家飲みが好きだ。

 気兼ねなく、ゆっくり飲める。

 うるさくない。趣味の合うやつなら、映画を見ながら飲むなんていうのもいい。

 だけどついつい、飲みすぎるのが玉に瑕だ。

 

「あれ?」

 

 俺はトイレのドアを開けたつもりだった。だが、そこは見知らぬ小部屋だった。押入れより少し広い。二畳くらいだろうか。

 目の前にあったのは、メイド服だった。

 店で売っているようなマネキンに着せられている。

  メイド服だけではなかった。その部屋には戸棚が置かれており、これでもかというほどぎっしりともので埋め尽くされていた。ポスター、キーホルダー、DVD……どれも色がどぎつく、目の大きな女の子のイラストが描いてある。

 

「うーん、これは……」

 

 俺は一度扉を閉める。見た目は何の変哲もない扉だった。だがナルニア国にスリップした、というわけでもないだろう。

 俺はもう一度扉を開ける。

 ご丁寧に、ドアを開けると自動的に電気がつくタイプらしい。

  小部屋の中はやっぱり、ぎっしりともので埋まっていた。

 

「先輩ー、大丈夫ですか? 吐いたりしてません?」

「あ」

 

 柳田がやってきたのは、ちょうど俺が中を深く覗き込んだときだった。柳田の部屋には何度も来ているが、この扉の中を見たのは初めてだった。別に俺は、人の家のドアをいちいち開けてまわるような趣味はない。

 

「ああーっ!! 何してんすか!!」

「いや違う、トイレに行こうとして……」

「そこでションベンしたら殺しますよ!!」

 

 柳田の血相が変わっていた。

 そういえば俺はまだトイレに行っていない。そのことを思い出して、俺は扉を閉め、改めて廊下の反対側にある扉を開こうとする。

  だがそれを阻止したのは後輩だった。ばんとトイレのドアを叩き、俺を追い詰めるようにして言う。

 

「見ましたね?」

「暗くて見えなかった」

「電気ついてましたよね?」

「高機能だな」

 

 柳田の慌てっぷりといったらなかった。もともと彼は、わりとそそっかしい後輩だ。俺の五つ年下で、入社以来何かと面倒をみてきた。ペアを組んで営業に回ることも多かった。柳田は何かとミスをしでかしたが、その愛嬌で何とかごまかしてしまうタイプだった。

  一緒に飲むことも多かった。いろんな飲み屋の末に、たどり着いたのがここ、彼の家での家飲みだ。

 

「いや……間違えて開けたのは悪かった。でも、別に気にするなよ」

 

 よくない、と顔だけで柳田が言っているのがわかる。

  別に、そういう人の趣味があるのはわかる。俺はまるで門外漢だけれど。そんなことより、とにかく早くトイレに行きたかった。

  

「ほら、アキバとか最近は普通の人でも行くだろ? 別に俺だって偏見はない」

「本当ですか……?」

 

 さっさとトイレに入らせてほしいのに、やたらと柳田はしつこかった。

  

「気持ち悪いってホントは思ってんじゃないですか?」

「いや、変な絵だなとは思うけれど別にそれは好みだし」

「……変?」

「いや、髪が尖ってたり、目が大きすぎたり奇形には見えるけれど、別に俺はそれが悪いとは思ってない」

 

 酔った目で数秒眺めただけだ。部屋にあったのが、どういう種類のグッズなのかはよくわからなかった。でも、メイド服だけは印象的だった。

 とにかく何か説明しなくてはと、俺は焦って言葉を重ねる。

 

「メイド服ってアキバだと女の子が普通に着てて、ご主人様とか言わせるんだろ? 根暗のためのキャバクラみたいなもん? いやでも俺はそれが悪いとは思ってないし偏見はない」

 

 柳田は何も答えなかった。よく知らないことについて、酔った勢いで話しすぎたかもしれない。でも本当に、俺は偏見なんてないつもりだった。……自分では。

 

「……トイレ、行っていいか」

「だめです」

「えっ」

 

