さっきからちっともページが進まない漫画を閉じる。
一畳ほどの狭いスペースの中で、俺はため息をついた。そばには漫画の続きが何冊か積んであったけれど、全然読む気になれない。
家に帰ることもできず、俺は漫画喫茶で一晩を過ごしていた。
狭いけれど、誰かにスペースを犯されることはなく快適だ。
だがいつまでもここにいるわけにはいかなかった。
いい加減、一度家に帰らないといけない。
家に突然和が現れて、俺はすぐに母に抗議した。
だが、和が同居するということはもう決定事項だった。
「俺の家になんで……!」
「もともとそのつもりだったんじゃないの?」
「ふざけんなよ」
「仲良くしなさいよ、兄弟でしょう?」
二人で住むには狭い部屋だ。だが、家賃は母に出してもらっている。あの部屋を出たとして、俺に行くところなんてなかった。
一応漫画喫茶でシャワーを浴び、服がくさくないことを確認して大学に向かう。
出席が厳しい授業だけは顔を出して、あとはサボるつもりだった。あっさり和になびいた彼女からの連絡はまだなかった。
あれきりで終わりにするつもりなのかもしれない。
ラウンジで携帯をいじっていると、声をかけられた。
「あれ? 誉? 弟が探してたよ」
「は?」
一瞬、聞き間違いかと思った。
伊藤は同じサークルに所属する二年生だ。だが彼が和のことを知っているはずはなかった。和は、同じ大学ではなく専門学校に進学したのだから。
「あんな弟がいるなんて知らなかったわ」
「どこで会ったんだよ……!」
「どこって、サークルだけど……」
「は? サークル?」
俺の所属するサークルは一応山登りをする名目になっているが、普段は飲んでばかりいるところだ。男女比がだいたい一対一なのと、ゆるい雰囲気が好きで一年生の時から所属していた。
「あいつは大学にいってない」
「うちインカレだから、誰だってウェルカムだよ」
伊藤は何を今更という顔をしている。確かに、他大の女の子も所属している。でも、和がそこに入ってくるなんて思わなかった。
「なんで……!」
「そんな怒ることないだろ。和が言ってたの本当なんだな」
「何?」
「『兄さんには嫌われてる』ってさ」
そう言って伊藤は笑った。寒気が走った。
和のその発言を聞いたサークルの人間はみんな、和に同情したのだろう。どうして嫌うんだろう、バカだね、と言って。和は誰からでも好かれる。俺と違って。
授業が暇なときや、何となくやる気がしないときなど、部室でだらだらと過ごすのは楽しかった。でも、今日からはそこにも、和がやってくるのだ。
「まぁ、あんだけイケメンだったら反発する気持ちはわかるけどなー」
「冗談じゃない」
どうにかして和を、実家に帰らせないといけない。あるいは、俺が金を稼いで一人暮らしをするかだ。
「おい、誉」
「冗談じゃないんだよ……!」
このままだとどんどん、彼に居場所を奪われていくことは目に見えていた。
「あっおかえり」
もともと一人暮らしのために借りた部屋だ。そう広くはない。だけど和はいつの間にか布団を持ち込み、自分のスペースを作り出していた。
和の荷物は多くなかった。ちょっとした着替えと電子機器くらいだ。そういえばもともと、ものにはあまり執着のないタイプだったなと思う。
「ご飯食べた?」
小さいころから、おもちゃがほしいとか、ゲームがしたいとか、そういうことはまったく言わなかった。遊んでくれとはしつこかったけれど。
「普段シャワー? お風呂って入れてる?」
それでも人間がひとり増えると、部屋の中はぐっと狭く感じる。やっと、手に入れたはずの俺の城だったのに。
俺が無視していると、和は何でもないように言った。
「そういやあの女の子、ごめんって」
かっと頭に血が上りそうになるのを何とかこらえる。どうして、和の口からそんなことを聞かないといけないのか。彼女は俺と、付き合うと言ったはずだ。
