〝研究室に泊まり込みしてます〟

〝お疲れ、大変だな〟

〝研究終わるまであと三日くらいこのままっぽいです〟

 

 俺は、気がつくと毎日のように下田代とやり取りをするようになっていた。

 家には二週間ほど行っていない。俺は仕事が忙しかったし、下田代も研究が大変なところらしい。

 避けられているわけではなく、あくまで偶然だろうと思う。

 

「彼女すか、古津さん」

「いや、友達」

「最近ずっとラインしてますよねー」

「たまたまだろ」

「にやにやしちゃってー」

 

 同僚にも笑われる始末だ。俺は一体どんな顔で下田代と連絡をしているというのだろうか。思わず顔を押さえる。

 俺が忙しいのは本当だ。でも、無理をすれば行けないわけではなかった。それはわかっている。理由をつけて、後に伸ばしているのだ。

 でも俺はともかく、下田代にそんな行動を取る理由はないはずだ。お互い何となく怖くて先延ばしにしているなんて、そんなわけはない。

 

「別に、そういうんじゃない」

 

 何はともあれ仕事だ。下田代もちゃんと勉強をしているのだろうし、俺も社会人として恥ずかしくない姿を見せなければならない。

 家に行くのは……その、もうちょっと気持ちが固まってからでもいいだろう。そう思っていた。

 今までずっと男として生きてきて、恋愛対象は女性だった。下田代のことは嫌いじゃないし、彼に触れられて気持ちがいいのも事実だ。でも、そのことをどう整理したらいいのかはいまだにわからない。

 今度彼の家に行ったらきっと、俺の人生は変わってしまう。

 それがいつのことになるかはまだ、わからないけれど。

 そんな風にもの思いしながら仕事をしていたせいか、進みは悪く、実際忙しいのになかなか片付かなかった。夜十時を過ぎて、同僚たちの姿も少なくなってくる。

 

「なぁ今日ちょっと飲み行かないか? 疲れただろ?」

 

 そんな風にふらっと現れた同期に誘われた。下田代は研究室に泊まると言っていた。だから彼の家に行くかどうか、俺はまだ悩まなくてもいい。

 同期との飲み会は職場の愚痴と女の話ばかりだが、とても気楽だ。実はないけれど、俺はこういうだらっとした何でもない飲み会が結構好きだった。

 案の定、ビールを飲みながら部長の悪口や課長への不満に花が咲いた。楽しくないわけでもないけれど、とびきり刺激的というわけでもない。適当に話を続けて、だらだらとビールを飲み続ける。

 俺は何となく携帯を見た。特に誰からの連絡もなかった。どうせ仮に、酒の勢いで下田代の家に行ったところで誰もいないのだ。

 ――そうするつもりがあるわけじゃないけど。

 

「古屋お前は?」

「え、何が?」

「聞いてないのかよ。もしかしてマジで彼女できた?」

 

 もし下田代と付き合うことになったら、こいつらに何と言って誤魔化すべきだろうか。相手は大学生だ、とだけ伝えたら面白い反応が見れそうだなと思う。

 

「いないって」

 

 俺は笑いながら口にした。中身が半分くらいのビールジョッキを眺めながら、いつの間にか自分が、下田代に抱かれるその後を考えていることに気づく。まるでそうするのが当たり前かのように。

 俺は社会人で、彼より年上で、今までずっと男としてそれなりに恥ずかしくない生き方をしてきたはずなのに、本当にそれでいいんだろうか。

 ジョッキの表面を水滴が滑り落ちていく。仕事で疲れているせいもあってか、思いのほか酔っ払った。

 同期たちはすっかり次の店に行く話をしている。当たり前のように自分も行くことにされていた。キャバクラで喋るような元気はないな、と思いつつ振り切って帰ることもできないでいると、いつの間にか飲み屋や風俗店のひしめく地域に足を踏み入れていた。客引きの声がうるさい。

 

「あー、ここ、あれだよ」

 

 ある一軒の店を指さして、同期が言った。地上にはよくある感じのキャバクラがあり、更に地下にも何か別の店があるようだった。以前、このあたりで地下の店に入った記憶があるような気がする。

 

「前に来たことあるような気がするけど」

「ハプバー? みたいなとこだろ?」

「そうだったか?」

 

 俺は特に好んでそういう場所に出かけたことはない。だったら記憶違いなのだろう。俺が前に足を踏み入れた時には、単なるバーだったように思う。酔っていたし、三次会か何かだったのであまりよく覚えてはいない。確かに、照明は暗くてちょっと雰囲気はあったけれど……。

 階段を男が上ってくる。短い髪は茶色く染められていて、ピアスをしているのが目に入る。

 

「あ」

 

 酔っていてもさすがにそれが誰かくらいはすぐにわかった。下田代だった。

 

 ・

 

 酔いはほとんど醒めていた。

 

「何びくびくしてんすか?」

「してない。今日は俺のおごりだ」

 

 俺は下田代と、さっきとは別の居酒屋で向き合っていた。同期とは適当なことを言って別れた。

 下田代はちょうど仕事終わりだという下田代を引っ張ってきたのは、むしろ俺の方だった。でもいざ向き合ってみると、どうしていいかわからない。

 どこにでもあるような海鮮居酒屋だった。もうすぐ終電の時間が近いとちらと思う。

 

「じゃあキャビアのカクテル」

「そんなもんこの店にないだろ」

「え、海鮮の店すよね。マジすか?」

 

 前言撤回だ。下田代勇夫は嘘つきである。それは間違いない。信じるなんて口にした俺がバカだった。

 彼は研究室には泊まっていなかった。卒論はもう提出済みで行く必要がないのだと彼はあっさり白状した。

 

