辻橋湊は出会った頃から、とびきり外見のいい男だった。

 でもそのことは、俺とは何の関係もない。俺はゲイでもないし、彼とはただ三年ほど一緒に住んだルームメイトというだけだ。

 いい関係だったと思っていた。

 まさか十年後に彼があんなことをするとは、思わなかったのだ。

 

 

 出会ったのは俺がまだ十九歳の頃だった。辻橋はそのときから、その美貌で圧倒的な存在感を放っていた。

 俺は彼ほど足が長い男を初めて見た。すらりと背が高く、何を着ても爽やかに着こなした。整った顔立ちに、薄めの唇。笑うと目がわずかに下がって、甘い雰囲気になった。

 それでも親しくなってみれば、彼はただのずぼらな若い男だった。

「お前、昨日鍵かけなかったろ」

「あれ、そうだっけ」

「泥棒に入られるぞ」

「別にいいじゃん、盗むものもないんだし」

「あるだろ、俺のパソコンとか」

「あんなの盗んでどうすんの?」

 軽い笑い声を立てて辻橋は俺を見返してくる。田舎で産まれた三人兄弟の末っ子だと聞いた。きっと甘やかされて育ったのだろう。そして彼自身も、自分が甘やかされることを疑ってもいないようだった。

「大丈夫だよ、わざわざマンションの中入ってきてドア開いてるか確かめたりしなくない?」

 許されて当然、という態度を取られると不思議と腹は立たなかった。俺が長男だったせいだろうか。

「何があるかわからないだろ、お前の地元と一緒にするな」

 それでも俺は、辻橋の周囲にいた他の人間に比べれば、彼に厳しく当たっていた方だと思う。

 そうだと思う。

 だけど今となっては、本当にそうだったのかよく思い出せない。

 

 

 最初から思い返してみたい。

 俺が辻橋と出会ったのは、知り合いの開催していた飲み会だった。その頃、辻橋は小さな劇団に所属していた。そこの劇団長が、俺の友人の友人だった。その劇団は、先輩が学生の頃に旗揚げしたものらしい。

 俺は芝居に興味はなかったけれど、飲み会は好きだった。特に学生時代は暇だったから、呼ばれれば何にでも行った。

「ここ煙くないすか?」

「そうー?」

 劇団長は長洲と言って、髭を生やした年齢不詳の痩せた男だった。俺とは五つも違わないはずだが、貫禄を感じる。

 ごみごみした中野の居酒屋だった。二階席は劇団関係者で貸し切りだった。その飲み会には劇団員も、単に友達の友達という俺みたいな奴も入り乱れていた。酒は安く、誰かが店と知り合いなのかセルフサービスで飲み放題だった。

「東本はビールでいいか?」

「あ、はい」

「大変だったなー、彼女に追い出されたんだろ?」

「追い出されたっていうか……」 

 ついこの間まで俺は、付き合っていた彼女の家に住んでいた。俺の実家は千葉だがかなり辺鄙な場所にある。だから都内にある家に居候しつつ大学に通っていたのだが、門限をうるさく言われたり家事のことで意見も合わず、彼女の家に転がり込んだのだった。

 別れた今となっては彼女の家から出ていくのが当然なのだが、今更叔父の家には戻りたくなかった。

「家ないんだ? そしたら東本さ、湊と一緒に住めば?」

 まだ飲み会に来てから三十分も経たないうちのことだった。突然俺にそう言ってきたのは長洲の隣りに座っていた、野辺だった。別の飲み会でも彼女には会ったことがある。脚本や演出を主に担当している、劇団のナンバー2にあたる先輩だった。

「えー、いいな! 僕も辻橋さんと住みたいです」

 俺がまだ、辻橋が誰かも認識していないうちから、眼鏡の男が大きな声を上げた。

「お前は港区の実家があんだろ、魚見」

 魚見という男は、長洲にたしなめられて口を尖らせている。俺は彼とは初対面だった。参加者が入り乱れた飲み会は、知り合いとそうではない奴が半々くらいだった。

「いや、そんな急にはちょっと」

 俺は苦笑した。いくら住むところに困っているといっても、いきなり知らない男と住むのはハードルが高い。

「ねぇ、湊」

 そう野辺が言って、彼女の二つ隣りに座っていた男が振り向いた。

 薄暗い居酒屋の店内でも、彼の顔立ちが整っていることは一目瞭然だった。清涼、という言葉が頭に浮かぶ。俺は普段、男の顔立ちなんて気にしたこともない。だけど一瞬、目が離せなかった。

