普通の恋だったと思う。
ありふれた話だ。たまたま弱っているときに、何となく話をするようになった同級生に片思いをした。
それだけの話だった。
体育館裏の水道で、仁田見は頭から水を浴びていた。さっきからもう何分もそうしたままで、頭の中を占めているのはひとつの言葉だけだった。
――負けた。
ここ一番の大事な大会だった。勝てると思っていたし、そう期待されていた。でも結果は明らかだった。
できることなら今日の朝に戻ってやり直したい。こんな結果、なかったことにしたい。だけど変えられない。
水は排水溝に吸い込まれ続けている。いくら頭を冷やしても、思考はまとまらない。
――負けた、負けた、負けた。
遊びに行くこともなく、ただひたすらに練習に打ち込んでいた。両親も顧問も部員もみんな期待してくれていた。この大会しかなかった。
「なぁ、どっか悪いの?」
最初は自分に声をかけられたとは気づかなかった。
はっと顔を上げると、茶髪の男が立っていた。
「さっきから固まってんじゃん」
「……別に」
クラスメイトの市谷智典だ。いつも数人の仲間とつるんでいるような男で、正直あまりいい印象はなかった。髪は茶色く、腕にはブレスレットをしている。
黒髪を短く整え、部活一筋に打ち込んできた仁田見とは、対極にいるような男だった。
「まぁ今日暑いよなー」
仁田見がさっきまで試合をしていたことには、気づいていないらしい。きっと仁田見の所属する部活自体を知らないだろう。
「俺も浴びよっかな、水」
仁田見は答える代わりに、水道の前から一歩退く。だが市谷は本気で言ったわけでもないようで、軽く笑っただけだった。
言葉の軽い男だ。どうして彼はわざわざ話しかけてきたのだろう。仁田見にとっては、彼が自分の名前を知っていること自体が意外なくらいだ。二人きりで今まで会話をしたことなどない。彼みたいな男と特に会話する理由もない。
「暑いよなー、最近」
ただ暑いだけで、仁田見が何分もずっと頭を冷やし続けていたと本気で思っているのだろうか。彼にとっては、何だっていいことなのかもしれない。
「ていうかさ、仁田見ん家って別荘持ってるってマジな話?」
それでやっと、彼の目的が見えた。
「あるよ」
確かに仁田見の家は、長野に別荘を持っている。何度か連れられて行ったことがあるが、取り立ててすることもなく、暇だという印象しかない。
「じゃあさー、みんなで遊び行こうぜ」
今までろくに話もしたことがなかったような間柄だ。別荘を利用したいだけなのは目に見えていた。きっと、彼がつるんでいるろくでもない他のクラスメイトも一緒なのだろう。
どうしてそんなやつらに別荘を貸してやらないといけないのか。
いきなりすぎるし、非常識だ。
「別にいいけど」
だけど口をついたのは、自分でも意外な言葉だった。
「マジ! いやー、やっぱお前話がわかるやつだな!」
そう言って市谷は慣れ慣れしく肩を組んでくる。仁田見より小柄な彼は、少し背伸びをしていた。何だかそれが無性におかしかった。
ぽんぽんと市谷は肩を叩いてくる。俺たち親友だよな、くらいのことは言いかねない勢いだった。調子がいい。
「うわ、濡れた」
さっきまで仁田見は頭から水をかぶっていたのだから、それだけ近づけば彼も濡れるのは当たり前だ。だけど市谷は、急にそのことに気づいたみたいにぱっと腕を放した。
「お前なんで濡れてんだよ」
「はは」
思わず仁田見は笑っていた。一瞬、試合結果のことなんて忘れていた。
ありふれた話だ。
別荘は六人で行くことになったが案の定彼らはあちこちを汚し、父にこっぴどく叱られた。
仁田見の試合成績は悪くなっていくばかりだった。試合に負けるたびに、市谷と話がしたくなった。
最初は、それだけだった。
・
「嘘だろ……」
狭い部屋の中では隠れる場所なんてない。仁田見がいればすぐにわかるはずだった。
「おい、仁田見! いるんだろ!!」
呼びかけながらぞっとした。俺だけ取り残され、彼は現実に戻ったのだろうか。
過去のパターンからいうと、この部屋では時間が過ぎない。だとしたら、どうなるのか。
「うそだろ……」
俺だけずっとここに閉じ込められたままなのだろうか。一人ではセックスできない。どうしたって無理だ。詰んでいる。
「おい、何なんだよ!」
俺と仁田見はちゃんとセックスをした。だから二人とも出られるはずだ。仁田見だけ消えるなんてどう考えてもおかしい。
「仁田見……!」
俺は壁を叩く。だけど答える声はどこにもない。
「おい、おかしいだろ、誰でも、何でもいい、ここに俺だけ閉じ込めてどうすんだよ……!」
頭がおかしくなりそうだった。叫んでも、誰も答える人間はいない。そのことはよく知っている。ここはどうかしている部屋で、自力で出ることはできない。
でもどんなときだって、仁田見が一緒にいた。
イラッとさせられることも多かったけれど、話はできた。最終的には、仁田見とセックスすればいいともわかっていた。
だが一人ではどうにもできない。
仁田見と延々揉めるのは正直、面倒と思うこともあった。やつの考え方についていけないことも多い。
