「おかえりーって、あれ? なにその子?」
 案の定、留美子は伶が連れ帰ってきた子どもを見て目を丸くした。
「隠し子?」
 誰だってそうだと思う。
 いきなり独身男性が子どもを連れてきたら驚く。
 帰ってくる道すがら、何か言い訳がないか考えていた。だが何も思い浮かんでいない。
 いっそ隠し子だと認めてしまうか……いやこの子どもは、たぶん六、七歳、いやもっと上かもしれない。さすがに二十歳そこそこの伶の子どもだと言うには無理がある。
「そんなわけねーだろ」
 子どもはキョロキョロとあたりを伺っていた。
 見た目は小学生低学年くらいだろうか。伶は普段子供に接しないのでよくわからない。
「ちょっと待って……もしかして、誘拐?」
 留美子の表情がだんだん真剣になっていく。
「ちげーよ」
 そういう心配の必要はないと思う。だけど、伶だってうまく説明はできない。
「なんていうか多分害はないから」
 害はないどころか、たぶん人間ではない。だけどそこまではさすがに言えなかった。
 古いだけあってこの家は十分に広い。子どもが一人増えるくらい、何てことはないはずだった。
 この子どもが、人間と同じものを食べて、同じように寝るならの話だが。
「害とかじゃなくてさぁ……どこからきたの、この子」
「あの塔だよ」
「塔から人は出てこないよ」
「出てきたんだよ」
 伶にだって、どう説明したらいいのかわからない。
 子どもは、一応日本語はわかるみたいだった。だが、何を問いかけてもぼうっとしている。
 髪は、普通の子供とは見えないくらい灰色がかった銀のような色だ。それだけで、異様な雰囲気だった。顔立ちもおそろしく整っている。そこには確かに、昨日のあの男の面影もあった。
「……じゃあ、神様?」
 怪訝そうに、留美子はしゃがんで子どもを覗き込む。
「神様ではないと思う……」
 どうしてこんなことになったのか、伶にもよくわからなかった。だがとにかく、あの塔の中にいたのはこの子供一人だった。伶をいたぶったあの大人の男は、影も形もなかった。
「ほら、世話になるんだから挨拶ぐらいしろ」
 伶は小さな子供の頭を無理矢理下げさせる。
「あいさつ……?」
 彼は伶の方をじっと見て言った。まるで挨拶というもの自体を知らないかのように。
「『お世話になります』」
 伶が言うと、彼は留美子のほうに向き直った。
「お世話になります」
 伶が言った言葉そのままを繰り返す。
 まるで人形みたいだった。
「うーん」
 子供を見てしばらく考え込んでいた様子の留美子だが、ぱっと笑顔を浮かべた。
「まぁいいや、何食べたい?」
 子供はまた伶の方をじっと見てくる。
「ハンバーグ?」
 強いて言えば食べたいような気がして、伶は答える。
「ハンバーグ」
 案の定子供は繰り返した。
「伶ちゃんは黙ってなよ」
「何でだよ」
 ちゃんと食べたいものを答えたのはこの子どもなのに、納得がいかない。
「君、名前は?」
 しゃがみこんで、留美子は彼の顔を覗き込んだ。
「名前は?」
 予想できないことではなかったが、彼は伶の方を見て訪ねてくる。こればかりは、答えてやりたいがどうしていいかわからない。
「うーん……」
 どうしてなつかれているのか自体、よくわからなかった。 
 彼は、昨日の男に似ているように見える。
 だがそれよりも、伶の記憶の中にある、遠い友人にもよく似ていた。錯覚だとは思えない。何か人外の化物の魔力のせいだったりするのかもしれない。理屈はわからない。
 だが少なくとも彼は黒髪だった。別人であることは間違いない。
 だけど彼に似ていると思ってしまうと、どうしても伶はこの子どもに強く出れないのだった。
 伶は小さい頃、その男の子のことが好きだったから。
 誰にも言ったことはなかった。とても小さい頃、確かに男の子相手にときめきを覚えた。それは懐かしくほろ苦い、大事な記憶だった。
「ナダ」
 彼はその時の子供そっくりだった。
 伶が口にすると、彼も繰り返した。
「ナダ」
 これでよかったのかはわからない。でも多分、彼に会うことは二度とないだろう。だとしたらよく似たこの子供をそう呼んでも構わないだろうと思った。
「難陀? 何?」
「ナダ」
「なだ、くん? よしわかった」
 留美子は切り替えが早い。この得体の知れない子供を、 とにもかくにも客人としてもてなそうとしてくれているみたいだった。
「しょうがない、じゃあハンバーグ作るかぁ」
「やった」
 伶が小さく呟くと、じっと礼を見ていたナダも感情のこもらない声で言った。
「やった」


