俺は子供が得意じゃない。理屈が通じないことが多いし、うるさいからだ。
だから、いくら温泉地に来て暇だとはいっても、面倒を見るつもりなどなかった。
そもそも、下手に連れ回したら誘拐になる。やっかいごとはごめんだ。
だが少女は、自分は迷子ではない、遊んでいるだけだし、一人で帰れると言い張った。確かに、観光客の子供にしてはやたらこのあたりに慣れている。
だけどそれにしたって、困る。誰か付近にいる大人に引き渡して、それで終わりだ。そう思ったのに、少女はお腹が減ったと言って、しゃがみ込んでしまった。そうして「おやつ」と言って近くにあるカフェを指さす。お腹が減っているらしい。
「お前、この店の子なのか?」
まるで見事な客引きのような誘導だった。だが、カフェの店員は、少女を知っているわけでもなさそうだった。
「勘弁してくれ……」
「ちょっと遊んであげるくらい大丈夫じゃない? 俺たちは二人だし、人目もあるし」
のんきに和は言う。
「甘いな。声をかけただけで通報される世の中だぞ」
幸いカフェはガラス張りになっていて、少女を見つけた川のあたりも見えた。ここなら、誰か大人が彼女を探しに来たらすぐに気づけるだろう。
早いところ、少女を親に引き渡したかった。変なトラブルに巻き込まれたくはない。誘拐犯だと誤解されるのはごめんだ。
「これ」
少女はそんな俺の気を知った様子もなく、パフェの写真を指差す。子供用のメニューはないようだから、量は多いかもしれないけれど仕方ないだろう。
「俺もそれにしよ」
和がすぐに言う。こいつも子供みたいだ。
「この子の分一緒に食えよ」
「お腹空いてるみたいだし、大丈夫だよ」
「そんなこと言って二人で残すなよ」
少女は興味深そうに、俺と和との顔をかわるがわるに見ていた。
注文を取りに来た店員は、俺たち三人を見ても特に不思議に思ったりはしていないようだった。俺はコーヒー二杯と、パフェを二つ注文する。
「お前、名前は?」
カフェの席は彼女には少し高いみたいだった。
「かのこ」
「苗字は?」
少女は答えようとしない。意図的なのか、それとも単に伝わっていないのか。
着ている服は特に汚れたりはしておらず、そう何時間もふらついていたわけではなさそうだ。
「俺は誉、こっちは和」
俺は自分と和を順番に指さして言う。仕方なく入ったカフェだが、川べりのロケーションは抜群で、こんなときでもなかったら気持ちがいいだろうと思えるカフェだった。
「そうだ、さっきこのお兄ちゃんが言ったことだけど、あれは違うから」
俺はさっきの和の発言を訂正しておくことにする。子供とはいえ、どこでどんな風に言いふらすかわからない。
「このお兄ちゃん」
からかうように輪は俺の言葉を繰り返す。
「何だよ」
「いや、悪くないなと思って」
「おい待て、ここでいう『お兄ちゃん』は一般的に年上の男性を呼称しているもので……」
「けんかするの?」
きょろきょろした様子で少女は尋ねる。そんなことを言われたら、こう答えるしかない。
「しないよ」
「仲良し?」
俺の顔は引きつりそうになったが、何とか笑みを浮かべる。
「そうだな、仲良しだよ」
忸怩たる思いがあるが仕方がない。子供の前で、みっともない喧嘩をするべきではない。さすがに子どもが好きなじゃなくてもそのくらいのことは当然だ。
「なんで付き合ってるの? どこが好きなの?」
「おい、お前な」
俺は自分が彼女ぐらいの年頃だった頃のことなど思い出せない。でも、幼稚園児同士でも付き合っているやつらはいた。それを考えれば、彼女がませた口調で言うのも不思議ではないのかもしれない。
「かわいい?とか?」
和は俺を見て、少し困ったように言った。
「なんだそれ、ざけんな」
何かもっと違う形容があるんじゃないだろうか。いや、褒め言葉が欲しいわけではないが、疑問形で言うことじゃないだろう。そもそも兄に対して言うには敬意を欠いている。
「けっこんするの?」
「しねぇよバカか」
俺は思わず少女に向けて強い口調になってしまった。ついていけない。
「兄さん、相手は子供なんだから……」
「うるさいな。お前もお前だろ、子供の前で変なこと言うな」
というか和も、既に「兄さん」と言ってしまっている。設定ががばがばだ。だが彼女は気づいていないようだった。
「兄さ……じゃなかった、ええと……誉?」
――たまに、誉って呼んでいい?
