数日後、母から電話が来た。和はようやく母にもモデルの仕事を始めたことを話したらしい。俺は何か叱られるんじゃないかとつい身構えていたけれど、彼女の声は張りがなかった。
「おじいちゃんって、誉は会ったことあるよね」
「ええと、たぶん。昔誰かの葬式で……」
うちは親類との縁が薄い。ほとんどないと言ってもいい。特に母方の祖父母とは縁を切ったと聞いており、俺は今まで疑問も持たなかった。
「連絡が来たのよ」
母の声が沈痛なトーンだったので、どんなひどいことを言われたのかと思った。だが祖父からの連絡は和のことを褒めるものだったらしい。よくわからないけれど、血が繋がっていなくても、孫が活躍していると聞いたら普通に嬉しいものなんじゃないのだろうか。
「今更どうかしてる、あんなにひどいことを言っておいて……きっと近所の人か誰かに何か言われたのよ、サインが欲しいとか。ミーハーなんだから」
母の愚痴は長々と続いた。その矛先はずっと祖父に向かっていて、とにかく俺に対して怒る気はないようでほっとする。
「和も急にこんなことするなんて……美秀子さんのこと、こだわってるのかしらね」
「そりゃこだわるだろ、自分の親なんだから」
母は和に頼まれて、和の母親が乗っていた記事のあの切り抜きと写真を送ったのだったらしい。和の母親の写真はとても少なくて、あれらがすべてだということだった。でも、せめて和の生まれてすぐの写真が残っていてよかったと思う。
「そういや俺も、カテキョのバイト始めたから」
「あら、バイト? あなたまで。うちはそんなにお金がないわけじゃないんだから、無理はしなくていいのよ。大丈夫なの? 去年の成績、見せてもらったけど優じゃないのがいくつかあったわよね」
母の言葉にぎくりとして、心臓がぎゅっと縮み上がる気がする。俺は結局まだ、母に叱られることが怖いのだ。
――どうして百点じゃないの?
どうしたら母に褒められるか、ほとんど無意識に方法を探してしまう。でも俺にだって、和とセックスすることが、どうしたって褒められるような行為でないことはわかる。だとしたら俺も、腹をくくらなくてはならなかった。
「勉強ができなくなったら本末転倒なんだから、仕送り、足りないなら言っていいのよ? 別にうちは裕福じゃないけど、一応お父さんも管理職になって収入はまぁあるのだし……」
「勉強教えんのは頭の整理にもなるからいいよ。それに、弟が働いてんのに、俺もしないわけにはいかないだろ」
こういう言い方をすれば、母が否定しないことはわかっていた。
「やっぱり誉はお兄ちゃんねぇ」
嬉しそうに母は言う。昔ならこんな口ぶりにはイライラさせれれた。でも、そう思うなら思わせておけばいい。
「そのうち絶対、俺の方があいつより稼いでやるから」
いくら拘束時間が短いとはいえ、家庭教師の受け持ちをいたずらに増やすのはよくないだろう。今は俺の受け持ちは一人だけだ。そうなると、どうしたって一ヶ月数万円程度の収入にしかならない。
――でも、いつかは俺の方が稼ぐ。
青臭いことを言えば、俺はもともと金のために司法試験を目指していたわけではなかった。でも、合格すれば弁護士、裁判官といった仕事につける。エリートだし給料だって低くはない。
俺は和のような外見は持っていないけれど、俺だって俺の得意なことで、ちゃんと和と張り合えるのだ。
「まぁ無理しないで、仲良くやるのよ。和って、サインとかするのかしら。なんか変よねぇ……」
それきりまた母は祖父に何と答えるのか悩み出してしまった。なんだかすっかり、俺や和より祖父に意識が向かってしまっているようだった。当たり前だけれど、母も誰かの子どもなのだ。そんなことを俺は初めて意識する。
俺と和は、たぶん母が想像しえないくらい、仲良くはやっている。俺はうんとかまぁとか言って、電話を切った。
