第一章 グラジオラス
ふっと水の上に顔を出したみたいに、意識が浮上する。
ひどく汗をかいていた。何だか嫌な夢を見ていた気がする。でも、夢の内容は思い出せなかった。
俺は身じろぎをしようとする。だけど身体が固まったように動かない。まだこれは夢の続きだろうか。汗をかいて不快なまま、何もできない。
「……っ」
俺はベッドに寝ている。狭い部屋だ。
「何だよ……これ」
「滋くん?」
俺は思わずびくりとして、声の方に目を向ける。
こちらを見下ろしているのはスーツを着た若い男だった。整った顔立ちのせいか、冷酷そうな印象を受ける。
「俺……」
幸い口と目は動くようだった。自分の声がやけに遠くから聞こえる気がする。
「何だ、これ」
「今、医者を……」
「何なんだよ……!」
恐ろしかった。一体ここはどこで、何が起きたのか。まったくわけがわからない。
「滋くん、落ち着いて。大丈夫だから」
「何なんだよ、ここ、あんたっ」
「俺のこと覚えてない?」
焦ったように男が問いかけてくる。
「久里……さん?」
改めてその男の顔を見ると、確かに見覚えがある。でもなぜ、彼がこんなところにいるのかわからなかった。
「よかった」
冷たい印象だった男は破顔して、涙を浮かべる。それは、ちょっと劇的な変化だった。
「本当に、よかった……」
彼は俺の手を取って言った。彼の手の熱が、俺を少しだけ冷静にさせる。
なぜここに、久里がいるのだろう。
久里はかつて妹の家庭教師だった。何度か一緒に食卓を囲んだりはしたが、個人的に親しかったことはない。
「今ナースコール押したから、すぐにお医者さん来るから待ってて」
「伶実は……」
びく、と久里が体を震わせる。
久里と親しかったのは俺じゃなくて、妹の伶実だ。伶実はすっかり久里に夢中になっていた。そのおかげか無事に大学も合格できた。
進学後も、何かとやり取りしているようだった。でも、恋愛対象としては相手にされていなかったと思う。
「滋くん」
どうしてこの部屋には久里しかいないのか。
母や友人がいるならわかる。頭がだるくて意識がはっきりしない。そもそも今はいつで、俺はなぜここにいるのか。
「混乱してる……?」
気遣った様子で久里が話しかけてくる。たぶんここは病院だ。何かがあった。入院しなければならないような何かが。でも、まるで思い出せなかった。
「何のことだよ、あんた、何なんだよ……!」
「大丈夫ですか、苗代さん」
看護師がばたばたした様子で部屋に入ってくる。
「落ち着いて下さい」
体を起こそうとする俺を、看護師が優しく押さえつけてくる。
「混乱してるんですね、大丈夫ですよ。こうして恋人さんも見守ってくれてますから」
看護師は茶色い髪をひとつにまとめた、二十代くらいの女性だった。
「……は?」
俺は思わず彼女の顔をまじまじと見てしまう。だが、茶色く染められた眉をじっと見ても、そこに答えなんて書いてなかった。
「目が覚めるのをずっと待っていて下さったんですよ。今、先生呼んで来ますね」
次に俺は久里を呆然と見つめる。部屋に残された彼は、あきれたように笑っていた。
「覚えてない?」
家庭教師に来ていた頃から、久里は冗談みたいに完ぺきな男だった。ロースクールに通っていて、母親が弁護士で、順調に試験に受かったと聞いていた。俺とはまるで住む世界が違う。
「いやいや、何、言ってんだよ……冗談」
俺は何とか笑おうとする。そうしていないと、まるで自分がおかしいような気がしてきてしまう。だいたい、目が覚めたらこんな病院にいることからしてそうだ。
これは悪い夢だ。
「冗談だったらもっと面白いこと言うよ」
「だって、あんたのこと好きだったのは伶実で……」
「でも伶実ちゃんはもういない」
頭が鈍く痛んだ。
そうだ。忘れたいことなのに、伶実の死について俺はちゃんと覚えていた。断片的な記憶がばらばらと散らばっていてまとまらない。俺は通夜や葬式で久里を見ただろうか。思い出せない。その後すぐに両親はとうとう離婚して……。
そう、伶実は死んでしまった。何だか現実感がなかった。
「……っ」
急に全身に、殴れられたような強い痛みを感じる。うめく俺の顔を、心配そうに久里が覗き込んでくる。
彼を好きだったのは伶実だ。俺じゃない。
「滋くん、落ち着いて」
「なんで……!」
でも伶実はもういない。俺と久里が付き合っている? 悪い冗談もいいところだ。
ここは何だ。俺と久里との間に何が起きたのか。
俺は何ひとつ、覚えていなかった。
・
交通事故にあったのだという。
「事故のショックによるものでしょうね。頭を強く打たれていたので……」
老年にさしかかった医者の言葉を聞いても、現実感がない。出来の悪いドラマの世界に入り込んでしまったみたいだった。
「いや、そんな冗談みたいな……マジですか?」
「強い衝撃を受けたはずですから」
俺は必死に、ここ最近起きたことを思い出そうとする。だけどどれだけ頭の中をひっくり返してみても、記憶はよみがえらない。
「ある種の記憶は、外傷などにより失われやすいんです。そのうち戻ることもあるかもしれません。幸い、意味記憶は正常のようなので日常生活には支障がないはずです」
何でもないことのように医師は言う。彼はこんな説明を毎日、繰り返しているのだろうか。
昔のことはだいたい覚えている気がする。特に曖昧なのは、伶実が死んでからのこの一年と少しの記憶だ。
でももしかしたら、もっと前のことも忘れているのかもしれない。考え始めると、黒い大きな穴をのぞき込んでいるような果てしなさでめまいがする。
病室に戻ってからも落ち着かずにいら立っていた。肋骨が折れてしまったらしく、ひどく痛む。身体の中で何かが暴れているんじゃないかと思うほど、信じられないくらい強い痛みだった。
何種類もの薬を飲まされたが、効いているのかどうかよくわからなかった。俺は戸棚の上に飾られた花瓶を見る。いつからここにあるのか、赤っぽい色の花が飾られていた。葉が細長く、菖蒲に似ている。
「大丈夫ですか? 落ちついてくださいね」
「落ちついてられるわけねぇだろ……」
看護師にあたっても仕方がない。俺はいら立ちをかろうじておさえつける。
「また久里さんも来ますから」
そう言って彼女は笑った。まるでいいニュースだとでもいうように。
「なんであいつが来るんだよ……!」
「久里さんは、意識のない間もずっと付き添ってくれてたんですよ」
彼女は当たり前のように久里の肩を持つ。外見のいい男は得だ。
「あんなやつ……!」
妹は確かに久里が好きだった。だが久里と今、付き合っているのは俺だという。
何か間違って、本来自分が住んでいたのとは違う世界に紛れ込んでしまったみたいだった。医者も看護師も、俺を騙すための役者のようだ。でも、元の世界に戻る手がかりはない。
看護師はなだめながら、俺をまたベッドに横たわらせた。病室の窓は小さく、空以外はほとんど見えない。
夏だ。締め切った病室の中でも、蝉の鳴き声が聞こえていた。
俺の記憶の最後に、おぼろげにあるのも初夏だった。伶実の葬式が終わったのは六月だ。雨の降り続く中で、両親の離婚の話を聞いた。
「苦しそうって聞いたけど、大丈夫?」
その日、久里は外がすっかり暗くなってからやってきた。スーツの上着と重そうなビジネスバッグを手にしている。この暑いのに、外では上着を着るのだろうか。
役者のようだというなら、こいつが一番役者っぽい。
「今すぐこの痛みをうつしてやりたい」
「元気そうでよかった」
久里は微笑みを浮かべる。一日働いてきたのなら疲れているだろうに、まるでそんな様子は見せない。
「いいわけねぇだろ」
「風邪ぐらいならうつしてもらってもいいんだけど。あ、できればキスで」
確かに男前だ。看護師が肩を持つのも、わからなくはない。甘めの顔立ちで体つきは細身、背は高く頭もいい。
「なんでそうなるんだよ」
何でも持っている男というのはいる。
俺は勉強についていけず高校を卒業するので精一杯だったし、その後目指した音楽の道も中途半端なまま諦めた。就職したこともないし金にはいつも困っている。
……大違いだ。
「あんた俺の携帯知らねぇ?」
「滋くんの携帯、事故で派手に壊れちゃったから」
「え?」
「電源も入らなくて。直るかわからないよ」
「マジで……」
俺はとにかく誰かに連絡を取りたかった。病院の職員か久里としか顔を合わせないのは息が詰まる。携帯がないから事故にあったことさえ誰にも伝えられていない。
事故は、どうやら伶実の墓参りに向かう途中、車を運転していた俺の不注意で起きたらしい。不幸中の幸いなのか、巻き込んだ相手はいなかった。
「それからお母さん、明日には来るって。以上、事務連絡」
「どうだっていい……」
伶実の死の後、もともと不仲だった両親はいい機会だとばかりに離婚した。もともと二人とも、別に相手がいたらしい。うんざりだった。こんなことは覚えていなくてもいいのに、残念ながら消えていない。
忘れてしまいたいことばかりは鮮明な気がする。苦い挫折の記憶やふがいない自分へのいら立ち……伶実の死に目に、立ち会えなかったことだとか。医師は、印象の強い記憶は消えにくいのだろうと言っていた。
「なぁ……何かの間違いなんじゃないのか」
俺はぼんやりと繰り返す。だとしたら、久里とのことは印象が薄かったのだろうか。そんなわけはないと思う。
「え、何? 携帯?」
「違う! 付き合ってるって話だよ!」
久里は確か、俺の四つか五つ年上だったと思うので、二十七か八くらいだろう。仕事柄慣れているのか、病室にいても落ち着いている。というか、にこにこしているばかりで何を考えているのかわからない。
「わけがわかんねぇ……」
もし本当に恋人だったのなら、俺の記憶が消えて、もっと動揺するものなんじゃないだろうか。
だって、俺は何も覚えていないのだ。俺の知っている久里は、あくまで伶実が生きていたころの家庭教師だ。それ以降のことはまるで記憶になく、二人きりで話したことさえないはずだった。
「無理に受け入れる必要はないよ。大丈夫、ゆっくりやってこう」
「何か証拠とかってあんの」
一緒に住んでいるのだと聞いた。携帯があれば、すぐにいろんな記憶を確かめられるのにと思う。
「証拠?」
「付き合ってたってことが、わかるようなもんだよ」
久里は仕方ないなぁと言いながら、スマートフォンを取り出した。自然と俺は身構える。
「大丈夫、ハメ撮りじゃないよ」
「今すぐその携帯壊すぞ」
