1
「いや、ほんとお前がいてくれて助かるよ」
「別に何もしてないですけど」
「話聞いてくれるだけでありがたいし」
よく晴れた空は、屋上からだと特に広く感じられる。
「ありがとな」
「だから別に……」
むっすりとした顔をしているが、別に怒っているわけではないのはわかる。信士は、俺より二歳年下だ。友人の篤士の弟だった。篤士の家に遊びに行ったときに顔を合わせてはいたが、こんな風に二人で話す仲になるとは思わなかった。
地上では野球部が投球練習をしていた。
「がんばってんなー、篤士は」
それをまぶしい思いで見下ろす。もともとここに入り込んだのは、こっそり練習を見るためだった。
小学校からの付き合いだからもう長い。部活が忙しいからすれ違い気味だが、篤士とは今もいい友人同士だった。だけど俺だけ、そこからはみ出た気持ちを持ってしまった。
いつからか、篤士のことが好きになっていた。彼は普通に片思いの女の子がいる。険悪になりたくもないし、告白するつもりもなかった。
だけど思いは膨らんで、出口を見つけていた。そうしてこっそり練習を隠し撮りしていたとき、信士に見つかった。
〝誰にも言わないですから、大丈夫ですよ〟
今年この高校に入ってきたばかりの信士は、兄よりもよほど大人びた少年だった。無骨な篤士よりも顔立ちはむしろ整っている。性格はぶっきらぼうで、俺は最初少し怖かったのだけれど話してみるといいやつだった。
〝俺なんかでよかったら話、聞きますけど。絶対に兄貴には言わないです〟
「告白、しないんですか?」
もう七月になってしまった。篤士と一緒にいられる時間は長くない。大学は別々になるだろう。
「だって、可能性ないだろ」
「でも、気持ちの整理つくかもしれないじゃないですか」
「……つかなくていいよ。バカみたいかもしれないけど、俺は、ずっと篤士を好きでいたい」
少しだけ信士が眉根を寄せる。実際、バカだと思われているのかもしれない。
でもこうして遠くから彼の姿を見れるだけで、満ち足りていた。確かに彼女ができたら辛いと思うけれど、でも、彼が幸せならそれでいいとも思う。
「あ、そうだ。これ篤士に返しといてくれないか? 前借りたマンガ。面白かったって言っといてくれ」
「わかりました」
信士は塾に通っている。その分、部活はしていなかった。
「部活、やればいいのに。モテるぞ」
「モテても意味ないですから」
「ほんとクールだよな」
そのまま一緒に駅まで向かい、そこで別れた。最近は信士が話を聞いてくれて助かっている。たまに彼は、家での篤士の様子も教えてくれる。普段見たこのない彼の話を聞くのは最高の楽しみだった。
篤士はもうすぐ部活の引退だ。屋上からのぞき見することもできなくなってしまう。信士の言う通り、告白ができたらいいのかもしれない。でも、まだそこまでの決意は持てなかった。
・
塾のトイレはクリーム色の壁で、見ているとなんだか胸がむかむかしてくる。その苛立ちをぶつけるように、マンガの表紙を破り取った。カラフルなイラストが、小さなかけらになっていく。もう十分かと思って、水を流す。かけらはそのまま飲み込まれていった。
一冊を全部流すには時間がかかる。でも個室にこもったまま、紙をやぶいては何度も水を流していった。どうせ鈍感な兄は、マンガを返してもらっていないこと自体忘れているだろう。
〝ずっと篤士を好きでいたい〟
「……ふざけんな」
兄と二人で遊んでいるのを、遠目に見ることしかできなかった頃とは違う。やっと親しくなれたと思ったのに、彼の口から出る言葉は篤士、篤士ばかりだ。兄のこともこうして切り刻んでしまいたかった。兄より勉強ができても、顔立ちがいいと褒められても、欲しいものは手に入らない。
「俺の方が好きなのに……」
何ページもの紙を破り続けて指が痛かった。涙が紙と一緒にトイレの中に落ちていく。
「俺の方が」
呟きと一緒に、いっそ自分自身を流し去ってしまいたかった。
2
夏を過ぎ、篤士は部活を引退した。これからは受験に集中すると言っているらしい。
「塾とか行くのか? 信士と同じとこ」
「兄貴バカなんで、ついてけないんじゃないですか」
「自分の兄貴にそういうこと言うなよ」
信士はちょっとむっとした顔をしてみせる。週に何度も話すようになってだんだんわかってきた。信士は一見とっつきずらいけれど、でも高校一年生だ。中身は幼いところもあって、たまに兄への対抗心を覗かせる。
