0
俺は橋を渡るため、一歩を踏みだそうとした。だけど、足が動かなかった。
「早く行きなよ」
「……嫌だ」
背後から急かすように言われて、理由もわからず俺は言い返す。
白い霧が視界を邪魔している。橋の向こうはそのせいで見えない。だがそこには、隣町があるはずだった。俺の暮らす町と大して変わらない、退屈な町が。
「そうやって、すぐ逃げる」
誰の声だっただろう。すごく懐かしいような気がする。でも思い出せない。
「なっ……何がわかんだよ」
「わかるよ」
男は断定して言う。
「ずっと見て来たんだ、だからわかるよ」
ずっとって何だ。わかるはずがない。苛立ちに駆られて振り向こうとしたとき、ふっと目前の霧が途切れて、思わずそちらに目を奪われる。
「あ……」
橋の向こうには隣町があるはずだった。
だが霧が晴れた後、そこには何もなかった。
何もない。
町が壊れたとか、そういうわけじゃなかった。ただ、何もないのだ。
「だってさ、ここから先――知らないでしょ?」
俺の足のほんの数メートル先には、ただぽっかりと、暗い空洞が広がっていた。
「な、んだよこれ……!」
そんなことあるわけがない。「町がない」なんてことはありえない。なのにどれだけ目を凝らしても、そこにはただ茫漠とした闇だけが広がっていた。
まるでそこだけ神様が作り忘れたみたいに。
もしこのまま歩いていって、そこに足を踏み出したらどうなる? 考えただけでどっと冷や汗が出てきた。
「……っ」
よろめいた俺の腕を、後ろに立っている男が掴む。
俺ははっとして振り向いた。男は険しい表情をしていた。背の高い、若い男だ。ちょっとびっくりするくらい整った顔立ちをしていた。
「こんなところにいちゃだめだ、早く帰って」
懇願するようなその声に、異様なほど真剣なものを感じる。だが俺にはわけがわからない。
「な、んなんだよ、お前……」
ふと橋の方で何かが動いた。反射的に目をそちらに向けた俺は、絶句した。
動いていたのは、橋そのものだった。古いとはいえ、コンクリートの橋だ。それが、ぽろぽろと崩れ落ちている。まるで最初からおもちゃのブロックでできていたみたいに。
「は……?」
このままだとすぐに橋全体が崩れる。俺たちが立っているところだって危ない。だが、男は俺の腕を掴んだまま、動こうとしない。
「離せ!」
早く逃げないと、この橋は完全に崩れる。男だって無事じゃいられないはずだ。だが、彼が逃げようとする気配はなかった。
「お前も逃げろよ!! 早くしないと!」
「ごめん」
今にも泣き出しそうな声だった。
男は何か持っている。小さな銀色の刃。何をやってるんだ、こいつは。早く逃げないと橋が崩れるっていうのに。
「え……?」
何が起きたのか、俺にはよくわからなかった。鈍い衝撃があった。じわりと腹のあたりが暖かくなる。
俺は自分の腹と、男の顔とを交互に見る。男はほとんど泣き出しそうだった。
橋はそのときにも音を立てて崩れ続けていた。
「う、ああ……っ」
腹を押さえた俺の手は、いつの間にか赤黒く染まっていた。遅れて全身を襲ったのは痛みだった。体中を思い切り殴られたような、強い痛みが身体を襲う。
痛い。とんでもなく、痛い。
「っ、痛ぇ……っ!」
俺は腹を必死に押さえるけれど、勢いをもった血がどんどん噴き出してくる。信じられなかった。刺されたのだ。
どうして。
「ごめん……」
男の手からナイフが落ちる。
橋はもうほとんどすべてが崩れ落ちようとしていた。その崩れたかけらが、宙に舞っている。それはもうコンクリート製の、橋のかけらではなかった。
舞っている――蝶だ。橋は崩れた先から青白い蝶になり、空へ舞い上がっていく。橋だけじゃない。遠い家並みが、俺が知っている町のすべてが、細かな破片になって崩れ落ちていく。
蝶は群れることもなく散り散りに、真っ暗な空へと散っていく。足元の地面から舞い上がる蝶のせいで、男の顔が見えない。
気がつくと俺の血で濡れた服も、汚れた指先も、ぽろぽろと崩れていく。崩れた先から蝶に変わり、舞い上がっていく。
――ああ、これは夢だ。
何もかもが闇に呑まれていく。俺も男も、俺が生まれ育ったこの町のすべても。暗い空洞がすべてを覆い尽くしていく。
「ごめんね、かずくん」
懐かしい声のはずなのに、どうしても俺は彼の名前がわからなかった。
1
目覚まし時計の音で、俺は目を覚ました。まだ眠り足りないのか、頭がぼうっとする。自分が誰で、ここがどこだか、一瞬わからなくなる。
ぼんやりした視界に、白い天井とロックバンドのポスター、青いカーテンがうつる。
そうだ、ここは俺の部屋だ。
「和也! 起きてるの?」
扉の向こうから母の声がする。枕元の時計を見て、俺はしぶしぶ身体を起こす。もう起きないと遅刻する時間だった。
「和也!」
カーテンを開けると、眩しいほどの日差しだった。
「遅刻するわよ」
「わーってるよ」
寝間着のまま台所に行き、トーストを焼く。電子レンジにかけるのが面倒で、冷めた紅茶をそのまま飲んだ。居間のテレビは朝のニュースを流し出している。
母は洗面所と寝室をばたばたと行き来していた。
いつも通りの朝だ。兄が家を出ていき、父も四国に単身赴任しているので、俺は母と二人で暮らしている。母は今日はプレゼンがあるとかで、珍しくスーツを着ていた。
「ねぇこれ変じゃない?」
「変」
「やめて!」
母親のスーツ姿は見慣れなくて、変としか言いようがなかった。でも年齢の割に太ってもいないし、スーツはまぁ似合っていた。
焼けたトーストをそのまま紅茶で流し込み、俺は部屋に戻って慌ただしく着替える。
部屋の隅にあるエナメルバッグが目に入った。部活名が入ったそれを横目に、俺は学生カバンだけを手に取る。
「行ってきます」
母の返事を待たずに家を出た。
高校までは徒歩で十五分、走ればその半分だ。気温は低く、息が白くけぶる。でも朝練に参加していた頃はもっと寒かった。家を出るときには、まだ空が真っ暗だった。
街路樹は葉がもうすっかり落ちていた。いつも見かける猫が道端で身繕いをしている。ふと、今日見た夢のことを思い出した。
どんな内容だったのかは思い出せない。ただ、悪夢だったのは確かで、なんとなく嫌な感覚だけが残っていて気持ちが悪かった。
チャイムが鳴る。やっと昼休みだった。俺はクラスの友人たちと、パンだけの簡単な昼食を済ませる。話題は受験のことばかりで、休み時間だというのに気が休まらない。なんだかやけに眠気を感じた。
「悪い、俺寝るわ」
「余裕じゃん高本」
俺は机に突っ伏して、昼寝の体勢を取る。眠いはずなのに、教室はざわざわとうるさくて眠れない。
俺の席は窓際なので、校庭ではしゃぐ声も聞こえてきた。一年前は、俺もあそこにいた。時間を惜しんでボールを追っていた。朝練、昼休み、放課後練。今思えばどうしてあれほどと思うほど、サッカーばかりしていた。
――やりてぇな。
眠いはずなのに、眠れない。きっと見知ったサッカー部の後輩たちもグラウンドにいるはずだ。もう俺の同級生は部を引退しただろうか。さすがに一月だ。
……俺が辞めたのは去年の四月だった。
今でも間違ったことをしたとは思っていない。でも、誰も俺に着いてはこなかった。
悩むのは苦手だ。今までずっと、考えるより先に動くことで解決してきたから、どうしていいかわからなくなる。
あっという間に予鈴が鳴る。結局ろくに眠れなかった。俺は机の中から、次の授業の古文の教科書を取り出した。
「そういや高本、関口って覚えてる?」
前の席の本田が、唐突に振り返って言った。
「何だよ急に」
「サッカークラブで一緒だったやつ」
その名前を聞いたのはあまりに久しぶりだった。そういえば本田も小学生の頃に一瞬だけ、同じサッカークラブに入っていたことを思い出す。
「三つくらい下だっけ? いつも泣いてて。お前仲良かったじゃん」
「覚えてるよ、翔だろ」
「あ、たぶんそう」
翔は名前の割に走るのが遅かった。球技自体が苦手らしく、ろくにドリブルもできなかった。
「妹があいつと同じ中学なんだけど、連絡先知らないかって聞かれてさ」
それでも、引っ越す直前まで根気よくサッカークラブを続けていた。もう三年以上も前のことだ。両親が離婚して、母方に引き取られて引っ越していった。
「本人に聞けばいいだろ」
「高本、仲良かっただろ?」
確かに翔の携帯くらいは知っている。でも、わざわざ兄の知り合いに聞くなんて、遠回り過ぎる。
「ファンクラブとかあるらしいよ」
「はぁ? 誰に」
俺は思い切り素っ頓狂な声を上げてしまった。