彼と本当に、キスやセックスをしていたのだろうか。付き合っていたというのなら、当然そういうことも込みのはずだ。
この男と? 俺は思わずそっと久里を盗み見てしまう。整った顔立ち、薄めの唇。目も髪も色が薄く茶色っぽい。
「俺が撮ったとっておきの一枚」
久里は携帯を操作すると、一枚の画像を表示させた。俺が満面の笑みで写っていて、背後には海が見える。見たことのない写真だった。記憶にある限り、俺はしばらく海には行っていない。
「これだけじゃわかんねぇだろ」
「この後、滋くんが耐えられなくなってホテル行って……燃えたなぁ」
「ちょっと待て!!」
「ほら」
見たくない、と思った。だが見ずにはいられなかった。写っているのは薄暗い部屋で、バスタオルを羽織っただけの半裸の俺がいた。ちょっと困ったような表情だ。薄暗くて見えにくいけれど、確かにベッドはひとつしかない。いわゆるラブホテルのようだった。
こんなところに行った記憶はない。
「もっと見る? 愛のメモリー」
久里が画面をスライドさせると、寝ていたり、半裸だったり、無防備な俺の写真が出てくる。生々しくて、とても見ていられなかった。
「もういい」
俺はがっくりとして、久里に携帯を返す。
「あんた、ゲイだったんだな」
「君もそうじゃん」
「俺は女の子が好きだ!」
ごまかすように俺は声を荒げた。今まで恋人は二人しかいなかったけれど、どちらも女性だった。
「男と付き合ってるのに?」
久里は面白そうに笑う。
「付き合ってない!」
もっと他のことなら納得できたかもしれない。この一年で、就職したとか、借金を背負ったとかそういうことならまだわかる。でも俺はとても、久里のことを恋人だなんて認められなかった。
「伶実が知ったら何ていうか……」
一途に好きだった相手がゲイで、自分の死後に兄と付き合っていると知ったら、安眠もできないんじゃないだろうか。真面目な妹だった。ちょっと性格はきつかったけれど。
「大丈夫だよ。それは俺が保証する」
俺が睨み付けると、久里はにこりと笑った。調子の狂う男だ。
「とにかく今は、ゆっくり休んで」
何度、夢ならいいのにと願ったかわからない。
だが、俺は毎日病室で目覚めた。毎日痛みがひどく、俺はうめきながら過ごした。
「嘘だと言ってくれよ、俺……」
俺は鏡の中に、消えた記憶のかけらを探そうとする。年齢にしては子供っぽいとか、中性的と言われる顔。見慣れた、ただの俺が鏡の中には写っている。
「覚めてくれ、早く」
肋骨の骨折は、基本的には安静にして治癒を待つしかない。記憶の混乱もあることから毎日医師と面談をしていたが、退院は近いと聞かされていた。
「何なんだよ……」
失った記憶は、また何かの拍子に思い出したりすることもあるらしい。だがこのまま一生、戻らない可能性もあるという。記憶の障害は怪我でもないので、治療もできない。俺にはどうすることもできない。
久里以外には母が、一度だけ病室にやってきた。
彼女はもう再婚の話を進めているらしい。俺の記憶にある最後の両親の姿は、離婚に関して揉めているところだった。伶実のことを持ち出してお互いをなじり、泥沼になっていた。
「へー、よかったな」
俺がいない間にも世界は動いている。母は黄色いブラウスを着ていた。昔はもっと地味な色ばかりだったのに。
「本当に、びっくりしたのよ、あんたが事故に遭うなんて……伶実のことだってまだ、起きたばっかりなのに……」
母の湿っぽい言い方に苛立ちを覚える。だけど責めるわけにもいかず、俺は黙っていた。
「別に俺は大丈夫だよ」
離婚と同時に、両親はそれまで住んでいた家を売り払った。その後の父の行方は、母も知らないという。もとから家庭を顧みない自由な人だった。今頃きっと、子供のことなんて忘れてのびのび生きているのだろう。
「ほんとに、大したことなくてよかった」
「記憶が消えてるって言ってるだろ」
母とは一緒に住んでいないせいか、会話をしていてもほとんど齟齬はなかった。
「大丈夫でしょ、あんた、高校出てから毎年大して変わりない生活してたもの」
そう言われてしまうと言い返せない。確かに学校に通っていたわけでもなく、たまにバイトをしたり飲み歩いたりしていただけだった。
「あのさ、俺、今久里と住んでるんだよな」
「そうよ。お世話になってるんだから、迷惑かけないようにしてよ」
「どういう関係だったか知ってる?」
「どういうって?」
母にはさすがに言っていないのだろう。同性と付き合っているなんて話をしたらどんな反応をされるかわからない。
「何でもない」
「早く元気になんなさいよ」
とにかく、俺には帰るところがもうない。母のところに転がりこむなんて絶対に嫌だ。友人とは連絡が取れない。そうなると、久里と住んでいた家に戻る以外なかった。
相変わらず、俺は狭い病室で目覚める。
部屋には小さいけれどテレビがある。小さな戸棚に着替えなどがしまわれていて、その上に花瓶がある。赤い花は少し枯れ始めていた。
こんこん、とドアがノックされる。俺が何も答えないでいると、「入るよ」と声が聞こえた。
「今日はどう? 体調。いい? 悪い? 普通?」
今日はポロシャツを着ていた。曜日もわからなくなっていたがたぶん休日なのだろう。そういえばまだ外も明るい。
「別に……」
「何してた? 今日は」
久里は花瓶を手に取る。手洗いの方に消えたかと思うと、戻ってきた久里は鮮やかな黄色い、小花がいくつか連なったような花を手にしていた。久里は花瓶を元の位置に戻し、花の位置を整える。慣れた手つきだった。
「別に……なぁ、あんた、俺が退院したらどうするつもりだ?」
「そうだねー」
久里は俺が記憶を失っていると知ってからも、毎日やってきた。母親だかの事務所に入ったばかりの新人弁護士で、忙しいらしいのだがそれでも毎日だ。
「どっか遊びに行こうか。どこがいい?」
「そうじゃなくて」
「温泉とか?」
「あんたと住んでたんだろ」
彼が落ち着いているので、俺も反応に困る。もっと泣いたり、怒ったりしてくれた方がわかりやすくてよかった。友人にもいないタイプなので、どう向き合っていいのかよくわからない。
「そうだよ」
「また……一緒に暮らすなんて、できんのか」
「俺はいいけど、滋くんが心配かな」
「何?」
「ちょっとごめん」
そう言って、久里は急に布団の上に投げ出された俺の手を握る。びっくりしたけれど、まるで診察するみたいな手つきで生々しさはなかったので、嫌な感じはしなかった。
「大丈夫?」
久里の手は、俺よりだいぶ体温が高かった。
「……何が?」
「手を繋ぐのはあり?」
俺は思いきり久里の手を振り払う。
久里は怒るでもなく、整った顔に柔らかい笑みを浮かべていた。
「大丈夫、少しずつやってこう。慣らしてけばすぐだよ」
「……ぜったいに何もするなよ」
「えー、恋人なのに?」
「違う!!」
久里は急に、俺の顔をのぞき込んでくる。間近に顔を近づけられると、反射的にどきりとしてしまう。
「君は俺の恋人だよ」
「……ちがう」
「でも、そうだった」
子供に言い聞かせるみたいな、優しい声だった。
「この機会に、なかったことにするっていうのは?」
俺は精一杯、譲歩したつもりだった。
でも、久里の顔を見て自分がひどいことを言ったのだと気づいた。
久里は突然、恋人を失ったのだ。そのことで苦しんでいるのは、忘れている俺じゃない。
「ごめん」
「いや、記憶がないんだから、そうなるよね」
「でも……あんただったら、いくらでも相手、いるだろ」
俺は少し小さな声で、言い訳するみたいに言った。仮に俺がどうだろうと、彼にだって選択肢はある。この男ならいくらでも、選び放題だろう。
「いないよ。今は君一筋」
とろけるような笑顔で、間近で久里はささやく。女の子だったら、すぐにぽーっとなってしまっていただろうと思う。でも、俺は男だ。
「……なんでそもそも、俺とあんたは付き合い始めたんだ?」
久里は、もったいをつけるかのように、窓の外に目をやる。花瓶の花の位置を少し直して、それから話し始めた。
「一年くらい前から、一緒に飲むようになって」
俺には久里と飲んだ記憶はまったくない。
「伶実ちゃんのお葬式の後で、お互い随分落ち込んでて……それからよく飲みに行くようになってさ」
ぽつりぽつりと、活けた花を見ながら久里は語る。
そこまでなら、ありえなくはない話だ。
「それで半年くらいして、付き合おうっていう話になった」
「そこおかしいだろ」
「よくある流れじゃん」
「ねぇよ」
俺は頭をかきむしる。
「どっちが言い出したんだ?」
「俺だよ。付き合って欲しいって」
「そんで?」
「どうしてもって口説いて、オッケーしてもらった。今ここで再現しよっか?」
「いい!」
きっとこの男のことだ。歯の浮くようなせりふをいくらでも言うだろう。
何がおかしいのか、そんな俺を見て久里は小さく笑った。
「何だよ」
「滋くん……いや、こういう風に呼ぶのもあれかな。苗代さん」
「別にいい、滋で」
俺は久里との生活をまったく知らない。どういう会話をして、どういう時間を過ごしていたのか。考え始めると、またぽっかりと黒い沼が口を開けて身じろぎできなくなる。
「無理に思い出そうとしなくたっていいんだよ。過去は過去なんだから」
「でも、気になるんだよ。あんただって、このままじゃよくねぇだろ」
久里は、俺に記憶を取り戻してほしいと思っているはずだ。だからこそ毎日来ているに違いない。
よく見知っていたはずの恋人が、ある日突然自分のことを忘れてしまう。そんなの俺だったら耐えられない、と思う。
「このままでもいいよ」
じっと久里が俺を見ている。
「え?」
「滋くんがずっと思い出さないままなら、それでもいいんだ」
俺は言葉を返せなかった。久里の言葉が、心からのものだと自然と伝わってきてしまったから。
――でも、いいわけがない。
「俺は思い出したい」
恋人関係に戻りたいと思っているわけじゃない。それでも、このままでいるのは居心地が悪すぎる。久里は戸惑うこともなく、俺を見返して笑った。
「……そっか」
「俺は思い出したいんだよ。協力してくれ」
「うん、わかった」
久里は急にかがみ込んでくると、俺の額に顔を寄せる。
額にキスをされたのだと気づくまでに、数秒かかった。
「な……」
「また来るね、愛してるよ」
信じられなかった。もしかつての彼のアプローチがよほどしつこかったのだとしても、やっぱり受け入れるなんてありえない。
「二度と来るな!」
久里はひらひらと手を振って笑っていた。
痛みは続いていた。薬を飲めば落ち着くのだが、切れた時には激痛に襲われる。
