頃、告ってきた先輩で捨てた。まだ高校二年だけど、それ以降恋人が途切れたことはない。

「なー春樹、一年の水本ちゃんに告られたってマジ?」

「なんで知ってんの?」

「うっわ、マジないわ、ムカつく」

 昼休み、春樹たちは教室の後ろで、だらだらとたむろしていた。榊原は大げさに頭を抱えて見せる。悪いやつじゃないけど、背が低めで坊主頭なこともあって、なんだか猿っぽい。まぁモテない。

「で、どうしたの?」

 雑誌に目をやっていたはずの斉藤が急に聞いてくる。

「ごめんねしたけど」

「っは? マジないわ、ありえねー」

 また榊原が大げさに頭を抱え、のたうち回って見せる。

「だって恋人二人もいらないじゃん」

「お前意外と真面目だよなー」

 対して興味もなさそうに、斉藤が言った。

「普通だろ」

 意外とというのは心外だった。春樹はこれまでぐれたこともないし、酒も煙草もやりはしたけれどハマっていない。クスリに至っては手を出そうとも思わない。

 だいたい、今の彼女も告白してきた一年生も学内にいるのだし、二股なんて面倒なことしようとも思わない。

「ムカつくなー」

「やめろよ」

 榊原に軽い調子で言い返しながらも、春樹は少しイラっと来ていた。

 自分はたぶん、恵まれている。そんなことはわかってる。

 背だってそこそこの高さがあるし、運動神経もいい方。汗臭い部活なんて嫌いだからやらないけど、サッカーでもバスケでも、人並み以上にはできる。頭だって悪くない。

 だけどそれは、しょうがない。人にはそれぞれ持っているものがある。恨むなら神様を恨んで欲しい。

「お前も髪伸ばせばいいじゃん」

「えー?」

「もう部活やめんだろ」

 榊原は野球部だが、ほとんど「元」だ。今年の始めまでは時期エースと期待されていたのだが、肘を故障した。まだ部をはっきりやめたわけではなく、練習にも参加しているようだが、続けられないのは自明だった。

「さっさと退部して、髪伸ばした方がいいと思うけど」

 髪が伸びるのには時間がかかる。むしろ、もう野球ができなくて、かつモテたいと思っているのに、野球部に居続けているのが不思議だ。

「うーん、まぁな」

 榊原はなんだか誤魔化すみたいに笑った。

「彼女欲しいんじゃねぇの?」

 春樹の言葉に、もう榊原は答えなかった。困ったように笑っている。

「ならさっさと退部すりゃいいじゃん」

「お前、思いやりねーな」

 唐突に発された言葉が、自分に向けられたものだと、初め春樹は気づかなかった。

「は?」

 鋭い目に見下されている……と気づいた時には、もう男はきびすを返し、自分の席についていた。

 同じクラスの石和だった。背が高くて無口なやつで、これまでほとんど話したことはない。

「何今の」

 信じられなかった。驚きのあとに、じわじわと怒りが沸き上がってくる。バカにされたのだ。それも、通りがかりに。

「何なんだよ今の」

 行き場のない怒りで頭が熱くなる。石和のことはよく知らない。だけど石和だって春樹のことを知らないはずだ。ろくに話したこともないのだから。

「さぁ」

「何あいつ……!」

 榊原も斉藤も、驚いた風ではあったけれど、俺のようには怒っていなかった。どちらかというと事態を面白がっているようにも見えた。

「ムカつくんだけど」

「まぁまぁ」

 斉藤と榊原の態度は、春樹にとって追い打ちだった。自分と一緒に石和に怒ってくれると思っていた。なのに、彼らはへらへらと笑っている。

「何笑ってんだよ」

「まぁ冗談みたいなもんだろ?」

 あんなひどい通りがかりの暴言が、軽いものとして流されていくのを感じる。ショックのあまり、春樹は席を立って石和に文句を言いにいくこともできなかった。……斉藤と榊原は、親しい友人のはずだった。なのに春樹を欠片もかばわない。

 春樹は石和の後ろ頭を睨みつけた。

 ――何でも持っている。

 俺は、何でも持っているんだ。

 

 ・

 

 石和昌平、出席番号二番。

 たぶん背が180センチくらいある。特徴はそのくらい。

 クラスでも中の下くらいの地味なグループに一応いるけれど、一人の方が多い。だけど外されてる風でもない。成績はわりと上位。清掃委員会。帰宅部。

 騒ぐタイプじゃないけど、協調性がないわけじゃない。全体的に、目立たない。実際、春樹はこれまで彼の存在自体をほとんど気にしたことがなかった。

 これが仮に、去年同じクラスだった岡田みたいな、サッカー部のふざけた奴だったらわかる。好きだった子を取られた腹いせとか、そういうのは前にもあった。

 だけど春樹には、石和に恨まれる覚えがまるでなかった。

 次の日、春樹は授業中、石和の観察ばかりしていた。石和は基本的に真面目に授業を受けているようだけれど、雑談が長くなったりすると、教科書の先を読んだり何か内職をし始める。携帯はいじらない。

 榊原や斉藤に聞いても、石和のことはよくわからなかった。石和の友人らしい奴らと、春樹はあまり親しくない。

「なぁ、石和、今日暇?」

 だから春樹は五限目の終わりに、石和の机のそばに行き、直接話しかけた。

「……なんで」

 席についている石和を、春樹は見下ろす形だった。だけど石和の目つきは鋭くて、なぜか自分のほうが劣勢にいるような気にさせられる。

「一緒に帰ろうぜ」

「……だからなんでだよ」

 石和はわずかに眉根を寄せて言う。声色は変わらないけれど、迫力がある。

 だが、それくらいでは春樹も気にしなかった。

「なんででもだよ」

「はあ?」

「家どっち? まぁいいや。後でな」

 春樹はそれだけ言って、席に戻る。石和の目が自分を追っているのを感じて少し気分が良かった。

 春樹が帰りのホームルーム後に即、石和の席に行くと、彼はもう教室から出ていこうとしているところだった。だから春樹はすぐにそれを追いかけた。

「おい待てって」

「なんで待つんだよ」

「約束しただろ」

「してない」

 斉藤が背後で面白そうに「がんばれよ」と言葉を投げてくる。春樹は振り向いて、思い切り顔をしかめて舌をつきだした。

 

 ・

 

 駅まで歩く間、春樹が話を振っても石和はあまり喋らなかった。

「お前彼女いるの?」

 特に石和の悪い評判は聞かない。かといっていい評判も聞かない。

「いねぇよ」

「ふーん」

 勝った、と声には出さずに思う。

 成績、周囲の評判、外見、どこをとっても、石和に自分より優れているところはない。まぁせいぜい身長体重くらいだ。

「部活は?」

「ていうか、何なんだよ」

「何って?」

「なんでお前と一緒に帰んなきゃなんないんだよ」

 石和はイライラした口調で、春樹の方を見ずに言う。

「別にいいだろ、クラスメイトだし」

「話したことないだろ」

「この間一方的に話しかけられたけどな」

「……やっぱりあれ根に持ってんのか」

 石和は大げさにため息をついた。春樹も百七十センチはあるが、それでも石和の方がコンパスが長いので、やや速めに歩かざるをえない。女の子が合わせるのはもっと大変だろうなと思う。

「変なこと言って悪かった」

 石和はまるで悪いとは思っていない口調で言う。

「別にー、気にしてない」

「嘘つけ」

「いつもまっすぐ家帰んの?」

 石和はむっすりと黙りこんでしまった。

「バイトしてる? 部活はやってないよな?」

「あー、もううるせぇな。この間のことなら悪かったから」

「だから、気にしてねぇって」

 駅前のロータリーまで来たところで、石和は急に立ち止まった。

「あ、俺今日は用事あるから、じゃあな」

「は?」

 石和は軽く手を上げると、人混みに紛れるようにして駆け去っていった。

 逃げられた。背の高いその背中が見えなくなるまで、春樹は呆然と立ったままでいた。

 

 ・

 

「逃げられた」

「ふーん」

「足早いな、あいつ」

「元バスケ部らしい」

「え? マジで?」

 春樹はだらだらと昨日の顛末を斉藤を相手に愚痴っていた。当の石和本人は自分の机に突っ伏して眠っている。距離があるし教室はうるさいから、春樹たちの話し声までは聞こえないはずだ。

「まぁ背高いしな。なんで辞めたの?」

「知らねぇ」

 携帯をいじりながら斉藤は言う。斉藤はネット上のことに異様に詳しくて、やたらと学内の生徒のツイッターアカウントだの何だのを知っている。なぜだか教師の、愚痴満載の個人的なアカウントまで知っているので恐ろしい。

「中学はどっか西の方らしいし、引っ越してやめたのかも」

「あいつのアカウントとかない?」

「ねぇな、見たところ」

「ちぇー」

「ていうか春樹がそこまで気にするって珍しいな」

「そう?」

「お前、ミナちゃんのアカウント知りたい?」

「え? あんの?」

「聞いてきたこともないもんな」

 斉藤はスマートフォンをいじり、ツイッターの画面を表示させる。目の辺りを隠した、誰だかよくわからない女の子のアイコンと、パンケーキの写真が表示されている。ずっと来たかったカフェに来ました!!みたいなテンションの高い文章だった。

「……マジ?」

 それは先週、春樹がミナと一緒に行ったカフェだった。その写真のテーブルの向こうには春樹がいたはずだ。

 手を伸ばそうとすると、斉藤はまたスマートフォンを自分の手元に戻してしまった。ミナがこんな風に、自分と過ごしたことを発信しているとは知らなかった。

「もっと見たい?」

「いや、驚いたけど別にいいや」

 何が書いてあるかは想像がつく。何がおいしいとか、テレビが楽しいとか、新しい服がかわいいとか、きっとそんなことだろう。

「なんでそんなに石和のこと気になんの?」

「気になるとかじゃねぇって」

「珍しいよな、春樹がこんなに誰かにこだわんの」

「俺かわいい女の子にはこだわるし?」

「はいはい。振られたら三日で忘れるくせにな」

 斉藤は春樹の方を見もせずに言う。不満ではあったけれど、それ以上は何も言わなかった。

 別れた女の子のことはあまり考えたりしない。それは事実だった。振られたときでも振ったときでも、春樹はあまり引きずらない。美徳だと思うのだが、誰も褒めてはくれない。

「だって覚えてたってしょうがないじゃん」

 間違ったことは言っていないはずだ。榊原はもう野球部にはいられないのだから、モテたいならさっさと辞めた方がいいし、振られたのなら相手のことは忘れた方がいい。彼女のツイッターアカウントをこっそり見るなんてこともしないに越したことはない。

 石和のことは、単にこの間暴言を吐かれたことが許せないだけだ。通り魔みたいなものなんだから、それなりの報いを受けるべきだと思う。何より春樹の気が済まない。

「基本薄情だよなー」

「んなことねぇって」

 斉藤の何気ない言葉が、この間の石和とダブって聞こえる。

 別れた相手のことを考えたって仕方がない。それは間違っていないはずだ。本当なら斉藤のネットストーキング癖もやめた方がいいと思う。別れた彼女のツイッターを覗き続けていることは知っていた。

 だけど春樹はさすがに、それは口にしなかった。

 石和の冷たい目がかすかに脳裏をよぎった。

 

 ・

 

「今日も用事?」

 今度は趣向を変えて、春樹は下駄箱まで先回りして、石和を待ち伏せた。下校するにはどうしたって靴は履き替える。

「……お前なぁ」

 石和は春樹を見ると、げんなりした顔をして、逃げようか迷うみたいに周囲に目をやった。

「一緒に帰ろうぜ」

「お前んち、反対方向だろ」

「何で知ってんだよ?」

 石和の家は、最寄り駅から電車で三十分程のところだと聞いていた。春樹の家は、反対方向に電車で十分だ。

「まぁ駅までは一緒じゃん」

 石和についての情報が少ないとはいっても、別に隠されているわけでもない。中学までは関西の学校にいて、バスケ部のスタメンだったらしい。今は帰宅部で、地元のショッピングモールでバイトをしている。

「あれ、春樹?」

 振り向くと、廊下にミナが立っていた。帰るところらしく、友人に軽く会釈して近づいてくる。

「今帰り? 一緒帰ろうよ」

 しまった。

 ここのところ、石和を追うために、家の用事だとか何だとか言って、ミナと帰るのを避けていた。約束もしていないのに石和につきまとっていることは、さすがに知られたくない。

