「昔ね、人間は地上に住んでたんだ」

「ちじょう……」

「土の上ってことだよ」

 兄はいつでも物知りで、優しかった。僕はあまりにも何も知らなかった。だから、何を聞けばいいのかも、最初の頃はわからなかった。

 僕の知っていることは、兄から教えてもらったことばかりだ。

「ここは、地下。わかる これは天井で、空は見えない」

 兄は上を指差す。天井には、横の壁と同じ白い面が続いている。

 部屋には窓がない。真っ白い、四角い部屋だった。空調がいつでも静かに音を立てていた。ここより上のことなんて、僕には想像もつかなかった。

「でもこの天井の上にも世界があるんだ。もう今は外に出られないけれど」

「どうして……

「放射線の半減期が終わってないから」

 意味なんてわからなかったけれど、僕は頷く。兄の言うことなら正しいのだろう。

「お前が生きてる間は無理だ。もちろん俺もね」

 何も教えてくれない父と違って、兄は何を聞いても答えてくれた。知りたいことは兄に聞けばよかった。

「昔は地上に住んでたんだ。みんな。でももう今はいられない」

 兄はもの悲しそうな顔をする。地上の話をするときはいつもそうだった。届かないものを夢見るような、切ない表情は、彼を大人びて見せた。

「お兄ちゃんは、『ちじょう』が好きなの……

 僕はいつか、兄を「地上」に取られるんじゃないかと怖かった。

 僕はここから出たことがない。兄が言うとおり、たぶん出られることもない。

「地上は、とてもいいところだったんだ。今度タキにも教えてあげるよ」

 兄はそう言って、優しく笑った。

 僕は何度も大きく頷く。

 

 人間はもういない。僕たちの他には。

 どこか別の地下にいるのかもしれないけれど、連絡は取れていないらしい。

 僕は、兄と父以外の人間を知らなかった。

 そう。その頃の僕は、何も、何も知らなかった。

 

「お兄ちゃんも食べる

「俺は大丈夫」

 非常用食料を手にする僕に、兄は微笑む。兄は僕とは違う部屋に住んでいる。来てくれる時間も決まっていない。

 僕は包装をむしり取り、中の固形物を取り出した。口に放り込んで咀嚼する。そうすれば、空腹感は満たされる。

 兄は僕が食事を取るのを、そっと眺めていた。兄は一体どこでいつ、食事をしているのだろう。

「おいしい

「何

「おいしいかなって」

「……おいしい

 良い点は空腹が満たされるところ、難点は口の中がもそもそすることだ。兄は僕の疑問には答えずに言った。

「お前、こんぺいとうは好きだろ あれみたいな感じだよ」

「こんぺいとう」

「そう。小さくてトゲトゲした甘いやつ」

 あれは確かに好きだ。思い返すだけで口の中に唾が溢れてくる。

 だが、兄は急にびくりと身体を震わせた。僕にはわからないけれど、兄はときどき何かに反応してそういう慌てた仕草をする。

「やばい」

 僕は気にせず、口を動かし続けていた。

「また来るから」

 兄はぱっと立ち上がり、カードキーを差し込んで、重いドアを開ける。ドアは一瞬開き、すぐに閉まった。

 この部屋にドアはひとつしかない。僕は鍵を持っていないから開けられない。兄と一緒に出ていくことも許されていない。

 開けられるのは、鍵を持っている「兄」と「父」だけ。

 兄が慌てて出て行ったとき、その後どうなるか知っている。兄は父とは、絶対に顔を合わせない。

 あとどのくらいかかるだろう。でもたぶん、もうじきだ。

 僕は食事をし終えて、ボトルから水を飲む。どうせ父が来てしまったら、もう食べられないだろうから。

「あー」

 今日はあまり兄と話せなかった。もっと色んなことを教えてほしかったのに。

 お兄ちゃんに会いたい。またできるだけ早く。もっと話がしたいし、「こんぺいとう」だって食べたい。

 がたん、ともの音がした。重いドアがゆっくりと開く。思ったより早かった。

 父は、兄とはまるで違う、大きくて重そうな身体つきをしている。

 父は「大人」だ。

 彼は僕が話すことを好まない。痛い目にあって、いい加減もうわかっていた。

 本当はもっと喋りたかった。でも、父とはおしゃべりできない。痛いことをするばかりだ。

 僕はこれから来る苦痛に耐える準備をする。

「ずいぶんでかくなったな」

 父は苦々しげに言う。

 父は何も教えてくれない。話もしてくれない。代わりに、僕を押さえつけて痛いことをする。

「こんなとこにいても成長しやがる」

 父はむしるように僕の服を脱がした。爪が皮膚を引っ掻いて痛かった。

 でも僕は、声一つ出さなかった。父は僕が声を出すと怒るから。だから僕はただ、兄との会話を頭の中で繰り返していた。

 大丈夫。

 僕にはお兄ちゃんがいる。

 だから、大丈夫。

 

 






第一章 

 

ぼく

 

 目を閉じて思い出す。

 その部屋は、狭くはなかった。窓はなく、空調が部屋の上部についていて、かすかに鈍い機械音がする。地上の光はまったく入ってこない。

 壁の色は白。

 定期的に父が掃除していた。食事は父がいつもたくさん置いていく。父が来るのは、決まって週に一度だった。

 僕は父が置いていく非常用食品を食べて、生きながらえている。父は地上で偉い人だったので、食糧の備蓄はたくさんあるらしい。でもこの部屋を出たことがない僕は、どのくらいそれが残っているのかはわからない。

 ひどい戦争があったのだという。

 全世界を巻き込む、残酷な殺し合いだった。

 でもそれは昔みたいに剣を持って殺しあうものにはならなかった。もともと地球上を何度も爆破出来るくらいの原子爆弾が地球上にはあった。人の集まっている都市から標的になり、滅びていった。

 ここは地下だ。僕たちは、地上から逃げることでかろうじて生命をつないだ。

 地上は放射線により汚染され、もう住むことができない。たぶんまだ他にも地下に逃れた人たちはいるのだろう。でも、連絡は取れていない。

 だから僕は、ここから出られない。

 

 ・

 

 そうしたことを、僕がまがりなりにも理解できるようになったのは、だいぶ後になってからだった。

 長い長いまどろみの後。

 僕は、気がついた時にはもうここにいた。それ以前のことは思い出せない。

 兄の言うとおりなら、僕も昔は地上にいたことがあるのだという。でも、何も思い出せなかった。

 僕も地上で生まれたはずだった。だから懐かしいような気がするのだろうか。

 母についても、小さい頃のことも、記憶はない。

 気がついたときには、僕はひとりだった。この真っ白い部屋の中で。何をすることもなく、たったひとりぼっちだった。

 

