「俺は父さんの味方だよ」
兄はそう言った。
言ってもいいんだ、と思った。ぎすぎすした家庭の中で、どちら側につくのかなんて口にしたら、怒られるに違いないと思っていた。
「れーちゃんもそうだろ?」
兄はそう言って怜を見た。
「……うん」
その場では、それ以外の答えはできなかった。
兄はその頃にはもう、あまり家に寄り付いていなかった。
いつもガラの悪い友人と一緒にいた。家の間で女の人が泣いていることもあった。
兄の評判は最悪だった。それでも怜はいつもどこかで、兄を嫌えなかった。彼のほうが優れていて、正しいことは明白に思えたから。
「めそめそして子供みたいだから、お前はれーちゃん」
兄は笑っていた。
本当はその呼び方は嫌だった。でも、言えなかった。
数日後、兄が母についていったことを知った。
父に付いていくのを決めたのは自分なのに、「騙された」ととっさに思ってしまった。
「……母さんのこと、嫌いなんじゃなかったのか」
家を出ていく直前の、兄に聞いたことがある。
「お前のほうが嫌いかな」
荷造りをしながら彼は言った。何でもないことのように。
そのころ、怜はもう母とはほとんど口を聞いていなかった。そもそもの離婚の原因は母だと信じていたし、別に男がいるというのも嫌悪の対象だった。
「ババアのことも別に好きじゃねぇけど、どっちかっていうと金あるだろ」
怜は何も言えなかった。
嫌いだと言われても、それから兄が父の悪口をいろいろと並べても。
兄にはなにひとつ、口答えできなかった。
父についていくことを決めて明らかによかったことがひとつある。
兄と、離れられたことだ。
・
「何の話だよ」
手に嫌な汗をかいていることを感じる。
大丈夫だ、もうあの頃の子供じゃない。ただ兄の言うことを聞くだけなんてもうまっぴらだった。
「俺も父さんの息子なんだけど」
兄は平然と言い放った。
「何を今更……!」
激昂しそうになる気持ちを抑える。
「もう他人だろ!!」
兄は思い切り懐中電灯の光を当ててくる。
「他人じゃないよー、血がつながってるんだから」
数年ぶりに見る兄の髪は、色の抜けた茶髪で、薄暗いせいではなく血色が悪かった。どうせろくな生活をしてないのだろう。昔からそうだった。
「れーちゃんが相変わらず馬鹿なことはわかったからいいんだけどさ」
「何だよ」
「俺にも父さんの遺産の相続権はあるよ?」
兄の言うことなんて聞くつもりはなかった。でも反射的に、きっとそうなのだろうなと思ってしまう。
兄はいつだって正しかった。
学校のテストなんて、勉強もしないのにすらすら解いてみせた。ちゃんと勉強しようとしても、ろくに良い点を取れない怜とはまるで違った。
「俺は放棄なんてしてないし」
兄は大げさな仕草で腕を広げてみせる。
「じゃあ、今すぐ放棄しろよ」
権利関係なんて、きちんと確かめたわけじゃない。
でも、兄も父の子供であることだけは確かだ。
「別に、大した金になんねぇよ」
「なら半額俺に分けられるだろ?」
「あんた……金に困ってるのか?」
「金はいくらあっても困らないだろー?」
怜だって、来るのに躊躇したほどの田舎だ。わざわざ兄が、こんなところにまで来るだろうか。田舎の土地だから、広いとはいえ都会とは値段がまったく違う。
例えば怜と同じ、よほど金が必要な状況にでもあるのだとしたら。
きっと彼はなりふり構わない。
ぐいと首元を掴まれた。そのまま無理やり座席から立ち上がらされて、車外に引きずり出される。
「お前、わかってんだろうな」
兄は間近で凄んだ。彼と喧嘩して、怜が勝てたことなどない。
「俺に逆らえんのか?」
「……っ」
殴られると思った。とっさに怜は目をつむったが、予想したような衝撃は襲ってこない。
首元が解放され、急に身体が自由になる。
「な、にすんだよ……!」
地面に投げ出されていたのは、兄の方だった。
「離せっ」
いつのまに車から出たのか、気づかなかった。ナダは怜と彼の間に立ち、地面に転がる兄を無表情に見下ろしていた。
「てめぇ……!」
兄がすぐに身体を起こし、ナダに殴りかかろうとする。体格ではナダの方が背は高い。だが、兄はなにをするかわからない。
「やめろ……!」
とっさに、怜はナダを止めに入っていた。兄は昔からチンピラとつるんでいたし、歯向かう人間には容赦しない。幼い頃に刷り込まれた恐怖が蘇る。
怜はナダの腕を掴んでいた。
だが、兄は再び、地面に倒れ込んだ。