・
俺の受け持ちになったのは、高校一年の男子生徒だった。
家庭教師をつけるのは初めてということで、お互い初めて同士、最初はぎこちなかった。俺は他人の家に入ること自体、久しぶりだった。
「そう、男。高校一年だ。まだそんなに受験受験って感じじゃないし、大人しそうな子だった」
俺は家への帰り道で、和に電話をしていた。何しろ今まで同じ家に暮らしていたのだから、和と電話なんてしたことがない。でも今は事情が違う。俺はどうでもいいことでもとりあえず気軽に電話することにしていた。これはこれで新鮮だ。
「大丈夫?」
「何が」
「高校生と部屋で二人きりとか、不純じゃない?」
「はぁ?」
冗談のつもりで言っているのか何なのか、判断に困る。通話だけだから表情も見えないから余計にだった。どう考えても、あの垂井とかという男と絡んでいる和の方が不純だ。
「男だぞ、相手。いやそもそもそれは家庭教師のほとんどの職業倫理を疑うだな……」
「高校一年なんて、やりたいってことだけで頭いっぱいだよ」
「それだけでもないだろ、自分を基準にすんな。じゃあ、もう切るぞ。明日も仕事なんだろ?」
俺はちょうど自分の家の前に来たところで言う。
「和?」
まさか、電話相手がそこに立っているとは思わなかった。
「なんでいるんだよ」
和もちょうど電話を切ったところだった。この間から、和はやたら突然に来る。来るなら来ると言えと言っているのに、なぜか頑なに事前連絡をしない。
「うん」
今日の服装は、ジーンズにシャツという飾り気のないものだった。この服は見たことがある。いつもの和だ。そのことにちょっとほっとする。
「今日泊まっていい?」
階段を上りながら和は言った。
「お前まだここの鍵持ってるくせに、なんで入んないんだよ」
「返さないよ」
「誰も返せとは言ってねぇよ」
この間より、俺の部屋の部屋の散らかり具合はマシになっていた。俺だって、やろうと思えば掃除ぐらいはできる。何せまともな社会人になろうという人間が家事ぐらいできないようでは困る。
「今日は何もしないから。朝早いから、起こして」
和は当たり前のように俺の充電器に自分の携帯をセットし始める。
「お前、俺を目覚まし代わりにする気か?」
「お願い」
「お前なぁ……」
確かに和はあまり朝が強くない。一人暮らしなんてしていたら寝坊するかもしれない。ほれみろ、と思う。
「飯は?」
「食べた」
「朝飯食うもんないけど」
「いいよ、いらない」
何気ない会話が変な感じだった。今まで当たり前だったものが、そうじゃなくなるというのはこういう感じなのだ。
「朝早いんだったらさっさと寝ろよ」
「うん……」
「寝る前にシャワー浴びろ。ちゃんと着替えろ」
ただ、今までと同じように家に和がいるというだけだ。それなのに俺は落ち着かなかった。
「ていうかお前の部屋着、もうないんじゃないか」
寝間着は和が自分の家に持っていってしまったはずだった。
「貸してよ、何でもいいから」
「着れんのか?」
「着れるよ」
和の方が背が高いのに、なんで着れると言い切れるのだろう。俺はタンスの中から適当に、寝間着とズボンとを取り出す。和はそれを受け取って風呂場に向かった。
一人になった部屋で、俺は天井を見上げる。何となく落ち着かない。
俺には一応、大学一年のときに彼女がいた。そのとき、家に泊まりに来たりということも経験している。当時はどきどきしたはずなのに、全然思い出せない。
――なんで和が家にいて、泊まるってだけで俺が緊張するんだよ。
今まで一緒に暮らしていたとき、和は俺の服を着たりしていなかった、と思う。俺が気づいていないだけかもしれないけれど。でもまぁその必要もなかったはずだ。
