じっと息を潜めていた。

 声を出したら終わりだ。心臓がばくばくといっているのがうるさい。いっそ気を失ってしまいたい。時間が流れるのがいやに遅い。

 ”そいつ”は、なかなか家の中から出ていかなかった。

 

 ――僕を探してるんだ。

 

 何人家族かくらい、きっと知っているはずだ。

 家の中はしんとしていた。父や母の声はすぐに聞こえなくなった。悲鳴を最後にして。

 外に助けを呼びに行くべきかもしれない。でも、ここを出たらきっと殺される。外に出るには階段を下りて、一階に行ってドアを開ける必要がある。でも、そんなことができるのか。

 

 ――神様仏様、誰か。

 

 軋むような鳴き声が聞こえた。

 ”そいつ”がひるむのがわかる。大きな動物の鳴き声のような、だけどどこか機械的でひりひりとした音が響く。一瞬驚いたけれど、でもそれは和にとっては聞き慣れた音だった。

 北からやってきた大きな氷の塊は溶けながら軋み、岸に到着する。

 

 流氷が鳴っているのだ。

 

 

 ・

 

「う……」

 

 誰かの声で目が覚めた。カーテンの隙間から覗く日差しをみるに、まだ早朝らしかった。

 和がうなされているのだった。

 

「どうした?」

「やめ……、あ、あ」

 

 和は布団の上で、汗をびっしょりかいていた。眉根を寄せて苦しそうにうめいている。

 放っておくわけにもいかず、俺はベッドを下りて彼のそばに行く。そうして乱暴に身体を揺さぶった。

 

「おい」

 

 もし別々の部屋で寝ているのだったら、放置してもよかったかもしれない。でも、逃げ場もない狭い部屋の中で、和の声を無視して寝続けることはできなかった。

 

「おい、和」

 

 ぱっと和が目を開く。思わず俺はびくりとしてしまう。

 和はまるで全力で走った後みたいに、はぁはぁ息を吐いていた。もしかしたら、実家にいた頃からこんな風に苦しんでいたのだろうか。

 和はまだぼんやりしていた。夢の中からまだ現実に戻り切れていないようだ。

 和はここがどこだかわかっていないのか、きょろきょろと周囲を見渡した。そうして初めて存在に気づいたみたいに俺を見た。

 

「兄さん……?」

「お前、うるさい」

「え……?」

「うなされてた」

「ああ……」

 

 和は額に手を当てる。もしかして体調でも悪いのだろうか。この狭い部屋の中で風邪を引かれたらたまらない。

 やっぱりここで二人暮らしには無理がある。もともと一人で住むために借りた部屋は、ベッドを置いて更に布団を敷くといっぱいだ。

 

「夢、見た……」

「体調悪いなら薬飲めよ」

 

 そこで初めて目が覚めたかのように、また和は俺の方を見た。

 まだ薄暗い部屋の中で、じっと和の二つの目が俺を見ている。

 

「……何だよ」

「何でもない。兄さん、授業は?」

「今日は二限からだからまだ寝る」

「そっか。起こしちゃってごめん」

「ほんとにな」

 

 俺はまたベッドに潜り込む。和は身体を起こしたまま、動こうとしない。

 

「ねぇ兄さん……」

「却下」

「何も言ってないけど」

「お前がろくなこと言うわけない」

 

 和が俺の側に近づいてくる。ベッドの脇に立たれると、背が高いこともあって嫌な威圧感がある。

 

「一緒に寝ていい?」

 

 そう聞きながら許可も得ずに、和がベッドの中に入ってくる。思い切り俺は蹴飛ばしたが、和はびくともしなかった。

 そのまま俺の隣りに和は横たわる。無駄にでかい図体だ。シングルベッドでは狭すぎる。

 

「おい、入ってくんな……!」

 

 力加減なんてしたつもりはなかった。でももしかしたら、俺は少しひるんでいたのかもしれない。

 和の体臭がする。わずかに汗のにおい。どうして彼はあんな風にうなされていたのか。考えたくない。

 

「おい」

「ごめん、ちょっとだけ……」

 

 ――お前は卑怯だ。

 和は語らない。母が和を決して叱らないのは興味がないからではないのだと思う。たぶん母は、怖いのだ。

 

「今だけでいいから……」

 