「あー」

「駅まで一緒しよ?」

 春樹がさっき石和に言ったことを繰り返すみたいにミナは言う。相変わらずスカートが短い。

「――東原」

 名前を呼ばれたのはたぶん初めてだった。背の高い男が靴を履き替え、春樹を見下ろしていた。

「俺んち来るんだろ」

「あー、うん」

 春樹は反射的に返事をする。

「悪いな、今日、石和の家に行くから」

「あ、そうなんだ。ごめん。じゃあ、またね」

 ぱっと笑顔になってミナは手を振った。こういう彼女の切り替えの速さが春樹は好きだった。

「悪い」

 春樹は先に玄関を出た石和を追いかける。

「どういう風の吹き回しだよ」

「別に。彼女?」

「うん」

「かわいいな」

 石和はまるで感情を見せない顔で言う。春樹はびっくりしてまじまじと彼の顔を見つめてしまった。

「え? 好み?」

「そうでもない」

「はぁ? お前何なの」

 並んで駅までの道を歩く。こうしていると、ありふれた友人同士に見えるのだろうなと思うと、少し面白かった。

「数学の宿題やった?」

「まだ」

 実際に、友人同士みたいな他愛ない会話をした。

 それにしても、春樹に付きまとわれるのを嫌がっていたはずの石和が、ミナの前では話を合わせてくれたのは意外だった。

 話しているうちに、あっという間に駅まで来てしまった。家が反対方向なことはお互いに知っている。ちょっとどこかへ寄っていこうかと言いたかった。だけど、せっかく石和の態度が軟化したのに、めったなことは言えないとも思った。

「石和、バイトは?」

「今日は休み」

「ふぅん」

 一緒に改札を抜け、駅の構内に入る。石和はパスケースを使っていなくて、むき出しのまま定期を持っていた。

 ホームに続く階段のあたりまで来て、春樹はじゃあな、と言おうとして口ごもる。石和が乗る方向の電車がもうすぐホームに入ってくることを、アナウンスが知らせている。

 なぜかすごく気の合う女の子とのデートの後みたいに、名残惜しい気分だった。

「あー、じゃあ、また、な」

 歯切れ悪く春樹が言うと、石和は表情を変えずに言った。

「家、来るんじゃねぇの?」

 

 ・

 

 どうしてこうなったんだろう。

 春樹は見知らぬ住宅街を歩いている。しかも石和と一緒に。

 何か手土産買ってこうか、と言ったのだが、石和はいらないと言い張った。突然おじゃまするのはやっぱりよくないんじゃないだろうか。春樹の母も、来客は好きなのに事前に連絡しておかないとすごく怒る。

 これまで春樹が降りたことのない、各駅しか停まらない駅だった。周囲は古くからの住宅街という雰囲気で、アパートや一軒家が多い。道幅もやたらと狭かった。

 あとどれくらいかと聞きたくなってきた頃、石和が立ち止まった。

「ここ」

 最初、春樹は石和が寄り道するつもりなのかとも思った。アパートはその表面の半分ほどを蔦に覆われていた。

「……え?」

 はっきり言って、ぼろぼろだ。石和はかんかんと音を立てて、錆びた階段を上がっていく。

 まじかよ。声には出さずに春樹は呟く。

「石和って一人っ子?」

 春樹はことさら明るい声を出してみせる。石和はそれを無視して、ポケットから鍵を取り出してドアに差し込む。ドアはきいと音を立てて開いた。

 室内は暗くて、誰もいないことが明らかだった。

「入んねぇの?」

 薄暗い部屋の中は、何かが出てきそうにも見えた。だけど今更帰るなんて言えなくて、春樹は「おじゃまします」と小さく口にした。

 

 

 部屋の中は、信じられないくらい散らかっていた。

 玄関から入ったところはすぐリビング兼キッチンになっていて、テーブルの上には山盛りに色んなものが乗っている。コンビニ弁当の空容器から、新聞、ペットボトル、カバンやジャージまで、よく全部乗せられたなと思うくらい、ぎゅうぎゅうだった。

 一体これでどうやってご飯を食べるんだろう。

 洗い場にも食器がたまっているのが見えた。

「引いてんじゃねーよ」

「……引いてないし」

 これまで遊びに行った同級生の家だって、お世辞にもきれいと言えない家はたくさんあった。だけど――だけどこれは、ちょっとひどい。

「こっち」

 石和がふっと春樹の腕を掴んで引く。

 春樹は引かれるまま、和室に入る。その部屋はまたまるで違う雰囲気だった。リビングと違い、逆にものがほとんどない。

 畳の隅っこに、見慣れた学校の教科書が直に積まれている。……石和の部屋なのだろう。石和はカバンを置き、上着を脱ぎ始める。部屋は六畳くらいで、布団がしかれっぱなしだった。そのそばにはダンベルがある。

 だけど、それだけだった。

 テレビもゲームもマンガもない。押入れにでもしまってあるのだろうか。これだけだと、まるでどこかから逃げてきた人の部屋みたいだった。

 ……帰りたい。住宅街であるためか、部屋はとても静かだった。

「満足か?」

 石和は春樹なんていないみたいに、制服のシャツを脱いでいった。春樹は思わず、目を奪われてしまう。

 石和の腹は六つに割れていて、胸のあたりも筋肉で盛り上がっていた。部活を熱心にやってる奴らだと、腹が割れているのも珍しくない。だけど、なんとなく目を逸らせなかった。部屋の外を自転車が通り過ぎて行く音が、やたらとはっきり聞こえた。

「何」

 石和がつまらなそうな顔で聞く。春樹は顔が熱くなるのを感じた。何を男の裸なんかに見とれているんだろう。この部屋の異様な雰囲気のせいかもしれない。

「石和って兄弟いないの?」

 石和はTシャツに顔を通している。

「親は何してる?」

 ことさら明るく張った春樹の声は、むなしく響くばかりだった。

「満足したかって聞いてんだろ」

「……え?」

「楽しかったか? もういいだろ、さっさと帰れ」

 石和は心底うんざりした風に息を吐く。

「えーと、でもせっかくだからさ」

「せっかくだから何」

「えーと、遊ぶ?」

「何して」

 しんと沈黙が落ちる。確かにこの部屋にはあまりにも何もない。変な汗が湧いてきそうになる。いやに焦りを感じる。そもそも何をしに来たのだっただろう。

「……俺、石和のことが知りたいんだ」

 素直に言葉がぽろりと口からこぼれ出た。もちろん、情報を知って戦略を立てるためだ。石和が自分に勝っているところなんてないと確かめるため。それだけだ。

「お前さ、何様なわけ」

「……は」

 石和は急に春樹の腕を掴み、間近で睨みつけた。石和の腕力は強く、腕を引こうとしてもびくともしなかった。

「お前、俺のこと知って、見下したいだけだろ?」

 顔がかあっと熱くなるのがわかった。

「そんな奴になんで俺のこと教えなきゃなんねぇの?」

 違うと言いたいのに言えない。腕を掴まれているせいで身動きも取れない。

「俺に何かメリットがあんの? お前が俺に何かしてくれるとか? お前、顔は女みてぇだもんな」

 かっと頭に血がのぼる。ふざけんなと言おうとした。そしてそのまま部屋を出ていこうと。なのに口が勝手に違うことを言っていた。

「――何かって?」

 石和の目に射抜かれるかのように感じた。鋭いその視線が、春樹の顔から逸れ、鎖骨のあたりに落ちる。なぜか背筋が震えた。空気が急にぐっと重く、湿度が増したかのように感じられる。

「ひ……」

 石和は女にするみたいに、シャツの上から春樹の胸を揉んだ。

「こういうこと」

「はっ? お前何して……」

 声が途切れる。石和の鋭い目が近づいてきたと思ったときにはもう遅かった。

 何が起きたかわからなかった。乾いた唇の感触。春樹が呆然として抵抗できないのをいいことに、石和は角度を変えて深く唇を貪った。かすかな、濡れた吐息。

「離せ……っ」

 石和は春樹のシャツの裾から手を入れてきて、今度は直接胸に触った。そこには女と違って膨らみなんてないのに、乱暴に撫でさすり、胸の先端をつまみ上げてくる。

「や……っ」

 自分でも信じられないくらい、高い声が出た。何だこれ、なんだこれ。混乱してどうしたらいいのかがわからない。その間にもキスをされながら、胸をこね回されて、息が上がってくるのがわかる。

「やめ……っ」

 間近で見る石和の目は、ぎらぎらと鋭く光っていた。身体がすくむ。逃げられない、と思ってしまう。石和の下半身がはっきりと欲望を示しているのを見て、焦りと混乱が頂点に達した。逃げないとやばい。なのに身体に力が入らない。

 このままだとまずい。石和のキスはどんどん深くなり、舌を吸い上げられるとめまいがした。

「おにいちゃん?」

 場違いな声が響き、石和の重みがふっと引いた。石和は何事もなかったかのように立ち上がり、ふすまの入り口の方に顔を向ける。

 そこに、小学生くらいの女の子が立っていた。

「おかえり」

 さっきまでとまるで違う、柔らかい声で石和は言う。

「その人、ぐあいわるいの?」

 女の子が春樹を指さす。

「いや、あ、や、そんなことないよ」

 春樹は反射的に笑いながらシャツを直した。胸は異様な速さで脈打っていた。ズボンの位置を直そうとして愕然とする。ズボンの前は半ば膨らんでいた。少女に見えないよう、春樹はこっそり身動ぎした。

 

 

 

2.

 

「でね、私がアルバム委員になるって言ったら、そいつも立候補してきて。そんで、委員長になって私を外そうとするのね」

「ひでぇやつだな」

 殺風景な和室のふすまを開けると、そこはまたまるで違う雰囲気の部屋だった。二畳ほどの広さしかないが、ハローキティの机が置かれ、小学生用の教科書と可愛らしい文房具が並んでいる。

「そんなん、やめてやれよ」

「うーん。どうしようかな」

 その机には今、算数のノートが開かれている。かすみはキキララのシャーペンを持って、そのノートに熱心に数字を書き込んでいた。

「なぁかすみちゃん、お兄ちゃんの弱みって何かない?」

「弱み?」

「これをされると弱いってとこ」

「んー」

「お前なにやってんだよ」

 石和が足でふすまを開けて部屋に入ってくる。背の高い男が来ると、一気に部屋が狭く感じられた。

「内緒だよ、ねー」

「ねー」

「ねー、じゃない。かすみ、お前も釣られるな」

 石和はお盆に、プリンを三つ載せて持っていた。

「あ、プリン!」

「わーい」

 春樹はかすみを真似たはしゃいだ声を出して見せる。

「休憩ね」

 かすみは一方的に言って、石和の手から皿を奪い取る。それから春樹に一つプリンを手渡してくれた。

「かすみちゃん、ほんといい子だな」

「ロリコン」

 石和が冷たい目を向けてくる。もちろん、春樹の目的は小学生のかすみにあるわけではない。

 キスには驚いたが、「これだ」と思った。石和がもし同性愛者で、自分のことを好きなのだったら、これはチャンスだ。

 惚れたほうが、負けだ。石和に告白させて、こっぴどく振ってやる。そうしたら自分の気もきっと晴れる。

 とにかく、石和はムカつく。あの暴言も、余裕のある大人びた振る舞いも、何もかも気に入らない。石和にもし下心があるのなら、それ以上の隙はない。チャンスだった。

「これ、プッチンプリンってやつ?」

「……は?」

 かすみから手渡してもらったプリンは、小さな和風の容器に入っていて、ぷるぷると揺れていた。その柔らかそうなフォルムに春樹はしばし見とれる。

「そうだよな、これ」

 アニメか何かで出てきたのを見たことはあったが、実物は初めてだ。

「食べたことねぇの?」

「ない……と思う」

 前から食べたかったのだが、添加物が入っていてよくないとか何とかで、母に止められた。

「……給食で出るだろ?」

 石和は呆れたように言って、スプーンを配った。スプーンはそれこそ給食で出てくるような、プラスチックの使い捨てだった。

「出ないって! いただきます!」

 プリンは思った以上に柔らかく、本当にぷるぷるだった。母が作ってくれるプリンは卵の味がしておいしいが、こんなに柔らかくはない。

 「うまい」と春樹が言うと、かすみが「んまい」と真似してくるのが可愛い。

 こいつ、メンクイだなと石和が小さく呟いた。

 