「お風呂どうぞ」
「おう」
落ち着かない。俺のズボンは、和には短めに見えた。ちょっとだけだ。そんなにじゃない。
和といれ違いに俺はシャワーを浴びる。この間はそんなことに気づく余裕さえなかったけれど、今の和は別の部屋で別のシャンプーを使って、別の風呂に入っているのだ。それを考えるだけでむやみに感傷的な気分になってくる。
――どうかしてる。
たかが和だ。家にいて当たり前だったのが変わってしまったから、まだ慣れないだけだ。俺は乱暴に頭を洗う。俺たちが家を出たあとの母もこんな気持ちだったのかなと考えてしまう。
大人になること、家を出ること、一人で暮らすこと。お金を得ること、知らない相手と付き合うこと、それから……。
風呂から上がると、和は携帯をいじっていた。そういえば、ちゃんと専門学校には行っているのだろうか。気になったけれど、あまり親みたいなことばかり言うのも気が引けた。
「朝早いんだったらさっさと寝ろよ」
俺は髪を拭きながら机にむかう。明日の授業の予習を軽くしておきたかった。
「うん」
和が心ない声で答える。こんなに和は以前から携帯をいじっていただろうか。気になり始めるとやけに意識してしまう。
やめよう、と思って俺は教科書に向き直ろうとする。気にしすぎず、自分は自分のやるべきことをする。そう思ったばかりなのだ。
「それ、何の授業?」
気がつくと、真後ろに和が立っていた。
「……『現代社会と裁判』」
「面白い?」
「面白いっていうか、司法制度がなんで今の社会の中で必要とされてるか、機能の話で、各論を理解するのも大事だけどこういうそもそも論を理解しないと」
俺は立っている和を見上げる形になる。くたっとした俺の寝間着を和が着ているのは、何だか変な感じだった。
「髪、乾かしたら?」
和は俺が頭にかぶったままのタオルを、ぐちゃぐちゃと手で揉むように動かす。
「ちょ、おい」
「風邪引くよ」
何なのだろう。今まで俺の勉強に興味を示したことも、こんな風に邪魔してくることもなかった。ごく小さな頃を除いては。俺たちは一緒の家に住んでいたけれど、お互いの領分にはあまり関わらないできた。
ごしごしと和は俺の頭を拭く。髪を乾かした方がいいのは確かなので、俺はされるままになっていた。
「お前こそ、楽しいか? 仕事」
「楽しいっていうか、勉強になるかな」
和は、昔から勉強はあまり得意ではなかった。半分くらいは、和がどんな成績でも褒めてきた母のせいじゃないかと思うのだが、俺は黙っておく。
「あの垂井さんってやつとか、大丈夫なのかよ」
「わりかしわかりやすい人だし、わかってて付き合う分には面白いよ」
和がそう言うなら、俺が口を出すようなことじゃないんだろう。
人に髪をいじられるのは、少しだけ気持ちがよかった。
ぼうっとしていると、そのままぐいと髪を引っ張られる。そのまま強引に振り向かされ、キスをされた。
「危ないだろ」
俺は和に向き直って言う。そうすると、また正面からキスをされた。
「お前、明日早いんだろ? 寝ろよ」
「うん」
「起こしてやるから」
俺は立ち上がり、洗面所に向かう。早いところ髪を乾かして、俺も寝ようと思った。何もしない、と和は言ったしその通りにするだろう。何しろ明日朝早いのだったら、そんなことをしている時間はないはずだ。
もう予習はいい。どうせ頭に入らないのは明らかだ。
鏡にうつった自分の顔がどこかぼうっとしている気がして嫌になる。俺は寝支度を調えてベッドに入った。和は布団を敷いて寝るのだろうと思った。でも、当然のように彼は狭いベッドに入ってくる。文句を言おうかどうしようか迷っているうちに、明かりが消された。
この狭さも、わずかに感じられる体温も、久しぶりだった。早く寝てしまおう、と思うけれどこんな状況ですぐに眠りに落ちられるほど、俺の神経は鈍感にできていない。
