島の影が近づいてくる。この島から帰るときには、もう終わりなんだなと思いながら、白く泡立つ波を見つめていた。
「風強いな。寒くないか?」
「大丈夫」
小さな船だった。十人も乗ればいっぱいで、船頭のほかは俺たちしかいない。
潮風が荒く頬を叩く。静かな孤島での温泉旅行。それは本当なら、心躍るもののはずだった。
「ほら、でかい島だろ」
「そうだな、鬼ヶ島って感じ」
俺は適当なことを言う。だけど実際、島は物語に出てくるようなこんもりした、大きな岩みたいな形をしている。岩場の反対側は砂浜になっていて海水浴場として有名だったらしいが、それも昔のことらしい。今は温泉をメインに人を呼ぶ、ひなびた場所だという。
これが、これから一晩を過ごす島だ。そして同時に、俺たちの最後の一夜にもなるだろう。
彼はさっきから、携帯で動画を撮っていた。今のところは俺の恋人である、霧丘(きりおか)だ。年は一つ上だが、彼は一年留年しているので大学の年次は同じだ。
「それ、間違えて配信したりするなよ」
「するわけないだろ」
確かに、霧丘がそんなことをするとは考えにくかった。彼は人嫌いなのだ。今どき、SNSをやっていないクラスメイトは彼くらいじゃないだろうか。
だけどそんなところも、ミステリアスだと受け取られるのだからイケメンは得だ。
「だよな」
でも彼にSNSでもするくらいの社交性があったら、俺達の関係性はもうちょっと違っていたかもしれない。
「何のために、大して親しくないやつ相手にプライベートな動画を垂れ流すんだよ。どいつもこいつも自分を見てって虚栄心丸出し」
霧丘は吐き捨てる。
彼は、付き合いにくい男として知られていた。最初は外見のおかげもあって、様々な人間が彼に話しかけようとした。だけど、皮肉な言葉で追い返され、早々にみんな悟った。無理に付き合うような相手ではない、と。
俺だって別に彼と親しくなるつもりはなかった。俺は基本的にその他大勢に紛れていることに安心する、平凡な人間だ。
何の因果かこうして霧丘と付き合うようになったけれど、彼にはいつも振りまわっされぱなしだった。
「おっと」
船が島に着岸して揺れる。俺はバランスを崩しかけて、霧丘の腕に支えられた。
「ごめん、ありがと」
もちろん、彼にいいところがたくさんあることもわかっている。彼は人嫌いだけれど、自分の懐に一度入れた人間にはとても優しい。酒に詳しく料理も得意だ。凝り性なので、色々追求したくなるのだという。
「すごい……なんていうか、小さいとこだね」
「寂れてるって言えばいいだろ、誰も否定しない」
港というほどでもない、船着き場と小さな建物があるだけの場所だった。灰色のバンが止まっていて、そのわきにいた男性が霧丘に会釈をする。
「お荷物よろしいですか?」
「あ、お願いしまーす」
この旅行に誘ってきたのは霧丘だった。彼の親戚が昔住んでいたとかで、縁のある島なのだという。そうでもなければ正直、こんなマイナーな島にはなかなか来ないだろう。
走り出した車から見える範囲には、人が本当にいない。誰も出歩いていないのだ。過疎とは聞いていたが、ここまでとは思わなかった。
東京を遥かに離れた、自然に溢れた過疎の島。本当はもっと賑やかな場所がいい気持ちもあるけれど、まぁこれはこれでありだ。
だけどやっぱり、俺は浮かない気持ちだった。
俺たちの関係は終わりかけている。この旅行が終わったら霧丘とは別れると、俺はもう決めていた。
・
バンを運転している男性は、何かと歓迎の言葉を投げてくれたけれど、霧丘は愛想がなかった。いつものことだ。
店員に偉そうな男はモテない、という通説がある。霧丘は店員どころか、誰にでも偉そうで愛想がない。それでも一定数には好かれるのだから、結局顔じゃないかと言いたくなる。
霧丘は服装もいつも適当なシャツとズボンだし、髪もラフにしている。それでも背も高いし、何をやっても様になる。だが整った顔立ちに笑みが浮かぶことはほとんどない。