「だから、関口に」
「嘘だろ」
「他校の子とかにも告られたりすんだって」
翔のことならよく知っている。俺より三歳年下で、細くて白くてひょろひょろしていて、気弱で泣いてばかりいた。誰か別人と勘違いしているんじゃないだろうか。
「翔が?」
「そうだよ」
教師が教室に入ってきて、本田が前を向く。それでその話はそれきりになった。
冗談としか思えなかった。だって、あの泣き虫だった翔だ。
思えば、翔とはもうずいぶん会っていない。
隣町に引っ越していった後も、翔からは何度かメールが来ていた。他愛ない近況報告や、また遊ぼうという積極的な誘いまで、何度もあった。
でも俺は、ただの一度も返信しなかった。
・
グラウンドを整備している野球部を横目に、俺は足を早める。乾燥した空気に埃が混じって少し煙たい。今日も予備校だった。
「高本先輩、お疲れ様です!」
サッカー部には見つからないように、と思っていたのに声をかけられる。いつの間にか俺に並ぶように歩いていたのは、後輩の池谷だった。
「お疲れ」
俺は極めて何でもない態度で答える。池谷は練習着姿だった。もちろんこれから部活なのだろう。
「どうすか、最近」
すぐに立ち去ればいいのに、世間話のつもりなのか池谷は話を振ってくる。どうもなにもない。受験を控えた受験生に、楽しいことなんてあると思っているのだろうか。
「まぁまぁ」
俺は曖昧に答えた。
「大変ですね」
大変なのは残された部員だって同じだろう。だが、俺は曖昧に笑うことしかできない。
「最近、外部のコーチに来てもらおうって探してるんです」
「へぇ」
「半田の知り合いでいい人がいるかもしれなくて……」
池谷ははきはきと喋った。なんでまだ俺にこんなことを話すのだろう。俺はもう、ずっと前に部をやめた身だ。
「選手権も終わって、先輩たちもみんな引退したんで、高本先輩もよかったらまた遊びに……」
「ごめん俺、予備校だから」
「あ、すみません。がんばってください!」
俺は振り返らず、足早に校門を出た。そっけない態度過ぎただろうか。
池谷が悪いわけじゃないことはわかっている。でも彼だって、俺が同級生たちを敵に回したとき、何も言わなかった。先輩らの横暴に怒っていたはずの後輩たちは、俺の味方にはなってくれなかった。
「あー」
そうか、もう三年生もみんな、部活をやめたのか。もしあのまま部活を続けていたらどんな気持ちだったのだろう。今よりも、すっきりした気分でいられたんだろうか。
俺は行き場のない思いを抱えて、思わず空を仰いだ。雲一つない寒空だった。
受験前の予備校はぴりぴりしている。講師もそうだ。気が引き締まるとは言えるが、そういう空気は苦手だった。
俺は帰りの電車の中で参考書を開く。……勉強は向いていない。昔から身体を動かすのが好きで、時間を忘れて外で遊んでばかりいた。
でももうそんなことは言っていられない。センター試験までもうあと一週間もない。
〝がんばってください!”
池谷の声が蘇る。どうせ頭に入ってこないので、俺は参考書を閉じた。
〝正義の味方きどりかよ。迷惑なんだよ”
俺は無力でちっぽけだ。いくら向いていなくてもこつこつ受験勉強をして、志望校に受からないといけない。そうでないと、予備校代を出してくれている両親にも申し訳ない。
電車を降りると、人の姿はまばらだった。俺は家までの暗い道を足早に歩く。
空気がきんと冷えていて、耳が痛い。息をするたび、白く目の前がけぶる。ひどく寒い夜だった。早く風呂に入って、今日の授業の復習をして、それから寝よう。とにかく寝てしまえば何とかなるものだ。
家の前に誰かいると気づいたのは、かなり近づいてからだった。
「親父?」
他に思い当たらなくて、俺は思わず口にした。父とはもうしばらく会っていない。前にも突然家に帰ってくることがあったから、今日も脅かすつもりなのかと思った。
「傷つくなぁ、さすがに親父ではないよ」
だが、答えた声はまるで違う男のものだった。
父よりも背が高い。どこかで見たことがある顔のような気がする。でも、誰だかわからなかった。
「あ、すみません」
俺はとっさに頭を下げる。
「久しぶり、かずくん」
「え?」
街灯に照らされた男の顔立ちは、ちょっと見ないほど整っていた。見覚えがあるような気はするが、こんな知り合いはいないはずだ。テレビか何かで見たのかもしれない。
「どちら様ですか?」
警戒する俺に、男はにっこりと甘く笑いかける。なんだか演技っぽい笑いだと思った。男は高級そうな黒っぽいコートを着ていた。
「俺のこと覚えてない?」
男は笑ったまま、自分自身の顔を指差す。
たぶん二十歳くらいだろう。同級生の兄だろうか。それともサッカー部のOBか。年上の知り合いといったらそれくらいしか思い浮かばない。精一杯記憶の中を探したが、男とは初対面としか思えなかった。
「すみません……」
男はにこにこしたまま、それ以上を答えようとしない。
「どちら様ですか」
「わからない?」
わからないから聞いているのだ。俺はだんだん、この得体のしれない男に苛立ってくる。
「知りません」
思わず冷たく答えてしまう。だが、男は気分を害した様子もなく笑ったまま答えた。
「俺、翔だよ」
「は?」
今日、本田と彼の話をしたばかりだった。確かに翔は背が高かった。
だが、この男が翔であるはずがない。
「翔のお兄さんですか?」
翔は俺より三歳年下なのだ。男はどう若く見ても、十五歳には見えなかった。
「だから、翔だよ」
男は笑ったまま平然と言う。優しげな目に泣きぼくろ、少し茶色っぽい柔らかそうな髪……確かに男の爽やかな顔立ちには、翔の面影があるような気がする。そういえば本田も、翔がモテるようなことを言っていた。
いや、だけど年齢は別だ。いくら成長しようと、歳までは変えられない。
「あの、俺の知り合いの翔のことなら」
「年下だよね?」
男はちゃっかりそのことも知っているらしい。やたらと先回りするその態度にイライラする。まるでこっちをただの子供だと決めてかかっているみたいだ。
「そうだよね」
俺はもうこの男と話すのが嫌になりつつあった。
一体どこから俺と翔が知り合いだということを聞いたのか知らないが、意地が悪い。こんな風に家の前で待ち伏せしていたのも気に入らない。
「びっくりするよね」
「あの、俺忙しいんで」
「受験勉強で?」
いちいち何でも知っているような男の言い方が、本当に癇に障った。
「何なんですか!」
だが俺が声を荒げても、男はまるで動揺した様子もなかった。
「あはは、ごめんごめん」
そう言って笑っている。
このまま無視して家に入りたい。だが、母はまだ帰ってきていないはずだ。男の目の前で鍵を出して、家のドアを開けても大丈夫だろうか。力づくで侵入しようとしてきたらどう抵抗したらいいのか。俺が真剣に検討していると、男はまた甘ったるい声で言った。
「落ち着いてよ、かずくん」
鳥肌が立った。そのくらい、言い方が翔そっくりだった。
「いい加減にしてください!」
だがこいつは翔ではありえない。気持ちが悪い。
「かわいいなぁ」
男はまだあの嘘くさい笑みを浮かべていた。何もかも芝居がかって見えて、余計にイライラした。
「偉いよね、苦手な勉強、ちゃんとやってて」
男は笑いながら言う。
「でもどうせ、かずくんは受験なんてできないんだから、無駄だよ」
「はぁ?」
人がせっかく受験のために心血を注いでいるときに、一体何だというのか。
「全部無駄なんだ」
もういい。こいつは頭のおかしい男なんだろう。
俺は考えることを放棄して、カバンの中を探る。男が一緒に家の中に入ってこようとしたら、すぐに通報しよう。時間のムダだ。
「俺、翔だよ」
男はなおも言う。だが俺は無視してドアを開けた。
「ほんとだよ。かずくんの右目の横、傷があるよね?」
男の視線は感じたが、無理やり家に入ってこようとする気配はなかった。俺は振り向かずに、急いでドアを閉める。
「俺しか知らないはずだよね?」
すぐに鍵とチェーンをかけた。気がつくと、心臓がばくばくいっていた。思った以上に緊張していたらしい。
気味が悪い。男は少なくとも俺の名前も、翔が知り合いであることも知っていた。
「はー……」
俺はそっと覗き窓に目を押し当てる。男がひらひらと手を振っていた。ぞっとする。だが男はその後、すぐに立ち去っていった。
一体何だったのだろう。
不気味な男だった。どうして俺の名前や、翔のことを知っているのか。
「くそっ」
何が受験は無駄、だ。人が必死になっているのに。
――俺しか知らないはずだよね?
