大学進学をきっかけに逃げるように実家を出て、俺は叔父の家、彼女の家と点々とした。

 一人で家を借りられるだけの金はなく、居候は肩身が狭かった。だから辻橋と暮らしたあのマンションは、俺にとって初めての、安らげる場所だった。

 独特の匂いのする部屋だった。説明は難しい。汚れからくる匂いではなかったはずだ。男二人の家だったし、洗濯物や洗い物が溜まったこともあったけれど、不潔というほどではなかった。

 鉄筋コンクリートではあったが、作りの古いマンションだった。隣の部屋の音はほとんどしなかったが、上の階の足音はよく響いた。だからこそ家賃が安く、俺たちが借りることもできたのだろう。

 部屋は家族向けの作りだった。寝室は二つあり、それぞれで使った。お互い部屋にこもって、数日顔を合わせないこともよくあった。

「あれ? これどうしたの?」

「鍋だよ、鍋」

「それは見ればわかるし」

「もらったんだよ」

 彼女の家に転がり込んでいたとき、俺はそれなりに気をつかっていた。風呂は彼女より後に入るとか、寝る時間はあわせるとか。居候だという意識があったから、追い出されないようにと気をつけていた。

 俺は最初、辻橋との距離を測りかねていた。

 男同士だから、彼女の時ほどの気遣いはいらないだろう。辻橋はたまたま同じ家に住むことになったというだけの、他人だった。

 気遣いはするけれど、必要以上に接触はしない。お互いの部屋はもちろん別だ。

 辻橋は料理をしない男だった。俺はたまに料理はしたが、辻橋の分まで作るようなことはしなかった。たまたま余れば声をかけることもあったけれど、あくまで辻橋と一緒に食べることを「当たり前」にはしなかった。

 ――もっと気を使ってよ。なんで何もしないの?

 彼女と別れる前には、そんな風に言われたこともある。俺なりに配慮していたつもりなのに。

 そんな頃にたまたま、俺はホームセンターで鍋を目に留めた。

 俺は鍋を家族の象徴みたいに感じていた。それは俺にとって、忌避したい何か禍々しいものだった。家族みんなで笑顔で鍋をつつく……そんな家には縁がなかった。父は暴力をふるったし、母は俺に無関心だった。だから逃げるように出てきたし、俺には帰るべき家はない。

 気がつくと俺は、鍋セットと燃料、その他一式を買い込んでいた。

「俺きりたんぽ食べたいな」

 辻橋は煮える鍋を見ても、喜ぶ様子はなかった。もともと、あまり食べ物にこだわるタイプではないのだろう。一緒に鍋なんて、やりすぎたかもしれない。

「お前、秋田出身だったか?」

「ううん、福岡」

「じゃあむしろ水炊きだろ」

「俺あんまり好きじゃない」

 俺は辻橋から、家族の話を聞いたことがなかった。だけど俺だって同じだ。実家の話はほとんどしなかった。辻橋も聞いてこなかった。そんなところも、辻橋といて心地よかった点かもしれない。

「入れたいもんあるなら、自分で買ってこい」

 辻橋はしばらく「えー」とか文句を言っていたけれど、自分で買ってくるほどの熱意もないのか、目の前の席についた。

「これ味は?」

「塩。足りないなら適当にしろ」

「俺、しょうゆより塩派だな」

 それからたまに、俺たちは一緒に鍋をすることになった。

 とはいえタイミングが合うことは少なく、せいぜい数ヶ月に一度だった。最近顔を見ていないな、という頃になるとどちらからともなく食材を買ってきて用意を始める。

 俺は、辻橋に就職について話す日も鍋にした。

 内定をもらった会社には寮があり、そちらに入るつもりだった。辻橋のご機嫌を伺うつもりなどなかったけれど、ついきりたんぽも入れた。たまたま近所のスーパーで目について、目に付いた以上は買わなければいけない気がしたからだった。

「好きなんだろ、きりたんぽ」

 ロング缶のビールをお互いに数本飲んだ。

「うーん、今日はあんまり気分じゃない」

「お前もたまには具もっと買ってこいよ」

「何でもいいよ、別に」

 彼とこんなどうでもいい会話をする夜も、最後になるのかもしれない。俺は就職し、社会人になる。もう子どものままではいられない。劇団のメンバーと朝まで飲むことも、煙っぽい飲み放題の安い居酒屋に行くことももうない。

 俺は彼らとは別の道を行くのだ。

「俺、就職してこの家出てくわ。一人で住むのは高すぎるだろ、時期は調整するから、お前も新しい家探せよ」

 辻橋がどんな反応をしたのか、俺は覚えていない。だからたぶん、覚えていないくらいの――ふぅん、とかそのくらいの薄い反応だったのではないかと思う。

 

 ・

 

 めまいがする。悪夢がずっと続いている。

 俺は何とか這うようにして洗面所に向かった。リビングは薄暗く、まだ食べ残しや飲み残しが散らかっていた。

 その様子は、起きたことが夢や幻ではないのだと俺に伝えていた。

 鏡には青白い顔の、無精髭の男がうつっている。俺は顔を洗おうとして、鏡に頭をぶつけかける。頭がひどく重くて、体がコントロールできない。

 あれはただのワインではなかった気がする。何かが入っていたのではないか。それとも、俺の体調が悪いだけなのか。

 頭がぐらぐらする。吐き気がとまらなかった。

 鏡を見ていると、涙が浮かんできた。辻橋に何をされたのか。体中をいじられ、まさぐられ……犯された。勘違いではない。はっきりと覚えている。飲まされたもののせいか痛みはなかったことが、よかったのか悪かったのかはわからない。