「兄さん」
「寝ろ」
空気の粘度が高いような気がする。和が部屋にいるのをやけに意識してしまう。でも、いつもと違って和は俺にのしかかってこない。
大丈夫だ、目を閉じれば眠れる。俺はゆっくり数をかぞえる。手を伸ばせば触れられる距離に和はいる。それだけでいいのだ。俺はそのうちに眠りに落ちていた。
「おい、和、起きろ」
俺は朝は得意な方だ。六時と言われたので、その通りの時間に和を起こした。
とはいえ眠りが浅かったのか、俺も少し眠かった。和が朝早いのは、ロケをする仕事があるかららしい。仕事を始めたばかりなのに、よくそんなに色々案件が入るものだ。何だか俺は悔しい気分になる。
「おはよ……」
「顔洗ってこい」
和はぼんやりした顔をしていた。そんな顔で本当に人前に出る仕事が勤まるのだろうか。俺が呆れていると、急にチャイムの音がした。
こんな時間に誰か来るなんておかしい。怖くなって、かえって相手を確かめずにはいられなかった。のぞき穴を見ると、スーツを着た男がそこに立っていた。真面目そうな男に見える。
「どちら様ですか?」
俺は鍵を開けずに声をかけた。
「え、あの……橘田と申しますが、八木沢さんはいますか」
「俺ですけど」
隣りに越してきたか何かだろうか。だがそれだったらこんな早朝には来ないだろう。
「えーと、朝早くにすみません。八木沢和さんは?」
男はポケットから名刺を取り出していた。和はまだ顔を洗っている途中だろう。知り合いであることは確かなようなので、俺はドアを開ける。
男の差し出している名刺には、何だか聞いたことのないカタカナの会社名が書いてある。男はスーツを着ていて、三十代ぐらいに見えた。
「いますけど、何ですか?」
「こちらに迎えに来てくれって言われたんですが……あの、失礼ですが」
「兄ですけど」
「ああ、お兄さん。すみません。今日、八木沢さん、和さんの仕事のお迎えで参りました」
印象だけでは何とも言えないが、この間会った垂井という男よりは、随分まともそうに見えた。
しかし、迎えの人が来るのだったら、最初に言っておいてほしい。もし俺が起きていなかったら、仲良く俺と和が寝坊しているところに来ることになっていたわけだ。和はもうちょっと俺に対する報告連絡相談をちゃんとするべきだ。
「顔洗ってるんで、すぐ来ると思いますよ。おい、和、橘田さんだって」
俺は室内に声をかける。水音のせいか、和の返答は聞こえなかった。
俺はまだ寝間着だし、ベッドもぐちゃぐちゃだ。昨日はセックスしていないし、この状況だけで何がわかるというわけでもないだろうけれど、男を招き入れるのは気が引ける。
男は心得ているのか、部屋の中を見ようとする様子はなかった。代わりにというわけでもないだろうが、俺を観察するような視線を感じる。
こういう視線には慣れている。手に取るようにわかる、きっと彼はこう思っている。似ていない、と。
「何ですか?」
俺は憮然として言い返す。
「いえ、お兄さんのお話、伺っていたので。優秀な方だと聞いてます」
「和が言ってたんですか?」
「『自分と違って、頭がよくて、何でもできる』って……立派な大学に通われてるんですよね、私も勉強はからきしなので、すごいなと」
男の笑いは愛想笑いだろう。
俺は子供っぽい和の言葉に頭を抱えたくなる。他意はないのかもしれないが、身内をそんな風に褒めるもんじゃないと思う。そういえば垂井に対しても俺の話をしているようだった。勘弁してほしい。
更に男は俺に追い打ちをかける。
「お兄さんが一番大事なんだって言ってました。家族思いですね」
そう、それはごく一般的には、家族思いと受け取られる表現なのだろう。ちょっとブラコンの気味があるかもしれないけれど、おかしい、とは言われない程度の愛情表現。