たまたま授業で関わりを持ち、ちょっとしたトラブルの結果として付きまとわれるようになり、押し切られて俺は彼と付き合い始めた。楽しいことがなかったとは言わないが、色々ひどい目にもあった。
だけどそれも、もう終わる。
「付きました、お忘れ物ないようにお願いします」
旅館は昔ながらの日本家屋で、どっしりとした建物だった。運転手の男性は俺たちの荷物を持ってそのまま中に入っていく。
他のスタッフの姿は見えなかった。俺たち以外に宿泊客がいるのかどうかもわからない。古びた建物の中は、やたらとしんとしている。
歴史のある宿のようで、案内された部屋もゆったりとした和室だった。ちょっとした部活の合宿くらいできそうだ。
「わー、広い」
「何もねぇけどな」
そう言って霧丘は携帯を充電し始める。SNSが嫌いな割に、彼は動画を撮るのが趣味で、いつも携帯を手放さない。誰にも見せない動画を、ひたすら撮り貯めている。
部屋の窓から海は見えなかったが、潮騒は聞こえていた。窓の外にやっぱり人影は見えない。何だかちょっと不気味だ。
「夕飯七時だから、近く散歩するか、風呂入るか?」
「うーん、ちょっと休みたいかな」
不便なところだし、散歩といってもこれといって名所があるわけではない。部屋に置かれていた古びたパンフレットには、稚児が身投げをした岩ぐらいしか載っていない。海はどこからでも見えるが、それだけでは人は呼べないのだろう。
俺は携帯を手に取る。
「あれ、圏外だ」
「wifiあるだろ」
「電波入んないの!?」
「場所によるらしいけどな。まぁwifiあればいいだろ」
そう行って霧丘は、テーブルの上にあった紙を俺の方に差し出す。そこに書かれていたのはwifiのパスワードだった。
いくら島とはいえ、さすがに圏外だとは思わなかった。だけど住んでいる人口からしたら仕方がないことなのかもしれない。
「俺、こんな田舎初めて来たよ。ばあちゃんちだってもっと都会だ」
「そうだろうな。いくらじじばばでも何もこんな辺鄙なとこに、好き好んで住んだりしない」
「いや、でもずっと前から住んでる住人の人はいるだろうけど……」
「あいつらだって金と機会さえあれば出てきたいだろ。こんな島に未来がないことは誰だってわかる」
でも、この島を愛してずっと住んでいる人だっているのではないかと思った。
霧丘は誰に対しても、何に対してもこの調子だ。相手の間違いを見つけると、ここぞとばかりに叩くし、すぐに人を見下す。
彼は恵まれた外見と、賢い頭を持っている。だけどそれだけじゃなく、もうちょっと思いやりを持って欲しかった。
俺は、彼といることには向いていない。彼がすべて悪いなんて言うつもりはない。今のままの彼と一緒にいたいと言う相手はきっといるだろう。
それは俺じなゃいというだけだ。
「食事、七時だっけ」
俺はやっとwifiに繋がった携帯を手にする。母からの連絡が来ていた。この旅行のことは、離れて暮らす母には言っていない。
そもそも、大学で同性の恋人ができたことも話していない。実家に戻る時には、もう彼とは別れているのだから、今のところその必要もないだろう。正直なところ、言いやすい話でもなかった。
「俺、母さんとちょっと話してくる」
「別にこの部屋の中で話せば」
「いや、外行くよ。ついでに一風呂浴びてこようかな」
霧丘が何か言いたがっていることはわかった。だけど、俺は逃げるように部屋を後にした。
俺は大学卒業後、実家に戻るつもりだった。俺の実家は青森だ。霧丘は実家のことを話したがらないからよくわからないけれど、東京に居続けるとは聞いていた。俺は彼から、原発マネーがどうだとか田舎はありえないとか、故郷を皮肉る言葉を散々聞かされた。
俺たちはこのまま離れるし、もう無理だ。
「母さん? うん。大丈夫。いや、その頃は新幹線も空いてるから大丈夫だって」
母は実家の俺の部屋を掃除したと話す。地元には高校時代の友人もたくさんいる。実家に住めば家賃を払う必要もないし、仕事さえあるならば暮らしやすい場所だ。そして俺は、父の知り合いの会社に入れてもらう予定だった。田舎ではコネがものを言う。
