和から家の鍵はもらった。とはいえ、用もないのにしょっちゅう行くのは気が引ける。なんで俺が、こんなに和のことで悶々としなければならないのか。

 そもそもどうして和から俺の部屋に来ないのか。腹立たしい。まぁ来る用事もないのかもしれないが、それこそ和だって俺の部屋の鍵を持っている。なんでわざわざ兄である俺が和の方に出向かないといけないのか。

 

「なんなんだよ、あいつ」

 

 母にも和の家を見に行ったことを一応報告しておくと、のんびりした答えが返ってきた。

 

「あらそう、今度お父さんと一緒にまた京都行きたいのよね」

「大丈夫なのかよ、あいつ」

 

 母はもっと和に対して過保護だった印象があるのだが、あまり気にしているようでもない。俺としてはもっと母に和を責めてほしかった。

 

「そういうあなたこそ大丈夫なの? 一人暮らしでだらけて生活リズムを崩して成績が落ちるなんてことになったら困るのよ」

 

 だが母の矛先は俺に向かってくる。これ以上は藪蛇だ。俺は曖昧に答えて電話を切った。

 

 

 癪だったが、こうなったら俺からまた和の家に行くしかない。ただじっと待っているのも嫌だった。ちょうど、この間母からもらった食料が家にはたくさんある。それを届けるという口実にした。

 

「おい、和、いるか?」

 

 必要ないときには押しかけてまとわりついて来たのに、わざわざ俺がやつのところに行くことになっている。

 もしかしたら誰か連れ込んでいるかもしれない。あのタバコが脳裏をよぎり連絡をせずに行ったが、和はちゃんと部屋にいた。

 

「あれ、何してんの兄さん」

「何してんのじゃねぇよ」

 

 和はいた。いたのだが、見たことのない高級そうなグレーのジャケットを着ていた。似合っているのがまた腹立たしい。

 そんなものいつ買ったのか。家を借りて、更に服まで金をかけているとなるといよいよ怪しい。

 

「またどっか行くのか?」

「うん。連絡くれればよかったのに」

 

 和は明らかにおかしかった。もう夜で、どう考えても学校に行く時間ではない。

 

「どこ行くんだよ」

「うーん、仕事?」

「疑問形で答えるな。どこで、誰と、いつまで、何の仕事だ」

 

 例えば。例えばだが、和のバイト先がホストだったら俺はどうしたらいいだろう。

 

「細かいね。そのうち教えるよ」

「何だよそれお前」

 

 和は唇の前に一本指を立てて微笑む。

 

「兄さんには、秘密」

 

 和のくせに一丁前に俺に秘密を持とうというのだろうか。

 

「何考えてんだよ……!」

 

 和は昔から、誰にでも好かれた。特に年上の女性にはウケがいい。すぐに気に入られる。考えてみたら、ホストにはもってこいだ。

 俺はホストの世界のことはよく知らない。一概に絶対にダメだとは言えないが、やはり夜の仕事は色々と問題もあるはずだ。ただ酒を飲むだけじゃなくて同伴をしたりデートをしたり……それ以上のことというのも、あるんじゃないだろうか。それなら短い時間で大金を稼ぐこともできるだろう。

 いや、それなら相手は女性に限らないかもしれない。考えただけでぞっとした。もし金持ちのおっさんがパトロンについているとかだったらどうしたらいいのだろう。いい服を着せ、いい食事を食べさせ、兄と暮らしていると言ったら「そんな部屋は出たらいい」と言って……俺の妄想はどんどん広がってしまう。

 

「ごめん、来たばっかで悪いけど、もう出ないと」

「待て、お前が出るなら俺も帰る」

「もう?」

 

 俺は和のジャケットの背中を睨み付ける。とはいえ、尾行などするつもりはない。でも、一緒に家を出ることで行く方向くらいはわかるだろう。

 そう思ったのに、家から出て少しのところに車が止まっていた。詳しくないのでよくわからないけれど、高級車のように見える。パトロン、という言葉が頭の中で明滅する。

 

「兄さんのこと送ってもらえたらいいんだけど、時間がないから」

「おい和、お前ほんとに何してんだよ」

 

 車の中はよく見えない。こんな高級そうな車で送り迎えをしてもらえるような仕事はそうそうないだろう。

 

「八木沢、急げよ。何やってんだよ、時間ないぞ」

 