「……他には?」
「付き合いたいって言われたけど断ったよ」
俺は思わず和の顔を見てしまった。和は少し得意げに見えた。
……まるで、褒めてくれとでも言わんばかりに。
俺は和に背を向けてベッドの上に丸くなる。風呂に入っていなかったがもういい。何もかも、うんざりだった。
和が近づいてくる気配がする。もし何かしてくるようだったら殴りつけてやろうと俺は体をこわばらせる。だが、和は必要以上に近づいてくることはなかった。
しばらくして、ぽつりと独り言のような声が降ってきた。
「兄さん、俺たち、うまくやってけると思うよ」
俺は何も答えず、寝たふりを続ける。
「たった二人の兄弟なんだから」
和と二人きりの部屋で眠れるはずなんてないと思った。和がいるだけで、気配がうるさい。なのにいつの間にか、俺は眠りに落ちていた。
・
俺の嫌な予感はあたり、和はあっという間にサークルに馴染んでいった。
和は人懐こく素直で、てらいがない。もし彼があの容貌でも、もっと人を寄せ付けない性格だったら、俺たちの関係も違っていたのかもしれない。
何もかも、和は俺とは正反対だ。
気難しいと噂の先輩も、あまり部にこないOBも、みんなすぐに和のことを気に入ったようだった。
俺は、サークルを離れることを考え始めていた。
いくつかサークルをかけもちしている生徒も多いが、俺は他の所には出入りしていなかった。
二年生からでもサークル捜しをしている者もいるにはいるが、やはり新入生とは歓迎度が違う。それに、それなりに居心地のいい部室を急に失うのもためらわれた。
俺は主に、授業の間の暇な時間に部室に通っていた。専門学校での授業が終わってから来るのだろう和とは、活動時間はかぶらないかもしれない。いや、そもそも和は時間的にあまりサークル活動などできないのではないか。
そう楽観的に考えようともしてみた。
「じゃあ、今日は来てくれてありがとうございました! 乾杯!!」
だが飲み会はどうしようもなかった。部員がみな集まる新人歓迎会に、最初俺は出席するつもりはなかった。だが俺が欠席を伝えようとしたときにはもう遅く、俺は既に出席扱いにされていた。
和が行くと勝手に答えてしまったそうだ。無視をして欠席してもよかったが、部長に迷惑をかけたくもなかった。
おいしくも感じられないビールをなめるようにちびちび飲む。
「今年はやっぱりお前の弟が目立ってるよな」
だが、伊藤などは容赦なく和の話題を振ってくる。
「彼女とかいるのか?」
「さぁ」
俺の元カノとは、付き合わないと言っていた。だが信用はできないと思う。
彼はわざわざ奪ったのだ。俺の彼女だと知っていて。和のことを人が良さそう、なんて言う人もいるけれど信じられない。
「むすっとしてんなよ」
「してない」
伊藤には彼女との顛末は話していない。というより、話せなかった。和の悪行を伝えて愚痴を言いたい気持ちはあるが、弟に彼女を奪われたと言うこと自体が恥ずかしかった。
「俺も兄貴いるけどさ、小学生くらいの頃にめちゃくちゃけんかしたけど、今は別にそんな争ったりしないよ」
「だから?」
「昔からけんかしてたのか?」
けんかと言えるほどのけんかはしなかったと思う。
俺が一方的に、おもちゃを壊したりの嫌がらせはしたけれど。和が俺に反抗してくることはなかった。
……今思えば、彼は遠慮していたのかもしれない。自分は本当のこの家の子供ではないのだからと。
「いやーほんと似てない兄弟だな!」
すっかり酔った先輩のひとりが、和の肩を叩いていた。ほかのみんなは、笑っていいのか困っているような反応だった。
「お父さんとか別だったり?」
だが、先輩はなおも続けた。周囲の空気が凍る。
