あの頃は朝まで飲むなんてしょっちゅうだった。劇団員はだいたい酒癖が悪く、辻橋も同様だった。
彼はたいがい潰れるまで飲んだ。酒に半端に強いせいで大抵ぐでんぐでんになり、財布をなくしたり駅で寝ていたりすることもしょっちゅうだった。
演劇をしている人たちの中にいて、辻橋はとりたてて目立つほどの酒乱でもなかった。誰も彼もがだいたい毎日飲んでいたし、潰れていた。安っぽい居酒屋はだいたいが喫煙可で、誰かが吸うタバコが煙っていた。今にして思えば、よくもあれほど何時間もひたすら安酒を飲んでいられたものだ。
俺はたぶん、そんな自堕落な劇団の雰囲気が好きだった。
「俺にチケットとか売らないのか?」
劇団員がノルマを負っていることは知っていた。別の劇団員に頼まれて買ったことが二、三度あったからだ。買ってくれれば来なくてもいい、という言葉を真に受けたつもりはなかったが、結局のところ見に行くことはなかった。
だが、辻橋がどんな芝居をするのかは少しだけ気になった。この見た目ばかりいい男が舞台に立ったとき、どんな風に見えるのか少し興味があったのだ。
「だって、見に来てほしくないもん」
「別に行かねぇけど」
「ほらー!」
まるで俺が失言でもしたかのように、酔った辻橋は大声を出す。目元が赤く、酔っていると一目で見てわかる。辻橋うるさい、と野辺がすかさず言う。
「何だよ」
俺は正直、芝居そのものには大して興味がないのだ。テレビドラマだって、途中でだいたい飽きてしまう。彼らの劇団がやっている地味な演劇など見に行っても、確実に寝てしまう自信があった。
「そういうやつだよ、あんたは」
拗ねたように辻橋は言う。酔っているせいか普段より素直に感じられた。さすがに俺は申し訳なくなってくる。き
「何だよ、なんかほら……でかいとこ立つ日があったら見に行くよ」
「でかいとこって何」
「ブロードウェイとか?」
「紀伊國屋ホールぐらいにしときなさいよ」
野辺が横から口を出してくる。俺はまったく意味が分からないまま頷いた。
「わかった、じゃあそこで」
「ほんと?」
「わかったって言ってんだろ」
野辺がそう言うということは、きっと立派な劇場なのだろう。芝居に興味がなくたって、知り合いが大きな舞台に立つなら、祝いに行ってやってもいい。そう思っての発言だったのに、辻橋はやけに疑い深かった。
「いいよなー、そんなとこに立つならちゃんと金もらえるんだろうなー」
誰かが皮肉っぽく言った。劇団は利益を上げられておらず、劇団員への謝礼は一度も出たことがなかったのは周知のことだった。緩んでいた空気が一瞬、ひやりとした気がした。みんなめいめいに、将来への不安や金銭的困窮などを愚痴り始める。
「俺もそろそろ就職考えないとな……」
俺もつい呟いてしまった。
俺はさっそく就活に熱を上げている同級生に距離を感じていた。でもだからといって、何か別のものに打ち込めるわけでもなかった。
劇団の飲み会に入り浸るのが楽しいのは、就活から目を背けられるからだと、俺はうすうす気づいていた。ほとんどの劇団員はアルバイトをしている。劇団以外の場所で演技をすることで謝礼をもらうこともあるらしいが、それはとてもまれなことだった。
「別にまだいいじゃん。なろうと思えば何にだってなれるよ、東本なら」
空気の微妙な変化に気づいていないのか、それとも意図的に気にしないでいるのか、先ほどまでと変わらない気軽な口調で辻橋は言う。
「そうかぁ?」
「まぁ、褒めてないけど」
皮肉っぽく彼は笑った。
「褒めてないのかよ」
彼らと飲むのは楽しかった。でも俺は、それでもどこかで線を引いていた。
俺は彼らみたいに、ふわふわとした夢を追う気にはなれない。そもそもそんな夢がない。大学を中退するつもりもないし、今すぐにではなくてもいつかは就職する。
辻橋との同居だって、いつかは解消することが前提だった。
「役者って実家が太くないと大変なのな」
この中で、職業として芝居をやっていける人間は、おそらく出ないだろう。そう思っていたのはおそらく俺だけではなかった。
「そうそう。色々大変だから俺のパトロンになりなよ」
辻橋は俺の肩に腕を回して言う。随分酔っているようだった。
「俺にそんな余裕ないのはわかってんだろ」
「えー、俺若いツバメになる」
「大して年変わんねぇじゃねぇか」
俺は辻橋の頭を小突く。すっかり酔った辻橋は、からからと笑っていた。
劇団の活動を、青春らしくていいなと思うことはある。でも、俺だってもう二十歳を過ぎた。いつまでも朝まで飲んで、男とルームシェアというわけにもいかないだろう。
何もかもは学生時代の、ちょっとした青春の経験だ。
ちゃんと就職して、女の子と付き合って、家庭を作る。社会に参加する。
それが男として当たり前のことだと、そう思っていた。
・
窓の外に、きらきら輝く夜景が見えている。あれのひとつひとつは残業だろうか。それともホテルか何かの部屋の光なのか。ここからでは区別がつかない。
俺は今、高級ホテルの一室にいる。
高層階だけあって景色は抜群だった。商業ビルや住宅街、少し遠くには東京タワーも見える。きっと俺の給料では一生かかってもこんなところに連泊できないだろう。
今の辻橋がどのくらい稼いでいるのか、実のところ俺には見当もつかなかった。
俺は、雑誌の表紙になるといくらもらえるのかを知らない。写真集の印税もあるだろう。俺がやむを得ず買った分も、そこに含まれている。
「あれ、お腹空いてない? こっち、あんたの分だけど」
古臭い部屋で一緒に暮らしていた時みたいに彼は言う。
彼がさっき玄関先で受け取った食事は、ルームサービスかと思ったが、よく見ると見慣れたチェーン店の牛丼だった。宅配サービスで持ってきてもらったものらしい。
「辻橋」
牛丼の匂いだけは以前と変わらない。
だけどあの頃とは部屋もカーテンも家具も違う。俺たちの外見も立場も、何もかも変わってしまった。こんなところでのんきに夕飯を食べられるはずがなかった。
十年が経って辻橋の顔立ちも少し変わった。以前のような丸みが減り、より鋭くなったような気がする。痩せたのかもしれない。
「ゆっくりくつろいでてよ、時間もあるんだし」
「俺がくつろげると思うか?」
辻橋はきょとんとした顔をしていた。本気でわからないわけはないはずだ。こいつはきっと、演技をしている。
「時間なんてない! お前は何がしたいんだよ。俺に何か謝らせたいなら、はっきり言え」