 記憶の始まりはぼんやりしている。

 部屋の中には家具らしい家具もなく、することは何もなかった。僕は毎日、まどろみの中にいた。実際、ほとんどの時間は眠っていたんじゃないかと思う。

 生きているのか死んでいるのかわからないような生活だった。

 週に一度やってくる父の他には、日々の変化は何もなかった。父はほとんど喋らない。ただ、食べ物を置いて、そのかわりみたいに痛いことをしていく。

「……っ」

 嫌だと声にするなんて伝え方は知らなかった。でも、それはとても痛くて辛いことだった。

 兄に一度、相談をしたことがある。痛いのは嫌だと言う僕の目を見ずに、兄は「検査みたいなものだから……」と言っただけだった。

 

 部屋の中は空っぽだ。だから僕は毎日、眠るか壁をじっと見て過ごしていた。

 壁はコンクリートでできていて、触ると少ししっとりとしていて、冷たかった。

 その手触りを僕は何時間でも楽しんだ。

 父が置いていく食べ物は、いつも同じ固形食品だった。それと水のボトルが数本。僕は腹が減ると、むしゃぶりつくようにそれらを口にした。

 あとになってから兄に、人類に残された食料はそう多くないことを教えられた。長い期間備蓄できる災害用食品と、わずかに地下で栽培できる植物以外、もう残されてはいないのだという。

 兄は、うちには幸いそれなりの蓄えがあるから大丈夫だと言っていたけれど、それを聞いてから、食料を食べるたびに少しどきどきするようになった。

 部屋の隅には穴があり、そこで用を足す。それも父に血が出るほど殴られて、学んだことだった。

 父は僕に容赦なく暴力をふるった。

 父は僕と会話をしなかった。何か伝えるときには必ず殴った。

 父は部屋が汚れるのを嫌がった。かといって、この部屋には部屋を掃除できるような道具もない。僕も部屋も、父が来るまではいつも汚れ放題だった。

「いいか、用はここで足せ」

 父は僕の髪が伸びてくると、乱暴にハサミで切って、同じくその穴に落とした。穴は十センチ程度で、底は見えない。

「わかるか 犬だってもっとまともだ」

 僕は何を言われているのかもわからない。父は僕を強引に頷かせた。だから、何か言われた時にはそうやって、頷けばいいのだとわかった。

「ガキってのはどうしてこう……」

 父は殴るだけでなく、必ず僕に痛いことをした。そうすると血が流れてもっと汚れた。だけど、父は自分がしたことの結果なのに、部屋が汚れるのを嫌がった。

「拭いとけ」

 足の間から血が流れて、僕は自由に動けない。それでも、言うことを聞かないともっと怒られるだけなのはわかっていたから頷く。投げつけられた雑巾で床と自分の足を拭った。

 何のために生きてるんだろう。

 僕はただ、獣のように眠り、腹を満たし、何をするでもなく部屋を歩き回った。

 僕は何なんだろう。

 いつからここにいるのか。何のために。

 自分の名前も知らなかった。頭がぼんやりする。ここがどこだとか、人類はどうなっているのかとか、そんなこと思いもつかなかった。僕はまだ何も知らなかった。

 ただあるのは定期的にやってくる「父」の存在だけ。

 ずっと長い間そうだった。どれくらいかわらからないくらい、長い間。


 兄の存在は、僕のすべてを変えた。

 父がこの部屋にやってくるのは週に一度だ。いつからか、兄はずっとそれよりも高い頻度でやってくるようになった。初めは彼が味方なのか敵なのか、よくわからなかった。でも彼がくれた食べ物はびっくりするほど甘かった。

「……っ」

「うまいか

 小さな欠片は、噛むと口の中で壊れた。その甘いものがなくなってしまうのが嫌で、僕は泣いた。

「また持ってくるよ」

 兄は焦らなかった。まるで野生動物を手懐けるみたいに、ゆっくりと時間をかけて近づいてきた。

 甘い食べ物は、それまでのこの部屋にはないものだった。それは、びっくりするほどの刺激だった。

 またあれが食べたい。

 しばらくの間、僕はそれのことしか考えられなかった。どうにかして食べたい。だけど部屋の中には何もなくて、僕は白い壁をなめた。ざらりとした感触がするだけで、味はしなかった。

 兄がやってきたのは、たぶん数日後のことだった。でも僕にとっては、あまりにも長い時間だった。

「元気だったか……っ、何すんだよ

 僕は彼に襲いかかった。彼があれを持っているはずだと思ったのだ。だけど、ろくに食事も運動もしない僕の力など大したことはなかった。兄はらくらくと僕を床に押し倒した。

 僕は獣のようにうなった。早くまたあの甘いあれがほしい。

「うー

 欲しいものは力づくで奪うことしか頭になかった。

 殴れば痛い。そうして言うことを聞くしかない。僕が知っていたのはそれだけだった。この部屋にこれまで来るのは、父だけだったから。そうして彼はいつも僕を殴ったから。

「暴力はだめだ」

 じっと柔らかい目で、押さえつけたままの僕を見下ろして、優しい声で彼は言う。

「お前、名前は

「うあ……

「俺の名前は……いや、俺はお前の『兄』だよ」

 彼は父よりずいぶん細くて、小さかった。どちらかというと僕に似ている。僕はなんとか起き上がろうとしたが、彼はびくともしなかった。あの甘いのがほしいのに。きっと彼が持っているのに。

「わかるか 『お兄ちゃん』だ」

 彼は根気強く僕に話しかけた。

「お兄ちゃん。言ってみて」

 彼の手がポケットに入ったかと思うと、その手のひらには熱望してやまないあの星形の菓子が乗せられていた。

「うー

 僕は精一杯手を伸ばす。

「『おにいちゃん』」

 だけど彼は僕を押さえつけ、手のひらを上のほうに上げてしまう。僕は彼の腕を何度もひっかいた。でも、彼は気にしていないみたいだった。

「おにいちゃん」

 彼は左手で自分の口を指さし、ゆっくりと繰り返す。

「……う」

 頭がぐるぐるした。このままじゃ、あの甘いものはもらえない。この男の言う通りにしないときっともらえない。何とかしないといけない。

 ほら、ママって呼んでみて。

「……ぃ、ちゃ」

 彼は急に、ぱっと表情を輝かせた。それは本当に、日の差さない地下に光が差し込んだかのような笑顔だった。

「すごいすごい!! 喋れるじゃないか

 押さえつけていた腕を放して、彼は笑っていた。わけがわからなかった。

「ほら」

 彼の手に載せられたこんぺいとうを、慌てて僕は舐めとる。

「いい子だね」

 彼はそう言って繰り返し、僕の髪を撫でた。よくわからない。殴られるのとは何か違う。でも、悪い気持ちじゃない。

 これは、父とは違う。甘いものをくれるし、気持ちがいい。

 父みたいに、声を出しても怒らない。殴らない。好きなものをくれる。

「お前はいい子だ」

 彼の肌は、どこもかしこもがさがさしている父と違って、柔らかかった。ぴくりとも表情が変わらない父と違って、よく僕に微笑んでみせた。

 彼は心地よかった。

 真っ白い退屈な部屋が、変わっていく。彼の存在ひとつで。

 乾ききっていた僕は、差し出された水を必死に啜った。それが良いことか悪いことかなんて、そのときの考える余裕もなかった。

 他にすがれるものも、何一つなかったのだから。



「これが『あいうえお』、わかる

「あ、いうえお……」

 思い出してしまえば、簡単だった。

「……わかるのか!?