でも、いない。
これまでとは全然違う息苦しさがある。俺の声は誰にも届かない。何を訴えても意味がない。このままここで俺が干からびても、誰も気づかないかもしれない。
「仁田見……」
仁田見は俺を忘れたりしないと思う。外に出られたなら、きっと探してくれるはずだ。だがどのくらいかかるだろうか。
考え始めるとどんどん苦しくなってきて、俺は喉元をおさえた。この部屋の中では時間が過ぎない。俺を見つけられずに長い時間が経ったら、仁田見だって俺のことを忘れるかもしれない。俺のいない生活に慣れて、誰か新しく好きになって。
もともと仁田見に俺なんかを好きになる理由はない。基本的に真面目だし、背も高いし、彼の親だって俺みたいなやつよりどこぞのご令嬢とでも付き合ってほしいと思っているはずだ。俺なんかが挨拶に行くよりそっちの方がよっぽどいいだろう。
――仁田見。
気が狂いそうだった。どうしていいかわからず、俺は壁を叩き続ける。
忘れ去られたら。
そうしたら俺は。母親のことや友達のことも少しは頭をよぎる。でも圧倒的に心を占めているのは仁田見のことだった。
――俺を、見つけてくれよ。
俺のことをあんなに好きだって言ったのに。
――そうしたら、俺は、今度こそ……。
疲れ果ててうとうとしているとき、何かを見た。視界には白い靄がかかっている。
見えたのは俺だった。
俺が、小さな部屋の中に閉じ込められている。あちこち壁を叩いたり、どうにか出られないかと歩き回っている。その閉じ込められた俺の手の中には箱がある。
箱の中に何かがいる。……俺だ。
俺の持つ箱の中に、やっぱり俺が閉じ込められている。その箱の中の俺も、箱を持っている。米粒ほどの大きさの俺が、その箱の中にいた。
俺の持つ箱の中に俺がいて、その持つ箱の中に俺がいて……。
「やめろ!!」
俺は目をつむり頭を抱える。こんなのは幻だ。俺が「そうだったら嫌だ」と思ったものを、思い浮かべてしまっただけだ。
俺ははっと目を開けたけれども、やっぱり部屋の中には誰もいなかった。
白い壁がただ続いている。嫌な汗をかいていた。
「仁田見」
涙が浮かんできそうになる。このままじゃ本気で、気が狂う。一人ぼっちだ。
俺は長くはここにいられない。
・
白い箱の中に、夏の写真が入っている。
酒も入り、別荘での騒ぎはひどいものだった。誰かが食器を割り、酒をこぼし、ソファにシミを作った。もう二度と父は別荘を貸してはくれないだろう。
楽しかったかというと、単純には答えられない。市谷やほかのやつらのノリに、ついていけないと思ったことも確かだ。
「どうしてそんなやつらを連れて行ったんだ」
案の定、父にはこっぴどく叱られた。
「すみませんでした」
「高校生だからといって、お前がそんな馬鹿なことをするとは思わなかった。清掃にグラスに、いくらしたと思ってるんだ? お前の小遣いから払ってもらうからな」
ただ頭を下げて、父の叱責に耐えた。他人がしたことで叱られるのは初めてだった。
なんで別荘を貸したのか、そこに自分も行ったのか、自分でもよくわからなかった。
いや、それは本当は嘘だ。自分には確かに、はっきりとした目的があった。楽しいとか、父から叱られないで済むとか、そんなことよりもっと大事な目的が。
「写真、撮ってやるよ」
彼らのノリにいまいち乗れなかった仁田見は、別荘では撮影役を名乗り出て、乱痴気騒ぎをする同級生たちの写真を撮った。みんなカメラを向けると楽しそうに変顔をしたりポーズを撮ったりしてくれた。
仁田見は何百枚もの写真を撮ったが、その実、撮りたいのは一人だけだった。どこで誰の写真を撮っても不自然ではないと思ったから、撮影役に名乗りをあげたのだ。
箱の中には写真が入っている。
焼けた肉を眺める横顔。ビール瓶から直に酒を飲み、笑って竹本と話している顔。
全部、こちらは向いていない。目の合わない写真ばかりだった。
別荘を貸した夏休み以降も、市谷やその友人たちとたまに遊ぶようになった。仁田見が部活を引退することになって、時間ができたせいもある。
部活にしか打ち込んでこなかったから、受験勉強をいきなりしようにも身が入らなかった。何も考えたくなくて彼らからの誘いに乗った。
仁田見はいまいちノリが合わないとは思っていたけれど、彼らはあまり気にしていないようだった。仁田見の金払いがよかったり、女ウケがいいせいもあったかもしれない。
だらだらと遊ぶのは、思考を停止するためには悪くなかった。
「好きなんです。付き合ってください」
高校を卒業するまでに、何人かに告白された。昔は、「部活に専念したいから」と言って断っていた。今は、「受験勉強に専念したいから」だ。
嘘ではないが、本当でもなかった。
「ごめん」
自分は誰のことも好きにならない人間なのかと思っていた。何よりも部活で結果を出すことが楽しかった。それ以外のことにはあまり興味が持てなかった。
部活をやめた虚脱感が常にあった。
「なー、今日暇? カラオケ行こうぜ」
市谷との関係はあくまで数人で遊ぶときの仲間に過ぎなかった。二人だけで話すことはほとんどない。
