なかなか眠れなくて、浅い睡眠の合間に夢を見た。

 あの切り抜きにいたきれいな女性が、海を見ている。きれいな人だ。でも、どことなく寂しげにも見える。そのままふっと海に攫われてしまいそうな。

 そばを小さな子どもが歩いている。

 海は凍っている。そのまま女性は、海の向こうに歩き去って行く。子どもはそれを追っていく。俺の声は届かない。

 どこまでも二人は歩いていってしまう。地面が割れて、氷が海に飲み込まれていく。

 

「和……っ」

 

 はっと目が覚めると、まだ部屋は薄暗かった。

 散らかった室内が目に入る。テーブルの上にはコンビニ弁当の空き箱が置きっぱなしだ。部屋は散らかっていた。だって誰が見るわけでもないのだし、男一人の部屋だ。多少服や下着を散らかしていようと、誰が気にするわけでもない。

 俺一人しかいない部屋。

 とてつもなくむなしい気持ちになって、もう一度目をつむったけれど、なかなか眠りに落ちることはできなかった。

 

 

 サボってやろうかと思ったが、俺は翌日もちゃんと大学に通った。自分が嫌になる。結局勉強以外、俺にできることはないのだ。

 授業で垣元の姿を見かける。気まずかったけれど、さすがに何も言わないわけにはいかないだろう。

 

「うす」

「おう、あのさ垣元、昨日はほんと、悪かった」

「何が?」

「いや、色々……」

 

 俺は自分から頭を下げた。垣元は怒ってもいなかったし、特に俺のしたことについて疑問も持っていないようだった。あっけらかんとした態度に何だか救われる。

 

「別にいいけど、なんなんだよあのガラの悪い弟」

「ガラは悪くないだろ」

「どうでもいいっつの」

 

 そもそも昨日、和はどうして家に来ていたのだろう。たまたまなのか。忘れ物を取りに来たとかその程度かも知れない。

 

「やっぱ二日酔いか?」

 

 ため息をつく俺に垣元は言う。

 

「いや……垣元は兄弟いるんだっけ?」

「姉」

「へぇ、仲良い?」

「ぜんっぜん」

 

 やけに実感のこもった声で垣元は言う。

 

「マジであの女、凶悪だから。お前みたいなのは、丸めて潰してぽいだぞ」

「へぇ……怖いな」

 

 垣元の姉というのがあまり想像できないし、正直にいえばそれほど興味もなかった。

 

「俺は弟と、喧嘩したっぽい」

 

 俺は思わず呟いていた。正確には俺がキレて追い出したのだが、まぁいい。だがそれにしたって、随分恥ずかしい発言だと思った。ぽいって何だ。大学生にもなって弟との喧嘩で悩んでいるなんて恥ずかしい。

 

「何言ってんだ? 喧嘩くらいするだろ」

 

 垣元は当たり前のように言ったが、俺は答えられなかった。

 

「もしかしてしたことなかったのか? 喧嘩」

「……別に仲いいわけじゃなかったけど、喧嘩って言うかというとちょっと違う感じだったっていうか」

 

 昨日は垣元もそこそこ飲んでいたはずなのに、彼はけろりとした顔をしていた。基本的に彼はおしゃれで、今日も洒落たシャツを着ている。

 

「男の兄弟なんか取っ組み合いとかするんじゃねぇの? 殴り合ったりそういう」

「……したことない」

 

 俺が一方的に暴言をぶつけることはあっても、対立はしなかった。和はいつも、俺に逆らったりしなかったから。胸のあたりがやたらと重い。二日酔いなのか、他の理由なのか。

 

「出てけって言ったら、出てった」

「なんだそれ、素直かよ」

 

 垣元が不思議そうな目で俺を見ている。俺の言っているのは、変なことなんだろうか。もう成人した弟が、家を出て行ったとか、喧嘩したとか、そんなことでいちいちオロオロしているのは。

 和が家を出て行ってから、俺は和のことばかり考えている。いや、その前からだ。

 

「じゃあ、戻って来いって言えば戻るんじゃねぇの?」

 

 垣元が言ったのは、冗談だったのかもしれない。でも考えてしまう。

 ――もし。もしも、もう一度一緒に暮らしたいと言ったら、和は戻ってくるだろうか。

 もともと母が、突然来たことが始まりだった。状況は何も変わっていない。

 

「とりあえず、喧嘩したときの対応なんて、時間を置くか、謝るか、時間を置いて謝るか、それだけだろ」

「垣元はお姉さんと喧嘩したときどうしてたんだ?」

「そんなん土下座に決まってんだろ」

 

 恐ろしい顔で垣元が言う。俺には想像できないけれど、姉弟というのもなかなか大変そうだ。

 