「こいつに手を出したら殺す」
「な……んだよ!」
一体、ナダが何をしたのかわからなかった。
殴ったり、蹴ったりはしていなかったはずだ。なのに、兄は地面に倒れている。
「わかったか?」
起き上がろうとしているのに、できない様子だった。わけがわからない。
「逃げるぞ……!」
だが、チャンスだ。怜はナダの手を引き、そのまま走り出した。
車を捨ててきてしまったのは失敗だったかもしれない。
走っても走っても、道は続いていた。
あたりは暗く、携帯の充電も残り少ない。田舎の夜は、闇が重い気がする。ずんと沈み込むような質量があたりに充満しているように思える。
だが不思議と、明るい都会に帰りたいとも思わなかった。
「お前……さっき、兄貴に何したんだ」
「何のことだ」
隣を走るナダは、息を切らす様子もない。
彼が人間でないことなど、はじめからわかっているつもりでいた。でも、まざまざと見せつけられると困惑する。それは、彼が恐ろしいからではない。
むしろ、これほどまでに恐ろしく思えないのに、それでも人でないということがよくわからないのだ。
「兄貴、ガラスの破片で上級生を血まみれにしたことがあるんだ」
学校でも、語り草になっていた。あいつの兄はやばい、そんな風に怜も言われた。それが得意だった時期もあった。
「だから?」
ナダは本気で何も思っていないようだった。当たり前かもしれない。彼にとっては、怜の兄がどんなバカをしでかしていようと関係はないだろう。
ナダは、全然違う原理で生きている。
そもそも人じゃない。
たぶんずっと、長い時間を生きてきた彼からしたら、兄のことなんてちっぽけだろう。
そう考えたら、兄を恐れていた事自体、ばかばかしい気がしてきた。
「なぁ、お前にも兄弟とかいなかったのか?」
「兄弟?」
「同じ親から生まれた子供ってことだよ。女だったら姉妹だけど」
「……わからない」
「また会えるといいな、仲間に」
自然とそう口にしていた。
だけどそれはきっと、難しいことなのだろう。
もしかしたら彼は本当に、種族の最後の一人なのかもしれない。人間ではないのだから、何か方法があるのかもしれないけれど、普通に考えたら一人では子孫を残せない。
そうしたら、何も打つ手はない。
あとは滅びるのを待つだけだ。
「ずっと一人って、寂しいか……?」
そんなこと聞いてどうするのだろう。
相手は人間じゃない。
「寂しい、というのはどういう意味だ?」
なぜか、胸が引き絞られるような苦しさを覚えた。
その言葉の意味はよく知っている。
父がいなくなって、怜はずっと一人だった。誰にも頼れなかった。金を稼げば楽になると思った。だけど、何も変わらなかった。
ほんの一時的に周りに人もいた。だけどいなくなってしまった。金がなくなったとき、助けると言ってくれる人は一人もいなかった。
ナダとはまるで積み重ねた時間が違うかもしれない。
でもたぶん、同じだ。とっさにそう思った。
「寂しいっていうのは……」
そこまで言いかけて、怜は言葉に詰まる。
じっとナダが振り返って怜を見ていた。彼は人とはまるで違う原理で生きていて、ずっと年上かもしれないけれど、子供のようだ。
ぽつんと頬に水滴を感じる。
「雨だ、急ごう」
小雨なら走り続けられるだろうと思った。だが、唐突な雨は、激しく地面を叩き始めた。
そういえば、夕方から霧がすごかった。都会の夕立にも似て、激しい雨だった。
「……っ」
怜は足を滑らせそうになり、ナダに支えられる。
「悪い……」
足元がぬかるんできていた。暗い中で走るには無理がある。少しでも兄から逃げたかったけれど、怪我をしたらかえって面倒なことになる。
付近にはぽつぽつと人家が見えていた。村の方に近づいてきているのだ。
だがさすがに深夜に家を訪れるわけにはいかない。怜は、田んぼの隅にある納屋を目に止めて言った。
「雨宿り、するか」
車をおいてきてしまったことがつくづく悔やまれた。
足がないと、田舎ではどこにも行けない。
「寒いか……?」
納屋には懐中電灯が置いてあった。電池がいつまで持つかも不安だし、外から見られる心配もあったが、それでも真っ暗よりはマシかと思ってつけた。
納屋は二畳程度の狭さで、農耕器具や藁などが雑に置かれていた。ひとまず、雨風はしのげるだろう。
「いや」
「お前って、どこまで言葉、わかってんの?」
「どこまで?」
「寒いっていうのはどういうことか、わかるんだよな」