なれなれしくされることはむしろ嫌いなはずだった。たまたま弱っているときに会ったからだろうか。仁田見は何度も考えた。仮説はそのたびに思いついては消えた。
女性を好きじゃないかもしれないと思うときはあった。でも、だからといって男が好きなわけでもなかった。
結論だけはいつも変わらなかった。
――どうかしてる。
目が自然と彼を追うことを、どうしたって止められなかった。
写真はデータでとっておくほうが安全だ。だけど、それでも仁田見は印刷した。箱の中に写真をしまい、その数が増えていくと気持ちが落ち着いた。
収集癖もないはずだった。だけど、今まで自分だと信じていたものが崩れていく。
今は、この写真があればいい。
光の差さない箱の中に、写真を閉じこめる。思い出があればいい。それ以上のことは望まないつもりだった。
大学に進学することになって、市谷との交流の機会は増えた。
市谷が進学したのは福祉系の学部で、彼は授業内容にはまるで興味がないようだった。
今は一緒に暮らしていない母親から、大学は出てほしいと言われて受けた学校なのだという。彼は語らないけれど、意外と母親を慕っていることがなんとなくわかる。
でも、あまり学校に馴染めていないらしい市谷は、暇そうにしていることが多かった。
だから数人で、あるいは二人きりで遊ぶことが増えた。もちろん仁田見にだって、自分の大学生活があった。だけど、暇かと聞かれれば、あたかも何も用事などなかったふりをして、遊びに行った。
でも、どうしたって市谷にとって自分は、たくさんいる遊び仲間のうちの一人だった。
「えっ、プレゼント? って何」
どこまでが友人として許される範囲なのかわからなかった。でもこのくらいは許されるかと思って、市谷の誕生日にボールペンを贈った。そう高価なものではない。
「かっこいいかと思って」
「うわー、マジ?」
市谷は嬉しがるより、戸惑っていたように思う。……以前彼は、竹本からゲームソフトを誕生日プレゼントにもらったと言っていたことがあった。たぶんそれは中古だろうけれど、決して安くはない。
「へぇ……」
竹本と同じくらいの距離感になりたかった。でも、どうしたって市谷の態度は違った。
当たり前だろう。自分は竹本ではないのだから。
市谷は面倒くさがりだった。遊びに誘うのは大抵が市谷からで、仁田見からの連絡には、一日や二日、返信が来ないことはざらだった。SNSも熱心にやってはいなかったけれど、共通の友人の一人である鈴木は、どこに出かけても写真をアップするやつだった。
見なければいいのに、その投稿を仁田見はいちいちチェックしていた。それが、たまたま市谷を誘って断られた日に、彼が鈴木たちと遊んでいる様子だと、どうにかして鈴木の携帯が壊れるようなトラブルが起きないか、とんでもない不幸でも起こらないか、そんなことをつい思うようになった。
自分が自分じゃなくなっていくみたいで怖かった。市谷のことが好きだとはいっても、彼は同性愛者じゃない。望みはないだろうし、友人というポジションに不満はないつもりだった。
「大学生になったからって、遊んでるんじゃないの?」
寝不足の日が続いたせいでどこか様子がおかしかったのか、母からも言われた。
「少しは遊ぶのもいいけど、あっという間よ。早い人は就職のことだって考えてるでしょう? お父さんの言うことはちゃんと聞いて」
「まだ一年だから」
「あっという間よ」
「わかってる」
やっと受験から解放されたばかりなのに、就職のことなんて考えたくなかった。だが父は父で英語を勉強しろだの、短期留学をしろだの、やることを勝手に決めてくる。どうやら海外にある関連会社に就職させたいようだった。そしてゆくゆくは自分の後継者にと考えているのだ。
大きな会社ではない。だからこそ、かえって父は大きな顔をしていられるのだと思う。事業内容に興味もなかった。
――だけど他に、やりたいことがあるわけでもない。
強いて言えば、市谷と一緒にいたい。
我ながら、ばかみたいな願いすぎて頭痛がする。でもどうしたらそれを実現できるのか。真面目に告白したとして、市谷は相手にしないだろう。
彼は普通に女好きだ。最近彼女もできたばかりだった。長くは続かないだろうと思うが、わからない。
「なんで俺、こんなことしてんだろうな……」
心がざわついて落ち着かない日は、白い箱を開ける。
写真は少しずつ増えていた。鈴木のSNSにアップされていた写真を印刷したものもあった。市谷と二人で飲んでいたときに、携帯をいじっているふりをしてこっそり無音アプリで撮影した写真もあった。
ストーカーと言われても否定できない。思い出だけでいいはすだったのに。
――もっと欲しい。
写真を見ると落ち着く。でも全然足りない。一挙一動をずっと見ていたい。一緒に暮らしたい。触れたい。自分だけのものにしたい。
――もっと。
きれいごとだけの感情じゃないことは最初からわかっている。彼を押さえつけて無理やり犯す妄想だって、もうすり切れるくらい繰り返した。足りない。全然足りない。
