しかし君、恋は罪悪ですよ。解っていますか
夏目漱石『こころ』
1
「……誰だ?」
学生が急に研究室に入ってくることは珍しくない。指導をして欲しいとか、単位をくれとか、用件は様々だ。たいがいろくなことではない。
「用があるならアポを取ってくれ」
「アポ?」
尋ねる声に振り向くと、驚くほど整った顔立ちの男が立っていた。がちゃりと彼の背後でドアが閉まる。
背が高い。端正な顔立ちだが精悍で、女性らしい印象はない。体つきが良いせいもあるだろう。半袖のシャツを着ているため、しっかりと筋肉のついた腕が見えた。
――モテるだろうな。
きっと順風満帆な、恵まれた人生を送ってきたのだろう。ついそんな風に考えてしまう。それくらい、彼の佇まいには欠点がなかった。
「用件は」
五井は冷たく尋ねる。
こんな生徒が自分の授業にいただろうか。少人数のゼミならさすがにわかるだろうが、大教室での教養科目となると、一人ひとりの顔までは覚えていない。目立ちそうなものだが、記憶にはなかった。
「先生って昔、小学校の教師をしてたって本当ですか」
耳に心地良い、低い声だった。
彼は数歩、五井の方に近づいてくる。研究室は、周囲を作り付けの本棚で囲まれている。中央には数人で囲むことができるテーブル、それから窓際に五井が今向かっているデスクがある。それでぎゅうぎゅうの狭い部屋だった。
「ああ」
経歴は別に隠していることではない。
「俺今進路のことで悩んでて、ちょっと相談に乗って欲しいんです」
彼はテーブルの上に載っていた、昼の残りの栄養補助食品をつまみ上げる。そんなものが珍しいわけでもないだろうに。
「今は忙しい」
五井は、自分のデスクに向き直った。ゼミの生徒だけでも手一杯だ。どこの誰だかわからない相手に割く時間はなかった。
「教職の授業とりあえず取ってるんですけど、実際それで教師になるかって言ったらどうかなとも思うんですよね」
「出て行けと言ってる」
五井が冷たく言い放ったのにもかかわらず、男は表情ひとつ変えなかった。
おそらく二十歳前後だろう。年中コンパだの何だの大騒ぎをしている大学生の群れの中にいたら、きっと掃いて捨てるほどモテるはずだ。
「先生は、なんで小学校をやめたんですか?」
「……聞こえなかったのか?」
五井の授業は、厳しいことで知られている。教養科目でも、そのレベルに達していないと思ったら容赦なく単位を落とす。たびたび生徒を晒し者にする授業は、公開処刑だと言われていた。
「え? 俺の言葉、聞こえなかったですか?」
恐ろしく鈍い男なのかとも思った。だがおそらく、わかっていてやっているのだろう。
五井はわざとらしくため息をついた。
「研究がしたかったからだよ」
振り向かずにデスク上のパソコンを見たまま答える。
小学校に勤めていたのは三年ほどだった。大学院に入り直して、コネを頼ってなんとか助手になり、それから今の准教授の職を得た。
今でも小学校は懐かしい場所だ。でも近寄ろうとは思わなかった。
「楽しかったですか?」
この男はきっと、自分が聞きたいことを聞き出すまでいつまでも居座るつもりだろう。
「ああ、そうだな」
おざなりに五井は答える。
「じゃあ今はなんで大学生を教えたりしてるんですか」
「だから研究がしたかったからだと言ってるだろう」
「だって大学生は守備範囲じゃないですよね」
とっさに五井は振り向いてしまった。
男は先ほどと変わらない、愛想の良さそうな顔をしていた。だが五井の頭は、鋭い警戒音を発していた。
「お前は……誰だ」
彼は部屋の中央にあるテーブルに、無造作に腰かけた。長い足をまるでみせびらかすかのように組む。
「わからないんですか?」
楽しそうに、笑いながら彼は言った。これほどの外見の男なら目立つはずだ。