「お前、弟のことだけやたら気にすんだな」

 

 俺はオレンジジュースを買い、胸のつかえをどうにか飲み下しながら授業に出た。

 垣元が嫉妬するような能力が俺にあるわけではない。前山も誤解している。俺はたまたま他にすることがないから勉強を人よりしているだけで、俺と同じくらいやったら誰だってできるようになる。

 俺には和のような恵まれた外見もない。ちょっと努力をするのが得意だったから大学には受かったけれど、でもそれだけだ。

 俺は何とか授業を受け、当たり前の日常に帰ろうとする。

 和からの連絡はなかった。

 考えるだけで胸が重く、苦しくなる。ただの二日酔いだ、と言い聞かせてジュースを飲む。いっそ和のことなんて忘れてしまいたかった。

 

 ・

 

 和とは連絡を取らないまま、一週間が過ぎた。

 俺から連絡を取るのも癪だ。どうせ今も秘密のバイトやらで忙しくしてるんだろう。それなら俺だって俺の生活がある。

 

「はい、自分が高校の時に勉強に苦労したので、生徒に親身になって教えてあげたいと思います」

 

 俺は垣元に聞いた家庭教師派遣会社での面談を終えたところだった。

 面接なんてまともに受けるのは初めてだ。面接官は優しかったが、思った以上に緊張してしまった。ここのところ、睡眠不足が続いているせいもある。

 結果は後日メールで連絡するとのことだった。落ちたら別のバイトを考えなければいけない。俺はバイトひとつまともにできないのかもしれない、と思うとまた凹みそうだ。

 面接会場があったのは、来たことのないビジネス街だった。あたりを歩いている人がみな仕事のできる人に見える。ちょうど六時を過ぎて帰宅時間なのか、足早に駅に向かっている人が多かった。

 俺だってもう成人で、いつまでも親に怯えているわけにはいかない。

 ――ずっと、母に叱られるのが怖かった。

 だから最初は「お兄ちゃん」を真面目にやらなければと思っていた。だって、母に叱られるから。テストで悪い点を取ってはいけない。だって母に叱られるから。これまで俺の動機は全部それだった。

 面接に合格できていたらいいなと思う。初めての給料をもらえたら、もう少し自分に自信が持てる気がする。

 隣りを歩いていた若い女性の二人連れが、道路の方を見て華やいだ声を出している。俺もつられてそちらを見た。

 やけに目立つ茶髪の男がそこにいた。男はサングラスをして車に寄りかかり、タバコを吸っている。明らかに関わり合いたくないタイプだった。

 ――和の部屋にあったタバコのことが脳裏をよぎる。

 

「あれ」

 

 顔を上げた男は明らかに、俺を見ていた。こんな知り合いはいない。そう思ったが、この間和と一緒に車に乗っていた男だと気づいた。

 男はしばらく、怪訝そうな表情をしていたが、突然納得したというように声を上げた。

 

「あー、八木沢のお兄ちゃんだ」

 

 俺は思わず顔をしかめてしまう。

 

「何ですか」

 

 和が俺のことを兄だと話したのだろうか。それは少し意外だった。

 

「弟と違って頭がいいんだって?」

 

 男はにやにや笑いながら言う。相手にするべき手合いとは思えなかった。

 ――でも、こいつはあの日、和とどこかに行った。

 まさか行き先はホストクラブではないと思いたい。でも、男を見ているとそれがどうしても有力に思えてしまう。うさんくさいけれど、甘く整った顔立ちの男だった。

 

「あの、俺のこと知ってるんですよね。だったら、和のバイト先って知ってますか?」

「バイト?」

 

 俺は意を決して尋ねる。男は一瞬、きょとんとした表情を見せた。それからまたにやりと笑う。

 

「ああ、お兄ちゃんは知らないんだ」

 

 いちいち人の神経を逆なでするような言い方をしてくる。

 

「教えて下さい。あいつ俺に言おうとしないんですよ」

「でも本人が言わないものを俺が言うのもねぇ」

「大丈夫です、俺、保護者みたいなもんなんで」

「そう? だってもう十九だか二十でしょ、あいつ」

「子供ですよ」

「そう思ってるのはお兄ちゃんだけじゃない?」

「その『お兄ちゃん』っていうのやめて下さい。あなたの兄ではないです」

 

 男はにやにやと笑い続けている。男に近づくと、タバコの強い匂いがする。

 

「うーん、教えたら何くれる?」

 

 和の部屋にあったタバコは、もっと甘い匂いが強かった気がする。でも、俺はタバコの種類なんて詳しくないからわからない。

 

「……取引はしません。すみません、俺、行かないと」

 