俺たちは家族だから、人前でもそんな風に口にできる。
だとしたら、別にいいのかもしれない。もし多少……何か今後、仲が良すぎると思われたとしても、仲の良い兄弟ということで説明はつく。例えば一緒に出歩いても、食事をしても、一緒に暮らしていても。
「まぁ、そうですね。かわいい弟です」
俺は自分で言っていて自分で笑ってしまった。なんだそれ、と思う。でも別に間違ってはいない。一人で笑い続ける俺を、彼は困ったような顔で見ていた。
・
実際の所、和は忙しいらしかった。いつどの雑誌に載るのか、どういう仕事をしているのか和はなかなか話したがらない。できたら言うよ、の一点張りだ。橘田さんに連絡先を聞いておけばよかった。
とはいえ俺も和の一挙一動を追っていないで、バイトなり勉強なりをするしかない。寂しくたって日々は続く。
前山とは相変わらず、よく授業の前に一緒にランチを取った。和の写真が出たりするかもという話をしても、へー、という薄い反応だった。詳しくは聞けていないのだが、やはり彼氏との関係が良い状態ではないらしい。励ますにもどういう言い方をしたらいいのか俺にはわからない。
「あ、垣元。座るか?」
「おう」
なぜか気がつくと、そのランチには垣元も混ざることが多くなった。最初は前山は垣元に苦手意識があったようだが、なんだかんだ真面目な二人で共通の授業も多いので、話題には事欠かなかった。
「そういや八木沢、弟とは仲直りしたのか?」
「あーまぁ、うん」
前山もいる前で和の話題を出されるのは何だか恥ずかしい。
「あんま会ってないけど」
「まぁ身内なんて、そのくらいでちょうどいいんじゃねぇの」
「私、やっぱちょっと行ってくる」
「行ってくるって、え彼氏か?」
俺たちを置いて、そのまま前山は立ち上がった。千円札をテーブルの上に置いて、店を本当に出て行ってしまう。前山が彼氏との関係で悩んでいるようなのは知っていた。だがあまりに行動が急だ。
「おい待てって、車出してやろうか?」
意外にもそれをすぐに追ったのは垣元だった。俺は一人で残される。何が起きているのかよくわからず、あっけにとられるばかりだった。
だけど俺にできることもたぶんないだろう。俺一人だけが残されたテーブルに、三人分のパスタが運ばれてくる。さすがに恥ずかしい状態で、勘弁してほしかった。
和とは何かと電話をしてはいた。でも、この一週間ほどは専門学校の課題もあって、特に忙しいらしい。和はこの間も朝早く出て行ったし、撮影の時間は不規則らしい。
別に俺だってもちろん忙しい。だけど一週間後、課題が終わったから今日の夜は暇だという連絡が来た時、俺は一も二もなく和の部屋に駆けつけてしまった。
鍵を使って入ると、和はまだ帰ってきていなかった。
がらんとした部屋にいるのが落ち着かないできょろきょろしていると、換気扇の前にあのタバコがあるのが目に付いた。本数は以前から減っていないような気がする。
高校の頃、俺も興味はあったのでタバコを吸ってみたことはある。全然おいしいとは思えなかった。試しに一本を手に取り、ガス台で火をつける。
甘くて癖の強い匂い。換気扇を回して、そのまま吸った。
俺は別に咳き込むようなこともなかった。だけど全然おいしいと思えなかった。それでももったいないので、何とか吸い続ける。
おそらくこれは、和の父親が吸っていたタバコだ。和の行動はある意味とてもわかりやすい。モデルの仕事と、タバコ。どちらも両親がしていたことを追っている。それが彼なりの、決着の付け方なんだろうか。
「あ、おかえり」
換気扇の音で気づかなかったが、和が帰ってきていた。今日は見慣れたカジュアルなシャツを着ている。