翔が俺の知り合いであることは、調べればわかる。
俺はそっとこめかみに手をやる。でも、傷のことは違う。普段は前髪に隠れているから傷跡はほとんど見えない。母だっていまだに知らないはずだ。
〝いいか、誰にも言うなよ!”
男は翔に似ていた。……だけど翔のはずはない。
たぶん、翔が喋ったのだろう。それなら納得がいく。やっぱり翔の親戚か何かなのかもしれない。
「……何なんだよ」
俺は自分の部屋に行き、カバンを下ろす。勉強をしなきゃと思ったけれど、ついベッドに身を投げた。
翔は臆病な子供だった。俺が用水路の中や、林の中などに進んでいくとき、いつも泣きそうな顔で「やめようよ…」と言った。何をするにも、困ったような顔をして俺の方を見て、指示を待っていた。そのくせ一人にされるのはもっと嫌らしく、最終的には恐る恐るついてきた。
今頃どうしているのだろう。
妹や弟がいなかった俺は、翔には兄みたいに振る舞えることが嬉しかった。翔に頼られるのも、悪い気はしなかった。
「あ……」
ふと俺は、家の前に立っていた男の顔に、なぜ見覚えがある気がしたのかを思い出す。
夢の中だ。
――夢の中で、俺はあの男に殺されたのだ。
・
目覚まし時計の音で、俺は目を覚ました。まだ眠り足りないのか、頭がぼうっとする。自分が誰でここがどこだか、一瞬わからなくなる。
ぼんやりした視界に、白い天井とロックバンドのポスター、青いカーテンがうつる。
そうだ、ここは俺の部屋だ。
「和也! 起きてるの?」
扉の向こうから母の声がする。
「和也!」
頭がぼんやりする。いつもと変わらない朝だった。
ほとんど眠ったような頭のまま、制服に着替えて家を出た。今日も授業の後、予備校だ。
「行ってきます」
空気は冷たかった。早く冬が終わって春が来たらいいのにと思う。冬は苦手だ。なんとなく沈んだ気持ちにさせられる。
家を一歩出たところで、俺はぎくりとして立ち止まった。
「え?」
門の前に、男が立っていた。昨日の夜と同じ男だ。
俺の二時間ほど後に、母が帰って来たときには何も言っていなかったから、もう男はいなくなっていたのだと思う。
だが、男は昨日とほとんど同じ場所に立っていた。まるで一晩中そこにいたみたいに。昨日と同じコートを着ていた。
「おはよ」
男は疲れた様子もなく、にこりと笑う。
通報するべきだろうか。母に言う? でも何て言ったらいい?
心臓がどくどくいっている。だが、男はまだ何かしてきたわけではない。「夢の中で殺された」なんて母に言っても笑われるのがオチだ。
そもそも夢の中の男だというのが、俺の勘違いじゃないだろうか。男の不吉なイメージと、夢の嫌な記憶とがごっちゃになってしまったのかもしれない。むしろそうでないと、夢でみた男が、家の前に立っている理由が説明できない。
俺は男を無視して歩き出そうとした。
「いたたた」
だが、思わず足を止めてしまった。
もちろん演技だと思った。いかにも棒読みな言い方だった。男はうずくまっているように見える。相手にしたらだめだ。
「……どこか痛いんですか」
でも、俺は思わず口を開いてしまった。
「古傷が」
茶色い頭を上げて、男が俺を見る。やっぱり仮病か。余計なことはしない方がいいのだと、頭ではわかっていたのに。
「何なんですか……」
男は腹を押さえたまま立ち上がる。
「昨日はすみません、俺、翔の兄です」
「翔は一人っ子です」
相手をしてはいけないと思いつつ、つい言い返してしまった。
「生き別れだったんです」
男は昨日は「兄ではない」と言ったはずだ。白々しいにもほどがある。
だが好奇心に負けて、俺は口を開く。
「翔の知り合いなんですか」
男は翔しか知らないはずのことを知っていた。翔と知り合いであることは間違いない。だが、質問には男は答えなかった。
「和也くんって、翔と仲良くしてくれてたんですよね」
確かに、男の端正な甘い顔立ちには翔の面影がある。他人の空似の可能性は捨てきれないが、親類なのかもしれない。
「……まぁ」
「今、翔が大変なんです」
男は大げさに顔をしかめた。なんだかいちいち態度が演技めいている。
「大変って何が」
「来てくれればわかります」
「どう大変なんだよ」
もし本当に何かがあったのなら、本人が連絡してくればいい。
これ以上こいつと話をしていても仕方がない。授業に遅れてしまう。俺は男を無視して歩き出そうとした。
「翔なんてどうなったって構わない?」
刺すような冷たい声だった。
「そんなこと……!」
俺は思わず振り返ってしまう。
「そうだよね。メールさえ返さなかった。死のうが苦しもうがどうだっていいよね?」
「そんなこと言ってません」
男は鋭く俺の罪悪感をついていた。翔にはメールを返さなかった。彼のことが嫌いになったわけじゃないのに。
一時期は毎日のように一緒に遊んでいたのに、もう数年声も聞いていない。
「通りすがりの人とか猫だったら助けようとするのに、翔のことはどうでもいいんだ」
「どうでもいいわけじゃ……」
俺は思わず口ごもってしまう。
「じゃあ、来てよ」
男は真剣な顔をしていた。
「俺に命令すんな」
「翔のことが、今でもまだ少しでも大事なら、来て」
有無を言わせない強い声だった。
急に腕を掴まれる。男は思った以上に力が強かった。細身に見えるが、何かスポーツでもしているのだろうか。
「俺、学校が」
「すぐ終わるから」
男は俺を半ば引きずるように、強引に歩いて行く。
それでも、携帯で警察に連絡するとか、家の中にまだいる母に訴えるとか、男から逃げる術はあるはずだった。
――でももし本当に、翔に何かあったんだとしたら。
引っ越していった翔は、知らない人ばかりの環境で不安だったはずだ。ただでさえ親の離婚という出来事があったのだ。また泣いてばかりいたかもしれない。それにあの時期、翔の母は、子供の目から見てもかなり情緒が不安定だった。二人で暮らして、翔は大丈夫だっただろうか。
「……本当に、すぐなんですね?」
今は昼間だし、何かあってもすぐに助けは呼べる。
男はにこりと笑った。
「俺は嘘はつかないよ」
嘘だ。さっき、翔の兄だと言った。でもその柔らかい笑顔は、やはり翔に似ていた。別人のはずなのに、懐かしさで混乱する。
「どこまで行くんですか」
「ちょっと隣町まで、だよ」
男は鼻歌でも歌いそうな気軽さで言った。
俺と男はバスに乗っていた。平日朝の路線バスは混んでいる。学生やサラリーマンの姿も多かった。バスの中は暖房と人いきれで随分空気が悪かった。
〝かずくん、これわかる?”