 もっと男に聞きたいのは山々だったけれど、からかわれるだけな気がした。これからやっとバイトを始めようというのに、せびられても困る。歩き始めたとき、男が間延びした声で言った。

 

「わかったわかった。教えてあげるから一杯付き合ってよ、驕るし」

 

 端正な甘い顔で、男はにやにや笑っている。

 

「大丈夫、変なとこ連れてったりしないって。それとも怖い?」

 

 男の思い通りになるのは癪だった。でも、俺はどうしても知りたくてたまらなかった。

 

 ・

 

 まず、値段表がなかった。

 

「何でも好きなの頼んでよ。お腹減ってない?」

「大丈夫です。俺……はじゃあ、ビールで」

 

 どこかにはメニューがあるのかもしれないが、男が見ている気配もない。一体、一杯いくらするのだろう。

 一杯付き合うといっても、適当な居酒屋だろうと思った。ホテルを示されたとき、さすがにやばいと思った。だが男は笑って言った。

 

「俺の行きつけなんだよ。酒飲むだけだって。ラブホじゃないんだから、そんなに警戒しなくても」

 

 それが子供に言うような呆れた口調だったので、俺はてかちんときてつい帰り際を見失っていた。和と違って俺の体を狙うような男がいるとも考えにくいし、まぁ大丈夫だろうと思った。

 男が俺を連れてきたのは、ホテルの最上階にあるバーだった。グランドピアノが置いてある。今は誰も弾いていないけれど、生演奏もあるのかもしれない。天井が高くてガラスが大きく、暮れていく町を見下ろせた。

 いかにも裕福そうな中高年の夫婦や、派手に着飾った若い女とスーツの男の二人連れなどが、ゆったり酒を飲んでいる。

 居酒屋なら何度も入ったことがある。でも、こんなバーに足を踏み入れたのは初めてだった。

 俺は完全に緊張し、混乱していた。カウンターの隣りに座る男をちらと見る。高級なバーの雰囲気に、男は自然と馴染んでいる。

 

「何か心配してる? 大丈夫、おごってあげるよ、お兄さんが」

 

 男はにやにやしながら言う。甘い顔立ちは整っているのだが、何を言ってもどうしてもうさんくさい。

 俺の前にはビール、男の前にはウイスキーが運ばれてくる。小さなメタリックな容器に入ったナッツも一緒だった。男の前に置かれた丸いきれいな氷とカットグラスが、いかにも大人の飲み物に見えた。

 

「飲んでみる?」

「……いいです、自分のあるんで」

 

 落ち着け、と俺は自分に言い聞かせる。

 男は年上とはいえ、十も上ではないだろう。大した違いはない。臆する必要はないのだ。

 

「八木沢弟は付き合ってくんないしさー、こういうとこ」

「そうなんですか」

 

 それはむしろ安心する。夜な夜な飲み歩いているとでも言われたらどうしていいかわからない。

 

「真面目だよね、あいつ。あ、安心した?」

「……してません」

 

 俺は別に、この男と和が付き合っているなんてことは疑っていない。心配なのは、こいつが詐欺師で、和を騙しているパターンだ。

 和は何というか、あまり相手を疑ってかからないし、相手が自分に好意を持って当然と受け取りがちなところがある。俺からしたら腹立たしいことこの上ないが、実際彼はいつも好かれてきたからだ。

 

「だから、そんなに警戒しなくていいって」

 

 男は俺を見てくすりと笑った。二十代の後半か、三十代前半くらいだろうか。普通にサラリーマンをしているようにはとても見えない。

 

「こういうとこ、慣れてないだけです」

「俺の名前、知ってる?」

「知るわけないじゃないですか」

「へぇ」

 

 男はナッツをいきなりわしづかみにしてつまめるだけつまむと、思い切り口に放り込んだ。そしてまるでそれが薬かのように、酒で流し込む。

 

「じゃあ知らない男について来ちゃだめじゃん? おにーちゃん」

 

 俺はいい加減、にやにや笑いのこの男を殴ってやりたくて仕方がなかった。

 

「いいです、もう帰ります」

「短気だなぁ。わかったって」

 

 顔立ちはまぁ整ってはいる。でも何というか、甘ったるい顔なのだ。ずっと見ていると胸焼けがしそうだ。

 

「じゃあこれは? 見たことない?」

 

 男は、何を思ったのかスマートフォンの画面を俺の方に差し出して見せる。俺は表示されていた写真を見て、息を飲んだ。

 

「これ……和ですよね」

 

 俺は、それを何と表現したらいいのかわからなかった。目が吸い寄せられて、一瞬で別の世界に引き込まれる。得体の知れない男と飲んでいる最中であることなどほとんど忘れそうだった。