 柳田はドアを押さえたまま、見たことのないほど厳しい顔で俺を見ていた。こうやって並んで見ると、彼のほうが背が高くて体つきがいいのがよくわかる。

 実際、柳田は「いわゆるオタク」というようなイメージではまるでない。会社にはいつもおしゃれなスーツを着てくるし、家もきれいに片付いている。アニメの話なんて彼からは聞いたことがない。学生時代は、アメフトのサークルに入っていたと聞いていた。むしろオタクとは対極の印象だ。

 

「……って言ったら、どうしますか?」

 

 怒らせるようなことを言ってしまっただろうか。俺は本気でよくわからなかった。

 そもそもオタクというものをよく知らないのだ。

 だいたい、そんなに見られたくないものなら鍵でもかけておけばいいのにと思う。

 

「普段は鍵、かけてるんです……畜生、なんで」

 

 俺の内心の疑問に答えるかのように、柳田は悔しがった。彼が油断した隙に、俺はトイレに入ろうとする。

 

「別に……気にすることはない。特に、誰かに言ったりするつもりもないし」

 

 ばん、と柳田は再びドアを強く叩いた。

 

「そんなことしたら、いくら神島さんでも許さないですよ」

「言わないって」

 

 柳田の目は真剣だった。いつも仕事中にもこのくらいの気迫を出してほしいと思う。よくわからないが、本当に見られたくなかったものらしい。

 意外ではあるが、俺は大して気にしてはいなかった。実害がなければ、何を好きだろうと自由だろう。俺は慰めるような気持ちで、笑って柳田の腕を叩いた。

 

「どうでもいいからそんなことより早く……トイレ行っていいか?」

 

 ・

 

 俺は本気で、何も気にしてなんていないつもりだった。

  人の趣味は色々だ。

  社会人になってから、あまり趣味の話なんて聞かなくなった。家族を持っているやつも多いし、まぁ聞こえてくるのは酒、ゴルフ、野球観戦くらいだ。本当はもっと、マニアックな趣味を持っているやつだっているんだろう。

  でも、誰もわざわざ声高に宣言したりはしない。

  趣味は趣味だ。

  共有できたら素晴らしいだろうけれど、でも、しなくてもいいはずだ。

  柳田とは今年に入って、仕事終わりに二人だけの打ち上げと言って飲むことが増えた。俺はもともと飲みに行くのは好きだが、これほど特定の相手とばかり二人で飲むのは初めてかもしれなかった。

  柳田は話していて心地がよく、相づちのテンポもいい。彼の失敗談なんかも聞いていてとてもおもしろかった。

  家で飲むようになったのは、もともと柳田が親の持つマンションに住んでいると聞いたからだった。一棟マンションを持っているなんて、うちの会社でわざわざ働くまでもないほどの金持ちなんだろうと思って、羨ましくてその話題を振った。

  

「えっマンション!? 持ってないです、持ってない持ってない」

 

 どうやら、確かに柳田が住んでいるのは親が買った分譲マンションの一室らしい。だが、あくまで持っているのはその一部屋だけということだった。

 

「もともと親が住むつもりだったんすけど、仕事の都合で大阪行くことになったんで、遊ばせとくのもなーっていうので俺が住ませてもらってるんです」

「でも、広くてきれいなんだろ?」

 

 俺はいまだに、大学生の頃に借りたワンルームのアパートに住んでいる。今の給与ならもう少しいいところは借りられるのだが、引っ越しも面倒なのと、何かと便利な位置にあるのは確かだったので、そのままずっと住んでいる。

 

「まぁ、一応……」

 

 そんな会話があって、柳田の家に行くことになった。

  実際彼の家はなかなかいいマンションで、居心地がよかった。それからちょいちょい、彼の家で飲むようになった。俺は家飲みがもともと好きだが、自分の部屋は狭くて落ち着かない。

 その点、一応手伝うにしても後片付けは柳田に任せられ、のんびりできる彼の部屋はとても居心地がよかった。飲みすぎて、ソファで泊まったことも何度かある。

 

  だが。

  あの狭いオタク部屋を見てしまってから、柳田は露骨に俺を避けるようになった。

 上司の方針で案件ごとにペアは変えることになっている。直近で進行中のものは、俺と柳田はペアになっていなかった。

  それをいいことに、柳田は俺を避け続けた。

 

「柳田、S社の課長の名刺持ってるか?」

「あ、はい。あ、いやないです。すみません」

「どっちなんだよ」

「荒井さんに聞いてください」

 