俺が何より知りたいのは、辻橋がこんな行動に出た理由だった。
彼に会えさえすれば、それはわかるのだと思っていた。とにかく会えれば。
だがそんな考えが甘かったことを俺は思い知る。辻橋は怒るでも呆れるでもなく、ただ「何を言ってるのだろう」と観察するような目で俺を見ている。
「理由を話せ! 俺はそれを聞くために来たんだ」
ここに来るまでに、俺は様々な可能性を考えた。
俺には自覚がないけれど、もしかしたら、知らないところで彼の心を傷つけてしまったのかもしれない。恨まれても仕方がないようなことを、俺はしてしまったのかもしれない。
百パーセント絶対に何もしていないなんて、言い切れるほど俺は清廉潔白な人間ではない。疑い続ければ、可能性はないわけではなかった。
だがそれならそれで、何がどうなって、それほど俺を恨むことになったのか教えてほしかった。理由がわかれば対処もできる。
「別に謝ってほしいことなんて何もないけど?」
辻橋が牛丼の蓋を開ける。俺はそれを見ていて初めて、自分の空腹を意識した。
辻橋はそのまま、しれっとした顔で牛丼を食べ始める。高級ホテルの部屋と安い牛丼とがそぐわなくて頭が混乱する。
――〝そう、何もしなかった〟
さっき彼はそう言った。
辻橋は演技をなりわいとしている男だ。今見えている彼の表情や声を、俺はそのまま信じてはいけないのだろう。何か原因はあるはずだ。原因がわかれば、きっと取り除くこともできる。
俺がきっと彼に何かしたに違いないのだ。
だから恨まれている。だからこんな目にあっている。
因果応報、という言葉もある。原因がないなら結果はない。
「お前、俺に何したのかわかってんのか?」
それなのに辻橋の態度は、恨んでいる男に対するものとはとても思えなかった。
「お腹減ってない?」
「お前と飯なんて食うか!」
俺は思わずテーブルを叩く。辻橋はつまらなそうな顔で、ちらと俺を見上げた。
「でもお腹空いてるんじゃない?」
頭が混乱する。
慣れない場所で、俺は最大限に警戒しているのに、目の前にいる男は十年前の親しい雰囲気をまとわせていて、よく見知った仕草で箸を持つ。牛丼はあの頃にもよく食べた。
今の辻橋だったらもっと高価な食事がいくらでもできるだろう。それとも好みはあの頃から変わっていないのか。
「……もっと高いもん食えばいいだろ」
「好きだよね? 牛丼」
俺のために頼んだとでも言いたいのか。そんな心遣いは求めていない。
それでも空腹は耐えがたかった。辻橋は俺の方に、パックに入った牛丼を差し出してくる。
十年前とはすべてが変わった。彼はどこの馬の骨とも知れない役者ではないし、俺だってもう学生ではない。
「お前は、俺に何をさせたいんだよ」
「だからさっき言ったじゃん、一緒に住もうって」
「一緒に住んで、何をさせるつもりだ」
「別に何も」
辻橋は牛丼を食べ続けている。
「前だってそうだったじゃん」
もちろん、俺はのんきに彼と再び同居なんてするつもりはない。
だが今のところ、俺には行き場もなければ、することもないのは事実だった。何もかも、この眼の前の男に奪われたからだ。
「何かしたい? 日本人ってさー、働きたがるのよくないとこだよね?」
「お前ふざけてんのか」
ただ辻橋に会うだけではだめなのだ。俺はやっと悟る。
辻橋を説得して理由を聞き出し、あの告発が嘘だったと発表させなければいけない。頑固でマイペースな彼を説得する苦労を思うとくらくらした。
だがそれでも、何もできないまま家に一人で閉じこもっていた頃よりはすべきことが明確なだけマシだ。
ずっと牛丼を食べ続ける辻橋を見ていると、空腹がやけに意識される。俺の分の牛丼は間近にある。さっき玄関先で受け取ったばかりのものだし、見知ったチェーン店の商品だ。悪い物が入っていることはないだろう。
この先どうするにしても、食事は必要だ。
仕方なく俺は、辻橋と対角線に座って牛丼を手にした。慣れた味の牛丼はたまらなくおいしく、俺はあっという間にたいらげてしまった。
俺が牛丼を食べ終わってから顔を上げると、辻橋はまだ牛丼を食べながらスマートフォンをいじっていた。もちろん携帯は持っているに決まっていた。俺から連絡しても通じなかったのは、番号を変えたからだろうか。
今の俺ほど、辻橋に詳しい人間もいないだろう。俺はあらゆる情報を調べ、ヒントを探してきた。そのために写真集まで買った。
それでも、こうして情報の塊であるはずの本人が目の前にいるのに、やっぱり俺にはまるで何もわからない。
「なに?」
俺の視線に気づいたのか、携帯から顔を上げずに辻橋が言う。苛立った様子はなく、ただ家族に対するみたいに、打ち解けた空気だけがある。
「いや」
どうして辻橋はあんなことをしたのか。俺のことを恨んでいないから、この態度なのか。それとも、何か企みがあるのか。
「別に俺の新しい番号はいらないと思うよ。ここに住んだら部屋から出ないでしょ?」
「……は?」
「今俺の新しい携帯番号知りたいなって思ったんじゃなかった?」
確かに、彼の携帯とその番号のことを考えていた。今後のことを考えれば、番号だって把握しておきたい。だけどそれを正直に言うのは癪だった。だいたい俺の携帯は壊されている。
「違う」
「前にストーカーにあってさ。携帯捨てたんだよね」
携帯を変えたからといって、メッセージを伝達する手段はいくらでもあったはずだ。あのぬいぐるみは何だったのか。どうしてあんな方法で部屋番号を伝えたのか。知りたいことだらけだ。
「ここに済んだらって何だ」
「だって、行くとこないでしょ? アパート、燃えたよ」
「……は?」
さすがに何を言われているのかよくわからなかった。
辻橋がスマートフォンの画面を示す。画面にはSNSの投稿が流れていた。「煙すごい」とか「燃えてる」といった投稿が続いている。その中に画像が添付されているものがあった。
ぶれた写真で見にくかった。だけど言われてみれば、確かにそれは見覚えのあるアパートそっくりだった。
「嘘だろ……?」
俺は何度か、部屋にいたずらをされたことを思い出す。俺の住所は確かに晒されていた。だからといって、放火までするような人間がいるだろうか。
「いや、待て、そんな……ちょっと貸せ」
辻橋のスマートフォンを奪い取って、俺は画面を再確認する。携帯を壊されたのだから、このくらいはいいだろう。辻橋は文句を言わなかった。