 ――あの、女の人の写真を見たときと同じだ。

 母から送られてきた茶封筒に入っていた、和の母親の写真。そのとき、俺の中でやっとすべてが繋がった。写真の中の和は、高級そうな服を着て澄ました顔をしていた。

〝どの男に抱かれたい?〟

 死んだ母親と同じモデルの仕事をするため、和はあのとき、普段読まないファッション誌を手にしていたのだろう。モデルの仕事の報酬は高いだろうし、見かけない服を着ていたのも納得がいく。

 

「何きょどってんの? 君たち、兄弟なんだよね?」

 

 俺の反応がよほど変だったのか、男が言う。

 

「え? いや、あ、そうです」

 

 ただの写真だ。それに、俺は和の顔なんて見慣れている。

 でもプロの手でメイクされ、衣装を着せられ、写真を撮られた和は作り物みたいにきれいで、俺の知っている彼と重ならない。怖いと思った。ずっと見ていたくなる。同時に、今までにないくらい彼を遠く感じた。

 和は人前に出るのなんて嫌なのだろうと思っていた。でももう彼も心の整理がついたのだろう。だから、母親と同じ仕事に就くことも、できるのかもしれない。

 和は自由なのだ。

 小さかった彼は、大人の庇護を必要としていた。それを与えたのがたまたま俺の両親だった。だけどもう和は成人したし、何だって一人でやりたいことをできる。

 

「ふぅん」

 

 兄弟なのに似ていないとか、お決まりのことを言われるかと思った。だが、男は意外にもその点についてはコメントしなかった。

 写真を表示させていたスマートフォンが震えて、男はまたにやにや笑いに戻る。

 

「あ、連絡来たよ、八木沢弟から」

「え? なんて送ったんですか」

「どうするー? そのビール、睡眠薬でも入ってたら」

 

 俺は半分ほどになったビールのグラスを改めてまじまじと見てしまう。ニュースでその手の話を聞いたことはあるが、睡眠薬には通常色がついている。黄金色のビールに混ぜたらさすがに気づくだろう。味も普通だった。とはいえ、さっきまで普通に飲めていたビールが急に気味の悪いものに思えてきたのも確かだった。

 

「冗談だって」

「言っていい冗談じゃないですよ」

 

 俺がいつか偉くなったら、この男をまず法で裁いてやると心に誓う。きっと何か罪が見つかるはずだ。

 

「和は何て言ってるんですか?」

「ひみつー」

 

 やっぱりいちいち気に障る男だ。

 

「いや、でも俺のこと知らないのかー、そっかー」

 

 何なのだろう。男は携帯をいじりつつ、ナッツをむさぼり食べてはウイスキーを喉に流し込んでいく。見ているだけでも体を壊しそうな飲み方だった。グラスが空になると、店員がさりげなく寄ってきて、同じ飲み物のおかわりを差し出す。

 男が携帯をいじっているので、しばらく無言になる。

 こうなったら俺も携帯でも見てやると思って取り出すと、和から着信が来ていた。それも五回。尋常じゃない。かけ直そうかとしたところ、隣から手が伸びてきた。男の手が、俺の携帯を覆う。

 

「携帯じゃなくて俺を見てよ」

「寸前まで携帯見てた人に言われたくないんですけど……」

「お兄ちゃんは普段何してんの?」

「学生だから、勉強ですけど」

 

 何が面白いのか、その言葉でまた男はひとしきり笑う。

 

「俺、帰っていいですか?」

「待って待って、いや、真面目なんだねぇ」

 

 何がそれほどおかしいのだろう。いい加減にしてほしい。もう和のバイトについては想像がついたから、これ以上男に付き合う必要もない。だが、自分の分だけ払って出ようにも、いくらなのかがわからない。

 

「あの、俺、ほんとに帰ります、ごちそうさまです」

「大丈夫だって、もうちょっと付き合ってよ」

 

 男は俺の携帯を覆っていた手で、そのまま俺の手を握る。俺は振り払おうとしたけれど、執拗に再び握られた。いくらなんでも、初対面の男にされるのは気持ちが悪い。

 

「あの、やめて下さい」

「せっかくホテル来たんだしさ、やっぱり部屋取ろっか?」

「帰ります」

「大丈夫、もうちょっとだから」

「何が……」

 

 背後からぐいと体を引っぱられて、何が起きたのか一瞬わからなかった。後ろに立っていたのは和だった。いつになく険しい、ぞっとするような冷たい表情をしている。

 

「遅いじゃん」

 

 男は笑っている。

 

「いい加減にして下さい、垂井さん」

 