 車から誰かが顔を出す。ヤンキーみたいな男だ、と思った。

 明るい茶髪、首には金色のネックレス。ヤンキーじゃなかったらやっぱりホストだろうか。甘い顔立ちは整っている部類だろうが、正直絶対に関わり合いたくないタイプだ。

 

「揉めてんのか? 手伝ってやろうか」

 

 男は俺を見て、ちょっと不思議そうな表情をすると言った。

 

「おい和、これは誰で、お前はどこに行くんだ、ちゃんと話せ」

 

 俺は少し声を潜めて言う。

 

「今度ちゃんと話すから」

 

 和はそれだけ言って俺の肩を軽く押す。まるで、俺といるところを見られたくないみたいだった。

 

「大丈夫、兄さんに迷惑はかけないから。じゃ、また」

 

 そしてそのまま、和は車に乗ってしまった。ごめん、とヤンキー男に向かって話しているのが聞こえる。

 ――迷惑?

 それなら今のこの状態が迷惑だ。謝るなら俺にじゃないだろうか。その男は誰なのか。この車でどこに行くのか。ちゃんと説明しろと言いたかった。

 

「何なんだよ、おい」

 

 そのまますぐに、車は走り出してしまう。俺は呆然とそれを見つめるしかなかった。

 

 ・

 

「え? やっぱりバイトやめたんだ、和君」

 

 前山も最近は、和と話していないようだった。いじられるのが面倒なのであんまり彼女に和の話をしたくなかったが、共通の知り合いなのでつい愚痴を言ってしまう。いつものファミリーレストランでのランチタイムだった。

 

「最近は本屋で顔見ないなって思ってたんだけど、そうだったんだね」

 

 以前、前山と和は俺の知らないところで会っていたことがあったから、俺は少し前山を疑っていた。でも、彼女が嘘をついているようには見えなかった。

 

「まぁ、大丈夫でしょ、和君ならしっかりしてるし」

「どこがだよ」

 

 和がしっかりしているなら俺だって心配なんてしない。

 

「だから過保護よくないって」

「そういうんじゃないって言ってんだろ」

 

 このやり取りにもいい加減うんざりしてくる。あまりおいしくないパスタを口に運びながらも、昨日の光景が頭から消えなかった。あの男がパトロンとは思えないから、同業者なのだろうか。確かに整った顔立ちをしていた。

 

「あー八木沢」

 

 聞き覚えのある声がすると思ったら垣元だった。キャンパスの前にある安いファミリーレストランなので、昼の利用客はほとんど学生とはいえ、垣元とはやけに会うなと思った。

 

「ちょっと話あんだけど、今日暇か? どうせ暇だろ」

「暇じゃねえよ、常に忙しい」

「じゃあ後で連絡する」

 

 それだけ言って垣元はまた歩き去っていった。ドリンクバーに向かう途中だったらしい。どいつもこいつも、俺の都合を気にしやしない。

 

「何あの偉そうな人、うちの学校の人だよね?」

 

 垣元の勝手な様子に、前山はちょっと引いていた。

 

「どっかで見たことあるような気がする」

「法哲学概論とか取ってんだろ、同じクラスだよ」

「ああ。そういや、そんな人いたような……もっと真面目な人かと思ってた」

「なんかやたら俺に絡んでくるんだよ」

 

 俺は垣元から絡まれた経緯を前山に説明する。前山はふぅんと気がなさそうに聞いていた。

 

「予備校でのこととか、なんでいまだにこだわるのか全然わかんないよな。今更だろ」

 

 在学生には数学オリンピックに出たり、小説で賞を取ったりしている人もいる。彼らを羨むならまだわかるが、予備校時代の成績を気にしたって何にもならない。なにせ、もう俺も垣元も同じ大学に合格しているのだ。

 

「まぁ、絡むのは良くないけどね。でも、ちょっとだけわかるような気がする」

「え、どこが」

「私も田舎の出身だから、女の子がそんな学校行かなくてもいいんじゃない、とか言う人もいたし。殺すって思ったけど。そういうとき、東京で名門高校とかに通っててさ、模試でいつも良い成績取ってるような子の名前見てると、自然と覚えちゃうんだよね」

「俺、高校は公立だけど」

 

 高校受験に失敗したせいで、俺は偏差値の高くない地元の公立高校に通っていた。決して恵まれた環境にいたわけではない。

 

「例えだよ。当たり前に、この子は大学行くんだろうな、それを望まれてるんだろうな、そういう風に考えちゃうってこと」

「いや……それはさ」

「八木沢はさ、将来こうなりたいとかも明確だし……そういうのをいいなと思っちゃう気持ちっていうか……」

 