「お前、前に言ってたよな。わざわざあのアパートの引っ越した、って。俺のことを、前から知ってたんだよな?」

「あれ、ビール足りなくないすか。次何飲みます?」

「はぐらかすな」

 

 俺は最初から、もっと疑うべきだったのだ。

 下田代は、たまたまあのアパートの隣の部屋を盗聴したわけじゃない。もとから言っていた。「わざわざ一人暮らしをそのために始めた」と。

 普通の人間はなかなかそんなことはしない。ありていに言えばストーカーだ。ストーカー行為は、相手のことを知っていないとできない。

 じゃあ、下田代はいつ俺を知ったのだろうか。

 

「お前が働いてるあの店……そういう店なのか?」

 

 前に下田代は女王様がどうこうと言っていた。きっと俺の知らない世界が夜の町には色々とあるのだろう。だが、俺はSMやら何やらの店に行ったことはない。

 

「別に怪しい店じゃないすよ。日によって違うんで、ゲイバーの日もあれば、女王様ファンクラブの日もあるって感じで」

 

 十分に怪しい。俺は下田代の顔をじっと見る。家にいるときはしていなかったピアスだった。

 それをしているだけで何というか、健全な大学生らしさから遠ざかる気がする。どことなく怪しげで、色気があって……。

 

「ピアスうらやましいんすか? あ、俺古津さんの耳に穴開けたいな」

「何を突然……」

「俺の手で傷付けたいすね。柔らかいとこ、固いので刺し貫きたい」

 

 うっとりとした顔で下田代は言う。俺は今まで特にピアスをつけたいと思ったこともなかったから開けてはいない。

 

「俺の推理を話すぞ。多分俺はたまたまあのバーに行った。お前はそこで働いてた。俺と連れはたぶん、特にそういう趣向もないし、単純に酒を飲んで帰ったんだろ。だけどお前は俺のことが気になって、それで鞠子の部屋の隣を……」

 

 俺の住んでいる部屋の上下左右は埋まっている。さすがに借りられなかったのだろう。だから、たまたま空いていた鞠子の部屋の隣を狙ったのだ。

 

「古津さんは名探偵にはなれないすね」

 

 下田代は酒に口をつけながら笑った。

 

「なんだよ、どう考えたってそうだろ」

「自分が店に来た一瞬で一目惚れされるような人間だと思ってるんすね」

 

 淡々と指摘されて、かあっと顔が熱くなる。

 

「ちが、それは……他に考えられなかったから、そう言っただけで」

 

 男に一目惚れされて執着されるほどの魅力が自分にあると思っているわけではないはずだった。今更恥ずかしくなってくる。

 

「耳まで真っ赤すよ」

「やめろ……」

「めっちゃかわいいな」

 

 もとはといえば、下田代がいけないのだ。ストーカーじみたことをしておいて、その理由も話さない。だから俺が推理なんてするはめになる。

 だってどう考えても、俺と下田代に面識はない。俺は彼の通う大学に行ったこともないし、大学生の知り合いもいない。下田代とはどう考えても、生きている世界が違う。

 

「まぁ半分、正解なところもありますよ。俺はあんたを久しぶりに見つけて、それで縛ったり、飯食わせたり、それ以上のこともしたくなった」

「久しぶり……?」

 

 俺は思い返そうとする。こんなちゃらい大学生と、接点はなかったはずだ。目が合うと下田代はにこと笑う。見覚えなんてないはずだった。

 いや、久しぶりと言うからには、もっと前なのか。

 十代の下田代の姿を想像してみようとする。髪は染めてないだろう。ピアスもない。もっと垢抜けない感じかもしれない。

 もし仮に十年前なら俺は二十歳で、下田代は十歳だ。背だって低かっただろう。たぶんバンドのTシャツも着ていないし、小難しい教科書も読んでいない。もっと全然違う服装かもしれない。

 俺と彼との接点。実家が俺の勤務先に近いと言っていた。とはいえ職場の近所の家に訪問するわけでもない。だとしたら、どこか職場の近所だろうか。小さい下田代と就職したばかりの俺がすれ違うところを想像する。

 目の前の青年から、服装も何もかも違う子どもを想像するのは難しい。

 でもかすかに思い出す。子どもとふれ合う機会なんて二十歳を過ぎてそうそうない。

 

「目……良くなったのか?」

「コンタクトっていうもんがあんの知ってますか」

 

 俺は何度もまばたきをする。記憶の中の子どもと、目の前の大学生とを重ねようとして。そんなに時間が経っただろうか、と思ったがもう俺が就職してから八年だ。

 八年あれば、十二歳の子どもは二十歳になる。俺がばたばたとサラリーマンとして日々を過ごしている間に、小学生も成人するのだ。

 

「公園に、いた子か」

 

 俺は新入社員だった頃、職場のそばの公園でよく飯を食っていた。

 いきなり入った職場は忙しくて、日付が変わるくらいまで帰れないこともよくあった。怒号の飛び交う職場で、心は荒れ果てていくばかりだった。だからせめて、食事くらいはゆっくり一人で取りたかった。

 公園は、俺の心の癒やしの場だった。もちろん夏は暑く、冬は寒い。それでも、快適な温度のオフィスより、俺の心は公園を求めていた。

 そのうちに、公園にも常連がいることがわかってきた。俺の他にも近所のじいさんや、向かいのビルのサラリーマンやOLや、何人かがほとんど一日とおかずに公園に来ていた。とはいえ、話しかけたりするわけじゃない。なんとなく顔を覚えてしまうというだけで、名前も知らない。