 和は走ってきたらしい。息が荒いし、髪も乱れている。でもそれより何より、見たことのない服を着ていた。スーツだ。

 高校はブレザーだったから、それに近いと言えなくもない。でも、全然違って見える。明らかに、高級そうなスーツなのだ。仕立ての良さそうな上着を着た和は、俺よりも年上に見えた。

 

「いいじゃん、面白いから」

「面白くないです」

「社会勉強だよ。な? おにーちゃん」

 

 男が急に、俺に向かって微笑む。

 俺は見慣れない和の格好に圧倒されていた。だから彼が来たことより何より、ついそのことにツッコミを入れてしまう。

 

「お前、そんなスーツ持ってたのか?」

「今それ大事?」

 

 冷たく和に言い放たれる。

 

「あ、連絡来た」

 

 男はまた携帯に向き直り、いきなり通話し始める。もう俺と和には興味がないと言わんばかりだ。話ながら男は財布を取り出すと、一万円札をカウンターの上に置いた。

 

「もうちょっとだって言ったろ? じゃ」

 

 そして小さく手を振ると、本当にそのまま去っていってしまった。ちょうど彼の前にあった二杯目のウイスキーと、ナッツは空になっていた。

 

「何なんだ……」

 

 社会勉強にしても、ちょっと衝撃が強いと思う。和は深くため息をついた。

 

「兄さん、知らない人についてっちゃいけないって、母さんに言われなかった?」

 

 冷たく俺を睨みつけて言う。

 

「人を子供扱いすんな」

 

 俺は俺なりに和のことを心配していたのだ。まるで俺が心配をかけたかのように言われると心外だった。

 いや、でも事実そうなのかもしれない。

 俺は改めて自分の携帯を見る。着信が五件、それに「今どこ?」とか「電話出て」といったメッセージが何件も入っている。それを見れば、和が焦って俺を探していたことは明らかだった。

 

「悪い……」

「やっぱりGPS、埋め込んでよ」

「やめろ」

 

 俺だって、色々言いたいことはあった。もとはといえば、和が自分のバイトを言わないのが悪いのだ。なんで俺が叱られるのか。

 そうだ、その話をしないといけない。

 俺たちはすぐに支払いを済ませて店を出た。そのままエレベーターを下る。エレベーターの中で、俺と和は自然と無言になっていた。

 何か言わなければ、と思う。垣元に言われたことが頭の中をぐるぐる回る。地上に戻るまでの時間がやたらと長く感じられた。

 ――じゃあ戻れって言ったら?

 やっとのことでエレベーターが地上につき、エントランスに出る。受付では人が忙しそうに立ち働いていた。ポーターが大きなトランクを移動させている。天井には大きなシャンデリアがあり、別世界のようだった。

 ここを出たら、また日常に戻るのだ。和は和の家に、俺は俺の家に。そうしたらやっぱり俺は意地を張って、何も言えないかもしれない。

 

「待て、和。泊まろう」

 

 俺は和の服の裾を掴んで言った。

 

「何?」

「ここに泊まるんだよ」

 

 また日常に戻ったら俺は何も言えずに悪態をついて、寂しい気持ちを持て余して、イライラして駄目になる。

 

「金は俺が出す」

「いや高いと思うけど……男二人だし、いいの?」

 

 一泊いくらなのか、想像もつかない。でも今ここじゃないとだめだと思った。

 まだ家庭教師のバイトも決まったわけでもない。でも、今と同じようにいつ和を捕まえられるかはわからないのだ。こんなホテルに足を踏み入れることも、二度とないかもしれない。

 

「俺がいいって言ってんだろ、来い」

 

 ・

 

 俺は普段、人並みに慎ましい生活を送っている。昼食はだいたい学校前のファミレスか食堂。ちなみに俺がよく食べる食堂のうどんは二百八十円だ。

 親の仕送りに依存している身だし、たまの贅沢といってもちょっと酒を飲む位だ。サークルはそれほど真面目に参加していないから山登りの道具も買っていないし、金のかかる趣味も持っていない。

 とにかく俺は、贅沢には慣れていなかった。

 

「明日からもやし食おう……」

 

 ホテルの部屋は、びっくりするほど豪奢だった。素泊まりだし、スイートルームでもない。だけどガラス張りの窓からは夜景が見え、ダブルベッドはふかふかだった。

 ……そう、恐ろしいことに俺は和と二人でカウンターに行き、自然にダブルベッドの部屋を取っていたのだ。

 感覚が麻痺してしまったのか、恥ずかしいとも何とも思わなかった。

 兄弟に見えるのかどうかとか、そんなことも考えなかった。フロントの男性は、顔色を変えることもなくテキパキと部屋を手配してくれた。

 そして俺は和と今この部屋にいる。

 

「きれいだな……」

 

