ストレスが多いので、犬を飼うことにした。毛並みのいい、血統書付きの立派な犬だ。





 部屋を出ると、廊下に点々と血の跡がついていた。

 

「日出人様…… すみません、すぐに掃除致しますので」

 

 慌てた様子でメイドたちが動き回っている。広い廊下にどこまでも続いている血の跡を、拭い去ろうと必死だ。

 

「あの人、また荒れたの

 

 俺の問いには、誰も答えなかった。

 仕方なく俺は部屋に戻る。とりあえず制服に着替え、テーブル前の椅子に座る。そろそろだろうと思っていたら、ドアがノックされた。

 

「どーぞ」

 

 男が一人入ってくる。使用人の制服を着た、俺と同い年の男だ。トレイを持っていて、そこにはいつもの朝食が並んでいた。

 

「朝ごはんをお持ちしました」

 

 男は何の表情も浮かべないまま、トレイをテーブルの上に置く。顔立ちも整っているし、最近では身長もぐんと伸びた。まだ十七だから、これからも伸びるだろう。ひょろひょろと細いままな俺とは雲泥の差だ。

 生まれは決して選べない。俺が、彼のような筋肉や身長を手に入れることはないだろう。

 

「八尋」

 

 そのまま立ち去ろうとした男を呼び止める。

 

「母さん、どうしたの

「……また自傷を」

 

 少しだけ言いにくそうに八尋が口にしたので、俺は思わず笑ってしまった。

 

「今日の予定は

「放課後、赤荻家のご令嬢との会食があります。迎えの車が参りますので学校でお待ち下さい」

「赤荻家ってあれかー、十八くらいだっけ 娘。俺とつがわせたいのかな」

「……跡継ぎがお生まれになれば、奥様も安心なされるかと」

 

 俺はまた笑う。八尋は俺が、絶対に子どもを産みたくないと思っていることを知っていて、わざと言っている。

 八尋は二人きりの部屋の中だけ、少し皮肉な口を聞く。俺は彼に好かれていない。当然だろう。由緒正しい生まれである彼を、こうして使用人にしたのは俺なのだから。

 赤荻の娘はアルファだ。オメガである俺とつがったとして、産まれる子どもがアルファである確率は高くない。

 アルファ同士である両親からでさえ、生まれた俺はオメガだったのだ。「安心できる跡継ぎ」が産まれるとはとても思えない。

 

「紅茶が冷めます」

 

 議論の方向性が不安になったのか、話題を変えるように八尋が言う。

 

「ん」

 

 飲んでやるからカップを差し出せと俺は手で合図する。

 八尋は顔色を変えることもなく、テーブルの上のカップを手に取り、ポットから紅茶を注ぐ。それから俺に手渡した。

 

 手渡されたカップから、一口紅茶を飲む。ふくよかな香りが広がる。今日もおいしい。

 俺はそれから、足にかからないよう気をつけながら、カップをテーブルの脇で傾けた。茶色い中身が、床に落ちて跳ねる。

 

「ごめん、こぼしちゃった」

 

 八尋はやはり顔色を変えなかった。

 

「雑巾を持ってきます」

 

 そのまま踵を返そうとした彼を呼び止める。

 

「待て」

 

 あのときは、下卑た笑いを浮かべて楽しそうにしていたのに、今の八尋の表情は死んだままだ。

 

「いい」

「え

「舐めろよ」

 

 床には半径十センチほどの、紅茶の水たまりができていた。

 

「お前が舐めてきれいにしろ」

 

 八尋の眉がぴくりと動く。その動揺の様を見るのが、俺の楽しみだった。




 貴族の息子は貴族に。

 平民の息子は平民になる。それ以外の選択肢はない。それが階級というものだ。

 

 オメガに産まれることは、生物的にも社会的にも様々なハンデがある。

 少なくとも自分の跡継ぎにはふさわしくない。それが、多くのアルファたちが抱いた結論だった。

 

 その時点で、ただ一人のオメガと番うというロマンチックな道は絶たれる。オメガの産む子どもは、多くはオメガだからだ。

 