「東本なら安心だよ。そうしな、湊」

 野辺が何を根拠にそう言っているのかはわからなかった。

「いや、待って下さい。俺なら安心ってどういうことですか」

「東本は男に興味とかないから、襲われる心配もないだろうし、若くて健康な男だから労働力になるし」

 野辺がひっきりなしにタバコを吸っていたことを覚えている。もうそのときには、長洲は他の相手と話をしていてこちらは見ていなかった。

「俺が男に興味あるみたいじゃないですかー」

 魚見はまだ不満げだったが、誰も相手にしていなかった。

「何なんですかそれ……」

 確かに、男を襲うなんて俺は考えられない。いくら美形とはいえ、どうしてそういう発想が出てくるのかさえわからなかった。

 だが劇団などといったら、色々と色恋沙汰のトラブルはあるのかもしれない。

「湊には意外とこういう男が合うと思うな」

 野辺はしみじみとした口調で言った。

 俺はまだ、辻橋とは一言も言葉を交わしていなかった。

「俺はいいよ、あんたと住んでも」

 それなのに辻橋はあっさりと言った。いいのかよ、と思った。事態に混乱するのと同時に、何だか彼に自分が認められたみたいで、少しだけ嬉しい気持ちになってしまった。

 野辺が言ったのは無責任な、酒の席での戯言に過ぎなかったのだと思う。

 だけど実際に、俺は辻橋と一緒に住み始めた。当たり前のように「どこにするー?」と言われて何となく不動産に行き、流れるまま決めてしまった。

 辻橋はフリーターをしていた。そんな劇団員ばかりだった。無駄に良い外見は、特に生かされてもいなかった。

 辻橋にはパトロンがいるとか、何度もスカウトされてるとか色々言われてはいたけれど、それでもその頃の彼は一劇団員に過ぎなかった。

「まぁ学生演劇だし。別に芝居で食ってきたいわけでもないしなー」

 辻橋の言葉はいつも軽かった。でもあの頃の俺は辻橋の軽さに救われていたのだと思う。将来や自分の資質なんて真面目に考えたくもなかった。

「じゃあ何して食ってくんだよ、ヒモか」

「みんなそれ言うけど、外見差別じゃない? イケメンじゃないヒモもいるし」

 住み始めたのは劇団にもほど近い阿佐ヶ谷だった。俺の大学へも一本で行けた。安いスーパーが多いので助かった。

 野辺はなんで、俺と辻橋が一緒に住めばいいと言ったのだろう。

 確かに喧嘩はしなかった。だけど親友になったというわけでもなかった。俺たちはそれぞれ好き勝手に暮らしていて、一緒に食事を取ることはそれほど多くなかった。

 だけどあの日の彼女の発言がたぶん俺の人生を変えた。……そして辻橋の人生も。

 

 あれから十年がすぎて、俺はもう朝までバカみたいに飲んだりはしない。一人でアパートの部屋を借りて、働いて過ごしている。平凡なサラリーマンだ。何事もない日々が過ぎていく。

 目が覚めたら世界のすべてが敵になる。

 そんなの、起こるとしてもマンガかゲームの中だけのことだと思っていた。

 たった一日ですべてが変わる。

 今まで微笑んで挨拶してくれていた人が、目をそらして死ねと吐き捨てる。SNSには顔も知らないやつらから、大量の非難が届く。職場でも後ろ指をさされ、すべてがうまくいかなくなる。彼女に別れを切り出され、大家からは出て行けと言われる。

 たった一日で誰も彼もが敵になる。

 俺はそういう経験を、した。

 

 ・

 

 俺は目深にキャップをかぶり、マスクをした。花粉症の人だって多い時期だから、さほど不審ではないだろう。自分でいうのも何だが俺は平凡な外見だ。すぐには気づかれることはないはずだ。

 最近は自宅周辺に直接やってくる人間の数は減っていた。だから大丈夫だと思うけれど、安心はできない。外に出るたび、心臓がきゅっと縮む。誰も彼もが俺のことを指さし、笑っているような気がする。

 俺は一番近いコンビニは避けて少しだけ遠くの店に行き、弁当を二食分買って部屋に戻った。

 俺の住所はネットで晒され、オートロックもないアパートのドアは何度も嫌がらせをされた。ポストには墨汁を流しこまれた。

 大家にはなるべく早く出て行くように言われたし、家を出るたび誰かが付いてくる気がする。仕事もなくしたばかりなのですることもなく、俺は部屋の中で息を潜めながらずっとネットをしていた。

 ネットは現実世界に比べてもっとひどかった。どこから探し出したのか俺のメールアドレスやSNSはすべて暴かれていた。死ね、という文字は見過ぎてもう意味がよくわからなくなった。死ね、消えろ、死ね。その言葉に何の意味があるのか。なぜ俺に、動物が殺される残虐な光景や男性器の写真を送ってくるのか。