だがまるで思い当たらなかった。大学内でないのかもしれない。だが、今はほとんど家と大学の往復しかしていない。
「小学校教師って天職だったんじゃないかなぁ」
男は無造作に、テーブルの上に置いてあった人形をつまみ上げた。五センチほどの熊の人形だった。ゼミの生徒が土産だと言って持ってきたものだ。
「本当にわからないんだ、どこかで会ったか?」
動揺を押し隠して、少しばかり下手に出て五井は尋ねる。
適当なことを言っているだけかもしれない。そうに違いない。だって知るはずがない。
誰にも迷惑はかけていない。空想の中なら誰だって自由だ。
「わからない? 本当に?」
無邪気にも見える顔で男が小首をかしげる。かすかに記憶の底がうずいた。
……罪は、一度だけ犯した。
「まさか……」
彼はもっとずっと小柄だった。高い天使のような声をしていた。男らしさや女性らしさとは無縁の、性別のない天上の存在。
思わず五井は立ち上がる。机に足をぶつけたがそんなことはもう気にならなかった。
「痛かったなぁ……」
男は指先で熊の人形を弄ぶ。節くれだって長い指だった。
「嫌だって、やめてくれって何度も言ったのに」
面影はある。だが別人としか思えなかった。
身長は今の半分もなかったように思う。腕の細さだって、多分半分ぐらいだった。偏食がひどくていつも心配だった。
「嘘だ」
かろうじて声になったのはそれだけだった。
「あいつから何か吹き込まれたのか、そうなんだろう」
彼の兄と言うならまだわかる。
この世の奇跡を集めたような、芸術品みたいな美しい少年だった。大勢の子どもの中にいても、ひとりだけいつも浮いていた。そのくらい、他とは違っていた。
いつも間違ってそこにいるような、困った顔をしていた。
彼は美しく、弱かった。無神経な生徒たちからは、からかいの対象にされていた。いじめというほどじゃない。だけど、明らかに悪意のあるからかいだった。
その先頭にいたのは、男子生徒よりむしろ女子生徒たちだった。ませている生徒だってもちろんいた。だけど誰も、彼に好意を示したりはしなかった。
行き過ぎた美しさはそれだけで異物だ。
「そうだ、先生、結婚したって本当ですか」
男は軽く笑った。
「女性とセックスとかできるんですか?」
下卑た笑い声だった。まるであの頃の彼とは似ても似つかない。
冷や汗が背中をつたっていくのがわかる。
研究室はそう広くない。ドアも一箇所だけだ。そして五井とドアのちょうど間に、彼は立っている。
五井のそばには、携帯電話もパソコンもある。だが誰に何と連絡すればいいのか。警備員を呼ぶか。
「聞いてんだよ」
何かが飛んできて、五井は思わず身をこわばらせた。
「ひっ」
熊の人形だった。それは五井の背後にあるパソコンの画面に当たり、かつんと軽い音を立てた。
男は笑っていた。美形だからか、妙な迫力がある。
「ねぇ、勃つんですか?」
「君が何のことを言っているのかわからない」
「もしかして証拠はないんだからって思ってます?」
男は長い足で、がんと五井が座っている椅子を蹴る。
「ありますよ、決定的な証拠」
きっと口からでまかせだ。
「先生、どうしたんですか? 久しぶりに会ったんだからもっと話しましょうよ」
「お前なんて知らない」
あの天使にはもう二度と会えない。
自分よりも背が高い、生気に溢れた若い男なんて、狭い部屋にいるだけで吐き気がする。半袖を着た彼の腕に、毛が生えているのを見て五井は思わず目をそらす。
「知らないんだよ……!」
五井が好きなのは無垢な子供だ。
性別を感じさせない、天使みたいな、まだ第二次性徴期を迎える前の幼い子供だけだ。
それが許されない性癖だともわかっている。だから押し込めた。空想の中なら自由だ。罪は犯していない……ただ一度を除いて。
