兄が弟に看病される話

「兄さん、風邪じゃない?」

 そう言われたときには特に自覚もなかった。

 体調が悪くなってきたのはその日の授業を終え、図書館で勉強をしていたときだ。最初は夕飯を食べていないせいかと思った。だけどやけに体が重い。それにのども痛む気がする。

 勉強もあまりはかどらないので早めに帰って寝た。和はバイトのようでまだ帰ってきていなかった。

 翌朝になって初めて自覚した。声がうまく出ないし、頭がやけに熱くて重い。風邪だ。

「やっぱり」

 いつの間にか起きて、もう身支度を整えている和が言う。

 なんで俺より先に気づくんだよと言いたかったがやめておく。全身がだるかった。正確にはわからないけれど、微熱ぐらいはありそうだ。

「七度あるかな」

 俺の額に勝手に手を当てて和は言う。

「そんなねぇよ」

「寝てなよ。水持ってきてあげる」

 今日は絶対に出なければいけない授業もない。寝ていればたぶん治るだろう。

「俺、今日家にいようか?」

 コップを差し出しながら和は言う。

「バイトは代わってもらえると思うし」

「いいから行けよ」

 体を起こせないほどつらいというわけでもない。

「朝ご飯は?」

 今まで、どちらかといえば体調を崩すのは和の方が多かった。

「いらない」

「何か買ってこようか」

「いいって言ってんだろ。お前がいる方が具合が悪くなる」

 彼を意図的に見捨てたあの冬のことを忘れてはいないので、看病されるのは気まずい。

 和は少し迷うように黙っていたけれど、そのうちに身支度を調えているらしい物音がした。

「じゃあ俺行くけど、辛かったら連絡して」

 そう言って和は部屋を出て行った。たぶん学校だろう。俺はベッドで寝返りをうつ。

「子供じゃあるまいし……」

 風邪くらいで看病されなくても大丈夫だ。寝ていれば治る。

 浅い眠りを繰り返して、気がつくと昼過ぎだった。

 熱は下がるどころか、少し上がっているように感じられる。世界のすべてがぼんやりしていて、でも重くのしかかってくる。

「腹減った……」

 カップラーメンはこの間食べてしまったばかりだ。家の中にはろくな食料がないことが明らかだった。

「何もねぇな……」

 ネットで宅配か何か注文しようと思った。だが携帯を手にしても頭が重く、操作をするのが億劫になる。空腹を抱えたままだらだらとベッドの上で寝返りをうち、俺はまたそのまま眠ってしまった。

 

 

 目を開くとほんのりと甘い香りがした。甘いけれど、どちらかといえばしょっぱい味を連想させるような……だしのにおいだ。

 何時間寝ていたのだろう。もう外は薄暗かった。キッチンに誰か立っている。

「起きた?」

 後ろ姿しか見えないけれど、他にいようがないから和だとわかる。

「お腹減ってるでしょ」

「またカレーじゃないだろうな」

 においで分かっていたけれど、それでも俺はかすれ気味の声で言う。目が覚めてひどくほっとしたことを否定したかった。実際、ろくに料理をしない和が今まで作ったのはカレーくらいだ。

「卵がゆだけど。食べれる?」

 一体いつの間に帰ってきたのだろう。普段ならまだバイトをしている時間だった。

「腹減った」

 俺はゆっくりと体を起こす。汗を随分かいていたようだった。寝ていただけなのに重い疲労感がある。

「兄さんは寝てていいよ」

 頭が重いのは半分くらいは寝過ぎなせいな気がする。でもだるいのは本当だったから、俺はベッドからぼんやり和を見ていた。

 しばらくして、和が器に粥をよそって持ってくる。レンゲなんてないからスプーンだ。手を伸ばそうとすると遮られ、そのまま和はスプーンで粥をよそって差し出してくる。

 子供じゃあるまいし、自分で食べられる。だけど空腹には逆らえず、俺は口を開く。

 だしつゆの味がする卵のおかゆは、簡単すぎるほど簡単な料理だろう。でも確かにそれは、実家と同じ味だった。

「どう、おいしい?」

「まぁ食えるな」

 米を煮てだしつゆで味をつけて、卵を落としただけだ。このくらい誰だって作れる。でも、じわりと体の中が温かくなる。

「熱下がった?」

 和はまた俺の額に手を当ててくる。その手は少しひんやりしていて気持ちがよかった。

「お前にうつせば治るかもな」

 間近にある和の顔を見てぼんやりと俺は言う。昼間より熱は下がったような気がするが、まだ体は熱い。

「うつしてもいいよ」

 風邪のせいで頭がまわっていなかった。間近にある唇に、俺はつい唇を重ねる。

 一瞬、戸惑うような沈黙が落ちた。

 俺は何をしているんだろう。

「――もう一回」

 そう言って今度は和が唇を寄せてくる。ほんとにうつるぞ、と思ったけれど、心地がいいので黙っておく。

 このじりじりとした熱が、本当にうつってしまえばいいのに。そうしたら俺は身軽になれる。唇から熱を受け渡そうとするかのように、俺は懸命にキスを続けた。

 本当に和に風邪がうつってしまい、今度は俺が粥を作る羽目になったのはそれから少し後の話だ。