先輩はへらへらと笑っている。さっきから部内の女子に囲まれていた和が面白くないのかもしれなかった。
和も何を考えているのか、何も言わず笑っていた。
「あれ、図星? やっぱり?」
和は何も言わない。でもその顔から笑みは消えていた。だが先輩はなおもなれなれしく和の肩を掴む。
「だってさぁ、似てないじゃん」
「黙れよ」
俺は立ち上がる。がたんと椅子が倒れて、部屋中の視線が集まるのがわかる。
「おい……っ」
俺は伊藤の静止もかまわず、先輩に思い切り殴りかかった。
「やめろ、誉……!」
和と殴り合いのけんかなどしたことがない。彼は、俺に反抗してくることはなかったから。何をされても、ずっと黙っていた。
今思えば、彼は俺の家に来た日から、自分がよそ者であることをずっと自覚していたのだろう。
なにしろそれは、一目瞭然だった。もっと彼の容貌が地味だったらよかったのかもしれない。でも彼はあまりにも明らかに、似ていなかった。
顔を見れば、誰にだってわかった。
そんな風にいつだって立場を自覚させられていた彼が、俺とけんかなど、きっとそもそもできはしなかった。
「何やってんだよ……!」
伊藤や同級生らによってたかって引き離され、俺は我に返る。先輩が何か呻いている。いつの間に殴り返されたのか、頬が熱かった。
“お兄ちゃんなんだから”
「……違う」
「おい、落ち着けって、な?」
和が驚いたような顔で、少し遠いところから俺を見下ろしていた。酔いはもうすっかり引いていた。頬だけでなく手も足も、あちこちが痛い。
「……違うんだ」
和を守ろうとしたわけでも、母や父のことを思ったわけでもない。なのになぜ、とっさに先輩に殴りかかるようなことをしたのか、俺自身にもわからなかった。
・
夜道は静かだった。まだ終電は行っていないはずだったが、俺たちは二人きりで歩いていた。俺は、和の肩に寄りかかり、彼に支えられて歩いていた。
慣れないことなどするべきじゃない。
拳も頬も、全身あちこちが痛かった。和に支えられるなんてまっぴらだったけれど、タクシーを呼ぶほどの経済的余裕もない。伊藤たちは、弟がいるなら安心だなと言っていた。
こいつが本当は、諸悪の根源なのに。
「サークル、楽しいね」
先輩に突っかかられたことなどなかったかのように和は言う。
「どこがだよ」
「兄さんが行ってる大学のこと知りたかったから、サークルに入れて、すごく嬉しかった」
俺の腕は、否応なしに和の体の温かさを感じている。今すぐにでも逃げ出したいのに。
「……お前は、こうやってまた、俺から奪うのかよ」
「奪う?」
「そうだろ、何もかも……!」
「何もかもって、何?」
無邪気なほどの素直さで和は言う。
「それは……」
確かに、最初から何があっただろう。彼女に裏切られるような状況だったことは、俺自身の責任なのかもしれない。サークルは、俺だけじゃなくみんなの活動の場だ。俺以外の誰かを歓迎することに、俺が文句を言える筋合いなんてない。わかっている。
でも、だからこそ嫌だった。和はその気になればたくさんの居場所を持てる。でも、俺にはこれしかないのだ。
「俺は兄さんと少しでも長く過ごしたいだけだよ」
和は俺を見下ろして笑った。俺は思いきり、和の腕を振り払う。思わず足がよろけて、その場に倒れそうになる。思った以上に乱闘をしたダメージがあるのか、身体に力が入らなかった。
「兄さん」
「ふざけんなよ」
「危ないよ」
幸い、住宅街の中にある道の車通りは少なかった。家まではあと三十分もないだろう。ゆっくり歩いて行けば、夜のうちに帰れるはずだ。
俺が壁を伝うようにして歩いて行こうとすると、慌てた様子で和が近寄ってくる。
「何が不満なの?」
「全部だよ!」
「具体的に言ってくれないとわからない」
「何なんだよ……!」