 どうして今まで俺と何の関係もなかった人たちが、ここまで俺に対して悪意を向けられるのか不思議なくらいだった。

 ――もういっそ死のうかとも思った。

 だけど俺は何もしていない。誰も信じなくても俺だけはわかっている。俺は無実なのだ。

 どうしてこんなことになったのか。俺は最初から考え直さないといけなかった。

 もう十年会っていない、爽やかな辻橋の顔を思い出す。

 ――人気俳優、過去の性被害を告白。

 そんな風にネットニュースが出たのは突然のことだった。

 十年前、まだアルバイトで細々と暮らしていた頃、辻橋はルームシェアをしていた男に日常的な暴行を受けた。殴られ、金銭の巻き上げはもとより、性行為まで……そう彼は告白していた。

 最初はひどい話もあったものだと思った。俺の後にルームシェアをしたのはそんなにひどい奴だったのだろうか。

 二度読んで、どう考えても俺のことを言っているとわかった。

 それからはあっという間だった。俺の個人情報はすぐに暴かれた。勤務先から本名、卒業アルバムの写真まで、すべてが面白おかしくネット上に晒された。もちろん住所や実家の場所もだ。何もかもがめまぐるしくて、悪い夢としか思えなかった。

「知らない、やってない、信じてくれ」

 もとから関係のあまり良くなかった親は、すぐに俺を疑った。

「でも疑われるようなことをやったんだろ」

「やってないって証拠はあるの?」

 証拠もなにも、俺はやっていないのだ。俺がやったという証拠があるわけでもない。だがそもそも、警察が捜査しているわけでもない。

「とにかく、やってないんだよ! なんで俺を信じないんだよ!」

 両親からは縁を切ると一方的に通告された。あまり仲がよくなかったとはいっても、血を分けた家族だ。いざというときは助け合うものかと思っていた。

 俺なんかより、彼らは辻橋や世間の言うことを無条件に信じるのだ。

 辻橋湊は今では飛ぶ鳥を落とす勢いの若手俳優で、ドラマや映画に引っ張りだこだった。芸能に疎い俺でも、彼の顔はよく見るようになった。そのことをめでたいと思えていた頃が、今思えば懐かしい。

 辻橋と俺が一緒に暮らしていたのは、お互い貧乏な頃だった。俺は大学を卒業して少ししてから就職し、会社の寮に入ることになってルームシェアは解消した。そうすると辻橋と会う頻度は自然と減って、そのまま疎遠になった。

 彼が売れてから連絡を取るのも嫌らしいかと思って、特に俺からコンタクトはしていなかった。

 それでも、俺は彼の活躍を願っていた。

 ちょっとした自慢の種だった。「あの」辻橋湊とルームシェアをしていた、ということは。俺の中では、それなりにいい思い出だったのだ。

「畜生、なんでこんなこと……」

 一緒に住んでいた頃、辻橋とは喧嘩をしたこともなかった。

 二歳差の辻橋は俺にとって、弟のような存在だった。ずぼらで生活能力は低く、色々なことを適当なまま放置しがちで何かと心配な男だった。でも当時の俺も家事は苦手だったから、似たようなものだったかもしれない。

 俺と辻橋は一緒に鍋をつついたりもしたし、貧しいながらも楽しくやっていた。

 当時から俺には彼女だっていた。俺と彼との関係はあくまで友人同士で、特段のトラブルもなかった。俺が寮に引っ越す日には彼はひどく酔っぱらって泣いて、惜しみながら送り出してくれた。

 嫌われてはいなかったと思う。ましてや恨まれる覚えなどない。俺は辻橋に危害を加えたことはない。彼の告発は、全て嘘だ。

 ――どうして。

 なぜ彼は嘘をついたのだろう。

 俺が就職した後も、彼は売れない役者を続けていた。テレビの深夜ドラマにちょいちょい出始めたことは聞いた。とはいえ、俺ももともと彼の仕事に強い興味があったわけではない。仕事が忙しかったこともあって、常に追っていたわけではない。

 売れ出したな、と思ったのはごく最近のことだった。

 もし彼が売れない劇団員のままだったら、仮に何かを訴えたとしても、黙殺されるのがせいぜいだっただろう。

 テレビの朝の番組に取り上げられたり、雑誌の表紙になったり、明らかに規模が違う知名度の俳優になってから彼は初めて「それ」を告白した。

 所属するマネジメント会社は何を考えていたのだろう。ブレイクしたばかりの俳優が性被害を訴えるのは、あまり良いイメージではないはずだ。あるいは話題作りになって、今風だとでも思ったのだろうか。

「くそ」

 何度考えてもわからなかった。俺はこんなことをされるいわれは無い。恨まれる理由などないのだ。

 自分の記憶が信じられなくて、もし無意識に何かをしていたらとも思った。でも、辻橋の訴えは具体的だった。酔ってキスをしたとかそんなレベルではない。無意識や間違いで起こせるようなことではないのだ。