 俺に高校時代の思い出なんてほとんどない。勉強ばかりしていたから。それが、本気で羨ましいのだろうか。

 平凡な公立校でも、それなりの青春を楽しむことはできたのかもしれない。でも俺は和から逃げることしか考えていなかった。それだけだった。だから、高校では部活にも入らなかったし友人もいない。

 でも、そんなみじめなことを自分から話したくはなかった。

 

「あ、いや、ごめん。誰だって色々あるよね」

 

 俺の不満を読み取ったように、前山は慌てて言った。

 

「いや別にいいけど。そういや前山、彼氏とは順調?」

 

 俺は意図的に話題を変えた。

 

「うん……まぁ」

 

 でもそれもあまりよい話題ではなかったようで、前山の声は更に沈む。

 

「ちょっと色々あってね……彼、国に帰ることになって」

「えっ、国ってインドだっけ」

 

 前山の彼氏は遠くから日本に来ている。ネパールかバングラデシュだったかもしれない。前山は大学生だし、そうなると遠距離になるのだろう。

 

「それは……大変だな」

 

 俺にはその国へ行くのにどのくらいの時間や費用がかかるものなのかもわからない。そう考えてみると、前山は俺なんかよりずっとすごい。

 

「うん。ちょっと色々見つめ直す時期かなって思ってる」

「何か、もし誰でも良いから何でも聞いて欲しいとかあったら、言えよな」

「優しいじゃん」

「俺は別にアドバイスとかできないけど」

「まぁ八木沢からアドバイスが欲しいわけじゃないからいいよ」

 

 前山が無理やり力を振り絞ったような笑みを浮かべるので、失礼なコメントにも怒るに怒れない。

 今更、前山と恋愛関係になるなんてことは考えていない。でも、友人として彼女の力になれることがあるなら手助けしたかった。

 

「八木沢も私に和君のこと愚痴りたかったらウェルカムだからね」

「何だよそれ」

 

 前山はそう言ったけれど、俺はこれ以上和の話を彼女にする気にはどうしてもなれなかった。

 だいたいどうして和の愚痴限定なのか。色々と言いたいことはあったけれど、俺は黙ってパスタを口に運び続けた。

 

 ・

 

 もちろん、俺と和の関係と、前山と彼氏との関係は全然違う。でも身近な話なので、やっぱり比べてしまうところはある。

 

「遠距離か……」

 

 そう考えると、せいぜい一駅程度の場所に和が引っ越して、バイト先を秘密にしているというだけで、何を慌てているのかという気もしてくる。前山からしたらそりゃあからかいたくもなるだろう。

 鍵ももらった。会おうと思えばいつでも会える。

 でも調子が狂う。狭いベッドに和が入ってくるのは嫌だったはずなのに、いざ一人になると落ち着かない。

 この間、和は俺の頬をつねっただけでろくに触れなかった。キスもセックスもなし。こういうことが普通になっていくんだろうか。当たり前の兄弟みたいに。俺もそれこそ、女の子でも連れ込んだらいいのか。

 一人きりのベッドが広くて、俺はつい下半身に手を伸ばす。すっかり合コンにも行かなくなった。どうやったら彼女ができるのか。デートをして、酒を飲んで、それから家に連れてきて……。

 想像しているのは女の子とのデートのはずなのに、気がつくと俺は和に触られたときのことを思い出している。まさぐられて、押しつけられて、強いくらいの力でこすられる。

 

「……っ」

 

 違う、女の子。女の子だ。俺は押し倒す側。そう思うのに脳裏から和の姿が消えない。俺は気がつくと手を性器の更にその奥に伸ばしていた。前に和に触れられたのが、ずっと前みたいに思える。

 

「あ……」

 

 体が震える。だってもう一度や二度のことじゃない。女の子とのセックスなんかよりずっと和としたことは多くて、体に染みついてしまっている。今更急に放り出されても困る。そのまま俺は一人でして、達した。こんなにむなしい気分になる自慰は初めてだ。

 

「くそっ」

 

 とにかく、何もかも和のせいだ。射精したのにどこか物足りなくて、最悪な気分だった。

 

 

 

 

 

「情報代だ、今日は驕ってやる」

 

 その日の夜、俺を呼び出した垣元は、苦々しい顔をして言った。

 

「そこまでして俺の勉強の仕方なんて聞いてどうすんだよ」

 