 染色体は必ず両親の双方から引き継がれる。アルファ性は、遺伝子としては劣性で、現れにくい。だからこそ希少であり、価値があるのだ。世の中がアルファだらけになったら、その地位は暴落するだろう。

 

 だから一般的には、由緒正しい家柄のアルファ同士が結婚することになる。その場合、子どもがアルファである確率は半分程度だ。

 

 もっとも、人によって取る方法は様々だ。

 オメガの愛人を何人も作って次々子を産ませ、そのうち何とか生まれた一人のアルファを跡継ぎにしたアルファの女もいた。

 番になったオメガと駆け落ちし、家を傾かせたアルファの男もいた。

 

 ただ一人のアルファを愛し、一人しか子どもに恵まれなかったアルファの男もいた。

 俺の父だ。

 

 母にのしかかるプレッシャーは凄まじかっただろう。アルファであるのに子を産まねばならず、しかも生まれた子どもはオメガだった。

 優性遺伝であるオメガ性は、アルファ同士の子でも発現しやすい。それは理論的な結果だった。だが、父親が誰だかわからないというような罵倒も多かったことだろう。

 

 早く次の子をという親類たちの望みもむなしく、母は心を病み、もう二度と妊娠しなかった。

 養子を取るべきだという声も聞かれた。だが、血が受け継がれないと祖父などは大反対したという。

 父はやむをえず、俺を跡継ぎと認めた。

 

 時流もあるのだろう。

 最近では、階級の固定化に反対するデモも起きている。

 面と向かって、相手にオメガかどうかを聞くのもデリカシーに欠けることとされている。

 オメガである俺を跡継ぎにするのは、危険な賭けだ。

 だが、父はそうするしかなかった。オメガである俺に賭けた。

 

「ほら。そのままだと汚いだろ

 

 八尋は何を言っても無駄だとわかっているのか、俺のそばで、ゆっくりと膝をついた。それから頭を床に近づけ、静かに紅茶を舐め始める。

 ぴちゃ、ぴちゃ、と犬が水を飲むような水音がかすかにする。

 

 差別はよくない。

 ……よくないことと、されている。表向きは。

 

 だが中学から、貴族階級の多い学校に通い始めた俺の日常は、地獄だった。俺は檮原財閥の跡取りで、仮にアルファであればその場の誰も、それなりに尊重する立場にあるはずだった。

 

 だが俺がオメガであることは、転校初日にとっくに全員にバレていた。

 

 今でも夢に見る。

 薄暗い倉庫に押し込まれ、埃まみれにされた。数人が笑っている。どうやっても振り払えないくらい、強い力で押さえつけられ、服を剥かれた。

 

 ”こいつには、何をしてもいいんだ”

 

 絶対に忘れない。押し入られる痛みと屈辱。涙を流したら「泣いてる」と更に彼らは笑った。どれだけ叫んでも、抵抗しても彼らの力の前には無駄だった。

 

 ”こいつはオメガで、おれたちはアルファだから。何をしてもいいんだ”

 

「俺は、死んでもお前らには負けない」

 

 俺は学んだ。社交術を。本を読み知識を得ることを。

 笑顔で媚を売る方法を。相手のプライドをくすぐる話術を。

 そして金で人を買う方法を。

 

「思い知らせてやる」

 

 人は生まれを選べない。オメガとして生まれた人間が、アルファになることはない。俺の腕は、十七になってもやっぱり細く、八尋のようには太くならない。筋トレをしたこともあった。だけど理論上は正しいはずのトレーニングを重ねても、筋肉はなかなかつかなかった。

 体質ですね、と医者は言った。

 

 ”本能だからしょうがないよな”

 

 俺を犯しながら、彼らは笑っていた。踏みにじることが楽しくて仕方がないみたいだった。俺は彼らにとって、どんなに乱暴にしてもいい格好の玩具だった。

 

 人は生まれを選べない。俺がオメガに生まれ、彼らがアルファに生まれたことは絶対的な事実だ。

 