「うん、今ちょっと友達と遠出してる。明日には帰るから。じゃ」
俺はあえて、島に来ているとは言わなかった。言ってもよかったのだが、母に言ってもぴんと来るような場所ではない。
顔を上げると小高い山が見える。こんな気分のときじゃなかったら、ハイキングをするのも気持ちがよかったかもしれない。今はとても、そんな気分にはなれなかった。
・
夕飯を運んできたのは、あの運転手の男性だった。他にこの宿のスタッフはいないのだろうか。まさか彼が料理までしているとは思えないけれど。
刺身を中心にした、豪華な料理だった。日本酒も注文して、俺は緊張を和らげるため、いつも以上に飲んだ。そうでもしないと、ちゃんと別れ話を切り出せなかった。
「俺、やっぱり霧丘とは一緒にいられないよ。実家に戻る。遠距離なんて無理だから、別れるしかないと思う」
二本目の徳利が空いた頃、俺はようやく口にした。だけどちゃんと口にしたのが今日だというだけで、霧丘だってわかっていたと思う。
最近の俺たちは週に一度も顔を合わせていなかった。会ってもセックスしない日も増えた。霧丘はますます皮肉を言い、俺は霧丘の言葉を聞き流すばかりになっていた。
「楽しい旅行の最中にこんな話してごめん。でも、島から戻ったら別れよう。霧丘、聞いてる?」
宿に備え付けの浴衣に着替えた霧丘は、つんと整った横顔を見せる。
「面倒くさいお荷物は捨ててママのとこに帰るんだろ? そんで面白みもない田舎で同級生とくっついてぽこぽこガキ作って」
「霧丘」
「わかった。この島から帰ったら、さよならだ」
彼も予想していたからなのだろう。慌てたり、怒ったりする様子はなかった。もっともプライドの高い彼が、俺如きから別れを切り出されたからといって、慌てるとは思えなかったけれど。
だけど霧丘には、何を言い出すかわからないところもある。どうにか円満に別れがまとまりそうで、俺はほっとしていた。
「うん、ごめん。ありがとう」
彼のことが、大嫌いになったというわけではない。うんざりすることも多い。もっと丸い性格になってほしいとも思う。だけどその全部が彼であることもわかっている。変わってほしいと思ってしまう時点で、もう駄目なのだろう。
霧丘の皮肉っぽい言葉は、一部真実でもあった。田舎に帰ったら、両親からきっと結婚はしないのかと言われるだろう。見合いをしろと言われたら、断り切れないかもしれない。
俺は、霧丘を両親には紹介できない。男だからというだけではない。彼は傍若無人な態度を取って、人のいい両親は彼を受け入れられないだろう。目に見えるようだ。かといって俺は、霧丘の手だけを取って二人きりでずっと東京で暮らし続けるつもりにもなれない。
だから、この別れは仕方がないのだ。
この地方の地酒だという日本酒は、舌にぴりりとくるような辛さがあった。気まずさを誤魔化すように、俺は酒を飲み続けた。
・
ともすると酒を飲み続けたまま日付を越えてしまいそうだったけれど、せっかく温泉宿に来ているのだ。一度も入らないわけにはいかなかった。
そうだろうと思っていたが、やっぱり大浴場には俺たちしかいなかった。本当に今日の宿泊者は俺たちだけなのかもしれない。ごつごつした岩場に囲まれた、こぢんまりとした温泉だった。
「ほんっと静かだね」
「人がいないほうがゆっくりできるだろ。猿洗いみたいな風呂はゴメンだ」
人嫌いな霧丘らしかった。だけど実際、湯船を独占できるのは悪くない。外は真っ暗で景色は何もわからなかったけれど、夜風が顔に心地良い。
俺がぼんやりと外を見ていると、霧丘が後ろから手を伸ばしてきた。
俺はそっと、体が触れないように逃れようとする。だけど霧丘はそれを許さなかった。
「いいだろ、この島にいる間はまだ、恋人だ」
そのまま絡め取るように、キスをされた。既に酒と温泉とで体温はずいぶん上がっている。
「ここでするか?」