遊ぶときは映画を見たり飲みに行ったり、だらだらと時間を一緒に過ごした。家の中でどれほどひどい妄想で彼のことを弄んでいても、態度にはまったく出さなかった。
隣で彼が笑って楽しそうにしてくれたら、それだけでよかった。
「んでさ、そんときウケんだよ、竹本が喉に詰まらせてさ」
今日も彼は、友人との話をしていた。そういうときの彼は饒舌だ。
いっそのこと、閉じ込めてしまいたい、と思う。監禁してどこにも出られないようにして、誰とも話せないようにしたら、彼の世界は自分だけになる。
「ていうかこれうまくね? おかわりしよ」
彼の視界にうつるのは自分だけになる。
「食い過ぎじゃないか」
「別にいいだろ、俺が払うし。あーでも、金ないんだった。ていうかバイトもう行かなくてよくなった」
「なんで」
そうなったらどれだけいいだろう。
「なんかさー、信じらんねぇんだけど。マジ、クビとかある?」
「いや、普通はないような」
「だろ? ほんとありえねぇよ」
もうバイトなんてしなくてもいい。つまらない大学に行かなくてもいい。心の中だけで彼に語りかけて、仁田見はわずかに微笑む。
もちろん、実行するつもりはない。自分はそこまで踏み込めるような人間じゃない。結局のところ、父の言うことにも従うだろう。真面目に授業に出て、関連会社に就職するだろう。
自由になるのは妄想の世界だけだ。
「……何だよ」
さすがに見つめすぎていたのか、市谷が居心地悪そうに目をやって言う。
「やっぱうまそうだな、それ」
「言ってんだろ、うまいって」
今はこんなだらだらした時間が続けば、それだけでいい。これはモラトリアムだ。大学時代はまだ、時間が自由になって、将来のことは考えなくてもいい余裕がある。この時間が引き延ばされて、いつまでも続けばいい。
――時間なんて止まればいい。
そして仁田見は狭い部屋の中で目覚めた。
わけのわからない、脱出のための条件を課されて。戸惑ったけれど、どうせ夢なのだろうと思った。
夢ならばもうどうなってもいい。
どうなってもいいから、だから、セックスなんてしたくなかった。
多少、片思いに疲れてやけくそになっているところもあったのかもしれない。市谷があそこまではっきりと、「好きなんだろ」と言ってくるとは思わなかった。
――そうだよ。
お前が気づくずっと前からそうだった。そんなこと、知られなくても別によかったのに。
――図星を指して、痛いところを突いて楽しいか。
このまま一生部屋の中で二人きりで過ごす。それは理想的なことのように感じられた。
〝なんで出られんないんだよ、畜生〟
狭い部屋は、不思議な空間だった。もっと息が詰まるかと思ったのに、不思議と仁田見は落ち着いていた。欲望に駆られて市谷を押し倒すようなこともなかった。
これは僥倖だ。
もちろん年頃の健全な男として、セックスはしたい。そのことは否定しない。やろうと思えば、彼を押し倒して犯すことはすぐにできる。
でも同時に、セックスくらいでふいにしてしまうには、この環境は惜しかった。
ずっと剣道に打ち込んできたせいなのだろうか。仁田見は自分をコントロールするのは得意だった。
でも、他人はどうにもできない。世の中は、コントロールできない要素で溢れている。
この部屋の中は違う。手を伸ばせば届く場所に市谷がいる。目をやればすぐに彼が視界に入る。どこにも行くことはない。出られない。
二人きりだ。
……それならどうして、ここを出る必要があるのだろう。
市谷が妙な挑発をしてきて、理性を失うまでは、本当にそのつもりだった。
セックスなんてどうでもいい。自分にはもっと大事なことがある。そのためなら、自分の性欲くらいコントロールできると思っていたのだ。
・
白いまどろみが広がっている。海のような、もやもやした白いものがどこまでも広がっている。
人の夢はつながっていると聞いたことがある。これが夢の世界なのだとしたら、どこかに仁田見もいるのだろうか。
「仁田見」
勝手に一人でいなくなりやがって。
白い世界は、どこまでも広くて果てがなかった。今はどうしているかわからない父や、母もどこかにいるのだろうか。白いもやは時折、人のような形を取る。それは誰か知り合いに似ているような気がした。
「あ、鈴木?」
だけど声をかけると、それは人の形を失って崩れてしまう。
「なぁ、おい、誰か」
俺は霧のような白いもやの中を、ただ一人でさまよっていた。俺の独り言の他には声はしない。
「父さん」
もやが父の形を作る。表情なんてないただの白い人影だけれど、笑っているのがわかる。
「何なんだよ……」
俺は父に対して、悪い思い出はない。家にいないのが当たり前だったし、別に俺は気にしなかった。
たまに遊びに連れて行ってくれると、楽しいところばかりでわくわくした。バーのような、大人びた場所に連れて行かれたこともある。
俺はまだ小学生だったけれど、きれいなお姉さんとダーツをして楽しかった。父は酒を飲んでたくさんの人と仲良くしていた。
母は、父の浮気で随分苦しんでいた。なんとなくわかっていたけれど、でもどうせ、母は許すんだろうなと思っていた。結局、何も変わらずに日々は続いていくのだ。