SNSをそのままスクロールしたが、確かなことはよくわからなかった。俺はすぐ検索して、アパートの管理会社に電話をした。だが繋がらなかった。
同じアパートや近所に知り合いもいないし、ここのところの騒ぎで誰とも連絡は取っていない。部屋にそれほど高価なものがあったわけではないとはいえ、自分の唯一の家だ。通帳などの貴重品もある。
「ここ、ホテルだから家事とかしなくていいし、楽だよ。あの頃と違ってさ。排水溝に髪の毛詰まったーとかやんなくていいし」
画面から顔を上げると高級なホテルの部屋で、きらきら光る夜景が見えた。
俺の部屋は燃えたかもしれないのに、この落差は何なのだろう。
辻橋が俺の家にも何かしたのだろうか。
いや、彼は俺が来る前からこの部屋にいたし、放火をさせたとはさすがに思えない。誰か野次馬が俺の部屋に来て、タバコでも捨てていった可能性の方が高い気がする。
あるいは、ボロアパートだったし単に他の部屋の誰かが火の不始末をしたのかもしれない。俺はタバコを吸っていない。
それにしても、あまりのタイミングだった。誰かが俺の人生を、意図的に踏みにじろうとしているみたいだ。俺は呆然として、もう何も考えられなかった。体が重くて、もう何も考えられない。考えたくない。
「あ、でも着替えないけど買いに行く?」
辻橋は夕飯の相談でもするような気安さで言った。
・
十年前、俺は初めてスーツを買った。就職活動をする必要があったからだ。大学の入学式の時に着たスーツはサイズが合わなくなっていた。
辻橋は適当な吊しのスーツを買ってきた俺を見て、似合わないと言って笑った。
〝授業参観に来たお父さんのコスプレって感じ〟
〝おい、笑いすぎだ、ばか〟
辻橋は引きつけを起こしそうなくらい笑い続けていた。実際、そのときのスーツのサイズはぶかぶかで、不格好なものではあったと思う。
でもそんなことももう、はるか昔だ。
俺は社会人になり、毎日スーツを着るのが当たり前になった。むしろスーツは着る物を選ばなくていい分楽だし、嫌いじゃなかった。セミオーダーのシャツを買う方法も、アイロンがけが楽なものの選び方も、もう俺は知っている。
型にはまった方が楽だ。俺は辻橋たち劇団員と違って、自ら何かを表現したいと思ったことがない。誰かの前で演技することなど、考えもつかなかった。
もともと俺は、夢と言えるほどの夢を持ったことがない。小学生の頃はプロ野球選手とか適当に答えてはいたが、本気ではなかった。小学校でやっていた野球も練習が辛くて結局、中学の途中でやめてしまった。
普通に仕事があって、人間関係があって、できれば恋人がいて、たまに酒を飲んだり旅行をしたりできていればそれでよかった。
夢であってほしかった。
「詳細はまだ不明な点が多くて何とも申し上げられないところです、申し訳ないですが……保険は下りるはずですから少々お待ちください」
やっと管理会社と連絡がつき、確認できたところによると俺のアパートの火事は事実だった。
とはいえ全焼ではなく、俺の荷物も残ってはいるらしい。消防や警察の作業が終わってから引き渡されるという。警察が出てきているということは事件性があるのかと疑ったが、その点についてもまだわからないという。
残っているといっても、水浸しになったものだろう。使えるようなものかはわからなかった。
辻橋の部屋に泊まるつもりはなかった。彼が何を考えているのかわからない以上、リスクが高すぎる。
だけど俺の手持ちの金はそれほどない。携帯も壊されてしまい、宿を気軽に探すこともできない。
「携帯? ちょっと待っててくれれば直すよ」
「ほんとだろうな」
「ほら、SIMは無事っぽいから本体買えばいいんじゃないかな。今日中は難しいけど。とりあえず泊まるよね」
辻橋の言葉通りにするのは癪だった。だけどこんな状況で、あくまで泊まらないと言い張るのは難しかった。
寝室は残念ながら、広いとはいえダブルベッドだった。俺は「ここでは寝られない」と言ったが、辻橋は自分がソファで寝ると言った。
そこまで言われた俺は、もはや抗えなかった。ホテルのベッドはさすがに寝心地がよくて、俺はあっという間に眠りに落ちていた。
夢も見ずに眠った。こんなに深く眠ったのは、ずいぶん久しぶりのことだった。ここしばらくずっと、悪夢にうなされていたからだ。
真っ黒な眠りだった。死ぬときというのも案外こんなものなのかもしれない。
翌朝、目が覚めると同じベッドで辻橋が寝ていた。ダブルベッドの端の方で、無意識なのか俺に背中を向けて丸まっていた。
――ソファで寝ると言ったくせに。
イライラしてきて、蹴り落としてやろうかと思った。
そういえば、一緒に住んでいた頃も、酔った辻橋と同じベッドで寝たことはあった。もちろん、特に何かがあったわけではない。他の男友達とだって、やむを得ず同じベッドで寝たことはある。
辻橋も俺も、ホテル備え付けのパジャマを着ている。
男同士、同じパジャマで、同じベッド。こんなところを見られたら、人にどう思われるだろうか。俺が辻橋に何かした、というあの告発に信憑性を与えることになるかもしれない。
――辻橋は嘘をついている。
俺はそっと身を起こそうとした。やっぱりどれほど疲れていても、俺がソファで寝るべきだったのだろう。辻橋を信じたのが間違いだった。
「ん……」
辻橋が寝返りをうって、俺の方に近づいてくる。
俺はまるで自分が悪いことをしているかのように固まってしまう。整った顔をわずかにしかめて、辻橋は眠っていた。
――いや、そもそも俺は、こいつから理由を聞き出すつもりで来たのだ。
痛めつけるでも何でもして、目的を達成するしかないのかもしれない。
辻橋がなぜあんなことをしたのか、疑問は解けていない。解消しないのなら、殴ってでも聞き出すしかない。どこか他の場所に答えがあるわけではないのだ。
ここで寝ている、辻橋自身の中にしか答えはなない。
そう思うと不思議だった。
ここにいる一人の人間がすべてを握っている。俺にとっての謎。信じられないほどの不幸の塊。俺の人生をめちゃくちゃにした張本人。
彼さえいなければ。
俺の人生に、現れなければ。
辻橋は静かに寝息を立てている。今なら殺せる、と思った。殺そうという意図もなく、ただできるなと思った。そうして俺はほとんど身じろぎできないまま、しばらく辻橋の寝顔を見ていた。
「おはようございます。起きてください」