 僕は言葉を知っていたし、ひらがなと簡単な漢字も読めた。なぜ、自分がそういうことができるのかわからなかった。これまでは使う必要もないから、忘れていただけだったのかもしれない。

 どこでどう覚えたものなのかは思い出せなかった。地上にいた頃なのかもしれない。

「すごいじゃないか」

 その頃、兄はほぼ毎日のように部屋にやってきた。だいたいいつも、絵本を持ってきてくれた。そうして長い時には半日近くも部屋にいた。

「すごい

「すごいよ、お前はかしこいね」

 少しずつ、会話らしい会話もできるようになっていった。

 それは不思議な感覚だった。言葉が胸の中から蘇ってくる。なぜなのだろう。僕はずっと前には、もっと多くのことを知っていたような気がした。

 頭がぼんやりする。ここにいる僕は、本当の僕じゃない気がする。

 でも、思い出そうとしても何も確かなことはわからなかった。

 もちろん、兄の使う単語の中にはよくわからないものもあった。だけど少しずつ教えてもらったり、知らないまま聞き流したりしていくうちに、だんだんわかるようになってくる。

「タキはかしこい」

 兄は絵本に見入る僕を見て笑っていた。笑うと目尻が下がって、ふにゃっとした顔になる。僕は彼のその顔が好きだった。見ていて、とてもいい気分がした。

 ……タキ、というのが兄が僕を呼ぶ名前だった。

 いつの間にかそうなっていた。僕はそう呼ばれたら、振り向くということを覚えた。

 兄は僕がよく理解できないうちから、僕に対して色々なことを話しかけた。

 戦争。外。放射線。残り時間。兄の言葉の端々からそうした言葉が飛び出す。そうして彼は、僕がこの地下にいなければいけないのだと説明する。ろくに単語がわからなくても、なんとなく兄の語る話のトーンはわかった。大変なことがきっと起きたのだ。

 とてつもないことがあって、地上はだめになってしまった。

 絵本には、「まま」や「ぱぱ」が出てきたりする。でももういないんだ、と兄は言った。「きっちん」や「がっこう」もここにはない。もうなくなってしまったんだ、と兄は悲しそうな顔で繰り返す。

「むかし、地上っていう場所があったんだよ。そこにはそういうものがあったんだ……」


 一体いつ、どうやってこの部屋にやってきたのか。

 僕にはその記憶がなかった。

 兄によると、たぶん地上の汚染が深刻化する前に、助けられたのだろうということだった。

「ちじょう、いってみたい」

「うん……そうできたらいいね」

「いきたい」

「無理だよ」

 僕はじきに、兄にわがままを言って困らせるようになった。僕が何か言うたび、兄は申し訳無さそうな顔をする。だからこそもっと僕はわがままを言ってしまう。

「なんで」

「死んじゃうからだよ」

「いきたい」

「だめだ、タキが死んだら悲しい」

 兄は淡々と、言い含めるように何度も説いた。地上は汚れている。放射線の半減期は、僕たちが生きている間には終わらない。とてもではないが、外で呼吸をするようなことはできない。皮膚がどろどろになって、内臓が溶ける。

 地上は、とても恐ろしい場所なのだ。

「お兄ちゃんは、いったことある

 羨ましかった。絵本に出てくる「さくら」も「ぞう」も僕は見たことがない。兄が持ってくる絵本のバリエーションはそう多くなかった。最近は、いつも一度見たことがあるものばかりだ。

「……地上は楽園じゃないよ」

「ずるい」

「タキ

 僕はびくりと身体をすくませた。兄がそんな風に声を荒げたのは初めてだったから。

 真顔で僕を見据えるタキの目の迫力は、父を思わせた。

 父さんも僕をこういう目で見る。

 僕が言うことを聞かないのを、嫌だと思っている。

「……タキ、仕方ないんだ」

 僕は慌てて頷く。父に嫌われるのは仕方がない。でも、兄に嫌われたらいやだ。

「ごめん……」

 彼がこの部屋に来てくれなくなったら。

 想像しただけでぞっとする。父は僕が声を出すのを許さない。相変わらず痛いことをするばかりだ。兄がいなくなったら、誰とも話すことはもうできなくなる。

 そんなのは絶対に嫌だ。前はずっと一人で部屋にいても平気だったのに。父にされることも、ますます嫌になるばかりだった。前はそうされるのが嫌だということさえ、よくわかっていなかったからかもしれない。伝える相手もいなかった。

 父なんて来なくていい。兄だけいればいい。

「……ごめん」

 僕はとっさに兄の服の裾を掴む。いなくならないでほしい。でもそんなことを言ったらまたうざったく思われるだけかもしれない。それでも怖い。

「いなくなる

「大丈夫だよ、タキ」

 兄は打って変わった優しい顔で僕を見た。僕が好きな、あの目尻の下がった甘い顔。

「俺は、タキの味方だよ。とっておきのことを教えてあげる」

「なに

「僕の名前」

「タキ

「それはタキの名前だろう」

 兄は苦笑する。

「僕の名前は、『カイ』」

 兄は自分を指さしながら、ゆっくりと口にした。

「カイ」

 意味もわからないまま、僕は繰り返す。それはこんぺいとうみたいに、なんだか甘い響きの言葉だった。

「海のことだよ」

「うみ

「今度、見せてあげる」

 

 別の日、兄は一冊の写真集を持ってきた。それは彼が何度か持ってきた絵本よりもずっと分厚くて重かった。

「これは大人の本なんだ」

 よくわからなかった。どのページにも、青っぽい水平な線みたいなものがあった。でもそれだけだ。絵本のようなひらがなはどこにも書いていない。めくってもめくっても、同じような絵だけ。