「いいんです、あんなやつ」
今日の空は少し曇っていた。
「なんで兄貴の部活もうないのに、ここ来てるんですか?」
「俺こそ塾行った方がいいかもしんないんだけどな」
苦笑することしかできなかった。一応、この間の模試では悪くない結果を出せている。でも、いまいち受験勉強に集中できていなかった。だから今日もこうして、篤士の部活はもうないのに屋上に来ている。
「響平さんは優秀だからいいんですよ。うちの兄貴と違って」
今日の信士は、少し苛立っているみたいだった。でも、二人で一緒にいるところを小さい頃から見てきたけれど、二人は本当は仲がいい兄弟だ。一人っ子の俺は羨ましく思う。
「篤士、大学どこ行くって?」
自然な流れで聞いたつもりだった。だけどもしかしたら、少し声が震えていたかもしれない。
部活を引退してからも、篤士とは直接話せていなかった。小学校や中学校の頃はあれほど一緒に遊んだのに、今はクラスも違う。連絡を取ることはできるけれど、なかなか勇気が出なかった。
「Y大が第一志望だって聞いてますけど」
「そうか」
俺もY大は受ける予定だ。もしかしたらまた同じ大学になって、再び親しく付き合うなんてこともあるかもしれない。俺はまだ受験をしてもいないのに、そんな未来に思いをはせる。
「あー、俺も勉強しないとな」
「塾通うなら、紹介しますよ」
「信士と同じとこか……まぁ、ありがとな」
同じ受験生である同級生は、みんな少しぴりぴりしてきている。信士はまだ高校一年だから、そういう意味では気遣いが必要ない。いつも冷静に話を聞いてくれるし、篤士のことも教えてくれる。そんなこともあって、俺は屋上にまた来てしまっていた。
「あー早く受験終わんないかな」
「終わったら卒業じゃないですか」
ぼんやりと曇った空を見上げる。信士はつまらなそうに参考書を開き、手元の携帯をいじっていた。
「卒業したらもう会えないんですよ…………兄貴とも」
「そうだな、お前と話せなくなるのも寂しいな」
そう言うと、信士は一瞬、少し驚いたような顔をした。整った怜悧な顔。彼がそういう風に感情を露わにするのは珍しいので、俺は少し嬉しくなる。
「そういうのはいいです」
信士はそう言って俯いてしまった。照れているのだろうか。
「ほんとだよ。俺、すごいお前に助けられてる」
「よかったですね」
「何だよ、クールだな。マジだって。俺たち友達だろ?」
信士は俯いたまま顔を上げない。実際、彼がいてくてよかった。彼に甘えているだけではいけないと思うのだけれど、信士と話すこと自体が楽しかった。
「……俺は」
「あ、篤士だ」
気づかなかったけれど、今まで教室にいたらしい。遠くからでも背の高い彼の姿はすぐに見つけられた。一人でもくもくと早足で歩いていた。
目で追っていると、途中で誰かが追いかけてきた。女子生徒だった。たぶん篤士のクラスの子だったと思うけれど、確証はない。
「あー、なんかかわいい子っぽいな」
篤士は随分歩く速度を落として、そのまま二人は並んで歩いていった。
「付き合ってるのかな?」
「兄貴に彼女なんてできないですよ」
「厳しいなぁ、信士は」
だけど二人の並ぶ姿はとてもお似合いだった。俺は二人が見えなくなるまでじっと見つめていた。
・
小さい頃は二歳年上の兄にいつもひっついてばかりいたので、同級生よりも兄の友人とよく遊んだ。
響平は、兄の友人の中でも何かが違っていた。他の人たちみたいに自分を邪険にしなかった。三人でゲームをしていて、負けかけて自分が泣きそうになると、わざと負けてくれた。そんなことをする人は初めてだった。
〝こいつ甘やかすなよ〟
兄はそう言っていた。いつしか響平が遊びに来るのを待つようになっていた。もともと、子供っぽい同級生よりも兄の友人たちと交じって遊ぶのが好きだった。でもそれまで以上に、背伸びをするようになった。
彼が、兄に対して片思いをしているなんてその頃は知るよしもなかったけれど。
ぼんやりとベッドに寝転びながら、ベッドサイドに置いてあったお菓子の空箱を手に取る。響平が家族旅行で行ったというグアムのお土産だった。本当は、半分を兄に渡してくれと言われていた。だけど一日一つずつ、全部自分で食べた。もらったこと自体兄には言わなかった。