そんな風に寝顔を見ていた罪悪感からだろうか。寝室に突然人が入ってきたとき、俺は大げさなほどびくりとしてしまった。
「な」
この部屋に誰かが入ってくるかもしれない、と俺は考えもしていなかった。
スーツを着て眼鏡をかけた男だった。今が何時なのか確認はしていなかったが、まだ早朝だろう。
「湊さん」
男は俺のことなど見向きもせず、辻橋に近づいていく。
「仕事ですよ」
男は辻橋の体を壊れ物みたいに優しく揺さぶった。辻橋はまだ寝たりないのか、起きる気配がない。スーツの男は俺の存在をはなから無視していた。辻橋が見知らぬ男と寝ているのは、日常のことなのだろうか。
「湊さん」
辻橋を起こし続ける男を見ているうちに俺は気づいた。
「お前……魚見か?」
俺の大学時代から劇団にいて、辻橋の熱烈な信奉者だった魚見だ。早い話が辻橋のファンなのだが、その熱っぷりは劇団中に知られていた。
「湊さん」
「おい、魚見だろ」
以前はそばかすの目立つ、細身の神経質な若者という印象だった。だが今の魚見はどこから見ても、仕事のできそうなサラリーマンだ。
「うるさい死ね」
辻橋に声をかけるのとはまったく違う、鋭い声で男は言った。
「なんでお前が辻橋の部屋に来るんだよ」
「それはこっちのせりふだ」
辻橋の近況など俺は知らなかったから、魚見が辻橋の側にまだ居ることだって知らなかった。
辻橋と連絡を取ろうとしたとき、魚見のことを思い浮かべはした。だけど昔から敵視されている俺が聞いても無駄だろうと思って、コンタクトは取らなかった。
結果的にそれは正解だったのだろう。魚見はゴミを見るような目で俺を見た。
「消えろ、死ね」
陳腐な言葉だった。だけどここのところ、俺はそうした言葉を嫌というほど浴びせられてきていた。
俺は、自分でもびっくりするほど簡単に頭に血を上らせていた。
「魚見てめぇ、何言ってるかわかってんのか」
「わかってるに決まってるだろ」
俺は魚見の首元を掴む。何もわかってないやつらが、寄ってたかって俺を悪者にした。死ね、消えろ、クズ、そんな風に吐き捨てて。
陳腐な言葉でも、無数の人から浴びせられるそれは、俺の身を確実に切り裂いていた。でも、言った側はそこまでの意識もないのだろう。
「いい加減にしろよ、お前みたいなやつがいるから……」
握りしめた拳が震える。思い切り彼を殴りつけてやりたい。苦しめて、やめてくれと言ってもやめずに、痛めつけてやりたい。目の前がぐらぐらする。だって、こいつが悪いのだから。殴られたって仕方がないのだ。踏みつけて、頭を押さえつけて地面に叩きつけてやりたい。血が見たい。思い知らせてやりたい。
「あれ、今何時?」
辻橋の声がして俺ははっとして、魚見の体を離した。まだ眠そうに、辻橋はベッドから体を起こす。
「もう起きないといけないんだっけ?」
「今日は撮影です。あと十分で出ます」
魚見は俺に対してとはまるで違う態度で、腕時計を見る。俺につかみかかられたことなど、まるでなかったかのようだった。
「そっかー。じゃあ、起きるか」
辻橋は眠そうな目を擦って立ち上がった。
俺は今、何をしようとしたのだろう。今まで人を殴ったことなどない。魚見のことは好きではないが、かといって強く憎んでいるわけでもない。それなのに、彼のことを破壊したくてたまらなかった。
「俺、トイレ」
辻橋はそう言って部屋を出て行く。
「やっぱり、変わってないな」
魚見が吐き捨てるように言う。俺は何とか冷静さを装って尋ねる。
「魚見、お前何やってんだ? お前が辻橋のマネージャーなのか?」
「あんたがそこに存在してられるのは、湊さんがどうしてもって言うからだからな」
魚見は以前から辻橋のことをやけに信奉していた。そのせいか、ルームメイトの俺にまで何かとつっかかってきていた。とはいえあまりにその行動原理が単純なので、むしろ嫌いにはなれなかった。よく吠えるチワワみたいな印象だった。
「じゃあお前も今回のことに噛んでんのか」
辻橋とは後でちゃんと話をするつもりだ。だけどそれでも、彼の口から今回の件の正当な理由や、詳細が聞き出せるかどうかはわからない。
魚見は辻橋に比べれば常識人だ。話がまったく通じないということはないだろう。
「お前、何してたんだ、どうして止めなかったんだよ」
マネージャーなら、辻橋の商品価値にも敏感なはずだ。あんな告発をして、もし嘘だったと知られたら辻橋の評判は地に落ちる。一時的に注目は得られるかもしれないが、その代償は高く付く。
辻橋がしたのは、普通ならしないことなのだ。
魚見がそばにいたなら、止めるべきだった。だが、魚見は何も答えなかった。
「わかってたんだろ、お前だってあれは嘘だって! あのせいで俺の人生はめちゃくちゃになって……!」
「嘘?」
魚見は鼻で笑った。
「ぬけぬけと」
「は……?」
俺は思わず身を乗り出す。俺たちをあの頃間近で見ていた魚見は、真実をわかっているはずだった。
俺が辻橋に性的暴行を加えるなんてことはないと、彼は理解しているはずだ。絶対にそうだ。
「お前本気で言ってんのか!? ありえないだろ!! 俺がそんなことするなんて!」
「何を証拠に言えるんですかね」
ありえない。どいつもこいつもどうかしている。確かに魚見と俺は仲はよくなかった。だが一緒の場で酒も飲んだ。最低限の信頼はあるのだと思っていた。
「てめぇふざけんな」
「十分で行くんじゃないの?」
辻橋が部屋に顔を出した。俺たちがなぜ言い争っているのかなど、まるで彼は興味がなさそうだった。
「そもそもお前が、辻橋……!」
「あ、そうだ東本の服買わないとだよね。仕事終わってからでいい?」
辻橋はこの部屋のぴりついた空気を、本当にわかっていないのだろうか。それとも、わかっていないフリをしているのか。
「魚見、車回して辻橋連れてきてよ」
魚見は辻橋に対しては、ほんの少しも表情を歪めることもなかった。ただ真顔のまま「はい」と答えた。
俺はそのまま、しばらくホテルの部屋に一人で残された。
辻橋がいない今、気持ちを整理してヒントを探そうと思っていた。ホテルの部屋は当たり前かもしれないが、きれいに整えられていた。置いてある辻橋の私物はさほど多くない。携帯の充電器や、服ぐらいだ。それだけでは、辻橋の近況を探る材料にはならなかった。
携帯を見ることができたら違うかもしれない。だがさすがにそれは辻橋が持っていっている。
俺は小さな冷蔵庫の中にあったアイスコーヒーを飲んだ。
――何をしてるんだろう。