〝おっまえ、こんなのもわかんねぇのかよ”
〝すごい、かずくん”
今となっては、百六十を少し上回るくらいの背丈しかない俺は、同級生に比べても小柄な方だ。でも小さい頃は、まわりの子供よりも体格がよかった。比較的頭も回る方だったと思う。
五つ年上の兄がいたことも大きいかもしれない。俺は、新しい遊びを発案したり、どこかに探検に行こうと提案したり、そういうみんなを引っ張っていく立場が好きだった。
家が近いことから、翔は近所の公園でよく姿を見かけたが、なかなか輪には入ってこなかった。彼には、本当にひとりも友達がいないみたいだった。
〝お前ら、翔をいじめんな!”
そういう弱いやつをちゃんと助けてやらなきゃいけないのだと、俺は信じていた。母が昔、俺をいじめる兄にに対して、滔々と説いていたからだ。
――弱い子を助けてあげられるのが本当に強い子なのよ。
でも、翔は人一倍テンポが遅れがちで、一緒に遊ぶにも一人どうしても遅れた。翔にかまうと、他の同級生たちはつまらないと文句を言った。
それでも俺は、翔を見捨てられなかった。
翔はどれほど俺が乱暴なことを言っても、金魚のフンと言われても、俺についてくるようになった。
かずくんはすごい、かずくんはかっこいい……その心酔ぶりが、心地よくなかったといったら嘘だ。
俺はバスの車窓から外を見る。男子中学生が二人、連れ立って自転車を漕いでいるのが目に入る。
俺が十歳くらいの頃には、サッカークラブに行く日以外は、ほとんど翔と二人で遊んでいた。
〝翔お前、自転車乗れないんだって?”
〝乗れる”
〝補助輪つけてだろ? だっせぇ”
〝乗れるよ!”
翔はあくまで乗れると言いはったけれど、いざ乗ってみせろと言うと「今日は調子が悪い」と言ってしぶった。
〝じゃあ日曜、一緒に河原走ろうぜ”
〝え……”
〝できねぇなら俺、他のやつ誘うから”
〝嫌だ、俺、走る”
〝言ったな? 約束だぞ”
〝……う、ん”
俺は意地悪をしたつもりだった。翔はまだ自転車に乗れないのだと、彼の母親から聞かされて知っていた。
だが結局翔は、約束の日までに自転車に乗れるようになっていた。俺は悔し紛れに、翔の自転車がださいとか色々言ったけれど、二人で河原を走るのは気持ちが良かった。
後になって翔の母親から、運動が苦手な翔が毎日猛特訓をしていたのだとこっそり教えてもらった。遅くまで一人で随分がんばっていたのだと。
「えー次は……、……です」
バスのアナウンスが流れる。男はすぐだと言っていたが、隣町までバスで行くとそれなりにかかる。
その停留所で人がだいぶ降りて、空気の密度が低くなった。俺は大きく息を吐く。乗車率が高いので暑いくらいだった。
「まだ先ですか」
「ここ、まだかずくんとこの町でしょ」
男は吊革につかまり、平然と言う。今日は「和也くん」と呼んでいたかと思ったが、また「かずくん」に戻っている。
俺をそう呼ぶのは翔だけだった。
翔に何があったのだろう。男は何と質問しても、行けばわかるとだけ言う。
もし事故にあったり、病気になっていたりしたらどうしよう。あの泣き虫のことだ。またひとりで泣いているんじゃないか。
俺はそっとこめかみの傷を髪の上から押さえる。
〝絶対に誰にも言うなよ!”
俺が鉄塔から落ちてこめかみを怪我したとき、血を見慣れない俺も翔も、突然の事態に呆然としていた。怪我をした本人でもないのに、翔はわんわん泣いた。
〝でも……っ”
〝誰かに言ったらお前とは絶交だからな!”
〝でも、かずくんが死んじゃったら……っ”
〝このくらいで死ぬわけねぇだろ”
〝でも……っ”
立ち入りが禁止されている空き地を、俺と翔は秘密基地にしていた。古い鉄塔が立っていて、雑草が一面に茂って、色んなものが不法投棄されていた。テレビや冷蔵庫、エロ本から机までなんでもあった。俺達はそれらをせっせと拾い集めた。
すべてを配置すると、ちょっとした家のような見た目になった。屋根もない。置いた家具ももともとゴミだしボロボロだ。夏は水たまりで蚊が大量発生したし、冬は震えが来るほど寒かった。でも、そこは俺たちだけの城だった。
親からは、空き地には入らないよう強く言われていた。遊んでいたことがばれたら叱られる――だから、俺は怪我を隠し通した。
翔はかなり後まで、俺のその怪我のことを気にしていた。
「翔、大丈夫なんですよね」
どうせろくな答えはないだろうと思いつつ、俺は思わず口にする。
男は俺を見て、少しだけ悲しげな表情を浮かべた。不吉な予感がどんどん強くなる。
翔は本当に、傷のことをこの男に話したのだろうか。バスが揺れる。
「死んだり、しませんよね」
俺は不安のあまり、言葉を重ねる。
「病気とか怪我とか、何か……」
「君に、会いたいって」
「え?」
「ずっと会いたかったって、言ってたよ」
男が答えてくれたのはそれきりだった。
胸の中がざわざわする。会っていない間、翔に何があったのか。
いじめられたりしなかっただろうか。友達はできたんだろうか。
いや、わざわざ本田の妹が連絡先を聞いてくるくらいだ。友達どころか彼女だっているんじゃないか。俺だって最近できたばかりなのに。
本当に、この男についてきてしまってよかったのだろうか。
聞き覚えのない名前のバス停が続く。隣町という以外、俺は翔が引っ越していった場所を知らない。
窓の外にはそっくりな外見の住宅が立ち並んでいる。どこまで行っても同じようなものだ。本当に、辿りつくんだろうか。
俺は何をやっているんだろう。来週はもうセンター試験だというのに。
翔の心配をしている場合じゃないんじゃないか。急に焦りがせり上がってくる。バスは狭い住宅街を縫うように走っていき、ひどく揺れた。
「次の次だよ」
いやに気分が悪いと思ったときにはもう遅かった。
「気持ち悪……」
吐き気がせり上がってくる。俺は口を抑えて、立っているのでもう精一杯だった。
「大丈夫?」
なんとか吊革につかまっているが、揺れるたびにうっと吐きそうになる。俺の隣に立っていた若い女性が、露骨に嫌そうな顔をして、バスの中を移動していった。
「もうちょっと、頑張って」
男が俺の肩を抱く。馴れ馴れしいと思ったが、拒否するだけの元気もなかった。
「次で降りよう」
俺はかろうじて頷く。
そのまま男に促されてバスを降りた。降りた直後にはもう、植え込みにしゃがみこんで腹の中のものを吐き出していた。
「うぇ……」
乗り物酔いなんてこれまでしたことがない。吐いても気持ち悪さは消えなくて、後から後から吐き気がせり上がってくる。
「……っ」
いっそ全部吐いてしまえと思ったが、吐き気はせり上がってくるのに、それ以上吐くこともできなかった。目に涙がにじむ。
「大丈夫?」
いつの間に買ってきたのか、男がペットボトルを差し出す。俺はありがたくそれを受け取った。親切なことに、キャップが開けてある。
俺は冷たい水で口の中をゆすいだ。何度かうがいをして、やっとひと心地つけるようになる。
「すみません……普段酔わないんですけど」
「そうだね。ここまで強い拒否反応は珍しいな」
「え?」
男は俺の背を撫でた。得体の知れない男に触られるのは嫌なはずなのに、その手つきは優しくて、気持ちがよかった。
「大丈夫、ゆっくり行こう」
やっと気持ちが休まっていくのを感じる。俺はペットボトルの水を、今度は飲み込む。
