ぬるく白いまどろみが広がっている。

 眠っている人の夢は繋がっている、と聞いたことがある。だとしたら、本当は色んな人と夢の中で会う可能性があるのかもしれない。

 それは広場みたいなものだろうか。色んな人の精神が流れこむ広い場所。そこで知り合いに会うことあるのかもしれない。

 たぶん、普通は忘れてしまうのだろうけれど。

 ――壁だ。

 白い壁が目の前にある。そして、出口はどこにもない。

 知っている。これはもう、自分の力ではどうにもならない。努力とか交渉とか、そういうことじゃないのだ。

 俺はまた、狭い部屋の中に閉じ込められていた。

「嘘だろ」

 この部屋はどうなっているのだろう。仁田見がいる。会うのは久しぶりだった。俺が絶縁を宣言して、一方的に連絡を拒否していたのだ。

「ふざけんなよ……! またかよ!」

 それにしても、タイミングが悪すぎる。

「仁田見」

 部屋の隅にいる仁田見と目が合う。

「これ、お前がやってんのか」

「やってないよ、わかるだろ」

「じゃあ何なんだよ……!」

 俺はこのあいだ、仁田見に別れ話をした。

 自由の身になって、これから色々な女の子と出会うつもりだった。そう、俺はもともと女の子が好きだ。

「金はねぇからな。もうだいたい使ったし」

「何に?」

「色々だよ! アクセサリーとか、飯とか、女に使った」

 俺は吐き捨てるように言って、仁田見を睨み付ける。仁田見の金を盗んだのは困っていたからじゃない。

 単に別れを告げるだけではダメだと思ったのだ。もっとひどいことをして、愛想を尽かせないと。そうしないと、仁田見との縁はきっと切れない。

「市谷」

 仁田見が一歩近づいてきて、俺は思わずびくりとしてしまう。

 もう終わりにしたつもりだった。男に抱かれるなんてことは、俺の人生にはそもそもない。最初から予定外だったのだ。

「案外ここ、お前ん家の地下室とかなんじゃねぇの。そんで毎回、薬で眠らせて俺を連れてきてる」

 俺は何とか余裕ぶって、鼻で笑う。そうだ、こいつはもともと、ここを出たくないと言っていた。金はあるわけだし、やりかねない気がする。

「こんな部屋を作るのは無理だろ。どうやって作るんだよ、扉も道具もないのに」

 仁田見は冷静に反論してくる。俺だってさすがに本気で仁田見を疑っているわけじゃない。でも、こんなタイミングでまたこの部屋に閉じ込められたら、仁田見のせいかと疑いたくもなる。

「でも、そう思うんならそれでもいいよ」

 仁田見は一瞬、笑みを浮かべた。背筋がぞっとした。やばい。怒っている。 

「お……れはしないからな、お前とセックスなんて」

「それでいい」

 仁田見は腕を組み、俺を見下ろして言った。

「それでいいんだ。今度こそ、ここからは出ない。ハッピーエンドだ」

 ・

「これは夢だ、夢だ、早く覚めろ……」

 俺はそう自分を納得させようとする。だってそうじゃないと、何日閉じ込められていても、現実に戻ると時間が過ぎていないことに説明がつかない。

「……ちくしょう」

 もう壁を叩いてみる気にもなれなかった。

 恐らくブルドーザーがあろうとも、ここから力尽くで出るのは無理だ。

 出る方法は簡単だ。一度でいい。セックスをすればいい。

 俺だって処女じゃない。

 でもやっぱり嫌だ。仁田見は腕を組んで、壁に背をつけていた。

 仁田見と会うのも久しぶりだった。一時期は、相当お互いの家に入り浸っていた。でも大学三年になって、多少は将来のことも見えてきたりして、すれ違いが増えた。

 もともと仁田見は親から、関連会社への就職を勧められているらしい。そうすると海外勤務になるのだという。仁田見の家の事情はよく知らないが、まぁとにかく金持ちだ。

 それに対して仁田見が取ろうとした方法は極端だった。

 親に俺を紹介するというのだ。

 俺はまだ、仁田見と付き合っていることを誰にも言っていない。竹本にも鈴木にもだ。

 一応続いている関係とはいえ、先のことなんて保証できない。当たり前だ。俺たちはまだ、二十歳になったばかりなのだ。

 でも、仁田見は違った。ずっと先まで、当然のように俺といるつもりでいる。

 仁田見の親は、俺を大歓迎というわけにはいかないだろう。金持ちだし、仁田見は父親をかなり恐れている。下手をしたら勘当されることになる。もしかしたら仁田見は、それを求めているのかもしれなかった。