兄が部活で忙しいのをいいことに、いつも二人の邪魔をした。最近響平と信士がよく会っていることを知った兄に、じゃあ今度三人で遊ぼうと言われたこともあったけれど、響平には伝えなかった。
きっと兄といる彼は、自分と二人きりでいるときより、ずっと嬉しそうにしているだろう。そんな彼を、見たくなかった。
「ただいま」
「すみません、お邪魔します」
兄の声と一緒に女性の声がした。まさかと思い、信士は慌てて飛び起きる。廊下に出ると、女の子が靴を脱いでいるところが見えた。親はまだ帰ってきていない。
「……何してんだよ」
信士は低い声で問いかける。
「あ、信士君……すみません、お邪魔してます」
答えたのは兄ではなく女の方だった。この間、二人で歩いているのを屋上から見かけたばかりだった。まさか本当に付き合っているなんて思わなかった。
「お前、母さんに言うなよ」
「なんで」
「なんででもだ」
兄はそれだけ言って、彼女を自分の部屋に伴っていく。兄が女の子を家に連れてきたのは初めてだった。今までは部活ばかりでそんな余裕もなかったのだろう。
兄はすぐに部屋のドアを閉めてしまった。健全な男子高生が女の子を自分の部屋に連れてきて、何もしないとは思えない。
「……ふざけんなよ」
小さくドアを前に呟く。兄が何をしたって構わない。むしろ、彼女ができてくれた方が、響平も諦めてくれるかもしれないから都合がいい。そう思っていたけれど、いざ目の前にするとイライラする。
「……何でも手に入れやがって」
母に言うつもりなんてもとからない。そんなことよりきっと、響平はこのことを知ったら傷つく。
兄と響平に付き合って欲しいわけじゃない。そんなのは絶対に嫌だ。なのに響平には幸せになって欲しい。喜んで欲しい。だけど兄とは会わせたくない。
気持ちは最初から矛盾している。
兄に彼女ができたら教えてくれとは響平に前から言われていた。でも、自分は言えない。彼の傷つく顔を見たくないからだ。彼には早いところ失恋してもらった方がいいのに。
でも、言えない。
ドアの向こうからのんきに女が、「信士君って学校のときとなんか違うね」と話しているのが聞こえた。
顔でも洗おうかと思い、洗面所に向かう。洗濯機の上に、兄のジャージが投げ出されていた。汗と埃にまみれたそれに、本当は手も触れたくなかったけれど羽織ってみる。
鏡にうつる自分は兄より細身で、ジャージは似合っていなかった。
「……っ」
どうして自分は、響平の好きな相手じゃないんだろう。兄に似なかったのだろう。兄になりたいわけじゃないのに、妬ましくて仕方がない。
やがて兄の部屋から甘やかな嬌声が聞こえてきて、叫び出したいような気持ちになった。
「くそっ」
だけどマンガみたいにジャージを破くわけにもいかず、脱ぎ捨てたそれを信士は思い切りゴミ箱に放り込んだ。
3
「ちゃんと、話をしようかと思うんだ」
屋上に来るのも久しぶりだった。信士とはたまに携帯で連絡を取ってはいたが、それほど会話が弾むわけではない。今日は、時間を指定して屋上に来てもらっていた。
「話って?」
信士は紙パックのミルクオレを飲みながら言う。
「篤士に」
試験はほぼ終わり、あとはいくつか結果を待つだけになっていた。篤士とも久しぶりに、受験会場で言葉を交わした。お互い頑張ろうなと言って、どこを受けるのかと少し話した。篤士の本命は私立のK大だという。信士から聞いていた話とは少し違った。たぶん、途中で変更したのだろう。
「大学……違うとこになる可能性も高そうだからさ」
手応えは悪くない。恐らく、いくつかは受かっているだろうと思う。でも俺の本命は篤士とは違うところなので、恐らく同じ所に進学することはない。
「本気ですか」
「そうだよ」
「気持ちの整理つけたくないんじゃなかったんですか」
「なんでそんな怒るんだよ」
「怒ってません」
しばらく連絡していなかったからなのか、信士はもとのぶっきらぼうな態度に戻ってしまっているように感じられた。
俺のクラスの女子でも、信士のことは顔と名前を知っていると思う。それくらい、信士はその顔立ちの良さで目立っていた。たぶん告白されたりも日常茶飯事なんだろうなと思う。最初に篤士と一緒にいるところに会った時は小さくてぽっちゃりしたかわいい子供だったのに、時間が経つのは早い。