 最初は、絵本と違っておもしろさがよくわからなかった。

「これが海だよ。この写真じゃ、よくわからないかな……」

 線の上のほうには、少し色の薄い青が続いている。下のほうは、なんだか少しざわざわしているように見えた。

 退屈な絵だ。でもなぜか懐かしいような感じもした。何か大事なことを忘れているのに、忘れたこと自体を忘れてるみたいな気がする。

 兄の説明によると、地上の海はもうこんな風にきれいではなくて、異常気象によってほとんどの地域が赤く染まってしまったという。

「カイ

 僕は本のページを指差す。

「そう、海」

 僕は兄に名前があるなんてことを、考えたことがなかった。名前。誰かと誰かを識別するもの。僕は兄を名前で呼ぶ必要なんてなかった。地下にはいつも二人しかいなかったから。

「カイ」

 兄は父に隠れてやってきていた。父に見つかることを、彼は何より恐れていたと、僕は少し後になって気づく。

 僕も父は怖かった。でも兄の存在は絶対的で、兄さえいれば大丈夫だと思っていた。

 きっといつか、兄が父を倒してくれる。

 出口のない狭い白い部屋の中で、彼だけが世界に繋がる窓だった。彼から笑顔を向けてもらえるときだけ、僕は僕になっている気がした。

 お兄ちゃんがいつか、あの男を倒してくれる。そうに決まっている。

 僕はただ、兄のことだけを信じていた。


 父が地下に来るのは、週に一度だった。一週間、という概念もずっとあとになってからわかったことだけれど。

 兄は多分その予定を知っていて、それ以外の日にやってきていた。父が来る日にたまたま来たときは、父が来る少し前には出ていった。

 兄は僕がしゃべると喜んだ。だから僕は兄といるとき、必死に言葉を使った。

 兄が持ってくる絵本は、多くはなかった。僕たちは何冊かの絵本を、一緒に繰り返し読んだ。僕は自分で読むより、兄に読み上げてもらうことのほうが好きだった。

 この間読んだのは、人間のからだについての本だった。

 「ないぞう」というのは、僕の身体の中にもあるらしい。僕は胸を触ってみる。よくわからない。この下に、本当に「しんぞう」だとか「はい」だとか、そうしたものが入っているのか。確認してみたくなって少し強く押してみたけれど、よくわからなかった。

 人間には身体があり、内蔵がある。兄にも父にもあるらしい。でも僕は、同じ「人間」なんだろうか。本当にここには「しんぞう」があるんだろうか。

「あるよ」

「なんでわかるの」

「僕が保証するよ。この下には、心臓があるんだ」

 兄は僕の胸を指さしてそう言った。兄が言うなら、そうかもしれないと思った。

「みたい」

 兄は困ったように笑った。

「それはちょっと難しいけど……」

「おにいちゃんのも、見たい」

 兄はまた笑った。彼が笑うのが嬉しくて、僕はいいことを言ったような気分になった。

「いつかね」

 そう言って、兄は僕を抱きしめた。

 兄の「しんぞう」が近くにある。僕は急にそれを意識する。

「ほら、どくどくいってるの、わかる

 触れた場所から、洋服越しにもその鈍い振動が伝わってくる。兄の身体は暖かかった。空調はいつも適温になっていて、不快さはなかったけれど、その暖かさは気持ちよかった。

「うん……」

 だけど血管がはりめぐらされた小さな心臓の絵と、肌に感じる兄のぬくもりとがうまく結びつかなかった。

 これが、心臓。

 その音を聞きながら、いつの間にか僕は眠ってしまっていた。

 目が覚めると兄はもういなかった。手元には絵本もなくて、僕は泣いた。

 

 次の日に兄が持ってきた絵本は、最初はよくわからなかった。

「ごめん、もう子供向きのはなくて……」

 どのページにも、似たような絵が並んでいる。ぼんやりしていて、何が描いてあるのかよくわからない。緑っぽい、ごちゃごちゃしたもの。よく見るといろんな色が入っている。

 この前の海の絵にも似て、最初はおもしろさがよくわからなかった。

「これはね、ある庭の一日の風景なんだ」

「いちにち

「太陽がのぼって、沈むまで。地上はね、太陽が照らしてるんだよ。だから、朝と夕方だと全然風景が違う」

 ぼんやりと、知っているような気がする。思い出せそうでよくわからない。

「たいようって

「地上を照らす、光だよ」

「ひかり」

「この明かりの、すんごく強いやつ」

 兄は天井に埋め込まれた白い照明を指差す。まぶしい白い光、それを僕は知っているような気がする。でもどこで知ったのだろう。気が付いた時にはもうここにいたのに。

 この部屋の中には、その白い照明しかない。窓はない。

「もっと全然、地上全部を照らせるくらい強い光なんだ」

 兄の話の中には、よく「ちじょう」が出てくる。

 僕は黙って、紙をめくった。

 そこにあるのは、ほとんど一ページ前と変わらない絵だった。だけどよく見ると、少しずつ色が変わっていっている。目を凝らすと荒いタッチが見える。それは今まで見たどんな絵本とも違っていた。

「これは、地上が一番きれいだった姿だと、僕は思うんだ」

 よくわからなかった。ぼやけた風景。これがきれいということなんだろうか。

 わからないけれど、もっと見ていたいと思う。

「これは、睡蓮の庭なんだよ。ええと……『にわ』、わかる

「にわ……」

「人が、自分で見て楽しむために、家の近くに植物を植えておくところのことだよ」

 言葉の意味はよくわからなかった。でも、なんとなくその本から目が離せなかった。

「モネって人が描いたんだ、こうやって、朝早い時間に太陽が昇って沈むまで。たぶん、時間が過ぎてくのを惜しんで、必死に描いたんだろうな」

 僕はがんばって画面を読みとろうとした。だけどどこに焦点を合わせて観察しようとしてもぼやけてしまう。顔を離して遠目に見ると、まるでちらちら絵が動いているかのように感じた。

「今はもう、こんなきれいな風景も見られないだろうけど……」

 よくわからない。でも、惹きつけられる。

 その日は眠ろうとしても、目の裏にその絵の風景がちらついてなかなか眠れなかった。

 あれが庭。

 あれが、光。


 兄はほとんど毎日来てくれたけれど、来ないこともあった。そのころの僕は、あまり一日という区切りをわかっていなかった。日の光も差さない部屋の中にいたのだから当然でもある。兄が来るか父が来るか、それだけが僕の時間を区切っていた。