「痛みは徐々になくなっていくはずですから、大丈夫ですよ。時間が解決してくれます」
すっかり顔なじみになった看護師が俺を励ましてくれる。
「久里さんは、目覚めない間もずっと待っててくれたんですよ」
久里の看護師たちからの評判はすごくよかった。正規の面会の時間が過ぎていても、こっそり入れてもらっているようだった。
「暇なんだろ」
「暇なわけないじゃないですか、お仕事も忙しいでしょうに、本当に朝でも夜でも」
事故に遭った直後、俺が眠ったまま、意識をいつ取り戻すかわからない状態でもずっと付き添っていたらしい。俺が意識を取り戻してからやっと来た母親とは大違いだ。
「本当に、いいパートナーですよね」
むきになって否定するのもおかしい。俺はただ黙ってやり過ごすしかない。
久里は毎日やってきた。どうやら俺のタオルや入院着の洗濯など、身の回りのこともすべて彼がやってくれているらしかった。
「こんなの、売店でも何とでもなるんだし、あんたがやんなくても……」
下着も洗って持ってきてくれているので、気恥ずかしくなって俺は言う。
「売店で毎回新品買いたい?」
久里はからからと笑う。
「富豪みたいだね」
「富豪は売店の三百円のパンツは履かない」
忙しいだろうに、久里は来れなくなったり、何かを忘れたりはしなかった。看護師も医師もすっかり彼のことを信頼していた。
「あのさ、俺の知り合いの……山岸って会ったことある?」
「食堂やってる人だよね」
「会ったことあるのか?」
「いや、話をよく聞くから名前は覚えてるってだけ」
「バイト入ってたかもしれないから、連絡したいんだけど」
「最近はバイトには行ってなかったし、急ぐことないと思うけど」
それでも、俺は久里に店名を伝える。その場でかけてもらうつもりでいたのだが、病室内は携帯電話を使用できないので、久里が連絡しておいてくれるという。できれば直接山岸と話したかったのだが、頼むことにした。
「退院、いよいよだね。部屋は掃除しといたよ。布団も干した」
「……悪いな」
「楽しみだね」
「まぁ、退院できるのはいいけど」
「滋くんのベッドは使わなくてもいいかもしれないけど。これからずっと俺のベッドで寝ればいいし……」
「セクハラ禁止」
「何がしたい? 退院パーティしようか。ケーキ買う?」
「絶対いらねぇ」
無邪気にすら見える久里の反応に呆れる。こんな男だったとは知らなかった。もしもっと早く知り合っていたら、友人として親しくなれていたかもしれない。
そんなもしもを俺は想像する。伶実もいて、三人で楽しく食卓を囲む……今となっては実現しようもないその光景は、とてもまぶしく思えた。
・
数日ぶりの外は、快晴だった。
「晴れててよかったね」
久里はわざわざ有休を取ったらしい。たぶん仕事は忙しいだろうに、申し訳なかった。
「暑いな……」
痛みは続いていた。でも、確かに看護師に聞いた通り、少しずつましにはなってきていた。
俺は久里と一緒にタクシーに乗った。家というのは、古びた鉄筋コンクリートのマンションの一室だった。繁華街にもほど近いのに、驚くほど落ち着いた雰囲気の住宅街だった。
「こんなとこあんだな」
今までずっと実家暮らしだった俺には、家賃の相場も想像がつかない。
「足下、気をつけてね」
寝間着などの荷物をすべて持った久里が言う。部屋は四階なのに、エレベーターがなかった。久里が住んでいる家なのだから、もっとぴかぴかのタワーマンションみたいなところかと思っていた。
「疲れるでしょ、大丈夫?」
古びた、足音がよく響く階段を上る。ずいぶん古い建物だ。俺だったら、まず選ばないと思う。青っぽいタイルの外壁が独特だった。
「荷物置いたら、おんぶしてあげよっか?」
「こんくらい上れる」
「無理することないって。あ、お姫様だっこがいい?」
「うるせぇ」
促されるまま階段を上る。実際、四階まで上るのは結構疲れるものだった。何とか休憩をしながら上っていく。
「ただいま……?」
俺はこわごわと部屋の中に入る。あちこち古さはぬぐえないが、天井が高かった。リビングに入ると大きな窓が目に入る。
「わ……」
久里ががたがたいわせながら窓を開けると、ぶわっと風が吹き寄せた。テレビボードの隅に活けられた花が揺れる。
窓が大きいから、家の中が明るい。それに、マンションのある立地が丘のように少し高い場所なので、あたりがよく見渡せた。おもちゃみたいな低層の住宅が建ち並んでいる。
「おかえり」
久里が笑う。一瞬、見とれてしまいそうな笑顔だった。
「いい部屋でしょ」
リビングにはアンティークなのか、ちょっと色あせた木のテーブルが置かれている。小ぶりなソファも座り心地がよさそうだ。あちこちに観葉植物が置かれている。
俺の部屋は、きれいに片付いていた。ベッドにはぴんと伸びたシーツがかけられている。
「何も捨てたりはしてないから。ちょっと片付けたけど」
「ここが、俺の部屋……」
まるでぴんとこない。でもすかすかのクローゼットの隅にあるのは、確かに俺の服だ。
「そうか……」
壁沿いに積んである本にも見覚えがある。伶実の遺品としてもらったものだ。同じく、彼女からもらったノートパソコンもあった。伶実が俺にと言付けてくれたのだが、パスワードがわからないので一度も開けていない。
「自分の部屋って感じしない?」
俺はうなずく。断片的に見覚えはあるけれど、この部屋自体はぴんとこない。
「じゃあラッキーじゃん? 新居で新婚気分!」
「黙ってろ」
俺はベッドに座ってみたり、椅子に座ってみたりする。久里はそんな俺を、保護者みたいにずっと笑って見ていた。
「あんたの部屋も見せてくれよ」
「いいよ。散らかってて恥ずかしいけど……」
こちらは広々としたダブルベッドだった。このベッドの上で俺も寝たことがあっただろうか。つい意識せずにはいられなくて、俺は目をそらす。
「これが一番お気に入りのパキラ」
ねじったような幹の観葉植物は、ベッドの脇で独特の存在感を放っている。
「かわいいでしょ」
「……かわいいか?」
大型の戸棚があり、その中には古いオモチャや本などがごちゃごちゃに詰まっている。中身が入ったままのラムネの瓶まであった。
「これ、海に一緒に行ったときのやつ」
「へぇ」
中身は入ったままだが、飾りとして置いているらしい。それにしても、棚の中はひっちゃかめっちゃかだった。他にも大型の本棚があり、こちらには法律関係なのか、難しそうな本がぎっしり詰まっている。
俺はそのまま、家中を見て回った。
キッチン、洗面所、風呂場……設備は最新でないもののこぎれいだ。でもどこを見ても俺の記憶はまるで蘇らなかった。
少しはヒントがあるんじゃないかと期待していた。記憶がなくても、部屋を見れば懐かしい気持ちになるとか。
「まぁとにかく今日は、無理せずゆっくりしたらいいよ」
俺の焦りを読み取ったかのように久里が言う。本意ではないけれど、俺は実際そうするしかなかった。
「俺、仕事は?」
高校卒業以降、俺は就職せずバイトを転々としていた。母に言わせれば、大した変わりのない生活だ。一時期は音楽に熱を上げていたけれど、今思えば仲間とバンド活動をするのが楽しかったのだと思う。俺自身の望みや、将来の夢なんて特にない。
「たまに、日雇いとか、バイトには行ってたみたい」
「あ、そうだ。山岸のとこ連絡してくれた?」
「あーそうそう、忙しいから見舞いは行けないって」
「薄情なやつ」
途端に不安が押し寄せてくる。
「金とか、足りてんのか」
保険はきくらしいが、細々した費用は、久里が肩代わりしてくれていた。
「ちゃんと後で返すから」
「大丈夫だから、気にしなくていいよ」
久里は暖かいハーブティーをいれてくれた。俺はリビングのソファに座り、窓の外を見ながらそれを飲んだ。花瓶の白い花がわずかに揺れている。
「こういう時のためのパートナーなんだから、頼ってくれた方が嬉しいし」
こんなもの、実家にいたときには飲んだことがなかった。ちょっとつんとしたにおいがする。でも、口をつけると意外なほどおいしかった。ほっと身体から力が抜けていくのがわかる。
「おいしい」
「うん」
久里は俺がそう言うことを、まるで知っていたかのようだった。
「前も俺、そう言った?」
「気に入ってたよ、すごく」
「へー……」
その言葉を聞いて初めて、自分がここに暮らしていたのだと実感した。こんな飲み物、前は飲んだことがなかったからだ。
俺は何も思い出せない。でも、確かにこの家に住んでいたのだ。ゆるやかな風が吹き抜けている。
「意外といい家だな」
「ありがとう」
たぶん、前の俺も気に入っていたのだろう。そんな気がする。
「でも、早めにどっか家は探すわ」
「え?」
「住み込みの仕事とかもあるかもしれないし……」
久里は驚いたように俺を見ていた。
「まだちゃんと骨折、治癒したわけじゃないでしょ? そんなこと考えなくていいよ」
「でも、俺はあんたの恋人じゃない」
俺は無理に少し笑った。
ここは確かにいい家だ。だけど俺はここでどんな風に過ごせばいいのかわからない。
同居人として振る舞えばいいのか。それとも、友人なのか。恋人であることを期待されても、俺には応えられない。
「それは……」
ハーブのにおいがしている。かつておいしいと思った物を、今の俺もおいしいと思っている。
同じだ。でも俺は、変わったんだろうか。それとも変わってないんだろうか。
「俺なら、大丈夫だから」
久里は何か俺の気持ちをくみ取ったのか、ゆっくりした声で言う。
「滋くんが嫌がることしたりはしない。それだけは信じて」
声はあくまで穏やかだった。口元も笑みさえ浮かべている。でも、目が悲しそうに見えるのは、気のせいだろうか。
突然恋人が、記憶をなくして恋人でなくなったら、普通は誰だって驚くし傷つく。
思い出してほしいと願うだろうし、寂しくて苦しいだろう。久里はそういう感情を見せないけれど、何も感じていないわけがない。
「……ああ」
悪いやつではないのだと思う。
でも、恋人にはなれない。
・
今までどうやって見舞いに来ていたのか不思議になるくらい、久里は忙しかった。
「いや、今はだいぶ自分のペースでやってるから大丈夫だよ。去年よりだいぶマシ」
久里はそう言って笑っていた。帰りが深夜になっても、翌日の朝になったらちゃんとスーツを着て出かけていく。
「もっと滋くんと話したいんだけどなー」
そう言いながらも、久里はいつも複雑そうな書類や外国のサイトと顔をつきあわせている。俺がテレビでバラエティ番組を見ていてもだ。