とにかく和の全部だ。それが俺の不満だ。
そう言おうと彼の方を向いたとき、思い切り体を壁に押しつけられた。肩がコンクリートに触れる。そうしてそのまま顎を取られ、壁に押しつけるようにしてキスをされた。
「んんっ……!」
和の力は強かった。思い切り腕を振り回そうとしても、掴まれて拘束される。身動きがほとんど取れなかった。慣れ親しんだ和の匂いを感じる。
「何すんだよ……!」
やっとのことで解放されて、俺はあえぐように言った。
ここのところ、和はおかしい。前からおかしかったけれど、西に来てからそれを隠そうともしなくなった。
どうして男同士でキスなんてするのか。夜とはいえここは外だ。まだ大学にだって近い。このあたりに住んでいる同級生だっているだろう。信じられない。
和は怒るでも笑うでもなく、真顔だった。彼の背後に、ぼんやりと白い月が見えた。
「寂しい? 彼女がいないのが辛い? セックスがしたい?」
「な、に言ってんだよ……」
「具体的に言ってよ、何とかするから」
こいつはおかしい。わざわざ遠く離れた俺の家にまで押しかけてきたことからしてそうだ。
普通だったら、自分が嫌われていることがわかったら近づかない。
そりの合わない兄弟にこだわらなくても、世の中には人がたくさんいる。和だって、もっといろんな人と知り合い、新しい世界を見ることになるはずだ。
「何とかって……何だよ」
「欲求不満ならなんとかしてあげられるし、寂しいならずっとそばにいる」
それなのにわざわざ、彼は俺を追いかけてきた。
それとも、単にあの家を離れたかったのか。ちらと思った。母は和にはいつも優しくて、何をしても怒らなかった。そんなあの家が、和は嫌だったのだろうか。
「俺は、兄さんのためなら何だってするよ」
「気持ち悪いんだよ……」
「何だってする」
和は狂信的に繰り返した。背筋がぞっとする。和が本気で言っていることがわかるから。
俺は彼に、そばにいないこと以外何も求めないのに。
俺たちの望みはまるで真逆だ。
「嬉しかった、かばってくれて」
和はまだ動けない俺をがばりと抱きしめる。骨がきしみそうな強さだった。
「痛い……っ」
俺はそう言いながらも、抵抗するだけの気力も体力もなかった。彼がおかしいのはいつからなのか。最初からだったのだろうか。ちらと、本当に苦しそうに「薬を」と言っていた姿が思い浮かぶ。忘れたいのに、忘れられない。自分がした仕打ち。
最初からでなかったのだとしたら、俺が、おかしくしたのだろうか。
「……お前が、言い返さないからだろ」
でも、俺だって生まれたときからそんな人間じゃなかった。あんなひどいこと、他の人にしたりしない。和がいけないのだ。彼がそばにいたから。
だから俺はおかしくなった。
「だって、本当のことじゃないか。親が違うのは」
「黙れよ」
「だって俺の両親は、本当は」
「黙れ」
和の体温が熱い。酒を飲んだせいか、俺の体もほてっている。もういっそこのままこの場でしゃがみこんでしまいたかった。
俺も母も父も、どんなに和が他人の子であることが見た目から明らかでも、家族の一員だと言い張った。次男だと。家族なのだと、言い続けた。それでもうわさは絶えなかった。
「……お前は卑怯だ」
「誰に似たのかな」
和は少し体を離し、俺の頬に触れた。殴られたところがぴりと痛み、俺は顔をしかめる。和はそれを見て笑った。
「兄さんかな」
「気持ち悪いんだよ……」
その次の瞬間、和がどうするか、俺はわかっていた気がする。かがみ込んできた彼の唇が近づく。何一つ和のことを認められやしないのに、俺はとっさに、そのまま目を閉じていた。
「兄さんならいいな」
血なんてつながっていないのだから、そんなことありえない。なのに和の言葉の響きは切実で、俺はそれ以上の言葉を飲み込むしかなかった。