 兄がしばらく来ないときは、少し遅いだけだ、きっとこれから来るんだ、そう思い込もうとした。

 そのうちに疑問に思うようになった。ここに来るとき以外、兄はどうしているのだろう。

 どうしてこの部屋にずっといてはくれないのだろう

 ずうっとずっと、一緒にいられたらいいのに。

「ごめん」

 疑問をぶつけると、兄は困ったような顔をした。

「タキは、地上で拾われてきたから……だから、ごめん、何て言っていいかわからないけど、汚染……よごれてるんだ」

「……おせん」

「だからこの部屋の外には出ないよう、父さんが管理してる」

 とてもとてもひどい戦争があったのだという。

 兄は折に触れて説明した。

 地上を根こそぎ駄目にするような。人間が何百万人も死ぬような、ひどい戦争だったのだという。

「動物も人間も町も、全部死んだんだ」

 兄はグローバリズムとか原理主義とか色々と難しい言葉で説明していたけれど、よくわからなかった。とにかく僕は外に出れないのだと言いたいらしかった。

「ずっといられないの

「ごめん……僕はずっとはここにいられないし、タキは外には出れないんだ、ごめん」

 兄が悲しそうな顔をしていたから、僕もそれ以上はごねられなかった。

「タキ、きれいなもの、もっと見ようよ」

 兄は僕が、あの庭の絵本を気に入っていることを知っていた。それからこんぺいとうを。だから何度もそれらを持ってきてくれた。

 でも、あれほど目に焼き付いて離れなかった光にあふれた風景も、今日は響かなかった。

 どうして、ずっと一緒にいられないのだろう。

 兄とずっと一緒にいられるなら、地上に出れなくても全然構わないのに。

 

 僕はそれから、ふさぎ込みがちだった。兄が気を利かせて持ってきてくれる新しい絵本も、以前ほどには僕の心を打たなかった。

 兄といられるのに、彼がいつ帰るかばかりを気にしてしまう。

 それではいけないという思いもどこかにあるのに、どうにもできなかった。

 

 そんな僕の状態を知っていたからだろうか。

「タキ、今日はとびきりのものを持ってきたよ」

 その日の兄は、部屋に入ってきたときから楽しそうだった。僕はどうせきっとまた別の本なのだろうと思った。だけどその日の彼はやってくるなり、ぱっと部屋の電気を消した。

「お兄ちゃん

 大変なことが起きてしまったと思った。この部屋の電気はずっとついたままで、消えたことはなかったから、僕には何が起きたのかよくわからなかった。

 兄が魔法を使ったんじゃないかと、本気で思った。

「大丈夫」

 ぎゅっと手を握られる。見えないけれど、兄が近くにいるのがわかった。

 それだけで身体から力が抜ける。

 兄が持ってきたらしい小さな機械からぱぁっと光が立ち上る。

 天井に、小さな光の点が映し出されていた。見たことがない光景だった。天井が消えてしまったのかとさえ思った。真っ暗い中に、小さな白いつぶつぶがたくさん浮かんでいる。

「な、に……

 僕はいつの間にか部屋の外に出てしまったのだろうか。怖くなって兄の手をぎゅっと握る。

「星だよ」

「ほし」

 星のことは知っていた。太陽も星のひとつ。この間読んだ絵本にそうあった。

「たいよう

「太陽は明るすぎるから、他の光が消えちゃうからここにはないよ。普通の星」

 兄が手を強く握り返してくる。大丈夫。何があるとしても兄がいる。

「ふつうのほし……」

「きれいだろ

 僕はうなずく。暗い中でそうしても兄には見えないかもなんて思いもしなかった。

 どこまでもどこまでも、その星空は続いているように見えた。小さな光は、ときおりちらちらと瞬く。よく見ると、少し赤っぽかったり黄色っぽかったりする星もある。これが、ふつうのほし。気が遠くなりそうだった。

「あれは金星かな」

 握った手を持ち上げて、兄がそのうちの一つを指し示す。それは、一面の星の中でもひときわ明るいひとつだった。

「きんせい

「太陽の仲間で、地球より太陽に近いところにある星だよ。夜明けとか夜更けに見えるから、明けの明星とか宵の明星とか言うんだ」

 僕は兄の言葉の半分も理解できなかった。でも、兄が答えてくれるのが嬉しかった。

「すごい……」

 いつまででも見ていたかった。兄が「きれい」というのはこういう意味なのか。それはわくわくするような、ちょっと怖いような、とにかく見たことのない景色だった。初めてあの庭の本を見たときみたいに、引き込まれる。

 握ったままの僕の手を、兄はそっと引き寄せた。僕はそのまま体ごと彼により掛かるような体勢になる。

 兄の身体は柔らかかった。ごつごつして乾いている父とは違う。触っていると、あたたかい光が流れ込んでくるみたいに感じる。

 真っ暗で兄の姿は、何も見えなかった。

 繋いでいない方の手が、僕の頬を撫でる。その形を確かめるみたいに。なぜか泣きたいような、不思議な気持ちになった。身体の中がざわざわする。

 柔らかいものがそっと口に触れた。

「なに

「何でもない……ごめん」

 兄はそう言って、やさしく僕の身体を抱きしめた。彼の体温は心地よかった。心臓の音がする。

「いい子だね、タキは」

 彼の全部が僕にとっては心地よかった。ずっとこうしていたい。

「いい子だ……」

 星空は本当にどこまでも広がっているように見えた。魔法で天井なんて消えていた。どこまでも、真っ暗な空と星とが追いかけ合うように続いている。

 僕はいつまでも、ずっとそれを見ていたかった。




あに

 

「ちじょう……たいよう、ほし……」

 僕は昔は地上にいたことがあるはずだった。僕も誰かから生まれた。でも、何も思い出せなかった。

 この部屋の外はどんな風になっているのだろう。

 僕はドアの前に立ってみる。

 カードキーがないとこのドアは開かない。それを持っているのは兄か父だけだ。この先がどうなっているのかは知らない。

 もっと色んなことを知りたい。見てみたい。

 でも以前、ちらりと見せられた現在の地上だという風景は恐ろしかった。たくさんの家がぼろぼろになって、見たことのない動物が、腐って倒れていた。死んでいるのだと兄が言った。