一応俺はまだ安静に過ごすように言われていた。毎日、コンビニまでぶらぶら行って弁当を買って帰るくらいしかすることがなかった。
「忙しすぎだろ」
俺がそう言うと、久里は今初めてそのことに気づいたという顔をした。
「滋くん、今日も一日働いてきて疲れ切った俺をねぎらってよ」
「ねぎらう?」
「お仕事お疲れ様ですご主人様、みたいな感じ」
「何言ってんだ」
本当は、俺の見舞いは負担になっていたのではないだろうか。
久里は必ず毎日来てくれた。楽しみにしていたつもりはない。でも、久里さえ来てくれなかったら俺は一人だった。何しろ、友人とはまったく連絡が取れていないのだから。あの狭い病室で、たった一人で痛みに耐えているしかなかった。
「なぁ、また金かかったら悪いんだけど、携帯の復元とかってできないかな」
事情を知らない誰かに、事故に遭って大変だったという話をして笑ってもらいたい。そういえば山岸ともまだ話せていない。
「あー、そうだったね。知り合いが詳しいから、聞いてみるよ」
「マジか、助かる」
俺は歪んだ携帯電話を久里に手渡した。
「たぶん、何日かかかると思うけど」
「悪いな」
とにかく家の中にずっといて何もしないというのは落ち着かない。あまり出歩けないにしても、何かしていたかった。
「……俺、メシでも作ろうか?」
「え、何、急に」
「何かしてた方が楽なんだよ。たまに店でもまかないとか作ってたし」
大したものは作れないが、料理は以前から好きだった。すぐに自分が食べられるのがいい。
「明日も遅くなるのか? 何時くらいに帰ってくる? そんなに遅くないんだったら何か作っとく」
昨日も今日も、昼も夜も一人で食べた。病室だって一人部屋だった。テレビを見るより、誰かと話をしながら食事をしたかった。
久里はしばらく答えなかった。
「……わかった。十時前には、帰ってくるようにする」
「よっしゃ」
俺が笑うと、つられるように久里も破顔する。ふとその顔に違和感を覚える。普段からにこにこしている男だけれど、少し違う笑みだった。
「好きな食べ物は?」
「え?」
「あんたの好きな食べ物」
「何でもいいよ、滋くんが作ってくれるものなら」
でもすぐに久里の笑みは元に戻った。穏やかで人当たりのいい微笑みに。
好きな食べ物くらい何かあるだろうと思う。でも、久里は答えなかった。
「何でもいいんだな」
「食べられないものとか、特にないから」
意外とピーマンが嫌いとか、そういうことあったら面白いのにと思う。何か彼の苦手なものがあるなら、聞いてみたかった。
俺は近所のスーパーで食材を買った。思った以上に野菜の値段は高かった。季節柄なのかここ最近値上がりしたのかはわからなかった。
「俺、こんなどうでもいいことは覚えてんだな……」
キャベツを手にしながら、ちょっと高すぎると迷っている自分を自嘲する。
生活に密着した知識は、体が覚えているとかそういうことなんだろうか。
記憶がない間に、自転車に乗れるようになった人は、記憶が消えた後も自転車に乗れるのか。体が覚えているのだとしたら……じゃあ俺は、久里とキスできるのか。
「……無理だ」
かつてはしていたはずだというのが信じられない。それも、どう考えてもキスだけじゃない。
平日の昼間のスーパーは、老人が多い。何となく疎外感を覚えながら、俺は足早に食品をかごに放り込んでいった。
翌日、久里はちゃんと夜十時には帰ってきた。正確に言うと、十時十分だった。遅いな、と思っているうちに、慌てたように帰ってきた。
「ただいま」
久里は息を切らして、ひどく汗をかいていた。確かに蒸し暑い日だった。
「おかえり。なんでそんな汗かいてんの?」
何しろここは四階だ。普通に上がってくるだけでも疲れるだろう。
「帰るとこで所長に捕まってつまらない話されてさ」
「別に遅くなっても問題ねぇけど」
「だって、せっかくご飯用意してくれてるんでしょ」
別に店の予約をしているというわけでもない。かえっていたたまれなかったけれど、俺は黙ってご飯をよそる。
「シャワー浴びてくる」
俺はその間に、料理を皿によそう。
久里が何を好きなのかよくわからなかったので、豚肉とキャベツの炒め物、卵のスープを作った。ご飯を茶碗によそう。当たり前かもしれないが、ちゃんと食器は二人分あった。
シャワーを浴びてきた久里は、髪を乾かすこともなく食卓につく。
「うわー、おいしそう。いただきます」
久里はちゃんと両手を合わせてから、箸を取った。テレビはつけているが、そちらに目をやる様子はない。もくもくと、ご飯を口に運んでいる。
「おいしい」
「本気で言ってる?」
俺は思わず久里の表情を伺ってしまう。たとえ俺が黒焦げの肉を出しても、たぶん彼は同じように答えるだろうなと思ってしまったのだ。
「なんでそんなこと疑うの」
久里は機嫌を損ねた様子もなく笑っていた。
単に腹が減っているだけという気もするけれど、ぱくぱくと料理を口に運んでいく。口に合わないということはなさそうでほっとする。
「俺、仕事やめようかな」
「何だよ、急に」
「だって、せっかく滋くんが家にずっといるのに、なんで俺は一日しんどい仕事と向き合ってるんだよ……」
「二人で家にいてもしょうがないだろ」
「でも、ずっと二人で家にいたら楽しいじゃん」
「何だよそれ……」
まるきり子供みたいな言い分だった。
「じゃあいつか今の事務所やめて、独り立ちできたら、手伝ってよ」
「嫌だ」
きっと難しい仕事ばかりで、自分が嫌になるに決まっている。俺は料理でもしている方がいい。きっぱりと断ったのに、最初から本気でもなかったのか久里は笑っていた。
「ご飯、おいしい。ありがとう」
久里はじっと俺を見て言った。大げさな反応に俺はどう返していいか困る。
「いや、大したもんじゃないし……」
「へとへとだったんだけど、生き返った」
久里はあっという間に皿を空にした。
「やっぱり、前も俺料理してた?」
調理器具や調味料はそれなりに使っている形跡があった。おそらく久里ではなく、俺が利用していたのだろう。必要なものは一通りあって不便はなかった。
「……うん。料理作ってくれたことがあるよ」
「味は? どっちがうまい?」
そう聞いたことに深い意味はなかった。レシピなどのメモはなかったので、どんなものを作っていたのだろうかと思ったのだ。
「滋くん、過去の自分に嫉妬してるの?」
「はぁ?」
そんなことあるわけがない。だが久里はにやにやして、挙げ句の果てに「どっちもかわいいし決めがたい……」などと言い出す。
「バカだろ……」
「どっちの滋くんも大好きだよ」
俺はつい笑ってしまう。久里がこんな男だなんて知らなかった。
――兄さんは、全然私のことわかってくれてない。
ふっと耳元に声が蘇ったような気がしてどきりとする。浮かれた気持ちに、冷や水をかけられたかのようだった。伶実とは、見舞いに行くとたびたび言い争いになった。彼女は久里が好きだったから、きっと未練はあるだろう。
「滋くん?」
「俺、そろそろバイト探すわ。重いもの持たなきゃ大丈夫だろ」
痛みは幸い、落ち着いていた。俺の口座には、数万円しか預金がないようだったし、久里にずっと頼りきりでいるわけにもいかない。
「色々肩代わりしてもらってる費用も返さないといけねぇし」
「別にいいよ、いつでも」
久里は金には困ったことなどないのだろう。余裕を持ってそんなことが言えるのが羨ましかった。
「そうはいかないだろ」
「だって、まだ退院したばっかりなんだしさ。また何かあってからじゃ遅いよ?」
「そりゃあそうだけど……」
ぐずぐずしていたらきっとまた、あっという間に日にちは経ってしまう。意識していなかったけれど、毎日遅くまで働いている久里の影響もあるのかもしれない。
俺もとにかく、何かがしたかった。
「焦らないでゆっくり探してみたらいいんじゃないかな」
「……ああ」
「滋くんは料理好きだし、居酒屋とかレストランとかいいんじゃない?」
「そうだな」
久里は使っていないタブレットを貸してくれるという。ありがたかったけれど、携帯があればと思わざるを得ない。
友人の顔が何人か思い浮かぶ。数日や数か月連絡しなくても問題はないだろうが気になっていた。事故に遭ったと伝えた山岸も、心配しているんじゃないだろうか。
いいと言ったのだが、食器は久里が洗った。俺はソファに座り、タブレットでぼんやりと求人サイトを見る。探せばアルバイトの募集はたくさんある。でも、記憶が戻らない状態で、新しい仕事に応募するのは不安だった。
まだ俺の知らないことが、忘れていることがきっとたくさんある。
「なぁ」
食器を洗い終えた久里がリビングに戻ってくる。マグカップをふたつ持っていた。また俺の分も、ハーブティを淹れてくれたらしい。
「やっちゃん……山岸のとこ、やっぱり連絡してみようと思うんだけど携帯借りていいか?」
「今は店の時間なんじゃない?」
「どうせ暇だから大丈夫だろ。一回直接、声聞きたいし」
山岸は忙しいと言っていたらしいが、基本的には暇な店のはずだ。
「やっちゃん、びっくりするだろうな。キオクソーシツとか言われたら」
マグカップをテーブルの上に置いた久里が急に俺の方に向き直り、腕を掴んだ。ぴり、と空気に緊張が走るのがわかった気がした。
「……っ」
強くソファに体を押しつけられる。
何が起きているのかよくわからず、俺はされるがままだった。久里は俺をソファに押しつけ、観察するような冷たい目で見ていた。
「何っ……?」
「思い出した?」
「何が……離せよ」
掴まれた腕が痛い。顔が近いけれど、ロマンチックな雰囲気はかけらもなかった。むしろ尋問に近い。久里の目は冷たく俺を眺めていた。
「本当はもう、思い出してるんじゃないの?」
「何だよ……思い出せてんならそう言うって」
体格では彼の方が圧倒的に優位だし、何より俺はまだけがが治ったばかりだ。もしこのまま組み敷かれたとしても、きっとどうにもできない。原始的な恐怖に体がすくむ。
「わけわかんねぇんだよ、離せ……!」
どうやって逃げ出したらいいのか。だがすぐに、ふっと久里は拘束を解いた。
俺はずるずるとソファにもたれたまま、起き上がれなかった。
久里はもう、あの冷たい顔はしていなかった。自分がしたことに驚いているみたいな、途方に暮れた顔をしていた。
「久里?」
「ごめん」
彼はそのまま立ち上がり、自分の部屋へ歩いて行った。ばたんとドアが閉まる。俺は呆然と、それを見ているしかなかった。
第二章 ツキミソウ
