兄は、昨日見たのとまったく変わりのない姿でそこにいた。疲れているようにも見えない。
その手に持っている拳銃だけが、非日常的で異様だった。
「……早かったね、兄貴」
あまりに非現実的で、玩具のようにも思えた。だが、兄ならどうにかして手に入れかねない気もする。
怜はかろうじて軽口を叩いたけれど、ひどく緊張していた。
「お前の車使わせてもらったからな」
「俺のじゃないけど」
この部屋から出るには階段を通る以外のルートがない。そこを兄にふさがれている今、逃げ道はない。
兄と、その拳銃をどうにかしなければ。
「遅いよ、健ちゃん」
留美子は怜と正反対のことを言う。二人が言葉を交わす様子は親しげだった。
小さいころ、確かにこの辺りに何度も遊びには来たし、留美子とも会っていた。
だが特に兄と留美子が親しかった記憶はない。従兄弟であるとはいえ、まだ二人につながりがあるとは思わなかった。
「こいつがとろいのがいけねぇんだよ」
兄は拳銃で怜の方を指す。
日本で拳銃を手に入れるのは簡単なことではない。モデルガンかもしれない。その可能性の方がむしろ高い。
だが、もし違っていたら取り返しがつかない。
怜はごくりと唾をのむ。
「その男を殺せばいいんだろ?」
兄はこともなげに言った。どうやら、ナダのことを言っているようだった。
当たり前に、「殺す」という言葉が出てくることに背筋が凍る。
怜はナダを、さりげなく背中に隠そうとする。だが、彼の方が背が高い。兄にそこまで射撃の能力があるとは思えないが、頭を狙われたら終わりだ。
いや、どちらも殺すつもりなら結局同じなのかもしれない。
ここは誰も来ない塔の中で、怜は東京から追われてやってきた。夜逃げのようにして出てきたので、東京の知り合いとは音信不通だ。留美子も兄とグルであるなら、警察に通報してくれるような人間はいない。
このまま怜とナダが死んでも、誰かにその死が知られることさえないかもしれない。
「震えてる」
耳元でぼそりとナダがつぶやくのが聞こえた。
「言うなよ」
銃の前に、必死になって立っているのだ。自分の足が震えていることなんて知っている。
「銃を持ってるんだ」
怜は小声で返す。ナダは昨夜、兄を撃退したように見えた。彼にもそれなりに戦う能力はあるのかもしれない。だが、銃を撃たれたらどうしようもないだろう。
「あれで、撃たれたら死ぬから、今は動くな」
怜はわずかに振り向いてそう答えた。少なくとも、銃弾は無限ではない。銃を持っているからといって、絶対に兄が勝つというわけじゃないはずだ。
「その子、銃で撃っても死なないかもしれないよ」
日記に再び目を落としていた留美子が言う。怜にとってはそうだとありがたいが、試してみるには危険すぎる。
「じゃあどうすんだよ」
「異類婚って、民話としてはポピュラーな部類なんだよね。竜神伝説なんかも日本中にあるし、つまり、まぁありふれた話なんだよ」
「何がだよ」
いら立ったように兄が留美子を促す。
「異類婚姻譚の基本形はこう。婚姻が成立している間は、人でないものは居続ける。だけど、正体を見られたら帰っちゃう。まぁ、鶴の恩返しだね」
「お前、いつも話が長くてめんどくせぇんだよ」
兄がイライラしたように口にする。
「君ら兄弟は短慮すぎ」
「一緒にするな」
怜は兄と一緒くたにされたことに思わず文句を言ったけれど、二人ともに無視された。
「さっさと金を手に入れて、お前も都会に出るんだろ? 俺だっていろいろ予定がつかえてるんだよ」
留美子は大げさにため息をついてみせる。留美子はまだ語り足りないようだった。
だが彼女がそうやって演説をしている間は、兄もきっと動かない。
短慮なんだろうか。確かに、留美子の話すようなことはいくら考えても自分にはよくわからない。
でも、わかることだってちゃんとある。
自分の命は、生き延びたとしてもせいぜい八十年だ。だが、ここで彼を解放できなければ、彼はずっとここに縛られたままだろう。今までそうだったように。それが、どれだけの年数なのか、正確にはわからないけれど、
八十年どころじゃなく、百年も、二百年もずっと。