 だが、階級は絶対的なものではない。

 アルファたちの中でも、事業に失敗し落ちぶれる人間はいた。

 

 差別はよくない。いくら没落しても人権はある。……表向きは。

 

「なぁ、どう思う

 

 だが、この世界ではできないことなんてほとんどない。金と権力があれば。

 

 八尋の家の主要な企業が倒産し、グループが解散した時に俺は父にねだった。友達を助けたいんだ、と。俺が父に何かねだるのは、初めてのことだった。

 

「言えよ」

 

 俺はオメガとして生まれた。だけど父は俺を跡継ぎと認めた。

 そこらの家柄の悪いアルファよりも、俺はずっとたくさんのものを持っている。でもまだ全然だ。全然足りない。今のままでは、俺はまだ安心して眠ることができない。

今も毎日夢に見ている。

 

「地獄へ落ちろ」

 

 ちらと俺の方を見上げ、八尋は強く睨みつけてくる。普段の死んだような表情とは違う、強い意志の光を見るとぞくぞくする。

 彼は死んでいない。俺の専属の使用人となり、どんな命令にも逆らえなくても、まだそれを屈辱だと感じている。それが俺は、嬉しくて仕方がない。

 

 ちゃんと八尋は紅茶を舐め続けていたけれど、舌で舐めるだけでは限度がある。見た目にはまるで水たまりは減っていなかった。

 俺はまだ拭ききれていない紅茶に、裸足の足をつける。

 

「あー、汚れちゃった。お前の掃除が遅いから」

 

 貴族階級の多い別の学校に進学し、あらゆる力を尽くして学内では誰もから尊重されるようになった今も、ストレスは多い。

 

 だから俺は、犬を飼うことにした。

 

 八尋の家系は百年ほど前から続く、立派なものなのだそうだ。彼もまた、嫡子として生まれ、本当なら一生暮らしに不自由などするはずのないアルファだった。

 だが、彼の両親は散財が過ぎたし、事業センスがなさすぎた。もう国が守ってくれる時代ではない。

 

 アルファである彼を連れて歩くと、彼が主人だと間違われることがよくある。

 確かに彼は顔立ちもいいし、身長も体つきも随分立派になった。もし彼に力で押さえつけられたら、俺は到底敵わない。

 だがそれでも、飼い主は俺だ。

 

「足、きれいにしてくれない

 

 暴力が起こるには、きっかけが必要だ。

 誰もが叩いていいと思っている犬でも、多くの人間は最初に叩き始めることはない。

 誰かが叩いていて初めて、「自分も」と言って叩き始めるのだ。

 

 俺の場合は、八尋だった。

 八尋が最初に俺を呼び出した。地面に這いつくばらせ、笑いながら俺を犯した。

 その彼が今は、俺の足の指を舐めている。八尋の生暖かい舌が俺の指の間を辿る。

 

「さすが俺の犬、舐めるのが上手だね」

 

 八尋は俺の足の指の間に舌を這わせながら、強く俺を睨みつけた。

 

「おいしい

 

 八尋は俺を睨みつけたまま、足の親指を丁寧にしゃぶる。ぞくぞくして、何とも言えない快感が全身に走る。

 俺は衝動的に、彼の後ろ髪を掴み上げた。

 

「地獄ね、上等だよ。でも落ちるなら、お前も一緒だ」

 

 唾液まみれの男の唇に口付ける。

 このままで済ませるつもりはない。あの学校にいた人間、全員が共犯だ。俺が何をされていたのか、みんな知っていたのに、ある者は加担し、ある者は見てみないふりをした。

 だってあいつオメガだから。

 彼らにとって、理由はそれだけでよかった。

 

 今も俺は悪夢を見る。安心して眠りにつけることはない。

 

 深く舌を絡ませると、八尋が少し身体を引こうとするのがわかる。それを許さず、俺は彼の口の中を舌で蹂躙した。

 

「んっ……」

 