 兄はそれを、小さな機械の画面で見せてくれた。絵本に飽きてしまいがちな僕のために、兄はその機械でたまに、いろんな絵や映像を見せてくれるようになっていた。

「この辺はね、昔、カナガワって言われてたところ」

「かな……

「僕が生まれたあたりだよ」

 映像の中に人の姿はどこにもなかった。死んだ動物にハエがたかっていた。僕も地上に出たらああなってしまうのだろうか。

「ほら、怖いだろ

「でも……」

 それでも僕は地上へのあこがれを捨てきれなかった。兄がそれをよく思っていないこともわかっていた。

 でも、僕はこの部屋の中しか知らない。太陽も海も何も知らない。

「外出たい」

「ダメだ」

 兄は急に冷たい顔になって言った。

「じゃあ、そこでいい」

「え

 僕はドアを指差す。

「その外でいい」

 どれほどの距離でなくても構わない。とにかくこの部屋を、出てみたかった。

「ちょっとでいいから」

「タキ」

「お兄ちゃんは出れるのになんでだめなの」

「タキの身体は汚染されてて……」

「外に誰かいるの」

 兄は何も答えなかった。

「タキ」

 そのときになって僕は怖くなってきた。兄は父みたいに僕を殴ったりはしない。

「わがまま言うと、もう来ないよ」

 それは僕を心の底から恐怖させるのに十分な言葉だった。

「やだ

「じゃあ、わかるね

 確かに外には出たい。どうしたって出たい。でも、兄に嫌われるのだけは嫌だ。兄に会えないのは嫌だ。

 兄が来なかったら、僕はこの部屋で何をしたらいいのだろう。何もない。僕には何も。

「……うん」

 僕が頷くと、やっと兄は微笑んだ。

 その顔にたまらなく安心した。兄さえいてくれればよかった。毎日絶対に来てくれるなら、もうここから出なくてもいい。そう思った。


 だが、終わりは唐突に訪れた。僕は、兄からもらうこんぺいとうを、たまにこっそりとっておいていた。

 すぐに食べるように兄は言っていた。でも兄が帰ってからも、また食べたくなるに決まっていたから、僕はそっと食べたふりをして服の裾に隠したりしていた。

 それを、父が見つけたのだ。

「何でこんなものが……」

 裸にされたときに転がったこんぺいとうを見て、父は顔色を変えた。

「どこから盗んできた……!!

 強い痛みが顔に走った。殴られたとわかったときにはもう僕は床に転がっていた。

 でも痛みには慣れている。僕は父と会話をしたことがない。僕が言葉を理解しているかどうかなんて、彼にはどうでもいいことだろう。

「こっから出れたはずはない……」

 父はぶつぶつと呟く。

「海斗か」

 その名前の響きは、兄が教えてくれたとっておきの言葉と似ていた。違うのかもしれない。でも、同じかもしれない。

 兄のことをかばわないと。悪いのは僕だ。そう言おうとしたけれど、声は出てこなかった。喋れば父には殴られる。案の定、ぎろりとした目で父は僕を見た。

「海斗と会ったのか

 かいと、なんて人間は知らない。

「あいつが来たのか

 そんな人間は知らない。僕は何も知らないのだ。僕は小さく首を振る。でも父は到底納得していないようだった。どうしよう。このままじゃお兄ちゃんが怒られる、殴られる。

「あのクソガキ……」

 兄も殴られたらどうしよう。あの優しい笑顔がもう見れなくなってしまったら、僕はどうしたらいいのだろう。だけどそれほど長いこと考える時間も与えられなかった。

「どいつもこいつもバカにしやがって……」

 がんと頭に鈍い衝撃が走る。

「や……っ」

 僕はその時初めて、父に抵抗した。その腕にしがみつき、歯を立てる。

「クソガキが!!

 だが、体格が違いすぎた。僕はすぐに床にたたきつけられ、馬乗りになって殴られた。

 がん、がん、と殴られ続ける。じわりと頭が熱くなってくる。ぐらぐらする。でも僕の頭なんかはいい。兄だけは。……兄だけは。

「や……」

「声を出すな!!

 更に強く殴られ、一瞬意識が飛んだ。おぼろげな視界に、つまらなそうな父の顔がうつる。

 顔から液体が流れているのがわかった。からだのしくみの絵本を思い出す。体中に流れている赤いものは、ち。

「クソが、死ね」

 そう言いながら、無理やり僕をえぐり立てた。痛くて痛くて、また声が出そうになるのを必死で押さえた。

 もう慣れていると思っていた。

 でも嫌だ。

 でも辛い。

 誰か、助けて。

 ……お兄ちゃん。

 顔から流れた赤い液体が、白い床を汚していく。父は兄とは全然違う。父は僕を見ていない。僕を人間とは思っていない。

 ただ痛いことをするためだけの物体だ。


 それから数日、僕は床からなかなか起きられなかった。

 兄も来なかった。

 お腹は空くのに、食料を口にしようとしてもどうしてもできなかった。水でさえ飲みたくない。身体の中から逆に液体が出てきて、変な匂いがした。父にみつかるきっかけになったこんぺいとうは、まだ床に散らばっていたから、それをなめて食べた。

 何度も殴られたあたりが熱を持っていた。頭がぼうっとする。

「お兄ちゃん……」

 天井には「たいよう」なんてない。ただ白っぽい明かりだけがある。

 どうしてだろう。僕はなぜここにいるんだろう。父はいつ僕を拾ったのか。僕はどこで生まれたのか。何もわからない。「ぱぱ」や「まま」に会ってみたい。

 兄に聞いてみたい。困ったような顔をするだけかもしれないけれど。

 もっと話したい。いろんなことを。

 会いたい。

 兄の笑顔だけを心に思い浮かべていた。

 かろうじて水だけは口にしていたが、身体に力は入らないままだった。

 

 数日後、兄ではなく父がやってきた。ドアが開いたとき、彼の姿が見えて心底がっかりした。どちらにせよ、僕は起き上がれなくて、床でうずくまったままだった。

 その日の父は、前よりは随分落ち着いていた。

「あいつと会ったことがあるのか」

 僕は声を出さなかった。

 出したくなかったというより、衰弱していて何も言葉にならなかった。

「何とか言え

 がんと頭を蹴られる。せっかく少し落ち着いてきていた頭の痛みがぶり返す。父がわざわざ僕に聞くということは、兄はまだ無事だということだろうか。

「……っ」

「どいつもこいつも……」

 もっとひどい痛みに備えて、僕は身体を反射的に丸める。でも、次の衝撃は来なかった。

 ごほごほという音が聞こえて、父が壁に手をついているのが見えた。

「くそっ」

 体調がよくないみたいに見えた。いつも父は笑ってなどいなかった。でも、今日は特に嫌な顔をしている気がした。

「いいか、てめぇも餓死するだけだからな」

 父はその日、痛いことはしなかった。

 ひきつったような笑い声だけを残して部屋を出て行った。

 でもそれ以来、父も兄も、部屋に来なくなった。部屋に置かれていた食べ物は、じきになくなってしまった。


「たすけて!! お兄ちゃん!!