「俺に会えて嬉しくないんですか?」
冗談を言っているのかと思った。だが男はそのときに限って、笑っていなかった。
「先生」
じっと、底知れない目が五井を見ていた。その目には確かに見覚えがある。わずかに茶色がかった黒い瞳。
わかっている。覚えている。あんなことをするつもりはなかった。見ているだけだと自分に課していた。
手を伸ばすつもりなんてなかった。
彼が、一人ぼっちだったから。
自分を慕ってきたから。
先生だけが好きだと、ずっと好きだと、溺れる人がそうするようにすがってきたから。
だから。
「ご、合意だった……」
がんと鈍い衝撃があったとき、とっさには何が起きたのかよくわからなかった。
頬と後頭部が同時に痛む。ぐらりと視界が揺れて、五井は床に倒れていた。殴られ、頭をパソコンに打ち付けたらしい。そう気づいたときには、足で彼に踏みつけにされていた。
「クソだな」
はるか上から彼が見下ろしている。逆光でその顔は暗く見える。
「それに……! 最後まではできなかったんだからあれは……!」
革靴で腹を蹴りつけられる。彼はそれほど力を込めているようでもなかった。だけど、吐きそうなくらい痛かった。
「このロリコン」
言い訳なんてできなかった。他の誰かになら何とでも言える。だけど彼にだけは、できない。
同好の士はたくさん見つかる。だけどその中でも、五井の好みは狭かった。
かわいらしい女の子はたいてい、ちゃんと自分の価値を知っている。幼くてもどこか、女くさい。そういう子どもは五井の趣味ではなかった。女らしくも、男らしくもない天使が理想だった。
あのときの彼は、奇跡的にそうだった。
「君が……」
あまりにも、かわいらしく美しく、理想だった。
ぐったりと全身から力が抜けていく。だが、下半身が空気に触れるひやりとする感覚ではっと我にかえる。
「な、にして……」
ベルトが引き抜かれる。抵抗しようとした腕は、既に手錠でテーブルの脚に繋がれていた。最初からそのつもりで用意をしてきたのだろう。腕を動かそうとしても、がたがたテーブルが揺れるばかりで自由にならない。
ズボンが下着ごとずり下ろされる。自分の研究室の中で、こんなみっともない姿になるのはごめんだ。彼は部屋に鍵などかけなかったはずだ。
「やめ……」
「汚いな……」
男は無感動に、五井を見下ろしていた。五井のズボンは中途半端に足先に引っかかっていた。急所を守るように身体を丸める五井を許さず、彼は再び腹を蹴った。
「ぐ……っ」
昼食をろくに食べなかったのが、不幸中の幸いだった。かろうじて吐くのをこらえ、五井は痛みに耐える。こんな風に、殴られたり蹴られたりするのは五井にとって生まれて初めてのことだった。
外気に性器がさらされている。それに、冷たいものが触れた。
革靴だった。
「やめ……」
踏み潰されるかと思った。
彼は靴の先で、くったりとやわらかいままの性器をつつく。彼の目は、まるで虫か何かを見るみたいに、冷たくそれを観察していた。
「やめて……くれ」
「奥さんとはどうやってるんですか?」
そう言って彼は、携帯電話を取り出した。ぴろんと間抜けな音をさせて写真を撮る。
「ねぇ、聞いてますよね」
彼がぐっと、足先に力を込めたのがわかった。反射的に身体がすくむ。頭の中が真っ白だった。
「何を……」
「だから、何回言わせるんですか? セックスですよ」
「ちゃんと、してる、うまくいってるんだ、だから」
結婚相手は誰でもよかった。小学校をやめた時点で、諦めはついていた。紹介されて付き合って結婚した。波風のない、平和な生活だった。
「だから……」
「何?」
「金か? 金がほしいのか?」