 

 春樹は一人っ子だ。兄弟げんかをしたことも、母親を取られて悔しい思いをしたこともない。おかずの取り分けでもめたり、お下がりをあげたりもらったり、そういうこともない。

 石和とかすみは、かなり年が離れている。そのせいか、その関係は親子のようでもあった。

「かすみ、宿題したか?」

「教科書揃えとけよ」

「夕飯何食いたい?」

 アルバイトのせいもあるだろうけれど、石和が部活をしていない理由が、なんとなくわかった。

 この年頃の女の子はそういうものなのかもしれないが、かすみはマセていて、石和にすぐ反論する。だけど、仲がよく兄に懐いているのは見ていてよくわかる。

「なんかいいな、兄妹って」

 春樹は石和の部屋の壁に寄りかかっていた。石和の家の畳は毛羽立っていて、ところどころ汚れや焦げたようなあとがある。それをなんとなく手持ち無沙汰で撫でてしまう。

「お前、兄弟は?」

 バイト帰りの石和が言った。

 石和はショッピングモールのたこ焼き屋でアルバイトをしている。今日は石和のいない間、春樹はかすみの勉強を見てやっていた。かすみは春樹になついてくれている。これもまた、チャンスだと思った。

「いない」

「やっぱり」

「やっぱりって何だよ」

「そのままの意味だよ」

「差別だ」

「別に悪い意味じゃねぇよ。羨ましいと思って」

 石和はぺたんこの布団の上に腰を下ろす。隣の部屋とのふすまは閉められている。かすみはもう眠ってしまった。

「はぁ? お前なに言ってんの? あんなかわいい妹がいながら」

「色々あんだよ」

 石和はかすみをとても可愛がっている。それは傍から見ていてもわかる。とても仲のよい兄妹だ。

 なのになぜ、石和がそんなことを言うのか、春樹にはわからなかった。兄弟がいたらいいなと春樹は何度となく思っているのに。かすみを大切にするがゆえの、冗談なのだろうか。

「ごめんかすみちゃん、風呂入ってないから、起こしたげないとな」

「いいだろ、明日で」

「え、いつ入んの」

「朝だろ」

「朝に風呂入んの?」

「お前なに言ってんだ?」

 石和は疲れた様子で、布団に上半身を横たえた。

 静かな夜だった。テレビもない家では、会話以外にすることもない。

 帰ったほうがいいんだろうな、と春樹は思う。春樹がかすみと遊ぶようにウノやトランプを持ち込んではいたけれど、ここでじゃあそれを取り出してやろうかというと、そんな気分にはとてもなれない。また遅くなってしまって母にも何か言われそうだし、もう帰った方がいい。

 布団に投げ出された石和の上半身が、呼吸で上下しているのが見える。実は春樹はバイトをしたことがないので、ボロが出るのが嫌で、石和にバイトのことはあまり聞かなかった。

「……お前、何しに来てんだ」

 石和がぽつりと言った。

「え?」

「タダでベビーシッターしに来てるわけじゃねぇだろ。それともガチでロリコンなのかよ」

 石和は布団に肘をついて、上半身を起こして言った。

「ないって。俺彼女いるし」

「彼女ほっぽって何やってんだよ」

 石和は春樹の発言に、安心するより腹を立てたみたいに見えた。

「デートもしてるよ」

 それは本当だった。というよりも、帰宅部でバイトもしていない春樹は、ミナと会うか石和の家に来るかくらいしか、することがない。大学は受験せず、推薦を取るつもりだった。内申はいいから、どこかはまず取れるだろう。

 石和の家に来る前には、スマートフォンでゲームをしたりして時間を潰していた。

 そう説明すると、石和は心の底から呆れたような顔をした。

「……お前って」

「いやおもしろいんだよ、最近のゲーム、ほんとバカにできないんだって」

「あっそ」

 石和には何でも勝っているはずなのに、どうしてこんなに焦りを感じるんだろう。石和に負けているのは体格くらいのはずだ。石和はどう贔屓目に見ても貧乏だし、彼女もいないし、まぁかすみは可愛いけれど、それだけで負けたとは思わない。

 ……早いところ、石和に告白させないと。

「デートしてやろうか」

 春樹が少し笑いながら、冗談ですよ、とわかるように言ったのに、石和は固まった。そして、深刻なことでも聞いたみたいにゆっくりと眉根を寄せた。

「な、に引いてんだよやめろよ」

 春樹は焦って言葉をつらねる。

「お前はデートする相手もいないだろうから可愛そうだなと思ってさ、俺ほどの、まぁ女の子の扱いのプロ?が色々教えてやってもいいんだぜ、っていうさ、親切心じゃん?」

 言葉を重ねれば重ねるたび、空気が冷え込んでいくように感じた。まずいと思うのだけれどどうしていいかがわからない。

 だいたい、デートの一言くらいでこんなに空気が凍るなんてどうかしている。冗談じゃないか。冗談に決まってるじゃないか。

「デートしたいんなら、したいって言えよ」

 石和はゆっくりと腕を組んで、見下すような目で春樹を見ながら言った。

「……は?」

「してやらないこともない」

「は、お前それ俺のせりふ……」

「どうなんだよ」

 どうしてこいつにこんな高圧的な態度を取られなきゃならないんだと春樹は思う。

 だいたい、石和は俺を好きなはずだ。

 この間、キスをされて、胸に触られたことを思い出す。思い出したら、なんだか急に恥ずかしくなってきた。女の子でもないのに、胸を触られたって何だよ俺、と思うが顔が熱くなるのを止められない。

 石和は自分を好きなはずだ。だから、好きだと言わせて、それを振ったら、春樹はそのときこそ石和に勝てる。圧勝だ。

 そのためには、デートという機会も必要かもしれない。春樹はぐっと手のひらを握りこむ。

 そうだ、これは戦略なのだ。

「……したい」

 デートという言葉を言うのが嫌で、中途半端な言葉尻だけを口にしたせいで、かえって変に響いた。

「ちが……いや、変な意味じゃなくて」

「変な意味ってなんだよ」

 石和は腕を組んだまま、唇の端だけで笑った。嫌味なやつだ。

「デートをだよ」

「ちゃんと言え」

 どうして俺が命令されなきゃならないんだ、と叫びたい。けれど春樹はぐっとこらえる。

「デート、したいです……」

 たぶん顔は真っ赤になっていたと思う。彼女を誘う時だって、こんなに恥ずかしいことはなかった。顔が火照って仕方がない。一生の恥だ。

「わかった、してやる」

「お前いい加減にしろよな!!」

 春樹はわめき、そばにあったかすみのノートを投げつけた。石和は腕組みを解いて笑った。

「お前、耳まで赤い」

 指摘されてかえってまた顔に熱が集まるのがわかった。消えてなくなってしまいたいくらいだった。石和はやたらと楽しそうに笑っていて、そんな顔を見たのは初めてだった。

 

 ・

 

 何を意識しているわけでもない。つまり、男友達と出かけるのと同じだ。

 そう思うのに、つい思い悩んでしまう。一体何を着て行けばいいのか?

 別に楽しみだからじゃない。単に、石和に告白させるという目的のための手段だ。そのために、あまりみっともない格好はできない。

「何、こんなに散らかして」

 部屋に入ってきた母が言う。

「ノックしてって言ってるじゃん」

「あら、しなかった?」

「してない」

「はい、桃。落ちないからこぼさないようにして食べてね」

 母は切った桃の皿を春樹の机の上に乗せ、部屋を出て行った。

 あれでもないこれでもないと出していたら、いつの間にか部屋が服で埋め尽くされてしまった。ミナと前回のデートで何を着たっけ、とぼんやり思う。

 服にこぼさないように、机の上に皿を置いたまま、身を乗り出すようにして桃を食べた。甘くて汁気が多くておいしかった。

 かすみと石和にも食べさせたいと、自然とそう思ったのが不思議だった。

 

 

 早く行き過ぎるのも、楽しみにしていたみたいで格好が悪い。だが、あまりに遅刻するのも空々しいし、文句を言われそうな気がする。

 だから春樹は、わざと五分遅れで待ち合わせ場所につくようにした。石和は指定した改札前で、ポケットに手を入れて立っていた。

 やっぱり足長いよな、とぼんやり思う。

 遠目に観察していても、石和はなかなか春樹を見つけなかった。少し俯き気味に、微動だにせず立っている。春樹は遅れているのに、携帯を取り出して見るでもない。

 このまま春樹が現れなかったらどうするのだろう。石和は三十分くらいしか待たずに、ぱっと帰りそうな気がした。

 そう考えると、春樹は急に焦った。まだ石和に帰る様子なんてないのに、早く捕まえないとという気持ちになる。

「おっす」

 春樹はことさら余裕ぶって、のんびり歩いて行った。

「逃げずに来たか」

「なんで俺が逃げるんだよ」

 石和は一言も、遅い、なんてことは言わなかった。時計を見てさえいなかった。それが石和なんだと思うと、何だか少しだけ、楽しかった。

 

 デートというからには、遊園地やカフェや映画や、そんなところに行くんだろうと思っていた。

 なのに、石和に連れて行かれたのは山だった。

「ちょっと待て、俺そんな準備してない」

「スニーカー履いてんだろ」

「心の準備が」

「そんなんいるか」

 石和だって、確かに登山の格好というわけではなかった。実際春樹も、遠足で前に登ったことがある。子供の足でもそれほど苦労はしない山だ。

 だけど、こんなつもりじゃなかったのだ。最近やっている評判のいい映画とか、春樹は一応調べておいた。何度か使って雰囲気がよかったカフェの場所も確認した。石和が困ったら、いつでもデート達者ぶりを見せつけてやろうと思ったのに、プランが狂ってしまう。女の子と山に行ったことは今のところない。

 石和は尻込みする春樹の言うことも聞かずに、登山道の入口の方へ入っていく。いかにも登山に行きます、という派手な色のウェアを着た中年女性のグループがたむろしている。

「置いてくぞ」

 

 石和は健脚だった。それもそうだ。彼の身体つきのよさは自分の目で見ている。

 春樹だって運動は得意だし、負ける気はしない。だけど山は何しろ遠足以来だ。木の根をよけたり、傾斜のある道を上ったりするのに少し時間がかかる。遅れ気味になる春樹をところどころ石和が振り返って待つのが、余裕という感じで気に入らない。

 それに、石和が選んだのは上級者向けのコースらしく、遠足の時より道は格段にハードだった。

「うわっ」

 下りになった道で春樹はとうとう足を滑らせてしまった。転ぶ、と思った。格好が悪いにも程がある。

 最低だ。厄日だ。

 だけど、春樹は転ばなかった。いつの間に来たのか、石和に腰を抱かれるようにしてしっかり支えられていた。

「危ねぇな」

「……っ、足が滑った」

「見ればわかる」

 心臓が早鐘を打っているのは、転びそうになったせいだ。かすかに鼻が石和のにおいを捉える。石和の家と似たにおい。

 急に前、石和に身体を触られたときのことが蘇ってきて、春樹は思い切り石和の腕を振り払った。

「離せ」

 焦るあまりに、思いのほか口調が強くなってしまった。

「あ、いや……」

 春樹は曖昧に笑ったけれど、口から出た言葉は取り消せない。何とフォローしていいかもわからなかった。

 石和は傷ついたそぶりも見せず、何も言わずに春樹から離れた。

「気をつけろよ」

 そしてそれから、春樹から一定の距離を保ち続けた。

 

 緑が一面に茂っている。マイナスイオン浴び放題だな、と思う。だけどそういえば、何に効果があるのかは知らない。

 鳥の鳴き声が小さく聞こえる。石和の選んだこの道はマイナーなようで、あまり人にもすれ違わなかった。ごくまれに枝を杖にして歩いているような人たちがやって来るので挨拶をする。

 じきに会話も途絶えた。もくもくと歩いていると、色々なことを考えてしまう。

 今日、ミナに会いたいと言われていた。先約があるからダメだと言ったのに、ずいぶんゴネられた。相談したいことがあるとか言っていた。

 本当は、こういうときは彼女を優先するべきなのかもしれない。頭ではわかっていた。だけど、石和と出かける機会なんて次はもうないかもしれない。そう思ったら、ミナの方を断るしかなかった。

