やり直しますか?

 泣くことにも疲れ果てて、目をつむった後に浮かんだのはその言葉だった。
 これは夢だろうか。
 もう何も考えたくなかった。ただ眠って、意識を遮断して、ひとときの安寧を得たい。現実なんてまっぴらだ。
 一体誰が尋ねているのか。何もわからない。でも、確かに選択肢は自分の手の中にあった。
「はい」
 答えはひとつだった。当たり前だ。何度聞かれたって同じだろう。あいつのいない世界に価値なんてない。
 意識が暗闇に飲み込まれていく。
 そして今日が始まった。


第1章

 携帯のアラームが鳴っている。でもまだ起きたくない。頭ががんがんして、身体が重い。
 とにかくアラームを切ろう。そう思って琢巳は手を伸ばす。携帯は枕元のコンセントにつながっているはずだった。
「なぁ琢巳」
 それともまだこれは夢だろうか。幻聴まで聞こえる。
「琢巳ってば。今日学校じゃないの?」
 なかなか手に携帯が触れない。いつも眠るときに充電するから、このあたりにあるはずなのに。
「琢巳」
 はっと目を開けると、そこに見知った顔があった。
 でもありえない。
「嘘、だろ」
「何言ってんだよ。もう朝だぞ」
 琢巳は飛び跳ねるように身体を起こし、目の前にいる男をまじまじと見つめた。
 それは確かに彼だった。もうずっと琢巳が片思いをしていて、奇跡的に大学進学と同時にルームシェアを始めた輝行だ。
 あちこち跳ねている茶色の髪。小柄な手足と、生気に輝く顔。
「生きてる……?」
 できることならば触れたかった。だけどできない。自分たちの関係はただの友人だから。
「何言ってんだよ」
 冗談を言われたと思ったのか彼は笑う。
「本当に……生きてるんだな?」
「さっさと用意しないと遅刻するぞ」
 輝行が大きく口を開けて笑うと八重歯が覗く。昨日までの彼とまったく同じだった。ベッドで半分くらいがいっぱいの六畳の部屋も、けちって遮光でないカーテンにしたら全然日差しを遮らなくて眩しい東側の窓も。
 心臓がやけに早鐘を打っている。頭が重いのは、ただ朝だからというわけじゃない。琢巳は確かに輝行のことが好きで……でも、彼を失った。
 輝行は確かにこの腕の中で息絶えて、死んだはずだった。