 明らかに、避けられていた。子供っぽいんじゃないかと思ってしまうほどに。

  もしかしたら、今後ペアを組まないですむよう、上司に根回しくらいしているのかもしれない。上司からも彼はかわいがられているタイプだ。

  ――何だよ。

 そんなにあのオタク部屋を見られたことが恥ずかしいのか。

 別にこっちだって、言いふらすつもりなんてない。それは伝えたはずだ。柳田が気にしなければいいだけなのに、どうしてこちらが嫌な思いをしなければならないのか。

 

 

    

「お前、本気で言ったのか?」

「え?」

「いやーそれは俺でも怒るわ」

「え、いや俺は全然別にあいつがどんな趣味だろうと……」

「その『趣味』をバカにしてんだろ? お前は」

 

 困り果てた俺が相談したのは、大学の頃の友人だった。

  柳田ほどではないけれど、こいつもまぁ普通の見た目をしている。だけど夏と冬には女装のコスプレをしてコミケに出ている。写真を見たので知っている。自分を解放するのがくせになってしまったそうだ。

 

「いや、そんなつもりは……」

「あるだろ。お前、何でもいいけどほら、例えば自分が飼ってる犬を奇形って言われたらどうだ?」

「犬じゃない」

「例えばだよ。かわいがってて、好きだと思ってるそういう対象として」

「そりゃあ、怒るだろうけど……」

「その彼がどの程度、何のオタクなのかは知らないけど、たぶんそのグッズを大事にしてるんだろ? わざわざ小さな部屋ひとつをそのために使うくらい」

 

 彼の言うことは最もだと感じられるのが悔しい。

 そういう趣味は、俺の理解の埒外だ。

  でも、あれだけぎっしりものを集めているのだから、相当な時間と熱意が込められていることはわかる。

 

「でも別に貶すつもりなんてなくて……」

「悪いことは言わない。さっさと謝ってこいよ」

「でも俺は」

「何のために俺に相談までしてるんだ?」

 

 友人の言うことはもっともだった。

 今のままで、自然と柳田との関係がまた良くなるだろうか。何が悪かったのかはいまいちぴんときていないが、とにかく柳田は、嫌だったのだ。

 俺がどんなつもりでいたにしろ。

 

「なんか、全然イメージと違ったんだよな。根暗には見えないし」

「わかんないだろ、そんなの」

「何度も二人で飲んでんだぞ?」

「俺なんて、奥さんにも言ってないぞ」

 

 胸を張って友人は言った。コスプレ趣味のことだろう。

 

「それは早く言ったほうがいいんじゃないか……?」

 

 どうしてこんなやつが、結婚できたのかわからない。でも、俺も結婚式に出たが幸せそうな夫婦だった。彼女はもし、秘密の部屋を開けてしまったらどんな顔をするのだろう。

 まぁ、友人はわざわざトランクルームを借りてコスプレグッズをしまっているらしいので、その心配もないかもしれないが。

 

「そんなもんだよ。別に、みんな自分をそんなさらけ出したりしない、それが普通。今回は事故みたいなもんなんだから、事故なりの収め方があるだろ」

「……そうだな」

 

 俺はトイレに行きたかっただけだった。まったく、どうしてあんな紛らわしいところに扉があるのか。もともとの用途は納戸だろうか。

 あの秘密の小部屋を、柳田はどんな風に使っているのだろう。客先に怒られて凹んだ日なんかに、一人でぼうっと引きこもるのだろうか。

 わからないけれど……少しだけ、聞いてみたい気もした。

 

 ・

  

 柳田とは同期でもないし、同い年でもない。でも、不思議と気が合った。

 似ているところはそう多くなかった。俺は次男だけれどあいつは長男だし、俺は秋田出身だけどあいつは福岡だ。大学時代の専攻も、好きな酒も、異性のタイプも……そして趣味も違う。

  でも、彼と酒を飲みながら話す時間は楽しかった。

  特に彼の家で過ごす気の抜けた時間は、いいストレス解消になっていた。他の誰の家でも、あんなに落ち着けたことはない。

 できることなら、これから先もまた一緒に酒を飲み交わしたい。

  ここは俺が、年上として一歩譲るべきなんだろう。

 