だいぶ前だが、和からそんな風に聞かれたことがあると思い出す。何だか急に俺は恥ずかしくなってきた。
「いい加減にしろよ」
茶番にもほどがある。そのときちょうど店員がパフェを運んできた。かのこの興味が一気にそちらにうつる。俺はほっと、ため息をついた。
かのこは自らおやつを所望するだけあって、よく食べた。心配せずとも、一人分をぺろりと平らげてしまった。
「ごちそうさま」
両手を合わせて口にするなど、礼儀もしっかりしている。
「どうすりゃいいんだ……」
コーヒーを飲みながら俺は改めて考える。和はまだパフェを食べている。かのこより食べるのが遅い。
彼女は携帯も持っていないようだった。家の電話はわかるかと聞いても「わすれた」と言って答えない。意図的なようにも感じられるし、本当にわかっていないようでもある。
「探してるっていう王子さまだけど、どこにいるかわかってるのか?」
かのこは首を振る。
「あんな温泉街の川に王子さまがいるわけないだろ?」
「でも、わからないから」
「そんなに家にいるのが嫌なのか? ご両親が何か嫌なことしてくる?」
かのこはまたふるふると首を振る。
もし、問題のある家庭なのだったら、このまま返さない方がいい場合もある。だかが子どもなんて嫌だ。色々と考え始めるときりがなくなってくる。
普通に考えれば、警察に連れていくべきなんだろう。だが、不慣れな土地で交番の位置もわからない。携帯で検索してみたが、警察署として表示されたのは車で二十分ほどかかる場所だった。もっと近くに派出所くらいありそうなものだが、見当たらない。
「本当に、お父さんとお母さんがどこにいるか心あたりないのか?」
お腹がいっぱいになったらしいかのこは、既に飽きつつあるようで、足をぶらぶらさせている。
「あのね、かのこの家、大きいの」
「大きい?」
「すごく大きいの、それでね、でも本当の家じゃないの」
俺は何とか彼女の話を読みとこうとする。このあたりに豪邸があるのだろうか。
「うーん、他には? お母さんはどんな人?」
「お母さんも、ほんとのお母さんじゃないの」
俺はついぎくりとしてしまった。
複雑な家庭事情なのだろうか。やっぱり深入りしてはいけない気がしてきた。
「俺んちもそうだよ」
コーヒーを飲みながら和が言う。やっとパフェは食べ終わったらしい。
俺は少し驚く。彼がそんな風に、家の事情を誰かに話すところを初めて聞いたからだ。前にサークルの飲み会で、OBにからかわれたように、失礼な他人に指摘されることはある。でも俺や和からは口にしてこなかった。
「ほんと?」
「うん」
急に少女は身を乗り出して言った。自分と同じ境遇だと知って、味方に感じられたのかもしれない。
「かのこはね、だからほんとのお城に帰るの」
王子さまと王さまがいて、と少女は話し続ける。きっとアニメか何かの受け売りなのだろう。よくある子供っぽい空想だった。うん、うんと言いながら和は頷いてそれを聞いていた。
――本当の家じゃない。
和もやっぱりそんな風に思っていたのだろうか。
よくフィクションなんかで、自分が養子だったことを成長してから知ってショックを受ける、なんて話がある。それを知った子どもはショックを受けたり、荒れて親に当たったりする。
でも和にとっては最初から、八木沢家の実の子どもでないことは自明だった。
誰が言わなくても、俺たちと和はあまりに似ていなかったからだ。誰が見てもわかるほどに。
「本当とか、本当じゃないとか言うなよ」
俺は思わず声を出していた。和が少し驚いたように俺を見る。
「生まれた家じゃないことが、本当の家族じゃないわけじゃないだろ」
