「誉は、幼稚園楽しい?」

「うーん、ふつう!」

「そっか。あのね、お母さんとお父さん、ちょっとこれから忙しくなるかもしれないから、誉に、いろいろ手伝って欲しいの」

「うん、てつだう」

「誉、あのね。これはどうしても必要なことなの」

 

 母は深刻な顔をしていて、いつ怒られるのかと怖かった。最初から、協力しないなんて選択肢はない。

 間違えた答えを言ったら叱られる。

 

「今度、男の子がこの家に来るの」

 

 母にとって百点の答えは何なのか、いつも探していた。

 

「誉は、お兄ちゃんになるんだよ」

 

 たぶんそのとき、俺は全然ぴんときていなかった。家の中と幼稚園と、せいぜい近所の公園までが世界のすべてだった頃だ。母に叱られなければそれでよかった。

 

「嬉しい?」

「うん」

 

 たぶん母にとって正しいだろう答えを言う。そうするとやっぱり母は微笑んだ。

 大丈夫だ。間違っていない。怒られない。

 

「誉、わかる? お兄ちゃんっていうのはね……」

 

 ・

 

 気分は最悪なままだった。やらなければならない課題もなかなか手に着かない。

 あの日、和の帰りは遅かった。深夜にそっと帰ってきた和に、俺は何も聞けなかった。ずっと寝たふりをしていた。そのくせ朝目が覚めてから、和の持ち物のすべてに彼女の痕跡を探していた。

 充電器には彼のスマホが差してあった。この中を見れば一目瞭然かもしれない。手を伸ばしかけてはっとした。

 どうせロックがかけてあるだろうし、そこまでして彼女との関係の証拠を見つけたとして、俺はどうするのだろう。

 

「……兄さん?」

 

 そうこうしているうちに和が起きてきてしまった。

 

「おはよう」

 

 俺は答えないまま、授業で必要な道具をカバンに詰めていく。

 

「どうかした?」

 

 スマホを覗かなくても、和に前山と会って何していたのか聞けばいいのかもしれない。

 

 ――間接キスだなって思ったら興奮した。

 

 でも、前みたいなことを言われたらどうしたらいいのか。俺が親しくなり始めた前山だから、奪ったのだと言われたら。

 

「たまには夕飯一緒に食べない?」

 

 俺は和を無視したまま家を出た。

 だが、大学に行っても安心してはいられなかった。前山とは、週に一度の授業のたびに一緒になる。最近ではいつも授業の前に、ランチを一緒に食べている。

 ランチの約束は断ることもできた。そうすべきだったのかもしれない。でもタイミングを逸したまま、俺は彼女といつものファミレスにいた。

 彼女は和と一緒にいたところを、俺が見ていたことに気づいていないだろう。和が彼女に伝えていれば別だけれど。

 

「お母さん、どうだった?」

「んー、なんか普通に東京観光して満足したみたい。スカイツリー行ったことある? あれ高いんだね」

 

 前山はいつも通りだった。このまま何も聞かなければ、この関係は維持できるのかもしれない。

 

「高いって値段のことだけど」

「和とはどこで知り合ったんだ?」

 

 でも、俺は何もなかったようにはいられなかった。

 

「何? 急に」

「共通点、なかったはずだと思って」

「本屋だよ」

 

 前山はあまり話したがっていないように感じられた。確かに和は本屋でバイトをしていたはずだが、そんな風に客と店員がすぐに知り合って親しくなったりするだろうか。すべてが仕組まれていたように思える。

 彼女も誰もかもが、俺のことを踏みつけにして、陥れようとしているように思えて仕方がない。

 

「へぇ、本屋ね。だいたいそもそもあいつ本なんて読まないだろ」

「何言ってんの?」

 

 思いがけない強さで反論されて、「ほらみろ」と俺は思う。前山だって結局は和の味方なのだ。

 

「この間和君が学校で作ってたのだって、ソローキンがモチーフのひとつだったし」

「学校で作った?」

 