 ・

 少し風の冷たい秋の日だった。そろそろ冬のコートを実家から送ってもらわないといけない。
「なあ、どうしたんだよ」
 昨日も外に出た時、そう感じたことを思い出す。そして昨日と同じように、彼とバスで大学に向かった。まだ夢の中にいるような気分だった。
 信じられなかった。輝行は死んだはずなのに、こうやって元気に生きている。琢巳は、自分と同じようにつり革に掴まる彼を見つめる。
「……嫌な夢を見たんだ」
 服を濡らした血の暖かさも、座ったアスファルトの硬い感触も、確かにリアルだった。
「どんな?」
 当然問われることは予想できたはずなのに、琢巳は言葉に詰まる。
「目の前で……交通事故を見て」
「うわぁ、それは嫌だな」
 その事故にあったのはお前だった、とは言えなかった。
 でもよかった。輝行はこうして生きている。その事実だけで胸がいっぱいになる。
「そういうのって何か、ありそうだな」
「何が?」
「予知夢?みたいな」
「……縁起が悪いこと言うなよ」
 もしあれが現実に起きることなのだとしたら、ひどすぎる。真顔になった琢巳を見て、「悪かったって」と輝行は言う。
「なんか事故のニュースでも見たんじゃねぇの?」
 心当たりがあるとしたら、自分が彼のことを好きすぎることだろう。琢巳は小学生のころからずっと、彼に片思いをしている。輝行は今のところ、琢巳の気持ちに気づいていない。気づいていたら、金銭的な理由からとはいえルームシェアをしようなんて言い出すはずがなかった。
 幸い彼にまだ彼女はいないが、この先どうなるかはわからない。そういう絶望的な気持ちが、あんな夢を見させたのかもしれない。
「そうそう、琢巳は今日三限までだよな?」
「いや四限まである」
「え? 三時に待ち合わせようって言ったけどそれじゃ間に合わねぇじゃん」
「三時?」
 心臓が大きく跳ねる。まだ記憶に色濃く残っている。三時に待ち合わせたのは昨日の……いやあれは夢だったはずだ。だって輝行は生きている。
「テル、今日火曜日だよな」
 琢巳は携帯電話を取り出す。さっきアラームを止めたときのまま、画面はよく見ていなかった。
「何言ってんだよ」
 携帯に表示されているのは、十一月十一日の文字……月曜日だ。
 昨日の月曜日に、輝行とは三時に待ち合わせた。そして地元の先輩へのプレゼントを買いに行き、家に帰る途中で輝行は飛び出してきたボールを追って……。
「そこに書いてあんだろ」
 輝行は琢巳の携帯を覗き込んでくる。輝行の顔が近いというのに、嫌な感じに心臓が脈打っていて、どきどきしている余裕もなかった。
「焦った。俺が間違えたかと思ったわ」
「いや、月曜?」
「だから一限出るために朝早く起きたんだろ?」
「今日……文化人類学か?」
「いやお前の授業まで覚えてないけど」
 月曜日の授業は文化人類学、フランス語、西洋哲学だ。ちゃんと授業の内容も覚えている。教授の中村は脱線してほとんど最近の時事ネタを話して終わった。フランス語の授業は映画のシーンを見て、自分なりに字幕を付けてみるというものだった。
 確かにノートも取ったはずだ。そう思ってカバンの中からルーズリーフを取り出したけれど、何も書いていない。
「大丈夫か?」
 でも、考えてみれは確かにそうだ。輝行が生きているのだから、いくらリアルだったとしてもあれは夢だったのだ。
 そういえば、授業の雑談で「野心を抱いた若者が、町に出て出世する一生を過ごしたと思ったら、それはただ昼寝をしている間に見た夢だった」という話を聞いたことがある。それと同じなのかもしれない。琢巳が見た夢は一日分なのだから、一生を夢の中で過ごすことに考えればまだ短い。
 バスは二十分ほどで大学についた。半分くらいを占めていた若者がどっと降りていく。
「じゃあ、後でな」
「待っ……」
 とっさに引き留めてしまった。輝行は怪訝な顔をしている。
「どうしたんだよ、お前ほんとに今日はおかしいな」
 嫌な汗が引いていかない。輝行を見ていると不安で仕方がなかった。
「車に、気をつけてくれ」
 それを口にすると動悸がした。
「小学生か、俺は。あ、さっきの夢の話?」
「そう……そうなんだ。交通事故は悲惨だ」
「オッケー、めっちゃ気を付けるわ。じゃあ後でな!」
 明るい笑顔を残して輝行は去っていく。締め付けられるみたいに心臓が痛んだ。取り返しのつかないことをしてしまったような恐怖を感じる。今すぐその背中を追いかけて抱きしめたい。
「あ、テルおはよー」
「はよ」
 でもさっそく彼は誰か友人と楽しそうに話している。誰でも分け隔てなく話す輝行には友人が多い。いつも教室の隅にいた琢巳にも話しかけてくるくらいなのだから。
 琢巳はしばらくその場で、去っていく輝行の背中を見つめていた。