  俺は謝るために、柳田に飲みに行こうと誘った。柳田は予想通りつれない返事をしてきたが、しつこく粘った。難易度の高い客と思えば、難しいことではなかった。

 使ったことがあって、よい店と知っている居酒屋を予約した。席はカウンターだ。こういうときは、正面から顔を見ないで隣に並んで話すのが効果的だ。直接向き合うと、余計な圧をかけてしまって緊張感が生まれ、まとまる話もまとまらなかったりする。

  柳田は約束の時間ちょうどに現れた。

 

「お疲れ」

「お疲れ様です」

 

 柳田は少し居心地が悪そうに見えた。お互いビールを頼んで乾杯する。

 軽く職場に関する雑談をした後に、俺はすぐ本題を切り出した。

  

「この間は……無神経なことを言ってしまって、悪かった」

「いいですよ、別に」

 

 だが柳田の声は、到底納得しているようには聞こえなかった。横顔も硬い。

  謝れば解決するのだろうと思った。今までみたいに、気のおけない関係に戻れるのだろうと。  

 

「俺は本当にお前の趣味を否定する気なんてなくて……」

「わかってます、神島さんに悪意がなかったことくらい」

 

 だが、柳田は頑なだった。

 いつもの朗らかで、あっけらかんとした様子とは少し雰囲気が違う。

 

「……いいですよね、神島さんは」

「何がだよ」

「日陰の道を歩いたことなんてないんでしょうね」

「なんだそりゃ」

 

 俺だって人並みに苦労はしてきているつもりだ。

  それに、オタク趣味だって今どきはそんなに隠すものでもないだろう。新入社員が自己紹介のとき、趣味はアニメだと言っていたことを思い出す。

 ――ひとりだけ被害者ぶるなよ。

 だが、ここで怒ってしまったら元も子もない。俺は彼に謝るために来たのだ。年上らしく、一歩譲ってやらなければ。

 

「あなたに俺のことはわからないです」

 

 彼はささくれた雰囲気を醸し出していた。「いかにも体育会系」なんて言われている普段の姿とは違う。

 

「だから、悪かったって」

 

 面倒くさい女みたいだな、とちらと思ってしまう。

  前の彼女もそうだった。かなり昔に俺がしたことを、本気で忘れた頃になって持ち出すのだ。一回許すと言ったはずなのに、ねちねちと繰り返すのだ。

 もう別れて二年になる。

  最近は仕事が面白かったり、飲むにしても柳田と飲むほうが楽しくて、恋人を作ろうという気にもなれていなかった。

 

「ほんとに、そう思ってるんですか」

「そうじゃなきゃわざわざこうやって場を設けたりしない」

 

 それは確かに本音だった。なぁなぁで疎遠になっても構わない相手だったら、真正面から謝るなんてことはしない。この先またペアになるだろうし、仕事を円滑に進めたいという気持ちも大きいけれど、それだけじゃない。

 だが、柳田は推し量るような目で、じっと俺を眺めてくる。

  不躾な視線だった。

 

「じゃあ逆に、どうしてそこまでしてくれるんですか?」

 

  見定められているように感じる。相手は柳田だ。よく知っている後輩だ。なのにどうして、こんなに緊張するのだろう。

  嫌われたくないと、思ってしまうからだろうか。

 

「それは……仕事だってあるし」

「仕事」

「いやプライベートでも、また、家で飲んだり楽しく過ごせたらいいなっていうのもある」

 

 何だか口にしていて恥ずかしかった。大学生じゃないのだ。

 

「本当に、悪いと思ってるんですか?」

「そうだよ」

「じゃあ、誠意を見せてください」

「は?」

 

 ヤクザみたいな単語に、俺はぽかんとする。

  

「本当に謝るつもりがあるなら、偏見がないっていうなら、見せてください」

 

 ・

  

 どうしてこんなことになったのか。俺は、これまでまっとうに生きてきたつもりだ。

 確かに柳田には悪いことをしたんだろう。彼の気持ちを傷つけるようなことをした。

 こんこん、とドアがノックされる。

  

「いいですか?」

「まだだ!」

 