俺なんかが何か言えることじゃないのかもしれない。でも、言わずにはいられなかった。確かに八木沢家は和にとっては血の繋がらない家だ。でも、それを「本当の家じゃない」とは言ってほしくない。
「大丈夫、わかってるよ、にいさ……誉」
俺は和を睨み付ける。兄と呼べないシチュエーションだからといって、ここぞとばかりに呼び捨てにしなくてもいいものを。
「誉さんだろ」
「なんかそれは逆にエロくない?」
「お前頭沸いてんのか」
言い合っているうちに、どうでもよくなってきた。そもそも兄とバレて困るわけではない。それも勝手に和が言い出したことだ。話す俺たちを、かのこはじっと見ていた。
とにかく、俺たちが彼女にしてやれることには限界がある。早いところ誰かに事情を話して引き渡そう……そう思った。
コーヒーを飲み終わり、俺たちは店を出ることにする。和がトイレに行っている間に、俺は会計をしていたが、かのこはその隙に店を出て行く。
「あ、待て」
かのこは、こちらを振り返りもしないで走っていってしまう。おつりをもらっていないので俺はまだ動けない。
「かのこ!」
そうしているうちに、和が戻って来たので俺は焦って伝える。
「おい和、走ってったから捕まえとけ」
家に戻るならいいが、外は車も走っている。やみくもに駆け出しただけなら危ない。
「あ、うん」
慌てて和が追いかけていった。
だけど、かのこがいなくなるのは早かった。まるで猫のようだ、と思った。俺も少し遅れて店を出たが、もう既に見当たらなかった。
「いない……」
仕方がないので俺と和はまた河原に戻って、彼女がいないか確認してみた。でも、どこにも姿は見えなかった。
「何だったんだ……」
パフェをねだる狸にでも化かされたのだろうか。いなくなるまで本当にあっという間だった。もしかしたら最初から、パフェが食べたかっただけなのかもしれない。
「たぶん、ちゃんと家族のとこに戻ったんだよ。でもちょっと楽しかったな」
「お前はな」
かのこを探すために走った和はうっすら汗をかいているようだった。
「さっきのさ」
「何だよ」
「さっきみたいに、もう一回『お兄ちゃん』って言ってよ」
「は?」
俺は思いきり冷たい目で和を睨み付ける。だが和は涼やかな顔をしている。
「何だそれ」
「たまには、俺が兄さん役で、兄さんが弟役になるってどう? だから『お兄ちゃん』って呼んでみて」
「お前、変態だったんだな、知らなかったわ」
「兄さ……じゃなかった、誉」
俺は呆れてため息をつく。
実は和も、弟が欲しかったとかそんなことはあるのだろうか。聞いたことはないからわからない。まぁ欲しかったと言われても、今更どうにもならないのだけれど。
でももし、和の年齢が俺より上だったら、俺は義理の兄を持つことになっていたわけだ。それはどんな気分だろうか。
やっぱり反発はしただろう。でも、母の叱り方だって、もっと違ったものになったんじゃないだろうか。
――お兄ちゃんなんだから。
もしそうだったら、俺たちはそれなりに仲のいい兄弟になったりしたのかもしれない。でもその想像は、全然楽しくなかった。
「随分頼りない『お兄ちゃん』だな」
和が俺の兄だなんて、寒気がする。
「誉がしっかりしてるから大丈夫」
「お兄ちゃんのくせに甘えんな」
和はよほどこの設定が気に入ったのか、嬉しそうに笑っている。邪気のない笑顔を見ていると、俺も怒る気力が削がれた。
「でもやっぱ、兄さんは兄さんだな」
そう言って、和は急に俺の手を取る。
今、付近の河原には人がいない。でも橋を渡っている人たちの姿は見える。もし彼らがこちらに目をやれば、もちろん俺たちの姿も見えるだろう。
「こんなとこで何してんだよ」
「別にいいじゃん、誰に見られたって」
「やめろ」
だが、和は俺の手を繋いだまま離そうとしない。