「いやー、マジであんの? 記憶喪失とか。どっきりじゃなくて?」
「どっきりなら俺に早くネタばらししてほしいわ」
「大変だなー、うわ、そっか。そんなことあんのか」
感心したような顔で山岸は言う。人好きのする笑顔が懐かしい。彼はまるで変わっていなかった。学生時代は痩せていたのだが店を継いでから太って、今ではすっかり町の定食屋の親父という外見になっている。
「見舞い行けなくて悪かったな」
「いや別にいいけど」
やっぱり彼に会ってよかった。茶色く薄汚れた壁さえ懐かしい。ここ数日、俺は緊張していたのだなと自覚する。
混むランチの時間帯などに、俺はよくバイトとしてこの店を手伝っていた。最近は人を雇えているので、俺の手を借りる必要はなさそうだという。
「俺の生活って何だったんだろうな……」
俺は思わずつぶやいた。昨日の久里は変だった。まるで、俺が過去を思い出すことを恐れているかのようだった。
「何って、普通だろ」
「俺何か、変なことやっちゃんに言ったりしなかった?」
山岸の表情が一瞬固まる。
ないない、と軽く返ってくるだろうと思っていた。背筋がひやりとする。だがすぐにまた彼は笑って話し出す。
「ないよ、特に。大丈夫だって。あ、ニュースと言えば、俺、もうすぐ結婚するかも」
「えー、マジか! おめでとう!」
付き合っている彼女のいいところを、山岸は高揚した様子で並べ立てる。よほど嬉しいのだろう。
「いやー、よかったな。やっぱ、色々変わってることもあるんだな」
山岸は照れくさそうに笑っていた。彼が急にバンドをやめると言った時には思うところもあったけれど、今は彼がこうして店を継いでよかったのだと思う。
「そういや、俺が一緒に住んでる、久里のことって知ってる? あいつに電話してもらったんだけど」
「ああ、怖い人だよな」
「怖い?」
久里はいつも笑っている。底知れないという意味ではそうかもしれないが、ぴんとこなかった。
「何か言われたのか?」
「いや、いいんだ、何でもない」
俺と恋人だったのか、なんて聞ける雰囲気ではなかった。実際、もし付き合っていたのだとしても、友人には言わないだろう。山岸はそれからまた、彼女ののろけを話し始めてしまった。
結局、シフトの都合も考えて俺は近所のコンビニでバイトを始めた。コンビニの仕事は、三、四年前にもしていたことがある。多少の不安はあったが、仕事内容は俺の記憶にあるのとほとんど変わってはいなかった。
「苗代くん、覚えがいいから助かるよ」
お世辞なのかもしれないけど、教育係になった先輩に言われると嬉しかった。
「留学生が大量に抜けちゃって。人手足りてないからどんどん入ってね」
まずは週に二日、昼間の比較的空いている時間に入るだけだったが、この分なら時給のいい深夜に変えてもいいかもしれない。
だが、そうすると遅くに帰ってくる久里と入れ違いになる。
最近、久里は遅くとも日付の変わる前には帰ってきていた。多少遅めの時間にはなるけれど、俺は食事を作り、一緒に食べるようにしていた。そうしないと、彼は朝も早いし会話する機会がないからだ。
「へー、なじめてるならよかった。昼間だから俺、滋くんが働いてるとこには行けないんだよね……」
久里はネクタイを外し、Yシャツの袖をまくって食卓についていた。遅くなっても、会食などがない限り彼が外で夕食を食べてくることはない。
「絶対来るなよ」
「お気に入りの新作商品とか教えてよ」
「自分じゃ食わないし……」
人との会話に飢えていたし、とにかく俺はどんな小さなヒントでもいいから過去のことを知りたかった。俺の忘れている間、何があったのか。久里とはどんなふうに過ごしていたのか。
「やっぱり平日はすれ違いで、あんまり話してなかったかな。去年はもっと忙しかったし」
「じゃあ休日? 海に行ったのはわかったけどさ、他に写真とかは?」
「俺、普段は写真撮らないんだよね。記憶力がいいから」
「自慢かよ」
「大事なのは思い出だよ」
今日のメニューは、麻婆豆腐と中華スープだった。結構辛めに作ったのだけれど、久里は平然と食べている。
「じゃあデートはあんまり行かなかった?」
「そんなこと知ってもしょうがないんじゃないかなぁ」
「言えない?」
「そんなにデートのこと知りたいの? どこでキスしてどこで初めての……」
「違う! いやほら、ドラマとかでよくあるじゃん? 前に行ったところにもう一度行ったら『ここ知ってる』みたいなさ」
もちろん、キスやセックスの記憶まで突然思い出したって困るのだけれど。
「何かのヒントにはなるかもしれないだろ」
痛みは落ち着いているし、俺はここでの生活になじみつつある。でも、それだけではだめだ。
「滋くんはさ、ほんといつも前向きだよね」
「バカにしてんのか」
「褒めてるんだよ」
久里の笑みからは、それが本心なのかどうかは判断しかねた。
「何もしないより、何かしたい、って思ってるのすごいと思う」
俺は反応に困る。久里は本心で言っているように思えた。
「何だよ、急に」
「本当に、そう思ったからさ」
俺には久里のことはよくわからない。軽薄そうな印象に反して、意外と律儀で真面目なことはわかる。俺から促さないと、過去のことをあまり話さないのは、気を使っているのか。
「じゃあ行ってみようか」
「え」
「デート。前に行ったとこ」
確かに、滅多に行かないような非日常的な場所だったら、記憶にひっかかるものがあるかもしれない。
「車借りないとね」
「あんたが運転すんのか」
「そうだよ」
「仕事、忙しいんだろ?」
「何とかするよ。せっかくのお誘いなんだから」
「誘ってはない」
この男は優しいのだろうか。無頓着なのか、実は色々と考えているのか。印象はころころ変わって、よくわからなかった。
「今週末にしよう。楽しみだね」
食器はやはり久里が洗うと言ったので、任せることにして俺は部屋に戻った。
この部屋にある俺の私物は服と、少しの本やノートパソコンぐらいだった。家具などは持ってこなかったらしい。実家の学習机などは、きっと捨てられてしまったのだろう。
伶実は賢く、俺よりずっとできた妹だった。俺はそれまで何となく読めなかったマンガの一冊を手に取る。妹の好みの本はわかりにくくて、正直そんなに好みではなかったけれど、以前から意地になって読んでいた。
「あれ……?」
ふっと本を開いたときだった。本より一回り小さい紙が挟まれたページが自然と開かれる。
〝妹の死を忘れるな〟
そっけのないフォントでそれだけ書かれていた。こんな紙、もともと本に挟まっていたわけではないはずだ。
「なんだ、これ……」
背筋に嫌なものが走る。これは、俺が妹の遺品としてもらった本だ。どう考えても、書かれているのは伶実のことだろう。
誰がここにこんなものを挟んだのか。そんなことをできる人間は限られている。
久里だろうか? あるいは死ぬ前の……伶実? 何の感情も読み取れない機械の文字が、白々と並んでいる。
恋人としての久里との記憶は失ったけれど、伶実のことは何も忘れていないはずだ。忘れろと言われたって無理だ。せっかく大学に受かって、これからというところだったのに。
なぜ俺は思い出せないのだろう。
この家で、一体俺は何をやっていたのか。
伶実が死んでから一年と少し。その間に山岸は結婚相手を見つけ、母は再婚の話を進めた。
俺が知らないだけで、俺の周りでも決定的なことは起きていたかもしれない。手に冷や汗をかいていた。どうして、俺は忘れてしまったのだろう。どうして、見晴らしのいい道で事故になんてあったのか。
どうして。
「滋くん」
ノックの音がして、とっさに本を閉じる。俺はよっぽどひどい顔をしていたのかもしれない。久里は不安そうに眉根を寄せた。
「大丈夫?」
「あ、いや……ちょっと、漫画読んでて」
メモのことは、久里に聞いてみれば何か知っているかもしれない。心臓がばくばくいっている。
「お風呂、沸いてるからどうぞ」
「ああ、うん……」
「滋くん?」
久里はいぶかしげな顔をする。
「あのさ、俺の送ったラインとか、全部見せてくんない」
「どうしたの、急に」
「何でもいいから、記憶をなくす前の俺のこと、全部教えてくれよ」
記憶がなかったとき、俺はどんな男だったのだろう。考えれば考えるほど、暗闇に飲み込まれていくようだった。
久里は部屋の中に入ってきて、しゃがんで俺と目線を合わせる。色素の少し薄い目が、俺をじっと見ていた。
「大丈夫」
「何でそんなこと言えるんだよ……!」
「滋くんは、滋くんだよ」
久里はびっくりするほど優しげに笑っていた。手を握られて初めて、俺は指で細かく床を叩いていた自分に気づいた。
手が触れても、嫌な感じはまったくしなかった。久里の手は、俺の手よりも温度が高い。その熱に触れただけで、暗闇からふっと光の中に顔を出したみたいな気分になるのが不思議だった。
「あまり難しく考えなくても大丈夫だよ」
久里はふっと、小さく笑った。
「だから今は、この夏を楽しもうよ」
・
「いい天気だな」
週末、約束通りに久里と出かけた。よく晴れた日差しの強い日だった。
「さすが晴れ男だね、滋くん」
何を着たらいいのか少し迷った。かつて彼と出かけたのはデートだっただろう。でも今回は違う。何を着てもいいはずだったけれど、それでも迷ってしまった。
昨日も遅くまで仕事で疲れているだろうに、久里は手際よく、レンタカーを家の前まで回してくれた。国産の小柄な車だった。
「俺免許持ってるよな?」
当たり前のように、助手席に座るよう促される。俺の事故はスピードの出しすぎでもなかったし、人にケガさせたりもしていないので、免許は取り上げられていない。
「事故った人はだめ」
「大丈夫だって」
子供に言うみたいな口調にむっとして言い返した。
「しばらくだめです。ほら、シートベルトして」
「別にいいだろ」
「飛ばすよ」
「えっ」
急にぐんと速度が上がったので体がすくむ。まだ高速にさえ乗っていない。速度が急に上がったのは一瞬のことだけで、久里はスピードを落としてなめらかに運転をし始めた。
「な、に考えてんだよ!」
「はは」
久里は慌てる俺を横目に笑っていた。幸い周囲には人がいなかったが、危ないことには変わらない。それに俺は交通事故に遭ったばかりなのだ。
「安全運転してくれよな……」
言いながら俺は、しぶしぶシートベルトを着用した。
行き先は、東京から二時間ほどのところにある牧場だった。交代しようかと言ったのだが、久里は運転を代わってはくれなかった。
「やっとついた……」