「ただいま。タバコはやめなよ、早死にするよ」
そう言って、彼は俺の手からタバコを奪った。
「お前、自分が吸っといて何言ってんだよ。試しに吸ってみただけならいいけど、続けるのはやめとけよ」
「俺が早死にすると嫌?」
俺はふうと最後の一息を、思い切り和の顔に吐きかけてやった。和が煙たがって咳き込む。
「っ」
「だから、言ってんだろ。弟は兄より先に死ぬもんじゃねぇって。言っとくけど、俺は健康でめちゃくちゃ長生きするからな。がぽがぽ稼いでいい暮らしして長生きするんだよ」
「……じゃあ俺も長生きする」
キスはタバコの味がした。やっぱり、俺は好きな味じゃないなと思った。
「慣らさなくていい、自分でしたから」
「したって……ここで?」
とにかく俺は忙しく、時間が惜しかった。俺は和の明日の予定なんて把握していないし、また朝が早いとか言われるかもしれない。それで、俺にはたまたま少しだけ和を待つ時間があった。俺が取ったのは、ただ合理的な行動だ。別にそれ以上の意味はない。
「どんな気持ちでしたの、兄さん」
「別に触診みたいなものだろ。単なる、肉体の準備に過ぎなくて」
「これから俺に抱かれること、想像しながらした?」
風呂場でシャワーを流しながら、自分で奥をいじった。指より和のものは太い。そのことを考えていたら、そのまま自慰をしてしまいたくなったけれど、何とかこらえた。
「したよ。だから、さっさとしろ」
俺はやけになって、和の体に触れる。いつの間にか俺より大きくなった図体は熱い。
「どうしようかな」
和はにやにや笑っていた。こんな表情は初めて見た気がする。腹が立って仕方がない。だいたい最近こいつは調子に乗りすぎなのだ。
「普段、一人でするとき後ろ使うの?」
「うるせぇな、さっさとするぞって言ってんだろ」
俺は恥ずかしさと共に苛立ってきて、和を引き寄せてキスをする。
「だいたい、一人でさせんのかよ」
間近で和を睨み付けて言った。和はそれ以上何も言わず、俺に覆い被さってくる。何度も角度を変えてキスをした。唇がふやけそうなくらい。
「ほんとだ、柔らかい」
和の指は俺の中を探っている。それからほとんど焦らさず、和は挿入をしてきた。俺の中に深く和のものが入ってくる。
「あ、や…、ああ……っ」
「いい?」
俺は答えの代わりに目をつむる。
和のものが俺の中を擦り上げながら突き上げてくる。口を塞がれ、舌を吸われる。頭がぼうっとして、気持ちいいことしかわからなくなっていく。同時に胸の先を摘ままれて、ずんと下半身に快感が響く。
「兄さん、気持ちいい?」
俺は何も言わずに、必死で頷いた。望む以上に強く突き上げられて、声をこらえきれなくなる。一番深い場所をごりごりと突き上げられて、俺は必死に和の背にしがみついた。
「あ…っひぁ、あっ」
今度はゆるく揺さぶられて、びくびくと体が震える。
頭が真っ白になった。もう何度もしている行為なのに、毎回新鮮に、どうにかなってしまうんじゃないかと思う。
「何だろ……何て言ったらいいのかな」
和は俺がいってもまだ、達していなかった。汗をかいて、少し苦しそうに眉根を寄せて言う。
「愛してるよ、兄さん」
ぎゅっと俺を抱きしめて、和は一番奥深くにまで深く突き入れてき。全身が溶けていくような気がする。安心して、もっと触れたくなる。ずっと、もっとと。
軽く体を洗った後、まだ慣れない和の部屋のベッドの上で、俺はぼんやりと天井を見ていた。
「母さんにさ、もしマジでバレたらどうなるんだろうな」
俺だって一応、色々考えている。試験でも何でも、大事なのは準備をすることだ。
可能性一、認めてもらえて、今まで通りに家族をやっていく。母は同性愛とかそういうことでは差別はしないだろう。だとしたら、この可能性もないではない。
