蔵の中は埃っぽくて、じめじめしている。怜にとってはやっぱり恐ろしい場所だった。
「なぁ、こんなとこ早く出よう」
祖父に内緒で、怜は鍵を隠し場所から取り出したのだった。戻しておけばばれないはずだ。でも、やっぱり怖かった。
そんな怜の逡巡など気にする様子もなく、彼はどんどん蔵の中に進んでいく。
「あれ?」
中は埃がつもっていた。だが、彼が進んでいっても、足跡はついていない。
恐る恐る怜が追いかけると、当然のように足跡がついた。
「何だよ」
わけがわからない。どんな仕掛けなのだろうか。
でももう、進むしかない。
怜は彼を追って、蔵の奥へと進んでいった。古そうな箱や、農耕器具のようなものが乱雑に積んである。蜘蛛の巣があちこちにかかっていた。
「さっさと見つけよう」
もうここまで来たら、やるしかないと思った。怜はやけっぱちな気持ちであちこちの箱を開け、布をひっくり返し、埃にまみれた。どれもずいぶん古いものらしく、ほとんどぼろぼろだった。彼もその奥で同じようにしている。
それが置いてあったのは、小さな寄木細工の箱の中だった。
怜も昔、お土産でもらったことがある。ちょっとしたパズルになっていて、順番が正しくないと開かないのだ。でも、怜はそれが得意だった。
こつこつやっていくと手応えがわかる。
勉強は苦手だけれど、手先を使うことは得意だ。
「開いた!」
怜はとっさに、箱の中を見て首をかしげる。
箱の中には、おもちゃみたいな針金の指輪がひとつだけ入っていたからだ。
それは、さっき彼が持っていたのと同じだった。
「これ……」
違うのは、それが歪められておらず、きれいな輪を描いているということだけだった。
「お前の探してたの……これか?」
怜はそっと、指輪を取り上げる。
輪の向こうに、じっと怜を待つ彼の顔が見えている。もっと嬉しそうな顔をしてくれるかと思ったのに、彼は、まだ心細げだった。
「そうなんだろ? ほら」
せっかく指輪を見つけたんだから、もっと喜んでほしかった。出会ってからずっと、彼は寂しそうな表情をしている。
喜ばせたくて、怜は彼の手を取る。小さな白い手だった。その薬指に、指輪を通す。
指輪はぶかぶかだった。当然だ。子供の用の指輪ではないだろう。彼の柔らかい白い手のひらと、無骨な金属は不釣合いで、何だか痛々しかった。
どうして、彼の持っているのと同じような指輪がこの蔵にあったのだろう。
「……ありがとう」
ほうと息を吐いて、彼はしみじみした口調で言った。
「何だよ?」
彼はさっき手にしていた、歪んだ方の指輪を手にしている。
外からがたんと音がするのが聞こえた。車が戻ってきたみたいだった。きっと祖父母だ。蔵のドアは開けっ放しだ。勝手に入ったことが見つかったら怒られる。
「早く出よう」
だが、彼はまるで身動きする様子がなかった。
「手を貸して」
「外に出ないと」
「貸すんだ」
強い口調で言われて、しぶしぶ怜は手を出す。
そうすると、彼は怜の指に歪んだ方の指輪をはめてこようとする。怜はとっさに手を引こうとする。ままごとみたいで恥ずかしいと思ったのだ。
だが、彼はぐいと手を掴んだまま離してくれなかった。
指輪は歪んでいた。もし、怜が大人だったら入らなかっただろう。だけどまだ細い怜の指に、その指輪はきれいに収まった。
無骨な、おもちゃみたいな指輪だった。
だけど彼は、満足そうな顔をしていた。そうしてふっと笑った。
笑顔を見たのは初めてだった。怜は一瞬外に出ようとすることも忘れて見惚れる。
「おい、誰かいるのか?」
祖父の声だった。
いつも優しいけれど、きっと無断で蔵に入ったことが知られたら怒られる。
「ごめん、じいちゃん俺……」
そのとき、足元がぐらりと揺れた。地震だととっさに思った。ぐらぐらと視界が揺れている。怜はしゃがみ、そばにあった机の下に入り込もうとする。
「おい、ぼうっとしてんな!」
立ったままでいる彼の手を引いて、二人で転がり込むように机の下に潜った。埃っぽいが、もう気にしている余裕もなかった。ぐらぐらと激しく揺れている。どおおんと地鳴りのような音もした。
怜はぎゅっと彼の身体を抱き込むようにする。自分はどうなってしまっても、彼を守りたかった。
今日会ったばかりで、名前も知らない。だけど確かに、怜は彼のことが好きだった。