 彼はそんなうちの一人だった。

 眼鏡をかけた内気そうな少年だった。よく一人で携帯ゲームをプレイしたり、ボール遊びをしたりしていた。

 当時は今ほど不審者に対して厳しくもなかった。ボールが転がってきたのがきっかけだったか、言葉を交わすようになり、たまに一緒に遊んだ。仕事に戻らないとと思いながら、ボールを蹴るのは楽しかった。

 名前も知らない彼は、冷めた目をした子どもだった。塾には行かないのかと聞いたら、そんなとこで学ぶことは何もない、と言った。

 そのくせボールを蹴ってやると、楽しそうに追いかけていた。当たり前なのだが、こんな都心に住んでいる子どももいるんだと何だか不思議に思ったものだ。いじめられているわけでもなさそうだが、友達はいなさそうだった。

 ――僕は人と違うから。

 そんな風に言っていた。細身だけれど眼鏡の奥の目はきつくて、肉食の小動物みたいだ、と思ったことを覚えている。

 ――小さい頃はみんなそう思うからな。

 俺にとっては微笑ましい子どもの戯れ言だった。小さい頃はみんな、自分が特別だと思う。でも、そのうちに自分の平凡さを嫌と言うほど知る。

 ――でも僕は違う。

 ――はいはい。大人になったらわかるんだよ。

 頭をぽんと軽く叩くと、大抵少年は黙った。

 ――じゃあ俺が大人になったら見てろよ。

 ――わかったわかった。

 一年ほどそんな時間が続いただろうか。俺は職場を異動になり、そこはそれほど忙しくなかった。同僚とも打ち解けて、ランチには一緒に店に行くことが増えて、自然と公園には行かなくなった。

 たまに少年は元気かなと思うこともあった。だけど幼い彼の世界こそ、一年程度でもきっと激変しているだろう。時間が経つのはあっという間だ。いつしかそんな風に思うことも、ほとんどなくなっていった。

 

「大きくなったなぁ」

「いきなり親戚の叔父さんみたいなこと言うんじゃねぇよ」

 

 怒った口調は、どこか照れているようにも聞こえた。

 

「なんで言わなかったんだよ」

「言って何になるんすか」

 

 下田代は気まずいのか、不機嫌そうだった。だまって刺身を口に運んでいる。こんなときでもよく食べる。

 

「言ったじゃないすか、別に俺は『昔から大好き』とかそういうの信じないんで。行動だけっすよ、人間。行動が答えです」

「引っ越して盗聴したのが、お前の答えか」

 

 俺は名前も伝えなかったし、もう公園にも行っていない。あの店を俺が訪れなかったら、接点はないままだったかもしれない。でも彼は八年が経っても俺を覚えていたし、再び見つけたのだ。

 もし彼のことを気にかけて公園にもっと行っていたら、と思う。でもやっぱり、高校生になった彼と連絡を取り続けるなんてことは難しかったかもしれない。

 

「引っ越しも盗聴も、金も体力もかかるんすから、そんなの好きじゃなかったらやらなくないすか。てかこれ前にも言いましたよね」

「開き直るなよ、ストーカー」

 

 じゃあ俺の行動は、どういう答えなんだろう。

 何をされても、下田代の部屋に通い続けている。そして次に行ったら、行為は一線をきっと越える。そんな関係なのに、俺は居酒屋で彼と向かい合って、笑って酒を飲んでいる。同僚たちといたときより、随分打ち解けた気持ちで。

 ――嬉しかった。

 あのときの子どもが元気そうなことが。まだ俺を覚えていてくれたことが。

 

「俺のおごりだからな、好きなだけ飲めよ」

「じゃあドンペリで」

「あるわけないだろ」

 

 こうして彼と一緒に外で食事をするのは初めてだな、ということに気づく。というかそもそも、外で会うことが初めてだ。何だか変な気分だった。

 

「ここ、職場の人とかと来るんすか?」

「ああ、よく飲み会する」

「じゃあ知り合いに会うかもしれないじゃないすか」

「そうだな」

「俺といたら変に思われません?」

「なんで」

「だってこれ、もし俺が女子大生だったらちょっとやばいすよ」

「お前は女子大生じゃないだろ」

 

 でも彼の言わんとするところは何となくわかった。俺と彼とには年齢差があるし、端から見たらちょっと奇妙な二人なのかもしれない。

 でもあの公園でボールを蹴っていたときだって、きっとちょっと変な二人だった。それに彼も今は成人している。俺たちに年齢差はあっても、それゆえの力関係はない。たぶん。どちらかというと俺の方が弱いくらいだ。

 

「何か言いたいことがある奴らには言わせておきゃいいだろ。関係ないんだし」

 

 少なくとも俺は恥ずかしいことは……いや、恥ずかしいことはあるが、法に背くようなことはしていない。だいたい、俺たちの場合、主に貞操の危機にあるのは俺なのだ。むしろ俺のことを誰かに心配して欲しい。

 それから少しだけ酒を飲み、どうでもいいことを話した。肝心なことには触れなかった。

 お互い、何かを避けているかのようだった。もう終電の時刻は過ぎている。明日は休みだ。でも、俺はどうしたらいいのか。

 思い切り酔ってしまって、何も判断できない状態になってしまった方が楽なのかもしれない。そう思うのに、なぜか酒もあまり進まない。下田代もあまり飲んではいなかった。よく食べてはいたが。

 

 