男は俺の隣にしゃがみこんで、そんな俺の様子をじっと見ていた。
「翔……元気なんですか」
「心配?」
心配しているからこんなところにまで来ているのだ。だが、反論する元気もなく俺は頷く。
翔のことが嫌いになったわけではなかった。かつて、翔が自転車を練習していたことをこっそり教えてくれた彼の母親が、俺に言ったのだ。
〝翔ともう、遊ばないでほしいの”
大人に呼び出され、真剣に冷たい言葉をぶつけられたのは初めてだった。
〝あなたがいると、翔は他の子と遊ばない。悪影響だわ”
「ありがとう」
男はかすかに笑った。
「翔が元気かどうか聞いてるんですけど……」
もうこの男に聞いても仕方がない。ここまで来たら行くところまでいくだけだ。吐き気はだいぶ治まったようだったので、俺はゆっくり立ち上がる。
「もう、歩けます」
悪影響だ、なんて言葉に納得したわけじゃない。俺は腹を立てた。一人になって困るのは翔の方だとわかっていた。わかっていて、それならそうしてやろうと思った。
翔本人に言われたわけでもないのに。
……俺は怖かった。翔から直接、お前なんていらないと、余計なお世話なのだと、拒絶されるくらいなら自分から手を話してしまったほうが楽だった。
「じゃあ、行こうか」
男はなぜか、俺の手を握った。男の手は、俺より一回り大きかった。
「あの」
「大丈夫」
答えになっていない。男同士がこんなところで手を繋いでいたら変だ。
だが、足元がまだ少しふらつくのも確かだった。抵抗するのももう面倒で、俺はそのまま歩きだす。どうせ、知り合いは学校だろう。
見慣れない住宅街を、男に手を引かれて歩く。もう授業は始まった頃だろうか。受験前だから授業を休む生徒は多いけれど、せめて欠席の連絡をしないとまずい。
頭がうまく回らない。朝起きたときからそうだ。眠りが浅いのかもしれない。
「翔、モテるんですか」
「なんで?」
男の声は笑っていた。
「本田が……クラスメイトの妹が、翔と同じ学校らしくて、そんなこと言ってたんで」
「さぁ、どうなんだろう」
「翔のくせに」
吐くところを見られてしまったからか、まだ体調が万全ではないからか、俺はつい口にしていた。
連絡を無視するなんて、ひどいことをした。翔のことは、ずっと忘れていない。
「かずくんだって、彼女できたんでしょ?」
「なんで……」
どうしてこの男が、そんな俺のプライベートなことまで知っているのか。
「知ってるよ」
男は俺の手を引きながら、振り向かずに言う。
たしかに俺にはこの間、彼女ができた。サッカー部で活動していた頃に、応援してくれていた同級生だった。
彼女ができたことには浮かれた。だが、時期が悪かった。どうしてもお互い模試や受験勉強で忙しい。受験が終わったら一緒に旅行しようと約束していた。
「どこまでしたの?」
急に男が踏み込んだことを聞いてくる。
「なんでそんなこと聞くんですか」
彼くらいの年令になると、そんな話題も当たり前なんだろうか。
「いいじゃん。教えてよ」
「……キスだけ」
付き合うことにはなったけれど、受験シーズンまっさかりで、デートは後回しになっていた。お互い今は、それどころじゃない。
「へぇ」
どちらに歩いているのかもわからず、俺はただ男に手を引かれていた。だけどそうされていることには、妙な安心感があった。やっぱり、男が翔に似ているからなのかもしれない。
「二人で箱根ね、いいよね」
だが、男が口にした言葉にふと足が止まる。俺は箱根なんて言っていない。
「なんで……」
ぞっとした。だけど男は俺の腕を掴んだまま歩き続ける。俺はやむを得ず、引きずられるようにしてそのまま歩いた。
「なんでそれを知って」
「ここを超えたら隣の市だよ」
男は小さな橋を指さした。コンクリートで舗装された、五メートル程度の幅の小さな川だった。車道とわずかな歩道のある橋がかかっている。
行きたくない。
背筋に冷たいものが走る。ここは何だ。こいつは誰だ。俺は大変な人間についてきてしまったのではないか。
「行こう」
何の変哲もない橋だ。車が俺たちのそばを通り抜けて、橋を渡っていく。通行人は誰もいない。平日の午前だからだろうか。
――ここから先には、行きたくない。
「ほら」
だけど男は俺の手を引く。俺はわずかに頭を振った。
ここから先は、行っちゃダメだ。足がすくむ。だけど、男は容赦なく俺を引っ張っていく。
「こんっなに狭いんだよ、かずくんの世界」
「何、言って……」
こいつは何を言っているんだろう。また吐き気が戻ってくる。胸のあたりがむかむかする。
この先に行っちゃダメだ。この橋は渡れない。
「一度もメール返してくれなかったよね」
「何の……ことだよ」
「でも、俺のこと、心配してくれて、嬉しい」
男は言葉とは裏腹に、乱暴に急に俺の頭をつかみ、ぐいと橋の先に向けさせる。橋の向こうは、白っぽい霧に覆われていた。寒いとは思っていたが、雨でも降っているのだろうか。
「何すんだよ……!」
「ちゃんと見てってば」
強い口調で男は言う。体格ではこの男に敵わない。嫌だ嫌だと思いながら俺はそれを見る。
橋の向こうには隣町があるはずだった。翔が引っ越していった町が。俺の住んでいる町とそう大して変わらない、平凡な住宅街が。
「かずくんはこの先のことを知らない。俺の住んでた町には、来たことなかったんだよね」
何を言っているのだろう。
どうしてこんなに俺のことを知っているのか。翔しか知らないことも、彼女しか知らないことも。
「だから、この先はない」
橋の向こうには、ぽっかりと空洞が広がっていた。
ありえない。さっきだって、車が走っていったのだ。
だけどどうしても俺には、橋の向こうにあるはずの町が見えなかった。べろりと世界の皮が向けたみたいに、そこには何もなかった。
真っ暗だ。
「あ……」
全身ががたがた震えた。逃げ出したいと思うのに、男は俺の身体を強く押さえて離そうとしない。びっくりするほど力が強かった。
「ここは、夢の中だよ」
「何なんだよ……」
男は悲しげに、笑ったように見えた。
「翔……?」
俺は思わず口走る。
翔はテンポのずれた子どもだった。特に、小学校に上がる前の頃はひどかった。人に見えないものが見えるとか言って、近所の同じ年頃の子どもから気味悪がられていた。
小学生に上がった後、翔はそのころの自分のことを、こう言っていた。
〝俺ね、夢の中にいつもいたんだ”
「目を覚まして」
次の瞬間、鈍い衝撃を感じて、俺は自分の身体を見下ろした。何かが刺さっていた。まるで最初からそこに生えていたみたいに、深く。
「え……?」
現実感がなかった。だって、そこにそんなものはあるはずがなかった。小型のナイフの柄だった。柄だけが、俺の体から生えている。
「ごめん」
男はそう言って、ナイフを更に強く俺の中にねじ込んだ。
「なっ、うあああ」
遅れて痛みが鋭く体を襲う。わけがわからなかった。刺された。なぜ? 俺が? どうして。逃げないと。だけど足が動かない。
柄のあたりから血が広がっていく。
「ごめん、かずくん。ごめんね」
男の目から、大粒の涙がこぼれ落ちる。男は俺の身体に差し込んだナイフを引き抜く。勢いよく血が吹き出して、男のコートを汚した。高そうなのにと、俺は妙に現実味なく思った。