 ゆっくりと時間をかけて彼は俺を蹂躙した。うめいても、やめてくれと訴えても無駄だった。

 辻橋はどうかしている。

 彼が告発したような暴行を、彼自身がしたのだ。俺は何も悪くないのに。

 ――殺してやる。

 青白い男が、鏡の向こうから俺を見返している。幽霊のようだ。服をまくり上げると、あちこちが青く痣になっているのが見えた。

 辻橋は部屋のどこにもいなかった。もう仕事に行ったのかもしれない。部屋には誰の気配もなく、静かに空調の音が響いていた。

 ――だけどどうやって。

 俺はベッドに寝転がる。辻橋も寝ていたベッドは気持ちが悪かったけれど、体のだるさには代えられなかった。

 こんな日が来るなんて思わなかった。

 辻橋の告発を聞いた日にも、そう思った。夢なら醒めてくれ、どうか昨日までの平穏な日々に戻ってくれ、と。だけどまさか、最悪な日々のその先があるなんて思わなかった。

「なんで……」

 今ここに警察を呼ぶなんてことは考えられなかった。男に犯されたと話したくもないし、どうせ俺の話なんてまともに受け止められないだろう。

 ここまでして、辻橋は俺を貶めたかったのだろうか。

 俺は目をつぶる。このままスイッチを切るように死ねるなら、もうそれでもいいと思った。

 これ以上俺の人生は、ひどくなりようがない。

 浅い眠りの中で、思い返したくもないのに俺は、辻橋にされたことを思い返してしまう。押さえつけられ、ほぐされた奥に無理やり挿入された。体に力が入らず、ろくな抵抗はできなかった。

 快感はなかった。だけど痛みもなくて、どこか自分の体を他人のものみたいに感じていた。

 揺さぶられ、しがみつかれた。そのとき辻橋がどんな顔をしていたかは覚えていない。

 

 

「ただいまー」

 はっとして目が覚めた。

 俺はすっかり眠ってしまっていたらしい。もう今日が何日で何時なのかも、はっきりしなかった。

「お腹減ってる? 買ってきたから出すねー」

 リビングのテーブルの上はいつの間にかきれいになっていた。

 俺に何をしたのかまさか忘れているわけではないだろうに、辻橋の態度はいつも通りだった。けろりとした顔をして、何事もなかったようにそこにいた。

 俺は、辻橋を殺せばいいのだろうか。だけど武器がない。部屋にはあるのはせいぜいプラスチックのフォークくらいだ。外に出て買い物をしようにも、手持ちの金がない。

「ふざけるなよ、辻橋」

 俺の声はかすれていた。その日初めて発した声だった。

「何が?」

 辻橋はけろりとした顔をしている。いつもそうだ。俺が深刻に訴えようとしても、すべて受け流される。整ったその顔が、その端正さ故にひどく冷たく見える。

「殺してやる」

「何言ってんの? ほら、ご飯食べなよ」

「俺がお前と……仲良く飯を食うと……」

 俺の声はかすれていて、うまく喋れなかった。もしかしたら微熱が出ているのかもしれない。やけに体がだるい。

「ほら、これ飲む?」

 癪だったけれど、辻橋の差し出したペットボトルに口をつける。ごく普通のお茶だった。喉の乾きを意識して、俺はごくごくと飲み干す。

「一人で食べたいならどうぞ」

 辻橋は何でもないことのように言って、俺の方に弁当を少し押し出した。あっけらかんとした無関心さだった。

 辻橋の顔を見ていたくなかった。だが、今の俺では何もできない。体力の限界を感じ、また寝室に戻って何とか眠った。

 翌朝目覚めると、もう辻橋はいなかった。弁当だけが残されていて、俺は結局それを食べた。

 辻橋は忙しいようだった。

 あの騒ぎのせいで、仕事は減ったはずだ。今は、元に戻している途中なのかもしれなかった。演劇のトレーニングにも行っていると言っていた。あの不真面目な辻橋が。

 俺はじっと体を休ませながら考えていた。どうすれば俺は、あいつを殺せるだろうか。ホテルにはあまりに武器が少ない。風呂に溺れさせるか、枕で窒息させるか。

「畜生」

 俺は何のためにここに来たのだろう。辻橋を殺すためか?