 会計は思ったほどの金額にはならなかった。この店にキャビアもドンペリもなくて助かった。じゃあ今度はどっちもあるバーにしましょう、と下田代が言う。俺は軽く彼の頭をはたく。

 

「もうタクるしかないっすねー。とりあえず駅行きます?」

 

 それ以降お互い何も言わないまま、タクシー乗り場のある駅への道を歩く。

 一歩一歩足を進めながら、わからない、わからない、と思う。俺の方が年長だから、何か言うべきなんだろうか。

 でも下田代は、繰り返し「行動しか信じない」と言っていた。それが彼の家庭事情に関係したことなのか、理由はわからない。でもつまり彼が言いたいのは、好きとかそういう言葉が欲しいんじゃなくて、行動で示せということだ。

 それならば俺は、彼の家に行けばいいだけで――。

 

「俺は行動しか信じないって言ったじゃないすか。でも古津さんが違うんなら、言ってもいいすよ」

 

 唐突に、道の途中で下田代は口にした。俺は思わず立ち止まって、彼の顔を見る。

 下田代は笑っていなかった。今までにないほど、真剣な表情をしていた。

 

「俺は古津さんのことが前からずっと好きで、エロいこともしたいし、いや、その前にまず、付き合ってほしい。そんで、その後も一緒にいてほしいんです」

 

 それはてらいのない、普通の言葉だった。ごく普通の、俺でも理解可能な告白だ。

 俺はぽかんとして、一瞬声を失ってしまった。その反応をどう受け取ったのか、下田代は悪態をつく。

 

「クソ、だから嫌なんすよ、こういうの」

「おい」

 

 照れたのか、下田代はそっぽを向いてしまう。

 

「だせぇ」

「いや、普通なのがいいんじゃないのか……前衛的な告白とかされても、伝わらないだろ」

「じゃあ伝わったんすか?」

「だからこれからお前ん家に行くんだろ」

 

 俺は何の変哲もないその道の途中で、下田代の手を握る。きょとんとした顔で下田代はそれを見ていた。俺はぐいと彼の手を引く。

 

「来いよ。タクシー、乗るだろ?」

 

 ・

 

 かっこよく口にしたものの、俺の威勢は下田代の部屋についてから一分も保たなかった。部屋の中に入るなり抱きしめられ、「縛りたい」と言われた。急に体の芯に熱が通ったように、じわりと性感がうずく。

 

「古津さんがされたくないっていうなら、やめときますけど」

 

 間近で囁かれて体が固まる。そんな風に選択肢を与えないで欲しい。

 

「でも、古津さんはいつにも増して縛られたいんですよね。だってそうしたら、『拘束されて仕方なく挿入された』って言い訳ができますしね」

「お前、何か怒ってんのか?」

 

 せっかくタクシーで部屋にまで来たというのに、責められるのは納得がいかない。

 

「別に、覚えててくれて嬉しかったすよ」

「ボール遊び、またやりたいならしてやるぞ」

「大人のボール遊びすか?」

 

 確かに全身を拘束された状態なら……俺はどうなっても「仕方なかった」と言い訳できる。いや、でもそもそもその状態になることに同意したのだったら、同じではないのだろうか。

 下田代は無理やり写真を撮ったり、俺に強制的に何かをさせたりはしない。だから結局、俺は同意しているということで……。

 

「とりあえず、こんなとこじゃなくて部屋入った方がいいだろ」

 

 俺は下田代の腕を逃れて、靴を脱ぎ捨てて部屋に上がる。相変わらず下田代の部屋は片付いていた。どうやら体調は悪くなさそうだ。

 俺はベッドの脇に仕事鞄を置く。それからまだしたままだったネクタイを緩めたが、そのときになってじっと下田代に見られていることに気づいた。

 

「服、脱いで下さい」

 

 じっとりと空気が粘性を帯びる。俺はこういう状態で、彼に言われると抗えないのだ。なんでだかわからないけれど。

 脅されたり嫌な思いをしていたら違ったのかもしれない。もしこれが下田代の戦略なら、彼の思い通りだ。

 俺はまずネクタイに手をかける。思い切り引き抜いて、その場に落とす。

 それからワイシャツのボタンを外していく。体がほてって感じるのは、きっと酒を飲んだせいだ。あるいは、玄関で抱きしめられたせいだろうか。

 ワイシャツの下にはタンクトップを着ている。それまで自ら脱ぐことには抵抗感があったけれど、でも今更だと思った。一気に脱ぎ捨て、上半身裸になる。

 下田代はその間、何も言わずにじっとりとした目で俺を見ていた。

 この先はどうしようか、と一瞬思う。でもやっぱり今更かと思い、俺はベルトに手をかけた。

 

「あれ、素直ですね」

「お前が脱げって言ったんだろ」

「俺が言ったら何でもするんですか?」

 

 俺は黙ってベルトを外し、ズボンを。ここまできてぐだぐだ言っても仕方がない。

 

「じゃあ四つん這いになって自分で後ろ慣らして『来て』って言ってくれって言ったらしてくれるんすね」

「お前な……」

 

 文句を言おうとした口を、突然に塞がれる。

 彼とはもう色んなことをしてしまった気がするのに、キスはまだ数回目で、何だか慣れない。

 

「ん……」

 

 俺の裸の胸を、下田代の手が撫でる。今までそんな風にされたことはなかった。乳首の先を手がかすめて、一瞬からだが震える。

 

「かわいい」

 

 職場のバスケチームも最近はさぼりがちだし、もう俺は三十歳だ。どこを見て言っているのかはわからないが、下田代は嬉しそうだった。

 

「縛ったら、今日は俺の入れるけどいいんですね?」

 