 和が俺の寝間着を掴んでいる。

 図体ばかりでかくなっているのに、やっていることはまるで子供だ。

 俺は大きなため息をついた。

 

「音が……聞こえるんだ……」

 

 和がぼそぼそと言う。何の、と聞き返そうとしたときには、寝息が聞こえていた。もしかして、そもそも寝ぼけていたのだろうか。そうなら、ベッドにまで入ってきた理由もわかる。

 和は俺に嫌われている、ということをわかっていないわけじゃない。だから普段、むやみに触れてきたりはしない。

 

 ――俺は、兄さんのためなら何だってするよ。

 

 できることなら逃げ出したい。和にしてもらいたいことなんて何もない。

 でも俺は金がないからここを出て行くこともできない。バイトをするにも授業は大変になるばかりでそんな余裕はない。せっかく合格した大学だし、勉強は楽しい。

 俺の人生はこれからだ。

 和さえいなければ、完璧だったはずなのだ。

 このむやみに顔の整った、「弟」なんかがいなければ。

 

 ・

 

 文字を目で追っていても、なかなか頭に入ってこない。

 学内の図書館にある自習室は、二十四時間開いている。まだ時間が早いので空いているが、深夜になると終電を逃したらしい学生、追い詰められた顔で本をひっくり返している学生などでいっぱいになる。今日はこのまま、朝までここにいようかと思っていた。

 ゼミでの課題に向けた資料作り。それが俺の目的だ。

 だが本当は、一通りの準備はもう済んでいた。あっさり問題は片付き、ある程度の結論が出て、更に参考書を読み込もうと思ったのだが、もう集中は続かなかった。

 

 ――あれは先輩が悪かったよ。あの人普段は参加してないし、普通においでよ。

 

 あれ以来、サークルには行っていない。

 相手に原因があることとはいえ、先輩に殴りかかってしまったのだ。後悔はしていないが、今まで通りには行きにくい。

 どうしてあんなことをしてしまったのだろう。和のことなんてどうだってよかったのに。

 地元ではあそこまで直接的なことを言ってくる人はいなかった。噂が先行していたからだ。誰もが和のことも、彼が巻き込まれた事情もうすうす知っていた。だからこそ誰も何も言えなかったのだ。

 ここでは違う。

 何があったのかを、まだ誰も知らない。

 もしかしたら、和はそういう場所に来たかったのかもしれない。単に俺を追ってきたというだけじゃなくて。和のことを真綿でくるむようなことしかできない両親から離れて、過去を忘れたかったのかもしれない。

 参考書を閉じる。気は向かなかったが、ここで夜を過ごすより家に帰った方がいいだろう。明日もまた一限から授業だ。

 和からは夕飯を食べるかというメッセージが来ていたが無視していた。支度をしながら「今から帰る」と送る。

 外はもうすっかり暗くなっていた。時計を見ると九時だ。

 

 〝じゃあ俺も近くにいるから、一緒に帰ろう〟

 

「なんで近くにいんだよ……」

 

 和は最近、大学の近くの本屋でバイトを始めた。うちの学校の教科書なども多く扱っていて、学生がよく利用する店で、俺もよく通っていた。

 なんでわざわざそんな店を選ぶのかと苛立ったが、どうにもできなかった。

 

 〝校門前で待ってる〟

 

 俺が何を言おうと、和はしたいようにするだろう。当たり前だ。和は俺とは別の人間なのだから。

 俺を追いかけることを諦めさせるにはどうしたらいいのか。

 それこそ和が、本気で彼女でも作ればいい。

 俺から奪った彼女とは、付き合うような気もなかったらしい。中学、高校といつも和のまわりには女性の影があったが、あまり長く続いてはいないようだった。

 いくらだってモテるだろう。大学ではたくさんの学生に会ったが、和ほど顔立ちの整った男を俺は他に知らない。芸能人にだって劣ってはいないと思う。

 和はどこにいたって人目を引く。

 選ばれた人間はいるのだと思わされる。

 でもたぶん、和が人前に出るような仕事を選ぶことはないだろう。専門学校だってどこまで本気で通っているのか。将来、どういう道を選ぶつもりなのだろう。まともに考えているのだろうか。

 

「あいつの人生なんてどうだっていい……」

 