 俺はやっていない。無実だ。だけどそれを訴える先がなかった。

「なんでなんだよ……!」

 日常的なやりとりの中で辻橋をからかったり、どついたりすることはあった。でも喧嘩さえしたことはない。俺たちはうまくいっていた。俺が寮に引っ越すときには彼は泣いていたし、それなりになつかれていたと思う。

 ――それでも辻橋はわざと俺を、陥れたのだ。

 あるいは他の人間がやったのだろうか? 考え始めると誰も彼も信用できなく思えてくる。

 あの頃はよく劇団の知り合いと飲んではいたが、もう誰とも会っていない。長洲は結局劇団を畳んだ。一番大きいのは金銭的な理由だったと聞いている。確か彼は岐阜の田舎に帰ったはずだ。

 劇団員で俺を嫌いだったのは、強いて言えば辻橋のことを信奉していた魚見だろうが、だからといって彼が辻橋に告発をさせることなどあるだろうか。

 どれほど考えても結局は、誰が何のためにという疑問にぶつかる。俺を陥れても、メリットなどないはずだ。

 俺は平凡な一サラリーマンだ。俺に仕事も婚約者も失わせても、誰も得をしない。俺は大富豪の息子でもないし、財産を引き継ぐ予定もない。付き合っていた彼女だってごく普通の社会人だった。

 辻橋を陥れて脅迫するならまだわかる。でも、明らかにターゲットは俺なのだ。

 わけがわからないことだらけだ。これ以上考えていたら、頭がおかしくなる。

 俺はコンビニで一番安かった海苔弁当を、冷たいままかきこむ。食欲はなかったけれど、もう味なんてどうだってよかった。

 答えを得るには、どうにかして辻橋と会うしかない。

 辻橋は知っているはずだ。彼とは何度も連絡を取ろうとしていたが、携帯は通じなかった。売れっ子になると番号を変えるものなのだろうか。俺は彼の所属している事務所にも連絡をした。古い知り合いだ、と言ったのだがもちろん取り次いではもらえなかった。

 実家について、辻橋が話したことはなかった。九州の方だと聞いたが、あまりいい思い出はなさそうだった。

 あとはつてを辿るなら辻橋が所属していた劇団の知り合いだが、俺にとってはできれば一番話をしたくない相手だった。

 

 ・

 

 甘ったるい、きつい香りがする。俺の呼び出しに応じて彼女が指定したのは、大久保のインド料理屋だった。

「……私、見る目なかったな」

 野辺は俺と辻橋が会った、最初の飲み会にいたメンバーの一人だった。今は劇団をやめて、細々と書き物をしながら政治団体に所属しているらしい。彼女は膝が見えるくらいの長さの、薄いスカートを履いていた。全身の格好はどこかちぐはぐだった。

「お願いします。辻橋の連絡先、教えて下さい」

 直接辻橋と連絡が取れない以上、俺は共通の知り合いを頼るしかなかった。強いていえば、一番連絡がしやすかったのが野辺だった。だけどこの選択は間違いだったのかもしれない。