 そんな問いに俺が答えられるとでも思っているのだろうか。

 早く選択肢を奪って欲しいのだ。

 縛られるとき、俺はただ受け身の存在になる。何もできない。ただ彼に与えられるものを甘受するだけ。

 ――それが待ち遠しい。

 俺は答えの代わりに、下田代の腕を掴む。

 

「いいんすね?」

 

 もう一度耳元で囁かれた。何も言わないままでいると、裸の胸に、縄が回される。キスされたときよりもっと強く、俺の体は期待に震えた。

 下田代は縄で俺の頬を、喉を撫でる。縄は滑らかに俺の肌を滑っていく。

 

「やめてって言っても、奥まで入れちゃいますよ。全身縛られて、抵抗できなくて、もうやだって言っても、どろどろになった中に俺のを……」

「いい」

 

 俺を焦らして弄びたいのだろう。それはわかっていたし、付き合うのもやぶさかではなかった。でも俺は、自分から下着を脱ぎ捨てる。

 

「いいからしてくれ、早く」

 

 恥ずかしさより何より、純粋に彼を欲しい気持ちが勝る。

 

「素直すね」

 

 下田代は無邪気にも見えるような表情で笑った。その表情に、確かに八年前の子どもの面影はある気がする。でも、言われなかったら気づかなかっただろう。

 まさかあのときの俺に、「お前は将来その子どもに抱かれる」と言っても信じないだろう。俺だってまだ信じられない。

 

「うるさいな、お前だってしたいくせに」

 

 下田代はわずかに目を細めて俺を見る。

 

「我慢の仕方は、今度ゆっくり教えてあげますね」

 

 慣れた手つきで彼は俺の体に縄を通していく。全裸の状態でそうされるのは初めてで、下半身に通された縄が性器にこすれて俺は思わず身じろぎする。

 でもじきに、身じろぎすることさえ自由にできなくなる。

 縄は俺の又の間を通され、胸のあたりで交差し、背後に回る。ぎゅっと下田代が縄を締め付けてくるので、一瞬息が止まった。

 

「ん……っ」

 

 胸にも性器にも触れられていないのに、俺の口から出る声は甘い。

 そのまま腕を後ろ手に縛られ、俺は身動きが取れなくなる。でも下着も身につけていないので、萎えていないことは一目瞭然だった。どうしたって隠しようがない。

 

「あ……っ」

 

 みるみるうちに、俺の体中には縄が張り巡らされていた。縄は絶妙な強さで俺の体を締め付ける。苦しくないわけじゃない。でも苦痛というわけでもない。ぎちぎちと締め付けられているのに、不思議と安堵さえ覚える。上手というなら、確かに彼は上手なのかもしれない。比べようがないからわからないけれど。

 

「ちょっと胸、ありますよね。Aカップくらい?」

 

 縄で菱形にかたどられた俺の胸筋を、下田代の手が揉む。

 

「それは筋肉だろ……!」

「胸には違いないじゃないすか」

 

 胸の中心にある、固くなった乳首に下田代の手が触れる。それだけで、全身に響くほど気持ちがいい。

 

「……うっ」

「めちゃくちゃ敏感すね」

 

 わずかに身じろぎするたび、縄は俺の体を締め付ける。快感を逃がしようがなくて、動こうとすればするほど、かえってはまりこんでいくような感覚だった。彼の言った通り、もう嫌だとかやめてくれだとか口にしても意味はないのだろう。

 俺はつい、下田代の下半身に目をやる。

 

「お前も脱げよ」

「なんでですか」

「お前の裸も、見たい」

 

 下田代はちょっとびっくりしたような顔で俺を見ていた。ことを成すのに彼が全裸になる必要はない。でも、俺ばかり裸になって、着衣のままの彼に犯されるのは嫌だった。俺は今拘束されていて、彼の体に触れることはできないけれど、それでも同じがいい。

 

「見ても楽しくないすよ」

 

 そう言いながらも、彼はシャツを脱ぎ捨てる。インドア派なんだろうし、と思っていたが意外に体は引き締まっていた。

 

「お前も胸あるな」

 

 男の裸なんて見ても何も感じないと思っていたのに何だか気恥ずかしくて、俺は苦し紛れに言った。

 

「何すか、俺を縛りたいんすか?」

「それもいいかもな」

「自分が気持ちよくなることしか興味ない人にはできないすよ」

 

 そう言って、下田代は縄に挟まれた俺の性器の先を撫でた。

 

「っ」

 

 もう固くそそり立っているその先端から先走りがしたたって、縄を濡らす。

 自分が気持ちよくなることしか興味がない。下田代は違うというのだろうか。SMは実は、Sの方が奉仕しているとは聞いたことがある。Mが気持ちよくなれるように、サービスしてやっているのだと……。

 

「俺はMじゃないぞ」

「何言ってんすか? こんなになっといて」

 

 下田代の手が強く胸を摘まんで、「うっ」と声が漏れた。

 

「縛られて男の手であちこちいじられて、興奮してんすよね? あ、喋れないように何か口にくわえます?」

「いや、だ……っ」

 

 口まで塞がれたらと思うと何だか本当に怖くて、俺は慌てて下田代を止める。何か彼の納得するようなことを言わなければ、と思って慌てて口にした。

 

「キスできなくなるだろ」

 

 下田代が一瞬黙る。

 〝恋人っぽいことしてぇな〟

 下田代自身だって言っていた。

 新入社員の頃の俺に言っても信じられないだろうけれど、あの公園の子どもは、いつからか知らないけれど俺を好きなる。

 あれだけはっきりと普通の告白をされたら、俺だって誤解のしようがない。ちょっと愛情表現が普通じゃない気がするけれど……でも、下田代だって普通のまだ若い男だ。

 