家の中でセックスはしても、俺たちはわざわざデートみたいなことはしたことがない。だから当然、手を繋いだこともなかった。
二人きりの時にはもっと恥ずかしいこともしているわけだけれど、それはそれだ。ここは外だと考えるだけで、和と手を繋いでいるだけなのに汗が出てくる。
「今だけだから」
和はじっと俺を見て言う。俺に全く似ない、端正な顔立ちで。
「お願い――兄さん」
俺はなぜか動けない。ふざけるな、いい加減にしろと怒って手を振り払ってもいいはずなのに、そうできない。金縛りにあったみたいに、手を繋がれて立っている。
「……勝手にしろ」
吐き捨てた言葉は、弱々しくて取り消したくなった。
俺たちは手を繋いだまま、宿まで戻った。俺にとっては不本意ながら、だ。いくら知り合いがいないような場所だからとはいえ、男同士だ。俺はやめるよう何度も言った。でも和が聞かなかった。
「手離せ、和」
「兄さん、顔真っ赤」
顔から火が出そうとはこういうことを言うのだと思った。手を振りほどこうとしても、全然うまくできなかった。かえって強く握り直されて、逃げられないと悟る。
手が汗でべたついて気落ちが悪い。もうどっちの汗なのかもわからない。
「誰のせいだよ」
まるで裸で外を歩いているみたいに恥ずかしい。世界中の人に見られているような気がする。通り過ぎる人からは、じろじろ見られることこそなかったけれど、きっと変な男二人だと思われているだろう。
「誰か知り合いに会ったらどうすんだ」
とにかく一回、手を拭いたい。でもそれも許されない。俺は囚人みたいな気持ちで、和に引きずられて俯いて歩く。
「罰ゲームだって言えばいいよ」
「全裸で歩いてるような気がする」
「そういうのがいいの?」
「よくねぇよ、手離せ」
結局そのまま、俺たちは泊まっている旅館にまで戻ってきた。さすがに中に入るときは手を離してもらえるだろうと思ったのに、和は振りほどかない。
「和、いい加減にしろ」
俺は他の人に聞こえないよう、小声で怒鳴る。
さすがに男二人で温泉旅館に泊まって、手を繋ぎながら帰るのは恥ずかしすぎる。そういえば、俺はさっきカップルを見ながら思ったのだった。
〝あの二人は旅館に戻ったらやりまくるんだろうな〟
他人に向けた下世話な想像が、自分に跳ね返ってくる。こんなの耐えられない。
そう思った時、間近から声がした。
「ラブラブだ」
そこにいたのはあの少女、かのこだった。
「あ」
和も驚いたのか、手がやっと解放される。
「お前、どこ行って……いや、どこ行ってもいい、いいけどなんか言っとけよ」
俺はかのこに訴える。パフェをおごらせて逃げるなんて、確信犯ではないだろうか。かのこの後ろから誰かが追ってくるのが見える。その人は和服を着ていた。
「かのこ、お客さんに迷惑かけないの」
憮然とした表情でかのこは俺たちを見ている。かのこを追ってきた女性には、見覚えがあった。チェックインのとき、俺たちを部屋に案内してくれた女将さんだ。
俺は旅館を見上げる。
大きな家。確かにそうだ。
・
女将さんに一通りの経緯を説明すると、ひどく謝られた。
かのこがふらふらと出歩くのは今に始まったことではないようで、女将さんはしきりに恐縮していた。
「本当にすみません、最近、変な遊びにはまっているみたいで……」
パフェ代も払うし、宿泊代から迷惑料を引かせてもらうという。
「いや、そんな気にしないで下さい、俺たちも楽しかったですし、な、和」
女将さんが説明してくれたところによると、かのこは最近、王女さまごっこにはまっているらしい。
自分はどこかの王国のお姫様で、本当の家はもっと別の所にあって、王様と王妃様、王子様が住んでいるというのだ。自分は流されて地球に今は住んでいるけれど、いつか本当の王国に戻らないといけない。かのこはそんな風に考えているらしい。