 違う。辻橋のでたらめな告発を無にして、人生を取り戻すためだ。

 吐き気がして、どれだけ呼吸しようとしても息が浅い。気持ちが悪い。どうやらいつの間にか清掃の人が入ってきていたようだったが、俺は気づかなかった。

 腹が減って、ルームサービスを頼んだ。どうせ辻橋の金だ。三千円以上するグラタンは美味しかった。

 辻橋は遅くに帰ってきた。浅い眠りと覚醒を繰り返していた俺は、すぐにその事に気づいた。リビングに行くと、辻橋は一人でワインを飲んでいた。

「あれ、おはよー。ちょっと飲む?」

 高級そうなワインだった。だが彼と酒を飲むなどもうまっぴらだった。何が入っているかわかったものではない。

「お前、俺に何したのかわかってるんだろうな」

 他人に体を蹂躙されるのは、思った以上の恐怖だった。そして終わったあとも、体に違和感が残り続ける。元彼女から痴漢にあって不快だった話などを聞いたことはあるが、俺は実感はできていなかったのっだなと思い知る。

「わかってるよ」

 だが辻橋はほんの少しも申し訳無さそうな顔は見せない。

「わかってるから、ちょっと飲まない? これなら安心でしょ」

 辻橋が差し出したのは未開封の缶ビールだった。辻橋と酒が飲みたいわけではなかった。だけど、俺は差し出されたそれに手を伸ばしてしまった。

 逃げ道がほしかった。

 体のだるさに耐えながら、辻橋を殺すあらゆる方法を考えた。その他に俺にはやるべきこともなく、連絡すべき人もいなかった。燃えた家に関する続報もなく、できることは何もなかった。そして、俺は実際に辻橋を殺せるわけでもなかった。

「お前、いい加減にしろよ。殺してやる」

「東本ってさぁ、単純だよね」

 辻橋は妙に明るい声で言った。

「お前の目的はこんなことなのか!? 俺を辱められれば何だっていいのか!」

「目的じゃないよ、どっちかっていうと手段」

「何のだよ!」

 なぜ俺は男を好きでもないのに、無理やり辻橋に抱かれなければならなかったのか。俺を犯したことが、辻橋の計画通りのことだったのかはわからない。

 辻橋は例によって、思わせぶりなことを言いつつもそれ以上は答えない。

「もう俺は出てく、携帯返せ」

「ちゃんと修理に出してもらったよ。部品が取り寄せだったからすぐじゃないけど、直せるって」

「そんなこと言って返さないつもりなんだろ!」

 辻橋は怒鳴られても、しれっとした顔をしている。

「もうさー、気に食わないと大声出すのやめてくんない?」

 俺だってやめたい。大声で怒鳴って、相手を威嚇する姿はまるで嫌いだった父みたいだ。だけど俺の精神は、追い詰められてどうにもできなくなっていく。俺はやけくそになって、ビールを喉に流し込んだ。

 

 俺は気がつくとそのままソファで眠ってしまっていたらしい。

 携帯は今日渡せそうです

 ホテルに備え付けのメモ帳に、そう書かれていた。辻橋が書いたとは思えないから、魚見の字だろう。

 辻橋や魚見の言うことなど信じられない。だけど、俺には待つ以外にできることがなかった。

 ホテルの部屋は退屈だった。本も携帯もなく、俺はただテレビを見るしかなかった。

 仕事があった頃はよかった。

 誰も、今の俺に何かを求めてこない。世の中から俺は必要とされていない。

 どうせ辻橋の金だからと思って、気まぐれにアダルトチャンネルに課金をしてみた。一人の部屋の中に、喘ぎ声が響く。テレビの中では、女性が押さえつけられ、無理やり犯されているところだった。

 嫌でも辻橋に犯される自分のことを思い出さざるをえなかった。これは演技だ。偽物だ。そう思って俺は画面を見続ける。何だかすぐにテレビを消したら負けだという気がした。

 体内で射精しているように見せても、実際は偽の精液が使われていることも多いと聞いたことがある。この映像は、偽物だ。女優も男優も金をもらっている。

 でも、彼らがそこにいて、肌が触れ合っていること自体はノンフィクションだ。

 アダルトビデオらしく、最初は無理やりだったはずなのに女性も気持ちがよくなってくるという筋書きだった。気持ちが悪い、ありえない。

 女性の喘ぎ声と、豊かな胸を見ているうちにそれでも俺は興奮してくる。

 今まで、男としてまっとうに結婚し家庭を築くのだと思っていた。

 そう思って彼女も選んだ。だけどそのせいだろうか。彼女が本当に俺のことを愛して、親身でいてくれたなら、あんなにすぐに別れを切り出されることはなかっただろう。彼女はちょうどよい相手だった。好きだったわけではない。

「……っ」

 鍋を囲む食卓。湯気の向こうの顔。幼い子の暖かさ。俺はまともだと、問題がない男なのだと、思いたかった。俺はもう大丈夫なのだ。一人で家だって借りられるし、金も稼げる。そう思っていたのに。

 俺は自分の下半身に手を伸ばす。辻橋にのしかかられたときのことを思い出す。悔しくて、屈辱的で、快感はなかった。でもこうして思い返すとそれだけでもなかった気がする。

 俺は男らしく相手をリードしたりしなくてよかった。何もできないこと、侵略されること、そこにわずかに何か、開放感のようなものがなかったか。

 はっとして我に返ると、俺は自分の手の中で射精していた。

 テレビの中では女優が更に痛めつけられているところだった。いたたまれなくて俺はテレビを消す。

 俺はティッシュで手を拭いながら思う。結婚なんてしなくて正解だったかもしれない。もう父も死に、俺は幸せな生活をしているのだと、見せつけてやる必要もない。母は生きているが、彼女はどうせ昔から俺に関心なんてない。何があっても、俺を助けなかった。

