「なんて呼べばいい?」
その人は、タバコのにおいがした。
よく知らない大人の男。親でも、先生でもない。
「おじさん、じゃねぇの」
投げやりな口調だった。
「なんかそれで困ることでもあんのか」
「友達が不思議に思うかも」
「あ?」
「もらいっ子なのかな、ってかわいそうな目で見られるかもしれないじゃん」
彼の機嫌を損ねてはいけないのだ、ということは子供心にもわかっていた。彼が自分を引き取ってくれなかったら、行く先は施設しかない。
もう、絶対的な味方など自分にはいないのだ。
「そうじゃなくても俺はかわいそうな子だってこれからいろんな人に見られるのに」
だけど言葉が止まらなかった。
賢いとか、生意気だとかはよく言われていたけれど、決してそのとき反抗的な気持ちでそうしたわけではなかった。
通夜の時も、葬式の時も、ほとんどしゃべることができなくて、やっと口を開けたら止まらなかったのだ。
どこにも行き場のない言葉があふれていた。
「じゃあ、『一匡さん』でいい」
「僕が援助交際してるみたいに思われない?」
「思わねぇよ。っていうか、今でも援助交際って言うのか?」
そうして初めて、叔父は笑った。
葬儀場の外にある、喫煙所だった。他にタバコを吸っている人間はいなかった。そうしろと言われたわけではないけれど、歩は本能的に彼のそばにいるようにしていた。口さがない噂話には慣れている。どの親戚も、向けてくる目は同じだ。
かわいそうに。
こんな小さな子が。
「最近の葬儀場って、煙でねぇんだな」
そのとき、叔父はまだ三十歳そこそこだった。後になって思い返せば、ほとんど若者に近いような年齢だ。
「煙?」
だけど当時の歩にとっては、彼は「大人」だった。
近づくと強いタバコのにおいがした。父は、タバコを吸わなかった。
「煙突から」
言われて歩は、葬儀場の建物から高く伸びている煙突を見上げる。工場のような細くて立派なその煙突からは、確かに一条の煙も出ていなかった。
「これじゃ、天に昇ってくぞとか言えねぇじゃんな」
「天にのぼったりしないよ」
「あ?」
「もう二人とも、とっくにここにはいない。死んだんだ、それだけ」
なぜそのとき、自分がそんな風に言ったのかは覚えていない。でも、空に昇って消えていく、そんなのは嘘だと強く思った。
二人とも死んだ。ここで燃やされているのは体だ。そのことは幼くてもはっきりとわかっていた。
叔父はあっけにとられたような顔で歩を見ていた。だが少ししてから静かに言った。
「そうだな」
それからしばらく、煙の出ていない煙突を二人で眺めていた。叔父の手にしたタバコから、ゆるやかに白い煙が立ち上っていた。
叔父との暮らしは、実際簡単ではなかった。
彼は一人暮らしで、ずいぶん自堕落な生活を送っていた。歩が学校に行く時間にはだいたいまだ寝ていた。食事も適当だった。
「これ、食っていいから」
そう言って彼が指差したのは、固形の栄養食品だった。どうやら箱で買っているらしく、大量に積まれている。だが、逆に言えばまともに食べられそうなものはそれだけだった。皿も箸もない。
「一応僕、成長期の子供なんだけど。食事は三食、バランスを考えて……」
「お前は本当に賢いお子様だな」
叔父が自分を引き取るまでには、おそらく議論があったのだと思う。彼は子育てには向いていない。
「大丈夫、栄養バランスって書いてある」
投げられた箱を受け取る。仕方なく、歩は牛乳でそれを飲み込んで通学した。
彼の昼夜は完全に逆転していた。たまに、取材だと言って家を空けた。「ライターくずれ」と親戚が言っているのを聞いたことがある。あまりよろしくないお店や人を取材して文章にして、お金をもらっているらしい。
叔父のパソコンの前には灰皿があって、いつも吸い終わったタバコが山盛りになっていた。
「なんでおじさんが僕のこと引き取れたのかよくわからない」
「お前が俺の面倒見てくれると思ったんじゃねぇの」
たぶん、子供は面倒だとか金がかかるとか、そういう話なのだろう。
父は昔から、歩のことを大人と分け隔てなく接してくれた。家計の状況についてだとか、世間でどんなひどい事件が起きているかとか、包み隠さず話した。たまに母はそれに難色を示していたけれど、自分がちゃんと一人前に扱われている気がしてうれしかった。
ほとんどは知ったかぶって、わからないことにも相づちを打っていただけだった。
だけど気がつくと歩は実際、早熟で頭がいいとよく言われる子供になっていた。