「アニメの影響だと思うんですけど……」
女将さんは本当に困っているみたいだった。女将さんが謝らせようと連れてきたかのこは、さっきから変身ステッキを手にして、悪びれた様子もなく人形で遊んでいる。
俺と女将さんが話している間に、気がつくと和はかのこと一緒になって、人形を動かしてやって遊んでいた。精神年齢が同じなんじゃないだろうか。いや、少女でも女の子だから愛想よくしているのか。
「いや、子供の頃はそういう夢を見るもんですよね」
俺は女将さんに調子を合わせる。
俺には子供のことはよくわからない。でもたぶん、この調子だとまたかのこは外に逃げていってしまうのではないだろうか。
「本当に申し訳ありません。ちゃんと分別がわかるようになるといいんですが……」
かのこと和はごっこ遊びなのか、何か話しながら人形とステッキをぶつけている。小さい頃、和がプラレールで遊ぶのが好きだったことを、俺はちらと思い出した。
迷惑料、という話は固辞したが、それならばと夕飯は当初の予定よりかなり豪華になった。
食事は部屋ではなく、食事処でするタイプだった。
かのこの父親はこの宿の料理人なのだという。刺身からカニ、天ぷら、赤身の肉と、これでもかというほど豪華な食材が続く。これほど出てくるとは思わなかった。こんな飯は、しばらく食べる機会なんてなさそうだ。
「あー、食った。一生分食った」
すっかりお腹がいっぱいになり、少し酒も飲んで体が重かった。パフェも食べている和は俺以上に辛そうだった。だが、食事は美味しいので食べるのはやめられない。
部屋に戻ると、すっかり布団が敷かれていた。二組の布団は絶妙な距離感で、くっつきすぎも、離れすぎもせずに敷かれていた。
寝転がったらすぐに眠ってしまいそうで、俺は座椅子に座る。
「あの子、あの遊び続けんのかな」
これから先も、王子さまを探しに出られたら、両親も気が気ではないだろう。
幼い女の子のことだ。誰かにその言葉を利用されて攫われるとか、警察に連れていかれるとか、そういう危険もあるだろう。
「何が不満なんだろうな……」
問題のある家族には見えなかった。でも、外からはわからないことだってあるだろう。実際、ご両親は仕事で忙しそうではある。かのこは寂しいのかもしれない。
「でもあの子の言うこと、なんとなくわかるよ。さすがにお姫様だなんて夢見てたわけじゃないけど」
和が言う。夜になった部屋はかすかに川の音が聞こえる他は、静かだった。
俺は何となく気まずくて、テレビを付ける。
「ここじゃないどこかに自分の本当の居場所があるんだって思ってた」
「それっていつだよ」
明日は晴れ、と天気予報が言っている。
「両親がいなくなって、色んな人の家に行かされてたとき」
その頃の和の境遇は、母から聞いたことがある。たらい回し状態だった、という。和の両親はもともと親戚付き合いをほとんどしていなかった。
親類からしても、交流もなかった人たちの、しかも殺人事件の生き残りの子どもを引き取れるかと言われたら難しいだろう。
――そのあげくに、うちだ。
「あったのか」
母はなかなか難しい決断をしたのだな、と今更ながらに思う。和の両親との交流もほぼなく、すぐには血縁関係を言い表せないほどの遠縁だ。ものすごく余裕がある家というわけでもない。それでも、母は和を引き取った。
小さいころ、俺には俺なりの切実な思いがあった。でも自分のしたことが、褒められるようなことじゃなかった自覚はある。
母は和のためをいつも考えていた、と思う。だからこそ叱らずに甘やかしたのだ。でも、それが本当に和のためになっていたのかは知らない。同じ家庭の中での不均衡な扱いは、俺と和の間に軋轢をうんだ。
