ブルドーザーは、確かに塔のそばに停まっていた。
 それは、この土地を更地にしようと、業者が努力した形跡だった。
「……くそっ」
 いっそこのまますぐに取り壊しにかかりたい。だけど怜ひとりではブルドーザーなど動かせない。どうしようもなかった。
「わざわざこんなとこまで来させやがって……」
 これほどの田舎だとは思わなかった。
 小さい頃には何度も来ていたが、父が運転する車でだった。電車で来たのは初めてだ。
 東京から快速を乗り継ぎ、一時間に一本しかない各駅列車に乗り、そこからさらに二時間に一本しかないバスに乗った。東京出たのは昼過ぎだったというのに、もう日が暮れかけている。
 こんな田舎になんて何の価値もない。
 だが土地があり、買い手がいるなら別だ。
 伶はそびえ立つ塔を見上げる。いつから立っているのか石造りのそれはボロボロだが、頑丈そうだった。
――祟りだそうですよ。
 建設会社の男はそう言っていた。
 いやね、この仕事をしているとそういうことはわりにあるんですよ。でもまああれは、本物じゃないかと思いましたね。
「本物なわけあるかよ」
 本物であっては困る。
「絶対に売ってやるからな」
 怜は塔に近づく。
 余計な装飾はなく、灯台みたいな無骨な外見だった。近くに来てみると、思ったより大きい。普通の家なら四、五階くらいの高さだろうか。
「これさえなければ」
 この辺りには、質のいい温泉が湧いているのだという。そういえば小さい頃に祖父と一緒に入りに行った覚えがある。確かにいい湯だった。
 そのことが話題になり、この辺りに旅館を建てる計画があるのだという。渡りに船だった。怜が所持していても、こんなところ何にもならない。
 少しでも早く売り払いたかったが、不動産業者が出してきた条件は、この塔を取り壊すならということだった。
 簡単だと思っていた。だが業者に頼んでも、いつまで経っても埒が明かなかった。
 取り壊せないのだ。
 もう三社に断られている。
 仕方なく怜が、こうしてはるばる現地までやってきていた。
「祟りなんてあるはずない」
 古びた南京錠に鍵を差し込み、きしむ扉を開けた。中は薄暗かった。
「肝試しやった方がいいんじゃねぇの」
 薄笑いとともに発した言葉が、ぼんやりと反響して聞こえる。
 祖父も化物の噂については笑っていた気がする。
「おーい」
 懐中電灯を持ってくればよかった。怜はスマートフォンを取り出す。
 てっぺんからわずかに光が降り注いでいる。明り取りの窓がどこかにあるようだった。だが日が暮れたら多分真っ暗になるだろう。
「早くしないとな……」
 慎重に、一歩ずつ歩いて行く。何か変なものがあるようには見えなかった。ただがらんとしている。
 懸念していたが、浮浪者が入り込んでいるような形跡もない。もちろん儀式を行った跡や、化物がいたりする気配もない。
 怜は、内部をぐるりと巡る螺旋状の階段に足をかける。
「何もないじゃねーか」
 だとしたらさっさと取り壊すに越したことはない。
 時間がないのだ。この土地を売り払えば、とにかく金ができる。これ以上の儲け話はない。真面目に働くより、ギャンブルをするよりよほど確実だ。ちゃんと売れて金を手にできたら、父や祖父に感謝をしてもいい。
「はぁ…っ」
 階段はむやみに長かった。エレベーターでもつけておいてほしい。
「長いっ」
 運動なんてしばらくしていないから、身体がなまっている。
 何分くらいかかっただろう。もう日は落ちてしまったようだった。急がないといけない。携帯の画面の光だけでは限界がある。
 頂上に近いところに出ると、そこは部屋のようになっていた。本棚と机、粗末なベッドが置かれている。
「なんだ……?」
 まるで、誰かが暮らしていたかのような様子だった。これが化け物の正体だろうか。
 だが、どれも古臭い。床には埃が溜まっている。足跡もなかった。
 少なくともここ数年、誰かが立ち入っているようには見えない。
 怜は慎重に、机に近づく。木で組まれた、おそらく手作りのもののようだった。ランプがあるが、燃料は空だった。本棚の本はどれも埃っぽく古い。一体いつのものなのか。
 祖父が使っていたのだろうか。畑を何より大事にしていた、歌が好きな人だった。よく一緒に近所の温泉に連れて行ってもらった。よく飲んだくれていて、あまり本を読んだり文章を書いたりするタイプに思えない。
 本棚の本を一冊取り出してみる。
「二月三日、入院。様態悪し」
 達筆の、読みにくい字だった。だがちゃんと日本語だ。読めないほど古くもなかった。
「なんだ、これ……」
 日記のようだった。ページをめくっていたとき、急に風が吹き抜けた。
「――」