「僕、勉強があるし家政婦じゃないんだけど。家事も労働のひとつだから、子供を働かせるのは条約違反じゃないかな」
「お前はほんとに、そういう言葉をどこで覚えてくるんだよ……」
叔父は適当だったが、歩との暮らしを面白がっている風ではあった。
夜に出かけるときは、ちゃんと戸締まりをして、誰が来ても出ないように言い含められた。小遣いもくれたし、必要なものがあればちゃんと調べてくれた。
勉強をしていると、邪魔しないように電話も小声で話してくれた。
全然似ていない、と親戚はみんな言っていた。
でもやっぱり、彼は父とよく似ていた。
「うそ、誘拐!?」
「隠し子って発想はねぇのかよ」
来客はあまり多くはなかった。叔父はよく電話をしていたけれど、直接会うのは面倒らしい。だがたまに、着飾ったやたらきれいな女性が訪ねてくることがあった。
これから出勤なの、と彼女は言っていた。夕方だった。
「えー、何、かわいいじゃん。全然似てない」
その女性は、歩の顔を両手で挟むようにして言った。
「ちゃんと血縁関係はあります」
「えー、何? かわいい」
もう一度彼女は繰り返した。
誘拐かと言ったのは叔父への冗談のようで、彼女はどうやらおおむねの事情を知っているようだった。
「っていうか、子供がいるのにこの環境はひどくない?」
「僕もそう思います」
「少なくともタバコはやめときなよ。成長ホルモンとかに影響するかもしれないじゃん」
叔父が、歩を引き取るようになって家の中を片付けた形跡はない。
冷蔵庫の中は相変わらずほとんど空っぽで、ビールがいくつか並んでいる。歩はほとんど、もらった金でコンビニのご飯を食べていた。でもコンビニのご飯はおいしかったし、嫌だとは思わなかった。
むしろ、自由だと感じた。
その女性が来た翌日、叔父のパソコンの前から灰皿が消えた。
「タバコは?」
「また税額が上がったんだよ。信じられるか? あの小さい一箱に、いくら税金を掛けるつもりなんだよ」
叔父がよく手にしていたパッケージに書いてあった、「寿命を縮めます」といった文面を思い出す。
叔父はその日以来、ぱったりとタバコをやめた。いつも毎日、信じられないくらいの量を吸っていたのに。
「別に吸ってもいいよ、タバコ」
「あんな高ぇもん買えねぇってだけだよ」
それでも彼に近づくと、しばらくはやっぱりタバコのにおいがした。
女性はそれからもたびたび家に遊びに来た。来るときは、ちょっとしたお菓子やケーキを持ってきてくれたのでうれしかった。
歩はじきに、料理をすることを覚えた。自分で食べるだけなら、むしろコンビニのご飯の方がよかった。でも、ろくに食事をとらない叔父のことが心配だった。
「子供に家事をやらせてるの? 分担するって発想はないわけ?」
女性の言葉で、料理や掃除もじきに当番制になった。
「言いたいことがあるならちゃんと言いなさいよ」
歩はうなずく。この奇妙な部屋での生活も、すっかりなじんできていた。
「あの人、別に冷たいわけじゃないのよ。単に、扱いがわかっていないだけで」
「わかってます」
まるで歩が何か答えることを予想していなかったみたいに、彼女は驚いた顔をした。
「付き合ってるんですか?」
「え?」
「一匡さんと」
そう言うと、彼女は目を白黒させた。
「あのね……」
「言いにくいことなら別にいいです。でももし、結婚をする際に僕の存在に困るようなら……」
「付き合ってません」
きっぱりと、強い口調で彼女は言った。
彼女が水商売の女性なのであろうことは、もうわかっていた。そしてどうやら、叔父は取材か客としてなのかはわからないが、店で彼女と出会ったらしい。彼女以外に、叔父のまわりに女性はいなかった。
「そういうんじゃないの」
「そうですか」
本当は少し疑っていたけれど、それ以上の追求はできなかった。
「納得してないでしょ」
図星を指されて、歩は口ごもる。
「あなたは子供にしてはとても賢いし、大変な境遇なのによくやってると思う。本当に偉い。でも、いろいろ複雑なこともあるの。それもわかってね」
「……はい」
その日の夜、叔父は珍しく酔っ払って帰ってきた。
彼は普段、少し引っかけてくることはあっても、泥酔まではしない。
「お、歩」
すっかりとろんとした目をしていた。
「お水飲む?」
叔父は答えずに玄関で座り込む。
「ちゃんとベッドに行きなよ」
歩は彼の体を起こそうとする。だけど、体格が違いすぎていて、持ち上げられない。
「酒くさ……」
「歩」
ちゃんと歩のことは認識しているらしい。