俺だって、こんな風に冷静に考えられるようになったのは最近のことだ。
子供の頃は、家の中だけが世界のすべてみたいに思える。俺にとっては、母に叱られないことだけが絶対だった。百点を取ること、褒めてもらうこと。そうじゃないと生きていてはいけないような気がしていた。
「だから今、俺はここにいるんだよ」
和はテレビの方を見たまま言った。
「そうか」
和がそういう風に言うなら、そうなんだろう。もうテレビはCMになっていて、その内容に興味なんて欠片もなかったけれど、俺もテレビ画面を見続けていた。
だがいつまでもそうしている訳にもいかない。
俺はおっくうな体を起こして、立ち上がる。せっかく温泉に来たのだから、入らないのはもったいなさすぎる。
「俺温泉入り行くけど」
和は気がつくと、布団の上に横たわっていた。だが、答えがない。
「おい、和?」
「ん……」
「寝んのか?」
「ちょっとだけ……」
そういえば和は朝から眠そうだった。昼寝もしただろうに、まだ眠いのだろうか。だがまぁあまり眠い状態で風呂に入りに行くのもよくないだろう。
俺は一人で浴衣やバスタオルを持ち、部屋を出た。正直なところ、他の人もいるような温泉に、和と二人で浸かるというのは何だか落ち着かないから助かる面もあった。
いや、別に裸を見た程度でどうこう思ったりはしない。たぶん。
でも、何というか……やっぱり恥ずかしいような気持ちはある。
「何してんだ、俺は……」
ただ兄弟で温泉に来ただけ。でも、すっかりその意味は変わってしまった。手を握って歩いた宿までの行程を思い出すだけで、また心臓が早鐘を打ち出しそうになり、俺は慌てて打ち消した。
時間が遅めだからか、温泉はそれほど混んでいなかった。
気持ちがいい湯だったが、すっかり真っ暗で風景が見えない。露天もあったが、真っ黒な外しか見えなかった。
明日明るい時間にまた、入りに来るしかない。幸いチェックアウト時間はそう早くなかったはずだ。露天に浸かっていると、川の音がよく聞こえる。
そのうち和が来るんじゃないかと思ったけれど、姿を表さなかった。俺はそのまま温泉から上がり、髪を乾かして部屋に戻る。
「やっぱ寝てんのか」
こうなると思った。
和はすっかり布団の上でそのまま、寝息を立てている。どうせ寝るならちゃんと服を着替えて、布団に入って寝た方がいい。
「おい、和」
俺は和のそばにしゃがみ、その寝顔を観察する。すっかり気の抜けた顔だった。
「寝るならちゃんと寝ろ」
よっぽど疲れていたのだろう。じっと見ていると、ぱっと和が目を開いた。
「あれ……浴衣……?」
「寝ぼけてんな」
温泉に入ってきた俺は浴衣を着ていた。浴衣など着慣れないから、紐を結ぶのに苦労した。着方がこれでいいのかもいまいちわからない。
「温泉、気持ちよかったぞ」
「うん……」
俺は今日着ていた服を畳み、カバンにしまう。和はまだ眠そうにしていたけれど、もぞもぞと体を起こしたかと思うと、温泉に入りに行った。大丈夫だろうか。寝ぼけて頭を打つなんてことになったら笑えない。
俺はつい手持ち無沙汰で携帯を見る。
「あれ」
垣元からメッセージが来ていた。この間クラスの飲み会以来、何かと垣元は絡んでくる。俺に敵意があるのだろうと思っていたが、どうやらそれだけでもないらしく、話題はほとんど授業の真面目な話だった。俺もそう友人が多いわけではないし、不思議と垣元には腹が立たないので、そこそこ相手をしているうちにたまに昼飯を一緒に食べるくらいの仲になった。
基本的に垣元は勉強が好きで、真面目なやつだ。今日のメッセージも、課題に対する疑問を相談する内容だった。