「でも……もう卒業で、いい機会だから」
この屋上に来ることももうないだろう。俺はぼんやり柵から地上を眺める。篤士の練習をそっと眺めていられたのが、随分遠い日のことに感じられた。
「篤士の受験っていつ頃終わるかな。結果が悪かったりしたタイミングで呼び出したりしたくないから、教えてくれないか」
信士は少しの間黙っていた。
「……わかりました」
「信士?」
今日の彼は少し変だった。いつも快活というタイプではない。でも憂鬱そうな雰囲気で、あまり俺の方を見てもくれない。もうこんな風に兄の友人に都合よく扱われるのが嫌になったのだろうか。
「悪いな、迷惑かけて、信士には」
「別に俺はいいんですけど」
わかりにくいけれど、信士は優しいいい奴だ。
「彼女できたか?」
「えっ」
あからさまに動揺を示されて、俺の方がびっくりしてしまった。
「できたのか? うわぁ、おめでとう」
「あ、いや、違います! できてません!」
信士は本気で慌てている様子で、紙パックを握りすぎて中身をこぼしてしまった。
「大丈夫か?」
俺はカバンの中につっこんでいたポケットティッシュを渡してやる。今日の信士は本当にぼんやりしている。
屋上は相変わらず心地いい空気だった。ちょっと寒いけれど、それもまた悪くない。
「なんで彼女つくんないんだよ。モテるのにもったいない」
「響平さんにはわかんないですよ」
「なんだよ、言ってみろよ」
信士は睨み付けるように俺を見た。篤士と似た面影はある。でも、信士の方が顔は小さく、目つきも鋭い。兄弟で印象が本当に全然違うのが不思議だった。
「知って、どうするんですか」
ティッシュを握りしめながら、信士は俺の方を見ずに言う。
「無責任なこと言わないでください」
俺はすぐには言葉を返せなかった。
「……悪い」
興味本位で聞いてはいけないことなのかもしれない。でも彼が好きになるのはどんな相手なのだろう。なんだか年上じゃないかという気がする。もしかしたら人妻に恋をしているとか、あまり人には言えない事情があるのかもしれない。それもなんだか彼には似合う気がした。
彼が誰かと付き合い始めるところを想像すると、少しだけ胸がざわついた。祝福したいけれど正直少し寂しいなと思う。
「でも俺は信士が誰を好きだとしても、応援するから」
信士は俺を見て、一瞬泣きそうに顔を歪めた。俺は何か間違ったことを口にしたのだろうか。
「マジでさ、もともと篤士のことがあってこうやって話すようになったけどさ。俺たち今は、友達だろ?」
俺は焦ったように口にする。物静かな信士の考えていることはわからない。俺の想像できないような、とんでもない事情があるのかもしれない。
でも、もし彼が何か吐き出したい気持ちになったときは、聞いてやりたいと思った。自分が受け止めきれるようなことではないかもしれない。でもだとしても、何とかそうしてやりたい。
「……はい」
信士は絞り出すようにそう言った。聞いているだけで、何だか胸が苦しくなるような声だった。
信士からは夜になって、篤士の本命校の結果は三日後にわかるが、その後すぐに祖父母の家に行く予定だと連絡があった。今日の信士は少し変だったけれど、文章はいつもの信士だったので安心した。
祖母の体調があまりよくないらしく、篤士の体が空くときになったら連絡をしてくれるという。
受験結果も心配だが、もしかしたらおばあさんの体調もかなり悪いのかもしれない。
俺自身も大学への入学手続きなどを進めながら、信士からの連絡を待った。信士からは、大学は受かったようだがまだ戻れないと連絡があった。
そうこうしているうちに、卒業式の日が近づいてくる。俺は焦っていた。だから信士にメールをした。
〝次学校来る日、篤士に放課後屋上来るよう伝えてくれないか〟
信士からの返事はいつもと同じ、短いものだった。
〝わかりました〟
結論から言えば、篤士は来なかった。
グラウンドを女の子と二人で歩いて帰るのを見かけたから、来ないのだなとすぐにわかった。来れないなら来れないと、連絡くらいしてくれてもいいようなものだ。
二人は手こそ繋いでいないけれど、親しそうな雰囲気だった。付き合い始めたのだろうか。たぶんそうなのだろう。そうとしか考えられない。
「……すみません」