久里の運転は荒くて、生きた心地がしなかったが、本人はけろりとしている。
「やーいい空気だね」
牧場なんて誰が好んで行くんだと思ったけれど、現地に着いてみると若者や家族連れで賑わっていた。日差しは強いが湿度が低く、日陰に入ると空気もひんやりしていて心地いい。
「ここ、そもそも前は、どっちが来ようって言ったんだ?」
「なんかテレビ見ててだったかな。滋くん、ウサギ好きでしょ?」
確かに動物は嫌いじゃない。小さい頃に一時期ウサギを飼っていたことがある。妹と二人で、取り合いをしながら世話をしたものだった。だけどウサギは一年も経たずに死んでしまった。伶実の嘆きようは尋常ではなく、それからうちでは二度と動物を飼うことはなかった。
あのウサギは何という名前だっただろう。
よく晴れていた。牧場の多くは芝に覆われていて、その緑と青空のコントラストがきれいだった。動物園よりも動物の種類は少ないが、直接触れたり、かなり間近で見たりすることができる。
「前に来たときと、同じルートで回ってくれ」
覚えていない、と言われるだろうと思っていた。だが、彼は「オッケー」と言って歩き出す。よりにもよって「ふれあいコーナー」からだった。
ふわふわした毛のウサギがたくさんいる。身長が俺の半分もない子供が、楽しそうにはしゃぎまわっている。もし伶実が来たら喜んでいただろうなと思う。
「はい、ここでウサギと触れ合う」
ほんとかよ、と思ったけれど飲み込む。恥ずかしがっていても仕方がない。
〝お墓作るの。忘れないように〟
俺もウサギのことはかわいがっていた。でも、伶実のこだわりようは、度を超していた。彼女は庭に墓を作り、家族みんなが一日一回お参りをするように強制した。
〝だっているもん、ここに。いないけど、いるもん〟
今となっては、微笑ましい記憶だ。
俺は一歩踏み出す。鼻をひくひくとさせたウサギが、じっと俺を見ている。
一日牧場で遊び、くたくたになって日が暮れた後に久里が案内してくれたのは、山の麓にある小さな一軒家だった。
地産地消の食材を使ったレストランらしい。こんなところにあって儲かるのかと思ったけれど、中は客でいっぱいだった。
ちらと見たメニュー表には強気の値段が載っていたけれど、久里はてきぱきと注文をした。
「すみません、ポルチーニのリゾットはこの季節はやっていないんです」
「そうですか」
そこで初めて、久里は俺の方を見た。
「何食べたい?」
それまで俺の意見を聞かなかったのは、「前と同じように」と俺が言ったからなのだろう。
「前に食べたのか? リゾット」
久里はうなずく。そう聞かされると、どうしてもそれが食べたくなるが店員を困らせるわけにもいかない。俺は適当に目についたものを注文する。
今日一日、久里の案内に任せた。最初こそ尻込みしたものの、かわいらしい動物とふれあうのは楽しかった。
「つっかれた……」
「お疲れさま」
「あんた、どういう順番で回ったとか全部覚えてたのか?」
久里は今日、ほんの少しの迷いも見せなかった。さっきの注文だってそうだ。忘れたとか、わからないとかは一言も言わなかった。
「普段は事細かに写真撮るタイプとか?」
「写真は撮らないよ」
「ほんとかよ」
頭のいい人間ならそのくらい覚えられるのだろうか。俺にはよくわからない。
「ほんとにそんな細かいことまで覚えてんの?」
「ただの習性だから」
でもそれなら、確かにテストなんて楽勝だろうなと思う。
前菜が運ばれてくる。おなかはペコペコだった。野菜のたっぷり乗ったサラダとローストビーフに箸を伸ばしながら、俺は思わず呟いた。
「でも覚えてても、どうにもならないこともあるんだな……」
リゾットはこの季節だと食べられない。牧場はまだあったからいいものの、いつか潰れたり、扱う動物を大幅に変えたりするかもしれない。この店だって、いつまでもあるとは限らない。
季節は巡るし、世の中は少しずつ変わっていく。
「でも、わかることもあるよ。明日、滋くんが筋肉痛だって言い出すってこととか」
「だからあんたも乗れって言っただろ!」
「前回乗らなかったんだから、仕方ないよ」
「卑怯者」
思った以上に馬の動きは激しく、必死でしがみつかないと振り落とされそうで怖かった。そんな俺を、久里は柵の外側から笑って見ていた。
メインの肉料理が運ばれてくる。牧場に行った後で少し気は引けたが、おいしそうな匂いには逆らえない。
「俺は写真撮ってた?」
俺の携帯はまだ手元に戻ってこない。もし今日撮りたければ久里の携帯を借りることもできたが、そこまですることもないかと思った。
「たまにね」
こうやって一緒に時間を過ごしていると、久里は本当に非の打ち所がない人間だと思う。頭がいいけれど嫌みな感じはしないし、ちゃんと俺を気遣ってくれる。
「……記憶が消えたのがもしあんただったら、何も問題なかったんだろうな」
茶化すわけじゃなくそう思った。久里は何においても、自分の考えというものがしっかりしている。俺は未だに、係留されていない船みたいに不安定だ。
「どうして?」
「あんた、何だってできるじゃん」
「何でもって」
人間としてあまりに出来が違う。何もかも中途半端な俺とは大違いだ。きっとこのまま彼は、立派な弁護士になって活躍するのだろう。世の中に必要な人間というのはいるものだ。
「あんたが、手に入らないものなんてないだろうな」
俺はつい、すねたように言ってしまう。
「そんなわけないよ」
久里は小さな笑い声を漏らす。俺の愚痴は、彼からしたら子供じみて聞こえたのかもしれない。
「……そんなことなかった」
でも、久里はぽつりと繰り返した。俺の方は見ていなかった。
まるで、叶わない恋でもしていたかのような、静かな声だった。聞きたいと思った。それはなぜなのか。でも、身体が固まってしまったみたいに声が出てこなかった。
「……あんたが、いままでつきあったのってどんな人?」
かろうじて声にできたのはそんな質問だけだった。
久里は地元の高校では女の子とも付き合っていたが、ぴんとこなかったという。大学で一時期彼氏ができたものの、すぐに別れてしまったらしい。意外と長続きしないタイプのようだ。
久里は尋ねたことにはちゃんと答えてくれる。会話が弾んでいないわけではないのに、何となく空気は気まずかった。
「前は、どんな話した?」
「忘れちゃったな」
記憶力がいい彼に限ってそんなことはないはずだった。恋人同士のデートだったら、もっといい雰囲気だったのかもしれない。久里だって、そのときのほうが楽しかったんじゃないか。
デザートまで食べ終わるのはあっという間だった。食後のコーヒーを飲み終えるのが、名残惜しかった。
久里は今、思い出しているのだろうか。かつての俺との時間のことを。今とはまるで違うなと、あきれるような気持ちで思っているだろうか。
「じゃあ、帰ろっか」
お互い言葉少なになってきたころ、久里が言った。
何かひとつでも、今日俺とこうして来てよかったなと感じてほしい。切実にそう思った。
外はすっかり暗くなっていた。当たり前のように運転席には久里が乗り込む。俺も諦めて助手席に座った。
あとはもう帰るだけだ。だが、久里はなかなか車を発進させなかった。
「滋くん、あのさ」
「何?」
「もし前の通りのデートにするんだったら……ここでキスした、って言ったらどうする?」
駐車場の明かりが、久里の横顔を黄色っぽく照らしている。
「……え?」
俺は思わず間抜けに聞き返してしまった。
「そのとき付き合って、どのくらいだっけ?」
「一週間」
どんな感情があったのだろう。戸惑いもあっただろう。だけどそれだけじゃないはずだ。付き合い始めたばかりの高揚感。期待やときめきや、ほんの少しの恐れ。
俺は何ひとつ覚えていないけれど。
「初めてのキスだった」
虫の鳴き声が聞こえる。黄色っぽい街灯の光が、車内をわずかに照らしている。
俺は何も思い出せたりしていない。
でも、わかるような気がしてしまう。きっとそのときにも、空気が変わっただろうことが。まだ触れていないのに、急に久里の存在を近しく感じる。
同じように繰り返したら、何かわかるんじゃないだろうか。
ぐいと久里が体を乗り出してくる。俺は動けなかった。間近に久里の顔がある。薄暗くて表情はよく見えない。俺は思わず目をつむった。
でも、唇が触れる感触は、いつまで経ってもなかった。
「ごめん」
静かな声だった。久里は間近で俺の顔をのぞき込むようにしたまま、静止していた。
「いいよ」
俺は久里のことを何も知らない。この一年間に、自分たちの間に何が起きたのかも。心の底から、それを知りたいと思った。
神様がいるなら返してほしい。自分がそれを知らないのが悔しい。
「したんだろ? キス」
俺は久里の腕を軽く掴む。狂ったように心臓が速い速度で打っている。
「しろよ」
俺は何を言っているのだろう。
少しの間、沈黙が続いた。心臓の音が久里にも聞こえてしまうんじゃないかと怖くなる。久里は、そのまま体を離した。
「久里」
「ごめん、こんなことするつもりじゃなかった」
久里はハンドルにうつぶせるようにうつむく。
「好きでもないのに、キスをする必要なんてないんだよ」
そう言って、久里はキーを回す。そうして俺の方はもう見なかった。
車はなめらかに発進する。俺は久里の顔を見れずに、真っ暗な窓の外を眺めていた。
車窓をまばらな明かりが通り過ぎていく。確かに、久里と付き合っていたのはかつての俺だ。今、キスをする必要なんてない。
でもデートなんだから、してもよかった。
そんな風に思ってしまう自分自身がよくわからなかった。窓ガラスにうつる久里の横顔を、俺はそっと盗み見ていた。
・
俺はバイトに行き、レジを打ったり商品を陳列したりする。住宅街の中の店で、大混雑するような時間もなく、基本的には平和だった。
デートに出かけてから、久里とは気まずい空気だった。俺は一緒に出かけて仲良くなれたんじゃないかと思っていたのだが、明らかに避けられている。
もともと久里は忙しい。帰ってくる時間が遅いと、一日顔も合わせないこともある。今日も、遅くなると聞いていた。
「妹の死を忘れるな、か」
あのメモのことが気になっていた。どうしてあんなものがわざわざ俺の本に挟んであったのか。
「どうしたの?」
コーヒーマシンに補充をしていた先輩の伊藤が不思議そうな顔で俺を見ていた。つい口に出していたのを、聞かれていたらしい。
「あ、いや……」
けがや記憶喪失のことは、バイト先では言っていなかった。
「何でもないです」