「だめだ、タクシーに乗ろう」
 プレゼントは店の人のすすめで木のおもちゃにした。それにも琢巳は見覚えがあった。夢の中で選んだものと、まるきり同じだった。
 輝行はすすめられたそのおもちゃをすごく気に入っていた。地元に帰ったら一緒に遊んでもらおうとはしゃいでいる。それも昨日の反応と同じだった。
「なんでタクシー? 急いでんのか?」
「いや……」
「じゃあ歩きでいいだろ」
 三時に待ち合わせて、大学からほど近い繁華街の店に寄った。
 勘違いだ、これはデジャヴだと何度も自分に言い聞かせた。初めて体験することなのに、一度経験したことのあることだと脳が勘違いする。疲れているときにはそういうこともある。だけど、あまりに夢と同じことばかり起きる。授業の内容も、教授の雑談までまるきり同じだった。
「さっさと行こうぜ、俺腹減った」
 この道を歩くことも同じだ。そしてこのまま進めば、あの惨劇が起こる。
「なぁ、タクシーで……」
「そんな金ねぇって。あんなら俺に全部乗せおごってくれ」
 輝行は相手にしてくれない。それもそうだろう。普段タクシーに乗れるような生活はしていない。お互い東京で暮らすための金はかつかつで、だからこそルームシェアという方法を選んだのだ。
「テル」
「お前ほんとにおかしいぞ?」
 輝行は手に紙袋を持っている。それが大きくへこんで、血に濡れていたところを確かに見た。そうだ、確かに見たのだ。
「それ、持つから」
「いや重くないし」
「持つよ」
 このまま歩いていくと道沿いに公園がある。あれは夢だったはずだ。でももしかしたら何かの警告かもしれない。本当に、輝行は車に轢かれてしまうかもしれない。
 そうならないために何をしたらいいのか。この道はだめだ。公園からボールが転がってきて、それを追って子供が飛び出す。その子供を助けるため、輝行は車に轢かれる。
「ちょっとそこで、お茶してかないか」
「何言ってんだよ。ラーメン食おうって言っただろ?」
 ラーメン屋まで行くのに最短だとわかっている輝行も譲らない。どうしよう、どうしようと思っているうちに公園が近づいてくる。子供が遊んでいるらしく、甲高い声がした。心臓が狂ったように早鐘を打っていた。
「テル、ちょっとここにいてくれ」
 ボールが飛び出てくるのがいけないのだ。
「どうしたんだよ、お前」
 さっきから変なことばかり言っているせいで、輝行はけげんに思っているようだ。でも、背に腹は代えられない。
「車に……車に気を付けてくれ」
 それだけ言って、琢巳は駆け出した。公園からいつボールが飛び出てくるのか正確な時間はわからない。でも、もし今日が月曜日で、本当に夢と同じに進むなら飛び出てくるはずだ。
「袋持とうか?」
 あきれたように輝行が言う。
 公園はさほど大きくない。入り口近くで小学生くらいの子供が数人、青いボールで遊んでいた。見覚えのあるボールだ。公園の入り口にはボール遊び禁止と大きく書かれているのに。
「おい!」
 自分はただの大学生に過ぎないけれど、小学生から見たら大人みたいなものだろう。地元にいたような怖いおじさんをイメージしながら声を張り上げる。でも、全然大きな声は出なかった。
「ボールで遊ぶなって書いてあるだろ!」
 子供たちがびっくりした目でこちらを見ている。ちょうど青いボールを手にしていたのは、見覚えのある子だった。輝行が事故に遭ったあとに泣きじゃくっていた男の子だ。お前のせいで、という怒りと焦りとで頭がかっとなる。
「道路が近いんだから危ないだろ! いつボールが外に飛び出て……」
 一瞬のことだった。
 ボールは少年の手の中に、紙袋は琢巳の手元にあった。大きなクラクションの音がした。琢巳は振り向く。そうして公園の外に駆け戻る。
 わけがわからなかった。ボールは飛び出なかったのだ。だから少年を助けるためにとっさに輝行が道路に飛び出るなんてこともなかった。正夢にはならない。ならないはずだ。
 道路から大きくそれた車が歩道に乗り上げ、住宅に半ばめり込んでいた。
 ちょうど、輝行が立っていたはずの場所だった。彼の姿は見えない。だけど夕暮れの日差しの中、血が歩道に広がっていくのが見えた。
 赤く照らされた血がゆっくりと、アスファルトの上に広がっていった。