屋上のドアが開いたとき、来たのが篤士ではないと俺にはもうわかっていた。
「お前は悪くないよ」
篤士は呼び出しの理由を何だと思ったのだろう。他愛ない遊びの誘いとでも思ったのかも知れない。
「すみません……」
信士があまりに申し訳なさそうにしているので、呼び出すよう頼んだりしなければよかったと思った。俺は彼が篤士の弟だからといって、今まで信士に頼りすぎていた。
「だから、もういいって」
振られる覚悟はあるつもりだった。でも、玉砕さえすることもできないなんて思わなかった。空は抜けるように晴れて高く、空気は冷たかった。
だけどまだ、屋上から降りる気にはなれなかった。
「もう大丈夫だから、帰ってくれ」
「俺も、ここいたいだけなんで」
信士だって寒いだろうに、無理やり参考書を広げて屋上に居座っている。いつもは巻いていないマフラーを巻いているのが寒い証拠だ。
気を遣ってくれているのだろう。本当に彼がいてくれてよかったと思った。一人だったら、そもそも告白をしようという気にもならなかったかもしれない。
俺はぼんやりとグランドを見つめ続けていた。やっぱり寒くてくしゃみが出た。
「これ」
後ろからふわりと何か巻き付けられたと思ったら、信士のマフラーだった。
「いいって、お前寒いだろ」
「俺、寒いの得意なんです」
そう言ってまた信士は壁に背を付けて参考書に目を落とす。
このままここにいても、篤士が来る可能性は低いだろう。彼女を送って、それからまた戻ってくるなんて考えられない。だけどどうしても、まだここを去る気にはなれなかった。
信士がしていたマフラーは体温の気配が残っていて、温かかった。そのことに涙が出そうになる。
篤士のことが好きだった。できることならキスやセックスも、彼としてみたかった。そういう想像ならいくらでもしてきた。
現実には、手を握ることさえできなかった。
でも、温かいマフラーがここにあるだけで救われる気がする。
「ありがとうな、信士」
「別に俺は……」
信士はくしゃみが出そうになるのを、無理やり押し殺していた。人にマフラーを貸した手前、寒くないという振りをしたいのだろう。見栄っ張りで優しい。
「やっぱり寒いんだろ?」
「いいです」
俺は信士の横に座り込んで、そのまま自分の首にかけたマフラーを彼にも巻き付ける。もともと長めのマフラーなので、顔を寄せれば何とか二人で使えないこともない。
「……いいですってば」
ぶっきらぼうに信士が言う。俺はその手元の参考書をぼんやり眺める。しばらく見ていたけれど、ページは少しも進んでいなかった。
俺は卒業しても、大学は自宅から通う。だからそれほど忙しくはなかった。むしろ三月中は勉強をすることもなくなって暇で、近所の郵便局でバイトを始めた。
篤士とたまたま会ったのは、そんなときだった。バイト帰りに、ばったり道で会ったのだ。
「おっす」
篤士の態度はあまりにも普通だった。
「なんか久しぶりだな」
朗らかな笑顔で近づいてくる。呼び出して、空振りに終わった日以来、彼とは話していなかった。あれは篤士の無言のメッセージなのかもしれないとも思っていた。だから自分からは何ももう言えなかった。でも、篤士は今まで通りに話しかけてくる。
「お前大学どこ行くんだっけ?」
「Y大だよ」
「おお、よかったな。響平は昔から頭よかったしな」
「篤士も部活頑張ってたのに、すごいよな。国公立は結局受けなかったのか?」
「俺はもともと私立しか受ける気なかったよ、時間なかったし」
気まずかったけれど、昔みたいに気軽に言葉を交わせているのが嬉しかった。篤士はあの呼び出しのことを、さほど気にしてはいないのかもしれない。変に避けるよりも、何でもないようにフォローしようと思って俺は口にする。
「あのさ……屋上に来てくれって言ったの、気にしないでくれな」
「え、屋上?」
最初はとぼけられているのだと思った。
「言っただろ、卒業式の前の前の日くらいだったか? 屋上に来てくれって」
「何の話だ?」
だけど篤士が嘘をついているようには思えなかった。彼は確かに来なかった。女の子と一緒に帰っていた。
「信士に伝えたんだけど……」
「聞かなかったな。忘れたんじゃないか?」
でも、あの日信士は屋上に来た。伝え忘れたならそうと言うはずだ。それとも忘れたけれど、気まずくて言えなかったのだろうか。