「今回の場合、そもそも婚姻は成立してない。婚姻するっていう約束だけで、ずっと引き伸ばしてる」
「それは、どうすればなかったことにできるんだよ」
怜が叫ぶように言うと、留美子はやっと怜の方を見た。
たぶん、指輪の片割れが必要だ。そしてそれはきっと、この塔のどこかにあるのだろう。
「怜ちゃん、ずいぶんその子の肩を持つんだね」
金ならもう別に、手に入らなくてもいい。借金取りに漁船に乗せられようと、どこかで強制労働させられようと、それで死ぬということはないだろう。どうにかなる。
でも、指輪がなければナダはあと何年、何百年さまようかわからない。
「その日記、貸してくれ」
怜は留美子に向って手を伸ばす。
「なんで」
「何か挟まってたりしなかったか」
「何?」
「指輪とか、何か……」
指輪という言葉に、留美子は反応しない。だがポーカーフェイスを装っている可能性もある。
「貸せ」
怜は留美子の手から、日記を奪おうとした。
だが、思いのほか強い力で抵抗される。
「やめてよ」
日記帳は立派な表紙のものだったけれど、ずいぶん古びているようだった。引っ張り合ったらちぎれてしまいそうだった。
「壊れるってば!」
先に手を離したのは留美子の方だった。別に怜はこんな日記帳、破けてしまってもよかった。何かヒントが書いてあるなら役立つが、そうでないならむしろ燃やしてしまいたい。
こんなところに、ナダをたったひとり縛り付けるなんて、人としてやるべきことじゃない。
怜は奪った日記帳をぱらぱらとめくる。古びた文字が書かれているばかりで、すぐには読み解けない。何も挟まっているものもなかった。なら、後はどこかに指輪の置き場所などが書かれていないか。
「健ちゃん、やめて」
留美子がつぶやくのが聞こえた。
ぱん、と響いた銃声は、あっけないくらいの迫力だった。
火薬の匂いがする。
怜は、突き飛ばされ、壁に激しく肩を打ち付けた。せっかく奪い取った日記帳を取り落してしまう。
床に生ぬるい赤い血が広がっていく。だがそれは怜のものではなかった。
「ナダ……!」
怜をかばうように飛び出した彼は、腹のあたりを撃たれていた。血がみるみる広がっていく。まるで映画の中の出来事みたいに、現実感がなかった。
本物の拳銃だ。
「化け物でも、血は赤いんだな」
「今は人の恰好してるからじゃない? 人間のふりしてた鶴の奥さん撃っても同じでしょ」
平然と二人が話す声も、もう怜の耳には届かなかった。
怜は必死に傷口を押さえようとする。だが血はあとからあとから流れ出してくる。
彼は人じゃないから大丈夫なはずだ。
きっとそうだ。
そう思おうとした。だけど、到底それが信じられないくらいの血の量だった。
「なんで……!」
ナダが守りたいのは、あくまでこの塔だったはずだ。兄が最初に撃とうとしたのは、怜の方だった。
ナダが怜をかばう理由なんてない。ぐったりとした彼は、何も答えない。
「この塔、何回発破しようとしても、火薬に火がつかなかったりで壊せなかったらしいけど……今なら大丈夫かな」
「撃たなくていいのか?」
兄が、自分に銃口を向けていた。だけど怜は、ぼんやりとそれを見返すことしかできなかった。
別に、ナダが殺されても自分に実害などないはずだった。むしろ、塔が壊せることになって都合がいい。
なのになぜこんなにショックを受けているのか。
いっそ自分も撃たれてもいいとさえ、思ってしまうのか。
「さすがに兄弟殺しはやめときなよ」
「何だよそれ」
つまらなそうに兄が言う。銃をまだ撃ち足りなくてたまらないようだった。
怒りで視界がぐらぐらする。だけど、飛び出して行って無理やり銃を奪うような体力ももうなかった。
「このままここを壊せば、事故で死ぬでしょ」
どうせなら、自分も撃てばいいのにと思う。
いっそ、そうしてくれれば楽になる。
武器もない怜は、二人に勝てるすべがない。どうせ頭もよくないし、体力だってそんなにない。もう無理だ。
いとこの留美子だって兄の味方だった。誰も、怜にはいない。
ここでこのまま塔とともに埋まっても、誰も探しにさえ来ないだろう。
「ばいばい、怜ちゃん」
指輪も見つからない。ナダも撃たれた。