 ……でも、なぜこんな目にあわないといけないのか。

 俺は思わず大声で言い返していた。

  俺がいるのは、狭い二畳程度の部屋だった。柳田のオタク部屋だ。

 相変わらず周囲はポスターで埋め尽くされている。笑顔の女の子たちが肌をむき出しにしている中で俺は……メイド服を着ていた。

  

  おかしい。

  どうしてこんなことになったのか。

  

  この部屋には鏡がない。だから、自分がどんな風に見えるのかはわからなかった。

  Lサイズだから細身の男性なら着れると言われた。確かに着ることはできた。できてしまった。できない方がよっぽどよかったのに。

  俺はふっくらとしたレースの縁るスカートから伸びる自分の足を見下ろす。そして、ぎゅっとスカートの裾を握りしめた。

  すね毛も生えているし、どこからどう見ても男の足だ。

 この服は肩もふくらんでいるので、それほど肩幅が目立たないとはいえ、俺は女性のように華奢ではない。鏡がないからわからないが、きっと傍から見たら異様だろう。

  どんな風に人から見られるのかと想像するだけでかあと顔が熱くなる。

  学園祭のノリで着たと言い訳するのもきつい。もういい社会人だ。友人のコスプレは、ウィッグも化粧も完璧にやっていて、全然こんな風じゃなかった。

  こんこん、とまたドアがノックされる。

 

「もういいですよね?」

「だめだ……っ!!」

 

 どうして柳田の言うことなんて聞いてしまったのか。

 

  ――偏見がないなら、着れますよね。

  ――は?

 

  とにかく自分の家に来てくれと柳田が言ったとき、もう彼は許すつもりなんだろうと思っていた。

 もういいですよ、水に流しましょう。そんな言葉を俺は待っていたのだ。

 だが、家に入って柳田が指し示したのはあの、俺が開けてしまった扉だった。

 

 ――オタクとかキモくないっていうなら、着れますよね? メイド服。

  

  俺はサイズや、俺が男であることや、現実的な問題を訴えた。だが、柳田の目は完全に据わっていた。

 柳田はまるで俺の反論を聞かなかった。抵抗しているうちに、着れば柳田の気が済むならいいかと思えてきてしまった。

  別に誰かに見せるわけでもないだろう。

  手間や金がかかるものではない。単に俺が、着ればいいだけなのだ。一瞬で終わる。

 

  ――着れば、許すんだな?

  

  そうして俺は、メイド服に腕を通した。男性用下着をつけたまま。とんだ変態だ。いや、変態と思ってはいけないんただろうか……いや、どう考えても変態だ。女の子がメイドをするならかわいいというのはまだわかるが、これは理解できない。

 そもそも柳田がオタクであることと、俺がこれを着ることは関係ないんじゃないか。罠だ。卑怯だ。

 

「神島さん! いいですか? 開けますよ?」

「だめだってば……!」

 

 俺は扉を内側から押さえる。人がこもるように作られているわけではないので、この部屋の鍵は外側からしかかからない。

  俺は必死に取っ手を押さえたが、さっきから酒を飲んでいることもあって、あまり力が入らない。

  抵抗もむなしく、柳田は扉を開けた。

  俺は裸で道に放り出されたような気分になる。

  

「ドアを閉めて、その前に立ってください」

 

 柳田は言われるままにした俺を、じろじろと眺めていた。

  最初は顔を。それから上から下まで、値踏みするように視線で撫でられる。恥ずかしさで全身が熱かった。穴があるなら入りたい。

 

「……もう、いいだろ」

 

 極度の混乱で、一瞬涙が浮かんできそうになって本気で焦った。

 俺をやたらじろじろと眺めながら、柳田は何も言わない。

  

「何か……言えよ」

「言ってください」

「え?」

「『ご主人様』って言ってください」

「はぁ? お前何言って」

 

 ただでさえ、恥ずかしいことをさせられているのだ。

  だが、柳田はにこりともしていなかった。

  

「俺は、メイドには『ご主人様』とか言わせる根暗なオタクなんで」

「なっ、んだよ……それ……」

 

 俺はメイド喫茶なんて行ったことがない。テレビか何かでちらと見たことがあるだけだ。そこで店員がそんなふうにみんな言っていて、変な世界だなと思っただけだったのだ。別に、悪意があって柳田をけなしたつもりなんてなかったのに。