 ……怖くなった。人生が、決まってしまう。誰も助けてなんてくれない。だって、誰にも言っていないから。別に仁田見のことが嫌いになったわけじゃない。でも、そこまで俺は責任が取れない。

 逃げるなら今のうちだ、そう思った。

「あー、もう何なんだよ。お前とヤったりしなきゃよかった」

 俺は頭をかきむしる。

 セックスをする以外の方法で、どうにかしてここから出られないだろうか。でも、この部屋のルールは嫌と言うほど知っている。どうにかして出られるようなら、最初の時にそうしている。

 ここからさっさと出たくて、だからやむを得ず俺は仁田見と寝たのだ。

 それが間違いだった。ただ一度きりのつもりが、ずるずると十回も二十回も続いた。

「あんなに気持ち良さそうだったのに?」

「それとこれとは別なんだよ! 俺はもともと女の子が好きだ!」

 そう、しないと出られない。セックスをしないと、この部屋からは出られない。それはわかっている。せっかく別れたというのに。

「今更女とやっても、楽しくないと思うよ」

「わかったようなこと言うんじゃねぇ。だいたいお前、女とやったことあんのかよ」

 仁田見は答えない。

 高校のとき、仁田見は部活ばっかりだったから確か彼女はいなかったと思うけれど……まぁこいつなら、女はいくらでも寄ってくるだろう。

「くそっ」

 聞かなければよかった。そりゃあ相手ぐらいいるだろう。そして例えばこいつの父親だって、そっちを求めているはずだ。俺みたいに金を盗む、ろくでもない男なんかじゃなくて。