可能性二、許してもらえず、今までの家族は崩壊する。その場合にどうなるか。母さんが、俺と和を引き離す。俺たちは大人になったとはいっても、成人したばかりだ。学費だって出してもらっているし、仕送りももらっている。どれだけ抵抗しようとしたって、限界はある。
「さぁ……わかんないけど、怒るんじゃないかな」
「俺はお前とのことは、墓まで持ってくからな」
俺は隣りに寝そべる和の顔を見て言った。
楽観的なものから悲観的なものまで、様々な可能性を考える。どれもありえないことではない気がする。でも結局はわからない。だとしたら、なるべくリスクは避けるべきだ。だから、母に言うつもりも気づかせるつもりもない。
「母さんにも父さんにも、絶対に言わないし、悟らせない」
俺たちはまだ非力だけれど、でも方法はきっとあるはずだ。もう今更、和と離れて生きていこうなんて思わない。どうしてこうなってしまったのかなんて、振り返ってもわからないけれど。
うざったくて腹が立って、いちいち目のたんこぶだった俺の弟。でも、こいつがいないなんてもはや考えられないのだ。
「俺の人生設計にはお前も入ってるんだからな。稼げるようになったら一緒に暮らせよ」
「それ、プロポーズ? いいよ、結婚しよう」
和は俺の手をとって、その指先にキスをする。大仰な仕草だったけれど、和がやると似合うのがまた腹立たしい。
「できねぇよ」
「できるならしてくれる?」
和はたまに結婚の言葉を持ち出すけれど、そんな仮定は無意味だと思う。
「最初から家族なんだから、別にしてもしなくても同じだろ」
「そうかな」
「そうだ。今までもこれからも一緒にいて、変わらないんだよ」
誰にも何も文句を言われない大人になりたい。立派な地位を得て、誰もが認めるような仕事につけば、誰ももう和と俺を比べようとなんてしないはずだ。
キスされた指先を握り込む。早くもっと強くなりたい、と思った。それ以上は何を言葉にしたらいいかわからなくて和の体を抱きしめる。
・
最近、和はちょっと調子に乗っていると思う。
俺の部屋に来た彼は、例の雑誌があるのを見て嬉しそうに手に取っている。自分が載っているのを見て、そんなに楽しいのだろうか。
だいたいどうして俺に事前に送るくらいのことはしないのか。仕方がないから俺はちゃんと自分で金を出して買ったのだ。
雑誌を広げて、和は言った。
「どの男に抱かれたい?」
紙面には見た目の整った男ばかりが並んでいる。そういう目的の雑誌じゃないんだから、話題にされる人たちも迷惑だろう。
「……こいつ、性根の悪そうな顔してんな。ちょっと顔がいいからって調子に乗ってんじゃねぇの」
どうしたって俺の目は、そのうちの一人に吸い寄せられてしまう。いや、単にこれは客観的に容貌が整っているからという話だ。俺には身内のひいき目なんてない、はずだ。
「絶対ひねくれてるだろ、そんで頑固で、寝起きは悪いし、めんどくせぇし、しつこいし」
「うん、それで、誰?」
和は答えを促すように待っている。なんで俺がこんなことをしないといけないんだろう。
「……こいつだけは絶対嫌だ」
「それで?」
「何なんだよ! こいつでいいよ!」
茶番だ。でも俺が和を指さしてやると、満足そうだった。
「じゃあ、お望み通りに」
和が俺の体を引き寄せる。本当に茶番以外の何物でもない。一体俺は何をやっているんだろう。
「バカか、ていうかそもそもなんで俺が抱かれたい男を選ばねぇとなんねぇんだよ」
雑誌はたくさんの人が見る。でも、今の和と俺のことは誰も見ない。それならまぁ、いいのかなと思う。かがみ込んできた和がキスをしやすいよう、俺は顔を上げる。
秘密は二人だけで持って行く。俺たちは兄弟だから。慣れた体温と匂いにほっとする。結局彼の隣が、俺の帰る場所なのだ。