「キスしろって言ってんだよ」

 

 下田代がなかなか動かないので、俺は仕方なく言った。照れ隠しまぎれに、怒ったような声で。

 下田代の手が、俺の頬に、耳に触れる。赤い、と彼は小さく言う。いちいちそんなことは言わなくたっていい。自分の顔が熱いことくらいわかる。顔だけじゃない。全身が熱い。

 

「ん……っ、あ」

 

 深く唇が合わさる。口の中は縛られていないから、俺も舌を絡ませることができる。ぎしと縄が軋む。舌の他に、俺には動かせるところがない。だから熱心に、下田代の舌を吸った。

 

「あ…っ、んっ、や」

 

 下田代の片手は俺の胸を撫で、もう片方の手は下半身に伸びる。この間玩具を入れられたところに、指が入ってくる。

 

「力、抜いて下さい」

 

 下田代はいつの間にかローションを手にしていて、その濡れた指が、中に入ってきた。

 

「あ……っ」

 

 胸をぐりぐりと刺激されながら、指を奥に入れられる。どうしたって身動きしてしまって、縄が体に食い込んでくる。この刺激をどこかに逃したい。でも、俺にはどうにもできない。

 

「ちゃんと慣らさないと、入らないすからね」

「あ…っ、んん……ぅ」

 

 変な感じだった。この間、玩具を入れられた時よりも指を入れられると、直接内臓を触られているような感じがする。すべてを下田代に握られている。でも、不安はまるでない。これまでに散々、慣らされてしまったからかもしれない。

 

「ああ…っ、だ、めだ、そこ……っ」

 

 俺が反応をしてしまう場所を、下田代は執拗に刺激してくる。気持ちがいい。どんどん快感が高まっていくのに、逃がすことができない。性器に触れることもできず、射精もできない。熱はじっとりと腰のあたりにまといつく。

 

「ん……っ」

「後ろ向いて、古津さん」

 

 下田代は俺をうつぶせにする。俺は自分の性器を、シーツにこすりつけたくてたまらないのをこらえる。

 今の俺は自由を奪われているのだから。下田代のものなのだから。その考えが、もはやちっとも怖くなくなっていることに気づく。もしかしたらそれこそ、本当は一番恐ろしいことなのかもしれない。

 

「腰、上げて。俺が入れやすいように」

 

 強制するわけでもなく、懇願するわけでもなく下田代は平坦な声で言う。

 俺はその通りに、尻を突き出すような格好になる。嫌だとか、ふざけるなとか言うこともできるはずなのに、俺は彼の言葉に自ら従っているのだ。

 十も年下の男の言葉に、縛られたままで。何が起きるのかはわかっているのに。これから起こることを想像すると、全身が震えた。

 

「いい子すね」

 

 下田代の目が、俺の恥ずかしいところを観察しているのがわかる。

 俺はシーツに顔を押し当て、何も見ないことにする。下田代の手が俺の背を撫で、ゴムをつけたものが押し当てられる。思わず反射的に体がすくんだ。

 

「怖くないから、ゆっくり息吐いて下さい」

 

 そんなの、どう考えたって怖いに決まっている。指より器具より、どう考えたって大きい。

 

「入れますよ」

 

 いちいち下田代ははっきりと口にするので、見えていなくてもよくわかった。押し当てられ、そしてゆっくりと入ってくる。体が震えて、声が殺せない。

 

「ああ…っ」

 

 圧迫感はあるのに、痛みはほとんど感じなかった。じわじわと彼の形に広げられ、息苦しくて俺は荒い息をする。そのまま下田代は奥まで体を進めてくる。いっぱいに含まされたものの質量を強く感じる。

 指や玩具とは、感覚が段違いだった。唾液が口の端からこぼれる。

 

「あ、や……っ、う」

 

 何とか受け入れるので精一杯だった。刺激が強すぎてどうにかなりそうだ。苦しくて、俺は必死に呼吸を繰り返す。

 

「大丈夫すから、力抜いて」

 

 耳元で下田代が言う。いつもと少し違うトーンの、静かな声だった。その吐息にさえ、俺の体は震える。

 何とか強ばった体を緩めると、よりいっそう奥にまで入ってくる感覚があって、すべて埋められたのだと気づいた。

 

「んっ」

「大丈夫すか?」

「や……大丈夫なわけな……あっ」

 

 軽く揺さぶられて、埋められているだけで精一杯だった俺はもがいた。でも手も足も自由に使えないから、本当にされるままになるしかない。

 

「ま……っ、待て」

「だって気持ちいんすもん、古津さんの中」

 

 下田代は焦らすことなく、深いところまで挿入したものを揺さぶり、軽く引き抜いてはまた突き上げる動きを繰り返す。挿入したそばから容赦がなかった。

 もっとゆっくりしてほしい。文句を言いたいのに、俺の口からはまともな言葉が出てこない。開いたままの口から唾液がこぼれる。揺さぶられ、角度が変わるたび、内壁を擦られる感覚に目眩がする。

 

「う…っ、あ、あ…っ、や」

「すげぇ、気持ちいい」

 

 俺の背中を軽く撫でて、下田代は言った。こんなこと、今まで経験したことはない。するとも思っていなかった。

 じわじわと挿入されたものが引き抜かれていく動きに、全身が震えた。

 

「ああ……っ」

 

 息を飲んだ次の瞬間には、一番奥にまで突き上げられた。びりびりと強すぎるほどの快感が全身に走る。

 自分の体が、彼を受け入れているという事実が信じられない。涙で視界が歪む。

 