 うめき声のような音が聞こえる。怜は身体をこわばらせる。
「何…っ、誰か、いるのか……!」
 まるで人のものではないかのような音だった。バタンと大きな音がして、入り口のドアが風で閉まったのがわかる。
 もう周囲は真っ暗だった。携帯の明かりがふっと消える。
 暗闇の中に、声が響いていた。地の底からしているような、低く物悲しい声だった。
「おかえり」
 人の声のようなものが聞こえた気がした。

 ・

 体が、重い。身動きが取れなかった。
「……っ」
 目を開けば、自分の部屋の天井が見えるはずだった。
 埃っぽい匂いがする。ここはどこだろう。薄暗い。かすかにランプの明かりが部屋を照らしている。
 身じろぎをすると、古いベッドが鳴っていた。
 何だろう。かすかに甘いような匂いがする気がする。
――変な夢だな。
 ここのところ、あまり眠れていなかった。わざとらしく早朝や深夜にチャイムを鳴らす男たちがいるからだ。
――待ってくれ、もう少しだけ、 絶対に金は何とかするから。
 金は用意できるのだ。こちらには土地がある。あんな田舎の土地は、持っているだけで損だとも言われた。だけど買い手がいるならこれ以上ない財産だ。
 絶対に売ってみせる。そうしないと……そうしないともう手はない。
 数日前に、なぜか見てしまったマンガのシーンが蘇る。ギャンブルで負けた主人公が、大きな船に乗せられていた。
 借金を返せないなら、そういう処遇もありうる。
 そんなのごめんだ。
 頭がぼーっとする。意識はもう半ば覚醒しているのに、体は動かなかった。 
「何……」
 誰かがいる。かすかに記憶が戻ってくる。電車に乗っての、長い旅のような道のりだった。祖父の家には、小さい頃は何度も行った。
 懐かしい家は、もうほぼ廃墟だった。50年近く誰も住んでいないのだから当然だろう。 
 家族に関する記憶は、あの頃のものがほとんどだ。母がいなくなって、父は変わってしまった。幼い頃のこの田舎で過ごした時間だけが、家族の思い出だった。
 重い。
 誰かの体重がかかっている。古いベッドだ。ああ、あの塔の中に入ったのだったと伶はやっと思い出す。
 化物が住んでいると言われていた。だけどそれは、田舎の迷信だ。
 ……誰かがいる。
「誰、だ……」
 ろれつが回らなかった。
 誰か……いや、何かがいる。伶の身体を、見下ろしている。とっさに、人ではないのだろうと思った。なぜだかはわからない。
 机の上の灯りがついていて、部屋の中はぼんやりと照らされていた。
 明かりに照らされた男の髪は、銀色かかって見えた。だが白髪にしては男の姿は若く、髪にもつやがある。
「待っていた」
 伶は自分の身体を見る。どこも縛られているわけではなかった。なのに、動けなかった。
「何……を」
 全身が重い。何か甘ったるいような匂いがする。クスリだろうか。やったことはないが、勧められたことはある。
「ひっ……」
 男の舌が裸の胸に触れ、伶は自分が裸であることに初めて気づいた。
 まずいと本能的に感じる。だけどやっぱり、指一本さえ動かすのが億劫だった。
「や、め」
 男はべろりと、伶の肌をなめる。何が面白いのか胸の突起を舐め、それから腹にずり下がっていき、それからとうとう性器に触れた。
「あ……」
 恐怖も確かにあった。だけどそれを遥かに凌駕して、気持ちが良かった。付き合っていた女性に、してもらったことはある。だが何がそれほど違うのか、この異常な状況のせいだろうか。
 それともこの甘い匂いのせいか。
 過去にどんな相手にしてもらったよりも、気持ちがよかった。
 あっという間に、充血し固くなっていくのがわかる。男の口でされるなんて、考えることもできないことのはずだったのに。
 身体がいうことを聞かない。
「やめ……、俺、は女が好きなんだよ」
 羽振りが良かった頃は、掃き捨てるほどモテた。自分の外見は、せいぜい十人並みだということはわかっている。だから、学生の頃はほとんど彼女もいなかった。
 だけど大人になってからは違った。金もあって、仕事も順調にいっていた頃は、何一つ不自由などなかった。
 世界は自分の思うようになると信じていた。贅沢もした。プールのある部屋で、複数の女性を呼んで楽しんだりもした。金払いはよかったから、評判も悪くなかったはずだ。誰も恋人にはなってくれなかったけれど。
「あ……っ」
 何とかこらえられないかと思った。
 だけど抵抗する方法など思いつかず、あっけなく伶は男の口の中に射精していた。
 男は顔色ひとつ変えていなかった。その顔は、びっくりするほど整っていた。一瞬、CGか何かじゃないかと思ったくらいだ。
「な……」