そう思った矢先の離婚だった。
「どこいんだよ、今」
俺の声は思った以上に不機嫌だった。俺はどこかで、父みたいになりたいと思っていたのかもしれない。
誰か特定の人に縛られるんじゃなくて、気ままに過ごしたいと。
きっと今も彼は、どこかで女の人と楽しく暮らしているのだろう。
「たまには帰ってきたら」
それが父ではないと、薄々わかっていながら俺は話し続けた。
「……ババアも待ってるし」
外に出たい、と強く思った。大学に行くようにと言ったのは母だった。母は高卒で、だからまともな職につけないのだとよく愚痴を言っていた。
それだけが理由じゃないと俺は思うけれど、でも俺にはどうしても大学を出て欲しかったらしい。
俺は通っていた高校ではかなりバカな方で、あんまり勉強もしていなかったから合格はかろうじてだった。そんなのでも母は喜んでいた。
でも、結局俺はろくに学校に通っていない。無事に卒業できるかも怪しい。
「仁田見、俺、外に出ないと」
俺はたぶん、怖かった。
仁田見の家族はきっとまっとうな人たちだろう。厳格な父、優しい母、そういう絵に描いたようなちゃんとした人たちの前に出て、あざ笑われるのが怖かった。
俺が仁田見の親だとしても、俺と付き合うのなんてやめさせたくなると思う。そんな苦難に自ら飛び込んでいくつもりなんてない。
仁田見はきっとそのうちに俺を見放す。だったら早いうちにそうされた方が良い。そう思っていた。
でも結局気持ちは簡単じゃない。体に気持ちが引きずられたりもするし、逆もある。俺はあいつとセックスしすぎたんだと思う。それが当たり前になっていた。彼がそばにいることが。
「なぁ、仁田見」
一人ではセックスができない。
二人じゃないと、できない。
「お前が必要なんだよ」
白いもやの向こうに、ちゃんとした人影が見えた気がした。今度こそ、幻じゃないちゃんとした人間だ。そう見えた。
「仁田見」
かすかに、笑い声のようなものが聞こえる。
仁田見は箱を持っている。声はその箱の中から聞こえるみたいだった。
気がつくと俺は幽霊みたいに、仁田見の背後から、彼の様子を見ていた。仁田見は俺に気づかない。
仁田見の持っている箱の中に、小さな俺がいる。
――ハムスターみたいだ。
白い部屋の中で、小さな俺は戸惑ったり困ったりしながら、ご飯を食べたり眠ったりしている。
――こいつ、俺の飼い主のつもりかよ。
いつからだろう。仁田見が俺のことを好きなことは知っていた。
でもだからといって、一緒に遊ぶのが嫌だとかそういう気持ちもなかった。ただ単に、付き合うことなんてないと思っていただけだ。実害がなければ、別にどうだってよかった。
今となってはずいぶん昔のことに感じられた。
「自由にしてやれよ」
さすがに、仁田見があの部屋を用意したとは思えない。あれは、もっと人の力ではどうにもならないものだった。時間を止めるのは人間では無理だ。
「自由?」
仁田見が顔を上げる。
「そんなの」
不安げな彼の目を見て、俺は急にわかった気がした。
俺が出られないのは本当は、部屋じゃない。
「出してやれよ、大丈夫だから」
檻があろうがなかろうが同じだ。もどかしかった。今の俺にちゃんと身体があれば、もっとはっきり仁田見の前に立って言えるのに。
部屋なら出れる。それは所詮、身体を閉じ込められただけの場所だから。でも。
――この世のどこにいったって、俺はもう出られない。
ふっと、視界が反転する。急激に身体が放り出されるような気がして、ぎゅっと強く目をつむった。全身の血が入れ替わるような、ぞっとする感覚があった。急に重力が復活したみたいに重さを感じる。
――落ちる。
視界が暗くなる。白いもやがさあっと散っていって、あとには暗闇だけが残った。
静かだった。
気がついたときには俺はベッドに寝ていた。
「……あ、れ?」
恐る恐るあたりを見渡す。またかと思った。さっきまで見ていたのは夢で、俺はまだ白い部屋に閉じ込められているのだろうか。
だが、目に光がうつる。カーテンがあって、そこから日差しが斜めに差してきている。
仁田見の部屋だ。俺が寝ているのは、ちゃんとしたベッドだった。シーツも枕もある。壁は白いけど、本棚も机もある。その上には見慣れた俺の携帯があった。戻ってこれたのだ。
だが一体、俺はいつからあの部屋にいたのだろう。いつも現実では時間が進んでいない。ええと、仁田見の家に来たのはいつだったか……長く寝過ぎたときみたいに記憶は曖昧だった。一体どこかがら夢だったのだろう。
そしてふと自分の身体を見ると、全裸だった。
「うわっ」
あの部屋に入ってしまう直前、俺は何をしていただろうか。何って、裸ということは、何なんだろうけれど。
仁田見の姿はない、と思ったら部屋のドアが開いた。俺は思わず叫びそうになった。でもなぜか声がかれていた。
「なん、で、俺、一人」
「大丈夫か?」
仁田見は怖いくらい、普段通りだった。真面目そうな顔立ち、染めてない髪。仁田見が手にしていたのは、コップに入った水だった。俺は奪うようにそれを持って飲み干す。