「正面にタクシーがいるので拾ってくださいね」
 はい、と冷静に答える自分の声が遠くから聞こえた。病院に泊まることはできないのだという。だから家に帰らないといけない。
 夢の中でもそうだった。はっきり覚えている。自宅の住所を運転手に伝える。呆然としたままタクシーに乗って、家に帰った。
 頭が働かなかった。これもやっぱり夢だろうか。夢の中で月曜日を繰り返している? 泣きじゃくったせいで目が重い。いっそ自分もこのまま死んでしまいたい。
 タクシーを降りてマンションを見上げる。何の変哲もない、よくある古い建物だ。当然ながら、部屋に電気はついていなかった。
「なんでだよ……」
 ここ以外に戻るところはなかった。でも、戻っても輝行はもういない。
「なんでなんだよ……!」
 重い体を引きずるようにして部屋に入る。電気をつける気がしなくて、そのまま自分の部屋のベッドに直行した。何かを蹴飛ばした気がするが構わない。
「なんで……」
 〝オッケー、めっちゃ気を付けるわ〟
 でも車が突っ込んできたらどうしようもない。輝行は歩道にいた。前の時は彼が車道に飛び出ていったことが原因だったから、どうにかすれば避けられるだろうと思った。でも、急に意識を失った運転手の車を避けるなんてどうしたらできるのか。
 ボールは確かに飛び出さなかった。自分は何が起こるかわかっていたのに、助けられなかった。頭の中で、夕方の光景が何度もぐるぐる再生される。
「夢だったはずなのに……」
 本当に事故が起こるのかどうか半信半疑だった。一度目の月曜日は夢だと思い込もうとしていた。
 男の子を止めるだけではだめだったのだ。輝行をタクシーに無理やり押し込んでしまえばよかった。そうしたら今頃輝行もこの家の中にいたはずなのに。
 病院のベッドに横たえられ、布をかぶせられた輝行の姿を思い出してぞっとする。何もできなかった。事故が起こるのは琢巳にとっては二度目だったのに。
「くそ……っ」
 寝そべっていても後から後から涙があふれて顔の横を伝い落ちていく。
「テル……っ」
 この世で一番好きな、初恋の相手で友人で、自分の世界を変えてくれた大事な人が死んだというのに、あまりにも自分は無力だった。
「なんでだよ……! なんで、なんで……」
 これは何かの間違いだ。そうに違いない。だって、こんなのが現実のはずはない。ああそうだ夢だ、これはきっとまだ夢なのだ。長い長い夢。もう一度眠ったらきっと。きっと輝行は生きていて……。
 〝琢巳? 遅刻するぞ?〟
 心臓が壊れそうだった。
 頭ががんがんする。神でも悪魔でも何でもいい。何もかもなかったことにしてほしい。そのために犠牲が必要なら何だってする。輝行が助かるなら。
 疲れているはずなのに目は冴えて、なかなか眠りにつくこともできなかった。ぐるぐると思考を繰り返して疲れ果て目を閉じたとき、あの言葉がふと浮かんだ。

 ――やり直しますか?


第2章

 琢巳は人づきあいが昔から得意ではなかった。外で誰かと遊ぶより、家でゲームをするのが好きだった。母は良い成績を取ってさえいれば叱らなかった。新しいゲームを買ってもらうのも成績が条件だったから、必死に勉強もした。
 勉強はゲームと同じだ。何度かやれば解決法が見えてくる。どのポイントを押さえて、どのくらいの時間で、ダメージを叩き込めばいいか。
 特に琢巳がはまったのはオンラインのFPSだった。登場人物の視点で、銃を撃って戦うシューティングゲームだ。世界各国から様々な人が日々ログインしている。最初にネットにつないだときは、手練れなプレイヤーに瞬殺された。悔しくて怖くて、その日の夜はなかなか眠れなかった。まるで自分自身が撃ち殺されたみたいだった。
 だけどそれから毎日のようにやっていたら上手くなって、かなり長い間生き残れるようになった。
「お前ゲームうまいってマジ?」
 輝行から話しかけられたのも、最初はゲームの話だった。
「まぁ……よくやってるけど」
「え、何やってる?」
 家に呼んで一緒にゲームをすると、輝行は琢巳を上手すぎると言って褒めちぎった。
「うっわー、すげぇ、まじ上手いじゃん」
 褒められて悪い気はしなかった。だからあれこれ輝行に教えたけれど、輝行はあまり上手ではなかったし、上達もしなかった。それでも、輝行はいつも楽しそうだった。
 輝行が琢巳の家に遊びに来るようになると、輝行と仲がいい同級生も行きたいと言うようになった。彼らの誰より、琢巳はゲームが上手かったので尊敬された。
 いつもクラスの隅に一人いた琢巳は、徐々にクラスになじめるようになった。
 輝行のおかげだった。琢巳がどれだけゲームがうまくても、場所が琢巳の家でも、輪の中心にいるのはいつも輝行だった。
 他の誰かよりもずっと長く、輝行と一緒にいたいと思った。幼い独占欲はやがて性の目覚めを経て、片思いに変わった。いつも輝行は誰かに囲まれていて、自分はそんな彼の大勢の友だちのうちの一人だった。
 自分にとって、輝行はたった一人の特別な友人なのに。