辺りが轟音と共に埃に覆われる。上の方の棚から何かが落ちてきたみたいだった。あたりが見えない。身動きが取れない。足がどこかに挟まってしまったようだった。
祖父の声が聞こえた気がした。逃げなければと思うのに、身体が思うように動かない。自分の状況が信じられなかった。埃が視界一面を覆い尽くす。
怜は思わず目をつむった。
・
ぼんやりと意識が覚醒する。
「あれ……?」
頭が重かった。今、何だか大変な状況の夢を見ていた気がする。
塔が壊れて……いや、蔵だったか? そのどちらもが壊れるところが、確かに脳裏に焼き付いている。だけど自分の身体を見てみても、傷ひとつなかった。子供の姿ではなく、ちゃんと大人だ。
「夢か……?」
記憶がぶれている。蔵は確かに祖父母の家の裏庭にあった。鍵の置き場所も知っている。だけど、そこに入ったことなどなかったはずだった。
「なんで……」
確かに自分は小さい頃に少年に会い、初めて同性を好きになった。その記憶はある。
幼い姿のナダを見たときに、彼を思い出した。でも、同一人物だろうとは思わなかった。人間のように成長しない彼なら、幼い自分が会っている可能性も考えつくはずなのに。
何か、忘れているような気がする。
自分はなぜ、小さい頃に遊んだあの少年と、ナダを同一人物だと思わなかったのか。
「それは、お前が忘れたがったからだ」
ふっと、目の前にナダが現れる。大人の姿で、古びた着物のようなものを着ていた。髪が、ほとんど床にひきずりそうなくらいに長かった。初めて塔の中で会った姿に似ていた。
「え……?」
「お前は蔵に案内せず、ずっと自分と遊ぶように言った。自分だけと、ずっと」
「そんなこと……!」
蔵に案内をしなかったことは覚えていた。でもそれ以外はぼんやりしている。
彼に会い、好きになったこと自体ほとんど忘れていた。女性が好きなのだと、それ以外の可能性などないのだと思っていた。
……思い出したくなかったからなのだろうか。わからなかった。
「指輪が揃わないと、お前は塔の中で死ぬ」
「え?」
確かに崩壊する塔の中にいた記憶はある。そして、途中で記憶は途切れている。
「でも、あの蔵の中で、指輪は揃って……」
だけど自分は蔵には案内しなかった。
だとしたらあれは、ありえたかもしれない夢だったのだろうか。
怜は辺りを見渡す。
そもそもここは、どこなのか。
あの塔の中の部屋に似ていた。だが、差し込む光は蛍光灯のようにのっぺりとしている。奇妙に現実感がない。
ここが塔の中なのだとしたら、さっきの崩壊して死ぬというのはどうなっているのか。これから起こることなのか。
「ここはどこだ?」
「どこでもない」
「夢か?」
ぼんやりとして、非現実的な感じがする。もう死んだも同じようなことなんだろうか。だが、怜にはまだ手も足もある。ちゃんと動く。頭だって一応働いている。
「なんとかしてくれよ、神様なんだろ?」
「もう、その力はない」
「え……」
留美子が話していたことを思い出す。
「地形が変わり、人が変わり、信仰が変わった」
やたらと寂しがったりするわけでもなく、当たり前のことを話すように、ナダはあっさりと語った。以前、記憶が混濁していると言っていた。でもここでは、もうそんな様子もないようだった。
「もう神はいないんだ」
ナダは怜の方を見て、少しだけ笑った。怜は心臓を射抜かれたように固まる。
「増えないのか? 子供は?」
ナダはゆっくりと首を振った。長い時間塔に縛られて、それでもう仲間もおらず、たったひとりでずっといるなんて、怜には考えられない。
自分が弱いことを知っている。一人では何もできない。
怜より彼はよっぽど強くて、きっと頭もいいんだろう。でも、辛くないなんてことあるんだろうか。
「俺は……」
怜はそっと、彼の顔に手を伸ばした。彼は泣いたりしていなかった。
「お前を助けたい」
不思議と、そう口にすることを恥ずかしいとは思わなかった。
彼の表情はあまり豊かじゃない。せっかく、美しい顔をしているのに。もう一度笑ってほしいという気持ちで、その唇に触れる。
「それは、簡単なことだ」
不思議な感覚だった。怖いという気持ちも確かにあるのに、でも心の底ではそれほど怖くない。
現実感がないのに、触れている肌はリアルだ。服を脱ぎ、あちこちを撫でられる。
裸になった彼の肌には、あちこちに傷があった。