 直接会って話がしたい、という俺の要望を彼女は飲んだ。だがそれは、俺に対して好意があるからでないことは明らかだった。

「なんで連絡したいの、土下座して謝るわけ?」

 あざけるように野辺は言う。

 どうして誰も彼も、はなから辻橋を信じているのだろう。俺の意見など誰も聞きやしない。

「俺はやってないんです、何も。信じてくれなくていいですけど」

「じゃあ、湊が嘘ついてるっていうの。どうして、何のために?」

「それは俺が聞きたいんですよ」

 じっとりとした目で野辺は俺を見る。俺の言うことなんて何とも思っていない目だった。

「湊、すごい仕事うまくいってたのに。変な傷がつかないといいけど」

 どうして彼女は辻橋のことしか心配しないのか。勝手な告発をして自分に傷をつけているのは彼自身だ。心配などしてやる道理もない。

「とにかく、連絡先を教えてください」

「知らないよ、私は。今回のことがあって連絡取ろうとしたけど、通じなかった。あんたも知ってる番号でしょ?」

 野辺も連絡先を知らないのなら、俺は罵られ損だ。

「魚見なら知ってるんじゃない? あいつ、コバンザメみたいに湊のあとを追ってたから」

 俺はもとから魚見とは折り合いが悪かった。彼が俺に協力するなんてありえないだろう。

 手がかりは尽きかけている。

 俺は野辺がカレーを食べるのをただ見ていた。俺の分も頼んだのだが、あまり食欲がなくチャイだけを飲み続ける。

「劇団も結局なくなっちゃったし。出世頭の湊もこれじゃね……」

「野辺さんは脚本なり何なり書いたらいいじゃないですか」

 俺は彼らの芝居を結局見たことがない。飲み会にしか行かなかった。他の劇団員が特に大成したという話も聞かないから、一番有名になったのは辻橋だったのだろう。

「そんなに簡単なことじゃないのよ」

 俺の知っている劇団の活動は、そもそもほとんどが飲み会だった。定期公演はあっても、客は知り合いが多かったようだ。

 でもそんな生ぬるい場所だったからこそ、俺も混ぜてもらって居心地がよかったのかもしれない。

「なんで、こんなことになったんだろうね……」

 それは俺が聞きたかった。

 野辺はただカレーを食べ続いていた。辻橋の居場所を知らないのならもう帰りたい。俺の家族も野辺も誰も彼も、俺が辻橋に暴力をふるったのだとすっかり信じている。

 これ以上、もう他人と接したくなかった。どうせ誰も彼も、俺を信じないのだろうから。

 

 

 多くの人が、今や俺の死を願っている。送られてくるメッセージには、写真が添付されているものも多かった。それらの写真は動物の殺される場面だったり、中東で殺された人の写真だったりした。通知はすべて切り、無視するようになった。

 これまでの三十二年、俺はそれなりにまっとうに生きてきた。

 表彰されるような立派な人生かというと自信はない。だが、誰かを陥れたり、騙したり、裏切ったりはしてこなかった。そこそこの仕事を得て、友人も少しはいて、彼女を大切にしていたはずだった。俺はそれだけで構わなかった。

 辻橋が売れていったことにも、誇らしいと思いこそすれ、嫉妬の気持ちはまったくない。俺はもともと芝居もしていないし、そもそも彼とは生きる場所が違う。

 どうやったら辻橋と連絡をつけられるのか。

 彼の知名度は今回の事件で更に広がっていた。売名行為だとか、ゲイなんだろうとか、下品な言葉で辻橋をけなしている人たちもいた。だが多くの女性ファンは、辻橋の味方となり、出たばかりの写真集を大量に注文するなど買い支えをしているらしかった。

 渦中の人となった辻橋は、しばらくメディアには露出をしていない。SNSの公式アカウントもスタッフがたまに写真集の宣伝をするばかりで、発売記念イベント等も予定されていなかった。

 俺は忸怩たる思いで、その写真集を買った。彼の情報を得たら、考えていることが何か少しはわかるのではないかと思った。つるんとしたきれいな肌の彼のアップの写真を見ていると、悔しさと怒りで涙が溢れてきた。

 写真集には、二十五歳くらいからごく最近までの辻橋の写真が載っていた。海外で撮ったらしいものや、ベッドに横たわった際どいシチュエーションのものもあった。

 そう、辻橋はこういう顔立ちだった、と思う。俺は見目がよい男に特に惹かれることはないけれど、でも彼を身近で見ていたので懐かしくはある。

 写真集はよく撮れていた。でも、実物の方がもっと良い。二十代の頃の、実物の辻橋の方が良かった。写真集の笑顔はどこか作り物めいて感じられた。

「くそ、何やってんだよ、お前」

 側で暮らしている時、彼が心ない言葉をぶつけられているところに、俺は何度か行き会ったことがある。彼の美貌は良くも悪くもいつも注目の的だった。

 ――ホストになれよお前。

 ――一回ぐらいやらせろ。

 辻橋は外見とちゃらんぽらんな性格に反して、性的には奥手なたちだった。あるいは、単に恋愛に興味が薄かったのかもしれない。

 三年間そばで暮らしていたが、その間ほとんどの期間、彼には恋人がいなかった。付き合っていたこともあったのだが、大抵ごく短期間で終わるのだ。遊びで食い散らかすというわけでもなかった。

 だからクリスマスも正月も、辻橋はマンションに一人でいた。誘いはあっただろうに、自分自身の誕生日さえそうだった。だから俺は心苦しくなって、彼のためにささやかなパーティを開いてやったりしたものだ。

「あんまり、人を好きになれないんだよね」

 彼は自分の恋愛についてそんなことを言っていた。よりどりみどりだろうに、贅沢だなと思ったことを覚えている。

 それなのに辻橋に惚れた女の彼氏が殴り込んできたり、ストーカーじみた男に待ち伏せされたり、辻橋は迷惑ごとに巻き込まれがちだった。見る男が見れば、辻橋に妙な色気を感じるらしい。

 美形だと色々と面倒もあるものだ、と俺は端から見ていて思ったものだった。俺はストーカーめいた男が彼に絡むのを、撃退するのを助けたこともある。

「あんたなんで俺が好きなの?」

 足に縋り付こうとする男に、辻橋は冷淡な顔を向けていたことを思い出す。

 どうしたら、辻橋にまた会うことができるのか。写真集の最後には感想カードが入っていたが、これを送っても出版社に届くだけだろう。俺は辻橋のファンではない。歓迎されるようなメッセージを送りたいわけではないのだ。