 留美子の作るハンバーグはおいしかった。
 だが、ナダはそれを手づかみで食べようとするので、伶と留美子は説明に苦労した。何とかフォークを使わせられるようになった頃には、ハンバーグはすっかり冷めていた。
「この子、ほんとどこから来たの……?」
「俗世間とは距離を置く教育方針なんだろ」
 伶は適当なことを言う。
 ナダは、 家のあちこちで衝突事故を起こした。
 それは文字通りの衝突だった。ドアを開けられずに、そのままぶつかるのだ。
「お前、壁の通り抜けでもできたの?」
 そうでないと説明がつかないくらい、ナダは堂々とドアにぶつかった。強くぶつけた額を、ナダはこすっている。痛みがないわけではなさそうだった。
「まぁいいや……風呂入ろうか」
 この調子だと、一人で風呂に入るのもまず無理だろう。俺は子守じゃないと言いたいところだが、この際仕方がない。子供とは言っても10歳ぐらいではあるのだし、さすがに留美子と一緒に入らせるのは気が引ける。
 だけどやっぱり、風呂の中でもナダは自由奔放に振る舞い、伶は全身ぐったりと疲れ果てた。


「じゃあ心配だから、伶ちゃんとナダ君は一緒に寝てね」
「なんでだよ、部屋余ってるだろ」
 いくらでも一人で眠れる部屋はあるはずだった。だからこそ、伶もここで世話になっている。まぁ、ろくに宿と言える宿もそもそもないというのはあるのだが。
 いい加減、子守には疲れてきたところだった。
「だから心配だって言ってるじゃない」
 確かに、まるで生活能力などなさそうな子供だ。それはわからないでもない。寝ている間に、布団にくるまって窒息死でもしないとは言い切れない気がする。 
 でも、誰かと寝るのは落ち着かない。
 これまで怜は誰かと一緒に暮らしたことはない。伶はパーソナルスペースは守りたいタイプだ。あまり四六時中誰かと一緒にいるのは気が引けた。
「……わかったよ、しょうがねぇな」
「がんばって、おやすみ。ナダも、おやすみ」
「おやすみ」
 ナダは、留美子にオウム返しに言葉を返す。
 相変わらず、わかっているのだかいないのだか、よくわからない。だがその様子は可愛らしいと言えなくもなかった。子供なんて、好きじゃないはずだったのに。
 ――私のこと好きじゃないでしょ。
 直近で彼女と別れたのはいつだっただろう。少なくとも思い出せないぐらいは昔だ。金を払って付き合いをしていた女性は、金がなくなるとさぁっといなくなった。
「じゃあ、寝るか」
 伶はナダの手を引いて、寝室へと連れて行く。ベッドの脇に、ナダが眠るようの布団を引く。押し入れから出したばかりの布団は少しかび臭かったが仕方がない。明日、晴れていたら干しておこうと思う。
「ほら、おやすみするんだよ」
「おやすみする……」
 ナダは心なしか、とろんとした目をしているようだった。子供らしいところもあるものだ。彼を布団に横たえ、例もベッドに入った。
 田舎の夜は暗い。そして静かだ。目をつぶると、真っ暗闇に覆われる。
 普段から寝つきのいい伶はすぐに、眠りに落ちて行った。
 ――こんなこと、しても無駄だ。
 ここはどこだろう。視界がグラグラと揺れる。性能の悪い手持ちカメラみたいだ。薄暗い。
 ――もうお前と同じ種族はいない。
 ここはどこだろう。ブレる視界のせいでよく見えない。誰か男二人が争っているように見える。
 ――ここにはもう海がないんだ。
 キーンと耳鳴りのような音がした。
 体が重い。
 まだ夢の続きかと思った。目を開いているはずなのに、真っ暗で何も見えなかった。心臓が嫌に早く脈打っている。
「誰……だ……」
 体の上に、何か重いものが乗っている。これが噂に聞く金縛りというやつだろうか。体が動かない。ずっしりと重い。
 いや金縛りにしては……何かが乗っている。人の形をしているように見える。
「ナダ……?」
 だがそれは子供の体型ではなかった。さすがに子供にのしかかられていても、そこまで重く感じたりはしないはずだ。 
 あの、男だ。塔にいた男。伶の体を好き勝手に蹂躙した男。上半身は裸だった。薄暗い中でも、長い髪が白っぽく光って見える。
「ひっ……」
 だが何かがおかしい。ベッドサイドに敷いた布団を見るが、そこは空だった。
 直感的に思った。これはナダだ。
 よく見ると、男はナダに貸してやったズボンを履いている。寝る前まで履いていたときはぶかぶかだったのに、今は窮屈そうだった。
「お前……姿を変えられるのか」 
「何のことだ」
 昼間の年齢は10歳かそこらだった。だが、今はどう少なく見積もっても大人だ。口調もしっかりしていた。 