「そういえば、この間同居人さん見ちゃった」
「え?」
伊藤はぽうっとした表情をしている。いつもきびきびしている人なので、そんな表情は初めて見た。
「なんで知ってるんすか?」
「本人が言ってたから」
どうやら深夜に買い物に寄った久里と会話をしたらしい。
「ちゃんと働いてるか、心配してたよ」
「あの野郎……」
久里はそんなことは一言も言っていなかった。いや、最近はそもそも顔を合わせていないからその機会もなかったと言うべきか。
「イケメンと同居かーいいなー」
今日は、久里と顔を合わせたら、あのメモのことを聞いてみようかと思う。知らないと言われるだけかもしれないけれど、一人で抱えているよりいい。
その日、口にしていた通り久里の帰りは遅かった。俺は何度かうとうとしかけながらも、やっとのことで起きていた。
「おかえり」
眠気をこらえて、俺は玄関で彼を迎える。久里は、ぼんやりと玄関に立っていた。
「あのさ、聞きたいことあるんだけどいいか……? 久里?」
声をかけると、初めて俺に気づいたみたいに目を丸くする。
「滋くん?」
何だか様子が変だった。顔が赤いように見える。
「酒飲んで来たのか?」
久里はやけにぼんやりとしていた。俺が一歩近づくと、急にがばりと抱きつかれる。
「な……っ」
人を避けていたと思ったら、急にこれだ。
「酔ってんのか……!?」
久里は俺よりもだいぶ背が高い。ひどく重くて、俺はバランスを崩しそうになる。何とか久里の肩を押し返して顔を見ると、苦しそうに荒い息を吐いていた。
抱きついたというより、倒れ込んできたというのが正しいのかもしれない。
「おい……!」
試しに額に触れてみると、じわりと熱を帯びていた。
「久里……!」
体温計で熱を測ると、三十八度だった。あちこち探して風邪薬を見つけた。とりあえずそれを飲ませたが、ぐったりした久里は別人のようで、どうしていいかわからなかった。
症状が治まらなかったら医者に見せないといけない。俺はうろうろと、洗面所やキッチンと久里の部屋を行き来していた。退院から今まで、俺は久里に頼ってきた。
――もし、久里が死んでしまったらどうしたらいいのだろう。
単なる風邪だ。死ぬわけがない。頭ではわかっているのだけれど、冷静になれない。
家の中をあれこれ探して、俺はレトルトの粥を見つけた。他にも何か必要になるだろうか。看病なんてまともにしたことがないからよくわからない。
「……母さん」
急に久里が声を出したのでびっくりする。うなされているようだった。彼でも心細いときには母親を呼びたくなるのだろうか。
「……やめて……」
だが、久里の声はやけにつらそうだった。
「おい」
俺は彼の肩を揺さぶる。目を覚ました彼はまだ赤い顔で、ぼんやりした目をしている。
「大丈夫か? 苦しい?」
久里は首を振る。いつもの彼とは違う様子に戸惑う。
「何か食べるか? ほら、おかゆとか。何でも食べたいものあったら買ってくる」
俺は久里の前に、レトルトのパッケージを示す。久里はちらとそれに目をやって、また首を振った。
「何かあるか? 冷たいもの? どうしてほしい?」
俺が焦ってどうするのだと思う。でも怖かった。
久里が唇を開く。声はあまりに小さくてよく聞こえなかった。
「何?」
俺は彼の唇に耳を近づける。
「ここにいて」
久里がかすれた声で言ったのはそれだけだった。俺が聞き返す間もなく、彼はまた目を閉じてしまう。
いつものふざけた、甘い言葉とは全然違う。弱々しい声のその訴えは、とても切実な響きだった。
俺はベッド脇に腰を下ろす。もともと、こんな状態で一人では眠れない。俺はじっと久里の顔を見ていた。大丈夫だ。ちゃんと息をしている。
わかっていても、どきどきする。俺はしばらくそうして久里の寝顔を眺めていた。そのうちに気がつくと、ベッドに上半身だけ伏せて、眠りに落ちていた。
始まりはどこなのだろう。
伶実はやっと希望の大学に入って、これからというところだった。大学の検診でがんが見つかった。進行は進んでいて、大慌てで彼女は入院し、手術をした。幸い手術は成功だった。俺も何度か見舞いには行ったけれど、これから長く闘病生活が続くのだろうと思っていた。
俺は買い物袋を下げて、家までの道のりをぼんやりと歩く。通り過ぎる人はみな、知らない人だ。いや、もしかしたら知っている人もいるのかもしれない。この一年間で親しくなった相手もいるのかもしれない。
でも、誰も話しかけてはこない。
そのうちに河原に出る。コンクリートで護岸された小さな川だ。周りに植わっているのは桜の木のようだった。
手術の後、伶実の体にはすぐに転移がみつかった。
また手術だと思っていた。だが彼女は痛みを和らげる以外の、一切の治療を拒否した。もう転移が相次いで手に負えないことは目に見えているのだから、余命を受け入れるという。
俺はそれを容認できなかった。見舞いに行くたびに口論になった。俺はそのまま飛び出し、しばらく見舞いには行かなかった。
母から電話があったときも友人と飲んでいた。大した用ではないのだろうと思っていた。
まさにそのとき、彼女が危篤だったなんて知らなかった。
そこまで早いとは、思わなかったのだ。
暗い中で、川の流れる音だけが聞こえる。
そのまましばらくぼんやりしてから戻ると、久里は起きていた。
「体調、大丈夫なのか?」
今朝になると、久里はもうけろりとした顔をしていた。念のためということで、今日は休みを取っていたが、安静にしていろと言ったのに結局書類とにらめっこをしている。俺は結局、あのメモのことについては口に出せないままだった。
「おかげさまで絶好調だよ。やっぱり愛の力かな」
「飯、おかゆでいい?」
「もう普通のご飯食べられると思うけど」
「念のため」
「はーい」
始まりは彼女だ。久里は彼女の家庭教師で、思い人だった。でももう伶実はいない。代わりに久里が、俺のそばにいる。
「なぁ、あんたなんで、俺に付き合おうって言ったんだ?」
以前は聞けなかったことが、ふっと口をつく。久里はきっと、冗談みたいな甘いことを言うのだろうと思っていた。
でも、返ってきた彼の言葉は、短かった。
「……心配だったから」
「それだけ?」
「あれ、滋くんもおかゆ?」
久里があからさまに話題を逸らしたのがわかったので、俺もそれ以上は聞けなかった。
「一人分も二人分も同じだから」
「おそろいだ」
今日一日、家から出ていない久里はパジャマのままで、髪型も普段と違ってぼさぼさだった。そんな彼を見るのは、何となくおかしかった。
「……滋くん、ありがとう」
「何だよ」
「しんどくて頭ががんがんしてるときに、滋くんの声がして、すごく嬉しかった」
「別に、大したことしてねぇし」
こんなに目が彼に吸い寄せられるのは、単に心配だからだ。俺は自分にそう言い聞かせる。久里はおいしいと言って、あっという間におかゆを平らげた。
倒れたことで職場の人にも心配されたらしく、久里は以前より早く帰ってくるようになった。
「大丈夫だって言ったんだけど」
親の事務所とはいっても、うまくやっているらしい。ぎすぎすしたところなのだろうと思っていたが、子育て中の女性なども多く、落ちついた雰囲気だという。
「あんた、俺がいない間にコンビニ来ただろ」
「最寄りだから」
「伊藤さんと話したんだろ?」
「……心配になっちゃって」
悪びれるでもなく彼は言う。
休みでも取らない限り、久里が俺の働いている時間に店に来ることはない。そして久里は滅多なことでは休みを取らない。
そうわかっていても何となく落ち着かなかった。
久里との生活は、うまくいっていた。久里は意外といい加減で、トイレットペーパーだとかティッシュだとかはすぐに切らした。忙しくてそこまで気が回らないのかもしれない。その割に花だけは、ちゃんといつも活けられていた。今は、白い丸っこい花だ。
平日、俺はバイトに出かけるか、家事をするか寝て過ごす。料理を作るのは俺で、後片付けをするのは久里だ。
「おいしい」
「あんた、ほんとは好きな食べ物は?」
「滋くんが作ってくれるもの全部だよ」
俺はなるべく、久里の起きる時間には自分も起きるようにしていた。毎日おはよう、いってらっしゃい、ただいま、おやすみと繰り返す。大きなトラブルもなく日々が過ぎていく。俺の記憶は戻る気配もない。
今の生活が快適すぎて、俺は自分で口にしたにも関わらず、新しい家をまだ探せていなかった。
「復元、できなかったって」
久里の部屋に呼ばれて行くと、頼んだ携帯電話が壊れたまま手渡された。さすがに遅いなと思い始めた頃だった。
「えっ」
「完全に基盤が壊れているからどうにもならないらしいよ」
「そうか……」
思った以上にショックだった。友人たちの連絡先もわからない。山岸から誰かを伝って調べることはできるかもしれないが、それも面倒だ。
「新しく携帯、買いにいこうか?」
「やっぱり、あんたの携帯見せてくれよ」
「何?」
「俺からの電話とかメッセージとか全部、見せてくれ」
「ないよ」
「ない?」
「消したんだ」
「嘘だろ? なんで消すんだよ」
「ない方がいいんだよ」
明らかに怪しい。実は別れる寸前で、醜く罵り合っていたとか。何か理由がないと、そこまではしないはずだ。
「よっぽど見られたくないやり取りがあったんだろ」
俺の携帯は念のため、他の店にも修理に出してみてもいいかもしれない。たぶん、店によって直せる故障の範囲も違うはずだ。
「違うよ。そんなの、あるわけない」
「じゃあなんで消したんだよ!」
久里は俺を見つめていた。あまりにまっすぐな視線にどきりとする。
「今だって、君はうまくやってるよ」
「……でも」
「このままでいいよ」
「じゃあ写真は? あの海で撮ったやつ」
久里は一瞬、困った表情を浮かべたように見えた。
「いい、見なくても。データはいらねぇから、そこ行ってみたい」
俺はそっと、手のひらを握りしめる。
「俺はもっと、前の俺のことが知りたい。最終的に、わかんなかったとしてもいい。でも、できる限りのことはしたい」
俺はまだ久里のことをよく知らない。過去の自分のことと同じかそれ以上に、俺は久里のことをもっと知りたかった。
そうすることで、自分のこともわかるような気がした。
「過去の俺も、今の俺もどっちも俺のはずだ」
久里が今の俺に親身になってくれるのは、以前の俺が恋人だったからだ。今はキスもできない。それでも久里は、今の俺にちゃんと向き合おうとしてくれている。俺も何かしないではいられなかった。