「起きてるなら歩きなよ。今日はお風呂はやめて、明日入った方がいいよ。お風呂で死んじゃう人って、意外と多いんだって」
「歩」
叔父は急に、歩の体をがばりと抱きしめた。酔っている。そんな風に彼からスキンシップを取られたのは初めてだった。むしろ普段の彼は、人を寄せ付けない。
「何してんだよ、ちゃんと起きて」
「お前は本当に偉いな……」
「酔っ払いに言われてもうれしくないよ」
普段の叔父と違いすぎていて、何だか怖かった。別の人間みたいだ。強いアルコールのにおいに混じって、タバコのにおいがする。外ではやっぱりまだ吸っているのだろうか。
「俺ができることは、何でもしてやるからな」
そんな風に言われるのは初めてで、歩はどう反応していいかわからなかった。
小遣いだって一応もらっている。家計に余裕があるようにはみえなかったけれど、欲しいものがあったら言えとも言われている。
でも、今彼が言ったのはそういうことではなさそうだった。
「なんで……?」
彼がどうして自分を引き取ることになったのか、くわしいいきさつは知らない。
母は一人っ子だったし、ほかに人がいなかったのだろうと思っていた。祖父母ももう亡くなっている。
貧乏くじだ。実際に、そう言われているのも聞いた。
「なんででもだよ」
叔父は子育てにはまるで向いていなさそうな人に思える。
進んで引き受けたとも思えない。
「なんだよ、それ……」
叔父の体ががくんと傾く。
学校でもどこでも、口さがない噂は耳に入ってきた。両親は殺された。それは、それなりに世間で耳目を集めた事件だった。
あの事件の子供。生き残り。そんな風に言われた。まるで両親が犯罪を犯したみたいに。たまたま事件に遭遇してしまった、それだけだったのに。
どんなことにでも言い返せるようになりたかった。誰にも後ろ指をささせないよう、強くなりたかった。でも、めげてしまいそうになることもあった。
そんなときいつも、叔父の言葉を思い出した。
”何でもしてやるからな”
歩が叔父の家を追い出されるのは、その三年後だった。
・
チャイムを押す。
ぴんぽん、と間抜けな音が鳴る。出ない。再度押す。どうせまだ寝ているのだろう。二年ぶりだけれど、彼の普段の生活なら、手に取るようにわかる。
いっそ窓から入れないだろうか。どうせ戸締まりなんてろくにしていないだろう。そう思って、廊下に面した窓に手をかける。やっぱり開いている。乱雑に散らかった室内が見えた。
一応廊下側に面した窓だからか、鉄格子がはまっていてすぐに中には入れないようになっている。
「誰かいませんかー!」
思い切り室内に向けて叫んだ。いるとしたら、その人物は一人だけだとわかっているのに。
「いい加減にしろ……!」
反応があったのは窓ではなく、ドアの方だった。
顔をのぞかせた叔父は、部屋着を着てぼさぼさの頭をしていた。特に変わったところがあるようには見えなかった。
でも少しだけ、前と違うのは目線の位置だ。歩の背は、もう叔父を越えていた。
「ただいま」
歩は思わず顔をほころばせる。
「……おう」
ごく不本意そうに、彼は答えた。やっぱりタバコのにおいがした。
この家には来客にお茶を出すような習慣がない。この家にいたとき、ティーポットや湯飲みといったものを見たことはなかった。
「買収しようってか」
歩が持ってきたケーキを見て、叔父は言った。
「調子いいみたいだね。読んだよ、本」
「勝手に読むんじゃねぇ」
相手にせずに、歩は鞄から本を取り出す。
「ちゃんと買ったから、サインしてよ」
「燃やしてやる」
「睨み付けた記憶なんてなかったんだけど」
二年前、歩はこの家を追い出された。十八歳の時だった。
大学の入学が決まったから。アルバイトで少しはお金が貯まっていたから。それもある。
でも一番の原因は、別にあった。
「お前、何しに来たんだ」
家を出て、金は更に貯まった。一人で生きていかなければいけないのだと思い詰めて、夜を徹して働いたこともあった。
でも、そうやって何とか頑張って多少余裕ができても、うれしいなんて思えなかった。
いくらか友達や、バイト先の人間関係ができても。
いつだって思い返すのはただ一人のことだった。
「またあほなこと抜かすなら、今すぐこの家から追い出すぞ」
「どうしていけないのかわからない」
歩は叔父をにらみつける。この家で暮らしていたときにも、何度も繰り返したやり取りだった。
それは家族愛の勘違いだ、刷り込みだ、若気の至りだ、気のせいだ……。