 会ったらまず、殴ってやりたい。それだけでは済まないかもしれない。自分が彼を前にしてどんな反応をするかがわからない。 

 ――殺してしまうかもしれない。

 それは平凡な俺の人生に湧き出た、初めての強く黒い感情だった。

 単純な憎しみや殺意だけではない。なぜ、という思いが一番強かった。とにかくこの理不尽な扱いへの答えがほしかった。

 なぜと思い眠りにつき、目が覚めて一番になぜと思う。もはやどんな答えでもいい。このままわけのわからない状態でいるくらいなら死んだ方がマシだ。

 俺はどこで人生を間違えたのだろう。

 野辺にルームシェアをしたらいいと言われた時だろうか。

 実際に部屋を契約した時か。

 辻橋と一緒に住み始めた時だろうか。

 俺の顔も名前も、ネット上に晒された。極悪非道な犯罪者としてだ。裁判などの正当な手続きを踏めば、それらを消去させることはできるかもしれない。だが、それはいつのことだろう。どうせいたちごっこが続くに決まっている。

 辻橋は、俺と話す気はあるだろうか。

 あるような気がするというのは、ほとんど直感だった。これだけの騒動を引き起こしたのだ。俺が黙っているわけにいかないことも、わかっているはずだ。

 辻橋は何を考えているか? 俺が彼を探すことは、彼もわかっているはずだ。それでも電話は変えた。いや、しばらく連絡はしていなかった。もっと前に変えていたのかもしれない。

 俺はふと、写真集をぱらぱらと見返す。

 かわいげを強調するためなのか、大きなぬいぐるみを抱きしめている写真がある。いい年をした男が、と思わなくもなかったが、実際似合っていた。

 そのクマのぬいぐるみを見ていて思い出したことがあった。俺が辻橋の誕生日を祝ったお返しに、俺の誕生日祝いをしたいと言われたことがある。

 だが俺は誕生日は彼女と過ごしたかった。だから、翌日にプレゼントだけもらった。この写真のものより何十分の一かのぬいぐるみだった。俺はぬいぐるみを部屋に置く趣味はなかったが、辻橋はやたらと「大事にしてくれ」と言っていた。

 そうだ、あれはどうしただろう。捨てた記憶はないから、どこかにはあるはずだ。

 俺はクローゼットに放り込んだ段ボールの中からぬいぐるみを探す。辻橋とは三年、一緒に暮らしていた。短い時間ではない。お互い二十歳そこそこだったし、酔って朝まで語り合ったり、つまらない映画を無理やり一緒に見たり、俺が盛大に振られたのをなぐさめてもらったり、色々なことがあった。

 俺にとっては懐かしい、よい思い出のはずだった。

 ああいう時期もあった、と目を細めて思い返すような。そういう大事な記憶だったはずなのだ。

「畜生」

 だけどそれは、辻橋によって汚された。俺は、彼と古い知り合いであることを、職場などの新しい知り合いにはほとんど誰にも話してこなかった。自慢だと思われるし、サインをもらってきてと頼まれるのも困るからだったが、それだけ彼と過ごした時間を大事に思っていたからでもあった。

 彼が大成して、テレビ番組なんかが組まれることになったとき、ちょっと登場する。そんな役割を想像したこともあった。

 あの頃、俺たちは若くてよく酔っ払ってましたね――。

 そんな感傷さえ、今は許されない。

「あった」

 辻橋に関するものは、そのぬいぐるみくらいだった。写真は携帯を探ればあるかもしれないが、物として残っているものはない。男の部屋には似合わないそれを、俺は持て余していた。でも、捨てることはなかった。

「くそ」

 俺は思いきりそのぬいぐるみを殴る。何か違和感がある。変な感触があった。

 俺は布と綿だけでできているはずのその体を指で探る。何か固いものがある。

 どうなっても構うものかと思って、めちゃくちゃにハサミを振るった。ぬいぐるみの中に入っていた白い綿が飛び出す。

「何だ、これ……」

 固い物は確かにあった。小さなカードだった。

 

 

 世界はすっかり変わってしまっていた。

 外を歩くのが怖かった。とりわけ、東京は人目が多くて嫌になる。誰も彼もが俺を知っていて、糾弾している気がしてくる。携帯を手にしている人が今にも、俺の写真を撮り悪口を書き込むように思えてならない。

 俺は都心の、百貨店やブランド店が建ち並ぶ通りにいた。

 あのぬいぐるみをもらったのは、十年前だ。あるいは、誰かがどこかの時点でぬいぐるみを切り開き、あれを入れたのだろうか。ごく最近、例えば引っ越し業者が。

 ――ありえない。

 ぬいぐるみの中に入っていたのは、ある高級ホテルのカードだった。裏に手書きで、704号室と書いてあった。

 何かの拍子に紛れ込んだのかもしれない。手作りのぬいぐるみで、たまたま作業途中に混入してしまっただとか。

 ――そんなわけはない。

 広い道路には観光客や家族連れが行き交っている。とにかくその部屋に行ってみればわかる。

 俺は、今まであのぬいぐるみを詳しく見分したこともなかった。もし、最初からそれが入っていたものなら、辻橋は何を考えていたのだろう。そのホテルの部屋を借りることを予定していた? 貧乏な劇団員に過ぎなかった頃から?