「そんなに、家に連れてくっていうのが嫌だったのか?」

 俺は答えなかった。

「俺はできるなら、市谷のお母さんにも会いたいけど」

「会ってどうすんだよ」

「育ててくれてありがとうって言う」

「わざわざ金盗むようなクソったれに育ててくれてありがとうかよ」

「お前が清廉潔白じゃないことくらいわかってる」

「はぁ? 元から金盗むような人間だったと思ってるっていうのかよ。育てたババァに謝れ」

 俺だってさすがに金を盗んだのは初めてだ。

 仁田見を怒らせたかった。仁田見があきれて、俺との縁を切りたくなるように仕向けたかった。だからやってはいけないとわかっていてやったのだ。

 金を盗むのは一番わかりやすかった。あとは、女に走ること。ガールズバーや何やらで浪費はしたけれど、結局俺は女と寝てはいない。

「そうじゃない」

 もしかしたら今こそ、俺が仁田見を犯す番かと思った。でも、こいつを押し倒してやりたいかというと……やっぱり俺はそんな気分にはなれない。

 ものすごく追い詰められたら、やってやれないこともないとは思うけれど、体格差だってあるから抵抗されたらどうにもできない。

「いい機会だから、ちゃんと話そうか」

「話すことなんてねぇよ。俺は別れるっつってるだろ」

「なんで?」

「なんでってそりゃ……女と遊ぶからだよ」

「付き合ったままでもできるだろ」

「できねぇだろ!」

 いや、あるいはできるのだろうか。俺は自信がなくなってくる。

 俺の常識は仁田見にはどうやら通用しない。仁田見と寝るようになってから、俺は女とセックスはしていなかった。

 いや、やりかけたことはあるけどうまくいかなかったのだ。それ以来、俺は試すことが怖くなっていた。

 〝お前は、もう女の子とはできないんだと思う〟 不吉な予言のような仁田見の言葉を覚えていた。いくら男とするようになったからといって、女とできなくなるわけはない。

 でもいざとなると不安になった。

「どうしても女とやりたいなら、やってもいいよ」

 仁田見は偉そうな態度で言う。

「は? 浮気してもいいっていうのか? 前と言ってることちげぇんじゃねぇのか」

「別れるくらいなら、その方がいい」

 急に殊勝なことを言うものだから俺も言葉に詰まる。

 仁田見が俺を好きなことは知っている。

 数年前からずっとそうだ。こいつは俺のことを好きだ。そのうち飽きられるんじゃないかとも思ったけれど、幸か不幸か仁田見の態度は全然変わらない。

 本当に、ちっとも変わらないのだ。

ーーなんでだよ。

 前と同じように俺なんかのことを仁田見は好きでいる。あまりにも変わらない。それが俺は、怖かった。

 金まで盗んだのに、これじゃ何の意味もない。

「うちに挨拶っていうのもなしでいいよ」

「でも、お前どうすんだよ、就職は」

「何とでもなるだろ」

「いや違ぇんだよ。俺が言いたいのは……! つまり、俺が別れるのは、本気で好きな女ができたからだよ」

 金を盗んだ後遊んでいたのは、店の女性ばかりで本気の関係ではなかったし、ぶっちゃけキスもしてなかったけれど、これくらい言った方がいいだろう。

「だからお前とは別れたいんだ、マジな話なんだって」

「本当に好きな女ができたなら、お前はむしろ進んでセックスすると思う」

 だが仁田見は動揺を示すこともなく、淡々と言った。

「は?」

「ここから出るためなら男に抱かれるくらいするだろ。早くその女に会いたいならなおさらだ」

 俺は反論できなかった。

「ちが……いや、違くねぇけど! それは……!」

 確かにそうだ。

 最初にこの部屋に閉じ込められた時だって、俺は全然好きでもない仁田見に手っ取り早く抱かれようとした。それがこの部屋から出る方法が他にないならそれでもいいと思ったのだ。

「どっちにしろ、お前は俺に抱かれたくない。俺はここから出たくない。利害は一致してる」

「……そうだな」

 確かに仁田見の言う通りだった。何だか言い争っていること自体がばかばかしくなってくる。

「ずっとここにいるんだ、二人きりで」

 仁田見はじっと俺を見ている。覚えのあるその視線に、背筋がぞくりとするのを感じる。

 ――俺は結局、仁田見とは何回セックスしたのだろう。

 彼のキスがどんな風だか、俺はよく覚えている。彼の性器の形や、入れられるとどんな圧迫感があるかも、いくときの表情や声も。記憶は生々しく残っている。

「てめぇは最初からそうしたかったんだろ?」

「そうだよ」

 手を伸ばせば触れてしまえるけれど、俺たちはそうしない。

 俺は仁田見と別れたから。

 でも本当は、本気で別れるならさっさとセックスをするしかない。しないということは、結局引き延ばしだ。矛盾しているけれど、俺はそのことに気づかないふりをする。

「この部屋には俺とお前がいる。それ以外に必要なものなんて何もない」

 ・

 狭い部屋の中で仁田見と二人きりなのは、いつぶりだろう。

 前にこの部屋に閉じ込められたときは、お互い高校を卒業したばかりだった。でも今や、お互い社会人になろうとしている。

 時間が止まらないのはこの部屋の中だけだ。

「……お前の、お父さんってどんな人」

 部屋の中に閉じ込められるのは暇すぎて、俺はつい自分から口を開いてしまう。

「仕事ばっかで、役立つかどうかでしか相手のことを考えてない」

「へぇ。叱られた?」

「別荘汚した時とかはね」

「俺だけのせいじゃねぇし」

 こいつが俺を無理やり犯すような男だったら、話は簡単だったのになと思う。

 俺のことを好きだからとほいほいセックスするような男だったら、部屋を出て、それで終わりだったはずだ。

「俺の父さんはさ、へらへらしてて、手品が得意でモテた。しょっちゅうスナック行ってて、知り合いが多くて」

 両親が離婚したとき、父には別の女がいた。でもそれは、前からだった。もう母は慣れっこになっていたみたいだったけれど、何が離婚のきっかけになったのだろう。もっとちゃんと聞いておけばよかった。

「すごいわかる」

「褒めてめぇだろそれ」

「会ってみたいな」

「連絡先も知らねぇよ」

 嘘だった。本当は電話番号だけは聞いている。だけど自分から父に連絡するつもりはなかった。

 離婚のごたごたのとき、俺は完全に放置されていた。虐待されたとかいうわけではないけれど、毎日ぎすぎすした喧嘩を聞いて、喧嘩の延長みたいなセックスの声を聞いて(なぜだか別れる直前まで彼らはセックスを続けていた)、飯は金だけもらってコンビニで買っていた。