 俺が子供なんて作らなくてきっとよかったのだろう。俺は、父と同じように、子供を殴る男になっていたかもしれないのだから。

 

 ほのかな暖かさを感じなら目が覚めた。

 俺はやはりソファに寝ていた。誰かの手が髪をなでている。辻橋はいつの間に帰ったのだろうか。逃げ出さなければ、ととっさに思った。何をされるかわかったものではない。

 だけど体が動かない。辻橋はただ、犬でも撫でるように俺の髪を撫で続けている。そこに性的なものは感じられなかった。

 ――俺は、辻橋を侮っていたのだろうか。

 弟分のようなものだと思っていた。だから、俺に対して牙を剥いたりはしない相手だと。

 俺は、こいつの何を知っていたのだろう。

 一緒に暮らしていたけれど、お互いの事情に深入りはしなかった。あの頃の彼が家の外でどんな風に過ごしていたのか、俺はほとんど知らない。いや、家の中もかもしれない。

 辻橋は例えば、久しぶりに飲もうと俺を呼び出して薬を飲ませて犯すことだってできた。俺はもちろん抵抗しただろうけれど、写真や動画で脅されたら今と同じだったかもしれない。

 俺を陥れるだけなら、わざわざ自分の人生をかけて、嘘の告発なんてしなくてもよかったのだ。

 あの告発はリスクが高すぎる。辻橋自身の役者生命も危うくしている。

 そこまでのことはしなくても、辻橋はいくらだって俺を潰せたはずなのだ。

 それでも辻橋はそうした。俺にはさっぱりわからないけれどたぶん、彼なりの切実さで。

 

 翌朝、ソファで目が覚めると辻橋はやっぱりいなかった。頭を撫でられていたと思ったのは、もしかしたら夢だったのかもしれない。

 テーブルの上に、俺の携帯が置かれている。ご丁寧に充電器まである。

 携帯に傷はどこにもなかった。あれだけ破壊されたのだから、直すというよりまるごと新しいものに代えたのではないか。電源を入れると、問題なくついた。中のデータも俺の携帯のままだった。

 不動産会社からの連絡は入っていないようだった。嫌がらせのメールが数通。それだけだった。別にわざわざ返してもらうほどのものでもなかったかもしれない。俺は改めて不動産会社に連絡をしてみたが、つながらなかった。

 辻橋に、もう一度改めて聞こうと思った。

 それで彼が何も変わらない態度を取るなら、出ていく。これ以上は時間の無駄だ。

 昼間はルームサービスで食事を取り、暇だったのでテレビでやっていた映画を見た。

 久しぶりに見る映画は面白かった。きらきら今時のイケメン俳優だと思っていた男が、落ちぶれたチンピラを演じていて迫力があった。救いのない、暴力的な作品だった。

 そうしているうちに辻橋が帰ってきた。まだ夕方だ。どうせ深夜になるだろうと思っていたが、帰りが遅い日ばかりでもないらしい。

「あー、これ藪ちゃんの出てるやつじゃん」

 辻橋は映画のスタッフロールを見て言った。彼が言っているのは、チンピラ役の俳優のことのようだった。

「知り合いなのか」

 俺は辻橋が普段どんな仕事をしているのか知らない。だが言われてみれば彼も若手の俳優なのだ。彼とも仕事をしたことがあったのかもしれない。

「何回か現場一緒だった」

「お前も映画に出たりしてるんだろ? どういう映画だ?」

「教えない」

「じゃあ検索する」

 俺はテレビに備え付けのリモコンで辻橋の名前を検索しようとする。だけどリモコンを掴まれ、奪われた。

「何だよ」

 やけに強い反応だった。興味を持てと言っておいて、実際に調べたら邪魔をするのはちぐはぐだ。辻橋はリモコンを手の中で弄ぶ。

「俺、映画って嫌い。ずっと残るから」

 辻橋はまた夕食を買ってきたようだった。そばに置かれたビニール袋から、チャーハンか何かのいい匂いがしている。

「どうでもいいバラエティみたいに、一回見て終わりにしてほしい」

「昔の作品でもずっと見れるのがいいんだろ。金もかかってるだろうし」

「もうそういうの流行んないよ。もっと素朴なのでよくない?」

 映画と演劇では、見る人間の規模が違う。

 酔った劇団員はよく飲み会で、「演劇こそ至上」と言っていた。一回限りの、そのときにしか見られない体験は演劇ならではなのだと。あのひりついた板の上の空気がいいのだと。

 劇団員が演劇を好きなのは当たり前だろう。だが彼らは貧乏だった。演劇だけではろくに食べていけない。

「じゃあ、お前は舞台に立ったらいいだろ、辻橋」

「何怒ってんの?」

「映画が嫌いなのはわかった。じゃあお前は演劇が好きなのか?」

 辻橋は不機嫌そうに眉根を寄せた。そんな表情は久しぶりに見るものだった。

「……別に好きじゃない。劇団に入ったのは、誘われたからってだけ」

「でも入ったのはお前の意志だろ」

 あの頃、辻橋は不真面目な劇団員だった。その顔の良さだけでひと目を引いたが、引きすぎるところもあった。やっかみも多かったのだろう。目立って主演などのポストを演じてはいないようだった。