「なぁ、石和」

 三メートルくらい前を歩いている石和を呼ぶ。

「あとどんくらい?」

「休憩するか?」

 石和は振り向いて言う。

「平気だけど」

 だって冗談みたいにデートがしたいと言って今日は連れ出したけれど、石和が忙しいのはわかっている。バイトを詰め込んでいるはずだし、かすみに留守番をさせるのもかわいそうだ。もう次はないかもしれない。考えているうちに、なぜかもの寂しいような気持ちになった。

 いや、と春樹は思い直す。単に、もし今回石和が告白してこなかったら、別の機会を作らないといけないから面倒なだけだ。

「もうちょっとだ」

 石和は春樹を観察するようにじろじろ見たあと、またすぐ前に向き直る。

「なぁ、なんか話しようぜ」

「何を」

 石和は振り向かずに答える。

「えーと、初恋っていつ頃?」

「お前、ほんとおめでたいよな」

 振り向いた石和の射るような目と、目が合う。何か自分がとんでもないことを言ってしまったかのように、身体がすくんだ。

「な……んだよ、それ。別にいいだろ」

「いや悪い、褒め言葉」

「褒めてねぇだろ!」

「初恋なぁ……小学生の頃かな」

 石和は意外と普通に話し始めた。

「へぇー」

「隣の席かなんかで。髪が長くて、気が強い子で」

 女の子なんだ、とちらと思う。

「ピアノとかやってて、ちょっとお嬢様ぽかったかも」

「へぇー、なるほどなるほど。なんか告白とか、甘酸っぱいこととかあった?」

「いや、俺が引っ越してそれっきり」

「どこ住んでたんだっけ?」

 話しているうちに石和との距離が少し縮んだ。声が届くように、石和が少しペースを落としたらしい。

「そのときは四国」

「え? あっちなんだ」

「いや……もともとは東北」

「え、すごいワールドワイドだな」

「日本だろ」

 春樹はふと、石和の親の影をどこにも見なかったことに思い至る。少し遅くまで石和の家にいても、親が帰ってくることはなかった。

 かすみの面倒を見ているのはほとんど石和だ。キッチンは散らかったままだし、大人が出入りしている形跡は……そういえば、ないような気がする。

「何してんの、お父さん、仕事」

 春樹はつとめて何気なく聞いた。

「何も」

「え? お母さんは?」

「いない」

 ぽつりと言って石和が歩き出すので、また距離が開いた。春樹は足を早めて追いかける。石和の靴は、たぶん春樹より二センチかそのくらいサイズが大きい。

 謝るのも変な気がした。だけど何と言っていいかわからなかった。

 でも、それこそ学校の手続きとかだって、誰か大人がやっているはずだ。キッチンの横には、春樹が入ったことのない部屋がもうひとつある。あれが父親の部屋だろうか。

「お前は?」

「何?」

「お前の両親、なにしてんの」

「ああウチ? 父親が教師で、母親はMSW」

 石和が会話を振ってくれたので、春樹はほっとして話した。

「えむ……何?」

「病院のスタッフだよ」

「頭良さそうだな」

「そうでもないだろ」

「なんか、いいじゃん」

 石和は、春樹の両親の仕事に興味なんてない。彼は普段、社交辞令なんて言わないから、やたらはっきりとわかってしまった。

 そもそも、石和が自分のことを好きというのだって、勘違いじゃないだろうか。ふっと沸き上がってきたその考えは、とてもしっくり来た。

 初恋も女の子だと言っていた。キスをされてそう思い込んだけど、単に嫌がらせだったんじゃないだろうか。

 会話も途切れてしまい、転ばないように足元だけを見ながら歩いていると、どんどん気分が落ち込んでいった。またおめでたいと言われたらと思うと嫌で、話題を振る気にもなれない。

 急にしらじらとした気分になった。

 だいたい、ほとんど話したこともなかった石和が、自分を好きになんてなるはずがない。目障りだからからかってやろうと思ったくらいなんだろう。そもそも同性の同級生が自分に恋ごころを抱いていると考えるなんて、どうかしていた。

 デートがしたいとまで言った、俺の立場は何だ。

 落ち込んだ後には、だんだん腹が立ってきた。春樹がデートをしたかったわけでは決してない。これならミナと会えばよかったのだ。

「……おい」

 だいたい石和が勘違いさせるようなことをするからいけない。自分は違うからいいけれど、あれがファーストキスだったらどうしてくれるんだ。

 石和が悪い。自分にこんなに考え事をさせる石和が。何かと苛立たせて正気でいられなくする。目が合うだけで動けなくなる。

「おい、東原」

 石和が……悪い。

 考え事にのめり込んでいたせいで、反応が遅れた。気が付くと目の前に石和が立っていて、あやうくぶつかるところだった。

「こっち」

 石和はふた手に別れた道のうち、狭いほうを指さした。道は木々に半ば覆われていて、暗かった。

 

 

「この道ほんとに合ってんの?」

「黙って歩け」

 春樹はむっとして石和の背中を睨みつける。

「お前、ほんと女の子にモテないだろうな」

 狭い道に入ってから、傾斜はますます急になった。踏み慣らして作ったという感じの狭い道だった。明らかに本道から外れてしまったのは確かで、どこに向かっているのか見当もつかない。

「そういう偉そうな態度、女の子に嫌われるぞ」

「うるせぇな」

 石和は振り向かずに歩いて行く。色んな疑問が渦巻いたけれど、まだ少し腹も立っていて、春樹は言葉を飲み込む。

 俺、こんなとこで何してんだろ。

 バカみたいだ。石和が自分を好きだと勝手に勘違いして、つきまとって。

 ……榊原は、まだ野球部をやめていない。

 小さい頃から、あまり悩むということをしてこなかった。勉強もスポーツも、何も考えずに人並み以上にできた。待っているだけで女の子にも告白された。だからといって、別に男の友達がいなかったわけでもない。不自由なんて何も感じなかった。

 日常の中で嫌なことといったら、やっかみを受けることくらい。

 榊原は今日も走っているのだろうか。試合にはもう出れないのに、きつい練習に彼がなぜ参加し続けているのかわからない。

 なんでも持っているはずなのに、どうしてふと虚しくなるんだろう。榊原の無駄な熱心さに苛立つんだろう。

「着いた」

「え?」

 生い茂っていた木々がなくなって、急に視界が開けた。春樹たちが立っていたのは、山の中腹の展望台のような場所だった。

「うわ……」

 視界一面に見えるのは山々だった。どこまでも山が、木々が生い茂っている。夏がほど近い木々は青々としていた。街はまるで見えず、山の稜線がどこまでも続いている。普段暮らしている街の方が、幻なんじゃないかという気にさせられる景色だった。

 すうっと、もやもやしていた気持ちが霧散していくようだった。空気が澄んでいて、呼吸が気持ちいい。

「あ、あれ富士山?」

「ああ、見えるな」

 山々の向こうに、一層大きい山の影が見える。石和が少し身を乗り出すと、距離がぐっと縮まった。

 展望台は狭い。手を伸ばせば触れられる距離から、逃げようがない。わずかに緊張感が強くなる。

「なんで知ってんだよ、こんなとこ」

「前によく来たから」

「誰と?」

「一人に決まってるだろ」

 ちらりと石和の方を見ると、彼は固い表情で山の方を見ていた。だから春樹も、同じ方向に向き直る。雄大な自然の中に自分が溶けていくような気がする。

「……バスケで」

 空は薄い水色をしていて、わずかに雲がたなびいている。空気が澄んで、気持よかった。

「全国に行くのが夢だったんだけど。なんかそれどころじゃなぇな、って感じになって、やめて。その頃ちょうど叔父に連れられて山登って、気持ちが落ち着いたから」

 石和のこうした個人的な思いを聞くのは、たぶん初めてだった。

 部活に打ち込みたくても、かすみの世話やアルバイトがあっては仕方がないだろう。暇を持て余している自分が代わってやりたかった。だけど、それは言ってはいけないような気がした。

 立ち入れない領域というものがある。そう考えると、胸がずきりと痛んだ。

「お前にこの風景、見せたいと思って」

 春樹は思わず石和の横顔をまた盗み見てしまう。石和はやっぱり、山の方を向いたままでいた。その横顔には何も目に見えた変化はない。

 石和が振り向いた、と思う間もなく、肩を掴まれた。その顔が覆いかぶさってくる。

 次の瞬間にはもうキスをされていた。春樹は動けなかった。

「デートだから、サービス」

 石和は笑いもせずに言った。まるで冗談に聞こえない。弱い風に木々がさらさらと鳴った。

「お前が好きだ」

 聞きたかった言葉をついに聞いたはずなのに、まだ胸が痛んだままだった。なぜだかわからなかった。全然勝った、嬉しいという感じがしない。心臓が引き絞られるように痛む。もし石和に代わって自分にできることなら何でもしたいのに。それを言い出せないことが苦しい。

「……ガキなんだよ」

 石和はぽつりと言った。

「何が」

「お前のこと、バカにしたの。……きれいなやつだなって思ってて、でもどうせ俺みたいなのに手に入るわけないから、悪口言ったんだ」

 褒められているはずなのに、全然嬉しくなかった。石和の話し方のせいかもしれない。石和はまるで、照れたりしていなかった。淡々と、言い聞かせるように口にした。

 これで全部終わりだと覚悟しているかのように。

「満足か?」

「え?」

「俺の悪口の理由なんて、そんなもんだ。だから、気にすんな」

「いや、俺別にもうそんな……」

「あの一言、取り消させたかったんだろ?」

 春樹はうまく答えられなかった。確かに石和の言葉に腹が立ったことがきっかけだった。負かしてやりたいと思った。だけどこれが理想の終わりだという気がしない。これっぽっちも。

「俺は……」

 こっぴどく振ってやればこれで終わる。春樹の完全な勝利で。

「別にいい。俺が勝手に言いたくなっただけだから」

 石和はそれだけ言うと、あっけなく展望台に背を向けて歩き出した。まるで逃げるかのような態度だった。

「石和!」

「日が暮れる前に行くぞ」

 石和はもう振り向かなかった。展望台にひとり取り残されると、さっきまで雄大できれいだと思えていた景色が、いやに恐ろしく迫ってくるように感じられた。

 

 

 

3.

 

 目的は達成した。

 石和は返事さえ聞かなかったから、ちゃんと振ることもできなかったけれど、石和は春樹を好きだと告白した。

 春樹の全面的な勝ちだ。……なのに、気分は晴れなかった。

 翌日から、石和には露骨に避けられた。教室で話しかけても、心ない返事をされてどこかへ行ってしまう。家に行ってみても、鍵がかかっていて誰もいないみたいだった。メールをしても返信は返ってこないし、電話は無視された。

 おかしい。

 これじゃまるで、自分がフラれたみたいだ。胸が空っぽになった感じがする。春樹は石和と話したいのに、石和の方にはもう春樹と話したいという気持ちがないのだ。

 仕方がないのでその日の放課後は、ミナと久しぶりに帰った。カフェに寄っていこうと言われ、心ここにあらずのまま了承した。

 ミナは甘いモノが好きなのに、その日はコーヒーしか頼まなかった。

「あのね……別れて欲しいの」

「え?」

 ミナはコーヒーカップを両手で持ちながら、静かに言った。

「なんだよ、急に」

「急にじゃないよ。この間、会いたいって言ったのに、来てくれなかったじゃん」

「それは先約があって……。何だよ、そんなに怒ってんのか?」

「それだけじゃないよ」

 ミナはコーヒーを一口飲んで、気持ちを落ち着かせるみたいにしてから言った。

「春樹って私のこと好きなの?」

「好きだよ」

「嘘」

 断罪するようにいやにきっぱりとミナは言った。

「どうしてミナが決めるんだよ」

 一方的な物言いにさすがに苛立って、春樹は語調を荒らげる。

「あたしに伝わってないなら意味ないじゃん」

 それでも好きなんだ、と言おうと思えば言えた。だけど、本当はそれほどの情熱が自分の中にあるわけじゃないことも、知っていた。ミナだってそれでいいのだと思っていた。

 惚れ込まれて付き合いたいなら別の男と付き合えばいい……そう思いかけて、ああ彼女はそれを選ぼうとしているのか、と腑に落ちた。

 それはまったく正しい行動のようにも思えた。だから春樹はもう何も言えなかった。

「……わかったよ」

 ミナが諦めるようにため息をつく。

「別に揉めたいってわけじゃないんだけど……半年付き合って、別れ話、これだけかぁ」

 ミナは自嘲するように笑った。

 