 何を言っているんだ、という顔で前山は俺を見る。

 そんなに俺より和に詳しいということを見せびらかしたいのだろうか。

 俺だって別に好きでじゃないのに十年以上もずっと、和と一緒に過ごしてきている。前山なんて数ヶ月がいいところだろう。

 

「いや、俺が聞きたいのは……気のせいかもしれないけど、この間、和といた?」

「え?」

 

 前山はぎくりとしたように見えた。

 あのとき和は、前山の肩に手を回していた。前山も振り払わなかった。つまり、そういうことだ。

 

「似たような人、見かけた気がするんだけど……」

「ああ、うん……ちょっとね」

「和といたんだよな?」

「何? 八木沢、そんなに過保護にならなくても大丈夫だって」

「過保護?」

 

 前山に詰め寄るようなつもりはなかった。だが、前山の見当違いな言葉は俺をひどく苛立たせた。前はあんなに楽しくスムーズに感じられた前山との会話も、なんだか今日はかみ合わない。

 前山はなおも、笑いながら言った。

 

「弟君のこと、取って食ったりしないよ」

「何言ってんだよ……!」

 

 俺は思わず拳を握りしめる。

 

「なんで和といたんだ。お母さんもいたんだろ?」

「なんでそんなこと八木沢に言う必要があるの?」

 

 前山はまっすぐに俺を見つめ返してくる。

 

「それは……俺だって、食事に誘って」

「だからって、断って何をしてたかまで言う義務がある?」

「そうじゃない、俺はただ、なんで和といたのかって聞きたいだけなんだよ」

 

 前山は冷たい目をしていた。仲良くなれたと思ったのは、気さくに話せる相手だと思ったのは何だったのだろう。

 

「ほら、過保護じゃん」

「そうじゃなくて」

「そんなに気になるなら和君に聞いたら? 一緒に住んでて、弟なのにどうして聞けないの? 八木沢、ちゃんと和君のこと知ってる?」

 

 たたみかけるように言われて、俺はもう何も言い返せなかった。

 和のことなんて嫌になるほど知っている。これ以上何も知りたくなんかない。もううんざりだ。何もかも投げ出してしまいたかった。

 

 ・

 

 

 一人で居酒屋に入ったのは初めてだった。

 手持ちの金を確認する。去年一年、遊びほうけていたツケだ。

 和や実家から離れて、合コンだ飲み会だと調子に乗っていた。女の子の前ではいいところを見せたかった。おかげで貯金はほぼゼロに等しい。

 家に帰りたくなかった。二百五十円のハイボールをちょびちょびと飲む。付近では大学生らしい数人が飲み会をやっていて騒々しかった。知り合いに会わないことだけを祈って、特に見るものもないのにスマホをいじり続ける。

 どうしたらいいのかわからなかった。

 やっと実家を出たというのに、俺はまだ全然自由になれない。就職できたら金が使えるようになって変わるのだろうか。でもまたそこにも和が追いかけてきたら?

 進学しても、就職しても何も変わらないのかもしれない。この先のことに何も希望が見えない。

 

「おかえり」

 

 明かりがついているから、部屋に和がいることはわかっていた。俺はどこにも逃げ出せないのだ。

 今日はカレーのにおいもしていない。部屋にいる和は、携帯を見ていた。一体誰と連絡を取っているのか。

 

 ――和君に聞いたら?

 

 前山じゃなくてもそう思うのかもしれない。

 でも、もううんざりだった。何回同じことを繰り返すのか。いつまで続ければ気が済むのか。

 

 ――じゃあ、放課後八木沢くん家行っていい?

 ――これ、和君に渡してくれない?