「俺の意志なんてもんはないよ」

 辻橋はぽつりと言った。

 俺は一瞬、変な錯覚をしそうになる。もしかしたらこれが、映画なんじゃないのか。俺は映画俳優で、たまたまこのおかしい男に絡まれる役をしているのだ。平凡な主人公を襲う、突然の事故みたいな悲劇。

「お前は俺を告発したのも、自分の意志じゃないとでもいうのか? 全部お前の責任だろ、取り消すのだって、何だって、全部お前の」

「わかってるよ、しないとは言ってない」

 辻橋の整った顔は、余計に作り物めいていてわからなくなる。あるいはこれは、趣味の悪いアダルトビデオの続きなのか。

「すぐにするよ。時と場合によっては」

「何の場合だよ」

「待ってるんだよ」

「何を」

 俺は眉根を寄せる。辻橋はすべてをはぐらかし続けるのだと思っていた。そうしたら今度こそ、この部屋を出ていく。だがこれも、どうせ中身のないはったりかもしれない。

 辻橋はわずかにほほえみを浮かべている。形の良い唇、黒目が大きな目、余計な肉付きのない顎。完璧に整った顔だ。だが彼がなぜ笑っているのか。俺にはわからない。

「何をだよ!」

 俺はつい苛立ってきていてばんとテーブルを叩く。俺はもう問い続けることに疲れていた。

 俺が何を求めているか、自分が俺をどのくらい苦しめているか。辻橋はとぼけるけれど、わかっているはずだ。全部わかっていて、平然とした顔をしているのだ。

「もういい、ここにいても無駄だ。お前がこれ以上肝心なことを話さないなら、俺はもう出てく」

 俺には切れるカードが一枚しかない。ここを出ていく――それで全部だ。もうそれ以上、俺が辻橋に切り出せることはない。辻橋の望みがもし、本当に俺と暮らすことにあるのなら、これは強いカードのはずだ。だけど、辻橋のしたいことが本当に彼の口にした通りかはわからない。

 出て行くなら好きにすれば、と言われるだけかもしれない。

 だけど辻橋から離れられるなら、もうそれでいいような気がしているのも本当だった。

「服できたからさー、食事行こ」

「辻橋」

「わかってる。ちゃんと話すよ、せっかくならいい場所で」

 辻橋がやっと譲歩している気配があるというのに、俺はどこか残念な気持ちだった。いっそもう、諦めてこの部屋を出てしまいたい気持ちがあったからかもしれない。俺の全ては、相変わらず辻橋に握られている。

「お前が話すって保証は?」

「東本」

 急に辻橋は俺の手を握ってくる。

「俺を信じてよ」

 ぬけぬけと湊は言う。怒りも通り越して呆れた。

「この世で一番信じられないのはお前だ」

「あは」

 悪びれない顔で彼は笑う。写真集のどんなページよりも、魅力的な顔だった。だからこそ俺は悔しくて、だけど悔しがってみせるのも癪で、無理やり奥歯を噛んで感情を押し殺した。

 

 ・

 

 外を歩くのが怖かった。でも、高級車でビルの地下に降ろされ、そのまま高層階のレストランに向かう頃には、もう感覚が麻痺してしまっていた。

「お前、俺と歩いてんの見られてもいいのか」

 届けられたばかりのスーツは、サイズがあっているはずなのに窮屈に感じられた。

「何が?」

 俺は辻橋が告発した相手なのだ。そんなやつと仲良く食事しているところを見られたら、告発の信憑性が疑われる。

 ――でもそれはむしろ俺に都合が良い。

 わからなかった。彼のしていることはあまりにも行き当たりばったりに感じられる。

 丁寧な接客をするレストランのスタッフが、辻橋が芸能人だとに気づいているのかいないのかはわからなかった。こういうところの店員は、誰が来てもミーハーな反応をしたりはしないのだろう。

 案内されたのは窓の大きな個室だった。他の客を気にしなくていいことに俺は少しほっとする。メニューはなく、注文を尋ねられることもなかった。

 大きな窓からは夜景が見下ろせた。商業ビルが多く、ホテルからの夜景よりも何だかごみごみして見える。

「金持ちって高いところが好きだよな」

「高いとこまで上がるとさ、全部きれいに見えるじゃん、現実は汚くても」

 俺は思い返そうとする。一緒に暮らしていた頃、辻橋は何が好きだったか。

 一緒に酒は飲んだ。鍋もつついた。でも、普段の彼は何が好きだったのか。すべては靄がかかったみたいに、遠い過去だ。

 辻橋は俺にスーツを着せたわりに、自分はカジュアルなジャケット姿だった。グレーで細身の上着は、確かに彼に似合っている。似合いすぎるほどだ。

「似合うね、服」

「そりゃあどうも」

 どうせ個室で辻橋しかいないので、俺は上着を脱いだ。スーツを着ると、嫌でもサラリーマン時代のことを思い出す。忙しいときには昼食も食べなかったし、食べたとしても席でコンビニのおにぎりがせいぜいだった。このレストランの食事は、その何倍の値段がするのだろう。