 石和に会おうと思った。何もかもとにかくあいつのせいだ。頭が混乱して、何もまともに考えられなかった。

 今まで女の子とどんな風に別れてきたのか思い出せない。ミナに執着なんてしてなかった。なのにどうしてこんなに堪えるのだろう。

 石和に最初に暴言を投げかけられたときもそうだ。気にしないつもりでいたのに、単純な言葉がまだ胸に刺さっている。思いやりがない。ありふれた言葉だ。誰にもで言える。

 俺は何でも持ってる。間違ってない。そのはずだ。

 何でも人並み以上にできた。だけどそれは仕方ないことだ。最初からそうだった。恨むなら神様を恨んで欲しい。

 春樹は駅から、もう慣れた道をたどる。とにかく石和を怒鳴りつけてやりたい。殴ってやりたい。それから……それから。

 俺はどうしたいんだろう。頭の中がめちゃくちゃだ。石和は自分に告白した人間だ。好きだと言ってキスをしたということは、当然下心だってあるのだろう。なら、そんな男の家に言って俺はどうしたいんだろう。

 違う、今度こそ石和をこっぴどく振ってやるのだ。もう二度と立ち直れないくらい、ひどい振り方をしてやる。あいつにはそれが似合いだ。俺は誰にも負けたくなんてないのに、あいつは俺をみじめにする。

 ミナだってそうだ。告白してきたのも彼女からだった。彼女が一方的に付き合って欲しいと言い、別れて欲しいと言っただけ。春樹自身は何も失っていない。なのに、どうしようもない虚しさが全身を覆って、叫びだしたくなる。

 いやに街が騒がしい感じがした。どこかで火事でもあったのかと思うが、煙は見えない。普段は人影のほとんどない住宅街なのに、いやに人が多い。

 石和の家に近くなると、人はますます増えていった。石和のアパートの前には人だかりができていて、救急車とパトカーがとまっていた。

 春樹は息を呑んだ。

「……石和?」

 春樹は駆け寄ろうとしたが、野次馬が多く、なかなか前に出れない。 

 警察官がどいてください、と言っている。救急車が出発する。その中は外からでは伺いようもない。別の警官が石和の家の中から出てくる。春樹はそれ以上駆け寄ることもできなかった。

 石和の姿も、かすみの姿も、春樹は目にすることができなかった。

 

 ・

 

 石和は学校を長く休むことになった。

 地方新聞の記事にもなった。どうせ、翌日にはもう学校の誰もが知っていた。石和は父親と言い争いになり、彼にかなりひどい怪我を負わせ、石和自身も怪我を負って入院しているとのことだった。

 ニュースだけを聞くと、まるで石和がひどい暴力的な息子みたいに聞こえた。いや、そうだったのだろうか。春樹にはよくわからなかった。

 春樹が翌々日にアパートの前に行くと、もうそこは前と同じように沈黙していた。何事もなかったかのようだった。玄関前に立つと、床が少し汚れていた。

「ひ……」

 血の跡だった。

 担任の教師に見舞いに行きたいと訴えたが、遠慮してもらっているの一点張りだった。メールを送っても電話をしても通じなかった。

 石和の家庭状況についての噂が少しずつ漏れ伝え聞こえてきた。

 父親がひどいアルコール中毒で、家をしょっちゅう留守にしていたこと。母親が子どもを置いて出て行ったこと。働いていない父親に、石和がバイト代を彼に渡していたこと。昔はその父親も、全国を飛び回る商社のエリートだったということ。

 まるで新聞の三面記事か、昼のドラマみたいだった。現実とは思えなかった。

 何度行っても、アパートには誰もいなかった。石和は入院中だし、かすみは親戚の家か施設かどこかに行かされたのだろう。

 心にぽっかりと穴が開いたみたいだった。

 自分に何かできることはなかったのか、何度も考えた。だけど何一つ思い浮かばなかった。石和とかすみをどうやったら助けられたのか、まるでわからない。

 世界中で自分だけがどうしようもない愚か者で、誰も彼もから見放されてしまったかのように感じられた。

 

 

 春樹はそれから何度も、石和のアパートの前に通った。何度行っても部屋には誰もいないから、無駄なことだとはわかっていた。だけどそんなことでもしていないと、気が狂いそうだった。

 もう彼女も居ないし、石和もいない。榊原はいまだに野球部に入ったままだし、斉藤には新しい彼女ができた。そうでなくても、高校三年生だからみんな受験勉強に忙しい。推薦で決めるつもりで春樹のようにのんびりしている人間なんてほとんどいない。

 アパートの斜め前には、ごく小さい公園のようなものがある。巨大なアヒルとイルカのような乗り物とベンチが置かれているだけの申し訳程度の空き地だ。春樹はぼんやりと、イルカの乗り物にすわって携帯をいじっていた。

 やり慣れたゲームはもう新鮮味がなく面白くもない。

 どうして自分はこんなところにいるんだろう。

 することがないからだ。最初から何もなかった。何だって人並み以上にはできたから、時間をかけて上達するなんて経験がない。せいぜい単純なゲームぐらいで。

「あ、レア来た」

 春樹は忙しく指を動かし続ける。中学生くらいの女の子が二人、けげんそうにこっちを伺いながら通り過ぎて行く。

 石和はどうしているだろう。全治半年などと記事には書いてあったが、ひどいのだろうか。痛いのだろうか。春樹は骨折すらしたことがないからよくわからない。

「あの」

 女の子の声が聞こえたとき、さっきの二人組だろうととっさに判断していた。だから春樹は顔も上げなかった。

「お兄ちゃん?」

 春樹ははっとして顔をあげる。そこに立っていたのは、かすみだった。

「かすみ? 何してんだ、ここで」

 かすみがもうこのアパートで暮らしていないことくらいは想像がつく。かすみはみたことのない、無地の地味なトレーナーを着ていた。顔も服も汚れてはいないが、手ぶらだった。目が泳いでいて、なんとなく異様な印象を受けた。

「どっから来た」

「お兄ちゃん、どこ?」

 今度のお兄ちゃんというのが、春樹のことでないのははきりわかった。

「……会ってないのか」

 春樹とは違って、かすみは妹なのだから面会くらいできるんじゃないかと思った。かすみは見た目こそ小奇麗ではあった。だけど家の中にいたときより、おどおどしていた。何かに怯えてでもいるかのように。口元に何度も手を持っていくので、ひどく幼く見えた。

「お兄ちゃん、どこ……?」

 かすみの目はうるんで、春樹を見据えていた。春樹は何と言っていいかわからなかった。ずきりと何かが胸に響く。

「会いたい?」

 春樹だって会いたかった。アパートの前で時間を潰しながら、ずっと石和のことばかり考えていた。

「あいたい」

 泣きそうな声でかすみは言った。

 

 病院さえわかったら、タクシーにでも何でも乗ってやろうと思っていた。だが、何度かすみを問いただしても、病院名を聞き出すことはできなかった。

「名前だよ、病院の、名前」

「お兄ちゃん……」

 かすみはかつての快活な様子が嘘みたいに、泣きじゃくり、まともな答えを返さなかった。

 今はどこで暮らしているのかと聞いても、かすみは答えない。こんなところに一人で歩いているのは、どう考えてもおかしい。

「かすみ、今お母さんと暮らしてるのか?」

 かすみは無言で首を振る。

「おばさんの家? おじさんの家?」

 かすみはふるふると首を振り続けた。だんだん単に振っているだけじゃないかという疑問が湧いてくる。

 落ち着け、と春樹は自分自身に言い聞かせる。

 たぶん彼女は、施設か親戚のところにいて、一人で出てきてしまったのだろう。きっと近いうちに、誰かが探しに来る。いなくなったかすみが、この家に来るなんてだれでも想像がつく。

「行こう、かすみ」

 春樹はかすみの手を取った。思った以上に彼女の手は小さくて、柔らかかった。ふと涙が滲んできそうになった。

 春樹は大通りを避けて、とりあえず駅の方に進んだ。駅前にひとつ、そこそこ大きな病院があったはずだ。

 病院に入ると、独特の匂いが鼻をついた。そういえば病院に来るのなんて何年ぶりだろう。受付の呼び出し音が鳴っている。椅子に腰掛けているのは老人ばかりだった。かすみの動きが鈍くなるのが、繋いだ手の重さでわかる。

「待ってろ」

 かすみをその場に置いて、春樹は受付に近づいていく。座っていたのは中年女性だった。

「すみません、友達の見舞いに来たんですけど、部屋がわからなくて……」

 愛想よくするのは得意だ。できるだけ困っている、もののよくわかっていない子供に見えるよう春樹は振る舞う。

「お名前は?」

「石和……石和昌平です」

 受付の女性はパソコンで調べ始める。個人情報が、とか言われるかもしれないと思ったが、ほっとした。

「いつ頃入院されたかはわかりますか?」

「ええと……一週間前くらい」

「そういう方は入院患者にはいらっしゃらないみたいですね」

「そうですか」

 いきなり最初の病院で見つかるわけがない。落ち込みそうな自分を奮い立たせ、春樹は笑顔を作る。

「違ったかな……どこの病院にいるかとかって、調べらんないですか?」

「そういうことは、わかりかねます」

 女性の対応は柔らかかったけれど、これ以上春樹のために何かしてくれたりすることはなさそうなのがはっきりとわかった。春樹は軽く頭を下げて振り返る。

 かすみが所在なさそうに、泣き出しそうな顔で春樹を見ていた。

「ここにはいないって。でも、大丈夫。すぐ見つかる」

 あてなんてなかったけれど、春樹はそう言ってかすみに笑いかけた。彼女の手を取って病院から出る。

 かすみの気分はさっきよりも落ち込んでいるように見えた。急に大きな病院に来て緊張したのかもしれない。病院を出た植え込みのあたりにとりあえず春樹は立ち止まる。

「大丈夫、お兄ちゃんすぐ見つかるって」

「……う」

 かすみは今にも泣き出しそうだった。春樹はしゃがみこんで彼女と目線を合わせる。

「大丈夫、大丈夫だよ」

 にっこりと微笑みかける。だけどかすみは泣きそうな顔のまま、春樹の手をぎゅっと握りしめるばかりだった。

 内心では焦っていた。

 かすみを連れて歩くのは目立つ。このまま虱潰しに病院をあたっても、どこかで捕まってしまうのが関の山じゃないだろうか。だけどどうやって病院を調べたらいいのかがわからない。

 ダメ元で石和の携帯にもかけてみたが、やはり繋がらなかった。春樹はそのまま、名前を知っている、二つ隣の駅の病院に電話をかけた。だが、入院患者の情報は教えられないの一点張りだった。

 部屋を忘れたという体で受付に行けば教えてくれる可能性はあるが、電話だとたぶん聞き出すのは難しいのだろう。

「お兄ちゃんどこに行ったかとか、かすみちゃん何か聞いてない?」

 春樹は再びかすみと目線を合わせて尋ねたが、かすみは不安げな顔のまま何も言わなかった。かすみはしっかりした少女だった。この前会ったときと比べて、急に精神年齢が後退したみたいだった。

 何があったのだろう。

 漠然とした情報は伝わってくる。だけど石和とかすみがどういう世界で生きていて、どんなことを考えていたのかはわからない。

 もっと知りたかった。近づきたかった。……でも教えてもらえなかったのも当然かもしれない。春樹が石和に近づいたのは、石和に腹が立ったからだ。石和もそれをわかっていた。見下したいだけなんだろう、とはっきり言っていた。

 その通りだった。何一つ不自由のない生活をしてきて、誰にでも負けていないなんて思っていた。だから石和の一言にひどく苛ついた。彼の余裕ある態度が嫌いで、自分を好きだと言わせたら勝てると思っていた。

「……おにいちゃん?」

 携帯電話を握ったまま、春樹は泣き出したい思いをこらえる。

 たぶん最初から自分はわかっていたのだ。

 何でも持っている?