 

 和がいる限り誰も俺を見てはくれない。酒で頭がぼんやりしている。そのくせ妙に身体は熱を持て余していて、無性にイライラした。

 自分なりに少しは変われるかもしれないと思った。

 でもどうせ無理だ。どれだけ勉強したって、結局俺は、いい成績が取れるのがせいぜいで、誰の役にも立たない。

 みんなが必要としているのは和だけだ。

 この世界に、俺なんていてもいなくても同じ。

 

「……どうしたの?」

 

 玄関で立ち止まったままの俺に、和が近づいてくる。

 

「お酒飲んできた?」

「お前、前山が好きなのか?」

「何、急に」

「急にじゃない。一緒にいただろ」

 

 和は俺に気づいていた。いつだってそうだ。和は邪魔をしてくる。そして俺にショックを与えたら用済みとばかりに女性を放り出す。元彼女のことだって、もう関心をなくしているように見える。

 

「いい加減にしろよ」

 

 前山もかわいそうだ。どうせ捨てられるのに。

 和さえいなかったら、きっと俺の人生はもっと違っていた。恋人だって一度はできたのだ。男として欠陥があるわけじゃない。

 こいつさえいなければ。

 和がいると、何もかもがだめになる。

 

「前山さんには聞いた?」

「……お前に聞けって」

「前山さんが言ってないなら、言えない」

 

 かっとなって俺は思わず和につかみかかった。

 

「言えよ」

「言えない」

 

 和はまっすぐに俺を見返してくる。前山と同じだった。

 彼らはちゃんと自分の足で立っていて、すべきことを知っていて、恥じることなんてないのだろう。腕から力が抜けていくのがわかる。

 俺とは大違いだ。

 誰も俺のことを好きになってくれない。

 何をやったって俺はだめだ。

 

「……兄さん」

 

 頬に伸びてきた和の手を振り払う。でも、和はもう一度伸ばしてくる。俺はもう一度振り払って、でも、和は諦めなかった。

 

「酔ってるね」

「前山、は……」

「うん、いい人だよね、しっかりしてて」

 

 和の力は俺よりもずっと強い。

 

「俺をちゃんと、見てくれて……」

「俺はずっと、兄さんを見てるよ」

「お前に見られても意味ない」

 

 和の手はすっかり俺よりもでかい。和はちゃんと育った。だからこそ、両親もこちらで暮らすことを了承したのだろう。

 俺は来年には二十歳になる。もういい大人だ。和だってそうだ。子ども部屋が世界のすべてじゃない。

 

「俺なんて……」

「俺はずっと、兄さんだけを見てる」

 

 和はいつの間にか俺を抱きしめていて、俺はそれを振り払えなかった。酒のせいで意識はぼんやりとしていて、身体が熱い。

 俺なんていてもいなくても同じ。

 

「欲しいのは兄さんだけだよ。ずっと前からそう」

 

 まるで俺の心の声に反論するかのように、和の声は甘やかに忍び入ってくる。

 

「好きなんだ」

「やめろ……」

 

 どうして俺の声はこんなに弱々しいのだろう。

 酒のせいだ。

 それと、前山と……和のせい。

 

「好きだ」

「ん……っ」

 

 キスをされて、後ろ頭を掴まれる。

 

 ――俺はずっと、兄さんを見てるよ。

 

 そうだ。誰も、俺自身なんか見てくれなかった。元凶である和を除いては。俺にはろくに友人もいない。恋人もいない。

 頭がぐるぐるする。和を突き飛ばせ、と思うのと同時に自虐的な気持ちになっている自分もいる。何もかもめちゃくちゃにしてしまいたい。そして目の前には、俺をたたきのめせる男がいる。

 他のどんな人間だって、和ほど俺を傷つけることはできないだろう。

 和よりもっと顔立ちが整っていたとしても。和よりも人に好かれ、女性にモテるのだとしても。きっとそいつに、俺はこんな気持ちを抱いたりしない。和だけが俺をぐちゃぐちゃにする。ちっぽけで無力で、何もできない男にする。

 

「お前のせいだ……」

「うん」

 

 深くキスをされて息が浅くなる。

 

「お前の」

「うん」

 

 和は穏やかだった。でもゆっくりと着実に、俺を追い詰めていった。舌を絡められ、唇を吸われる。

 

「好きだよ、兄さん」

「ん……っ」

 