 ドアを叩いても叫んでも、何の反応もなかった。

 食べ物の次には、水がなくなった。僕はもう、起き上がることができなかった。

 たいして好きでもなかった食べ物だけれど、大事なものだったのだと気づいた。

 お兄ちゃん……。

「たすけて……」

 この際父でもいい。どちらかが来ないと、本当にもう動けなくなってしまう。僕はドアの前に這っていった。鉄製の重そうな扉は、僕が押してもびくともしなかった。上の方にある場所にカードを通さないとこれは開かないのだ。

 この間父は体調が悪そうだった。がんばればカードを奪えたんじゃないか。とても実現できないようなことを僕は思い描く。いや、ただ奪ってもどうせカードを通すところに手が届かない。足場がないと……。

 そんな風に、具体的に逃げる算段を練ったことはなかった。

 ここを出たとしても、僕が汚染されているのだとしたら、別の人に会うことはできない。

 いや、でもそもそもここには父と兄以外いないはずだ。別の地下にも逃げた人はいるらしいと兄は言っていた。でも、別の地下にどうやって行くのかわからない。

 地上は汚れている。でもどうせ、僕は汚染されているのだから、少しなら地上に出てもいいんじゃないだろうか……よくわからない。

 もしかしたら、他にも人間が生き残っているかもしれない。

 僕が遠くに行ったら見つけられるかもしれない。そうだ。兄にそう提案してみよう。兄や父は汚れないままで、僕が他の人を見つけてくる。そうしたらきっと父も褒めてくれるんじゃないだろうか。

 ほら、僕見つけたよ

 そうしてその見つけた人と一緒に戻ってくる自分の姿を想像した。手を繋いで帰ってくる。兄は笑っている。父も。そうして僕たちは新しい未来を作るのだ。

 ぼんやりと僕は地面を眺めていた。他にすることもなかったから。起き上がることもできなかった。

 今にも扉を開けて、兄が来てくれるところを想像する。

 ……タキっ!!

 目をつぶる。そうすると兄の幻が本当に見えてくる気がする。兄と初めて会ったときも、そうだった。僕は横たわって目を閉じていた。

 あの頃は本当に、することも何もなくて考え事さえできなかった。

 同じだ。僕はまた、何もない場所にもどってきた。

 兄と最初に会ったときの記憶はおぼろげだ。でも、僕を見た兄が怯えるような顔をしていたのを覚えている。

 あくま……

 そうだ、「あくま」って言っていた。なぜかよく覚えている。不思議な言葉だと思ったからだろうか。調べてみたいけどどうしたらいのだろう。

 兄はたまに、聞いても言葉の意味を教えてくれないことがある。

 なんだよ、これ……あの野郎

 兄は僕に話しかけてこようとはしなかった。父以外の人間を見たことがなかった僕も、何もできなかった。

 は……終わった……

 その頃の僕にとって、世界は薄ぼんやりとしていた。兄はしばらく僕を観察した後、何もせずに出ていった。

 何だったのだろう。でも、大して気にしてはいなかった。

 痛いことをする人じゃなくてよかった。そのくらいの認識だった。

「食べるか

 目の前に差し出されたのは小さなかけらだった。僕はさすがに警戒して、すぐには口にしなかった。

 でも、兄は自分でも口に運んで見せた。恐る恐る食べた一粒は、びっくりするような味がした。そんな僕を見て兄は笑っていた。その笑顔を見たら、この人は大丈夫だと思った。

 敵じゃない。

 それが「甘い」ということだとわかるのはもっと後になってからだ。

 兄はそれからぽつぽつとやってくるようになり、僕と会話をするようになった。

 いつもやってくる大人は「父」で、自分は「兄」だということ。人間はもう滅びてしまっていて、自分たちは地下でかろうじて生き延びているのだということ。

 僕はすぐに兄が大好きになった。でも、彼がときどき悲しそうな目で僕を見る理由はわからなかった。

 いつも僕は、後になってからしかわからなかった。

 何も知らなかった。大事なことを、何もわかっていなかった。

 だって、誰も教えてくれなかったから。

 

 