「まぁどっかで元気でやってんだろ」

 お互い違う壁に背をつけて、顔を見ないまま俺たちは会話をしていた。

「お前んち、あの別荘まだ持ってんのか?」

「あるよ」

 仁田見の家は金持ちだ。そもそも俺が最初にこいつを認識したのも、別荘を持っていると聞いたからだった。

 懐かしい。俺たちは高校生で、軽井沢のいいところにある別荘だった。あのときはあまり意識していなかったが、相当高い物件なんだと思う。俺が一生頑張って働いても、とても買えるとは思えない。

 仲間たちと、酒を買い込んではしゃいでバーベキューをした。仁田見はあまり会話に加わってもいなかったけれど、楽しかった。

「また行きてぇな」

「……それは、どういう意味?」

 仁田見が俺の方を見る。……確かに俺は仁田見と別れたつもりだった。別れるということは、仁田見の家が持つ別荘に行くこともないのだ。

「いや、やっぱなし」

 金を盗めば、女に走ったとわかれば、愛想を尽かされるだろうと思った。仁田見がまだ、じっと俺を見ているのがわかる。

「お前さ。ほんとにここから出なくてもいいわけ」

 俺は思わず、口を開いていた。

「前とは違うだろ。年も取ったし、大学楽しいとかもあるし、色んな人がいるだろ。そんで、俺がクソだってのもわかんだろ」

 俺は仁田見に嫌われたかった。こんなやつだとは思わなかった、と言って捨てられたかった。

 セックスは気持ちいいけれど、それだけでは終われない。結局、俺たちは二人きりで生きているわけじゃないから。

「それでも、俺なんかとここにいんのが本当に、お前の幸せなのかよ」

 最初に閉じ込められた時のことを思い出す。

 仁田見はあのとき、二人きりでずっとここに閉じ込められるのがいいと言った。でも、そのあと外に出てから、一緒に時間を過ごした。これといって特別なことをしたわけでもないけど、ご飯を食べたり、テレビを見たり、たまに一緒に出かけたりしてだらだらと過ごした。

「……そうだよ」

 ぽつりと言われて、俺は言葉に詰まる。やっぱり、それはとても寂しい答えだと思った。

 ――でも、そうなのかもしれない。

 あのときのままずっと閉じ込められていて、セックスしなかったなら。俺が仁田見に「しよう」とかバカなことを言って、そして断られて、そんなやり取りを繰り返しているのがもしかしたら、一番幸せだったのかもしれない。

「市谷はどうしたい?」

 ……放っておいてほしい。でもそれは、この部屋に一緒にい続けることを意味する。仁田見と一緒に。

 俺にはわからない。優しく問いかけたりするんじゃねぇ、とキレてしまいたくなる。

「お前とセックスせずにここを出て、一生会わねぇようにしたい」

 俺は苦し紛れに口にした。

「じゃあ俺を犯したい?」

 仁田見は穏やかな口調で言った。

「耐えられんのかよ」

「それは俺が聞きたい」

「できるならヤってもいいのかよ。ここから出たくねぇんだろ?」

「いいよ」

 俺は思わず顔を上げた。仁田見の顔からは表情を読み取れなかった。もし俺が仁田見を抱くことができるなら、最初の時にやっている。

「そうしたいなら、そうすればいい」

「いやだ」

 俺は絞り出すように口にした。確かに仁田見は、黙ってやられてくれるのかもしれない。俺たちはそうしたら外に出られるかもしれない。

「ぜってぇ嫌だわそんなん」

 そして俺は今度こそ仁田見と別れて、それで……。そんなことしたって、たぶん二度と女の子とは付き合えない。

「なんで俺だったんだよ」

 俺は唐突に口にして、仁田見を見た。ただの同級生だったやつと、こんな関係になるとは思わなかった。

 早く捨ててくれた方がよかった。

「俺なんかより、もっとイケメンもいるし、かわいい系も、真面目な奴も、いくらだっているだろ」

 別荘を借りた後、俺たちは仁田見と絡むようになった。都合がよかったからだ。とはいっても、別にいじめてたわけじゃない。多少金を多く払わせたりはしていたが、あくまで友人同士の関係だった。

 仁田見は金持ちで、女の子受けがよかった。話していてあまり面白くはなかったけれど、まぁ呼ぶかという感じだった。仁田見は俺たちとは明らかに違うタイプだったけれど、それでも呼べば来た。