「お前意外と詳しいんだな」
「研究したんだ」
「そうだなー、世話になったしな。助かったわ、俺こういうの全然わかんねぇし」
 八重歯を見せて輝行が笑う。その表情を見ただけで、胸が張り裂けそうだった。
「いや……店員さんが、色々教えてくれたし」
 三時。輝行はまだそばにいる。生きている。琢巳は先輩への贈り物を買う店を、電車で三十分ほどかかるデパートにしようと提案した。わざわざそんなところまで行かなくてもと最初輝行はしぶったものの、琢巳が粘れるとすぐに折れた。
「やっぱデパートだと違うよな。行ってよかったよ」
 これであの車と輝行が遭遇することはない。
 最初の月曜日のことを、琢巳は細部まではっきり覚えているわけではない。でも原因はボールではなく運転手だ。あの運転手はあそこで意識を失う。きっともしボールが飛び出さず、かつ琢巳と輝行が歩道をあのまま歩いていたとしても、車は突っ込んできたに違いない。そのときは琢巳も一緒に死んでいただろう。
「それならよかったんだけどな……」
「ん?」
 デパートでは木のおもちゃを買った。子供のおもちゃを選ぶのが初めてである輝行も、そのおもちゃが気に入ったようだった。
「会いたいなー、赤ちゃん」
「そうだな」
「いやでもほんと、仁礼さんがパパとか笑っちゃうよな」
 このまま家までは電車に乗って帰る。交通事故に遭う可能性は限りなく低いだろう。
「すごいよな」
 遠い目をして輝行は言う。いつか自分の子供が生まれるときもあるのかと、想像しているのかもしれない。だがこのままだと、そのときは一生来ないかもしれない。
「ああ、すごい。どんな気持ちなんだろうな」
 どういう理由かはわからない。だが琢巳は、十一月十一日の月曜日を繰り返している。
 まだ夢だとか、ある種のデジャヴだとかいう可能性も捨ててはいないけれど、現象としてはどうやらそういうことが起きている。琢巳にはちゃんと記憶も残っている。だが、書いた文字などはもう一度月曜日が始まるとなくなってしまう。
 二度、輝行は死んだ。輝行本人はもちろんそんなこと知る由もない。彼にとっては初めて経験する十一月十一日なのだ。
 輝行は携帯を取り出して、仁礼から送られてきた子供の写真をまた見ている。しわくちゃで赤い顔をした猿みたいな赤子だった。正直琢巳にはさっぱりわからないが、輝行は「目の形が仁礼さんと似ている」とでれでれした顔でいう。
「今から戻ろうか? 向こう。新幹線なら行けるだろ」
「お前そんなにこの子に会いたいのか?」
 輝行の気持ちを汲んだつもりだったのに、逆に怪訝そうに問い返されてしまった。
「そんな金ないだろー」
 冗談だと思ったのか、輝行は笑っている。
 金ならどうだっていい。新幹線に乗っていて事故に遭う可能性は高くないと思う。少なくとも歩道を歩くよりはずっとましだ。でもどこにどんな危険があるかわからない。
「いや、本気で。もし行きたいなら」