「悪い夢でも見た?」
ちゃんと仁田見がいる。もう二度と、あの部屋から出られないかと思ったのに。そう感じただけで、安堵で全身が溶けていってしまいそうだった。
コップを仁田見に返し、俺は彼に縋り付く。
「どうかした?」
仁田見の声が優しくてほっとする。
ちゃんと彼が実在しているのか確かめたかった。俺は仁田見の腕を辿り、それからぺたぺたと彼の顔に触れる。意外と鼻が高い。俺より確実にいい男なところがむかつく。でも触れた感触は確かに現実だ。
もしこれもすべて夢だとなったら、俺はどうしたらいいのだろう。
「やめろよ……ほんと……」
「市谷?」
気がつくと、俺は涙をぼろぼろこぼしていた。一人では俺は何もできない。セックスさえも。
仁田見とどんな言い争いをしようと、険悪になろうと、一人きりで閉じ込められるよりいい。
ここに仁田見がいる。この世のどんなことよりも、一人きりにされるよりはましだ。
「俺を一人にするなよ」
仁田見が俺の頭をなだめるように撫でる。俺はいつからここにいるんだろう。いつまでいるんだろう。わからない。でもいい。仁田見がいるからいい。
顔を上げるとキスをされた。優しい、挨拶みたいな軽いキス。でもじんと心臓に染みるようだった。ここに仁田見がいるから、こうしてキスもできる。当たり前のようにこうして彼がいることが嬉しい。
「起きる?」
「……ん」
俺は子供のように、仁田見に頭を預けて甘えた。こんなときくらいは、まぁいいだろう。
まだ頭が現実に戻ってこない。今日は授業があっただろうか。まぁそんなことはどっちだっていい。ここに仁田見がいるから他のことは別にいい。
布団の中は温かくて、このままいつまででもいたかった。
「もうちょっと」
仁田見は俺の髪を撫で続けていた。
「なぁ、舐めてやろうか」
サービスのつもりで言ったのに、仁田見は別に喜ばなかった。
「何朝からムラムラしてるんだよ。朝立ちした?」
「ちげぇよ」
俺は仁田見に襲いかかる。ベッドに押さえつけて、寝間着代わりのTシャツをたくし上げる。仁田見は一体何が起きるのかと、観察するように俺を見ている。
「どうしたんだよ、ほんとに。何かあった?」
「ちょっとな」
それ以上説明するのは面倒だったので、俺は仁田見の口を塞ぐ。
部屋から出るためでも、何をどうするためでもない。ただ俺がしたくて、そうするだけのセックス。それはやっぱり、気持ちがよかった。一人で抜くのももちろん気持ちいいけど、それとこれとは違う。
どろどろに溶けそうなほど絡まり合って、境界線もわからなくなりそうなくらい深くまでをさらし合う。それでもあくまで俺たちは二人だ。でもだからこそ気持ちがいい。
朝とは思えないくらい、俺たちは激しく交わり合って、もうへとへとだった。
今日はもう布団から出なくてもいいかな、と思う。でも昼に近い外の日差しは、まぶしくて強かった。
「もうちょっと休んだら、どっか行くか」
隣りに横たわる仁田見の顔を見ながら、俺は言う。
二人きりで閉じこもるのもいいけれど、ちゃんと仁田見の部屋には「外」がある。ここは夢の中じゃない。
せっかくだから散歩でもしてから、おいしいものを食べたい。
「なんかきれいなもんでも見て、うまいもんでも食って」
「デートみたいだな」
仁田見は真顔だったので、それが冗談なのかどうか俺ははかりかねて、思わず笑った。
「当たり前だろ、デートだよ」
・
いい加減、授業をさぼりまくっていることが母にバレて、留年するなら学費の援助はしないと言われた。それならやめてもよかったのだけれど、せっかく大学三年にまでなったのだから卒業までもう少しだ。
仁田見にも、大学をやめるのは簡単だけれど、折り返しも過ぎたのだからもうちょっと頑張ったらどうかと言われた。
悔しいけれど正論だ。仕方なく、俺はまた大学に通い出した。
それから俺は、仁田見の親父にも会った。
「やべぇ、俺どんな服着たらいいんだよ」
「普通でいいよ」
「手土産!? うわーどうすんだよ」
あくまで友人として、という体だ。俺はただ友人として仁田見の家に遊びに行くだけ。
――俺の人生、これで本当にいいんだろうか。
わからなかったけれど、でも今のところ仁田見と別れるということは考えられなかったので、仕方がなかった。
「どうぞ、いらっしゃい」
「おじゃましまーす」
仁田見の家は、意外と平凡だった。ものすごいお屋敷かと思いきや、ちょっと広いとはいえ普通の一軒屋だった。これなら俺の従兄弟の家と同じくらいだ。
一体どんな扱いをされるのかと思ったけれど、叱られたり殴られたり、とにかくそういうひどい目に遭うことはなかった。
「友達が来るなんて珍しいな」
「あ、これ大したもんじゃないんですけど、うまいって評判なんですよ、どうぞどうぞ」
俺は手汗で湿った紙袋を押しつけるように渡す。
仁田見の親父さんは、堅苦しそうだけれど、真面目なちゃんとした人という印象だった。息子をお願いしますとでも言われたらどうしようかと思ったけれど、さすがにそこまでのことは言われなかった。別荘を汚した件で、怒られたりするんじゃないかと思ったけれど、そんなこともなかった。