「そっか、忘れたのかな」
「あいつ抜けてるとこあっからなー。何か用だった?」
とてもじゃないけれど、言えなかった。だから笑ってごまかすしかなかった。
「大したことじゃないんだ」
話しているうちに、いくつも齟齬は浮かんできた。もともとY大を受ける予定はなかったこと。返したはずのマンガも、わたしたはずの土産も、篤士は受け取っていないこと。
全部、信士を通して話をしたり、渡してもらったりしたはずのものだった。
それをそのまま篤士に訴えることもできた。マンガは信士に渡したのだと。でも途中から、俺はその気を失っていて、記憶違いかもと曖昧に言ってごまかした。
「まぁ大学は違うけどなんかあったら飲もうな」
そう言って篤士とは別れた。篤士と話すのももう最後かも知れない。だけどその辛さよりも、頭の中は信士のことで占められていた。
信士はぶっきらぼうだけど優しくて、いつも話を聞いてくれていた。彼が話してくれる篤士のことを聞けるのも嬉しくて……でも、それは本当だったのだろうか。
信じていたはずの世界がばらばらと崩れていく。
篤士のことで頼られるのがそんなに嫌だったのだろうか。もし彼が一言でもそう言ったなら、俺はやめた。信士は嫌なときは嫌だと言うタイプだと思っていた。
信士がわからなかった。
もともと、俺と篤士が住んでいるのは近所で、小さい頃からよく一緒に遊んでいた。小学校でも中学校でもそうだ。
二歳差の信士は、たまに篤士の家に行ったときに一緒に遊んだ。だけど昔は、あくまで篤士の弟としか思っていなかったし、二歳年下というのはひどく子供にも思えていた。
二人きりで話したりするようになったのは高校に入ってからだ。
屋上は本当は、出入り禁止になっている。だけど俺は先輩のツテで、こっそり鍵を手に入れていた。そこで一人で野球部の篤士を見ていたとき、信士がやってきたのだ。先生に告げ口をされたら困るから、俺は信士も屋上を使うことを許さざるをえなかった。
とはいっても、いつも信士は俺の話につきあったり、参考書を眺めたりしているだけだった。
一年生のクラスの居心地が悪いのかと聞いたこともある。でも、別にそうではないという。
だけど信士は繰り返し屋上にやってきた。
俺もそうだ。篤士の練習が終わってからも、屋上へ行ってしまった。
信士と話したかったからだ。今になって、俺はそんなことに気づく。
「……もしもし」
信士に電話をするのは初めてだった。だけどもう俺は卒業して、高校に行く機会もない。こうでもしないと話すことはできなかった。
信士はまるで予期していたかのように、一度のコール音で出た。
「はい」
「……あのさ」
何から話していいのかわからなかった。考えていても埒があかないから、本人に聞くしかないと思った。でも、いざとなると怖い。二歳差だけど、友人の弟だけれど、仲良くなれたと思っていた。
「俺、何かしたか?」
わからなかった。無意識のうちに、信士の地雷を踏み抜いていないかと言ったら自信はない。だけど二人で楽しく過ごしていたと思っていた。
「何のことですか?」
信士の声はいつも通りだった。
「今日、篤士に会って、直接色々聞いた」
「俺が嘘つきだって、兄貴に言ったんですか」
びっくりするほど淡々とした、冷静な声だ。
「違う、そんなことしてない」
だけど少なくとも彼には、嘘をついたという自覚があるのだ。もしかしたら何かの行き違いとか誤解とか、そういうことの積み重ねなんじゃないかと思っていた。信士がわざとやっていたなんて、思いたくなかった。
「なんでだよ」
篤士とは違うけれど、信士のことだって好きだった。一緒に過ごした楽しい時間のすべてを否定された気がする。
「なんで……。そんなに、嫌だったのか」
「別に嫌じゃないですよ」
信士の落ち着いた声からは、まるで感情が読み取れなかった。
「むしろ楽しかったっていうか。響平さんが俺の言う適当なことで右往左往したりするの」
「お前……!」
俺の見ていた信士は何だったのだろう。クールで感情が読めなくて、でもこんなことをするやつだなんて思わなかった。
「楽しいから、やったのか?」
今まで一緒に過ごした時間のすべてが嘘だったなんて思いたくなかった。
「嫌がらせで? ああ、そりゃあおかしかっただろうな。篤士のことが好きな俺を影で笑ってたのか」