 急に肩を強く捕まれ、ばっと八尋が身体を離す。急なことで、舌を噛まれるかと思った。

 

「何す……」

「薬」

「え

「薬、飲んでないだろ」

 

 敬語を使う余裕もないのか、自分の肩を抱くようにして八尋は俯いている。その身体はわずかに震えていた。

 

 十代後半からオメガは発情期に入る。

 俺はずっと前から抑制剤を飲んでいるし、だからこそ特に体調が悪くなるようなこともなかった。中学でひどい目にあったときも、抑制剤は飲んでいた。発情期だからたぶらかしたんだろう、と保健室の教諭にも言われたが、言いがかりもいいところだ。

 俺は可能な限り、自分の身体はコントロールしたかった。振り回されたくはなかった。だからこそ、抑制剤は欠かしたことがない。

 

「飲んでるよ」

「嘘だ」

 

 八尋がずりずりと後ずさる。さっきまでの従順な様子が嘘のようだった。本気で嫌がっている……いや、困っているのか。

 よく見ると、八尋が下半身を隠そうとしているのがわかった。俺と距離を置こうとする彼に、一歩近づく。

 

「やめてくれ」

 

 まるで彼の方が、初めて発情期を迎えたオメガみたいだった。

 

「お前、俺とやりたいの

「違う!!

 

 発情期のオメガに触れると、アルファの方でも耐え難い欲望を感じるという。

 八尋は大きな体を縮こまらせている。抑制剤を飲んでいて、発情期をコントロールできているオメガに対しても、アルファは欲情するのだろうか。

 それとも俺が、さっき彼を見て興奮してしまったせいだろうか。

 

「お前、なんかと……」

 

 率先して俺を犯したくせに、八尋はこちらを見ずに言う。

 

「もしここが、誰もいない荒野の一軒家だったらどうする

 

 俺は更に一歩近づく。

 

「何をしても誰にも見咎められない。俺はご覧の通り非力だ。さぁ、どうする

 

 俺はしゃがんで、彼の顔を覗き込んだ。

 いつもの睨みつける目とも、死んだ目ともまた違う。ぞっとするような欲情の色をたたえて、八尋は俺を見ていた。きっと今にも襲いかかりたいはずだ。だけど彼の理性が、かろうじてそれを押しとどめている。

 

「言って、いいんですか」

「言えよ」

「……ぶち犯して殺す」

 

 背筋にぞくぞくするような興奮が走る。

 だけど俺達は荒野に生きているわけじゃない。どこにいたって人目はある。

 もし例えばこの二人きりの部屋で八尋が俺を犯したら、彼はクビだし当然それだけでも済まないだろう。俺がアルファを身近に置くことに、ただでさえ父はいい顔をしていない。

 

「楽しみだな」

 

 俺は想像する。だだっぴろい荒野の中の粗末な小屋に、二人きりでいるところを。もう食糧も尽きかけて誰とも連絡はつかずに、このまま死ぬしかないというとき。

 そんなときだったら俺達は、何を失うこともなく愛し合えるのかもしれない。

 悪夢の代わりに、きっときれいな星空の夢が見れるだろう。

 そんな空想を、一瞬だけ抱く。

 

「いい子だね」

 

 俺は彼の髪を撫でる。触れる瞬間、彼がびくりとしたのがわかった。だが彼は耐えている。

 彼がどれほどの忍耐を要しているかを知りながら、俺は顔を近づけた。

 

「ほんとに、楽しみだよ」

 

 俺は子どもを産むつもりはない。アルファと番うつもりも毛頭ない。それに、八尋のことは、深く恨んでいる。

 なのになぜ、キスがしたくなるのだろう。

 息がかかりそうな間近で彼の顔をじっと見る。八尋が強く手のひらを握りしめているのが見えた。強く握りすぎて、皮膚に爪がめり込んでいる。

 

 それを見ていたらどうしようもなく愛しくなって、彼を強く抱きしめた。

 八尋の手はますます強く爪をめり込ませ、血がぽたぽたと床に落ち始めていた。