二人が去っていったあと、怜とナダはそのまま小部屋に残された。ナダの傷口からは血があふれ出してくる。はっとして怜は立ち上がった。呆けている場合じゃない。ベッドに残されていたシーツで、ナダの傷口を縛る。
「お前、人じゃないんだろ、このくらいで死なないよな」
だが、ナダは苦しそうに眉根を寄せたまま何も答えなかった。
「なぁ」
脂汗が浮いている。どうしてこんなときに限って、人間のように苦しんでいるのか。
怜は何とかナダの体を背負おうとする。階段を降りるにはそれしかない。だが、自分より背が高く大きい彼を、うまく背負うことができない。
「子供の姿になれないのかよ」
だが、ナダはまるで答えない。
「くそっ」
ぐらりと地面が揺れた気がした。彼らは、たぶん本気だ。怜を本気で、この塔と共に埋めてしまおうとしている。
何かがナダの服から零れ落ちるのが見えた。あの指輪だった。
ぐらりと大きくまた塔が揺れて、怜はその場に転んでしまう。
「っ……」
ずるりとナダの身体が落ちる。
「何なんだよ……」
床に打った頭の前に、ちょうどあの指輪が落ちていた。
「こんなもの……!!」
おもちゃみたいなそれを、捻じ曲げようとする。だが金属は思った以上に固く、楕円に近い形になっただけだった。
「くそっ」
地面がまたぐらと揺れた。怜は再度、ナダを背負い直す。
もともとこの塔を壊す試みは何度も行われてきた。古いものだし、本当なら一瞬で壊れてもおかしくなかった。
どおん、という鈍い音が響いた。何とかしてもっと早く外に出られないかとあたりを見渡すが、窓だってない。もしあったとしても、このまま落ちれば即死だろう。怜はナダの体を背負ったまま、何とか一歩一歩階段を降り始める。
「くそっ」
背中が生温かく濡れているのがわかる。本当に、人間のように死ぬのだろうか。このまま自由にもならずに。
怜の足取りは重かった。石造りの階段は歩きにくく、そのくせ断続的な揺れが続いている。
このままじゃ、下まで降りるのにどれだけかかるのかわからない。
「なぁ! 子供の姿になるとか、何とかできないのかよ……」
怜の言葉はほとんど泣き言のようだった。
「……置いて行ってくれ」
「聞こえねぇよ!」
「置いて」
「聞こえねぇって言ってるだろ!!」
一人なら駆け降りることもできるかもしれない。でも、その選択肢は最初からないも同じだった。
こういうときに、本当なら神に祈ったりするものなのかもしれない。だけど、神とは何なのだろう。背中に背負っている彼はぐったりと重いばかりだ。
「くそっ、神様なんだったら、もっと何とかしろよ……!」
ひときわ大きくどんという音がする。そうしてぐらぐらと激しく視界が揺れた。
「うわっ」
怜は思わず足を滑らせる。石に頭を打ったら、それだけでもう打ちどころが悪ければ終わる。バランスを崩し、背中からナダが滑り落ちる。視界が揺れる。塔の奥から轟音がする。
――もしいるのなら、神様。
最後に一度だけ願った。
・ ・ ・
用水路のそばで、怜は地面に絵を描いていた。
お父さん、お母さん、お兄ちゃん。それからその四人の顔を消して、怪獣を描いた。
「これ、何の絵?」
声をかけられて、怜は顔を上げる。
祖父母の家には何度も来ていたが、家の中にはあまり遊ぶものがない。兄と一緒にいるとぶたれたりからかわれたりするのが嫌で、一人でふらふらしていた。
普段住んでいる町と違って、田舎は果てがなかった。普段は、あまり遠くに行かないようにと言われている。隣町まで行かないようにと。だけどここは、どこまでいっても隣町にたどり着かない。
「かいじゅう」
地面に棒きれで描いたのは、この間映画館で見た怪獣だった。町を思い切り踏みつぶしていく様子は、怖かったけれどどこかかっこいいとも思った。
声をかけてきたのは、現実離れしているほど整った顔立ちの子供だった。髪が長くて、女の子のようにも見える。だけど精悍な印象もあるから、おそらく少年なのだろう。
「お前、迷子?」
同じ年頃の子供は、この辺りにはいないはずだった。でも、当時の怜がそれを疑問に思うことはなかった。
「遊ぼうぜ」