 俺はぼんやりと窓から外を見る。

 もちろん、泊まるとは思っていなかったから着替えも何も持ってきていない。さっき飲んだ酒もまだ完全には抜けていない。行き当たりばったりだ。

 

「そのスーツ、どうしたんだ?」

 

 俺は振り返って、この部屋に入ってからやけに静かにしている和を見た。

 和は、窓際にあるイスに座っていた。高そうなスーツのせいか、ただ座っているだけなのに何かの一シーンみたいに見える。

 

「もらった」

「もらうようなもんじゃねぇだろ」

「大丈夫、怪しい人にじゃないから」

「二百パーセント怪しいだろ。タダより高いもんはないんだぞ」

 

 ガラスのテーブルの前に座った和は、何か難しい商談に臨む知らない男みたいにも見える。スーツというのは人を大人に見せるらしい。中身は和のくせに。

 

「兄さんこそ、なんで垂井さんについてくんだよ。よりによってホテルのバーとか。危ないと思わなかった?」

「思わねぇよ。そもそも、あの男は何者なんだよ」

「仕事仲間。テレビとか出てるけど、知らない?」

 

 そういえば、本人も何かそんなようなことを言っていた気がする。俺は知らなかったが、ファッション誌に出たりドラマに出たり、発言が炎上したりしてよく話題になるらしい。俺は普段、ファッション誌もドラマも見ないのでまったく知らなかった。

 

「俺がそんなん知ってるわけねぇだろ」

「そうかもしれないけど、垂井さんについてくなんて、自殺行為だよ」

「何だよ、お前の仕事仲間なんだろ?」

「そうだけど……明らかに怪しい人じゃん」

 

 そう言われると俺は反論できない。だが、そんな怪しい人と一緒に車に乗った和には言われたくない。

 

「お前の仕事、教えてやるって言われたんだよ。お前が言わないんだからしょうがないだろ」

 

 和は俺を見て、ため息をついた。

 

「後で話すって言ったのに。それくらい待っててくれると思ったんだけど」

「後っていつだよ」

「雑誌が出たら」

「遅ぇんだよ」

 

 俺は和が、人前に出るような仕事をするとは思わなかった。両親の事件を掘り起こされることを、以前の和は何より嫌がっていたからだ。有名になれば事件のこともまた話題になるかもしれない。

 

「大事なことなんだから、俺にはもっと早く言えよ」

 

 でも、和はそれでもいいと判断したのだろう。確かに昔から、彼は誰にでも好かれた。恵まれた外見をしているのだし、人に見られる仕事は天職なのかもしれない。

 

「誰に言わなくてもとにかく俺には一番に言え」

 

 それでもモヤモヤした気持ちが広がるのを俺は感じる。

 いろんな人が和を見て、それでまた好きになるのだろう。いつだってそうだった。でも今度は学校のクラスの女の子なんかとは、規模が違う。俺はちっぽけなまま、和だけが大きくなっていってしまう。

 

「でも兄さんは俺がいない間に男といちゃついてるし」

「いちゃついてねぇよ! 垣元は単なる知り合いつーか友達だし、たまたま送ってもらっただけで、だいたいあの日はお前が来るなんて知らなかったから」

「知らなかったから何? 連れ込んだんだろ」

 

 確かにあのときは、誤解を生みかねない状況だった。でも俺は垣元とキスしたりしないし、向こうもそういう意味では俺に興味などないはずだ。

 だが和はやけにじっとりとした目で俺をねめつけて言う。

 

「俺がいなかったらどこまでしてたかな」

「……してない」

「勢いでしてたでしょ、あのまま」

「しねぇよ」

 

 本気で怒っているのだろうか。和は真顔で、すごまれると一瞬ひるみそうになる。

 

「兄さん、こっち来て」

「何だよ」

 

 目を逸らして外を見ていると、もう一度強く言われた。

 

「来て」

 

 俺は仕方なく、座る和のそばに近寄る。そうするとぐいと体を引き寄せられた。そのまま和の膝に乗り上げるような態勢になる。

 

「離せよ」

「とにかく、ああいうことされると困るんだけど」

「何がだよ、離せ」

 

 俺はもがくけれど、がっちりと和に掴まれて身動きが取れない。

 

「お前こそうちに来るなら来るって言えばよかっただろ、そうしたら俺だって飲みに行かなかったのに」

「なんで?」

「なんでって……」

 

 俺は和の顔を見ていられなくて、窓の方に目をやる。高層階だけあって、夜景がきれいだった。でも、慣れなくて作り物みたいにも思える。

 ――なんでって、それは。

 振り向くと和と目が合う。スーツだし、髪型もいつもと違う。夜景の光が和の肌や目に反射しているのを見るとどきりとしてしまう。

 こいつは腹の立つ俺の弟で、小さい頃から知っている存在なのに、遠く感じる。それが悔しい。

 