何度言い争っても、歩には納得ができなかった。
「お前なぁ……!」
「だって人が誰かを好きになるのは自由だし、素晴らしいことのはずじゃないか。何がいけないんだよ」
「いけねぇに決まってんだろ」
「どこでどう決まってるのかちゃんと説明してくれないとわからない。『決まってる』ってどういうこと? 世間の常識で? そういうの嫌いなくせに、自分に都合がいいときだけ持ち出すのはどうなの」
淡々と言いつのると、叔父は黙った。
「お前、変わんねぇなぁ……」
タバコのにおいがした。もうずいぶん懐かしい、香りだった。
「吸ってるんだ」
「あ?」
「タバコ」
「……もうめんどくせぇガキもいねぇしな」
少し気まずそうだった。
部屋の中は散らかっていた。きっと随分来客がないのだろう。空のペットボトルや、電気の通知などが散らばっている。片付けたくて、うずうずしてくるくらいだった。
「俺は、ここに帰ってきたい」
二年前だって、歩は抵抗した。この家に居続けたいと。それでも彼の迷惑になりたくないという気持ちもあった。だからこそいったん引いた。
でも離れても何も解決しなかった。どうしたって、まだ彼のそばにいたかった。
「……大人になったんだ」
手にした叔父の本は、ルポタージュだった。荒れた暮らしをしている若者や、大人たちに寄りそった記事をまとめたものだ。叔父がずっとそういう仕事をしていたのだと初めて知った。とても過酷な状況で自らを切り売りする人や、過去の傷に苦しめられている人たちがたくさん出てきた。仮名になっていたが、家によく来ていた女性の記事もあった。すぐにわかった。
本の冒頭に書かれていた献辞はこうだ。
〝あの日、煙突をまるで憎い敵のように睨み付けていた小さな子供に〟
「だから?」
叔父はケーキを紙皿に移す。フォークが見たあらないのか、出てきたのは割り箸だった。
「ほら、食え」
「一匡さん」
適当で雑で、面倒くさがりのこの叔父が、まだ三十歳そこそこで子供を引き取るなんて、大きなことだっただろう。
こんなにこの部屋は狭かっただろうかと思う。何の変哲もない、散らかった狭い部屋だ。でもここが、自分の育った場所だった。
「なんで僕のこと引き取ったの」
「さぁな。お前が美少年だったからかも」
叔父は雑に答えた。
「……僕の家はここだけだ。他に帰る所なんてない」
「お前、それは反則だろ」
叔父はやけをおこしたみたいに、ケーキを思い切りほおばる。
未熟な自分を自覚してこの家を出て行って、でも諦めることなんてできなかった。それが、これまでの自分たちの関係を変えてしまう感情なのだとしても。
自分を偽ったりする必要はないということは、父や叔父に教えられたことだから。
「二十歳おめでとう」
もぐもぐとケーキを食べながら叔父は言う。その口にホイップクリームがついている。子供のような姿だった。
舐めとったら怒られるだろうなと歩は考えていた。でも、そうしたかった。
だからせめて手を伸ばす。
「あ?」
「生き残りって言葉さ、嫌いだったんだ。『売れ残り』っていうか、『未亡人』みたいな……死ぬのが本来だったみたいな」
避けようのない事件だった。両親は殺され、たまたま友人の家に遊びに行っていた歩は無事だった。それは本当にたまたまだった。殺されたことも、殺されなかったことも。なんで、と何度問いかけてもわからなかった。
今もわからないでいる。でも、少しだけわかってきたこともある。
「歩」
指先にクリームが触れる。
引き取るときもその後も、かわいそう、とは彼は言わなかった。学校に通い、いろいろな人と会う中で父や叔父のような人はむしろ珍しいのだと知った。だとしたら自分は、ラッキーなのだと思う。
かわいそうなんかじゃなく、ラッキーだ。父や母とも、叔父とも出会えた。
そうはっきりと言い切れる。
「ついてる」
歩は指についたクリームを自分の口に運ぶ。叔父は何も言わず、されるままになっていた。
――そうだ、僕はついてる。
何も部屋の中は変わっていないように思えた。歩が来る前と。でも、少しずつ違うものもある。冷蔵庫にはまだ、歩が学校に行っていた頃のプリントが貼り付けられている。キッチンの前には歩の背が小さかった頃用の踏み台があり、壁にはまだ歩が鉛筆で落書きした跡が残っている。
「僕、ここで暮らしてもいい?」
舌に載せたクリームが甘く溶けていく。母や父と暮らした時間は戻らない。でも、大丈夫だ。
「……勝手にしろ」
叔父はイライラしたように言って、残りのケーキを口に放り込んだ。