昼間なので、窓からは夜景ではなく昼間の風景が見える。天気はよかった。ぼんやりと風景を眺めているうち、俺は眠ってしまっていた。
数時間後、魚見は再び部屋にやってきた。
俺はもはや、彼と言い争う気にもなれなかった。彼も同じだったらしい。ただ無言のまま、俺を車に乗せ、デパートに連れてきた。
俺のことなどぱっと見てわかる人はそう多くないとわかっているのに、それでも体がすくむ。あの事件の、あの極悪人の、誰もが俺のことをそう見ている気がしてくる。
魚見が俺を連れて行ったのは売り場フロアではなく、足を踏み入れたこともない階だった。魚見は俺が何を話しかけても、必要なこと以外口にしなかった。
「あ、来た来た」
辻橋は仕事の疲れも見せず、携帯を手に俺を待っていた。そばにスーツを着た年配の男性も立っている。
「こういうのでいい?」
そばにあるハンガーに吊された服を見せ、辻橋は言った。シンプルなつくりの男物の服だった。黒や白の色味のものが多い。俺は値札を見る気にもなれなかった。
「着てみる?」
「別にいい」
辻橋と仲良く服を選ぶ気には到底なれない。数日間の服が必要なのは事実だが、着られるものなら何だってよかった。辻橋は店員に何事かを短く伝える。
「じゃああとはスーツだけだね」
何をするのかと思ったら、オーダーメイドでスーツを作るのだという。そんなものは必要ない、と俺は言った。
「ちゃんとしたやつさー、一着あった方がいいよ」
「なんで今そんなの作るんだよ」
俺は辻橋のところを久しぶりに訪れただけだ。それなのに一緒に住めと言われ、高級な服を与えられるなんてどうかしている。だけど辻橋は疑問にも思っていないみたいだった。いつの間にか魚見も姿を消している。
「金はないからな」
「お祝いにあげるよ」
「何のだよ」
抵抗するのもばからしくなってきて、じきに俺は諦めた。辻橋が大金をドブに捨てようと、俺の知ったことではない。
とにかく今は辻橋のしたいようにさせるしかなかった。期限がよくなったら、何か彼が話すこともあるかもしれない。
タイミングを見計らっていたのか、メジャーを持った店員があちこち俺の体を測り始める。
「魚見を雇ったのか」
何でもいいから、もう少し情報を得たかった。辻橋はまた、自分のスマートフォンをいじっているところだった。誰かとメッセージのやり取りでもしているのだろうか。画面はフィルムが貼ってあるのか、まるで見えなかった。
「何? あ、東本も俺のマネージャーやりたいとか?」
「死んでも嫌だ」
「まぁ便利なやつだよ、魚見は」
そりゃあお前にとってはそうだろう。以前から魚見は盲目的に辻橋のことが好きだった。辻橋がカラスを白と言ったら、黒いカラスを殺し尽くすような男だ。
――むしろ、俺より辻橋を乱暴する可能性が高いのはあいつだろう。
そう考えると苛立ちがまた湧き上がってくる。それなのに辻橋は魚見をそばに置き、もうまったく会っていなかった俺をわざわざハメた。
もし仮に、辻橋が男を好きなのだとして、魚見ではどうしていけないのだろうか。
あるいはもしも俺のようなタイプの人間が好みなのだとしても、絶対に探せないということはないだろう。自分で言うのも何だが俺は平凡な男だ。
「お前は、ゲイなのか?」
付近に店員もいたけれど、もはや気にならなかった。どうせ俺は社会から爪弾きにされている身だ。家さえ失った。これ以上失うものなどないはずだった。
「聞いてどうすんの?」
携帯から顔を上げずに辻橋は言う。
「何なんだよ、ゲイなのかどうなのかって聞いてるだけだ」
「東本は?」
会話の間ずっと、辻橋は携帯を見たまま顔を上げなかった。かといって俺を無視するでもなく、話しかけるとちゃんと答える。
「俺はゲイじゃない」
「知ってる」
あるいは辻橋は、単にあの頃のモラトリアムな雰囲気に執着しているのかもしれない。俺と言うより、俺を含めたあの頃の何とも言えない自由な空気を懐かしんでいるのだ。その方が、まだ納得ができる気がした。
「魚見はお前が好きなんだろ」
辻橋が初めて顔を上げる。だから何だと言わんばかりの表情だった。
「まぁ、マネージャーだからね」
「魚見と寝てんのか」
俺はわざと下卑た言い方をした。魚見はベッドに寝ていた俺を見ても、何も反応しなかった。慣れているように思えたし、それなら彼と辻橋が関係を持つ機会だってあったかもしれない。
辻橋は腹を立てる様子もなく、わずかに首を傾げた。
「なんで?」
「なんでって……」
「寝ててほしいんだ?」
「なんで俺に聞くんだよ」
きわどい会話をしている俺たちのそばで、店員は黙々と反応もせずに俺を測り続けている。
「残念だけど、寝てないよ」
「それを残念に思うのは魚見だけだろ」
魚見だけは何があっても、俺の味方になってはくれないだろう。
それではだめだ。誰でもいいからとにかく俺は、味方を見つけなければならない。今の俺の周囲はあまりにも敵だらけだ。
世界のすべてが敵になった、そう思った。でも、どこかにはきっと俺の味方になってくれる人はいるはずだ。
「長洲さんとかとは会ってんのか」
「なんでそんな他の人の話ばっかすんの?」
辻橋は初めて機嫌の悪そうな声を出す。
「いや、俺は会ってないけど、元気にしてんのかなって」
「会ってたじゃん、おとといの忘年会で」
「え?」
俺は思わず素っ頓狂な声を出してしまった。
「……なんで知ってんだよ」
確かにそれは事実だ。まだ俺も働いていたし、彼女もいた頃だった。知り合いの忘年会に誘われて、たまたまそこで長洲と会った。辻橋や野辺はいなかった。
「俺は誘ってくんなかった」
そもそも俺が主催の飲み会でもない。なのにそんなことを言われても困る。
率直にいって気味が悪かった。一体どこまで、彼は俺の生活のことを把握しているのか。
――辻橋は長い間、俺にとって弟みたいな存在だった。
頼りなくて甘えん坊で、そしてそれを許す雰囲気が彼にはあった。今となっては、そのすべてが忌々しいけれど。
「俺が主催の飲み会じゃなかった」
俺は何とか口にする。
「自分で主催したことなんてないじゃん」
俺は言い返せなかった。気がつくともう仕事は終えたのか、店員は下がっていた。
友人に誘われれば飲みには行く。だけど俺は確かに、自分から誘うことはほぼない。それでも大学時代のことは、俺だって今までそれなりにいい思い出だった。
――今回の件が起こらなかったら、俺は辻橋と飲むこともあっただろうか?