「ああ」
「自分が、何なのかは、知ってるのか?」
子供の姿のときも、怜の言葉を繰り返すばかりだった。まるで生まれたてであるかのように。
記憶が完全ではないと言っていたから、そのせいなのだろうか。
「何?」
「人ではなくて、何なのか」
ナダは答えなかった。
答えられないのか。
怜は話を打ち切り、とにかくここで夜を快適に過ごすための対処をしようとする。
「タオルでもあればいいんだけど……」
藁が積まれているのは見えるが、それで水滴を拭くには無理があるだろう。
怜は思わずくしゃみをする。
「寒いな……」
濡れた服が肌に張り付いていた。いっそ、脱いでしまった方がマシかも知れない。やはり明かりを消すべきか、だがわざわざ消すというのも意識しているようで変だろうか。
そう思ったとき、ふいに身体を引き寄せられた。
「何……?」
「寒いんだろう」
懐中電灯が、無表情なナダの顔を照らしていた。
怜は、ぼんやりとそれを見つめた。改めて見ても、ちょっとないくらい整った顔立ちをしている。
何もかもわかっているような表情をするときもあれば、無垢な子供のようでもある。ちぐはぐで、怜の知っているどんな人間とも違った。
「お前は……大丈夫なのか?」
振り払うこともできたけれど、怜は抱きしめられたままでいた。彼の体温が、暖かかったからかもしれない。彼の服も濡れていた。だけどその奥にある肌の熱さが、はっきりと感じられた。
「ああ」
どくりと身体の奥で何かがうずく。
「寒さは大丈夫?」
「そうだ」
「じゃあ、寂しさは?」
ぴったりと肌を合わせていると、彼の呼吸するリズムが伝わってくる。
彼にはその言葉は伝わらない。わかっていても、ついそう口にせざるをえなかった。
彼が一人で過ごしてきたのはどのくらいの時間なのだろう。怜だったら耐えられない。もう今だって、何もかも投げ出してしまいたいと思う。
「一人は、辛いんだよ」
怜はぼそりと呟いた。どのくらいの間、こうやって彼は一人で呼吸しているのだろう。
兄は勉強ができたし、あんなにおかしな性格なのにいつもまわりには誰かがいた。女性にもモテているようだった。自分も、成長すればああなれるのかと思った。
だけど成績は一向に上がらず、彼女もできなかった。
何が違うのだろう。
わからなかった。
離婚してからの父は働き詰めだった。あまり条件のよくない、短期の仕事なども多かった。身体を壊しかねない働きぶりだとは知っていた。だけど何も怜は言わなかった。
父にも、裏切られたように思っていた。
母と兄はきっと、優雅な生活をしているだろうと想像し、勝手に父への苛立ちをつのらせた。
「寂しいというのは、一人のことか」
「……そうだけど、少し違う」
濡れた服を着たままだと、少し暖かくなってもまたすぐに体温が奪われてしまう。
怜は少しナダから身体を離して、濡れたシャツを脱ぎ捨てた。思い切り雑巾のように絞ると、水が滴り落ちた。
「お前も、一度脱いだほうがいい」
何か言うかと思ったが、ナダは素直に従った。
着ていた服を脱ぎ捨て、怜の見よう見まねで絞っている。
その仕草は、まるで子供みたいだった。彼はやっぱりちぐはぐだ。
薄暗い中ぼうっと光を放っているような皮膚は白いが、筋肉がついて硬そうだった。
「お前、本当の姿とか、あんの……?」
こうして彼の裸をちゃんと観察するのは初めてだったが、人間にしか見えない。
だが、おそらくは違うのだ。
「……本当の姿?」
怜は思わず、手を伸ばしていた。濡れて冷えた皮膚は、だけど確かにその下に熱を持っている。
「神様としての姿みたいなやつ」
これは仮の姿で……もし、留美子の言っていたような仮説があたっているのなら、神としての本性があるのだろうか。絵本で見たヤマタノオロチは、鱗のついた蛇のような姿だった。
「ほら、この人間の姿は仮で……いつか、なくなるものだとか?」
なめらかな皮膚は、鱗とは似ても似つかない。
ぼうっと彼の肌を撫でていた怜は、また再びくしゃみをした。
「うわっ」
ふっと明かりが消えるのと同時に、ナダの腕の中に抱え込まれた。
そのままバランスを崩して、ふたりとも藁の上に倒れ込む。外はまだ雨が降っているみたいだった。
明かりが消えてしまったのは心細いが、兄が追ってくることを考えればむしろつけていないほうがいいだろう。
暗い中で、どくどくとナダの心臓が脈打っているのがわかった。