彼の周りだけ、空気が澄んでいるような気さえする。人見知りだったけれど、怜はとっさに声をかけていた。
「遊べない」
固く口を引き結んで彼は言う。
「なんで?」
でも、怜は何が何でも彼と遊びたかった。
「探してるんだ」
「じゃあいっしょに探そう」
怜は棒切れを捨てて、彼の手を取った。そんな風に強引なことをするのは、はじめてのことだった。彼は嫌がる素振りもなく、されるままになっていた。
「どこを探したらいい?」
「……持ってる人がいるはずなんだ」
こんなきれいな子供を、今まで怜は見たことがなかった。
小学校の同級生は、もっとみんなやかましいばかりだ。かわいいと言われている隣のクラスの子だって、怜にはそれほどと思えない。
彼の外見は、それとは段違いだった。神様が彼だけ特別に手をかけて、あらゆるパーツをデザインしたとしか思えなかった。
よく見ると、彼は少し目が青っぽかった。外国の血でも流れているのかもしれない。
ぼうっとしながら、怜は彼と一緒に探し物をした。
「どこらへん?」
探していると言いながら、彼の言うことはぼんやりとしていた。何を探しているのか。それはどこにあるのか。はっきりとは答えらえない。
「わからない」
「わかんないのに、探せるのかよ」
それでも怜は、彼と一緒にいたかったので、探し物が見つからなくても全然かまわなかった。
むしろ、見つからない方がいいとも思った。そうしたらきっと、ずっと一緒にいられるかもしれないから。ずっとここで、怜だけの遊び相手になってほしかった。
「ここ……じいちゃんちじゃん」
あちこち回っているうちに、家の近くにまで戻ってきていた。
怜たち家族が滞在しているのは、敷地の隅に立てた新しい建物の方だ。
祖父母が住んでいる建物の方は古くて、いまだにくみ取り式の便所だった。何となく、怜にとっては怖いところというイメージがある。
「こっちなのか?」
だが彼がどんどん進んでいくので、怜もついていくしかなかった。
そういえば祖父母は、近所の人の葬式で今日はいないと言っていた。来るたびに小遣いをもらえるので、怜は彼らのことは好きだった。
家の中に入るのかと思った彼は、ぐるりと家の建物を迂回して、裏庭の方に進んでいく。
「待てって」
何を探しているのかもわかっていないはずなのに、確固とした足取りだった。
そうして裏庭にある蔵の前で、彼は足を止めていた。
「ここ……?」
ぼんやりと建物を眺めている。中に入りたがっているように見えた。だがさすがに、蔵には鍵をしてある。
怜は迷った。
鍵のある場所は知っていたからだ。祖父がこっそりと怜にだけ教えてくれたのだ。
だが、ここに彼を案内していいものかわからなかった。
正直に言えば、せっかく見つけた遊び相手を――それもとびきり見ているだけで幸せになれるような彼を、すぐには解放したくなかった。
「そんなことより、遊ぼうぜ」
怜は彼の腕を引っ張る。
蔵のカギはいつでも開けられる。それを握っている限り、彼はきっとここから離れない。
……ちらりと、頭の隅で何か痛みのようなものが走った。
これから何が起きるかを、怜ははっきりとわかるような気がした。
この田舎に滞在している間ずっと、蔵に入りたい彼は怜と遊んでくれるだろう。そうして名残を惜しみながら自分は彼と別れる。
彼のことをすっかり好きになって。
そんな風に、自分と同性の相手を好きになることはずっと後まで、彼以外にない。それは小さな、だけど大切な初恋として自分の中にずっと残り続ける。
「あれ……?」
一瞬、自分の頭に宿った考えが、怜自身よくわからなかった。まるで一瞬でひどく大人になったかのようだった。
目の前にはまだ、彼が立っていた。
短い白昼夢を見たかのようだった。内容はもう、ほとんど覚えていなかった。
「これ」
そう言って、彼が手を差し出す。
「何だよ?」
掌にあったのは、楕円型をした金属だった。指輪のように見える。だけど無理に力をかけたのか、歪んでしまっていてとても指が通せるような状態ではない。
何だかよくわからなかったけれど、彼を蔵に入れてあげた方がいいような気がした。
「わかったよ」