 その頃仁田見は何かの部活で大会に出て、負けたらしいと後になって聞いた。でも興味がなかったから聞きもしなかった。

「……そうだな」

 肯定されるとは思わず、俺は一瞬息をのむ。

「なんでかなんて、俺にもわからない」

「いや俺にもあんだろ、色々いいとこ」

 俺は思わず自分を庇って口にしていた。

「たとえば?」

「空気が読めるとか」

「……他には?」

「あんま細かいとこ気にしないとか」

「そうか?」

「何なんだよ、どうせ俺は女好きのクズだよ」

「女好きではないだろ」

 仁田見がわずかに笑いながら、当然のように言ってくるのでかっと頭に血が上った。自覚があるから尚更だ。

「……てめぇのせいだろ」

「俺のせいか」

 仁田見は心なしか嬉しそうだった。俺は失言だった気がしてきたけれど、今更取り消せない。

 金を持ってガールズバーに行った時も、全然楽しくなんてなかった。何をしたら仁田見に愛想を尽かされるか、そればかり考えていたから。女の子なんて全然目に入っていなかった。

「そうだよ。てめぇのせいだ。バーカ」

 どうにかして仁田見に愛想を尽かされたかった。なのに、結局はまたこんな部屋に一緒にいる。

 ・

「あーー」

 俺は今、仁田見とはしたくない。仁田見を犯したくもないし、仁田見に犯されたくもない。でも、なぜセックスをしてはいけないんだったっけ。だんだんわからなくなってくる。

 一つにはもう別れたからだ。でも、一旦解除みたいなことにしたらいい。

 それでもなぜ俺は抱かれたくないのか。

 怖いからだ。

 たぶんもう一度抱かれたら、俺はもう別れるなんて言えなくなる。結局、俺は前に部屋を出てからも、ちゃんと仁田見に好きだと言ったことはなかった。

「マジで俺が発狂したらどうなんのかな……」

 仁田見とも今まで以上にどうでもいい話をした。暇だったから。

 俺はとうとう、初恋だった保育園の先生のことまで話してしまった。誰にも言ってなんていなかったのに。

 今この地球上で、親より誰より、俺のことを知っているのは仁田見だろう。この部屋が地球上にあるのかどうかもわからないけれど。

「殺してやろうか」

 仁田見はあっさりと言った。冗談にしては面白くなかった。

「は?」

「あまり苦しまないように、窒息死させてやるよ」

「何考えてんだよ、こえぇよ」

 そりゃあ、この部屋で死ねるかどうかは試したことがない。一応息をしてるんだから、窒息でもしたら死ぬんじゃないかと思う。ゲームみたいに、死んだらぴこっと生き返るとはさすがに思えない。

 そうなったら、ここらずっと出られないままなのだろうか。

 この部屋で腐りもせず、俺と仁田見がずっと放置されている様子を俺は想像してしまう。ぞっとした。

「やめろよ」

 俺は死にたいわけじゃない。とはいっても、ここで永遠に生きたいわけでもないけれど。

「どんなふうになっても、お前が狂って糞尿を垂れ流すようになろうが、面倒は見てやれる。でも、どうしてもセックスもしたくない、ここにずっといるのも嫌だっていうなら、殺してやってもいいよ」

 仁田見は当然のことみたいになめらかに言った。

「いやおかしいだろ!!」

 俺は別に死にたいわけじゃない。この部屋を出ない代わりに死ぬなんて、考えたこともなかった。でもたぶん、仁田見は前から考えていたのだろう。

「それ……お前は俺を殺して、そのあとここからたぶん出られねぇんだぞ」

 一人では要求されるセックスの基準を満たすことができない。いや、死体とやるのが含まれるかどうかは考えたくないけれど、たぶんだめだと思う。だめだということにしてほしい。

 いや、そもそも俺を無理やり犯したりしない男は、やっぱり俺が死んでも、屍姦なんてしないだろう。そんな気がする。

 仁田見がじっと、死んだ俺を眺めているところを想像してしまう。

 ぴくりとも動かない俺を、ただじっと。

「俺はそれでも構わない」

 そうしてたった一人で、仁田見はずっとこの部屋に居続けるのだろうか。

 どれだけ時間が経つのにも構わずに。俺の死体と一緒に。

ーーずーっと、一人きりで。

 それが、仁田見の幸せなんだろうか。

ーーそれは、寂しい。

 俺は思わず、仁田見に近づいてその頬をはたいた。自分でもなぜそうしたのかよくわからなかった。ただ、たった一人で仁田見をこの部屋に残すようなことだけはしてはいけないと思った。