篤士には恐らく彼女ができたのだろう。振られる前に終わってしまった。そして弟にもこうして騙された。みじめだった。ただ友人を好きになっただけのことのはずだったのに、どうしてこんなにこじれてしまったのだろう。
信士は何も答えなかった。
「よかったな、楽しいショーだっただろ、でも俺は本気で……」
「そんなことわかってますよ」
怒っているのかと思うほど、冷たい声だった。
「響平さんが本気で、兄貴のことをめちゃくちゃ好きだったことくらいわかってます」
「……なら、なんで」
どうしても、信士がそんな風に人の気持ちを踏みにじる男だとは思えなかった。表現がわかりやすくはなくたって、感情がないわけではない。篤士と三人でゲームをしたとき、信士は負けたら怒って泣きじゃくっていた。今は随分成長したように見えるけれど、でも、たぶん本当は彼は激情家だ。
「……好きだったから」
「え?」
「響平さんが兄貴のことを、本気で好きだったから、それだけです」
「おい、信士」
「さよなら」
信士はそのまま電話を切ってしまった。俺はすぐにかけ直したが、出ない。勢いのまま家に行こうかと思ったけれど、今日はさすがにもう遅いだろう。明日また出直そうと思った。幸い家は近い。まだちゃんと話す機会はある、そう思っていた。
眠れない夜を過ごして翌日、俺は信士の家に行った。だがそこで聞かされた話は寝耳に水だった。
「信士はもう出発したのよ」
おばさんは申し訳なさそうな顔で言う。アメリカへの留学だという。そんなこと彼の口から一度も聞いたことがない。
「出発……?」
眠れなかったけれど、今日になれば話ができるのだと思っていた。
「篤士ならいるから、呼びましょうか?」
「いや、いいです」
信士は一年は帰ってこない予定だという。塾に通っているのは知っていた。でも進路は知らなかった。彼が将来何をしたいのかなんて、一度も聞いたことがなかったと俺は気づく。
いつも俺の話か、篤士の話ばかりしていたからだ。
信士に電話をかけ直しても、やっぱり通じなかった。おばさんの話によると、昨日にはもうアメリカに着いていたはずだという。
信士はそばにいてくれて、いつでも話せる相手なのだと思っていた。
でも俺は、本当は彼のことを何も見ていなかった。近くにいると思っていたのに、こんなに遠かったのだ。
「何だよ……」
〝さよなら〟
後悔してももう遅い。一方的すぎる別れの挨拶だけを残して、信士はいなくなってしまった。
俺に何ひとつ、本当のことを告げないまま。
・
母に何を言われても、一度も日本には戻らなかった。英語のカンを鈍らせたくないのだと言い訳をした。本当の理由はもちろん別にあったけれど、言えなかった。
ごくまれに兄とは電話で話したが、響平の話は出なかった。大学も違うし、もう会ってはいないのだろう。
こうして海を隔てた場所に来て、連絡先をブロックしてしまえば縁は簡単に切れてしまう。
たまに考えた。響平は恨んでいるだろうか。そうだろうなと思う。自分の味方だと思っていた相手に、裏切られたのだ。いくら人のいい彼だって怒るだろう。
ホストファミリーはいい人たちだったが、何かとパーティを開いたり庭でBBQをしたりするのには辟易した。参加しないという選択肢は最初から自分には与えられていなかった。
「そのマフラー、お気に入りなのね」
ボストンの冬は寒い。毎日繰り返し同じマフラーにコートという格好をしていたら、ホストマザーに言われた。
「好きな子からのプレゼント?」
もうこのマフラーに彼の匂いは残っていない。
自分の手元には何もなかった。響平から渡されたものは全部、自分の手を通り抜けて兄のもとに届くべきものだったから。何もない。卑怯なことをした自分には、だけどそれが当然なんだろう。
「違うよ」
「でも、日本に好きな子がいるんでしょう?」
英語は得意なつもりだったけれど、現地の言葉についていくことには苦労した。だけどその甲斐あって、最近では日常会話には困らないようになった。
アメリカでの生活は合っているかもしれなかった。日本だと生意気だと言われる性格も、アメリカではむしろ引っ込み思案なくらいに扱われる。
「……うん」
会いたいと思うこともあった。でも、自分にはそれは許されない。最初から、告白をすることなんてできない、ありえないと思っていた。