「別に年末には戻るだろ? 急に行ったって向こうも困るだろうし、今日はいいよ。それよりラーメンだ」
「ラーメンはだめだ」
 嫌な記憶がよみがえってきて、琢巳はとっさに強い口調で言っていた。
「はぁ?」
「コンビニで買って帰ろう……いや、出前でもいい」
「何だよ急に。俺はラーメンが食べたい」
 あの日も輝行はラーメンが食べたいと言った。いや彼にとってはあの日も何も、そもそも「今日」なのだから当たり前なのだろう。一日に起こることはほぼ同じだ。
「お前食いたくないならそれはそれでいいけど。俺は食いに行くから」
「……いや」
 何と言って彼を危険から遠ざけたらいいのか。車はとにかくだめだ。ラーメン屋はあの事故に遭った通りに面している。車の通行量は多いし、あの病気の運転手はきっと今日もあそこを通るはずだ。
「お願いだから、今日は一緒に家で食べよう。明日、全部乗せおごるから」
「今日食べたい気分なんだよ」
 輝行が頑固なことは知っている。お前が死ぬのをもう見たくないんだ、なんて言ったとしても信じてはもらえないだろう。車が仮に突っ込んできたとして、そばにいて周囲をよく見ていたらどうにかできるだろうか。
「わけわかんねぇ、予定より時間かかったし腹減ってんだよ、こっちは」
 言われて駅の時計を見ると、もう五時をかなり過ぎていた。もうすぐ事故のあった時間だと琢巳はふいに気づく。駅の中にまで車が暴走して入ってくることは絶対にない。
「ごめん……じゃあ、俺も食べに行く」
 大丈夫なはずだと思うのに、動悸はやまなかった。不安で仕方がない。
「何なんだよ、変だぞ、お前」
「ちょっと……色んなことがあって、頭が追いついてないんだ」
 ホームに電車が近づいてくる。輝行に全部話せたらどれだけ楽になるだろう。でも、これから死ぬなんて言っても、いたずらに混乱させてしまうだけだ。
「何が? 琢巳は心配性なんだからさ、俺に話してみろよ。意外とそんな大したことでもないかも」
「そういうんじゃないんだよ……!」
 公園の男の子は大丈夫だろうかと不安になってきた。もともと彼のボールが外に飛び出したことが原因だった。あの場にボール遊びを止める琢巳も、少年が飛び出るのを阻止する輝行もいなかったら、男の子はどうなるのだろうか。
 ボール遊びはやめるよう、早い時間に公園に行って伝えてくるべきだったかもしれない。あるいは、誰か近くにいる人に注意してもらうか……。
「おい、琢巳ってば」
 琢巳は男の子のことを考えながら、じっと前を向いていた。だから隣で何が起きたのか目撃はしなかった。「え」という小さな声が聞こえた気がした。それが輝行の声だと気付いた時にはもう遅かった。
 急ブレーキの軋むような音が聞こえ、顔に何か生暖かいものが飛び散った。目の前には電車が滑り込んできていた。急ブレーキをかけた列車は、琢巳の少し前で止まった。
「なん……なんで」
 琢巳の隣に、輝行はいなかった。