 辻橋は売れない俳優だった。そもそも彼はもっと芝居に出たいという熱意を持っていないように見えた。近年のブレイクがなかったら、きっとフリーターを続けていただろう。

 心臓が早鐘を打っていた。

 俺の人生は曲げられた。もしこれが辻橋の用意した物なら、俺は元凶にもうすぐ会うことができる。

 答えが手に入る。

 高級ホテルに入るときは、呼び止められるんじゃないかと思って緊張した。だが、ドアマンはにこやかに扉を開けてくれて、何も問いただすことなどなかった。

 俺は天井の高いロビーを通り抜けてエレベーターへと向かう。

 辻橋はいないかもしれない。あれはただの何かの間違いだ。俺は今の彼について何も知らない。俺といた頃の彼は、古いマンションの一室で安い酒を飲んで酔っ払っていた。つまらないテレビ番組を見て二人でいつまでも笑っていられた。

 俺にとっては、それなりにいい思い出だった。青春だったのだ。

 エレベータを降りると、廊下一面のふかふかした絨毯に出迎えられる。高級ホテルの客室に来るのは初めてだった。

 今にも誰かに呼び止められる気がしてしまうが、そんなこともなかった。そもそもそのフロアには人がいなかった。俺は廊下を歩いていく。

 ひとつひとつの部屋が大きいのか、ドアは間延びした間隔で設置されている。一生たどり着かなくても良いような気持ちに一瞬かられる。

 辻橋のことを今まで、怖いなんて思ったことはない。弟分みたいなものだった。何をやっても辻橋は下手くそだった。皿を洗えば割ったし、掃除機をかければコードを絡まらせた。生活能力が低くて、何事にものらりくらりとしていた。

 今は、俺より遙かに顔の売れた男。

 俺は704号室のドアの前に立つ。もしかしたら、俺がここまで来たのは全部勘違いで、何の意味もないのかもしれない。ここに泊まっているのはどこかの金持ちで、俺のことなんて知らないかもしれない。むしろその可能性の方が高い。

 引き返したかった。

 でも、ここまで来たのに確かめないわけにはいかない。俺は恐怖を押し殺してノックをする。何の反応もなかった。

 ドアは開いていた。

 

 ・

 

「辻橋?」

 会いたかったわけではなかった。

 この数日ずっと、「なぜ」とばかり考えていた。その心の中をずっと考えさせられた相手が、広いホテルの部屋の革張りのソファに座っていた。

 すぐには言葉が出てこなかった。一体、何を言えばいいのか。

「この部屋、いつからいるんだ」

「ちょっと前かな」

 十年前とは髪型が違う、服が違う。だが整った顔に浮かぶ微笑みだけは、昔と同じだった。彼の顔を見ただけでどっと疲労感と緊張感が高まる。

 写真集と同じ顔だ。もうこの数日、二度と見たくないと思っていた顔。

「あのカードはなんで……いや、そんなのはいい。なんであんな嘘をついた」

 俺が今日来ることを、わかっていたはずはない。それなのに辻橋は、明らかに待ち構えていたように見えた。

「なんでなんだ、辻橋」

 怒りのあまり、俺の声は震えた。

 部屋は広かった。一面はガラスの大きな窓で、都心の風景を見下ろすことができた。

「仕事もクビ、婚約も解消だ、イタズラや取材の連中がひっきりなしに来る。俺は一生きっと犯罪者として指を差される」

 俺はできることなら彼を殴りたかった。

 俺は今までに人を殴ったことなどない。でもどうしても辻橋のすべてが許せなかった。

「どうしてこんなことをしたんだよ、人を破滅させて満足か。俺はお前に、何もしてない!」

 辻橋とはいい友人だったと思っていた。

 でも、本当は憎まれていたのだろうか。どれだけ考えてもわからなかった。

「いきなり重いじゃん、まず言うことはさ、『久しぶり』でしょ」

 辻橋は明るく笑って手を振った。自分の怒りとの落差に、俺はどうしていいかわからなかった。

「辻橋!!」

「あーあ、怒ってもいいことないよ」

 辻橋は変わっていない。着ている服は高級そうになっても、軽薄な笑みもスタイルも何も変わっていなかった。

「なんでなんだよ!! いいから言え!」

 俺はどうしても堪えきれなくなり、彼の襟首を掴む。そんな風にされても、辻橋はまるで動じてはいなかった。

 もし俺が彼を殺すつもりで来ていたら、どうしたのだろう。そうだとしても、辻橋の対応は同じような気がした。きっと何も変わらない。久しぶりと笑って、そして刺されて笑うのだろう。