 違う。自分には何もない。外見も運動や勉強の能力も、すべて親から与えてもらったものだ。何一つ自分で獲得したことがない。何を強くほしいと思って努力してきたこともなかった。

 何もない。

 石和が自分に何も話さなかったのも当然だ。話してもらったとしても、何もできなかったろうから。

「おにいちゃん」

 かすみに肩を揺さぶられて、春樹ははっとして顔を上げた。

「だいじょうぶ?」

 春樹は反射的に笑おうとした。だけどうまくできなかった。泣きそうになるのだけを何とか堪える。

 どうしたらいい。……どうしたら。いっそかすみを連れてどこかへ逃げようか。いや、そんなことして何になる。かすみが不安定なのは、石和がいないからだ。かすみは石和に会いたいのだ。……そして自分も。

 小さく携帯電話が震えた。

 “今日少し遅くなるから、夕飯作れなさそう、ごめんね。お金は後で渡すから”

 母からのメールだった。

 春樹はすぐに履歴から母の名前を呼び出した。勤務中だといつも出ないが、メールした直後だったら、携帯を見ているはずだ。まだ仕事に戻っていないといいと願うような気持ちで呼び出し音を聞いた。

「もしもし? 母さん?」

「何、どうしたの」

 母の声が聞こえてきて、ほっとして携帯を握り直す。

「お願い、一生のお願いがあるんだ」

「何、大げさな……」

 これまで母に何か頼むなんてことを春樹はしたことがない。ほしがった玩具はだいたい買ってもらえたし、それほど物欲もない方だった。ペットを飼いたいとか思ったこともない。兄弟もいなくて、家の中で争いなんてなかった。

「友達の入院先をどうしても知りたい」

「友達に聞けばいいじゃない」

「携帯使えないみたいなんだ」

「お友達のご両親は」

「とにかくそっちからは聞けなくて、どうしていいかわからないんだけど、とにかく今すぐ知りたいんだよ」

 母は病院で働いている。主に入院患者の退院支援だとか、色々な病院と調整をする仕事だと聞いたことがある。

「なんでそんなに焦ってるの? また携帯が通じたら聞けばいいじゃない」

 春樹は一瞬口ごもる。その妹を会わせてやりたいのだと素直に伝えるべきかどうか迷った。いや、だとしても今すぐでなければならない理由にはならない。

「お願い、今すぐそいつんとこ行かなきゃならないんだ」

「だから、なんでなの」

「話せない、でも、良くないこととかするわけじゃなくて……そいつに会わせたい相手がいて、俺もそいつに会いたいから」

 言葉は自然と口からこぼれ出た。母が明らかに怪訝に思っているのが伝わってくる。

「面会謝絶だったらどっちにしろ会えないけど?」

「……え、それってほんのちょっとも会えない? 家族でも?」

「家族なら普通は別だけど……」

「なら大丈夫」

 病院で働いている人は、仕事の内容を簡単に外に漏らしたりはできないはずだ。もし母が罪に問われるようなことがあったらどうしようと思う。母さんから聞いたということは言わないから、と付け加えようかと思いついたけれど、春樹は飲み込んだ。そんなことを言うのは、母をバカにしているような気がした。

 信じて、なんて自分で言っていて白々しくも聞こえた。

 母に何を頼んだこともない。普段、それほど仲良く長時間会話したりするわけでもない。今日何があった?とかテストはどう?とかそういう当たり障りのないことだけだ。母が普段どういう仕事をしているのかも本当はよく知らない。

 もっと色々問い返されたりするのだと思っていた。母はしばらく沈黙していた。誰かの話し声みたいな音がかすかに聞こえる。

 結局自分には、親に頼るようなことしかできない。だけど、使えるものなら何だって、自分の意志で使ってやろうじゃないかと思った。これで断られたら、近場の病院に片端から当たろう。やれることは何でもやりたかった。

 かすみを石和に会わせたい。

 ……石和に会いたい。

「会わせたいのは家族なのね? それで、その人はあんたの友達なの?」

「大事な、友だちだ」

「名前は」

 石和昌平、とさっきの受付でと同じように告げる。おおむねの入院した日付と、父親に暴行を受けての入院であることを。

「待ってて」

「……あ、ありがとう」

 母はそう言って電話を切った。春樹は祈るような気持ちで携帯電話を握りしめた。

 うまくいくかどうかははわからない。いてもたってもいられなくなった。

「かすみ、行こう」

 せめて一番近くの病院に行こうと思い立ち、マップを表示させて病院と入れる。スマートフォンのマップアプリに何十本もピンが立つ。それを見た途端、パニックに陥った。こんなにこの近くに病院があるなんて知らなかった。

 いや、これは小さな個人経営の診療所なども含まれているだろう。皮膚科とかもあるだろうし……でも石和は何科に入院しているんだろう? 考えれば考える程わからなくなる。

「お兄ちゃん……?」

 不安げな目でかすみが見上げてくる。

「大丈夫だよ」

 自分がしっかりしないといけない。なのに、冷や汗が浮かんできた。何をやっているんだろう。もっと何でもできるつもりでいた。石和は日本にいて、都内にいて、きっとそう遠くない場所にいるはずなのに、会いに行くことひとつできない。涙がにじんできそうになったけれど、かすみの手前、必死にこらえた。

「行こう」

 歩き出して数分後、携帯電話が震えた。母からのメールだった。

 

 ・

 

 病棟に入った時から、極度の緊張に襲われていた。春樹は自分を勇気づけるように、かすみの腕を強く握る。今にも誰かに見咎められて捕まって終わるんじゃないかという恐怖で心臓がばくばくいっていた。ちゃんと受付で見舞い用のネームタグも借りているのだから大丈夫だと思うのだが、落ち着かない。

 入院フロアは外来とは雰囲気が少し違う。どことなく静かで、あまり明るくはなかった。

 かすみはずっと黙ったままでいた。もう少しだから、と言い聞かせながら春樹は進む。

 病室に入った途端、誰かが待っていたらどうしようかと思う。

 石和が入院していると聞かされたその部屋は、四人部屋だった。だが、そのうちの二つは空だった。窓際のベッドはカーテンが閉まっていた。廊下側の、カーテンが開きっぱなしのベッドに石和がいた。

 あまりにもあっけなくて、罠かと疑うほどだった。

 春樹が口を開く前に、かすみが駆け寄る。

「お兄ちゃん」

「……かすみ?」

 石和はなにか本を読んでいた。頭には包帯が巻かれている。現実感がなかった。かすみが石和の腹のあたりにダイブするようにして抱きつく。

「かすみ、なんで」

 石和の髪は少しぼさぼさしているように見えた。だが顔色は悪くない。

 石和はかすみを抱きしめて、その髪を撫でた。その光景を見ているだけで、じんと胸の奥が熱くなった。こんなに自分を褒めたいと思ったのは初めてだった。

 そのときになって初めて春樹の存在に気づいたみたいに、石和が「え」と言った。

 

 石和に言われて、春樹たちは屋上に出た。

 かすみは今施設に入っているのだと石和は話した。自由に外出したりできるところじゃないから、きっと抜け出してきたのだろうと。病院に連絡が来るのもきっと時間の問題だった。

「まさかお前が連れてくるなんて思わなかった」

 屋上のベンチに座る石和に、かすみはべったりと張り付いて離れなかった。兄と引き離されて、よほどショックだったのだろう。

「お前こそ元気そうじゃん」

 春樹はわざと軽口を叩く。包帯こそ痛々しかったものの、石和はいつも通りにも見えた。

「悪いな。早くかすみにも会いに行けるようにしないとな」

 石和はあまり春樹の方を見なかった。

 屋上は風が少し強かった。小さな菜園のようなものがあって、野菜が植えられている。

 何と言っていいのかわからなかった。石和に会ったら言ってやりたい言葉がたくさんあったはずなのに、何も声にならない。

「かすみ。大丈夫か? いじめられたりしてないか?」

 石和はかすみの肩に手を置いて、顔を覗き込むようにして言った。かすみはふるふると首を振る。

「……いじめられてる奴が『いじめられてる』なんて言うかよ」

 なぜだか苛立ってつい口にしていた。少し驚いたように石和が春樹の顔を見る。

「いや、悪い……」

「いじめられてない」

 かすみが顔を上げて言った。石和と会ってから、少し前の彼女に戻ったように見える。

「何かあったらすぐ助けを呼んで、逃げるんだぞ」

「うん」

 兄と妹の感動的な再会だった。なのに、どうしてこんなに苛立つのだろう。

「石和」

 春樹は思わず口にしていた。風が髪を撫でていく。少し肌寒かった。

「何があったんだよ」

「……知ってるんだろ」

「俺には言いたくないのか」

 石和の顔を見たら、ほっとしたはずなのにやたらとイライラした。家に何度か行ったと言っても、言葉を交わすようになってから数日の人間に何も話さなくたって石和は悪くない。わかっているのに苛立った。

「……つまんない話だよ。きっとお前が知ってるのと同じ」

「お前の口から俺に言えって言ってんだよ」

 春樹の険しい声に、かすみがびくりと身体をすくませる。けが人にこんな風に詰め寄るなんて最低だ。だけど止められなかった。本当なら石和を殴りつけてやりたいくらいだった。

 石和は一瞬じっと春樹を見て、それから静かな声で話し始めた。

「親父さ、外面を取り繕うのはうまくて、目立つとこに跡つけないんだよ。児相の人とか来るとにこにこして、そんなこと考えられないみたいな感じで」

「……そんなことって何だよ」

「まぁ、殴ったりつねったり。今んとこかすみに直接手上げたりってのはなかったから、大丈夫かもって思ってたんだけど」

 石和はひどく落ち着いて見えた。もともと大人びたやつだったが、穏やかな目には諦観さえ見えた。

「あいつ、この間かすみに手ぇ出そうとしたんだ。意味わかるか? 親父だぞ!? 殺してやると思った」

 石和の顔に穏やかな日が差している。穏やかで平和そのものの屋上で、石和が語る言葉だけが浮いていた。

「……でも、殺さないにしてもなんかあるだろ、先生に言うとか、警察とか」

「そういうとこだって暇じゃないし、証拠とか、ちゃんとした理由がないと助けてくれない」

「何だよ、それ……もうちょっとやりようがあっただろ」

 自分で口にしていても、説得力のない言葉だった。

 石和は何でもないことのように言う。だけど頭の包帯は見ているのが辛かった。石和は右手にも包帯をしていた。入院するほどの怪我だとしたら、やはり縫ったりしたんだろう。玄関先にあった血の跡が目の裏に浮かぶ。

「まぁ、これであいつも終わりだ。俺がやられてかすみがあいつと暮らし続けるってのが最悪の事態だったからな。上出来だろ」

 石和は得意げに言って笑った。前に春樹がデートをしたいと言って笑った時とはまるで違う、暗い感じの笑いだった。

「できることなら刺し違えてでも殺してやりたかったけどな」

「……お前、何言ってんだよ」

 腹が立って仕方がなかった。怪我をして学校にも来れなくなって、それでこんな風に誇らしげに語るなんてバカにも程がある。刺し違えるって何だ?