何だか知らないけれど、四人で食卓を囲んだ。俺は緊張して、普段よりかえって喋りまくってしまった。仁田見なんかはほとんど喋らない。勘弁しろよと思った。
仁田見のお袋さんが、庭から見える樹がドウダンツツジで五月にはきれいな花を咲かせると言っていたので、俺は思わず口にしていた。
「それ見たいですね」
ぜひ、と仁田見のお袋さんが言う。
そのとき親父さんは、小さく頷いただけだった。もちろん、俺はあくまで仁田見の友人だ。それ以上の意味はない。でも、拍子抜けするくらいにいい家族だった。
家を出た後、仁田見は緊張した、と言ってしばらくうずくまっていた。子供っぽい仁田見を見ていると、俺は自然と笑えてきてしまう。
俺と仁田見は大学四年生になる。
恋人とは紹介しなかったんだから、俺の影響ではないはずだが、結局、仁田見は父親の会社には就職しないらしい。
他の会社で修行して、もしかしたら最終的には父親の後を継ぐかも知れない。でも、継がないかもしれない。中途半端なようだけれど、それで父親の了承を得たらしい。俺も、学校の先生の推薦もあって、福祉関係の法人に就職することになった。
働くのなんてうんざりだが、仕方がない。
最近、一緒に住まないかと言われた。
もともとお互いの家に入り浸っていたから、別にそのこと自体に抵抗はなかった。でもそうしたらさすがに友人にも何か言ったりする必要が出てくるかもしれない。
ルームシェアという以上のことを言うつもりはないけれど、でも怪しまれたり感づかれたり、更にはこちらから説明する日も、いつか来るかもしれない。まだそこまで俺は考えられないけれど。
「竹本とかと、最近会ってる?」
仁田見の実家から帰る途中、ふいに聞かれてどきりとした。竹本は高校の同級生で、仁田見とも共通の友人だ。だから隠す必要などないはずだったが、なぜか仁田見はやたらと竹本を意識していた。
「あー、最近会ってないな」
嘘だった。
仁田見はやたら、竹本の話題には敏感だ。面倒なので言わなかったが、この間竹本とは二人きりで朝まで飲んだ。
もちろん、竹本とは友人だ。ただ単に、気心の知れた相手と飲むのが楽しく朝までになってしまっただけだ。
「鈴木が竹本と飲んだって言ってたけど」
その日は仁田見と約束もしていなかったし、普通に自分の家に帰ったから、仁田見が知っているはずはない。
「へー、俺は行ってないな」
でも俺はつい、隠してしまう。
――別に何もないんだからいいだろ。
竹本は彼女に振られたばかりで、一緒に旅行に行かないかと誘われた。そんなことは初めてだったけれど、彼も彼なりに傷を癒やそうと必死らしい。
さすがに旅行となると、仁田見に隠しきれないかもしれない。でも竹本は友達だし、助けになってやりたい。だから俺は、二人で温泉に行く約束をした。
少し後ろめたいけれど、でも浮気ではない。断じて違うのだから問題はない。
「仁田見こそ大学の友達とかと飲んだりしてんの?」
「たまに」
「へー」
俺は大して興味のない反応しかできなかった。実際、別に仁田見にどれだけ友人がいようが、親しくしようが俺は気にならない。
それは仁田見のことを好きじゃないからではないのだけれど。
――だって、どうせ仁田見は俺のことが好きだ。
「今日、ありがとうな」
仁田見はぼそりと言った。
「お前が来てくれるとは思わなかった」
「何だよ」
「だって嫌だろ、こういうの。面倒とか思ってそうだし」
確かにそれは図星だ。というか、誰だって相手の親なんてできれば会いたくないだろう。
「いや、俺も別荘散らかしたし……」
今となってははるか遠い昔のことみたいだ。別荘に遊びに行った時も、仁田見と話した記憶はほとんどない。それが、今はほとんど毎日顔をつきあわせている。
どうしてこうなったのか。仁田見の意地とか執念だろうか。
「まだあるのか? あの別荘」
「あるよ。行きたかったら、借りられると思う」
「へー、いいじゃん」
今になってわかるけれど、かなり金のかかったいい別荘だった。
「みんなで行くか?」
久しぶりに高校の友人たちを誘うのも楽しそうだと思って俺は口にした。だが仁田見は不機嫌そうに口をつぐんで、少し早足になる。
「冗談だよ。二人で、な」
仁田見はひねくれているようで、意外とわかりやすい。基本的に素直で純情なのだ。この間も、デートと称して遊園地に出かけたら、意外とはしゃいでいた。そういうところを、俺はつい可愛いと思うようになってしまっている。
拗ねた横顔を見て俺は笑った。
かつては電車で、騒ぎながらみんなで向かった別荘に、俺たちは二人きりで向かう。いつの間にか免許を取ったらしい仁田見が運転してくれた。
「飯どうする? バーベキューさすがに二人ですんのもな」
「ピザでも頼めばいいんじゃないか」
窓の外を流れる山々を眺めながら、俺はぼんやりと思う。
あのとき、一人で出られない部屋に残されたのは、たぶん夢だったのだろう。
目覚めたと思ったらまだ夢の中だった、ということだ。あの特殊な空間じゃなくて、普通の悪夢だ。