「叶わないなんてわかってるけど……好きなんだ」
「無理だなんて決めちゃだめよ、ほんとのことは神様しかわからないんだから」
朗らかにホストマザーは笑う。でも、彼は自分の兄を好きな人だ。だから、望みなんてはなからなかった。せめてもっと兄と似ていたら、彼は自分のことも恋愛対象として見てくれただろうか。未練がましくうじうじとまた考えてしまう。
「神様はちゃんとシンジのことを見てるわよ」
見てるならなおさら、無理に決まっている。
留学は一年間で終わる。いっそこのままアメリカに住みたいくらいだった。兄の顔も彼の顔も、しばらくは見たくなかった。
帰国の時間は、母にしつこく聞かれたので仕方なく教えた。迎えに来るつもりらしかった。だけど結局間際になって、急用が入ったと言われた。その方が気が楽だから、むしろありがたかった。
だけど久しぶりの日本に着いて、誰かを待っているたくさんの人を見ると少しだけ寂しくなった。自分の帰国なんて誰も待っていない。逃げるように渡米したから、留学のことはほとんど知り合いには知らせていない。
大きなトランクが重い。気分がセンチメンタルになるのはこの気候のせいだと思う。日本の空気は湿度が高く、べっとりしていて温かい。
「信士」
声を聞いた瞬間に振り向いてしまった。名前のプレートを掲げたり、子供を抱き上げたりしている人たちの中に、見覚えのある姿があった。
「なんで……」
響平だった。見覚えのないジャケットを着た姿は、一年分だけ大人びて見えた。
信じられなかった。だが偶然とは思えない。騙していたことを、わざわざ怒りに来たのだろうか。驚きのあまり動けない信士に彼は駆け寄ってくる。殴られても仕方がないと思い、目をつむる。
一瞬後には、抱きつかれていた。思わずトランクから手が離れる。だけど抱きしめ返すことはできなかった。
「『さよなら』なんて言うなよ」
体を離し、顔を上げた響平の目は潤んでいた。どうやら殴りに来たわけではないように見える。
「寂しいだろ」
「なんでここにいるんですか」
自分の声が間抜けに響いて聞こえた。
「お前を待ってたに決まってんだろ。ほんとに丸一年いなくなりやがって」
「でも、なんで……」
返してくれと言われた本を処分したり、嘘をついたりしたのは、許されることではない。そのくらいの自覚はあった。
「一年ずっと、お前のことばっか考えてた」
どうしていいかわからなくて、信士はトランクの持ち手を再び握りしめる。
「俺は何も、お前のこと知らなかったんだなって。なんで、お前はあんなことしたんだろうとか……俺がよっぽど、お前にひどいことしたのかなとか」
「違います」
彼は最初から悪くなかった。ただ兄を好きでいただけで、いいとばっちりだ。自分がこんな感情を抱いたりしなければ、迷惑をかけることもなかった。
好きになったりしなければ。
一年ぶりに見る彼の姿は新鮮だった。アメリカにいる間は、意図して写真も見返したりしないようにしていた。一人で外国で暮らして、それなりに自信もついたつもりだった。
でもこうして彼を目の前にするだけで、たやすく昔の自分に引き戻される。屋上で、兄を見つめる彼の横顔をそっと盗み見ていた高校一年生の自分に。
「俺が、ただ……、勝手に、あなたのことを好きだっただけです」
ずっと言えなかった言葉が口をつく。同時に涙がこぼれそうになるのを何とかこらえた。
小さい頃は見ていただけだった。同じ高校に入って親しく言葉を交わすようになって、でも自分の気持ちは殺そうとしていた。でも、そんなことできなかった。会わなくて一年が経っても、アメリカで色んな人と会っても、彼のことを忘れたりできなかった。
「ごめんなさい」
俯いていると、ふわりと抱きしめられた。ここは空港だ。抱き合ったり泣いている人も多い。だから自分たちも許される気がした。
「うん。俺も……お前のこと、好きだよ」
彼は兄の他の友人たちとは違った。いつも優しかった。信士のことを甘やかしすぎだと兄はよく彼に言っていたけれど、確かにそうだと思う。あんなに嘘をついて、殴られても仕方がないようなことをしたのに。
「おかえり」
縋るように彼の体を抱きしめ返す。湿度の高い、温かい日本の空気が泣きたいくらい懐かしかった。
そうしてやっと、たった一言を絞り出す。
「……ただいま」