「イけそうすか? 古津さん」

「や、もう……っ、あ」

 

 俺は唾液でシーツをべとべとにしている状態で、何もうまく答えられない。ぐいと肩を引かれ、振り向かされた。

 

「気持ち良さそうすね」

「ちが……っ」

 

 下田代の手が、俺の乳首を摘まむ。少し強いくらいの力で摘ままれて、挿入された下田代のものをきつく締め付けてしまう。

 

「ひ……っ、あ」

「やば」

 

 下田代は少し苦しげに言って、一瞬動きを止めた。そのまままた、俺は両方の乳首をいじられる。

 

「胸いじられると、中、きゅうきゅうしてますよ」

 

 わかっている。下田代は動きを止めているのに、俺の方が腰の動きを止められない。強い刺激を求めて、腰が動いてしまう。胸と奥と、両方の刺激が相まってどこもかしこも気持ちがいい。だけど自由に動くこともできず、俺はもぞもぞと身じろぎするしかない。

 

「あ……っ、やっ、いっ」

「すぐ胸だけでイけるようになりそうすね」

 

 下田代の声が、頭の中でまともな言葉にならない。身体の中をぐるぐると熱が回って、どこにも吐き出せずに俺はただ喘ぐしかない。

 

「や、あっ……ひっ」

 

 同時にゆるくまた律動されて、俺は彼の与える快楽にただただ翻弄される。

 

「胸にピアス開けるのとかどうすか? 似合うと思うな」

「……っ、絶対、やめろ……っ」

 

 振り向いて睨み付けると、文句を塞ぐようにキスをされた。

 舌と胸と奥と、三カ所を同時に刺激される。体の中でせき止められた快感は、ぐるぐると回って苦しいくらいだった。

 

「ここにこう、針を通したら気持ちいいすよ」

 

 下田代はしつこく胸の先をいじってくる。そうされると、奥深くに挿入された下田代のものを締め付けてしまい、より彼のものが大きく感じられる。

 

「や……っ、め」

「ああでも、後ろだけでイくようになってもらうのが先かな」

 

 何を言われているのかもうよくわからなかった。

 彼のものに絡み付こうとする内壁を、容赦なく穿たれる。擦り上げられ、弱いところを刺激される。

 それからは何を口走ったのかほとんど覚えていない。気持ちいいとか、もっととか、下田代の促すままに俺は繰り返しただけだったからだ。

 恥ずかしい言葉を口にするほど、体は熱くなって気持ちよさは高まった。俺は縛られ、男に挿入されて「気持ちいい」と喘いでいる。そう自覚するとぼろぼろ涙がこぼれて、でも後悔はなかった。そんな風に考えるだけの余裕もなかった。

 腰を掴まれ、時に浅く、時に深くまで突き上げられるとそのたびに今まで感じたことのないほどの快感が走って、俺はただシーツに顔をこすりつけ、喘ぐしかなかった。

 下田代はやたら俺の体の状態を克明に告げてくる。顔が赤いとか、勃っているとか、中がひくひくしてるとか、イったとか。

 

「や、――っ」

 

 びくんと体を震わせ、下田代のものを食い絞めるようにして、俺は達していた。涙や唾液で顔はぐちゃぐちゃで、縄で縛られた体はあちこちが痛かった。でも、今までのどんなセックスでも、こんな快感を覚えたことはなかった。 

 

「俺もイっていいすか?」

 

 なぜ俺に聞くのだろう。朦朧とした意識のまま、俺は頷く。達したばかりの体をこねまわすように突き上げられて、悲鳴のような声が漏れた。

 乱暴なほど強く深く貫いたあと、俺の奥で下田代がイくのがわかった。奥がじわりと熱いもので濡らされる。

 

「お前、ゴム……」

 

 下田代のものが引き抜かれたとき、俺の中から吐き出された精が溢れるのがわかった。

 

「大丈夫すよ、後始末もしてあげます」

 

 だからといって、そんな風にされるとは思わなかった。腿を伝っていく液体の感覚が気持ち悪い。でも、俺は何もできない。悔しくて睨み付けると、なだめるようにキスをされる。

 

「すみません、そんな顔しなくても」

 

 それから彼は黙って俺の拘束を解いていった。魔法が解けるように、ふっと体が弛緩する。

 俺はこのまま一生起き上がれないんじゃないかと思った。解放されたはずなのに、まだ体は拘束されているような気がするし、奥には下田代のものを含んでいるような感覚が残っている。

 指を突っ込まれ、中から下田代の出したものを掻き出されて、恥ずかしくて死ぬかと思った。だが下田代はまだ元気そうだった。

 

「このまま縛んないでもう一回するってどうすか?」

 

 縛るときとも違う、期待に満ちた明るい顔で俺を見ている。だが俺は、射精して少し冷静になっていた。

 

「ここ、壁、薄いんだよな」

 

 俺と鞠子の情事の声が、あれほど生々しく届いていた。つまり、こちらの声も向こうには聞こえる。

 

「隣り、まだ入ってないすよ」

「反対側は?」

「……まだ帰ってないんじゃないすか?」

 

 そう下田代が口にした途端、がちゃと扉を開ける音がする。身のすくむ思いがした。もしもう少し早かったら、俺の恥ずかしい喘ぎ声のすべてが筒抜けだったかもしれないのだ。

 

「帰ってきたな」

 

 下田代はいたずらを見つかったような顔をすると、あーあ、と言って俺の隣りに横たわった。

 