辻橋は俺と連絡を取らなかった。
俺からも取っていなかった。
――"そう、何もしなかった。"
辻橋の声を思い出す。俺は、何かを見落としているのだろうか。考えても考えてもわからなくて、どんどん深い森の中に迷い込んでいくみたいだった。
辻橋に会っても、彼に尋ねても、まったく出口が見つかる気配がない。
「お腹減ったよね。何食べたい? せっかくまた一緒に暮らすんだから、お祝いしないと。やっぱり鍋かな」
用事を終え、駐車場に向かう途中で辻橋は言った。フロア専用のエレベーターなのか、他に客はいなかった。それは人目が気になる俺にとっては、ありがたいことだった。
「おい、辻橋」
「ホテルで鍋ってできる? コンロ買えばいいのかな」
辻橋はおかしい。こんな状況で、俺が彼とにこやかに鍋をつつけると本気で思っているのだろうか。
「ビール買ってさ。まぁちょっと暑いけどそれもいいよね」
「湊」
どうにかつまらないお喋りを止めさせようと、俺は彼を下の名前で呼ぶ。
別に深い意味があったわけじゃない。だけどそれは効いた。ぴくりと辻橋は動きを止め、怪訝そうな顔で俺を見た。
「茶番はやめろ」
エレベーターが地下につく。ドアを出るとそこは駐車場だった。行きにも乗った車と魚見がすぐそこに待機していた。
「何が?」
「お前は俺を脅してんだぞ、昔みたいになんてできるわけないだろうが」
彼はきょとんとした表情をしている。
何が悪いのか、間違っているのか、本気でわかっていないようだった。あるいは、これも上手な演技なのか。
俺には何もわからない。
「脅した?」
もう二度と彼を弟のようになんて思えない。彼は俺の人生を破壊したのだ。そして壊れたものはもう戻らない。
「脅しただろ」
むやみに顔のよい男は、爽やかに微笑んでみせた。
「脅してないよ」
一瞬、俺は彼を信じたくなる。何もかも彼が正しくて、間違っているのは俺の方なんじゃないかと思いそうになる。でも、俺が彼を暴行などしていないことは確かだ。絶対に、確かなのだ。
「嘘をついて、呼び寄せて、脅したんだ」
俺は静かに口にする。
「車の中で話そっか?」
辻橋はいいながら車の後部座席に乗り込む。俺はいっそこのまま、車に乗らずに逃げだしたかった。
――だけどどこに?
魚見はドアの横に待機している。俺が乗るのを待っていた。
家はない。俺にはどこにも、行けるところなんてない。今時ネットを見ない人なんてほとんどいない。俺のことは知れ渡っている。もうきっと消えない。辻橋がしたのはそういうことだ。
俺は諦めて、後部座席に乗り込む。少しして、車は静かに発進した。
・
話そうと言ったわりに、辻橋は車の中で何も言わなかった。すぐに眠りに落ちてしまったのだ。
仕事で疲れているのかもしれない彼を、無理やり起こす気にはなれなかった。
俺はひとり車窓の風景を見ながら、どこで逃げようかと頭の中でシミュレーションしていた。このまま辻橋といても、俺の望む答えが見つかるだろうか。同居したからといって、辻橋がすべてを反省し嘘だと本当に言う保証はない。
彼は嘘つきだ。俺を欺かない保証はない。もう俺は、彼のことを信じられない。
結局そのまま俺は辻橋のホテルに戻ったが、ドアを開けて驚いた。食べ物の匂いがしたからだ。
テーブルの上には、まるでパーティでも始めるかのように肉や惣菜が並んでいた。出かけている間に手配をしたものらしい。
「よーし、じゃあパーティだ」
さっき起きたばかりの辻橋の明るい声が空々しく響く。テーブルの上にはシャンパンのボトルもある。
「誰か他に来んのか?」
テーブルの上に並んだ食べ物は多かった。十年前を再現したい辻橋は、劇団員の仲間でも呼んでいるのかと思った。魚見とは駐車場で別れたままで、彼は部屋までは入ってきていなかった。
「後でね」
昨日と同じように、広い窓からは夜景が見える。こんな風景も、すぐに見飽きてしまうのだろうか。俺はこの部屋に順応しつつある自分が怖くなってくる。
「誰が来るんだ?」
「東本の知らない人だよ」
「お前、劇団の人たちとはもう会ってないのか」
「そうだねー。あ、野辺さんとはこの間会ったかな」
あの頃とは全く違う居心地のいい部屋で、高級な食材が潤沢に並んでいる。でも、何もかもそれこそ芝居のように見えた。
今にもどこかの壁が倒れて、「嘘でした」と明かされるんじゃないか。
「おかえり、東本」
辻橋は微笑んでシャンパングラスをかかげる。きっとそのシャンパンも、並んだ食事もおいしいのだろう。だけどそんなこと俺は求めているわけじゃなかった。
今日も窓からは夜景が見える。辻橋は整った顔で微笑む。何もかも表面だけはきれいだ。だけど、その裏にあるもののことを俺は考えないではいられない。俺たちは懐かしく旧交を温め合えるような間柄じゃない。辻橋はおかしい。
これは何の茶番なのだろう。俺は耐えきれずに、グラスを払いのける。グラスはかんたんに弾け飛び、床にシャンパンが広がった。
「あーあ、もったいない。ちゃんと拭いてよ、東本」
「やめろ、こんなこと」
「こんなこと?」
辻橋はきょとんとした顔をしている。
「実のないことだよ。無駄だろ、もうやめろ」
「無駄って何が、楽しいじゃん」
辻橋は俺のシャンパングラスを手に取り、それを飲み始めた。酔わせれば辻橋も少しは口を開くかもしれない。今は調子を合わせるべきだ。そう思うのに、こんな状態で彼と酒を飲み交わす気にはどうしてもなれない。
「俺はブランド物の服も、高い飯も興味なんてない」
「じゃあ牛丼頼む?」
そういう問題ではないのだ。
今の俺が、彼と親しく酒を飲み交わすことなどできないのだと、辻橋は本当にわからないのだろうか。もう二度と、あの頃には戻れないのだ。
「せっかくの料理と酒なのに、不満ばっかり」
「こんなとこでのどかに飯が食えるわけないだろ」
「なんで?」
辻橋は本気で何もわかっていないような顔で言う。だんだんと苛立ちが積み重なっていく。