 かしこまった服装の店員により、前菜とシャンパンが運ばれてくる。辻橋は乾杯をしようとしたが、俺は拒否した。大きな皿に、ちょこんと野菜や魚が並べられてソースがかけられている。

「おいしいねー」

 俺が最近は無造作に頼んでいるホテルのルームサービスと同じように、このレストランの料理もきっとばか高いのだろう。どれだけ飲んでも、請求は辻橋持ちだ。さすがに店の酒に、何かが混ぜられていることはないだろう。

 ただで飯が食えるのは、楽しいことだと思っていた。

 だけどこうして辻橋によって作られた服を着て、彼の望み通りに動いているだけなのは、何も楽しくなかった。

「よく言うけど、食事ってさ、誰と食べるかだよね」

「どういう意味だ」

 俺は全然美味しいとは思えなかった。柔らかい白身魚も、新鮮な野菜もすべてただ噛み砕いて飲み込んだ。

「一人で鍋食べてもあんまり美味しくなかったから」

 辻橋は以前から、食に執着があるようには思えなかった。

 そういえば、ホームセンターで買ったあの鍋を、俺は引っ越しのときどうしたのだろう。捨てた記憶はないけれど、その後に住んだ寮の部屋にはなかったはずだ。だとしたら、あのままキッチンの戸棚に残って辻橋に処分されたのだろうか。

 会話が途切れた隙を狙うように、店員がすっと個室の中に入ってくる。次に運ばれてきたのはスープだった。コンソメスープのように見える。前菜の皿を片付け、すぐに店員はいなくなった。

 湊に告発されてから、俺はもう何を食べてもおいしいなんて思えない。きっともう今後も誰かと食卓を囲んで笑い合うこともない。そのことをこいつはわかっているのだろうか。

 きらきらした夜景を背景に、シャンパングラスを持っている辻橋は絵のようだった。

「湊」

 辻橋が憎い。この何も考えていないような男が。天真爛漫で抜けている男だと思っていた。辻橋が憎いし、怖い。

 一緒にいてもきっと俺は彼を理解できないし、したくない。

「お前何がしたいんだよ」

 窓からの景色は良く、高級な料理が目の前に並んでいて、そしてテーブルの対面には美しい男がいる。俺ひとりだけがどん底にいた。

「よく国語の問題であるじゃん、『この人の気持ちを考えてみましょう』みたいなやつ。あれ俺全然わかんなかった」

 窓の外を見ながら辻橋は言う。

「辻橋」

「東本はそもそも考えてもないよねー」

 拗ねたような口ぶりには慣れているつもりだったのに、かっと頭に血が上った。

「俺がどれだけ考えたと……!」

 今回のことがあってから、俺がどれほど様々な可能性を考えたことだろう。嫌がらせ、あるいは度を超した好意、八つ当たり。ありえないと思いつつもあらゆる可能性を考慮した。

「考えてないよ。全部自分の立場からだけ。東本はいつも、自分の知ってる世界が正しいんだって思ってる」

「お前だってそうだろ!」

 こんなところで大声を出してはいけないと思いつつ、つい声が大きくなってしまうのを止められない。

「お前のルールで、勝手に俺を裁くな」

「だって、そもそもこの世界のルールがおかしいんだからしょうがないじゃん」

 個室には誰も入ってこない。スープはゆっくりと冷めていく。

「おかしいんだよ、何もかも」

 それを言いたいのは俺の方だ。辻橋の告発を受けてから、世界のすべてが歪んだ。これまでに信じていた現実は、すべて失われたのだ。

「お前は……俺に何を望んでるんだ」

 辻橋はグラスを片手で持ち、グラスの縁をゆっくりと親指でなぞった。俺をどう始末するか悩んでいるみたいに。

 実際、俺の命は彼に握られているようなものだ。抗えない、逆らえない。どうしたらいいのか、もうまるでわからない。

「考えて」

 辻橋は静かに言った。

「わからないなら、わからないと思ってくれればいい。何でもいいから、何かをしてよ」

「何でもいいって何だよ、わけがわからないことを言うな」

 ちぐはぐで、混乱を招くばかりで、どんどん迷路に入っていくみたいだった。

 ――さて、この人の気持ちを考えてみましょう。

 人の気持ちなんてわからない。そんなのはテスト用の、都合のいい設問だ。辻橋の気持ちなんて、俺にわかるわけがない。知ったことじゃない。

「話すっていうのは、これだけか? もっとちゃんと、なんでこんなことをしたのか、話すことあるだろ」

「俺を、今の俺にしたのは東本だから」

「は?」

 辻橋はそれ以上は語ろうとせず、スープに手をつけた。できることなら俺は皿をひっくり返してしまいたかった。だが店に悪くてそれもできない。

 ぬるくなってはいたが、コンソメスープは牛肉の香りがして悪くない味に感じた。辻橋のシャンパンはもうなくなっていた。

 店員がすっと部屋の中に入ってきて、辻橋に酒のリストを見せる。辻橋は朗らかに笑みさえ浮かべてそれに応対していた。完璧な応対だった。

「次、お肉だって。何か飲む?」

 俺は答えない。

 俺は受験生じゃない。辻橋に課された設問に、丁寧に答える必要なんてない。仮に受験生だとしたって、受ける学校は選ぶことができる。

 少ししてから、部屋にメインの肉が運ばれてきた。赤ワインは俺の分もあった。やたらとでかいワイングラスに、何年のどこ産のブドウがどうだと言って、ソムリエがワインを注ぐ。きっと一杯だけでもとんでもない値段がするのだろう。