夢は不思議だ。俺の脳みそが作ったもののはずなのに、全然そんな感じがしない。
あれは正真正銘の悪夢だった。
本当に、出れてよかった。目が覚めてまた白い部屋で、そこからまた目が覚めて白い部屋で……なんて繰り返しになったら、俺の精神はもたない。でも、あの夢に出てきた仁田見と箱の中の俺は不気味だった。何か、あれに似たものを見たことがある気がする。何だっただろう……。
慣れない考え事をしたせいか、俺はいつの間にか眠ってしまっていた。車の振動がちょうど眠気を誘う。何か仁田見に聞かれた気がする。でも、すっかり眠りにつきつつあった俺は生返事しか返せなかった。
まどろみはいつも白い。ぬるく柔く、俺を包んでいる。心地よくて、ずっと眠っていたくなる。
俺は気がつくと、狭い部屋の中にいた。
白い……狭い部屋だ。ひゅんと心臓が縮むような気がする。
「え?」
狭い部屋、申し訳程度のついたてとトイレ。もう見慣れてしまった。
だがまた閉じ込められるにしても、さすがにスパンが早すぎないだろうか。仁田見との関係だって悪くない。なんでまた。俺は軽いパニック状態だった。
「仁田見?」
しかも部屋の中に、仁田見の姿は見えなかった。
全身がきゅっと縮こまるような恐怖を感じる。
「おい、何だよ、いんのかよ!」
どうしてまた、ここに来てしまったのだろうか。まだ夢から戻りきれていないのか、頭がぼんやりする。
でも、何か変だ。肌寒くて足下を見ると、毛布がかけられている。あの部屋にはこんなものなかった。
「仁田見……?」
部屋の中に、仁田見の姿は見当たらない。しんと静かだった。
あの出られない部屋の構造とすべては同じだ。でも、どこか違和感がある。じめじめした湿度、低い気温。空調は入っているけれど、空気が違う。
「おい、仁田見、いんのかよ」
俺の声は情けなくも震えていた。よく見ると、壁の白さも少し違う。わずかに波打つような模様がある。違う。あの部屋じゃない。
俺は壁に駆け寄り、思い切り叩いた。叩いた感じの音も、あの部屋とは違っていた。
「仁田見!」
これは夢なんだろうか。俺はまだ、悪夢の続きにいるのか。どこまでいっても、俺は悪夢にとらわれ続けるのだろうか。
「別に隠すことはないのに」
振り向いた俺の背後に、いつの間にか仁田見がいた。いったいどこから現れたのだろう。どこかに隠し扉があるのだろうか。
「仁田見……てめぇ」
仁田見は冷静だった。俺にみたいにパニックになってはいない。
だからわかった。ここは、「あの部屋」じゃない。とてもよく似ているけれど、違う。 ここはただの現実だ。
〝こんな部屋があったらいいのかもな〟
〝閉じ込めて、出られないようにして……〟
「竹本と会ってたこと、どうして隠した?」
まさか、急にそんなことを聞かれるとは思わず俺は狼狽してしまう。
「朝まで飲んだって? いいね。温泉なんて、俺とは行ったことないのに」
「だ、れにそれ聞いたんだよ……!」
「さぁ、この部屋を出るための条件は何だと思う?」
仁田見は笑って、鍵を見せつけた。
「ここ、別荘なのか? ほんとに、部屋を作ったのかよ」
あの部屋は狂っていた。でもちゃんと出るためのルールがあった。
だけどこの部屋のルールは仁田見が決めるのだろう。セックスをしたって、出してもらえるとは限らない。
あるいはしなくたって。こいつの発想はおかしいのだ。そもそも最初からそうだった。
〝この部屋にはお前がいる。それ以外に何がいるんだ?〟
俺はポケットに入っていた携帯を取り出す。案の定、圏外だった。
「通じないよ。ここは地下だから」
「いや、お前、頭おかしいだろ……」
俺はこの別荘に来ることを、誰にも話していない。仁田見との付き合いのことは隠していた。竹本にも鈴木にも、誰にも言っていない。
「何でもいいよ。記憶を元に作ってもらったにしては、よくできてるだろ?」
俺が大学をさぼっていても、誰も心配はしない。普段からそうだったから。
「夢、そうだ、これ、夢だよな!?」
「そう考えたいならそれでもいいよ」
仁田見の口調は妙に優しかった。背筋に冷や汗が流れる。
数日俺と連絡が取れないくらいで、竹本をはじめとする友人たちは慌てたりしないだろう。母ともそれほど密には連絡を取っていない。時間の流れるこの部屋から、一体俺は何日かけたら出られるのだろう。
「何回目かな。まぁいいや。今度こそ、この部屋から出ない。お前は失恋した竹本を慰めないし、二人きりで旅行に行ったりしない」
俺は遠い、高校時代のことを思い出す。別荘で飲んで笑って過ごして、そのとき、ほとんど仁田見とは話さなかった。ただ彼は、少し遠くから、俺たちをじっと見ていた。
白い、小さな箱。ハムスターのような小さな俺。
――俺が出られないのは本当は、部屋じゃない。
「今度こそずっと、二人きりだ。永遠に」
仁田見は楽しそうに笑って鍵を握りしめる。
狭く白い部屋。無力な俺。セックスしてもしなくても、これが夢でも夢じゃなくても、俺はきっと、どうしたって出られない。
――もう仁田見に、捕まってしまったのだから。