「いい加減にしろよ」

 驚いたような顔で仁田見は俺を見上げる。

「お前はもうちょっと俺を信じろよ」

 愛想を尽かされようと苦労していた人間の言うことじゃない。我ながら思った。

 気がつくと俺はちょっと泣きそうだった。仁田見の前で泣くなんてかっこ悪い。最悪だ。でもどうにもできなかった。

「いや、信じらんねぇのはわかるけど!! 全然信じらんねぇな、俺。わかるけど!! もう何だっていい、やっぱすんぞ、それしかねぇ」

 一人きりで狂うこともなく残される仁田見のことを考えたら、もう細々した俺の悩みなどどうだってよかった。

「すんぞ、セックス。お前が嫌だって言ってもする。ざまぁみろよ。ハッピーエンド? そんなもんお前にはやらねぇ」

 俺が泣きそうになりながら口にしているというのに、一瞬遅れて、仁田見は笑い出した。

 やっぱり、こいつは意外とバカなんじゃないだろうか。

 ・

 俺は俺を知っている。

 まぁ確かに仁田見の言う通り、そんなに清廉潔白ではない。

 必要があれば嘘だってつく。楽しておいしい思いをしたい。勉強は嫌いで、気持ちいいことは好きだ。しょうがないから就職すると思うれど、本当なら遊んで暮らしたい。

 酒を飲んだり、踊ったりするのは好き。

 女の子が好き。

 小柄でおっぱいの大きい女の子が特に好きだ。でも結婚とかは考えられない。親父とババアもひどいことになったし、夫婦って言うのは基本的に無理があるんだと思う。

 俺は、変わらない思いなんて信じない。

 でも仁田見は俺じゃない。やつのことはもう俺にはどうしようもない。

「するぞ」

 俺は座ったままの仁田見を、押し倒すようにしてのしかかる。

 仁田見に殺されるなんてまっぴらだ。それにこれ以上、ここで死んだように生きることにも。

 それなら俺から襲うしかない。

 最初からそうだった。もともと俺たちはこういう関係だったのだ。

「本気で言ってるのか?」

 身体を密着させていても、あくまで仁田見は冷静だった。

「するって言ってんだろ。俺にぶちこみてぇんじゃなかったのかよ」

「そんなこと言ってない」

「いつもしたくてたまんなそうにしてくせに」

 俺たちは、最初からこうだ。

 俺には仁田見がわからない。もし男を相手にするにしたって、俺より条件のいいやつはいくらでもいる。仁田見自身もそう言った。

 それでも、仁田見は俺なんかが好きだ。

 ばかじゃないのか、と思う。

 でも、もし「その通りだ。だから別の奴と付き合う」なんて言われたら殺してやりたくなると思う。

 俺は俺がわからない。

 俺たちはただの同級生だった。なのに、裸になってあられもないところをさらしあったりしている。こんなのおかしい。

 ――でもこれが、俺たちなんだからしょうがない。

「……したくないな」

 吐息のかかるような近さで、仁田見は俺の腕に手をやって言った。

「なんで」

 彼が喋るたび、仁田見の身体が震えるのを直接感じる。

「……好きだから」

 言葉尻を飲み飲むように、俺は仁田見の唇を塞ぐ。

「ん……っ」

 俺は俺を知らなかった。

 かわいい女の子を見ると、いいなと思う。でも昔みたいに、それ以上の欲望はない。付き合いたいとかセックスしたいとか、そういう方向に俺の気持ちはいかない。

 仁田見がもし死んだら、俺はどうしたらいいのだろう。別れると決めてからも、こうしてそばにいると体がうずくのに。

 俺は仁田見みたいに忍耐力がない。そうしたら、仁田見がいなくなったとき、俺は代わりの俺は男を探さないといけなくなる。そんなの嫌だ。仁田見が死ぬのも、もちろん俺が死ぬのも嫌だ。