「いいよ。行ってみたいなら行こうか」
静かな声だった。彼は何を思ってかつての俺と付き合い、過ごしていたのだろう。
恋人だった記憶をなくした俺と、これから、どう付き合っていくつもりなのか。何を考えているのか、涼しげな顔からはよくわからなかった。
・
おもちゃみたいな路面電車に乗って移動した。テレビでは何度か見たことがある風景だ。でも、自分がここに来たことがあるとはまるで思えなかった。
びっくりするくらい住宅の近くを電車は走っていく。しばらく進むと海が見えた。
「体調はどう?」
久里は電車のドアに寄りかかっていた。今日の久里は随分ラフな格好をしている。夏休み中だからなのか、思った以上に電車は混んでいる。
「まだ事故から二か月も経ってないんだから、無理はしない方がいいよ」
「あんたこそ病み上がりじゃん」
前に彼女がいたときは、あまり遠出しなかった。こんないかにもデートという外出は、何だか気恥ずかしかった。
「どうかした?」
「何でもない。腹減らねぇ?」
ちょうど駅前では、まんじゅうを売っていて、湯気が立っているのが見えた。二人でひとつずつ買い、横目に海を見ながら歩いた。この暑いのにまんじゅうはどうかとも思ったのだけれど、ぎっしり詰まったあんが甘くておいしかった。
このままずっと海沿いを歩いていけば、江の島までたどり着くはずだった。海沿いに影のように島のシルエットが見える。
頬に触れる風が心地いい。海辺で泳いでいる人の姿は、思ったよりは多くなかった。
「泳ぐか?」
「俺は遠慮しとくよ」
「もしかして泳げない?」
「ジムでよく泳いでるよ」
意外にカナヅチだというならかわいいものを。こいつには欠点というものがないのだろうか。
すこんと空が広く感じられる。しばらくぼんやりと、久里と二人並んで海を眺めていた。日差しは強く、歩くと汗がにじんでくる。
「暑いな……」
「夏だから」
どこかふわふわと心許ない気分だった。
「この暑さに海っていいよね。夏って感じ」
「それは泳ぐ場合だろ?」
デートだ。俺はちらと隣にいる久里の横顔を盗み見る。いつも涼しげに見える彼も、うっすら頬に汗をかいていた。
「水着持ってくればよかったかな。ちょっと入ってみる?」
砂浜に降り立つと、暑さは増したように感じられた。俺も久里もスニーカーだ。砂浜は歩きにくかった。
遮るものもなく、真夏の日差しが降り注ぐ。
「はい」
焼けそうだな、と思った途端に久里が差し出してきたのは日焼け止めだった。
「痛くなるから、ちゃんと塗った方がいいよ」
――前もそうだったのだろうか。
いちいち前のことばかり聞くのが憚られて、俺は黙ってその場で日焼け止めを塗りたくる。久里はもう塗ったのか、靴を脱ぐと靴下を丸めてその中に入れる。そうしてさっそく波打ち際に近づいていく。
波は遠目で見るより激しかった。引いていったかと思うと、思いがけない強さで打ち寄せてくる。
「泳いでもいいよ」
「服ないだろ」
「歩いてれば乾くよ」
笑う久里の顔が逆光になる。彼の背後では、子供たちが砂の城を作っていた。
俺も同じように裸足になって、波打ち際に近づく。でも、濡れるのが嫌であまり近づきすぎないようにしていた。
「おいで」
久里が手を伸ばしてくる。条件反射みたいに、つい手を取ってしまった。
「うわっ」
ぐいと腕を引かれて転びそうになった。そのまま久里の腕の中にすっぽりと抱き込まれてしまう。
「離せ……!」
真っ昼間で、人も多い。こんなところで大の男がじゃれていたら目立つ。でも、久里はなかなか離してくれなかった。
「転ぶ……!」
足を波が濡らしていく。俺がもがいても久里の拘束は強くて、びくともしなかった。
「はは」
「離せって……!」
俺たちはどんな二人に見えるのだろう。もとは恋人だった。でも今は違う。
そんなこと外から見ている人にはわからない。だとしたら、うかれたバカな恋人同士のように見えるんだろう。顔が暑いような気がするのはきっと日差しが強いせいだ。それ以外の理由なんて、わからなかった。
自動販売機で買ったサイダーは、喉が渇いていて一気飲みしてしまった。
「残念だな、ラムネ」
このあたりで、以前ラムネ瓶を買ったという古い店はなくなっていた。久里だけが飲まずに持ち帰ったらしい。
「うち帰れば一本だけ飲めるけどね」
夏の海は目に痛いほどまぶしい。さっきより少しだけ、太陽の位置が低くなってきていた。このまま浜辺で待っていれば、たぶん夕焼けも見れるのだろう。
一日が終わっていく。でも、何も俺は思い出せないままだ。
ラムネは買えなかった。同じように道筋をたどっても、俺はかつてとは違う。
「前に来たときは、この後は?」
「夕立にあった。ひどい雨で……ホテルに行った」
ちらと見せられた覚えのある写真のことを思い出す。久里はふざけて、盛り上がったというようなことを言っていた。
「行こう」
この間はキスだった。久里とセックスできるかどうかなんてわからない。でも、このままでは帰れないと思った。
「もうやめよう」
そう言ったのは久里だった。
「行こう、ホテル。行くだけだから」
俺は強引に久里の腕を引こうとする。形をなぞることは今からだってできる。
今の俺だって、できる。
「だめだよ」
波音が聞こえていた。焦っても、頭の中をいくらひっくり返そうとしても、何も記憶は戻ってこない。でも体の中に熱があることを俺は感じる。日差しを浴びすぎたせいだ。そう思おうとするけれど、日陰にいてもその熱は引いていかない。
「君がそんなことする必要はない」
海はリゾート地のような澄んだ色ではなく、少し灰色がかっている。でも、きれいな景色だと思った。
「君は俺のことなんて……」
「俺が、あんたのこと、好きになったのはわかる気がする」
俺は掴んだ久里の腕を放さなかった。俺はじっと久里の顔を見つめる。かつての俺も、こんな気持ちを抱いたのだろうか。困惑しながら、それでも彼に、触れたいと思ったのだろうか。
久里もまた、俺を見つめ返していた。背後を車が通り過ぎていく。
「……ここでキスしたって言ったら、どうする?」
唇が触れる。もっと早くこうしたかったと思った。
体の中が熱い。潮騒が頭の中を満たしていく。
「次は?」
久里はもう、笑っていなかった。
・
昔ながらの、古びたラブホテルだった。入り口にいた老女は、男二人を見ても何の関心もなさそうな顔で、金額を言った。
「行くだけだからって、言って……」
俺はベッドの上に押し倒されていた。
「君だって、それだけで済むとは思ってなかったよね?」
部屋も狭く、ダブルベッドがひとつ。海が近いのに、窓はなくて外は見えない。
久里は無理強いをしたわけではなかった。押し倒されたのだって弱い力で、ゆっくりだった。でも俺は、動けなかった。
触れてみたら、何か思い出すかもしれない。自分に言いわけを並び立てる。
――最初は、どうした?
久里の手もまた、俺の体を撫でた。シャツの合わせ目から入ってきた手が、俺の腰や、胸のあたりを撫でる。そうすると全身が震えた。
やっぱり、俺は忘れていても体は覚えているんだろうか。彼に触れられたときのことを。じりじりした熱で内側から溶かされていくような気がする。
「あっ」
久里の手が胸の先端に触れたとき、思わず声が漏れた。久里は胸の先を少し強いくらいの力でつまむ。
「ん……っ」
文句を言おうとした口は再び塞がれた。体に触れられている刺激だけが頭の中を埋め尽くしていく。
「……っ」
唾液が混ざり合い、口の端からこぼれる。ズボンの中の性器が痛いほどに反応していて苦しい。
そう思っていると、久里の手がズボンの上からそこに触れた。もうそれだけで俺は達してしまいそうだった。入院して以来、ろくに自慰もしていない。
「あ……っ」
ズボンの外から久里の手が俺の性器を刺激してくる。同時にキスをされて、頭がとろけそうだった。
「や……、あ」
久里は器用に片手だけで俺のズボンのホックを外す。先走りでもう下着を濡らしていることも隠しようがなかった。
そうして完全に下着も下ろされ、性器が外気に触れる。久里は自分の性器と俺のものとをあわせて握りこんだ。じんと強い快感が走る。
「あ……っ、あっ」
俺は必死に久里の背中にすがりついた。ぬめりがどちらのものなのか、重ねられてこすられ、熱くて仕方がなかった。そのまま強くしごき上げられると、もうだめだった。俺はあっという間に射精してしまっていた。
夜の電車は空いていた。明日も久里は仕事があるので、慌てて東京に戻ることになった。久里は、寝て翌朝帰ってもいいと言ったのだが、一人でホテルに残るのも嫌だった。
電車はわずかに揺れながら進んでいく。
「大丈夫?」
体には、まだ違和感があった。久里は俺の体調を気遣い、負担の強い行為はしなかった。お互いの体に触れあい、射精させあっただけだ。以前はどういうことをしたのか、詳細は怖くて聞けなかった。
「……ああ」
怖かった。でも嫌悪感はまるでなく、自然なことのように感じられた。
久里と付き合うなんて、今までの俺にとってはありえないことだった。
でも今になっては、そういうこともあったのかもしれないと思う。
変わっていった心の道筋が、まだ身体の内側に残っている気がする。きっと過去と同じように、久里に惹かれている。
「あ、花火」
ばん、という音がする。久里は立ち上がり、窓の外を見た。俺も慌ててその横に立つ。まばらな車内の乗客も、みんな同じように窓の外を見ていた。
花火はすぐに木々やビルに阻まれて見えなくなった。かと思うとまたぱっと視界が開けて、色鮮やかな光が目に飛び込んでくる。大きな円を描いて光が広がったかと思うと、瞬きながら消えていく。
「……好きだよ」
続けて小さな花火が打ちあがる。赤や青、黄色に空が輝いていた。久里は窓の外に目をやったまま、ぼそりと呟いた。
胸の中がざわざわして、理由もなく泣きたくなった。消えていく光に手を伸ばして、かき集めたいような衝動にかられる。
「こんなに幸せな夏はもう、二度とない」
電車はそのまま走り続け、じきに花火は見えなくなった。
翌日、俺は念のためと思って、バイト先の近くの店に壊れた携帯を見せに行った。
「派手にやりましたねぇ」
店員はあちこちを検分している。
「直りますか?」
「全体的にぼろぼろですけど、よくある破損ですよ」
三日後に受け取った携帯はあっけなく、電源が入るようになっていた。
俺はフォルダの中に、海に行ったときの写真を見つけた。でも、そこに一緒に写っていたのは山岸だった。
久里の姿は、どこにもなかった。