和も温泉に行っているし、気づいてしまった以上、そのまま無視するのもはばかられた。俺は持ってきたテキストを引っ張り出して、真面目に回答を作成する。
そうしてしばらくした頃、和が戻って来た。
「何してんの、兄さん」
テキストを広げて頭を悩ませている俺に、呆れたように和が言う。浴衣を着ている。急いで戻って来たのかまだ髪が少し濡れていた。
俺と同じ浴衣だ。宿に備え付けの、どこにでもありそうな白地に青い線が入った浴衣。
「いや……なんか聞かれて」
俺はつい和のその姿をじろじろ見てしまう。何というか、新鮮だった。まぁ、背丈があるからか、似合っていると言えなくもない。俺と同じ浴衣とは思えない。
「急ぎ?」
急ぎではないけれど、放っておくのも気持ちが悪い。
答える必要はないだろうと思って俺は無視する。だけど和は、俺の背後にぴたりと体をつけるような形で覗き込んで来た。温泉に入ったばかりの和の体は熱い。
「おい」
「『垣元』って誰?」
「いや、単に課題の話」
「課題?」
別にやましいところは何もない。俺は広げたテキストを示してみせたが、むしろ和の不機嫌には拍車がかかったみたいだった。
「兄さん、何考えてんの?」
和は俺の手から携帯を取り上げると、思い切り部屋の隅に投げ捨てた。
「おいっ」
人の携帯を粗末に扱うなんて最低だ。振り向いたところを強引にキスされ、俺は身動きできなくなる。和の手は気がつくと、浴衣の隙間から入り込んできて俺の肌を撫でる。
「何すんだよ」
「こっちのせりふだよ、なんで温泉来てまで……もういい」
よくない。お前だって寝てたくせに。
和の手はそのまま俺の胸を撫でる。浴衣というのは、無防備すぎないだろうか。俺の着方が悪いのか、ほとんど一瞬で肩が脱げてしまう。
和の体は温泉に浸かって来ただけあって熱い。何だかその熱もまた新鮮で、体から力が抜ける。
「ん……っ」
俺はそのまま、布団に横たえられる。
そのとき、さっき和が放り投げた携帯電話が鳴った。メールではない。着信のようだった。
「ちょっと待て、電話」
俺は手を伸ばして、携帯を手にする。着信は垣元からだった。さっきのメッセージが中途半端なところで終わっていたからだろう。
「出るから、ちょっと待て」
和はいかにも不満だという顔をしていた。別に俺だって長電話をしようというわけじゃない。さっきメッセージで伝えようと思っていたことを、電話なら一瞬で伝えられる。
「おう。あ、そうそう途切れてたよな。それは……っ」
電話をしたまま俺は和に引き寄せられ、彼にすっぽり抱きかかえられる。
すでに脱げかけていた浴衣が、和の手で上半身から滑り落とされる。
浴衣というのは、服として心許なさ過ぎないだろうか。なんでこんなに脱げやすくできているのか。そのまま和は背後から、俺の肩に唇を寄せた。
「……っ、いや、何でもない。それは教科書の方にあるだろ、だから」
和の手が裸の胸をなぞる。胸の先を摘ままれ、変な声が出そうになる。
それでも俺は何とか伝えることは伝えきってしまおうと、早口で喋り続けた。
「詳しいことは来週会ったときに……あれ、休講だっけか?」
だがこんなときに限って、話はなかなか終わらない。和はすっかり背後から俺の体をまさぐっている。やめろと言いたいのだが、その余裕さえ俺にはなかった。
胸の先端を摘ままれ、首筋にキスを落とされる。和の唇が俺の首筋、肩甲骨、と辿っていく。
「……ぁ」
どうしてもこらえきれずに声が漏れた。
「いや! 何でもない! わかった、じゃあまたな」
俺はどうにか話を終えて電話を切った。もう息も絶え絶えだった。
「何すんだよ……!」