一番最初に塔に入り、無理矢理されかけたときには、なかったような気がする。気が付かなかっただけかもしれない。
傷は大きいものも、小さいものもあった。どれも古そうに見えたが、一つだけ新しいものもあった。
……それは、銃創のように見えた。
「お前は……撃たれたのか?」
確かにそのシーンを自分も見ている。兄にやられたのだ。
「兄貴は……結局、なんで」
ここはどこで、どうして今自分はここにいるのか。
記憶がぶれる。
目線で促され、自分の指を見る。そこにはあの金属製の指輪があった。
「あれ……?」
蔵の中で彼が小さい頃の怜にくれた指輪は、歪んでいたはずだ。子供でなければはまらないような形をしていた。だけどそれは今、大人になった怜の指にぴったりとはまっている。
あまりにもぴったりすぎるくらいに、きつく食い込んでいた。よく見ると、やっぱり少し形が歪んでいるようにも見えた。
――まるで、小さい頃からずっとつけていたみたいに。
ぐらりと視界が揺れる。
――確かにこれを、ずっと持っていたような気がする。同時に、彼を蔵に案内しなかった記憶もあるのに。
蔵の中で指輪を見つけたのは、ありえたかもしれない可能性の夢だと思っていた。
「お前……時間を、移動できるのか?」
怜が体験した夢の中では、指輪は二つ揃っていた。楕円形をしたこの指輪……これは成長した怜が、塔の中で歪めたものだ。
それを小さなナダが持っていた。
怜が歪めた指輪が、過去にあったということだ。
「戻せるのに、なんで指輪……」
時間をもし自由に操れるなら、囚われている必要などなかったはずだ。あの蔵や、寄木細工の箱を開けることだけは一人ではできなかったのだろうか。
「俺が……」
はっとして怜は指輪を改めて見る。
だとしたら、最初に彼を助けなかった自分のせいなのかもしれない。過去に戻るまでもなく、あの時彼と二人きりで遊び続けることにこだわらず、彼を蔵に案内していたら。
そうしたら……もっと早く彼は解放されていたのかもしれない。
「無駄なことなど、一時もない」
「でも」
怯えたようにナダを見る怜は、だけど微笑まれて面食らう。
「婚姻は成立した」
「えっ?」
指輪をしている怜の左手を取り、彼はその薬指にキスをする。芝居がかった仕草だったけれど、どことなく非現実感のある彼がやると様になっている。
確かに、指輪はふたつ揃っている。怜の指と、彼の指に。
……その意味を今更ながらに思うと、かあっと顔が熱くなるのがわかった。
深く考える余裕もなく、必死だった。でも、指輪の意味というのはそういうことだ。別に嫌というわけではないけれど、心の準備ができていない。だいたい、あの塔で死ぬと言われたところからしてまだ気持ちが追いついていない。
「……でも、生きて、出られるのか? 塔を?」
見渡す部屋は、あの塔の中の小部屋より遥かに広い。でもどことなく似ているような気もした。
「黙っていろ」
強引に唇を塞がれる。
「ん……っ」
服をはだけた胸をまさぐられ、胸の先をつままれる。
「は……」
金のあるときは、それなりに見目のいい女性とも寝たりした。でも、ベッドの中では彼女のことなんて、ほとんど見ていなかった気がする。
たぶん美女とセックスできる自分、というものを確かめて、誰かに自慢したいだけだった。
そのときの行為と、今とはまるで違っている。誰にも知られたくない。怖いけれど、同時にどきどきもしている。
「……あ……っ」
尖った先端を、舌で舐められる。じわじわと下半身に熱が集まってくる。どういう仕組なのか、明かりらしきものも見えないのに部屋はぼんやりと明るいままだった。何もかも晒されているようで恥ずかしい。
「……んっ、や」
ふいに先端に歯を立てられて、強すぎる刺激に身体が跳ねる。痛かったはずなのに、全身に震えのような快感が走っていた。どこを触られても気持ちがよくなっていく。
浅いところに、探るように指が伸びてくる。それも気がつくと自然に受け入れていた。
「っ……ふっ」
より深いところへ指が入ってくる。同時に再び胸を舐められ、ぐずぐずと自分の身体が溶けていくかのように感じた。
「あっ……んんっ!」
甘い官能が身体の奥から湧き上がってくる。柔らかい粘膜を彼の指でこねられる。じわじわと内部を押されると、びくりとまた身体が跳ねた。