 思い切りぎゅうと抱きしめられる。痛いほどの力だった。そこに切実なものを感じて、俺は身動きが取れない。

 興奮を兆し始めた下半身にズボンごしに触れられて、俺は反射的に腰を引く。だけど、和はそれを許さなかった。ベッド脇に追い詰められて、俺は身動きが取れない。

 最初から、和が本気を出したら、体格の違う俺には敵わない。それはわかっていた。

 

「や、め……」

 

 下半身に触れられて、俺はびくりと身体をすくませる。振り払いたいのにできなかった。ずるずるとキスをされ、ズボンをずり下ろされ、下着の上から性器に触れられる。怖いのに気持ちがいい。そのまま和の手は下着の中に入ってくる。

 擦られると久しぶりの刺激に、自分自身が如実な反応を示すのがわかった。

 

「和……っ」

 

 俺はどうして、無理やりにでもこいつを突き飛ばさないのか。

 

「あ……っ」

 

 和の手は、俺の性器をこすりあげる。嫌だと思うのに、気持ちがいい。

 

「やめ……っ、和っ」

 

 俺は和にされるままだった。何を言ったって和が言うことを聞くわけはない。和の指は俺より長い。いつの間にか、俺はなぜか彼の手をじっと見ていた。

 先端をいじられると、とろとろと先走りの液をこぼしているのがわかる。和の指を濡らして、後から後から溢れてくる。どうして俺は萎えていないのか。

 

「だ、めだ……っ、いくっ」

 

 もうどうしていいかわからないくらい射精感が高まって、俺は縋るように声を出した。

 

「いいよ、兄さん。このままいって」

 

 和の声は冷静に聞こえた。その間も、彼の手は容赦なく俺のものをいじる。しびれるような快感が全身に走って、俺はそのまま射精していた。

 荒い息を吐いているうちに、理性が戻ってくる。

 和は怖いほど真剣な顔で、俺を見ていた。

 

「気持ちよかった?」

 

 俺は何をされたのだろう。和はティッシュで汚れた手をぬぐうと、再び近づいてくる。

 そのとき俺は和のズボンの前が張っていることに気づいてしまった。もう背中はベッドについていてこれ以上逃げられないのに、思わず後ずさろうとしてしまう。

 ……食われる、と思った。それはなかば、本能的な恐怖だった。

 

「お前……っおかしいんだよ」

 

 俺は気がつくと口にしていた。和がティッシュを取って、俺のものを拭う。

 恐ろしかった。こんな風に簡単に、触れてしまえたことが。ここで終わりだと思えないことが。

 和に触れられたことに嫌悪感がないことが。

 自分が変わってしまう予感があることが。

 

「いい加減にしてくれ」

 

 和は何も言い返さなかった。

 大学に行って離れれば変わるのだと思っていた。でも、ネットに出た記事は結果的に、和の存在を知らしめた。同じ大学じゃなくても、今や俺の同級生たちはみんな和のことを知っている。

 話しかけてくる人間のほとんどが、和のことを口にする。俺は和じゃないのに、まるで和が俺の一部ででもあるかのように。

 

「……お前と俺は何の関係もないのに」

 

 俺は勢いのまま口にする。

 ――兄弟だよ、と和は言い返すかと思った。きっとそう言うだろうと思った。でも唇を引き結んだまま、怒るでも悲しむでもなく、何も言ってこない。和は真顔だった。

 

「出てけよ」

「……兄さん」

「兄さんなんかじゃない。出てけ」

 

 俺はただ普通に過ごしたかっただけだった。ものすごくモテるとかじゃなくていい。ただ、俺のことを見てくれる女の子と付き合って、ただ普通に大学生活を楽しみたかった。

 でも和がそばにいる限り、結局俺には自由なんてない。

 それをともすると、仕方ないと思いかけている自分が怖かった。触れた肌が気持ちよかったことも、それを当たり前のことのように感じている自分も、ただまっすぐな和も、すべてが怖かった。

 

「……出てけよ」

 

 俺の声はまるで懇願しているみたいに弱々しかった。

 いつも、和はおかしなことばかり言う。でも、彼を本気で怖いと思ったのは初めてだった。

 