 たぶん、人それぞれいいやり方があるだろうから、聞いたって仕方がないだろう。もはやこいつは俺のファンに近いんじゃないだろうか。そう思うと、垣元には何を言われても腹が立たないことがしっくりきてしまう。もちろん、絶対に言わないけれど。

 

「情報には価値があんだよ。黙って驕られとけ」

「垣元ってバイトしてんのか?」

 

 この店が限度だ、と言われて連れてこられたのは学生が多い、安い居酒屋だった。つまみは枝豆と唐揚げが中心だ。俺も今日は飲みたい気分だった。

 

「してるに決まってるだろ。居酒屋と、カテキョで回してる」

 

 垣元は自分の苦労を蕩々と話し始める。裕福な家庭というわけではなく、浪人時代から大変だったらしい。

 俺はバイトをしたことがないので、垣元の話は新鮮だった。家庭教師の登録をしている会社のことを教えてもらい、携帯で調べる。家庭教師なら、ちゃんと工夫すればさほどの時間的拘束がなく金を稼げそうだ。勉強ができなくなっては本末転倒だから、なるべく負担が少ない仕事にしたかった。

 どうせならと思い少し前にインターンもいくつか調べたが、ほとんどろくに給料がもらえないところばかりだった。それでも勉強にはなるかもしれないが、無償労働をするほどの余裕はない。

 

「金困ってんのか?」

 

 俺がよほど真剣だったからか、不思議そうに垣元は言った。

 

「前にも言ったけど、弟が出てったんだよ。だから単純に言って、家賃が倍だ」

「いい気味だな」

 

 俺たちは気のおもむくままに杯を重ねた。垣元が相変わらず突っかかるようなことを言ってきてうざいとか、そういうのは別にどうでもよかった。

 俺はあまり早く家に帰りたくなかったのだ。

 一人きりで部屋にいるより、ざわめきのある居酒屋に誰かといたかった。相手は別に垣元じゃなくても、誰でもよかった。

 だいたい和がいけないのだ。あいつが全部悪い。

 ――寂しいなんて、今まで思ったこともなかった。

 高校の頃は勉強ばかりしていたから、友人が欲しいとかそんな風に思う余裕さえなかった。京都に来てから解放感に溢れていて、実家が懐かしいということもなかった。

 俺はとにかく和から逃げたかった。

 なのに和がいなくなった今、俺は和のことばかり考えている。

 

「まだ弟のこと悩んでんのかよ」

 

 すっかり垣元にも考えを読まれる始末だ。しっかり整えているらしき眉を寄せて彼は言う。

 

「どんだけブラコンなんだよ。まぁとりあえず飲め」

「いいよな、垣元みたいに単純なやつは」

「俺のどこが単純なんだよ。こんなに悩み苦しんでんのに。二浪してっからもう留年できないし、こっちは後がないんだよ」

 

 彼は最近、改めて弁護士を目指すことに決めたらしい。お前より先に司法試験に受かる、と宣言された。

 俺だって試験には早くに合格したい。バイトよりも本当は、そっちの方が重要だ。

 

「垣元って一人暮らしか?」

「そうだよ」

「一人の部屋で寂しいとか思う?」

 

 俺は今まで、寂しい寂しくない以前に、和のことで頭がいっぱいだった。

 

「まぁ……彼女もいねぇし、多少はあるけど。何だよ」

 

 じっとけげんそうに垣元は俺を見てくる。それから垣元は自分がなぜ弁護士になるのか、小さい頃の思い出から今の努力に至るまでを蕩々と話し続けた。俺は話半分に聞き続ける。

 自分から出て行った以上、和はすぐに戻ってくることはないだろう。この別離に俺たちは慣れていくんだろう。それが普通だ。

 俺はポケットの中の鍵を握り閉める。和は俺を嫌いになって、遠ざけたいわけではないようだった。たぶんそうだと思う。

 

〝兄さんには、秘密〟

 

「それで……やっぱり今の制度はおかしいと思うんだよな……そうだろ、おい八木沢」

「ああ、うん」

 

 どうせどれだけ飲んでも垣元のおごりだ。金を節約するためにもどうせ飲むなら今だ。今後、飲み会はなるべく節約のために断ろう。

 そう思って俺はどんどん杯を重ねた。周囲で飲んでいる学生の声が騒がしい。今頃和はどうしているのだろと、ぼんやり思った。

 

 

 

 

「おい、八木沢、起きろ」

 

 垣元が何か言っている。体を揺さぶられて、気持ちが悪かった。眠くて体が重い。意識がないわけではないのに、鈍く濁ったようで、体を起こせない。

 