 ・

 今日は一日家にいてほしい、と頼み込む。これは怪訝な顔をされただけで、輝行は結局大学に行ってしまう。
 先輩への贈り物を一緒に買いに行かない。これは輝行が一人で行くだけで、公園の前で事故に遭うのは同じだった。
 先輩への贈り物を買うのを翌日に延ばし、二人ですぐにラーメンを食べに行く。だけどラーメンを食べた後、輝行はやはり事故に遭う。
 細部は異なる。だが、何度やり直しても輝行は死んだ。
 東京にいるのがいけないのかと思った。だからどうしても今日、実家に戻らないといけなくなったので一緒に来てほしい、と頼み込むこともしてみた。でも輝行は来てくれなくて、車に轢かれた。
 何度繰り返しても、輝行は死んだ。暴走する車、突然の落下物、電車……まるでこの町自体が彼に刃を向けているかのようだった。
 輝行が電車に轢かれたとき、その原因になったのはふらついた男だった。ろれつが怪しく、酒かドラッグでもやっているのだろうということだった。輝行に対して悪意があったわけではない。でも、彼はたまたまふらついて輝行を突き飛ばした。そばにいた琢巳ではなく。よりによって輝行だけを、まるで狙ったかのように。
 何をどうしたらいいのかわからなかった。海外にでも行けばいいのか。でも、輝行はパスポートを持っていない。そもそも彼を説得するだけの時間も足りない。いや、それ以前に飛行機が落ちるかもしれない。
 もう何度目の月曜日なのか、よくわからなかった。
 毎回、一日が終わる時にはあの「やり直しますか?」という問いが現れ、はいと答えると同じく月曜日が始まる。
 輝行は一限に出るため八時半には家を出る。琢巳の目が覚めるのは決まってアラームの鳴る八時だった。あまりにも時間が足りなかった。
 記録を残そうとしてノートに書いたり、パソコンに保存したりしても時間が戻れば消えてしまう。頼りになるのは自分の記憶力だけだった。
 死因の共通点は事故であることだ。いきなりナイフで刺されたりすることはなかった。ならばきっと避ける方法はあるはずだ。

「何なんだよ……! おい、おかしいだろ!」
「ごめん」
 家を出てはいけないのだと思った。だが、輝行を三十分の間で説得し、一日家にいてもらうことがどうしてもできない。ゲームをしていようとか、一緒に大掃除をしようとか、色々と提案もしてみた。だけど輝行は呆れるばかりで、毎回大学に行ってしまう。
「ごめん、お前のためなんだ」
「何言ってんだよ……!」
 だから琢巳は説得を諦めた。琢巳だって本当はこんなことをしたくない。だが、もう輝行が死ぬのを見るのはまっぴらだ。
 琢巳は輝行を押し倒し、ガムテープで両手を後ろ手に拘束した。
 車や電車に近づかせないためには、ずっと家の中にいてもらうのが一番いい。家の中で事故死する方法はそう多くないはずだ。包丁や凶器になりうるものは後で捨ててしまえばいい。
「何なんだよ、おかしいだろ、お前……!」
 途中で邪魔が入ってはいけないから、仕方なしに輝行の口にガムテープを貼る。おびえた目で輝行は琢巳を見ていた。
 俺だってこんなことはしたくない。そう訴えたかったがそんな時間ももったいない。とにかく彼が家を出るのを阻止できれば、ゆっくり道具を用意することもできる。
「んん……っ!」
 輝行の目からぼろぼろと大粒の涙がこぼれる。その様子を見ていられなくて、琢巳は目をそらした。
「ごめん……」
 彼自身を傷つけたいわけではないが、どうしても彼が死んでしまうのを阻止しないといけない。
「今日一日、輝行には家の中にいてもらう。その方が、お前のためにもいいんだ」
 目だけで輝行は敵意をあらわにしている。たぶん琢巳のことを、頭がおかしくなったと思っているのだろう。そうなのかもしれない。一瞬琢巳はわからなくなる。自分は頭がどうにかなってしまっていて、友人をこんな風に監禁している――いや、違う。
 あんなにリアルな夢ばかり何度も見るはずがない。
「お前に……死んでほしくないんだ」
 思い出すだけで心臓がすりつぶされそうだった。もう二度と彼をあんな目に合わせはしない。
 そのためにはすべきことがたくさんあった。彼を一日、ちゃんとこの部屋に閉じ込めておくためにはどうしたらいいか。道具は他に何が必要なのか。時間はない。