 俺がこの場でできる選択は、そのグラスの中身を飲み干すくらいしかなかった。

 

 ・

 

 俺はどこで人生を間違えたのだろう。

 小学生の頃から、友達は多い方だった。運動もわりとできたし、勉強もからきしという程でもなかった。もとから身長が高い方だったので走るのは速かった。

 両親はその頃から不仲で、俺は家が嫌いだった。夢なんかなかったけれど、とにかく実家を出たかった。

 望み通り大学生になって実家を出て、そして俺には特にやりたいこともなかった。

 酒を飲むことを覚えた。彼女とはうまくいかなかったけれど、よくある話だ。

 酒は好きだが、溺れるというほどでもなかった。ギャンブルはしたことがないし、女に手を挙げたこともない。就職してからは真面目に働いてきた。

 あの時、辻橋との同居を了承してしまった事はすべての過ちの始まりだったのかもしれない。あれさえなければ。でも、そんなことどうしてあのときの俺に判断できるだろう。

 ――実家には絶対に戻りたくなかった。

 俺には安全な家が必要だった。一人では無理だった。だから、辻橋とのルームシェアは渡りに船だった。

 ワインは思ったより強く、久しぶりだったせいか足下がふらついた。辻橋に支えられ、俺はホテルの部屋に戻ってきた。結局戻って来てしまった。

「もういい」

 辻橋は「何かをしろ」と言った。

 そして俺が間違ったことをしたら、「残念、不正解」とでも彼は笑うのだろうか。

 どんな風にでも辻橋は俺をジャッジできる。俺の答えが仮に正解だったとして、辻橋がそれを認める保証なんてない。俺の状況はもう詰んでいる。

「そういや野辺さんがさ、久しぶりに飲みに行かないかって」

 最初からそうだった。

 最初から、これは俺には勝てないゲームだ。

「どうする?」

「もういい」

 俺は辻橋の顔を見ないまま言った。

「俺は出てく」

 これ以上、このホテルの部屋にいると俺はもう俺ですらいられなくなる。きっと、自ら終わりを選ぶことさえ一生できなくなるだろう。

「えー、いればいいじゃん。だってどこに行くの?」

 辻橋には教えたくなかった。俺に行く場所などなく、使える金もない。部屋を借りられるかもわからない。もはやこうなっては、実家に戻る以外の選択肢はなかった。もちろん、辻橋の元にいるのとどちらが最悪かは比べるのが難しいくらいだ。

 それでも、俺はもう今のままではいたくなかった。

 辻橋から与えられるかもしれない答えを待ちながら、この生活を続けるくらいなら自らもっと最悪に飛び込んだほうがマシだ。今ならまだ、俺はそれを選べる。選ぶだけの気力が残っている。

「どこだっていいだろ、お前には関係ない」

 半ば予想していたことだが、辻橋は慌てたりはしなかった。俺がどうせ出て行けないと思っているのだろうか。あるいは、出て行ってもどうにもできないとたかをくくっているのか。

 確かに俺はまだ辻橋の答えを聞けていない。彼に告発を嘘だと言わせられてもいない。相変わらず辻橋は俺のすべてを握っている。

 それでももう俺は、辻橋の決めた答えに翻弄されるのはうんざりだった。

「それくらい知っておいたっていいじゃん、友達なんだし」

「は?」

 明確に頭に血が上るのがわかった。もう押さえられなかった。

「俺は、お前の、友達なんかじゃない」

 何とか言葉を句切りながら、俺は必死に口にする。こいつには、率直に言わないと伝わらないと思った。

「えー? 友達でしょ」

 辻橋はきょとんとした顔をしている。

「違う。俺たちは何の関係もない、他人だ。お前とは何の関係も持たない。今後も、ずっとだ」

 もしできることなら、俺は辻橋を傷つけたかった。だからなるべく強い言葉を選んだ。こんなもので、彼が傷つくのかはわからなかったけれど。

「でもさ、それは無理だよ」

 子どもを諭すような、冷静な声だった。

 そして彼の言うことを正しいかもしれないと思っている自分もいた。

 辻橋はもう、俺の人生に傷をつけた。そのことはどうしたって消えない。仮に彼が告発を取り下げたとしても、何もかもがなかったことになるわけではない。辻橋との関係はきっと死ぬまで続く。これはもう、友情があるかないかとかそれだけの話ではないのだ。

 ――だからだろうか。

 だから、辻橋は人知れず俺を貶めるのではなく、わざわざ社会的に殺す方法を選んだのか。

 辻橋は「ずっと考えていた」と言った。

 俺をどのようにしたら、完璧に陥れられるのかずっと、彼は考えていたのか。

 憎い、と思った。イライラするとか、嫌いだとか、そんなことを超えて辻橋を憎いと思った。これほど人に憎悪を感じたのは初めてだった。辻橋という人間が、存在しなければよかったのにと思った。