 ――俺はずっと、兄さんだけを見てる

 

 これ以上近づかれたら、俺はおかしくなる。なんで自由になりたかったのか、なんでわざわざ京都にまで来たのか、わからなくなる。

 震えそうな手を必死で握った。

 俺は和とは違う。陰惨な事件に関わったこともないし、容貌も人並みだ。

 平凡なありきたりの人生を送れればそれでいい。だから、和にそばにいられたら困る。

 和はそれ以上何も言わなかった。

 俺はズボンをずり下ろされた間抜けな格好のまま、泣き出しそうになるのを必死にこらえていた。

 やがて和が部屋を出て行く音が聞こえた。

 

 ・

 

 和は一度に両親を失い、北海道にはいられなくなった。

 それまで会ったこともない、遠縁の八木沢家に引き取られるまでの経緯はよく知らない。でも、複雑ないきさつがあっただろうことはわかる。人と人との醜い争いや、聞きたくもないような言葉の応酬があったのだろうことは。

 誰も和を引き取りたがりはしなかった。……和が何をしたのか、みんなわかっていたということだ。

 両親がどういう気持ちで和を引き取ることにしたのか、俺は聞いたことがない。

 母は正義感が強い。和が両親からどんな扱いをされていたのかを知っていて、厳しくなどできなかったはずだ。真綿でくるむようにしか和を扱えなかったことも、今ならわかる。母はきっと和が怖かったのだろう。

 幼い俺だけが何もわかっていなかった。

 ただ、言われた。弟ができるのよ、と。

 

 目が覚めると、和はどこにもいなかった。

 チャイムが鳴ってどきりとしたが、実家からの宅配便だった。やけに重いと思ったら、米が入っている。それからレトルトのカレーや、インスタントの味噌汁などもある。

 さすがに礼を言ったほうがいいだろうと思い、気が重いながら母に電話をかける。届いた報告とお礼を言って、和もうまくやっていると適当なことを言う。

 

「大丈夫? お金なら出すから、もうちょっと広いところに引っ越したっていいんだからね」

「何だよ、最初は反対してたくせに」

 

 男同士なんだからどうにでもなるだろうと言っていたのは何だったのか。

 

「ほら、やっぱり、和だって色々ナイーブになったり、一人になりたいこともあるかもしれないでしょ」

 

 母は急に、和のことが心配になってきたようだ。でも、二人で暮らすための別の部屋を探すなんて、和の存在を認めたようで到底できないと思った。

 

「変な記事とかだって、すぐに消えるんだから。他人は好き勝手言う。でも、家族だけがずっと残るの」

「うん」

「和のことは、ほんとに誉を頼りにしてるから」

 

 もし和が、兄弟としては度を超えたことをしてくるのだ、と母に訴えたとしても信じないだろう。いや、信じたとしても何も言わないかもしれない。

 和が両親に反抗しなかったように、両親が和を叱ることもまたなかった。

 

「誉がちゃんとお兄ちゃんしてくれてよかった」

「……何だよ」

「そうじゃなかったら、きっと和のことも面倒見きれなかったから」

 

 俺の気持ちを読み取ったかのように、ぽつりと母は言った。そんな風に言われたのは初めてだった。俺は今までほとんど、小言しか彼女の口から聞いたことがない。褒められたのなんて、大学入学が決まったときくらいだ。

 母はいつも厳しかった。学校の勉強はできるのが当たり前で、ほんの少しのミスさえ怒られた。和のことについてもそうだ。俺は「兄」としてなっていないと、叱られてばかりいた。

 

「学校までわざわざ誉の近くで選ぶなんて、ほんとに和は誉のことが好きよねぇ」

 

 和はもうこの部屋に戻ってこない、と母に言ったらどんな顔をするだろう。

 悪い成績を取ったどころのレベルじゃなく、叱られるかもしれない。あるいは泣くだろうか。

 

 ――家族は確かに残るだろう。でも、和は家族じゃない。

 

 俺には最初から、弟なんていなかったのだから。