唇を離すと、霧丘は言った。ともするとこのまま流されてしまいそうだった。だけど、今は誰もいないとはいえ、本当に他の客が来ないという保証もない。
「ここは嫌だよ」
「やったら興奮するくせに。まぁいい、じゃあ上がったら部屋でだな」
温泉に二人で来たら、そういうことになるかもしれないとは思っていた。だけどもう別れるのに、セックスする意味は何だろうか。
「何だよ、いいだろ。最後のセックスなんてめちゃくちゃ盛り上がるぞ」
「最後……」
「そう」
霧丘の口調はあっけらかんとして聞こえて、俺は少しだけ肩の荷が下りるのを感じる。
彼を嫌いなわけじゃない。そうじゃないのに、どうして俺は彼を選べないのだろう。外の闇に慣れてきた目に、わずかに山のシルエットがうつった。
温泉から上がって部屋に戻り、俺たちは髪も乾かさないまま交わった。
あたりは静かすぎて怖いくらいだった。自分の嬌声がやけに大きく聞こえる気がして恥ずかしい。
彼はじっくりと時間をかけてしたいみたいだった。最後だと思うと、すべてが名残惜しかった。胸が苦しい。もう彼を受け入れるのは何度目かわからないのに、彼が中に入ってきたときに、泣きそうになった。
「やっ、ああ……っ」
この熱も、においも、全部最後なのだ。彼の言った通り、そう思うと俺の気持ちもひどく盛り上がって、どこもかしこも感じた。
切ないけれど、これでよかったのだ。俺たちは、きっと前を向いてきれいに別れられる。そう思った。
・
翌朝、やっぱり同じ男性が部屋に朝食を持ってきてくれた。昨日の夜、激しくセックスしたせいかまだ体がじんわり熱を帯びている気がする。
ぼんやりした頭のまま、焼き魚や卵焼きの朝食を食べる。
外は晴れているみたいだった。帰りは行きの時と同じく、地元の人が船を出してくれると聞いている。その時間はチェックアウトに合わせて、十一時だと聞いていた。
宿泊料は俺も払うと言ったのに、旅行先をここにしたのは自分だからと霧丘は言って、一円も受け取ろうとしなかった。
チェックアウトの準備をしているとき、ふいに霧丘が言った。
「もう一泊してかないか?」
「え?」
「帰ったら終わりなんだし、もう一日ぐらいいだろ。どうせ別にそんな忙しいわけじゃないだろ?」
「そうしたいけど、でも、帰らなきゃ」
俺にだって予定がある。そろそろ実家に帰るために、東京の家の荷物もまとめないといけない。
「そうか」
霧丘がそんなことを言い出すなんて意外だった。俺としては、気持ちよく別れ話をまとめられたと思っていたのだ。正直なところ、なぜ今更という気持ちだった。
霧丘のような男でも、名残惜しさを感じるのだろうか。
意外なことは他にもあった。帰り道は、あの男性スタッフが車を出してくれなかったのだ。なぜか宿代の支払いが終わると、もう彼はいなかった。
「え、歩くの……? 他に交通手段なんてないよね」
「仕方ないだろうな。こんなとこバスもないし」
まさかという気持ちだった。急ぎの仕事でもあるのかもしれないが、だけど俺たちは恐らく昨夜の唯一の客だ。見送りくらいしてくれてもいいはずだった。俺はちらと昨日、彼が車を停めたあたりを見たけれど、バンは見当たらなかった。
あの小さな港から、車で十五分ほどだっただろうか。歩けない距離ではないが、積極的に歩きたいわけでもない。
さっきからまた、霧丘は携帯で動画を撮り始めていた。いつものことだから俺は気にしない。
「じゃあ、早く行かないと。船の時間に遅れる」
「俺たちだけなんだから、どうせ待ってくれるだろ。なぁ、渉。本当に、もう一泊しないのか」
「しないよ」
苛立ってきて、俺は少し冷たく言ってしまった。だけど、スタッフだっていないのだ。こんなところからはなるべく早く離れたかった。
俺たちはもくもくと道を歩いた。歩いて行く間、やっぱり誰にも行き会わなかった。車の一台もない。民家が点在はしているから、人が住んでいないわけではないはずだ。だけど、まるで誰も彼も死に絶えてしまったかのように感じた。