「本気でお前を殴りそうだ」

 殴られても辻橋の自業自得だろう。だが辻橋を殴っても問題は解決しないことは俺だってわかっている。彼の顔に何かあったら、魚見だって黙ってはいないだろう。俺は余計に悪者になる。父と同じに。

「すれば?」

 俺はどうにかして、彼を動揺させたいという衝動に襲われる。

「俺は、お前が嫌いだよ」

 どうにかして、辻橋を傷つけたかった。

「お前のそばにはいたくない、虫唾が走る」

 辻橋はふっと破顔した。それはショックを隠す表情にはまるで見えなかった。

「知ってた? 俺だって、あんたのことは嫌いだよ。でも、昔はそうじゃなかった」

 辻橋は、俺のぬいぐるみにあのカードを入れていた。辻橋が語らないから、何のためだったかはいまだにわからない。

 ホテルのこの部屋が、ずっと存在し続けている確証すらなかった。それでも辻橋は用意をして、そして俺はやってきた。

「どういうことだよ、なんで」

 もう何百回も、何千回も問い続けてきた言葉だった。

 ――このときの、作者の気持ちは何でしょう?

 辻橋の体を切り裂いてばらばらにしたら答えがわかるのなら、そうしてしまいたい。目の前に辻橋はいる。触ることはできる。会話だって成り立っている。

 辻橋は少年みたいな楽しげな表情を崩さずに笑った。

「この部屋来た時にさ、包丁くらい持ってくるんじゃないかって思ってた。顔傷ついたら仕事休めるな、とか思ってたのにさ、東本、何もしてこないんだもん」

 俺はもう、その問いを持ち続けたくなかった。問い続けるのはつらい。問題文ごと投げ出してしまいたい。たとえ落第になっても叶わない。

 ――疲れた。

 俺は辻橋に背を向ける。向けた途端に辻橋は言葉をぶつけてくる。

「あんたはいつもそうだ。何もしない」

「俺は! お前なんかに関わってる暇はないんだよ!」

 俺は思わず振り返って怒鳴る。

「じゃあ殺しなよ。殺せばいいじゃん」

 俺だって、その整った顔を思いきり切りつけてやりたいと思った。その細い首を、思い切り折れたらどれほど気が楽になるだろう。もう俺はどうせ殺人犯みたいなものだ。誰にも愛されず、愛さず過ごしていくしかない。それなら実際に、辻橋を殺して何が悪いのか。

「お前は俺に殺されたいのか? 殺されたいから、やったっていうのか」

 辻橋は否定も肯定もしない。どこまで追いかけても、するりと問いは逃げ去っていく。

 ここで腹を立てて、辻橋の首を絞めたら彼の思うつぼだと、俺はわかっていた。でも、今俺はそうしたくてたまらなかった。自分のなけなしの金を払って辻橋の写真集を買って、泣くほど悔しかったことを思い出した。

 ここまできたら俺にはこいつを、殺す権利があるんじゃないか。

 法律で認められなくても、俺にはあるんじゃないか。

「じゃあそうしてやるよ」

 俺は辻橋の首を両手で掴み、ぐっと力を込めた。

 辻橋の首は細くて骨張っていた。俺は昔、父に連れられて行った田舎で、釣った魚を殺したときのことを思い出していた。魚の目がみるみるうちに濁っていったことを。父はあのとき何と言っていただろう。わずかに残されている、父とのよい思い出だ。

「死ねよ」

 全部、悪いのは辻橋だ。俺じゃない。

 全部辻橋のせいなのだ。俺には心当たりがない。だとしたら辻橋の言う通り、きっと俺は何もしなかったのだろう。でもだから何だ。何を俺に期待していたというのか。俺は普通だ。俺は普通で良かった。辻橋はただの同居人だった。それ以上の感情なんてない。今も、あの頃も。

 ――本当に?

 問い続けることは、それ自体がとても恐ろしい魔物のようだった。箱を開けたら死んでしまう猫みたいに、箱を開けることで、答えは変わるのだ。見ないようにしていれば、猫が死んでも死んでいなくても変わらない。

 ――本当にまったく辻橋に惹かれなかったか?

 はっとして気がつくと、辻橋の顔色は真っ白で、そのまま動かなくなっていた。どくどくと耳元で早い脈が打っているのを感じる。

 ざあと血の気が引いていくのがわかった。そんな自分をどこか客観的に眺めている冷静な自分もいた。

 逃げなくては、と思った。とにかく逃げなければ。

 ほとんどそれは本能的な判断だった。持っていくべき荷物さえ思い浮かばなかった。俺は自分の携帯を手に取る。

 俺は辻橋のカバンを漁り、財布から札を抜いた。罪悪感は覚えなかった。そしてそのままホテルの部屋を転がり出た。ホテルのロビーは相変わらず塵一つなくきれいだった。

 外は晴れていた。

 俺が道を歩いていたら、すぐに人が集まってくるんじゃないかと思った。だけど、街はいつも通りにそこにあるだけだった。通りすがりの人は、明らかに挙動がおかしい俺に気づいてさえいなかった。ベビーカーを押した子ども連れが、笑顔で俺とすれ違っていった。