「何なんだよ、いきなり家出てったり、モデルやったり」

 

 俺の声には自分でわかる位、勢いがなかった。

 

「……ずるいんだよ、お前は」

 

 俺は和の肩を叩き、掴んだ。

 俺だって真面目に勉強はしている。家庭教師のバイトだって始める。でも、俺が一歩進む間に和はもう十歩も二十歩も前に行ってしまっている気がする。

 

「この服も」

「服?」

 

 俺は和の顔を見れなかった。

 

「スーツ、何か変?」

 

 怪訝そうに言う和は、じゃあこれは捨てるとても言い出しそうで、俺は少し焦った。

 

「……別に、スーツが悪いって言うんじゃねぇけど。っていうかまぁ、一般的にはかっこいい部類なんじゃねぇの」

「一般的な話なんて聞いてないよ」

「知らねぇよ」

 

 俺は和のネクタイを引っ張って無理やり顔を近づけさせると、そのままキスをした。

 ちゃんと、ここにいるのは俺のよく知っている和だと確かめたかった。俺たちは何も変わらないのだと。

 視界の端にきらきらと光る夜景がうつっている。確かにもしかしたら、これはロマンチックな情景なのかもしれなかった。

 俺たちはずっと同じ家に暮らしていた。非日常はこの間行った温泉がせいぜいで、今までは当たり前のように同じ部屋で寝起きしていた。ずっとそうだと思っていた。

 でも、いつまでもはそうじゃないと気づかされてしまった。俺は和の肩を掴む手に力を込める。

 

「誰でもいいから俺でもいい?」

 

 息のかかるような距離で和が言う。見慣れない服は外の匂いがする。もう見飽きたはずの弟の違う顔にどきどきしてしまう。

 

「違ぇよ、誰でもいいわけねぇだろ」

 

 変な緊張感がある。和が俺の言葉を待っているのがわかる。恥ずかしい。なんでこんなことを言わなきゃならないんだろうと思う。全身が熱い。

 ホテルの空調も夜景も、和の格好も普段と違っていて何だかくらくらした。今言わないときっと一生言えない。

 

「お前がいなくて……俺は、寂しかったんだよ」

 

 俺は和のネクタイを手のひらの中で握り直す。恥ずかしくて和の顔を見られない。

 

「お前じゃなきゃ嫌だ」

 

 抱きしめられて、俺はほっと息を吐く。ずっとこうしたかったのだ。

 罵る代わりに、飢えたようにキスをした。だってずっと一緒にいたのに、急にいなくなられて何も思わないでいられるわけがない。ずるい、バカだ。色んな言葉が頭の中に浮かんでは消えていく。

 もうどうだっていい。とにかく今は彼のことが、欲しかった。

 

 ・

 

 当たり前だけれど、ベッドは俺の部屋にあるものより上等で、スプリングが効いていた。ぎしぎし軋んだりはしない。ダブルサイズだから広いし、糊のきいた清潔なシーツは触り心地もよかった。明かりをつけない部屋の中は、カーテンを閉めていないから夜景でぼんやりと明るい。

 

「……っ」

 

 久しぶりに和のものをいっぱいに入れられ、広げられる感覚は強すぎて、頭がどうにかなってしまいそうだった。

 

「兄さん、なんか敏感になってない?」

 

 言われなくてもわかっていた。

 入れられているだけなのに、声をおさえきれないくらいに感じてしまう。ほぐしたはずなのにやっぱりまだ少しきついからだろうか。

 快感は強いのにじれったくて、もっと強い刺激がほしくてたまらない。奥まで突き上げてほしくて、腰が揺れる。

 

「あ……っ」

 

 わずかに和が身じろぎしただけで、体が震えた。気持ちが良い。

 和の手が濡れた俺の性器に伸びてくる。後ろに入れられたまま、それをいじられると刺激が強すぎて、声も体も止められなかった。

 

「……っ、あ」

 

 思わず俺は腰を振って、より強く快楽を求める。

 

「気持ちいい?」

「や……っ」

 

 断続的に強く突き上げられ、そのたびに視界がちかちかした。

 

「和……っ」

 

 俺は気がつくとほとんど泣きながら、和に縋り付くように背を掴んでいた。和の表情が真剣になって、少し眉根が寄る。澄ました表情より何より、この顔が好きだ。絶対に言わないけれど。

 お互いの荒い息と、ぐちゅぐちゅいう水音だけが聞こえる。

 

「いいっ…、きもち、…っや」

 

 理性がぐちゃぐちゃになって、俺は恥ずかしいことを口走る。まだ酒が残っているからだ。そういうことにしたい。

 