 だがそれがわかっても、どうにもできない。のしかかられたまま、まるで捕らえられた獲物みたいに、伶は動けなかった。 
 ぺろりと、まるで味見をするみたいに、男は伶の首筋に舌を這わせた。
「ひっ……」
 数日前にされた事がよみがえる。
「お前……、なんで、こんなことするんだよ」
 多分人間ではない。そうだとして、伶をなぶる理由もきっとないはずだった。
「待っていた」
「何が……!」
「お前を」
 大人の体の時の方が、言葉はしっかりしている。だけどそれでも意味はよくわからない。
「呼んでただろう」
「何がだよ……!」
 あの塔の中でのように、また変なことをされたらたまらない。あれは、たまらなく気持ちがよかったけれど。でもダメだ。
「呼んでいた」
 身動きが取れない。今頃はスヤスヤ眠っているだろうが、家の中には留美子だっている。声くらい聞こえてしまうかもしれない。
 男は伶のシャツを破りそうな勢いで脱がせていく。抵抗もろくにできず、伶はされるがままになっていた。肌に触れられると、びくりと身体が震えた。どうしようもなかった。あの時みたいな、身体の重さはない。だけど確かに、どこかに記憶がある。
 覚えている。触れてきた手のひらのことを。
「光を見た」
「……光?」
 何を言っているのかよくわからない。とにかくこのままではやばいということしか。胸の当たりをさすられて、息が上がってくるのがわかる。
「やめろ……!」
 伶は思い切り彼を押しのける。
「こういうことは本来! 好きあった同士がすることなんだよ……!」
 自分でも何を言っているのかと思った。伶自身、それほど純情なわけでもない。むしろ遊びで寝ることの方が多かった。
 表面的で、説得力のない言葉だ。でもどうして自分を襲ってはいけないか考えたときに、それしか言えなかった。なんで、遊びでばかり付き合ってきたのだろう。
 ……目の前の男は、戸惑った顔でじっと伶を見ている。遠い記憶がうずく。彼この田舎に遊びに来たときに会った、近所の子供だった。
 ”遊ぼうよ”
 祖父母の家には何度も来ていた。今いるこの家の裏だ。今は誰も住んでいなくて、廃墟同然になっている。彼のことが好きで、ずっとここにいたいと泣いて両親を困らせた。
 ”また来るから……!”
 だけど結局、東京での暮らしに伶はすぐに戻った。最新ゲームや話題のテレビや、そんなことに溢れた日常の中で、彼のことも徐々に忘れていった。
「お前、本当にどこから来たんだ」
 ナダはきょとんとしている。姿が変わっても、昼間の子供と中身は同じようだった。伶の言葉をただ繰り返すしかなかった子どもに。
「ここ」
 彼は伶の胸を指差す。
「何言ってんだよ」
 伶はそれを振り払った。
 歯がゆかった。もっと何か、こいつに言ってやれることがあるような気がした。でもうまく言葉が出てこない。
「伶ちゃん」
 ドアの外から呼ぶ声がして、びくりと伶は反応してしまう。まさかずっとドアの外にいたのだろうか。会話まで全部聞こえていた? 心臓がばくばくいっている。
 気がつくと、金縛りみたいな拘束は解けていた。
「ちょっと待て」
 昼間のあの子供に押し倒されたなんて、留美子には絶対に知られたくない。押し倒されたどころか、ナダと成長した男とが同一人物なら、もっと既に色々なことをされているのだけれど……。
 伶は慌てて身支度を整え、廊下に出た。パジャマ姿の留美子がそこにいた。
 留美子は思いのほか真剣な表情をしていた。
「何だよ」
「覚えてる?」
 いつも笑みを絶やさない彼女が、こんなに真剣な表情をしているのを見たのは初めてかもしれない。
 廊下は薄暗く、かすかに窓から月明かりが差し込んできているだけだった。田舎の夜は暗い。だけどその分、星が明るい。
 そこでやっと伶は、彼女が手に持っているものに気づく。
「それ、どうしたんだよ」
「……伶ちゃん、あの子は何?」
 留美子の手に握られていたのは、包丁だった。彼女が夕飯を用意してくれたのに使った、台所に置いてあるべきものだ。
「なんでそんなもの……」
 信じられなかった。パジャマ姿で、廊下で手にしているべきものではない。伶は思わずそれを奪おうとしたけれど、留美子の反応は素早く冷静だった。さっと包丁を背後に隠し、言った。
「伶ちゃん、聞いて。……覚えてる?」
 ほう、とどこかで鳥の鳴く声が聞こえた。廊下は薄暗く、裸足のままの足元は冷えていた。
 留美子も裸足だった。だけどまるで気にしていないように見えた。
「何がだよ……」
 留美子ははっきりと口にした。
「ヤマタノオロチを殺す方法」