「……っ」

 舌を入れると、仁田見がわずかに抵抗を示す。

 それを押しつけるように、俺は仁田見の弱いところを探る。口蓋を舌でなぞり、唾液を吸う。気がつくと深く唇を重ね、舌を絡ませあっていた。

「俺も好きだ」

 俺は勢いのまま口にする。

 俺は俺を知らなかった。だから怖い。こんなことを言って、俺はどうなってしまったのか。

「好きなんだよ、ふざけんな、死ね」

 俺は乱暴に言って、仁田見の首筋に顔を伏せる。懐かしい匂いだと感じた。

 そんな風に思うこと自体にびっくりした。仁田見の手が、なだめるように俺の髪を撫でる。

 悔しいけれど仕方がない。俺は仁田見に、もっと触れたくてたまらなかった。

 ・

 「あ……っ」

 少し触れてしまえば、もう歯止めなどききようがないことはわかっていた。久しぶりで身体は飢えきっている。

 信じられないくらいに、どこに触れても感じた。肌を撫でられているだけでも気持ちが良くて、あまりに良すぎて怖いくらいだった。

「あっ、や……っ」

「ここ、一人でほぐしてた?」

「そんなこと、するわけな……っ」

 俺は既に息も絶え絶えだった。でも仁田見も普段とはちょっと違う気がする。余裕がないように見えた。もっともっと余裕なんてなくせばいいのにと思う。

 仁田見の唾液で濡らされた指が中にはいってくる。でも全然苦しいとは感じない。

 一人でしていなかったのは本当だ。俺は女とするのだ。そう思って耐えた。本当はちょっと、したかったけれど。

 刺激して欲しかったところに、仁田見の指がある。

「ああ……っ」

 内壁を擦られ、あまりに気持ちがよくて俺は仁田見の腕にしがみつく。こんなに自分がここで感じるようになるとは思わなかった。仁田見の指が優しく、でも深くを刺激してくる。

 俺が特に感じるところに、仁田見は執拗に触れた。反応は正直で、隠しようがなかった。

「……っあ」

 奥がうずくのがわかる。もっと強い刺激を欲しがっている。俺はごまかすように、仁田見にキスをねだった。

 すぐに唇を塞がれて、頭がぼんやりしてくる。

「はぁ……っ」

 このまま指でされ続けていたら、すぐにでもイってしまいそうだった。それでもいいけれど、早く仁田見のものが欲しい。俺は身体をよじって刺激を逃そうとしたけれど、仁田見はそれを許さなかった。

「や……っ、待っ」

 びくびくと身体が震える。まだいきたくない。そう思ったのに俺は背中をのけぞらせ、気がつくと射精していた。

 何度も息を吸うけれど、全然酸素が足りない。まだ頭がぼうっとしている。

「大丈夫か?」

「いい、から……はやく」

 俺は必死に訴える。もっと仁田見を焦らせたい、困らせたい。俺を欲しいと思わせたい。やつの理性をぐらぐらにするくらいに。

「好きなんだよな、入れられるの」

 だけど俺の思ったのとは仁田見の反応は少し違った。ぐいと腕をひかれて、望んだ通りに大きなものが押し当てられる。仁田見のものが入ってくる。思った以上に性急で、まだ少し痛かった。

「ほんとは女じゃなくて、男といた?」

 何を言われているのかわからなかった。

「や、あ、あ……っ」

 乱暴に身体を揺さぶられて、だけど身体はすぐに慣れた感覚を思い出していく。きゅうと締め付けるように内壁が仁田見のものに絡みつく。これが欲しかったのだと、身体が覚えている。

「こんなにエロいのに、我慢できないよな」

「ひっ、あ……っ、んんっ」

 望んだ以上の強さで突き上げられて、うまく声が出なかった。

「あ……っ」

 奥まで深々と貫かれ、何度も突き上げられる。深すぎて怖いくらいだった。でも、確かに気持ちも良くて声がひっきりなしにこぼれる。

「あっ、んん、やっ」

 ぐちゃぐちゃと繋がった部分が音を立てている。仁田見は俺がどのあたりを刺激されると弱いかなんてよく知っている。容赦なく感じやすいところを擦られて、苦しいくらいだった。