あのとき――あの空き地で俺が怪我をしたときも、翔は泣いていた。怪我をしたのは俺なのに、まるで自分が血を流しているみたいに、顔を歪めて辛そうに泣いていた。
「……痛い」
痛い。殴りつけられたみたいに、全身を痛みが襲う。痛くて痛くて、かえって何がどう痛いのかもうよくわからない。男は涙でぐしゃぐしゃの顔で、再度そのナイフを俺の体にねじ込んだ。
「うわあああ!!」
体中がばらばらになるような強い痛みだった。俺は思わず胸のあたりを押さえる。生暖かい血がすぐに手を汚した。信じられなかった。
死ぬ。このままだと死ぬ。急に死の恐怖がリアルに迫ってくる。血はどんどん流れ落ちていく。
「あああ……!」
「すぐに楽にしてあげるから」
男の声は掠れていた。抵抗する間もなく、男は血で濡れた指で俺の顎を掴み、キスをした。
「……ごめん、好きだよ」
男は涙でぐしゃぐちゃの顔をしていた。あの日の翔そっくりに――血まみれになって、ぼろぼろと泣いていた。
2
目覚まし時計の音で、俺は目を覚ました。まだ眠り足りないのか、頭がぼうっとする。自分が誰でここがどこだか、一瞬わからなくなる。
ぼんやりした視界に、白い天井とロックバンドのポスター、青いカーテンがうつる。
そうだ、ここは俺の部屋だ。
嫌な夢を見た。異様にはっきりと覚えていた。殺される夢だ。まだ心臓がばくばくいっている。
「和也! 起きてるの?」
扉の向こうから母の声がする。夢のせいかまだ眠り足りなかったが、枕元の時計を見て、俺はしぶしぶ身体を起こす。もう起きないと遅刻する時間だった。
「和也!」
カーテンを開けると、眩しいほどの日差しだった。
夢でよかった。俺はまだ生きている。だけど、いやにリアルな夢だった。ナイフを突き立てられたときの鈍い衝撃までよく覚えている。
「遅刻するわよ」
「わーってるよ」
寝間着のまま台所に行き、トーストを焼く。電子レンジにかけるのが面倒で、冷めた紅茶をそのまま飲んだ。居間のテレビは朝のニュースを流し出している。
母は洗面所のあたりをばたばたと行き来していた。
いつも通りの朝だ。母は今日はプレゼンがあるとかで、珍しくスーツを着ていた。
「ねぇこれ変じゃない?」
「昨日もプレゼンじゃなかった?」
「何言ってんの、一年ぶりなんだけど」
焼けたトーストをそのまま紅茶で流し込み、俺は部屋に戻って慌ただしく着替える。
部屋の隅にあるエナメルバッグが目に入った。部活名が入ったそれを横目に、俺は学生カバンだけを手に取る。
俺は翔に冷たくしたことを、思った以上に気に病んでいたのかもしれない。あんな風に翔が夢に出てきた理由は、そうとしか思えなかった。
嫌な夢だった。だけど、夢は夢だ。
「行ってきます」
俺は玄関を開けたところで、ぎくりとして立ち止まる。門の前に男が立っていた。
あれは夢だったはずだ。
だけど男は、確かに夢に出てきたのと同じ、あの翔の面影がある年上の男だった。
「な……」
「ああ……やっぱり」
男はなぜか落胆の声を漏らした。俺も言葉を失う。
昨日も男はここにいた……いや、あれは夢の中だった。そうじゃないとおかしい。俺は殺されていない。生きている。怪我だってしていない。
「何なんだよ、お前……」
一体、この男は何なのだろう。これ以上関わり合いになりたくもなかった。
「またダメだった……」
俺は首を振って走り出す。
「かずくん!」
だが、男は早足でついてくる。俺より背が高いから、簡単に追いつかれてしまうのが腹立たしい。
「お願いだよ。このままじゃ、いつまで経っても……」
「うるせぇ!」
「学校なんて行っても無駄だよ。かずくんは受験を受けられない」
人がせっかく努力をしているのに、無駄とは何なのだろう。わけのわからないことはもうたくさんだ。俺はちゃんと受験して、彼女と箱根に旅行に行くのだ。
「いい加減にしろ……!」
俺は衝動的に男に殴りかかった。もう我慢の限界だった。
男は避けもしなかった。俺の拳は男の左頬に当たり、男がよろめく。その隙に俺は走りだした。
「ほんとだよ……無駄なんだ」
男はまだ何か言っていたが、俺は無視した。今大事なのは学校だ。そして受験だ。俺は一心に走った。冷たい空気が頬を刺す。じんじんと男を殴った右手が痛んだ。
・
俺は登校し、授業を受けた。だが、どうしても身が入らなかった。
何かおかしい気がする。どうして夢の中と同じ男がいる? 頭が痛い。よく眠れなかったせいかもしれない。
あれは夢じゃなかったのか。じゃあ、夜に家の前にあいつが立っていたことがあったのは現実か? わけがわからない。
翔は結局、無事だったんだろうか。
携帯には翔の連絡先が入っている。でも、もう番号は変わっているかもしれない。どちらにせよ、自分から連絡するのは気が引けた。男と翔がつながっていて、俺をからかっているという可能性だってある。
授業をちゃんと聞かないといけないはずなのに、集中できなかった。もう何度も聞いた内容みたいな気がする。
俺は眠気をやり過ごそうと、強く手を握りしめる。男を殴った右手の甲は、少し皮が剥けていた。
休み時間中、なんとなく気になってまた翔の連絡先を確認する。連絡すべきなのだろうか。
「よ、高本」
そうしているうちに、別のクラスの近内が話しかけてきた。俺は少し緊張する。
「おう」
近内は空いていた俺の前の席に座り、声を潜める。話すのは俺がサッカー部をやめて以来だから、たぶんほぼ一年ぶりだった。
「高本って八組の山崎と付き合ってんだろ?」
刈り上げに近かった髪が、だいぶ伸びている。少し強面なので、刈り上げだと近寄りがたい雰囲気があったが、だいぶ柔らかい印象に変わった。近内もきっと、この間の大会でサッカー部を引退したのだろう。
「そうだけど」
俺は警戒しながら答える。
「なぁ、今度、八組の飯田と俺達と、四人で遊びに行かね?」
唐突な誘いだった。近内は、俺の悪口こそ言っていなかったが、味方でもなかった。
「飯田? なんで」
特に近内と飯田が親しいという話は聞いたことがない。確かに飯田と、俺の彼女である山崎祐奈とは仲がいいみたいだった。二人でいるところに何度も行き会っている。
「いやぁ」
近内は困ったように頬をかいた。少し緊張しているみたいだった。俺は部活をやめたとき以来、サッカー部の同級生とはほぼ会話をしていなかった。近内ともそうだ。
「飯田と付き合ってんのか?」
「まだだけど、そうなったらいいなって話だよ」
近内は困ったように照れて言った。彼とこんな風に、恋愛の話をするのは初めてだ。
飯田は派手なタイプではないが、気心の優しそうな子ではあった。確かに彼女も、いきなり近内に誘われるよりは、祐奈と一緒にと言われた方が来やすいかもしれない。
「受験は?」
「いや終わってから」
近内と話すのは、もっと抵抗があるものかと思った。だけど、普通に話せることにほっとする。彼なりに卒業を目前にして、覚悟を決めて誘いに来たのだろう。それなら仲直りがてら、協力してやってもいいかと思った。
「私学受けるんだっけ?」
「受ける。お前もだろ?」
「終わった頃だったらいいけど」
「やった! じゃあ、また連絡するわ」
近内はほっとした表情をしていた。近内も俺と話すことにか、それともダブルデートに誘うことにか、緊張していたのかもしれない。