「寝てんじゃねぇよ、八木沢誉」

 

 こんなところで名前を連呼しないでほしい。

 

「お前ん家だぞ、せっかく連れてきてやったんだから。いいか、吐くなよ」

 

 言われて俺はやっと目を開く。

 俺はタクシーの座席に座っているようだった。いつの間に店を出たのだろう。頭が重くて、今すぐにでも眠りたい。

 

「タクシー代は払えよ」

 

 不機嫌そうに垣元が言う。俺はぼんやりとした頭のまま財布を取り出した。

 

「部屋、行けるか? 吐かないだろうな?」

 

 なんで垣元がいるのか。一緒に飲んだからだ。でも、俺は和と一緒に帰ったんじゃなかったか。そう考えて、それがだいぶ前のことだったと思い出す。今は一緒に暮らしているわけでもないから和は来ない。

 俺がどこで何をしていたって、来たりしない。言いようのない不安を感じて、胸がざわざわする。

 

「しょうがねぇな……」

 

 俺の手におつりを握らせると、垣元は俺を促して車のドアを開けた。そのまま俺は垣元の腕に支えられる。

 飲み過ぎたのは、家に帰っても誰もいないことがわかっていたからだ。がらんとした部屋に帰るのが嫌だった。それなら、垣元とでも飲み続ける方がよかった。

 ――和はもう一緒に住んでいないから、迎えに来ない。

 

「ほら、ちゃんと歩け」

 

 俺は垣元に支えられながら階段を上る。とにかく眠い。そして体にあまり力が入らない。鍵は、と言われてポケットの中から何とか差し出す。

 

「お前なんでこんな飲み過ぎんだよ」

「うるさいな、和のせいだって言ってんだろ」

「何言ってんだよもう……お前弟のこと好きすぎだろ。ほら、靴脱げ」

 

 垣元はそのまま俺を部屋の中へと引きずっていく。どさりとベッドに下ろされる衝撃で、一瞬目が覚めた。

 

「何でもいいけど、人に迷惑かけるような飲み方すんな」

 

――兄さんに迷惑はかけないから。

 俺はあのとき、彼の言い方に傷ついたのだ。そのことを初めて自覚する。迷惑というならお前の存在自体が迷惑だった。今更、ちゃんとした他人みたいな顔をされてもどうしていいかわからない。

 

「おい、八木沢? 泣くな、大丈夫か? 吐くときは横向けよ」

 

 垣元の手が俺の肩を揺さぶる。俺は反射的に、その腕を力の入らない手で掴んだ。

 和は俺と違って中学生の時にもニキビもできなくて、いつもどこか涼しげだった。それが俺にとっては腹立たしいことだった。

 和さえいなければ、もっと俺は普通の青春を過ごせたかもしれないのに。

 

「おいマジで大丈夫か?」

 

 俺はぐいと垣元の顔を引き寄せる。垣元は一見ちゃらそうな見た目をしている。長めの髪は茶色で、眉もきれいに整えられている。イケメンかどうかはよくわからない。身ぎれいではあるように思う。和とは違う。全然違う。

 頭がぼうっとする。和さえいなければ……でも実際に今、和はいない。

 

「おい?」

 

 飲み過ぎたと思っているのに、もっと飲めばよかったと矛盾したことを思った。こんな部屋には帰りたくなかった。

 そのとき、がたんと洗面所の方から音がした。何かが落ちたのかと思った。

 

「あれ、人いんじゃん」

 

 垣元の声に俺ははっとして部屋の入り口を見る。そこに、和が立っていた。

 

「お前の弟だろ?」

 

 酔いがだんだん、醒めていくのがわかる。俺はベッドの上にいて、垣元と顔を近づけているところだった。和は俺の方を見ているのに、何も言わない。

 

「よかったじゃねぇか、お兄ちゃん。弟に出てかれて寂しかったんだろ?」

 

 垣元がからかうように何か言っているけれど、もう俺の耳にはろくに入ってこなかった。

 

 ・

 

 喉がからからだった。垣元は、そのままタクシーで帰っていった。

 

「あれ、垣元。同級生の」

 

 何かを俺から説明するのも違う気がした。誤解だ、何て言うのはそれこそ誤解を招く。何もしていないのだから、やましいことなんてない。俺はまず、体を起こそうとする。

 

「お前、来るなら来るって言えよ」

 

 じっと黙っていた和は、真顔のまま近づいてくると、上体を起こした俺の肩を押した。そのまま俺は、ベッドの上に押し倒される形になる。

 