 スカートを履いているから足がすーすーする。

 慣れないからというだけじゃなくて、ひどく心もとない。

 こんなの、裸と一緒だ。

 裸よりもっとひどいかもしれない。

 自分がか弱いものになってしまって、柳田に生殺与奪権を握られているかのように感じる。

 俺たちは対等な飲み友達だし、むしろ俺のほうが本来先輩なはずなのに。なんでこんな目に合わないといけないのか。

 でも、一瞬だ。言えば終わる。

 それで手打ちだ。そう思って、俺はなんとか声を絞り出す。

  

「ご、ご主人様……」

 

 自分の声とは思えないくらい、か細かった。

 ごふ、と柳田が変な笑い方をして口元を押さえる。

 

「お前、笑ってんじゃ……!!」

 

 俺はいい加減に腹に耐えかねて、柳田を叩く。後輩のくせに、どこまで人を貶めれば気が済むのだろう。

 だがその腕を、柳田に掴まれる。

  そしてそのまま、扉に身体を押し付けられた。何が起きたのかわからなかった。

  

「……んっ」

 

 強引に唇を重ねられる。わけがわからなかった。泣きそうなほどの混乱に拍車がかかる。

 俺はもがいて逃げ出そうとしたけれど、ドアに押し付ける柳田の力は強かった。角度を変え、何度も唇を重ねてくる。

 

「や……っ」

 

 顔をそむけようとしても、強引に顎を掴まれて柳田の方を向かせられた。

 やつは、怖いくらい真剣な顔をしていた。さっきまで笑っていたはずじゃなかったのか。ふざけるにしても、たちが悪すぎる。ドアに腕を押し付ける力が強い。まるで腕が動かない。

 

「やめろ……っ!」

 

 俺は思い切り足を蹴り上げる。なりふりなんて構っていられなかった。

 

「……っ」

 

 急所を押さえて柳田がよろめく。

 俺は肩で息をしていた。こいつはよく知っている後輩の柳田のはずだ。でも、まるで違う人間みたいに思えた。

 

「お前……ゲイ、なのか」

「違います」

「違わないだろ……!!」

 

 男に興味がない人間が、こんなキスをしてきたりはしないはずだ。俺はぐいと唇をぬぐった。男とキスをしたのは初めてだった。

 思った以上にショックを受けている自分に気づく。

 柳田とは仲直りがしたかった。前みたいな飲み友達に戻りたかったのだ。

 

「なんでこんな……こんな……」

「違うはず、だったんですけど。今まで付き合ったのもみんな女の子だったし」

 

 柳田がゆっくり身体を起こす。今更ながら、その体格の良さに気づく。アメフト部だったか。そんなごつい部活はやめてほしい。

 本気で力づくになられたら、敵わないかもしれない。

 今まで考えたこともないようなその思考にぞっとする。

 

「でも……なんでそんなにかわいいんですか?」

「はぁ!?」

 

 三十歳に近い男の先輩に言うような言葉じゃないはずだ。

 じりじりと柳田は再度、距離を詰めてくる。逃げ出そうにも、俺の背後は扉しかなく、ここを開けても狭い部屋があるだけだ。

 

「お前……頭おかしいだろ!? ゲイじゃないんだろ!? 男相手に何言ってんだよ!!」

「そうですね。そう思ってたんですけど」

 

 柳田との体格差なんて、真面目に考えたこともなかった。

 だって、俺を力づくでどうこうする理由なんて、柳田にはないはずだ。

 ……ない、はずだった。

 俺を見る柳田は、やたらときらきらした目をしていた。怖い。新しい玩具を見つけた子供みたいなだった。

 

「でも俺、新しい扉開いちゃったみたいです」

 

 俺は呆然と彼を見返す。確かに最初にこの部屋を開けてしまったのは俺だ。でも、こんなつもりじゃなかった。

 わけがわからない。返す言葉ももうなかった。

 なのに、かあっと顔が熱くなるのがわかる。俺は今まで、特に変わった性癖もなく平凡に生きてきたつもりだ。こんな世界は知らない。

 こんな後輩は知らない。

 もう拘束はされていないはずなのに、俺は身動きができなかった。扉の前に立ったまま、ただ呆然と、見知らぬ男みたいな後輩を見返していた。