五井の給料などたかがしれている。共著での著作もあるが、学会で出している本で、ほとんど売れてはいなかった。だが一応貯金がないわけではない。
成長したといっても、彼はまだ若い。何かと金が要りようなことは確かだろう。
「二十万……いや、二十五万」
「は?」
「足りないのか?」
彼が更に足先に力を込める。
「いた……いたた、や、やめ」
本気で踏み潰されると思った。全身からどっと嫌な汗が噴き出す。この男はネジが外れている。何をされるかわからない。
「わかった、五十万」
べちゃ、と顔に嫌な感触があった。唾を吐かれたのだ。
彼はむしろ静かな表情をしていた。こんなときでさえその顔は完璧なほど整っている――だが、五井の心には何も響かない。むしろかすかな嫌悪感だけがある。
成人した男がどれほど美しかろうと格好がよかろうと、興味は持てない。心の底から惹かれるのは、幼い子供だけだ。五井自身にも、それはどうしようもないことだった。
「気が変わった」
男はそう言って、自分のベルトに手をかけた。一瞬で血の気が引いた。
「や、め……」
叫び出したい気持ちだった。自力ではどうにもならない。でも、彼がもし本当に「証拠」を持っているのだとしたら。
――終わるのは俺の方だ。
はったりだろうとは思う。でも、本当である可能性も消せなかった。
「何を、考えて……やめるんだ」
彼はカバンから、ガムテープを取り出す。そうして五井の口に貼り付けた。顔をそむけようとしても無駄だった。彼の力は強く、無理やり首をひねられて、折れそうに痛い。
「んっ……」
息が苦しい。このまま死ぬのかもしれないと思った。
「俺、ゲイなのかな。いまだによくわかんないんですよね」
彼の表情は、楽しそうには見えなかった。むしろ、苦渋の決断をしたみたいな渋い顔をしていた。
「教えて下さいよ、先生」
いっそ目もテープで塞いでくれればよかった。涙がにじむ。床に顔が押し付けられても五井は、目をつむれなかった。
・
安い初任給で住むことができたのは、狭いアパートの二階だった。
ベランダもついておらず、西向きだったので夕方は日差しがきつかった。
彼は窓際が好きだった。
危惧はあった。その頃から小さな子供の誘拐事件なんていくらでもあったし、あまり特定の子供と親しくしすぎないように教頭から言われたこともあった。
何より、自分自身が怖かった。具体的に何かをするつもりがあったわけじゃない。ただそばで見ていられるだけでよかった。許されない感情であることは理解していたから。
「先生」
ワンルームの、狭い部屋だった。
彼はいつも窓際に座っていた。寒い日でも、日が落ちた後でも、窓を開けたがった。ゆるく風が彼の髪を揺らしていた。母親が切っているのか、いつも少し長めで、不揃いだった。
そんな髪型をしていても彼は美しかった。近所のスーパーの二階で売っている安いぺらぺらの服を着ていても。
彼のためなら何だってできた。好物を用意してやり、流行っていたゲームも買った。でも、彼はほとんど興味を示さず、窓の外を見てばかりいた。
これ以上はだめだと思って、もう来るなと言った。でも、彼が家の前に立っていたら入れざるをえなかった。
斜めに日が差していた。強い西日だった。
「僕、どうしたらいいかわからないんです」
困ったように、少しだけ首をかしげて彼は笑った。
「先生が好き」
痛みも続くと麻痺してくるのだと知った。
身体を揺さぶられるたび、狭い部屋の中ではあちこちに体がぶつかった。どさどさと机の上から本が落ちてくる。
「……こんなつもりじゃなかった」
もう何も考えられなかった。今日の授業をもう終えていたのは、よかったのかどうなのか。早く終わってくれとだけ願い続ける。
誰も研究室を、訪ねてきたりはしなかった。
「……ぅ」