「ありがとな、高本。やっぱお前いいやつだよな」
「なんだよ、気持ち悪いな」
チャイムが鳴る。翔の名前が表示されたままの携帯を、俺はカバンにしまった。
うちの学校のサッカー部には代々、先輩が後輩をしごく伝統があった。
俺達が一年生、二年生のときにも色々と理不尽な目にあった。でも、それは耐えればいいことだった。
俺達が最高学年になったら変えられると、俺はそう思っていた。
でも、何も変わらなかった。俺は部長に立候補したが、元部長からかわいがられていた芦澤が結局継ぐことになった。
〝こんなの意味がない、やめよう”
〝何言ってんだよ。俺たちもやっただろ”
後輩に水も呑ませずに延々階段を昇り降りさせたり、極端に早朝からの朝練をさせたりする習慣は変わらなかった。それどころか、後輩に昼食のパンを買ってこさせたり、カツアゲに近いことさえ一部では行われていた。
顧問は味方にならなかった。「伝統」の一言で丸め込まれていた。俺はなんとか打開策を探ろうとした。でも、試合に出れなくなり、普段の練習ですらパスが回ってこなくなっただけだった。
学校が終わったら予備校に行き、ロビーで簡単な夕食を食べて授業を受ける。それから自習室で軽く勉強をして、今日も遅い時間の電車で最寄り駅に戻った。
――俺は無力だ。
俺の味方は、同級生にも下級生にもいなかった。結果は、俺が一人で部活をやめることになっただけだった。
〝悪影響よ”
俺ががんばる意味なんてどこにあるんだろう。俺がいてもいなくても何も変わらない。むしろいない方がよかったんじゃないか。何もしない方が。翔だってそうしたら俺の他にももっと歳の近い友達ができていたかもしれない。
空気が冷たい。受験まであと少しだというのに。
考え事をしていて、その影に気づくのが遅れた。まさかと思ったが、男は家の前にまた立っていた。
「……いい加減にしろよ」
今度こそ通報してやろうと思い、俺は携帯電話を取り出す。
「いい加減にするのはかずくんだよ」
塀に寄りかかっていた男は、俺の方に向き直る。男の顔には、あれだけ強く殴りつけたのにあざひとつなかった。力が足りなかったのだろうか。
「もう俺、頭おかしくなりそう」
とっくにおかしいんじゃないだろうか。俺は声には出さずに男を睨みつける。
男はもうあの嘘くさい笑みさえ浮かべていなかった。
「マジで警察呼ぶからな」
「呼んでいいよ」
相手にしてもたぶん無駄だ。本当にそうした方がいい。俺は110番を呼び出す。だが、その直後には男に強く腕を掴まれていた。
「離せ!」
携帯電話が地面に落ちる。男の力は信じられないくらい強かった。この細身の体にどうしてここまでの力があるのだろう。
焦る俺を、男は壁に強く押し付ける。壁に縫い止めるようにされて、俺は精一杯もがいた。
「離せ……っ、誰かっ!」
こんなときに限って誰も通りかからない。腕は男の手によって壁に押さえつけられている。足で蹴り上げようにも、腿で強く拘束されて自由にならない。
男は俺を押し付けたまま、唇に唇を押し当ててくる。
「ん……っ!」
俺は全力を込めて足をばたつかせてみるものの、男はびくともしない。キスだ。キスされている。なんで。噛み付いてやろうかと思ったとき、男の顔が引いた。
やっぱり、翔によく似ている。こんな時なのに、懐かしく思えてしまう。……目の下のほくろの位置だってそっくりだ。泣き虫だからそんなところにほくろがあるんだと、俺はよくからかった。
兄弟や親戚で、ほくろの位置が似るなんてことがあるんだろうか。
「何なんだよ……!」
わけがわからなかった。受験を控えた大事な時期に突然やってきて、翔が大変だの、隣町がどうだの言ってきて。
「かずくんは今、病院で寝てるんだよ」
男はぽつりと言った。押さえつけられていると、男の体温を感じた。自由を奪われた絶体絶命の状態なのに、なぜか懐かしいような匂いがする。
「はぁ? 俺はここにいんだろうが」
「ここは本当の世界じゃない……夢の中なんだ。かずくんの夢の中だよ」
「頭おかしいこと言ってんじゃねぇ、離せ!」
だが男は腕を離したと思う間もなく、俺の身体を強く抱きしめてきた。息が苦しいくらいだった。俺は一瞬、虚をつかれる。
「早く帰らないと、本当に取り返しがつかなくなる」
「……離、せっ」
「俺、翔だよ。わからない?」
体を離した男が、顔を覗きこんでくる。確かに翔によく似ている。何度も思った。だけど翔であるはずがない。そんなはずはないのだ。
「翔は、俺より年下だ」
そうだ。どれほど翔が頑張って背を伸ばしたにしても、俺より年上になることだけはありえない。俺と翔は三歳違いだった。それはいつになったって変わらない。
「そう」
男は悲しげに目を細める。
「でも俺は二十歳になった」
「年上じゃねぇか」
男は俺の腕を掴んだまま離そうとしない。暴れるのにも疲れてきて、俺は言う。
「違う。かずくんは……二十三歳だ」
「は?」
言うに事欠いて二十三歳はない。俺はまだ高校生だ。
「そうなんだよ」
男は泣きそうな顔をしていた。それが泣き虫だった翔そのままの気弱な表情で、俺は思わず怒気をそがれる。
「俺は十九だ」
二十三歳だったらもうとっくに成人しているし、受験だってしなくていい。
「……違う。違うんだよ」
男はいやに切々と訴える。
「違うわけねぇだろ」
「かずくんの右目の横の傷、入っちゃダメだって言われてた空き地で遊んでたときのだよね?」
「……だから何だよ」
「秘密基地作って、ヒーローごっこしたよね」
「だから何だって言ってんだろ!」
翔がきっと話したのだろう。誰にも言うなとは言ったが、今となってははるか昔のことだ。翔が約束を守っている保証なんてない。
「俺、翔だよ」
「だから、それはありえねぇって……!」
話が堂々巡りしている。確かにこいつは翔に似ている。翔のことにも詳しい。だが、翔であるはずがないのだ。俺がもう二十三歳だなんてことあるはずがない。
「俺は誰にも言ったことない。かずくんが言うなって言ったから」
男は真剣な目で俺を見ていた。
「……嘘だ」
俺は翔との連絡を勝手に絶った。翔が今でも、かつてのように俺を慕っていてくれると思うほどおめでたくはない。
「かずくんは、事故にあった。センター試験の日、車に撥ねられたんだ」
「そんなことあるわけねぇだろ……!」
受験はまだ先のことだ。
「怪我は治った。でも、かずくんは目覚めなかった」
「いい加減にしろよ!」
「俺だってもうどうにかしたいんだよ!!」
怒鳴られて一瞬、俺は気圧される。男はぐしゃりと顔を歪めて、また泣きそうな顔をしていた。
「かずくんは帰ってこない」
男の目から、すっと一筋涙が流れて俺はぎょっとする。
「怪我はもう完全に治ってるはずなんだ。でも、目覚めない」
俺は悟る。こいつに話なんてしてもきっと無駄だ。どうにかして逃げ出した方がいい。
「だから俺は、かずくんを連れ戻そうとした」
俺はなんとかして掴まれた腕を振りほどこうとする。だが、男の力は強く、びくともしなかった。
「お前に何ができるんだよ」
「夢の中のことだったら、俺はよく知ってる。小さい頃からずっと、色んな人の夢の中に入ってたから。夢の中で死ねば、強制的に現実に戻るはずなんだ」