 彼を辱めたかったわけではない。でも、近所のホームセンターで買えるのは犬用の首輪くらいだった。その鎖を見て、輝行は目を震わせた。
「ごめん……違うんだ、ごめん」
 輝行は命が助かっても自分を許さないかもしれない。きっともうルームシェアは解消だろう。いっそすべてやめにして、いつも通り彼と大学に行きたいと思ってしまう。
「んん……っ」 
 でもそれではだめだった。どうしたって彼を助けられない。こうするしかないのだ。輝行の目の周りは乾いた涙でごわごわになっていた。
 すべて終わったとき、「実はこんなことがあって」と話したら彼は理解してくれるだろうか。
 ……理解してくれなくてもいい。
 彼の命が助かるかどうか。大切なのはそれだけだ。
 ホームセンターで、ロープや飲料水、おかゆなども買った。歩いて十分ほどのところに大型店があって助かった。一日くらいは食べなくても何とかなるだろうとは思うが、いたずらに輝行を苦しめたくなかった。
 動画を見ながら新しいロープで輝行の手を後ろ手に縛り直した。手錠でもあったら便利だろうが、さすがに近所のホームセンターでは売っていない。あの店で買えるものをなるべく正確に把握し、使うしかない。
 首輪の持ち手は自分の腕に結んだ。そうすることで、輝行をトイレにも連れて行けるようになった。この家のトイレには窓がない。でも、不安だから輝行が用を足すところまで手伝ってやることにした。
 やめろ、と彼が喋れない口で言っているのがわかる。自分は確かに彼が好きだが、こんなことに興奮したりはしない。そう思いながらも、彼のズボンを下げ、下半身を露出させると冷静ではいられなかった。
「ほら」
 後ろ手に縛られたままの彼はうまく便器の中に排尿することができない。琢巳は彼の性器を持って、彼がうまく用を足せるようにしてやる。輝行がすすり泣いているのがわかる。少しの時間のあと、彼は泣きながら排泄した。
 手を軽く洗って、また彼のズボンを戻してやる。輝行は一層ぐったりとしていた。腹が減っているのだろうか。
 粥を電子レンジで暖め、すべての窓がきちんと閉まっていることを確認し、念のためにカーテンも閉めた。叫んだとして平日の昼間だし、誰かがいきなり飛び込んでくるということはないと思う。だけど念のため、輝行に何度も「大声を出さないように」と言い含めてガムテープを外した。
 手は縛ったままなので、粥をすすれるように皿を傾けてやる。輝行はむせながらもそれを飲み込んだ。朝ご飯も食べていないし、よほど腹が減っていたのだろう。本当はラーメンが食べたいのかなとちらと思う。
「なんで……こんなこと、するんだ」
 かすれた声で輝行は言った。
「俺が……そんなに憎いのか」
「違う」
 琢巳は輝行にちゃんと自分の気持ちを伝えたことはない。ルームシェアを提案してきたのは輝行からだった。ずっと彼を好きだった琢巳にとっては、信じられないほど幸運な話だった。
 輝行は実家を出たがっていた。だが、あまり金銭的な余裕はなく、東京での一人暮らしをできる方法を探していたらしい。
「俺が……お前を……無視したから」
「無視?」
「仕方なかったんだよ」
「何を……、もしかして、中学の時のことか?」
 遙か昔のことだったし、嫌な記憶は思い出さないようにしていた。輝行との思い出はいいところだけ覚えていたい。
 輝行とは同じ中学に進んだが、中学ではほとんど話さなかった。琢巳にも小学校からの友人が一応いたのだが、たまにたちの悪い連中に絡まれることがあった。いじめというほどではない。宿題を代わりに写せとか、ノートをよこせとか、その程度だ。そういう風に絡まれているときに、別のクラスの輝行とたまたま会ったこともあったかもしれない。
「なぁ……だから、こんなことするんだろ?」
 琢巳にとっては、輝行がそんなことを覚えているほうが意外だった。
 ずっと気にしていたのかと思うと、嬉しいような苦いような、何とも言いがたい気持ちに襲われる。
 輝行に告白するつもりはない。彼は雑誌のグラビアアイドルが好きだし、携帯でAVを見ながら部屋でたまに抜いていることも知っている。彼は異性愛者で、自分は対象に入れてもらえることなんてないだろう。そこまで思い上がってはいないつもりだった。
「……違う」
 かろうじて琢巳はそれだけ口にした。
「俺はテルに、恨みなんてない」
 輝行は、怯えた目で輝行を見ていた。以前のように親しげに笑ってくれることはもう一生ないのだろう。そう思うと、彼の命を救うためだとはいえ辛かった。