俺は、授業の課題で見た映画のことを思い出す。ゾンビの蔓延した世界の中で、一人きり残された男が戦う物語だ。男はひたすらに孤独だった。
足早に歩いた甲斐があってか、俺たちが港に着いたのは十一時五分前だった。
「間に合ったー」
俺は安心して荷物を下ろす。つい携帯を見てしまったけれど、忘れていた。ここは圏外なのだ。wifiもない。
海を見てこんなに安心するとは思わなかった。船はすぐに来るはずだ。だけどそのまま、五分が過ぎ、十分が過ぎた。
「あれ……船って遅れることあるのかな」
「あるんじゃないか」
やけに投げやりに、霧丘は言う。普段の彼なら口汚く罵りそうなものなのに。
海を見ても、どこまでも同じように続いているばかりで、船が近づいてくる様子は見えない。波が荒かったら船が近づけないことはあるかもしれない。だが、空は晴れていてそんな様子にも見えない。
「もう時間だけど」
「そういう日もあるんだろ。おっさんたちが寝坊でもしてんじゃないか」
「もしかして、何かあったんじゃ……」
携帯は圏外だから通信できない。宿に戻ればwifiが使えるはずだが、ここを離れたらその間に船が来るかもしれない。
そうして俺たちは船を待ち続けた。だけど、三十分が経ち、一時間が経っても船がやってくる気配はなかった。さすがにおかしい。
「電話を借りて、連絡できない?」
「一旦宿に戻るか。そこで連絡しよう。どうせ田舎者だから、時間にルーズなんだろ」
「ルーズってレベルじゃないよ」
荷物を持って道を戻るのは嫌だった。だけど、他にどうしていいかわからなかった。
また道を歩いて宿に戻ると、俺たちが出たときそのままの状態に見えた。やはりバンもないし、スタッフの男性もいない。
「ごめんくださいー」
俺は携帯を手にしたけれど、やはり圏外のままだった。wifiに繋ごうとしたが、電波が見当たらない。
「あれ、wifi通じない……霧丘の方は?」
「いや、だめだ」
何かが変だった。どうして霧丘は、焦っていないのだろう。動画を撮っているのはいつものことだけれど、こんなときにまでなぜ、回し続けているのだろう。
「もうそれやめて、ちょっと真面目に考えてよ」
霧丘は、あまり帰りたがっていないようだった。もう一泊しないかとも言っていた。もしかしたら彼は、この状態を歓迎しているのかもしれない。
そう考えると嫌な予感がしてくる。船を出してくれる人と連絡を取っていたのは霧丘だ。もしかしたら彼は、そもそも今日でなく明日、迎えに来てくれるよう連絡したのではないか。宿のスタッフの男性は、きっと普段仕事がないときは別の場所にいるのだろう。
そう考え始めると、そうとしか思えなくなってきた。
「俺はここにはもう泊まりたくない、東京に帰る」
「そうだな」
心ない口調で霧丘は言う。全然俺の言葉を真に受けていない彼の様子に、さすがにかちんとくる。
「お前のせいなのか、霧丘?」
「何だよ、俺は何も。迎えが来ないならしょうがないだろ」
霧丘は大げさにおどけたジェスチャーをしてみせる。
「しょうがないわけない。お前は人の時間を奪う相手が大嫌いだっただろ」
普段の彼だったら、ひどく苛立って相手を罵っているはずだ。こんなに余裕たっぷりなのはおかしい。
宿の男性は、呼べば来てくれるのだろうか。そもそも彼一人しか、スタッフはいないのか。
「カメラ、止めろよ」
「別にいいだろ」
「ほんとに緊急事態だったら、それどころじゃないだろ。電池だって貴重なんだし」
「バッテリーは持ってる」
「そういう問題じゃない!」
この島のことは、霧丘から聞かされて知った。俺はそれまで、この島の存在さえ知らなかった。
宿の名前も知らなかったし、船を出してくれた男性の連絡先ももちろん知らない。
「別にのんびりすればいいだろ。まぁどうせ俺は、向こうに戻ってもすることないし」
「……就活は」
「しないって前に言ったろ。自分の時間をわずかな時給のために売り払うなんてうんざりだからな」