「あっ、や……い、きそ」

 俺がそう口にすると、急に仁田見は動きを止めた。今にも達しそうな俺の性器の根元をぎゅっと握る。

「もう、後ろだけでいけるんじゃないか」

「……っ、やめ」

 今にもいけそうだったのに、このままそうさせてほしいのに、仁田見は動きを止める。

 もっと強い刺激を身体が欲しがっているのがわかる。彼のものに絡みつき、もっとと訴えかけている。

「や……っ、仁田見っ」

 優しいだけでは足りない。もっと激しく俺を欲しがってほしい。もっと満たされたい。いっぱいにしてほしい。自然と腰が揺れる。

「自分で動いたらどう?」

 体勢をぐるりと入れ替えられ、仁田見の身体にまたがるような形になる。体重でぐっと奥まで挿入されたものに、また息が苦しくなった。

「あ……っ」

 俺はあんまり得意な体位じゃない。どうしていいかわからないのだ。しかも仁田見はまだ、射精できないように俺の性器を握っている。

 でも、自然と腰が揺れた。深くにまで穿たれたものでもっと奥を突いて欲しくて、何度も身体を揺らす。一度引き抜きかけ、体重をかけて奥まで入れると全身が痙攣するような快感がある。

「あ…っ、あっ」

 仁田見の目が、じっと俺を見ているのを感じる。自分で腰を動かして快感を得ているところを、見られていると思うと恥ずかしくて、それがかえって快感をあおる。

 いきたい。だけどいけない。

「やっ、ああ……っ」

 どこもかしこも感じてたまらなかった。夢中で腰を振っていると、それと同時に腰を押さえられ、下から強く突き上げられて息が止まった。

「あっ、ああっ」

 もうこれ以上は辛い、と思うのにもっと欲しくてたまらなくなる。久しぶりにするせいだろうか。それとも慣れない「好き」なんて言葉を口にしたからだろうか。以前より段違いに気持ちがいい。

 息が苦しい。刺激が強すぎて、意識がもうろうとしていた。強引に強く突き上げられ、濡れた音がする。

「や…め、ああ――っ」

 そのまま俺は奥への刺激だけで達していた。頭が真っ白になって、意識が飛びそうになる。仁田見のものを締め付けたのか、彼もまた達したのがわかる。

 じわりと中で吐精されたのを感じる。外ではいつもゴムを使っていたから、中に直接出されるのは久しぶりだった。

 そんなのは嫌だと思っていたのに、内部を満たされるように感じて、変に背筋がぞくぞくする。

 俺は本当にどうかしてしまった。

「大丈夫か?」

 俺は仁田見に身体を横たえられる。そのときになって初めて、やっと性器が解放された。変な感じだった。既に身体はイったばかりで、ぼんやりと身体が熱い。

「や…っ」

 もう終わりだと思ったのに、もう一度後ろに挿入された。それと同時に、俺は射精していた。

 でも、イっている途中の敏感な身体を容赦なく仁田見は突いてくる。

 もう全身がおかしくなっていて、どこが気持ちいいのかもよくわからないくらいだった。仁田見の放ったもので濡れた内部を、また深く突き上げられる。

「ああっ、あ」

 どこもかしこもが気持ちよくて、キスをねだり、「好きだ」と何度もうわごとのように呟いた。

 仁田見は乱暴に、でもいやらしいくらい丁寧に俺を抱いだ。俺はすっかり焦らされて、何度も泣きながらねだった。結局何度達したのか、数えることもできないほどだった。

 女の子とできないんだと思う、という以前の仁田見の言葉はその通りだ。

 もう否定できない。俺はもう、仁田見に抱かれるしかない。他のことなんて考えられない。

 俺にはこれが全部でいい。部屋の中でも、外でも。これが俺だ。

 もう、それは仕方がないことだ。

 

 ・

 

 目が覚めた時、俺は自分の部屋にいるのだと思った。それがだいたいのパターンだったからだ。

 白い壁が目に入る。俺の部屋か、そうじゃなかったら仁田見の部屋だ。

 ……そう思っていた。

「は?」

 だんだん視界がはっきりしてくる。そこは白く、狭い部屋だった。

「嘘だろ……?」

 明らかに俺の部屋でもないし、仁田見の部屋でもなかった。何もない、狭い部屋だ。

 俺を外に出してくれない、牢獄のような狭い部屋。

 でも俺と仁田見は確かにセックスをしたはずだ。だから、外に出れたはずなのだ。

「なんで……」

 わけがわからない。これはまだ夢の続きだろうか。もういっそ慣れ親しんでしまっている、この狭い部屋。

 でも、今までと明らかに違うことがひとつだけあった。

「仁田見?」

 その部屋で俺は、一人きりだった。狭い部屋の中だ。隠れるような場所もない。いればすぐにわかるはずだ。まさかと思う。でも何度見ても、どう見直しても、どこにもいない。

「仁田見!!」

 仁田見は、部屋のどこにもいなかった。