 目が光っているように見えた。男はゆっくりと、口の中に吐き出された伶のものを飲み込む。そんなことをしてさえ、どこか優美だった。
「味が、違う」
「な、にわけわかんないこと……」
 これが「化物」だろうか。伶は必死に考える。お祓いの方法なんて知らない。どうしたらいいのか。携帯だって気がつくと手元にない。殴ろうにも身体が動かないし、そんな風に暴力に訴えたこともない。
 何でもできるはずだった。なのに、身一つだとこれほどまでに無力なのかと思った。
 頼りだった金ももうない。
 男がのしかかってくる。嫌で嫌でたまらないと思ったのに、なぜか安堵に似た気持ちが湧いてきて混乱する。男の体臭は甘く香った。さっきからしている甘い香りは、男の身体からしているものだった。
 身体の奥がじんと痺れる。
 身動きができないでいると、身体をぐるりとひっくり返された。うつ伏せの状態になり、腰だけを上げさせられる。みっともない、嫌だと思ったのにどうにもならなかった。
 男の指が奥に入ってくる。
「あ……」
 同時にさっき射精したばかりの性器を握り込まれた。もういったばかりだから何も感じないと思ったのに、サルみたいにまた興奮がつのってくる。
 男の手の動きは的確だった。
「ああ……っ」
 埃っぽい布に顔を押し付けられ、口から唾液がこぼれた。気持ちがいい。何もかも投げ捨ててしまいたくなるほど。意識が飛びそうなくらいの快楽だった。
 男の指が、奥を押し開いている。そこには違和感も確かにあるのに、なぜか甘い声が口から漏れる。
「ぁ、あっ、……っ」
 さっき達したばかりだ。なのにまた、いきそうになっている自分に驚く。まるで中学生の頃みたいだった。
 だが、男はさっきと違い、すぐにいかせてはくれなかった。男の指は、先程から熱心に伶の中をいじっている。金でそういうところのサービスも受けられるのだと聞いたことはあった。だけど、何となく怖くてやってもらったことはなかった。
 じんと裏側から性器を押されるような感覚に、鋭敏になっている身体が敏感に反応する。
「あ、ん……っ、ぅあ」
 的確な場所を刺激されると、びくんと身体が跳ねるほどだった。いきたいのにいけない。慣れた快楽とはまるで勝手が違っていて、どうしていいかわからない。やり過ごそうと荒く息を吐くしかできない。
 早く、終わりにしてほしかった。なるべく早くいかせてほしい。
「も……っ、や、め」
 だが、男は決定的な刺激を与えることはなかった。ひたと何かが押し当てられる感覚に息を飲む。
「うそ……」
 信じられなかった。だけど確かに、固いものが入ってくる。
「や……めろ、やめてくれ、お願いだ」
 みっともなく伶は泣き叫んだ。だけど、男はまるで聞こえていないかのようだった。広げられてもまだ狭い場所に、男のものが入ってくる。
 圧迫感に、吐きそうだった。なのに気持ちの良さは消えていなくて、ぼろぼろと伶は泣きながら喘いだ。
「ああっ……んっ」
 誰にも触れられたことのないところを征服されている。やがて荒々しく男が律動を始めても、伶はただ喘ぐことしかやはりできなかった。


 長い夢を見ていたみたいだった。
 空はぼんやりと薄明るくなってきていた。気がつくと伶は一人、塔の外の草むらの中に立っていた。
 狐に化かされたんじゃないだろうか。いや、狐じゃない……あの男は何なのか。
「化物……」
 いっそ夢だったらよかった。身体の奥に残る感覚が、確かに夢じゃないと知らせている。
 いつの間にか手に掴んでいた携帯は、充電が切れていた。伶はイライラして、それを塔に向けて投げつける。かつんと固い音がした。
 こんな屈辱は初めてだった。男に犯された。信じられない。自分は女の子が好きなのに。
 呆然と立ったまま、伶は塔を睨みつける。どれだけの間そうしていだろう。
「あのう……」
 作業服を着た男が、こちらを見ていた。
 一瞬、自分の服装を確認してしまう。大丈夫だ。陵辱されたことなんて、言わなければ誰にもわかるはずがない。なのに妙に恥ずかしい。
「車、取りに来たんですけど」
 男は置きっぱなしになっていたブルドーザーを所有している会社の社員らしい。
「壊せ」
「え?」
「いいから、壊せ! この塔!!」
「あの、聞いてないですか? どうしたって全然これは、刃が立たなくて」
「いいから!!」
 伶は肩で荒い息をしていた。
 屈辱だった。あんな風に、まるでか弱い女みたいに……自分が扱われ征服されるなんて。自分もあんな風に女みたいに、喘いでしまうなんて。
「くそっ!」
 思い切り地団駄を踏む。
「絶対に壊してやるからな……!!」
 伶は強く塔を睨みつけた。その向こうから、遅い朝日が昇り始めたところだった。