どうせ彼なりの強がりなのだろうと思って、過去の俺は聞き流していた。
自分だけが就職先を決め、自分の都合で実家に戻り、別れる直接の原因を作った負い目もあった。だから、就活をちゃんとした方がいいなんて訳知り顔なことは言えなかった。
「恋人には愛想尽かされるしな」
自虐的に言いながら、彼の口調はやけに軽い。
「愛想つかしたわけじゃ……」
「この島から戻ったら、別れるんだろ。ほら、いつまでも玄関いても仕方ないだろ。昨日の部屋に戻ろう」
霧丘は俺の荷物を持ち、そのまま宿の中に入っていこうとする。まるで、スタッフなんて来ないことをわかっているみたいに。
「霧丘!」
実家に帰るかもしれない、という話を初めてしたのは一ヶ月ほど前のことだった。あのとき、彼は怒るかもしれないと思った。彼は俺に対して、基本的に優しい恋人だったけれど、頑固で、絶対に自分の希望を曲げなかった。
だけど彼は拍子抜けするほど何も反応を示さなかった。「へぇ」というくらいだった。
俺が動かないことを悟ったのか、霧丘は呆れたように言った。
「わかってる。お前のせいだからな」
「何言ってんだよ」
この島に来ることも、宿も日程も全部彼が決めた。
船にも宿にも、他の客はいなかった。この宿も船着き場もぜんぶ、やたらとぼろぼろだった。家はいくつか見かけたけれど、人の姿は見ていない。
そう、たった一人も見なかった。俺たちの世話をしてくれた、あの男性を除いては。
「この島は、何なんだよ。なんで人がいないんだ」
「無人島だよ」
霧丘はあっさりと言った。ふざけているのかと思ったが、彼は笑ってはいなかった。
「は? いや冗談やめろよ」
「俺の持ち物なんだ。正確に言うと、最近無人島になったばっかりだ。この旅館が閉まったのは、三ヶ月前。残ってた人には金を払って出ててもらった」
淡々と語る霧丘の様子に、背筋に冷たいものが流れる。冗談だろう。そうだと思いたい。
だけどもし彼の言うことが事実なら、振り切って逃げたとして、この島から脱出はできるだろうか?
歩いて五分でコンビニに行ける都会とは違う。ここは絶海の孤島だ。
wifiが使えないなら、携帯は何の役にも立たない。俺は慌てて宿の受付に置いてある電話を手に取る。つーという音しか聞こえなかった。
「もちろん、通信手段はない。くだらないSNSもできない。よかっただろ」
「な、んで、そんな……宿の人は?」
島まで来るのに船に乗っていた時間は一時間ぐらいだった。俺は泳ぐのは得意でもないし、船がなくてはとても戻れないだろう。
「お金払って、従業員役をやってもらった。船の人もそう。もう本土のほうに戻ってる。youtubeの企画で、しばらくサバイバル生活を体験するんだって話してある。それだけで納得してくれんだからバカだよな」
小さな船着き場に、俺たちが乗ってきた以外の船はひとつもなかった。彼の様子からして、この島の中に他の動く船が残されているかどうかは怪しい。
「とりあえず、時間はあるんだ。部屋戻って温泉でも入ろう」
どうやればここから脱出できるのか。のろし? SOS? 誰がこんなところに通りかかる? 連絡がつかなければ両親や友人は心配するだろう。
だけど、俺は霧丘と付き合っていることを誰にも言っていない。だから、今回の旅行の行き先も、誰にも話していなかった。昨日の電話で母に言えばよかった。友人とこういう島に来てる、と言うだけでよかったのだ。でも霧丘のことを説明できない後ろめたさで、俺は何も言えなかったのだ。
「あ、飯はあるから心配するな。うまいもん作ってやるよ。最後のセックスだって悪くなかっただろ? また何度だってできる」
風情ある場所への最後の旅行は、少し気まずいけれど、思い出になっていいかもしれないと思っていた。最後のデート。最後のセックス。昨日の夜だって、気持ちが引きずられるのが怖かったけれど、最後だからと思った。俺だって盛り上がった。
好きだけど、もう終わるはずだった。
彼は笑った。
「この島にいるうちはまだ、恋人だもんな」