「言ったら何? あいつを連れ込んだりしなかったのにって?」

 

 冷たい顔で俺を見下ろして和は言う。

 

「ちげぇよ、どけ。俺は水が飲みたい」

「だから?」

 

 まだ頭が痛い。明らかに飲み過ぎだ。起き上がろうとしても、また和に肩を掴まれ押さえつけられる。

 

「俺がいなかったら何してた?」

「べ、つに何もしねぇよ」

 

 さすがに飲み過ぎた。水が飲みたかった。明日はきっと二日酔い確実だった。

 

「別に普通の同級生だよ。お前と違って都合も合って、飲みに行けるし勉強の話もできるし」

 

 俺はつい、余計なことも付け加えてしまう。本当に言いたいのはそんなことじゃなかった。

 

「へぇ、じゃあ仲良くセックスもすればよかったのに」

「するわけないだろ」

 

 和の手がシャツの中に入ってくる。脇腹を撫でられて、びくりと体が震えた。

 

「誰でもいいからしたかったんでしょ?」

「やめ」

 

 なし崩しでされたくなんてない。でも、久しぶりの刺激と間近で感じる和のにおいに、勝手に性感が高まっていくのがわかる。

 

「こうされたかった? あいつに」

「ちが……」

 

 和の手が胸の先をかすめる。喉が渇いているせいで、声がかすれる。

 誰か他の人間の手なんて求めてない。誰でもいいなんてことあるわけがないのだ。でも、ちゃんと説明しようにも声が出ない。

 

「何が違うんだよ」

「や……っ」

 

 和の手は俺の胸の先を弄ぶ。だけどそれ以上の刺激はない。下半身が兆しているのがわかるけれど、和はそちらを触ろうとはしない。

 性感が高まるのに、射精には結びつかない。じれったくて、うずうずする。直接性器を触ってほしい。

 

「胸だけでイけるんじゃない、そろそろ」

「いけな……っ、もうやめろよ!」

 

 俺は何とか渾身の力を込めて和を押しとどめ、無理やり体を起こした。荒い息を何とか整えようとする。

 

「俺は……、いや、喉渇いた」

 

 俺は和を押しやってキッチンに向かう。ふらふらしたままシンクに手をつき、何とかコップに水を入れた。すぐに飲み干すと少しだけ頭がすっきりする。シンクには朝に使ったマグカップがまだそのまま残っていた。

 

「お前こそ何しに来たんだよ」

 

 振り向いて改めて和の顔を見ると、少し違和感があった。仕立ての良さそうなモスグリーンのシャツが見覚えのないものだからだろうか。でもそれだけじゃない。何か普段と少し印象が違う気がする。

 

「お前こそ『お仕事』で忙しいんだろ、俺にも都合があんだよ」

 

 和は勝手だ。勝手に家を出て行くことを決めて、忙しいだ何だの言って、そのくせ家に来てくれなんて言う。なのに俺が行ったらまた出かける。和の家に行ったとして、本人がいないなら意味がないのに。

 ――帰ろう。

 ――おかえり。

 いつも、他愛のないやり取りだった。今まではどんなことがあっても家に帰れば和はいて、それが当たり前だった。

 

「俺が誰と飲んで、誰を俺の家に上げようが関係ねぇだろ」

 

 シンクの縁を掴む俺の指は、力を込めすぎて白くなっていた。

 

「お前だって秘密だなんだ、好き勝手やってんだろ、俺も勝手にする」

 

 俺は和の部屋にあったタバコのことを思い返していた。和の家に誰が上がったかだって俺も知らない。

 和はもとから誰にでも好かれて、いつだって俺を捨てていける。本当は最初からそうだったのだ。わざわざ俺を追いかける必要なんてなかった。

 それなら母にも申し訳が立つ。

 

「飲み過ぎで頭が痛いんだよ、今はお前の顔なんて見てたくないから、出てけよ」

 

 俺はどんな風に言えば、和が出て行くのかわかっていた。わかっていた通りに口にした。

 和はそれ以上、何も言わなかった。でも、そのまま歩き去り、部屋を出て行く音がした。ドアが閉まっただけなのに、その音に泣きそうになった。

 俺は、弟がちょっと家にいないだけで寂しさを感じるほど弱くないと思っていた。自分の言葉が、拗ねたように聞こえるのも自覚していた。

 和に言いたいのは、本当はもっと違うことだった。

 俺だって、来ると事前に連絡してくれていれば、飲みに行ったりしなかったのに。