 校門に近づくと、背が高いから和のことはすぐにわかった。だが、和は一人ではなかった。サークルの誰かかと思ったが違う。随分年の離れた男のようだった。

 からまれてでもいるのだろうか。和の表情は硬かった。

 

「おい、和……」

「君が殺したんじゃないのか?」

 

 男が言った。あまりに日常からかけはなれた言葉で、俺はとっさには反応できなかった。思わず俺は足を止めていた。

 

「帰って下さい」

 

 硬い声で和が言う。

 

「あの事件で、結局得をしたのは君じゃないか?」

「通報しますよ」

「つれないな。何か言う気になったら、いつでも連絡してくれ」

 

 男はへらへらと笑って、和に何かを渡した。俺ははっと我に返って駆け寄ったが、もう男は歩き去った後だった。

 

「和」

「あれ、兄さん……」

 

 和の表情はわずかにこわばっていた。まったく知らない人から見たら、いつも通りに見えるかもしれない。でもさすがに俺は彼をずっと身近で見ている。

 そのくらいのことはわかる。

 

「今の、知り合いか?」

「違うよ」

 

 あっさりとした声で和は言う。でも、それ以上のことを和は言わなかった。

 

「今の……」

「何でもない」

「八木沢くん?」

 

 そう背後から声をかけられて、俺と和が振り向いたのはほとんど同時だった。「何?」「え?」と声を出したのも。

 

「あれ?」

 

 びっくりした顔で、茶髪のボブカットの女子生徒がこちらを見ていた。同じゼミに所属している前山だった。気さくな性格で話しやすく、何度か授業についてやり取りをしたことがあった。

 

「二人とも八木沢くん?」

 

 そう言って彼女は笑った。サークルの知り合いではないから、彼女は和のことは知らないはずだ。

 

「ああ、弟……」

「へー、あれ、八木沢くんは課題終わった? あ、兄の方だけど」

 

 和の顔立ちに困惑する様子もなく彼女は話を続ける。俺はさっき図書室で行った作業の内容をざっと話す。

 

「あ、そうかー、そんな判例あったんだね」

「ほとんどそのまま使えそうだったから意外と時間かからなかった」

「八木沢くんセンスいいよね」

 

 褒められて悪い気はしない。前山はまだ課題について話し足りなさそうだった。

 

「ねぇ私、先週のもまだ詰まってるんだけど、よかったら話がてら、弟君も一緒にみんなでご飯食べない?」

「いいね」

 

 彼女と食事に行くのは歓迎だ。でも、和が一緒なのはいやだった。三人で行くくらいなら、断った方がいいだろう。

 和がそばにいたら、何もかも台無しだ。

 

「俺はいいよ」

 

 だが、邪魔をするに決まっていると思った和は言った。

 

「和?」

 

 だって和は、俺と女の子がどうこうなることを嫌がっていたはずだ。だから、前の彼女だってわざわざちょっかいをかけてきた。和は自分の顔が女の子にどんな風に受けるのかよく知っている。

 

「先に帰ってるから」

 

 なのに今日に限って、和は平然とした顔でいる。

 俺は前山のことをまだよく知らない。彼氏がいるのかどうかも。同級生として漠然とした好感は持っている。もしかしたら、この先付き合うことだってなくはないかもしれない。あっさりとした顔立ちも、気さくな性格も嫌いじゃない。

 二人で食事に行けるなら何よりだ。

 なのにどうして、俺はこんなに落ち着かないのか。

 

「もしかして体調悪い?」

「え?」

 

 最初、俺に言われたのだろうと思った。

 でも、彼女が見ていたのは和だった。普段とほとんど変わらない和の顔は……だけど確かに、わずかにこわばっている。

 

 ――あの事件で、結局得をしたのは……。

 

「そうなんだ、ごめん、今日はこいつ連れて帰るから」

 

 俺はとっさに口にしていた。どうしてそんな風に口にしたのか、自分でもわからなかった。

 前山と食事をしたら、授業に関する有益な情報交換もできるだろう。ちょうど腹も空いているし、二人きりなら願ってもないことのはずだった。

 

「そっかー、もう遅いしね」

 

 前山はあっさりと言った。

 

「さすがお兄ちゃん」

 

 前山が笑っているのと対照的に、和は呆然とした顔をしている。

 

「仲良しなんだね」

 