振り向いて、文句を言った口を塞がれる。俺の浴衣はもうほとんどはだけていた。ぐしゃぐちゃになって脱げた浴衣を見ると、ひどくいやらしいことをしている気分になる。気分というか、実際にしているのだけれど。
和の手はすぐに、俺の下着にまで伸びてくる。背中に当たる和の体は、風呂上がりだからいつもより熱くて湿っぽい。顔に触れる和の髪もまだ少し濡れている。
「お前、髪ちゃんと乾かせ」
俺は和の髪を摘まんで、そう文句を言う。そうでもしないと、すっかり甘い声を上げる以外できなくなりそうだった。
ここが旅館だからだろうか。
いつもよりも静かな場所だからか。それともお互い浴衣を着ているからか。何だか変な気分だった。普段よりも息が上がるのが早い気がする。興奮が否応なしに高まっていく。
そうしているうちに、俺は再び布団に押し倒される。和の仕草は、いつもより性急だった。
和の浴衣も少し乱れている。半端に乱れているところが、余計に何だか見てはいけないものみたいな気がする。熱を帯びた和の手が、俺の奥に伸びてくる。
「熱い……」
それはお前の今の体の方だ、と言いたかった。でもキスで唇を塞がれてうまくいかない。
最近、和は課題で忙しそうだったから、するのは久しぶりだった。高ぶりが早いのはそのせいもあるのかもしれない。
「……お前、ゴム持ってんの?」
「あるから、入れていい?」
和は焦ったように、熱っぽく口にする。
いつの間に用意したのだろうか。和はやけに生でしたがるけれど、俺がしぶるのも知っている。だから今日は用意をしていたらしい。とにかく早く入れたくてたまらないらしい彼に、だめだと言う理由をなくして、俺は頷くしかない。
「あ……っ」
焦らすことなく、和が俺の中に入ってくる。やっぱり熱かった。久しぶりなせいか、以前より大きく感じられる。苦しいくらいの充溢感に、俺は何とか息を吐いて耐える。
「んん…っ」
俺は浴衣の中に手を差し入れて、和の肩を掴む。温泉あがりの肌は、すべすべしていて気持ちがいい。
抱き合ったら、もっと気持ちがいいんだろうなと思って和を引き寄せた。
繋がったまま、腹や胸が密着する。ぴったりと肌が吸い付くようだった。
「ああ……っ、んっ」
挿入するまでは早急だったのに、和の動きはゆっくりだった。気持ちがいいのだけれど、俺は少しじれったくなってきてつい腰を揺らしてしまう。
「待って」
和が小さな、だけど切羽詰まった声で口にする。
「いきそう……」
最近していなかったせいだろうか。さすがに早いなんて口にするのはかわいそうだろう。でも、俺だって切羽詰まっているのだ。動きを止めようと思っても、自然と腰が揺れてしまう。慣れた奥への強い刺激が欲しくて、じれったくなる。
「ん……、や、あ」
「兄さん……っ」
もっと奥まで欲しいと、久しぶりの刺激に飢えた体が訴えている。
でもそのうちに、和もこらえられなくなったようだった。
「あ…っ、ああ」
俺の腰を押さえて、打ち付けるように深くまで穿ってくる。内壁を擦り上げられ、突き上げられるのは苦しいくらいの快楽だった。
「あっ、や……っ、ん」
静かな部屋にいやらしい音と、俺の甘い声ばかりが響く。これだけ静かということは、近くの部屋に客はいないか、あるいは他の部屋の声はきっと聞こえない作りになっているのだろう。そうだと信じたい。
「ああ……っ」
俺はあっという間に達してしまっていた。でも、和も同じだった。
しばらくお互い、強すぎる快楽に耐えるように、じっと動きを止めて息をしていた。
和の浴衣もぐちゃぐちゃに乱れていた。やっぱり浴衣というのは防御力が低すぎると思うし、何というか……心臓によくない。
まだ濡れたままの和の髪から、ぽたりとしずくが俺の肌に落ちた。
「兄さん、まだできるよね?」
はだけた浴衣を脱ぎ捨てて、髪をかきあげると和は言った。