「最悪の事態はお前が死ぬことだろ……!」

 春樹は押し殺すようにして言った。どう抑えようとしてもだめだった。

「……東原?」

「俺の努力を無駄にすんな! 俺はお前のみっともないとこがみてぇんだよ!!」

「何言ってんだよお前」

 石和は誤魔化すみたいに笑った。

 春樹だってこんなことを言うつもりではなかった。だけど感情が溢れてきてどうしようもない。

 かすみが顔を覗きこんできて、痛いの?と尋ねたので、自分が泣いていることを知った。

「なんでお前泣いてんだよ……」

「うるせぇ! お前なんて死ねばよかったんだよ!!」

 もうめちゃくちゃだった。石和が死ななくてよかったと思うのに、こんな言葉しか出てこない。会えて嬉しいのにそんなことはとても言えない。春樹は涙を強くぬぐったけれど、あとからあとからこぼれてくる。

 石和が困ったような顔で自分を見ているのがいたたまれない。

「東原」

 石和の手が伸びてきて、春樹の目尻を拭った。見舞客が入院患者に慰められてどうすると思う。

 石和の目がじっと春樹を見ていた。胸の奥がじんと熱くなる。何か取り返しのつかないことが、もうとっくに起きてしまっていたことを、春樹は初めて悟った。

 石和がむかつく。石和に勝ちたい。石和をこっぴどく振ってやりたい。……石和の特別でありたい。石和ともっと話していたい。

「泣くな」

 石和が好きだった。いつからかなんてわからなかった。これまで付き合ったどんな女の子にもこんな思いは抱いたことがない。

 石和はそっと春樹の頭を抱き寄せた。石和の匂いだ、と思うと混乱した頭がふっと静かになった。いつまでもずっとこうしていたかった。春樹はそっと石和の肩に手を伸ばす。出てこない言葉のかわりに、涙ばかりがぼろぼろこぼれ落ち続けた。

 

 ・

 

 貯金を下ろして本屋に行った。参考書選びで大事なのは、冊数じゃない。よほど独特の問題を出す学校でない限り、難解な問題はそう出ない。基本を覚えていけば八割方は解ける。

 両親は突然受験勉強を始めた春樹に驚愕していた。もう高校三年生の夏になろうとしている。学校の勉強はまじめにやってきているとはいえ、対策を始めるには遅いことはわかっていた。

 本音を言えば、最初は医学部にしようかとさえ思った。だけどかえって、医師は自分の目指すものとは少し違うと気づいた。

 春樹が今選びたいのは、できるだけ選択肢の多い道だった。

 これといったクリエイティブな仕事につけるとは思えない。だけど、できるだけ金が稼げて、自分の意志で時間も使える人間になりたい。

 それがどういう職業なのかなんてぴんと来ていなかった。勉強に逃げているだけかもしれなかった。

 わからない、わからないけどでも、今よりも少しでも前に進みたかった。何かしていないと気が狂いそうだった。

 力が欲しい。

 いざとなったときに、誰かを助けられる力がほしい。もっとまともで賢くて強い人間になりたかった。

 考えろ、と自分に何度も言い聞かせた。がむしゃらにやればいいというわけじゃない。目的のために最善の道を選ばないと、出足の遅い自分は追いつけない。

「りんご食べる?」

「ノックしろよ」

「したってば。あんた集中してると聞こえないじゃない」

 夜、部屋で勉強をしていると母が小皿に乗ったりんごを持って入ってきた。

「はい」

 春樹は本当かよと呟きながら、りんごを受け取る。

 母は結局、石和の病院を聞いたことについて何も尋ねてこなかった。根掘り葉掘り事情を言わないといけないと思っていたのに、何も。

 あのあと、かすみの入所している施設から連絡を受けたスタッフが来て、かすみを連れて行った。春樹もかすみを勝手に連れてきたことで叱られたけれど、病院の人は同情的だった。

 石和の右手の傷は、父の振りかざすフライパンを避けようとしてできたものだという。

「……あのさ、病院の仕事って楽しい?」

 父や母が日中何をしているかなんて、それまでちゃんと気にしたこともなかった。家にいない、働いている、そういう風に思っているだけだった。

「楽しくはないよ。わりと辞めようかなって毎日思ってる」

 母はあっさりと言い、春樹のためのはずのりんごをひとつ摘んだ。

「え、そんなに嫌な仕事?」

「っていうのはまぁ冗談にしてもさ。でも、やりがいはあるかな」

「何、やりがいって」

「人のために役に立ってるって実感」

 偽善だ、と思った。だけど口には出さなかった。そういう道徳の授業みたいな言葉が、春樹は本当に嫌いだった。

 だけど母の言いたいこともなんとなくわかった。もし、石和やかすみのためになることだったら、自分は何だってできるだろう。彼らの役に立てたらきっと、生きていてよかったと思える。

「まぁ、がんばれば?」

 母はごく軽い口調で言って部屋を出て行った。

「あんたの人生なんだから好きにしなよ」

 

 

「お前名前載ってんじゃん」

 斉藤が模試の成績表を見ながら言う。

「マジで?」

 最初に受けた模試は、C判定やD判定ばかりだった。何だかんだ言って、それなりにがんばればどうにかなるだろうと思っていた春樹にとって、その結果はショックだった。

 自分だけではどうにもできないかもしれないと初めて思った。だから両親に頼み、予備校の短期講習に通った。講師を捕まえて自分のプランを話して、一緒に戦略を練り直した。一年浪人するだけの時間は費やせないと思った。

「すげーな」

 斉藤は投げやりに言う。そこにほんの少しの嫉妬があることには気づいていたけれど、春樹は気付かなかったふりをした。それは斉藤自身の問題だ。こんなんに載っても意味ない、と春樹は言おうとしてやめた。

「どうだった?」

 代わりに榊原に話を振る。彼は最近、野球部を引退した。退部ではなく、他の同学年の生徒と同じ時期での引退だった。

「まぁまぁかな」

 具体的に言わないあたり、もしかしたら芳しくはないのかもしれなかった。野球部にずるずるいつづけたことは、たぶん受験の面でも不利になる。

「ずりぃよな、急に受験するとか言い出して、そんでマジでできちまうんだから」

 斉藤がなおも言う。春樹は曖昧に笑った。確かにもしかしたら、そこには生まれながらの違いというのもあるのかもしれない。

 だけど、毎日十分でもムダにしないように春樹は必死だった。その結果がこれだ。その気持を斉藤にはわかってもらえないだろうと思う。だから何も言わなかった。

「やめろよ」

 ごく軽い口調ながら、そう言ったのは榊原だった。

「別に春樹は生まれながらの超天才でもねーんだし」

 冗談みたいな口調だった。なんだそれ、と春樹は軽い口調で答える。

「なんだよそれ、超天才って」

 だけど眼の奥が一瞬つんとした。

 時間はあっという間に過ぎていく。スマートフォンのゲームくらいしかすることがないときは、ゆっくりだったのに。高校の授業にも、欠席がちの生徒が多くなった。彼らが休んで遊んでいるわけでもないことをわかっているからか、教師もあまり厳しくは言わない。

 冬はもうすぐそこだった。

 

 

 石和の病院に見舞いに行けたのは、最初の時を除けば一回だけだった。三度目に訪れたとき、石和はもう退院してしまっていた。行き先はわからなかった。

 叔父さんが来ていた、と看護師が教えてくれた。そういえば、山に連れて行ってくれたのも叔父だという話をしていたような気がする。かすみは施設に入ったと言っていた。石和だけでも帰れる場所はあるんだろうか。

 お前、退院したならなんで学校来ねぇの

 エラーで返ってくることはなかったから、メールは届いていたのだと思う。だけど返信はなかった。たぶんそれが答えなのだろう。

「あーあ」

 失恋したのは生まれて初めてだった。

 

 計画したことをこなしていくだけの日々は、退屈だけど充実感があった。点数は努力した分だけしっかりと伸びた。失敗することもあったけれど、プライドなんて守っている余裕はないから、すぐに対策を考えて予備校の講師に相談しに行った。

 たまに自分は何をしているんだろうと思う。

 自分がどんな人間になったとしても、初めて成し遂げようと思った受験で成功したとしても、石和には関係がない。

 他人というのはそういうことだ。自分がひどく滑稽にも感じられた。でも少なくとも、今の自分は前よりもずっと好きだった。

 あっという間に年を越して、そうするとすぐに受験が始まった。石和からのメールの返信はないままだったけれど、春樹はもう一通送った。

 “春になったら会いたい。伝えたいことがある。”

 

 

 合格発表はインターネットだった。だから別に掲示板を見に行ったり、そういう必要はなかった。

 春樹は第一希望だった国立大に落ちた。受かったのは滑り止めの私立だけだった。それは、春樹がもともと推薦を狙っていた学校と、それほどレベルの変わらないところだった。

 自分は本当に、自分で思っているよりもバカだと思った。だけど教師は、よくやったと言った。

 過程が大事なんて嘘だと思う。そういう綺麗事は大嫌いだ。

「はは……」

 いっそ死にたいとさえ思った。もし希望するならば浪人してもいいと両親は言った。だけど、自分が今年のようにがんばれるかわからなかった。

 頑張っている間は楽しかったけれど、結局は何もかも虚しかった。石和にちゃんと、自分の力で結果を出せたと伝えたかったのに。格好が悪いにもほどがある。

 こんなもんなのかな、と思う。

 結局人生、こんなもんか。

 

 

 卒業式の前日だった。やたらとセンチメンタルなクラスメイトたちの言葉が心を上滑りしていく。春樹は教室から窓の外ばかり見ていた。

 石和は結局、あれ以来登校して来なかった。今では教室の中でもほとんどいないものとして扱われている。

 もともとクラスの中で、存在感は大きくなかった。

 石和がいなくても、クラスの日常は続いていく。誰も春樹の失恋のことを知らない。

 春樹は合格した私立大学への進学を決めた。家から通える距離なので、新生活という気概もあまりない。

 何だったんだろう、と思う。結局のところ、石和がいたことで何かが変わったわけでもない気がする。大学は予定していたところとそう変わらないし、寂しさに負けてきっとまたそのうち彼女を作るんだろう。

 二月の終わり、校庭の桜はまだ咲いていなかった。

 春になったら会いたいと伝えた男からの返信はない。たぶんもう、今後もないのだろう。

 じっと窓の外を見ていたら、門のあたりに、見覚えがある男の姿が見えたような気がした。ごく小さな人影だからわからない。見間違いだろうと思った。

 そのとき携帯電話が震えた。

“手続きでガッコ来たけどいる?”

 それは来てみたらあっけない、石和からのメールだった。ホームルームの最中だったけれど、春樹はその場で席を立った。

「東原? どうかしたか?」

「トイレです!」

 誰かが下品な冗談を飛ばして笑い声が響く。だけどもう春樹の耳には殆ど入っていなかった。

 上履きのまま玄関を出た。石和をここで待ち伏せたことがはるか昔のように感じられた。

 男は校門のあたりに立っていた。私服だったから、見知らぬ男のようにも見えた。相変わらず背が高い。

 空気はもうだいぶ暖かい。それもそうだろう。明日はもう卒業式だ。

 春樹は必死で走った。心臓が破れそうなほどだった。だけど、強引に走った。

 そして近づいた男の腕を掴んだ。

「何すんだよ」

 石和はまるで教室にいたときと変わらない顔で、無愛想に言った。

「お、前が……逃げると、困る……」

 春樹は息を整えながら言う。こんなに全力で走ったのはいつぶりだろう。荒い息を吐いて上半身を折り曲げる。

「逃げねぇって」

「じゃあメール返せ死ね!!」

 顔を上げて石和を睨む。石和は少し困ったように笑った。もう包帯はしていない。

「卒業おめでとう」

「バカ野郎……っ」

 春樹は力の入らない手で、石和の胸を叩いた。

「お前も卒業しろ……っ」

 春樹は掴んだ石和の腕にすがりつくように、泣き崩れた。

「なぁ」

 困ったように石和が言った。

「教室から見られてるけど、大丈夫か?」

 

 ・

 

「だっさ」

 アパートの入口に、もう血の跡は見えなかった。

「高校中退とか、ださすぎ」

「しょうがねぇだろ」

 一歩中に入って春樹は驚愕する。あれほど散らかっていたキッチンがすっかり綺麗になっている。

「おばさんとかが来て、片付けてった」

 石和は言い訳するように言った。どうやら片付けが本当に苦手らしい。

「お前も浪人しろ」

「俺は春から花の大学生だから」

「うぜぇ」

 校門の前では春樹が石和の腕を掴んでいたのに、いつのまにか春樹は石和に腕を掴まれていた。

「お前、危なっかしいんだよ。新歓コンパとかで女に丸め込まれかねない」

「テニサーとか入ろうかな」

「やめろ」

 心の底から嫌そうに石和は言った。春樹だってもっと違うことが話したい気持ちはあった。だけど、石和とアパートの部屋にふたりきりでいると思うと、緊張感のせいで変にテンションが高くなってしまう。

 何をしていたかとか、何を考えていたのかとか、これからどうするのかとか。たくさん聞きたかった。だけどまずは会えたことが嬉しくて、それだけで胸がいっぱいになってしまう。