「大丈夫すよ、顔は見られないんだし。かわいい声だから」

「なにひとつ大丈夫じゃないだろ」

 

 俺は軽く下田代の頭をはたく。それから思い直して、ぐりぐりと撫で、短い髪をかき混ぜた。

 

「何すんすか」

「別に」

 

 俺の知らない彼の八年間は、想像するしかない。何がどうなって今みたいな彼になったのかはよくわからないけれど、でも健康で元気であってくれたらそれでいい。でもそんなことを口にしたら、また「おじさんみたい」と言われるのがわかっていたので俺は黙ったままでいた。

 下田代は結構乱暴すね、と呟いて俺を恨みがましそうな顔で見る。

 だけど俺はもう体力の限界だった。そのまま手を下田代の頭に置いたまま、ぱっと電気が消えるみたいに意識が眠りに引き込まれていく。

 

 

 

 俺は久しぶりに、職場近くの公園に来ていた。

 もうしばらく来ていなかった。最近は仕事も忙しくて、昼食はデスクでさっと済ませることが多い。

 都心も都心、一等地と言っていい場所だが、公園にはそれなりの広さがある。遊具はあまりないが、ベンチが多めに設置されていた。

 俺は近くにあった店でパンを買い、ベンチに座った。近所に勤めているらしい、会社員らしき人々の姿も多い。そういう人たちはみな一人で、もくもくと携帯を見たりしながら食事をしている。

 ベビーカーを押した女性も何人かおり、小学生くらいの小さな子は、砂場のあたりで走り回っていた。

 俺と会った頃の下田代はもうちょっと大きかった。そして走り回ってもいなかったし、もっと陰気そうだった。

 社会人になってから、時間の流れはあっという間だった。八年前も七年前も、大して違いがないように思える。でも、あのくらいの年代の子どもにとっては違うだろう。

 

「すげぇな……」

「男漁りすか?」

 

 気がつくとベンチの隣りに、男が座っていた。見慣れないキャップをかぶって、ラフな格好をした下田代だった。

 

「でも小学生に声かけるのとか、ちょっと危ないと思いますよ」

「誰がそんなことするか」

 

 今日は平日だ。大学に行っているのかと思ったが、そういえば卒論は終わったとも言っていた。実家にでも帰っていたのだろうか。まるで俺の行動を見越したかのようで背筋が薄ら寒い。

 

「そういや、お前んちってどこなんだ?」

 

 この近くだと聞いていた。確かに住宅がないわけではないが、多くはオフィスだ。

 下田代は、間近に立つ高層ビルを指さす。

 

「オフィスビルだろ」

「最上階は違うんすよ」

 

 そもそもビルの用途が違うはずだ。嘘に違いないと思ったが、いまだに得体の知れない彼のことだ。絶対にありえないとは断言できないのが何だか悔しい。

 

「息子さんを下さいっていう挨拶ならちょっと心の準備が……」

「昼休みに誰がそんなことしに行くか」

 

 俺はパンを頬張る。

 

「お前、昼飯は?」

「昼食べないっす」

「食べろよ」

 

 だからこいつはこんなに痩せているのかもしれない。まぁ鍛えてはいるようだしがりがりではないが、細身だ。

 

「ほれ」

 

 俺は買っておいたパンがまだ入っているビニール袋を彼に渡す。

 

「古津さんの分なくなんないすか」

「多めに買っといた」

 

 余ったら夕飯か明日の朝食にでもしようと思っていた分だ。

 

「俺ねぇ、クリームパンが好きなんすよ」

「知ってる」

 

 ビニール袋の中からパンを取りだした下田代は固まっていた。

 たまたま、俺が買っていたそのパンは、クリームパンだった。もちろん下田代がここに来るとわかっていたわけではない。ただ、懐かしくなって買ったのだった。

 八年前にも、そのパン屋はあったし、俺は昼を食べるときにはだいたいそこで買っていた。食うか、と小さかったころの下田代に聞いたら、冷たい目で「知らない人にパンはもらえない」と言われたのだ。

 下田代は戸惑ったように、俺が渡したクリームパンを見ていた。

 

「今は知らない人じゃないんだからいいだろ」

 

 そのときにまだ推さない彼に、何のパンが好きかを聞いた。プリンにクリームパン、下田代が好きなものの系統が何となく見えてくる。意外に甘党だ。

 下田代は、なかなかパンを食べようとしなかった。

 

「古津さん、たらしすよね」

「どこがだよ」

 

 俺は十歳年下の男に翻弄されて、未知の世界に足を踏み入れた男に向けられる言葉じゃないと思う。この間の初体験の後は、それなりに体に違和感が残って大変だったのだ。

 下田代はなぜか、その何の変哲もないパンの写真を携帯で撮った。

 

「どうすんだ、そんなもの撮って」

 

 俺は下田代が写真を撮るのを初めて見た気がする。俺を縛ったときに彼が携帯を取り出すことはなかった。緊縛したりする人は、むしろそういう行為の最中に撮影をしたりするイメージがあるけれど違うのだろうか。

 あくまで彼が撮ったのは、誰でも目にしてすぐに忘れてしまうような、ただのクリームパンだった。

 

「記念すよ。いただきます」

 

 そう言って下田代はやっとパンに口をつける。

 俺も残りのパンを口に入れて、持っていたコーヒーのペットボトルを下田代の方に差し出した。よく晴れた日で公園は心地よかった。植えられた桜のつぼみが、わずかにほころんでいるのが見える。

 子どもが走り回り、奇声を上げている。俺と下田代はしばらく喋ることもなく、そうやって二人でベンチに座っていた。