「や……っ、あ」

 

 今日はやたらと気持ちがよくて、頭がぼんやりする。セックスするのが久しぶりだからだろうか。それとも慣れないシチュエーションだからか。

 カーテンは閉め損ねた。室内の方が暗いから、外から見えたりはしないだろうと思うけれどそわそわする。男に抱かれてあられもない声を上げているのを、誰かに見られているかのようで。

 

「あっ、んっ……」

 

 刺激は強すぎて怖いくらいだった。ほんの一年ほど前までは、和に抱かれるなんて考えたこともなかったのに、俺の体は俺を裏切って変わっていく。

 

「ああ……っ」

 

 ひっきりなしに声が出てしまう。いちいちどこを触られても刺激が強くて、俺はあっという間に達してしまった。

 

「早いね、今日」

「……うるせぇな」

 

 和のものが一度引き抜かれて、俺は深く息を吐く。本当に死んでしまうんじゃないかと思った。それくらい気持ちがよかった。

 

「一人でしてなかった?」

 

 俺は答えられない。なんだかんだ和のことを考えながら抜いたなんて絶対に言えない。全部久しぶりであるせい、一人で抜いていなかったからだ。そういうことにしておきたい。

 

「そうだな、久しぶりだから」 

「してって言ってくれればよかったのに」

「はぁ? お前何言ってんだよ」

 

 家を訪ねて、したいと言うなんてありえない。そんなの恥ずかしすぎる。

 

「兄さん」

 

 いろいろ言いたいことはあったのに、キスで口をふさがれるともういいかという気になってしまう。

 口の中の感じやすい場所を刺激され、再び息が上がっていく。さっき一度いったのに、俺の体はまだ物足りていないのだ。恐ろしくなってくる。気持ちの良さに果てがなくて、欲望は大きくなるばかりだ。もっと、もっと欲しいとうずく。

 

「どうしてほしい?」

 

 こいつはあくまで言わせたいんだろう。猛ったものを再び押し当てて、だけど先端をこすりつけるばかりでそれ以上動こうとしない。

 

「……っ、して、くれ」

 

 それだけの刺激で俺の息は上がっていく。刺激を待ちわびている。和がじっと俺を見ている。その目線にぞくりとする。

 

「入れてくれ、和」

 

 言い直すとそれで許されたようで、和のものが再びゆっくり奥まで入ってきた。

 

「……っ、あ」

 

 さっきよりも挿入はスムーズだった。痛みや苦しさはもうほとんどなくて、内壁を擦られる快感だけになる。一人でしたときとは全然違う。指では届かないほど深くを突き上げられて、俺はびくりと体を震わせた。

 

「…、ぁ、やっ、んっ」

 

 和はもう焦らすことはなく、強く腰を打ち付けてきた。痛いわけじゃないのに涙がこぼれる。

 一番気持ちの良いところを断続的に突かれて、嬌声が漏れた。快感は強すぎるくらいなのに、さっき一度いったせいか、なかなか果てがない。ただただ強い気持ちよさに浸されて、揺さぶられて俺は声を上げ続ける。

 

「ひぁっ、…んっ……っあ」

 

 和に縋り付いてキスをした。舌を貪りあい、下半身を絡める。和の手が同時に、俺の胸を摘まんで先端をよじるように刺激する。どこが気持ちいいのか、どこもかしこもよくて、わからなくなっていく。

 

「和…っ、ん」

 

 もっと早くこうしたかった。毎日、家に帰れば顔を見れた和がいなくなったのだから、寂しく思うのだって当然じゃないのかと思う。

 急に成長して俺を置いていかないでほしい。俺だってちゃんと頑張る。俺にできることもあると思う。俺はたまたま勉強するのはわりと得意だ。だから、きっと時間をかければ法曹の資格を取ることだってできる。

 そうしたら例えば、急に家族を失って一人ぼっちになった子どもを助けられるような仕事だって、できるかもしれない。

 

「や……っ、もう、あっ、…っ」

 

 何度も深すぎるくらいの奥を突き上げられて、息が上がっていく。何も考えられなくなって、恥ずかしいことを随分口走った気もした。涙でにじむ視界の端で夜景がきらきら輝いている。

 

「兄さん」

 

 和も感じているのが苦しげな顔と、中に入っているものの大きさとでわかる。

 深くキスをしながら、俺はそのままいっていた。和が俺の中で果てるのがわかる。

 終わってからも和の体を離したくなくて、俺は気持ちよさのあまりに我を失ったふりで、和に抱きついたままでいた。家のベッドよりここのものは随分広い。でも俺にとっての寝心地は結局、和がいるかいないかで変わるのだ。