 石和の部屋にはやっぱり布団が敷きっぱなしだった。本や服が前よりも散らばっている。

「なぁ、嫌かもしれないけれど、学校に戻れないのが金の問題なんだったら……」

「ちゃんと働いて安定してきたら、かすみと暮らせるようになるから」

 硬い横顔を見ていたら、もう彼は決めてしまったのだとわかった。

「……わかった。でも、今度困ったことがあったら俺にも言えよ」

「お前、すぐ命令口調すんのな」

「……ごめん」

「別に責めてない」

 急に間近で見つめられて、石和に腕を握られていることを強く意識した。最初に身体に触れられたのもこの部屋だった。

「……お前は、大学生か」

「だから何だよ」

「きっとどんどん遠くなるな」

 切なげな目で言われて、かっと頭に血が上った。石和のこととなると本当に自制がすぐに効かなくなる。

「だから! 遠くなんなって言ってんだろ!! ちゃんと話せ! 近くにいろ!」

 石和は幼くも見えるほど、きょとんとした顔をしていた。

「また命令」

「うるせぇ、お前なんて命令されて当然だ」

「わかった、じゃあ命令しろよ」

 石和はいたずらっぽい目つきで春樹を見ていた。完全にからかわれている。

「……電話には出ろ」

 何を言ったらいいかわからなかったので、とりあえず言いたいことを口にする。

「わかった、ごめん」

「メールは遅くてもいいから、返せ」

「わかった」

 石和が春樹の腕を少し引く。顔が近づいて心臓の鼓動が早くなる。

「話って?」

 間近で低い声で、囁くように言われて緊張が一気に高まった。これでは言えるものも言えないと思う。本当に、石和の近くにいるのは心臓に悪い。

「……話、あるんだろ?」

「今度でいい」

「今言えよ」

「お前も命令してるじゃん」

「……俺が命令するターンになったんだよ」

 石和の顔が近づいてきて、唇の端にそっと触れるだけのキスをした。それだけで全身の力が抜けていってしまいそうだった。

「……この間の、告白の、返事」

 石和は春樹の腕を掴んだまま、キスを頬に、額に落としていく。こんなことをされてまともに話せるわけがない。

「なに?」

「……っ」

 ちゅ、と音の立つキスを唇にされて今度こそ腰が砕けそうになった。

「……や、っぱ、今度に」

「言って」

「や」

 春樹の腕を離したかと思うと、石和は春樹の背中に手を回した。それだけならともかく、シャツをまくり上げ、直に肌に触れてくる。

「あ……っ」

 石和の手が肩甲骨のあたりを撫でる。春樹はとっさに石和のシャツを掴んだ。

「言えない?」

 石和の余裕ある態度がムカつく。春樹は自分がされたように、石和のシャツの裾から手を入れて、彼を脱がせにかかる。石和は面白いものでも見るような目で、シャツをまくり上げる春樹を見ていた。

 ご丁寧に、春樹が脱がせやすいように、軽く手を上げてくれる。

「下も」

「え?」

「下も脱がせろよ」

 命令口調がやっぱり気に入らなかったけれど、ムキになった春樹は石和のズボンに手をかけた。ベルトとボタンを外していると、石和のそこがもう張り詰めているのが見て取れた。

 春樹が一瞬躊躇したのを見透かすように、石和は自分でズボンを脱ぎ出す。

「ちょ……っと、待て。いや、待とう」

「待てるわけねぇだろ」

 石和は焦った手つきで春樹のズボンに手をかけてくる。抵抗しようとしたけれど、身体にまるで力が入らない状態では無駄だった。あっという間にズボンを脱がされ、下着の上から性器を揉まれる。

「……っ」

「勃ってんじゃん」

「お前が……っ」

 お前こそ勃っているくせにと言いたいけれど、言えなかった。キスされながら、あらわになった胸の先を摘まれる。

「……っ、や、め」

 こねるように摘まれ、そこがあっという間に尖っていく。小さな痛みとぞくぞくするような快感が広がる。先端をぐりぐりと指で押しつぶされ、軽く引っ張られると、声を殺しきれなかった。

「や……っ」

 開きっぱなしになった口から、荒い息をこぼすしかできない。石和は左手を下着の中に手を差し込んでくる。

「濡れてる」

「……ば、っ」

 ただの生理現象だ。そう思うに言い返せない。軽く握りこまれてゆっくりと擦られる。先端がぬめりを帯びているのが自分でもはっきりとわかった。

「……っ、や」

 石和の手は大きくて、少し体温が高い気がする。下半身に気を取られているうちに、今度は胸の突起を舐められて、自分の声とは思えないほど高い声が出た。

「ひ……っ」

 女の子にもこんなことはされたことはない。生暖かい舌が、ぬるぬると胸を刺激して、ときどき軽く歯を立てられる。

「や……や、だって……! それ……」

「いい、の間違いだろ?」

 石和はちらりと上目がちに春樹を見て言う。かあっと顔に血が上るのがわかった。性器の反応は偽れない。感じているのはどう見ても明白だった。

 石和はいつの間にかローションのボトルのようなものを引っ張り出してくる。

「お前、何……」

 それ以上は声にならなかった。石和は滑った指で、性器の更に奥のほうに触れてくる。

「やめ……」

「メール、返事しなくて悪かった」

 突然、荒い息で真剣な目をしながらそんなことを言うので、春樹は思わず石和の顔をまじまじと見てしまう。

「お前は生きてく場所が違うんだろうし……もう会わないほうがいいかもしれないって思った」

「……っ」

 聞き入っている間に、奥に指を埋め込まれて、その異物感に逃げ出したくなった。だましうちをされたような気分だった。

「それ、やめ……っ」

「お前のことずっと考えてた」

 気を取られないようにしようと思うのに、真剣な顔で囁かれるともうだめだった。強ばっていた身体の力までもが抜けてしまう。

 連絡が取れない間、ずっと不安だった。もう失恋したものだと思っていた。

「……俺もだよ、バカ」

 小さな声で言うと、謝罪の代わりみたいにキスをされた。

 その間もずっと奥に入れられていた指が、ゆっくりと中を刺激してくる。すくんでいた身体が柔らかくなっていくのが、自分でもわかった。

「……ふ、あ」

「考えてたって、何を?」

「やっ」

 やっと慣れてきたと思ったのに、指が二本に増やされてまたきつくなる。逃げるように思わず身動ぎしてしまった身体を、強引に引き寄せられる。

「抱かれること?」

「はぁ? お前、ばっかじゃ、ねぇ、の……っ」

 石和はいつも余裕のある態度で大人びていると思っていたけれど、大間違いだ。全然余裕なんてなさそうだし、ただのセクハラ野郎だ。

「俺は、考えてたけど」

 石和がローションを更に手に出すので、性器のあたりまでもうべたべただった。ぬちゃりとした水音がときどきして、自分が犯されようとしているのだという事実がはっきり感じられる。

「お前を抱くこと」

「だから、黙れ……っ」

 二本目をゆっくり動かされ、全身によくわからない震えが走った。同時に性器の先端を刺激され、違和感と痛みを覚えているのに、ほとんど達しそうになった。

「でも、考えてたより、エロい」

 ぽつりと言われて思わず石和の指を締め付けてしまう。

「っ……あ」

「すげぇ」

 子供のように素朴に言われて、なんだかたまらなくなった。

「なぁ」

 石和が焦ったように耳元で言う。石和のものが、もう完全に立ち上がった状態になっていることには気づいていた。

「……う、あ」

 三本目の指が入ってくる。きついけれど、耐えられないほどではなかった。間近で石和の目が光っている。

「入れたい」

「……やっ」

 指が前後に動かされ、ねちゃねちゃとした水音がする。内壁を擦られる感覚にわけがわからなくなる。

「いいか?」

 もちろんだめだ。猛ったものをこんな狭い場所で受け入れるなんて無理に決まっている。どうしたって無理に決まっている。

「……早く、しろっ」

 なのに春樹の口は意志とは裏腹なことを口走っていた。石和はもう茶化すこともなく、指を引き抜くと、代わりに性器を押し当ててくる。

「い……っ」

 指とは比べ物にならないほどの質量に、思わず涙がにじんだ。痛い。無理やり広げられている感覚で、息ができない。

「力、抜け」

 石和が耳元で言うので、もう何を考えることもできずに、息を吐いて力を抜こうとする。そうするとまた石和のものが内部に入っているのが如実に感じられて、背筋に震えが走った。

「や……っ」

 石和は春樹の反応を伺いながら、ゆっくりと腰を推し進めてくる。一番太い部分が埋まると、知らず知らずのうちに安堵のような声が漏れた。

 ふと、どうして石和とセックスなんてしているんだろうと不思議に思えてくる。男とするなんて考えたこともなかった。

 どうしてこんなに石和のことを好きになってしまったのか。

 痛くて苦しかったけれど、石和の顔を見ているとたまらない気持ちになった。もう絶対に離したくない、と思う。

「……っ、絞るな」

 そんなことしてない、と言い返したかったけれど、声にならなかった。

「あっ、あ」

 石和が一番奥まで埋め、かと思うとゆっくりと引き出し、また押し入ってくる。狭い場所を押し広げられている。痛いだけだと思っていたのに、確かに快感を覚える。

 石和の動きはあくまでゆっくりで、かえって内壁をえぐられていることをはっきりと意識してしまう。

「ひ、……やっ、あっ」

 甘いうずきのようなものが全身に広がる。石和としていると思うだけで、胸の奥が熱くなる。石和は春樹の性器を同時に握りこんで、ゆっくりとしごき始める。そうすると、どこで感じているのかもわからないほど、頭がぐちゃぐちゃになって、ひっきりなしに声が漏れた。

「っあ……、んっ、や」

 こんなに感じてしまったらだめになる、と思った。何も考えられなくなる。

「好きだ……好き」

 石和が熱を帯びた目でじっと春樹を見ながら言う。律動が激しくなっていく。繋がった場所が熱い。

「俺も……」

 春樹は必死に石和の背中にすがりついた。

「俺も、好き……っ、や」

 揺さぶられ、突き上げられて、甲高い声が漏れる。気持ちがよくて、よすぎて怖いほどだった。

「あ、いく……っ」

 だめだと思ったのにこらえられなかった。

「あ……っ!」

 一層奥まで激しく突き上げられ、目の前が真っ白になった。達したことで中にいる石和を締め付けてしまう。石和が低い声で呻き、内部のものがどくりと脈打つ。彼もまた春樹の中で達していた。

 

 ・

 

 石和は地元の食品会社で就職を決めたらしい。早ければ秋ごろからでも、かすみと暮らせるようになるとのことだった。

 三月末、二人で石和の家の近くの公園にまで花見に出かけた。桜は半ば散りかけていたけれど、シートを敷いて飲み会をしている人たちがたくさんいる。その間を縫うようにして二人は歩いた。

「でも、かすみの教育に悪いかもな」

「何がだよ」

「お前のやらしい声、聞こえるだろ」

 春樹は思わず石和の頭をはたく。

 四月で春樹は大学生に、石和は社会人になる。すれ違うことだってきっと多くなる。どれだけ努力する決意があっても、それは事実だった。

「じゃあ、もっと広いとこ引っ越せばいいだろ」

「そんな金ない」

「俺もバイトする。そんで、ベッド買おうぜ。二人で余裕で眠れるくらい、広いやつ」

 石和は一瞬きょとんとした顔をした。石和はひどく大人びていると思っていたけれど、意外にこういう幼い顔も見せるのだと知った。石和の背後で桜の花びらが散っていく。

「同棲しようって言ってるように聞こえる」

「お前が片付けちゃんとできるようになったらな」

「できるって」

「どうだか」

 できるけどやってなかっただけだ、と拗ねたように石和は言う。春樹は思わず笑った。たぶんまた衝突もするけれど、だけど何もできず立ち尽くすよりずっといい。

「俺……お前とかすみちゃんを守りたいな」

「なんだよそれ」

 石和は少し不満気な声で答える。

「……俺がそんな頼りないっていうのか」

「そうじゃなくてさ」

 石和はたぶん、一人でうまくやっているし、十分に強いのだろう。だけど彼だってまだただの子供だ。今の自分に何ができるわけでもないけれど、でも、守りたいとだけ強く思った。

 ざあと一層強い風が吹いて、桜の花びらが降るように舞った。本当に惜しげも無く、ぼろぼろと地上にこぼれていく。

「……なぁ、キスしようか」

 は?と言って固まった石和の顔がおかしかった。冗談だよ、と春樹が言うと、強引に顎を取られキスをされた。ほんの一瞬だった。

「……見られたらどうすんだよ」

 ふっと石和の身体が引いていく。春樹は慌てて周囲を見渡したけれど、誰かがこちらを見ている気配はなかった。みんな桜や目の前の酒に夢中のようだった。

「見せつけたんだよ」

「バカ野郎」

 春樹は軽く石和の身体を叩く。

「……花びら」

 ふと石和の顔を見上げると、いつの間にくっついたのか、石和の唇に桜の花びらがついていた。

「何?」

「何でもない」

 伝えるのはもう少ししてからでもいいだろう。春樹はひどく幸せな気持ちで、花の降る中を歩いた。

 

 

 

春樹視点のその後、石和視点、かすみ視点などを収録した増補版があります。