「答えは自分で言ってるだろ。そう、あんたは何も、しなかった」

 彼は襟首を掴まれているのに、涼やかな表情を崩さなかった。もとから整った顔立ちだったが、以前よりも洗練されて、ちょっとぞっとするほどの美貌だった。

 俺は思わず手を離してしまう。辻橋は服の皺を何の感情も見せない手つきで直した。

「売れたのは、売れようと思ったからだよ」

 彼は淡々と言った。

 彼が何を考えているのかがわからない。

「売れてないと、何を言ったって騒いでもらえないからさ」

 冷静に話をするつもりだった。でも頭に血が上って、どうしていいかわからなかった。

「何を言ってるんだ」

 辻橋が売れっ子になったのは、深夜ドラマでの偶然のブレイクがあったからだ。この十年間、芝居やちょい役などで長く下積みをしていたと聞いている。売れようと思って売れられる業界ではないはずだった。

「あんたの就職がだめになればいいってあの頃ずっと思ってた」

「は……?」

 今まで俺はもしかしたら、と思っていた。

 もしかしたら辻橋は何かトラブルに巻き込まれてやむを得ず俺を告発しただけで、今でも彼は俺を良い友人と思っているのではないか、と。あの頃の記憶は彼にとっても大事なもので、何かどうしてもやむを得ない事情があったのではないか、と。

「あの女……彼女も最悪だった。婚約なんて吐き気がする」

 彼は当たり前のように話す。わけがわからない。彼女と辻橋が直接会ったことはなかったか、あったとしてもほんの数度だったはずだ。

 目の前が混乱と怒りで歪む。胸元を掴んで殴りかかろうとして、逆に腕をつかまれた。細身の印象からはほど遠い、信じられないくらい強い力だった。

「なんで……そんなに俺が嫌いだったのか」

 涙が出そうだった。俺は俺なりに、彼を弟のように思い友人として大事にしていたつもりだったのに。

 彼は子供を見るような目で俺を見て微笑んだ。テレビで見るのと同じ、整った笑顔だった。

「あんたが出てった日からずっと、どうしたらもう一回一緒に住めるかずっと考えてたんだ」

 何を言われているのかよくわからなかった。

 こいつは俺に何をしたか理解しているのだろうか。いっそ無邪気なほど優しい口調で彼は話し続ける。

「住むところがないんだろ? じゃあここに住んだらいい。金も食べ物も何でもある。欲しいものがあったら何でも買っていいよ」

「……は?」

 本気で言っているのだろうか。彼のでまかせのせいで、俺は犯罪者扱いだ。どこに行っても後ろ指をさされる。誰も俺を信じてくれなかった。美しい男の嘘を、みんなが信じた。

 仕事も友人も、恋人も失った。俺にはもう何もない。

 刑期を宣告するみたいに、男は厳かに口にした。

「誰もあんたを助けない。どこにも行けない。あんたにはもう、世界中で俺しかいない」

「お前、本気で言ってんのか……!」

 殴ろうにも、もう俺の腕には力が入らない。

「それ、さっきから録音してるね」

 辻橋の手が、俺のポケットからすっとスマートフォンを抜き取る。さすがに丸腰で来るのはまずいだろうと思い、ずっと録音状態にしていた。辻橋はそれを靴で思い切り踏みつけた。めきめきと嫌な音がした。

「おい……!」

 ガラスが割れる音がする。辻橋は、こんなに暴力的な男だっただろうか。彼は虫が苦手で、古いマンションにはよくゴキブリが出たから俺が殺してやっていた。

 録音をしておこう位の、危機感はあった。だけど、古くからの知り合いの彼が、俺に対して本気で危害を加えるとは想像していなかった。だから武器も持っていない。

 俺の気持ちを見通したかのように、彼は言った。

「全部嘘だったって俺の方から公表してもいいよ」

「なんなんだよ、お前は……」

 怖じ気づいたら負けだと思いつつ、俺はもはや彼が怖かった。

「なんなんだよ!」

 彼が何をしたいのか、俺にはまるでわからない。こいつは本気で、俳優生命も、せっかくの人気もどうでもいいのだろうか。

 辻橋は以前と同じように、邪気のない顔で笑った。

「俺がどうしたいかわかるよね? 戻ろう。あの頃みたいにもう一回、一緒に暮らそうよ」