「俺は、できることならもうお前の顔なんて一生見たくなかった」
辻橋にちゃんと、俺の言葉は届いているのだろうか。彼を傷つけようと思って放ったこの言葉は。
美しい辻橋の何の感情もない表情からは、まるでわからない。
俺は初めて、彼を恐ろしいと感じた。
こいつは駄目だ。いつからそうだったのかはわからない。昔からそうで、俺が気づかなかっただけなのかもしれない。
でも、駄目なのだ。近づいた俺の方が愚かだった。関わったらいけなかったのだ。それなのに、俺は彼に俺の人生を返してもらわないといけない。そんなことができるとはとても思えない。でも、やらないといけない。
「なんでこんなことしたんだよ……」
俺は絞り出すように言う。
彼の人生から、俺はもういなくなったのだと思っていた。俺も別にそれでよかったのだ。
俺たちの人生はもう分かたれた。人気俳優ならそれなりの道を選んでほしい。もっと楽しいことだってきっとあるだろう。
「東本が出てったときさ、あっという間だったよね」
辻橋はすねたような口調で言う。
「そりゃあ、就職が決まったんだからそうだろ」
「俺は行かないでくれって言ったのに」
何を言っているのだろう。俺は彼の親兄弟でもない。彼に対して何の責任もない。それに辻橋は、一人でやっていけないような人間でもない。多少良い加減なところがあっても、まともな成人男性だったはずだった。
「殴るぞ」
「やれば?」
今や顔は仕事道具のはずなのに、湊は本気で執着していないようだった。無防備な彼を殴ってしまうのは簡単そうに思えた。叩きつけて、打ちのめして、俺が正しいとわからせる。どうしてそうしてはいけない? そうできない?
――でもそうしたら。
彼の告発を真実にしてしまうことになる。俺はぐっと拳を握りしめる。一度でも彼に手を上げたら、辻橋に対して暴力をふるったことなどないと、二度と言えなくなるのだ。
「殴りなよ」
辻橋はそう言って俺に微笑みかける。とびきり美しい、ぞっとするような笑顔だった。
俺は怖かった。彼のそばにこのままいたら、本当に自分が彼にすぐに暴力を振るうようになってしまうのではないか。
今だって、すでに彼を思い切り打ちのめしたくなっている。
「俺、東本にだったら殴られてもいいかもな」
甘えたような声で辻橋は言う。苛立ちにまかせて彼を叩いたら彼の思うつぼだ。何とか俺は理性を総動員してこらえる。
「ふざけんなよ……」
辻橋はしばらく俺がどういう行動に出るのか待っていたようだった。だけど殴らないのだと悟ったのか、ローストビーフを食べ始める。
「さぁ、じゃあ何しよっか。やっぱりパーティーなんだからさぁ、楽しいことしたいよね」
タイミングを見計らったかのように、チャイムが鳴った。魚見だろうか。さすがに並べられた食べ物が、二人分には多いことには気づいていた。
魚見が来たとして俺の味方にはなってくれないだろうけれど、辻橋と二人きりよりはマシかもしれない。
「あ、ちょうど来たよ」
辻橋がドアを開けるとサンタのような格好をした若い女性が三人、なだれ込んでくる。スカートが極端に短くて、そのままショーか何かにでも出そうな人達に見えた。三人とも胸元までの茶色い長い髪で、顔立ちはまるで違うのにどこか似通って見える。
「なんだよこれ」
「こんにちはー! 今日はパーティなんですね?」
甲高い女性たちの声と、きらきらした笑顔はあまりに場違いだった。俺はもはやこのリビングにいたくなかった。だけど席を立とうとするのも、辻橋が許さなかった。
「東本は女の子が好きだよね?」
「何なんだ、これは」
辻橋は笑いながら女の子を隣りに座らせている。グラスにシャンパンが注がれ、乾杯の声が重なる。俺は呆然としていた。辻橋は女もいけるのだろうか。女の子が辻橋の首に腕を回し、キスせんばかりに顔を近づける。
かと思ったら別の女の子が俺の方にも同じように近づいてくる。
「ふたりともイケメンですね~」
「このお酒おいしそう!」
顔が近いので、彼女たちの目に濡れらたキラキラしたパウダーまでくっきりと見えた。
「おい、辻橋、どうにかしろ!」
ここのところ女性と関わる機会もほとんどなかったが、かといってここで仲良くしたい気持ちになれるわけもない。
「じゃあ俺と二人きりのパーティにする?」
「しねぇよ、いい加減にしろ」
えー、と女の子たちが非難の声を上げる。彼女たちも仕事でやっているのだろう。金をもらえるからだ。わかってはいるのだが、その甘い声にイライラする。
「じゃあみんなで朝まで飲もうよ」
辻橋は、まったく湿度や粘り気のない声で言う。
わからない。辻橋は前から、恋愛に対する興味が薄いようだった。今も薄着の女性達を見る彼の視線に、嫌らしさはまるで感じられない。
彼は寂しさのあまり、金で人を雇って一緒に飲んでもらうことにしたのだろうか。こうした酒席と、辻橋はほとんど真逆のものに俺には思えていた。
ますます辻橋の意図がわからなくなってくる。茶番にしたって、下品だし何も面白くない。
女の子の一人が俺の太ももに手を置いた。童顔でかわいらしい子だったけれど、全然嬉しいとは思えなかった。俺はその手を振り払う。
「きゃ」
「やめろ! 何でもいいからこの人達は帰らせろ!」
「パーティなんですよね? 楽しまないと」
自分自身に言い聞かせるように彼女は言った。彼女たちは恐らく金をもらっているのだろう。辻橋が芸能人であることにもきっと気づいているはずだ。女の子の手はわずかに震えていた。
「帰らせろ、辻橋」
辻橋は女の子の一人とディープキスをしていた。なぜ知り合いのそんな場面を見ないといけないのか。
俺はいい、と言っているのに俺の側にいる女の子はしつこく絡んでくる。仕方なく、俺はテーブルの上にあったワインを手に取った。シャンパンだけでは酔いきれなかった。