「タキ」

 小さな声が聞こえたときも、幻だと思った。

目の前にボトルが差し出されている。

「飲んで」

 言われるまま、僕は口を開く。そうしたい欲求なんてなかったけれど、ただ促されるまま水を飲みこんだ。

久しぶりの水は喉への刺激が強くて、俺は何度かむせた。

「ごめん、時間がないんだ……」

 兄は慌てた様子だった。父のことを気にしているのだとわかった。兄の顔が、紫色に腫れていたからだ。

 初めて父のことを、心から怖いと思った。彼は僕から兄を取ってしまう。

「これ、食べられるか

 兄はポケットからこんぺいとうを取り出した。あんなに好きだった甘いお菓子も、でもあまり食べたいとは思えなかった。体の中が固まってしまったみたいだ。

「タキ……ごめん」

 よく見ると、顔だけではなかった。兄の腕にもつかまれたような痣があった。見えないけれど、きっと他のところにもあるのだろう。

「時間がないんだ、また来るから」

 兄はそう言って背を向ける。手を伸ばしたのは、とっさの反応だった。

ふらつく体のどこにそんな力があったのか、僕自身わからなかった。

兄の服をつかみ、体重をかけると、彼が立ち止まる。

「いなくならないで」

 僕はぼろぼろと泣いていた。痛いのならいい。慣れているから。

でも、兄がいないのは耐えられない。彼が悲しそうな顔をしていたり、苦しんだりするのは嫌だ。

「ずっといて」

 涙をこぼす僕の顔を見て、兄はぽつりと言った。

「タキ、地上の話、しようか」

 僕はうなずく。その話をしてくれている間は、きっと彼がここにいてくれるだろうと思ったから。本当は、地上なんてどうだってよかった。

「モネの絵を見ただろ あの絵みたいに、地上は光で溢れてるんだ」

「うん……」

「地上は、本当にきれいなところ……だったんだよ」

 兄は泣きそうな声をしていた。本当に泣いているのかどうかは、よく見えなかった。

「きれいなんだ、地獄なんかじゃない。それだけでも、意味はあるんだ」

 必死に兄の服の裾を掴んでいたが、それも限界があった。体が自分のものじゃないみたいだった。

「もう戻らないと……。ごめん……ごめん、タキ」

 あまりにも短い時間だった。僕はその場にくずれ落ちる。

 兄の手が、僕の頭を軽く撫でる。

「またすぐに来るから」

 彼の姿が遠くなる。

 ひかりは、兄のイメージだ。柔らかくてあったかくて、ずっと触れていてくなるもの。そばにいてほしいもの。

 幻のような彼の像に手を伸ばした時には、もう彼の姿はなかった。

 僕は眠り続けた。体がだるくて、眠ることしかできなかった。


「タキ、起きて」

 兄の声がして、僕は浮上するみたいに意識を取り戻す。でも何を言われたのか、よくわからなかった。

「外に出るんだ」

 兄は硬い表情をしていた。やっぱり顔中あざだらけで、今日は白い布で片方の手を固定していた。僕は固まったまま、何の反応もできなかった。

 言葉が頭に入ってこない。もっとゆっくり説明してほしい。

「な……に

 だけど兄は怖いくらい真剣な表情をしていた。

「でも、外は……」

「タカツキユウキ」

「え

「誰かに何か聞かれたらそれだけ答えるんだ、わかった

 兄は僕の肩に手を置いて言った。彼の手は、強く僕の肩を掴んでいて痛かった。とにかく尋常じゃない雰囲気だった。

「繰り返して」

「な……そんな、僕」

 聞いたことのない言葉をいきなり言われてもわからない。

「覚えるんだ。タカツキユウキ。言って」

「タカツキユウキ……」

「よし、偉いぞ」

 地上に出るなんてできないはずだった。父はどこで何をしているのか。怒られるんじゃないか。わけがわからなかった。でも、有無を言わせない雰囲気だった。

「お兄ちゃんは……

 兄は少しだけ目を細めて僕を見た。

「俺のことは忘れるんだ」

 そんなことできるわけがない。俺が彼の服を掴もうとしたところ、逆に肩を強くつかまれた。

「い……っ」

「いいか、全部忘れるんだ」

 僕の言葉を遮り、目を見つめながら兄は強く言った。

 忘れる。お兄ちゃんのことを。

 できるわけない。絶対に嫌だ。そう思ったらぼろぼろと涙がこぼれてきた。

 でも、兄はそれで動揺したりはしなかった。俺の肩をなおも強くつかんだまま、厳しい目をしていた。

「いいか、地上に出たら、走るんだ。とにかく誰かに会うまで走るんだ。わかるね

 嫌だった。誰か 地上 誰もいるはずなんてない。僕は地上に出られるのか わけがわからない。でも、嫌だと言ったら兄に叱られると思った。だから頷く。

「いい子だ」

 あれほど地上に行きたいと願ってきた。でもそれはいつかたどり着く楽園みたいな、ほとんど想像上の場所だった。こんな風に放り出されるみたいに行きたいわけじゃなかった。

「お兄ちゃ……」

「お前に兄はいない」

 がんと頭を殴られたような衝撃があった。冗談かと思った。でも、兄は笑っていなかった。

 捨てられる。僕はそう直感した。

「誰かに会ったら、さっきの言葉を言うんだ。わかった

「な……僕、お兄ちゃん、と……っ」

 兄は僕を捨てるのだ。

「お前は賢いから、わかるね

 兄は有無を言わせない強さで僕の目を見た。

「……う、ん」

「偉い」

 兄は僕の頭をわさわさと撫でた。そうして僕が、大好きな優しい顔で微笑んだ。

「愛してる」

 僕はその言葉の意味がわからなかった。ただ捨てられるのだという確信だけで胸がいっぱいだった。

「愛してる……これだけは本当だ」

 嫌だと叫びたい。でも兄はきっとそんなことをしても考えを変えたりしない。ぼろぼろと壊れたみたいに涙が流れ続ける。

「さぁ。行くんだ」

 とんと背中を押された。嫌だ。僕を捨てないで。

 お兄ちゃん。

 でも僕は振り向くことさえできなかった。

 兄が絶対だった。彼が行けと言ったら、行かないとならない。走れと言われたら走らないと。

 兄が好きだった。

 彼が僕の、すべてだった。


 気がつくと天井がなくなっていた。僕はわけもわからず走った。兄がそうしろと言ったから。それだけだった。

 ……地上

 周囲はぼんやりと薄暗かった。

 足に固い地面が触れる。大丈夫なんだろうか。地上を歩いたらもっと汚染されて、もう二度と兄に会えなくなってしまうんじゃないか。でも走らないと。

 ここは地上なんだろうか 本当に

 うまく足が進まなかった。地面も壁も固い。地下の白い床とは違う。風景がぐらぐらする。どこもかしこも灰色で、まっすぐな線ばかりで、とてもきれいなところには見えない。

 ここはどこなんだろう。涙はぼろぼろと流れ続けていた。

 どうして兄は僕を捨てたんだろう。僕ができの悪い子どもだからだろうか。それとも別の弟ができたんだろうか。父は追ってはこないのか。兄は無事だろうか。

 お兄ちゃん。

 僕はただ走り続けた。兄がそうしろと言ったから。どこかで兄がまだ僕を見ていてくれているのじゃないかと思った。だからちゃんと、言いつけを守っているところを示したかった。

 涙は相変わらず止まらなかったし、足は痛かった。何か丸いものを踏んで転び、足から血が流れた。

 これが僕の憧れていた地上なんだろうか。こんなものが

「大丈夫

 やばいと思ったときにはもう、そばに人影が立っていた。

「どうしたの

 びっくりしたような顔で、その人は僕を見ていた。逃げようかと思った。だけどもう、僕は立ち上がれなかった。

「何、この服……」

 その人はしゃがんで僕に目線を合わせてくる。兄より少しふっくらとした輪郭。この人はどうしてこの地上を普通に歩いているのだろう。この人もやっぱり、汚染されているんだろうか。

「どうしたの、怪我してる どこから来たの

 人間はもう滅びたはずなのに。じゃあこの人は人間じゃないんだろうか。髪の毛が長い。見たことのない服を着ている。わからない。

「大丈夫、怖くないから」

 差し出された手を見て、僕は反対に一歩後ずさる。

「た……」

 とにかく、兄に言われたとおりにしないとと思った。

「え、何

「タカ、ツキ……」

 何を言えばいいのかは覚えている。ちゃんと。

 意味なんてわからないけれど。覚えろと言われた。だからちゃんと覚えている。

「『タカツキユウキ』……」

 ちゃんとできた。だから褒めてほしい。もう一度頭をなでてほしい。

「名前 あなたの名前なの どこから来たの

「タカツキユウキ……」

 僕はただそれだけを繰り返した。兄に言われた通りに。

 目の前の誰かは、あきれた様子で、そのうち何やら話をし始めた。僕に話しかけているわけではないみたいだった。

 足が痛かった。これでいいんだろうか。僕はちゃんとやれたんだろうか。兄に聞きたい。いい子だとまた言ってほしい。でも兄はどこにもいない。

 どうして一緒に来てくれなかったのだろう。

 どこにも行かないでと言ったのに。

「ええ、そうです。ぼろぼろで……汚れてて」

 真剣な顔で話をしながら、その人は僕の方をちらちらと見た。

「名前を、『タカツキユウキ』って言ってます」

 でももう僕は、どうだってよかった。これからどうなろうと、関係ない。

 もうきっと兄には会えない。この先何があっても、彼と一緒にいることはできない。涙がぼろぼろとこぼれ続けた。体中の水分が全部出てしまうんじゃないかと思うほど。

 彼が好きだった。

 彼だけいればよかった。

 でももう、会えない。

「いえ、迷子というよりどこかから逃げ出してきたみたいで……なんだか、まるで、監禁でもされていたような……」

 女の人が声を震わせる。

 

 もう兄には会えない。

 僕は、捨てられたのだ。