 前山は俺たちが似てるとか似てないとか、そういうことは一言も言わなかった。じゃあまた授業でと言って手を振る。

 

 

 和は結局、何も言わなかった。

 家に帰るまでずっと、俺たちは無言だった。俺からわざわざ和にかけるような言葉はない。本当に体調が悪いのかどうなのか。和はちゃんと自分の足で歩いてはいた。少なくとも高熱で立っているのもつらい、というわけではなさそうだ。

 食事は結局、コンビニ弁当で済ませた。

 その日、家に帰ってからも和は変だった。

 突然、押入れで寝ると言い出したのだ。

 

「お前は猫型ロボットかよ」

「何が?」

 

 和の背では押し入れの中で足を伸ばすこともできないだろう。小さい頃、和は押し入れに入ったりしていただろうか。特に記憶はなかった。

 和はぼんやりとした顔で、本当に押し入れの中に入ろうとする。俺はその服をとっさに掴んだ。

 

「おい、和」

 

 和の様子は明らかにおかしかった。

 あの男は何者だったのか。知り合いのようには見えなかった。

 

「なんで押入れなんだよ」

「暗くしないとだめなんだ」

「おい、いい加減にしろよ」

「お願い、暗くして」

 

 〝君が殺したんじゃないのか?〟

 

「おい」

 

 俺は無理やり和を振り向かせる。彼の目は俺を見ていなかった。

 俺とは似ていない、きれいなアーモンド型の大きな黒い目。俺を通り越して、和はどこかを見ていた。

 

「流氷が……」

「和?」

「流氷が来るんだ」

 

 見ると和は強く自分の爪を手のひらに突き立てていた。指先が真っ白くなっている。

 俺はとっさにその手を掴んだ。力のこもった指を、一本一本外していく。

 

「いいか。京都に流氷は来ない」

 

 図体ばかりでかいのに、和は子供のようだった。

 別に和が押し入れで寝たいというならそうしたっていい。俺は広々と部屋が使えて言うことなしだ。

 そのはずなのに、でも、やっぱりだめだと思った。おかしいまま放っておくのは気持ちが悪い。

 和はぼんやりとした目で、自分の指を掴む俺の手を見ていた。

 

「俺が言うんだから間違いないだろ」

 

 和は初めて俺がそこに立っていることに気づいたみたいに、じっと俺の顔を見た。

 

「兄さん……?」

「押し入れで寝たいんなら勝手にしろ。でも、今日は特別にベッドで寝させてやってもいい。さぁ、どっちがいい?」

「え……」

「今すぐ選べ。今回だけだぞ。今日ベッドで寝ないっていうなら、もう一生だめだ」

「え、待って」

「ほら」

 

 小指を開かせると、和のこわばった指は所在なさげに一瞬宙をさまよった。

 

「ベッドで寝る」

 

 次の瞬間、和は俺の手を掴んでいた。俺は身体を引きかけたけれど、和の力の方が強かった。

 

「兄さん」

 

 何をやっているのだろう。

 和をベッドで寝させてやるつもりなんてなかった。現に今朝だってあまりにも狭くて、辟易していたのだ。

 

〝さすがお兄ちゃん〟

 

 和の兄として扱われることにはもううんざりだ。和にはここから消えて欲しい。

 そう思っていることも確かなのに、強く手を掴まれて安堵のような気持ちを覚えている自分に気づく。

 俺はずっと、和から逃れたかったはずなのに。

 ベッドで二人で寝るのはやっぱり狭かった。和はずっと俺の寝巻きの裾を掴んでいたけれど、それ以上触れてくることは決してなかった。

 

 翌朝目が覚めると、和はもう部屋の中にいなかった。バイトか授業に出たのだろう。

 念のためと思った押入れを開けてみたけれど、がらんとしているばかりだった。

 

 数日後、ネットに記事が出た。

 未解決事件の真相、と派手に煽ったその記事は、顔をぼかしてはいるが知り合いであれば明らかに和とわかる写真を掲載していた。

 〝かわいそうな生き残りの少年――でも、見方を変えれば違う真相が明らかになるかもしれない。彼には動機があり、そして犯行が可能だった〟

 

 これって和?とすぐにサークルの知り合いから連絡がきた。

 携帯はそれから鳴りやまなくなった。