男はじっと俺を見て言った。じわりと腹のあたりに嫌なものが広がるような気がした。
俺は殺された? いや、あれは夢だったはずだ。だって俺は今も生きているのだから。
「だけどかずくんは何度殺しても帰ってこない。思いつくことは何でもやった。ナイフで刺しても、首を締めても、突き落としても、手首を切っても」
男の真剣な声にぞっとした。やばい。彼がどんな意図を持っているのかはわからない。でも確かに、こいつは俺を殺したと思っている。
「……っ」
俺は思い切り頭突きをして、なんとか拘束を解こうとした。だが男は渾身の攻撃を避け、俺を地面に押し倒した。コンクリートの地面に思い切り頭がぶつかり、鈍い痛みが走る。
「離せ……!」
「何度もやったんだ。殺し方が悪いのかと思っていろんな方法で、何度も何度もやった。何度も何度も何度もやったんだよ」
男は悲鳴を上げるような声で言った。
「でも戻ってこない。たぶん、俺、わかったよ。殺し方の問題じゃない。『この世界でかずくんは死んでない』んだ。だから帰ってこない。俺は、本当にはかずくんを殺せてないんだよ」
俺は仰向けに地面に押し倒されたまま、男を見上げていた。身動きがまるで取れない。さっきより状況は悪くなっている。
「かずくんは帰りたくなくて、死ぬ直前で無意識に世界を作り直してる。だから俺はかずくんを殺せない」
泣きじゃくる男は、あろうことか俺のシャツの合わせ目から手を入れてくる。指の冷たさに震えが走った。
「な……っ」
更に反対の手でズボンの上から性器を握りこまれ、声が出なくなった。逃げないと。俺はもがいて逃れようとするが、体重をかけて抑え込まれて、とても身動きが取れるような状態ではない。
男は俺の唇に、再びキスをする。唇は冷たかった。
「やめてくれ!」
まだ深夜ではないはずなのに、誰も通りがからない。声を聞いて近所の人が顔を出してもよさそうなものなのに。
「誰か!!」
ぞっとする。こいつは俺を殺していると思い込んでいる男だ。何をされるかわかったものじゃない。
シャツの間に入り込んできていた手が、胸の突起を強くつまんできて、思わず声が漏れた。
「っ」
そんなところを触っても意味がないだろうと思うのに、しつこく男は突起をこねまわしてくる。俺はもがくが、まるで拘束から抜け出せない。
「や、離せ……」
男は何度も何度も、俺の唇についばむようなキスをした。噛み付いてやろうと思うのに、力が入らない。頭がぼうっとする。
口の中に、舌を差し込まれて歯列をなぞられる。背筋がぞくぞくして、力が抜ける。
「……もう、俺、疲れたよ」
男は訴えるように言う。
「やめろ……っ!」
男はズボンの上から、無遠慮に俺の性器を揉みしだいた。信じられないことに、キスと胸への刺激とで、俺のそこは確かに興奮を感じていた。
アスファルトに押さえつけられた背中が痛い。男の体は重く、びくともしない。体格が違う。翔は俺より小さかった。こんなに大きいやつが、翔のはずがない。
「やめ……ここ、どこだと」
男の手が器用に片方だけで俺のベルトを外していく。かちゃかちゃという音が静かな住宅街に、いやにリアルに響く。直接下着の中に手を入れられて性器を握られて、俺は息を飲んだ。
「やめろ!! 誰かっ、助けてくれ…!!」
「かずくん……好きだよ」
男は俺の悲鳴なんてまるで聞こえない様子で、じっと俺を見て何度もキスをしてくる。誰かが来るかもしれないなんて恐れは、まるで抱いていないようだった。
周りのことなんてどうでもいいみたいに。
翔もそうだった。誰に何と言われても、おかまいなしに俺のことだけを追いかけていた。彼の母親が心配して、俺をわざわざ遠ざけようとするくらいに。
俺は精一杯息を整え、冷静に言葉を紡ごうとする。
「……お前が仮に、仮にもし、翔だっていうなら、なんでこんなことすんだよ」
外気に当たっている肌が冷えていく。
「なんでって?」
男は悪びれる様子もなく言う。
「言ったじゃん、好きだって」
もう何年も翔とは会っていない。翔だって彼の生活があるはずだ。ずっと俺のことだけ追いかけ続けているなんてことはありえない。
男は俺の疑問を見透かすように口にした。
「ずっと好きだった」
俺が目の前にいるのに、男の言葉はどこかひとりごとみたいだった。俺が聞いていることなど最初から期待していないみたいに。
「ずっと、ずーっと」
俺は何も言えなくなる。一体いつからだというのか。俺には想像もつかなかった。
「祐奈ちゃんにはね、新しい彼氏、できたよ」
「は……?」
俺は今度こそ完全に言葉を失う。
「箱根、行けなくて残念だったね」
男はかすかに笑っていた。同情しそうになって損をした。こいつはやっぱりただの頭のおかしい男だ。そうに違いない。
「ふざけんな……!」
「しょうがないよ。かずくんはずっと眠ってたんだから。……ずっと四年間自分だけを待ってるべきだったなんて、言えないでしょ」
まさかと思うのに、じわりと胸に苦いものが広がる。付き合い始めたばかりの、初めての彼女だった。
去年から好きだったが、今年たまたま模試の会場で隣同士になって、帰り道に勢いで告白してしまったのだった。了承の返事をもらって、嬉しすぎて朝まで眠れなかった。その祐奈が別の男と付き合っている?
ありえない。違う。俺が二十三歳だなんて、そんなことあるはずがない。
「だから、彼女のことは忘れなよ」
男は呆然としている俺の目を手のひらで覆い、ちゅっと音の立つキスをした。
「俺のほうが全然かずくんを好きだよ」
嫌だと思うのに、腕に力が入らない。柔らかく性器を揉みしだかれても、弱々しげな声しか出なかった。
「わかるでしょ? 全く同じ毎日じゃない。記憶がベースだから揺らぎはある。でも、新しいことは何も起こらない」
「やめ……」
男の指は、俺の性器全体を軽くこすったかと思うと、先端をぐりぐりと刺激してくる。
わからない。何が起きているのか。こんな風に人に触れられるのは初めてで、強すぎる刺激が混乱に拍車をかける。
「同じ日常なんだよ。ずっと、繰り返してるんだ」
直接窮屈な下着の中で性器を擦られる。そこがもう、先走りで濡れているのがわかる。
「嫌なら早く、帰ろう?」
「……っ」
こんな状況で気持ちいいはずなんてない。でも俺は確かに興奮していた。痛いほど性器が張り詰めてくるのがわかる。
「このままだとずうっと童貞のまま、受験生のままだよ」
しごかれるのと同時に、先端を指で刺激されると、思わず声が漏れた。どんどん身体から力が抜けていって、快感だけがつのっていく。
「本当に嫌なら、早く、目覚めなよ……!」
男の手は俺のものよりも大きくて、熱かった。他人に触られる慣れない感触に、否応なく反応してしまう。もう解放されたくて仕方がなくなってしまっている。
「……ぁ、あ」
わけもわからないまま、俺は男の手のひらの中で射精していた。呆然とする俺の上に、ぽたぽたと水滴が垂れてくる。
「もう俺、かずくんを殺したくない」
男はぼろぼろ泣いていた。
〝待って、待ってよ、かずくん”
翔は泣き虫だった。帰るのが嫌だと言っては泣き、転んでは泣き、俺がそばにいないと言ってさえ泣いていた。
あの翔が、俺より年上だなんてありえない。
でも、こいつの泣き顔は、翔そのものだ。
「助けて……お願い、目を覚まして、かずくん」