振り払っても、女の子は近づいてくる。何度も下半身を撫でられているうち、俺は自分が性的に反応を示していることに気づいてしまう。久しぶりの酒も、久しぶりの女性からの刺激も俺には強すぎた。ワインはくっきりと味が濃くて、そのくせ喉をするすると通る。
俺はさっきより更にぐったりと疲れていた。もはややけくそになって、グラスに注がれたワインを飲み干す。
「いい飲みっぷりですね」
もはや酔えれば何でもいい。何の解決にもならないことはわかっている。だけど、ほんの少しでも今のこの悪夢を忘れたかった。
俺はここから逃げられない。すべては辻橋の思う通りになる。
辻橋に嘘だと認めさせ、自分自身の人生を取り戻す。そんなこととても可能だとは思えなかった。
気がつくと辻橋の体の上に、女の子の一人が乗り上げている。そのままここでセックスを始める気だろうか。さすがに知り合いのそんなところは見たくない。このまま乱交でもするつもりなのか。それなら俺は寝室に籠もっていたい。
「おい……辻橋、やめろ」
俺はひたすらワインを飲み続ける。飲んでも何も解決しないのはわかっている。でも、今だけでも逃げたい。女の子が俺にキスをしてくる。ズボンのボタンが外される。
もういっそ、このまま身を委ねてしまおうかと思った。どうなったっていい。一瞬気持ちがよくなれるなら、もうそれだけでいいのではないか。どうせ俺にはもう何もない。
「東本」
俺の知っている辻橋は、どんな男だったのだろう。改めて考えると疑問がたくさん浮かんでくる。
芝居も恋愛も、大して興味はなさそうだった。
何にも本気じゃなかった男。
俺の知る限り一番顔のいい男。
じゃあ辻橋は何が好きだったのか。酒は好きだったんじゃないかと思う。他に、彼は何を好んでいたのだろう? 同じ部屋にそれなりの年月一緒に住んでいたのに、わからない。家族の話もほとんど聞かなかった。
「思い出せよ」
辻橋が何か言っている。いや、そもそも俺は女の子とキスをしていたはずなのに、どうして目の前に彼がいるのか。さっきまで辻橋は、女の子とことに及ぼうとしていたのではなかったのか。俺は体を起こそうとするけれど、うまくいかない。
気がつくと俺の上に辻橋がのしかかっていた。
「自分が何をして、何をしなかったのか」
「おい、やめろ……!」
俺は辻橋にのしかかられている。辻橋は細身とはいえ成人男性だ。それなりに体重はあって、振り払えない。ワインの度数が思ったより高かったのだろうか。天井が回っている。こんなに酔ったのは久しぶりだった。
「どうせみんな、信じたいものしか信じないんだよ」
押し付けられた唇を、顔を背けようとしたけれど避きれなかった。唇の感触は、さっきの女の子とほとんど変わらないように感じた。
「見たいものしか見ない」
「やめろ……」
体に力が入らない。あまりにも体のコントロールがきかなくて、さっき飲んだのはただの酒ではなかったのかもしれないと思った。
だけど今更気づいたところでどうにもできない。やけに蛍光灯の光がまぶしかった。ちかちかと頭に痛い。いつの間にか、部屋の中には俺と辻橋しかいなくなっていた。女の子たちはいつ帰ったのだろう。
辻端の手が俺の体をまさぐっている。さっきから女の子に刺激されてすっかり敏感になっていた俺の体は、それだけで如実に反応を示す。
「やめろ……!」
心臓がやけに早鐘を打っている。耳元で鼓動が鳴っているのを感じる。やっぱりデパートに行ったとき、車に乗らずに逃げるべきだった。でも、どこに行けばよかったのだろう?
どう行動したら正解だったのだろう?
「大丈夫、力を抜いてて」
ボタンの既に外されているズボンをズリ下ろされる。まさかと思った。そのまま下着も下ろされて、性器が外気に触れる。寒いと思ったのも一瞬、辻橋の手で包まれる。
嫌なのに、身動きが取れない。辻橋は俺の性器を擦り上げていく。起きていることに現実感がなくて、夢なら早く醒めてくれと願ってしまう。
「口でしてあげるよ」
俺が答える前に、辻橋は俺の性器を口に含んだ。
「…っ」
ぐらぐらと酔った頭には、強すぎるほどの刺激が走る。
「やめ……」
俺は男を恋愛対象として考えたことはない。いくら辻橋の顔が整っていたって、そういうことは考えられない。だけど直接的な刺激に、下半身に血が集まっていくのがわかる。
今回の事件があってから、自慰なんてする余裕もなかった。性欲なんてもうなくなったくらいに思っていたけれど、刺激に対する俺の反応は正直だった。
「やめろ……!」
温かい口内にきつく締め付けられる。信じられないくらい気持ちがよかった。もう、何もかもどうなってもいいからいきたい、それしか考えられなくなっていく。
辻橋は先端を吸い上げ、深く口に含み、前後に動きをくり返す。俺はそのまま、あっさりと達していた。
「いっぱい出たねー」
口から俺の精液を滴らせながら、何でもないことみたいに辻橋は言う。
俺は今、何をされているのだろう。ぞっとして、逃げたいのに体に力が入らない。怖い。ちかちかと蛍光灯が瞬いて見える。光が明滅して、俺を押しつぶそうとしている。
「大丈夫、東本はじっとしてればいいだけだから」
びっくりするほどきれいな顔の男が、俺を見下ろしている。痛みは感じなかった。きっと酒か、ドラッグかで麻痺していたのだろう。辻橋の指で散々、俺は信じられないようなところをいじられた。
「や……っ」
「大丈夫」
大丈夫なわけがない。殴り倒してやりたい、と思っているのに手に力が入らない。顔を寄せてきた辻橋は俺にキスをした。「……や、めろ」
俺にとっての正解はどこにあるのか。やり直せるなら、どこからやり直したらいいのだろう。このホテルに来る前か。
あのとき、やっぱりナイフを持ってきて彼を刺すべきだったのか。
あるいは、辻橋とルームシェアを始める前に戻ればいいのか。
あのとき。あのとき……。与えられる痛みを想像して身を強ばらせながら、俺は答えのない問いをひたすらにくり返していた。