涙ももう止まっていた。乾いた涙で目元がぱりぱりしている。顔は何度も床にこすられ、埃まみれになった。
抵抗する手段はない。五井はもう、ただ終わるのを待つしかなかった。
最初、五井の後ろはあまりにきつかったのか、彼のものはなかなか入らなかった。
何度か指で強引に広げられ、ようやく先っぽが入るが、そこからが長かった。あまりの痛みに、五井は身をよじって涙を流した。
「んん……!」
五井は自分をゲイだと思ったことはない。今までちゃんと関係を持ったのは、成人女性だけだ。今の妻ともうまくいっている。自分のそんなところを使った行為など、考えたこともなかった。
硬く張りつめたものが奥まで入ってくる。
無理矢理に狭い場所を広げられて、めりめりと裂ける感覚があった。強い痛みが走る。間違いなく血が出ている。だが、男は動きを止めたりしなかった。
早く終わってほしい。逃げられないならせめて。
やっと見つけた、それなりに安定した暮らしなのだ。こんな男に、めちゃくちゃにされたくはない。
「……あんたのせいだ」
男はたまに、ぶつぶつと何かを言っていた。だけど五井の耳にはほとんど入ってこなかった。
彼がどんなつもりかなんて、どうだっていい。
ただ痛みだけがあった。どうして。どうしてこんなことになったのか。
ただの一度だ。罪を犯したのはそれだけ。
自分の性的な嗜好は、二十歳を超えた頃には悟っていた。でも、合法の写真集しか持っていないし、買春だってしたことはない。東南アジア旅行に惹かれたこともあったけれど、結局実行はしなかった。自分はただの、善良な市民だ。
――でも、そのただの一度。
それを彼は、知っている。文字通り身をもって。
彼にだけは逆らえないのかもしれない。諦めのような気持ちが頭を覆っていく。
血が出て滑りがよくなったのだろう。彼の動きがスムーズになっていく。
押さえつけられ、貫かれ、深くまで開かれる。口は塞がれたままだったから、うめき声のような、声にならない声しか出なかった。彼は五井がどれだけ身を捩っても、抵抗しようとしても、やめなかった。
「ん……んっ」
自分がモノになってしまったみたいだった。ただ揺さぶられ、終わるのを待つ。
男の熱が身体の上にある。その力は強く、体重をかけられると潰されそうなほど重かった。あれだけ質量の小さかった身体が、どうやったらこれほど成長するのだろう。
信じられないくらい長く感じた。
実際にはたぶん、彼がこの部屋に入ってきてから三十分も経っていなかっただろう。
「はぁ……っ」
もうそこは感覚がなくて、よくわからなかった。だけど疲れたような彼のため息に、達したのだと悟った。たぶん中で出されたのだろう。遅れてじわりと奥が熱くなる。
彼が立ち上がり、身繕いをしている気配がする。だが、五井は起き上がれないままだった。
男は何も喋らなかった。かちゃかちゃとベルトを締めているらしい音がする。身体が重かった。
それからしばらくして、彼はしゃがみ込み、顔を覗き込んできた。
「大声を出したり、しませんね?」
彼の顔はぼんやりとにじんで見える。五井はかろうじて頷いた。
そうすると、口のガムテープが外された。五井は荒い息をし、咳き込んだ。
「……っ、げほっ」
叫ぼうにも、到底声が出るとは思えなかった。
訴えれば、刑事事件にできるのかもしれない。だがもし、自分がしたことが世間にバレたら終わりだ。圧倒的に不利なのは自分の側だということくらいわかっていた。常識的な人々は、絶対に許しはしないだろう。
「今のも、ちゃんと動画撮ったんで。奥さんが見たら、どんな顔するかな」
口調はふざけているのに、男はもう笑っていなかった。何だか疲れた顔をしていた。
「……何が」
「ん?」
「何が……目的なんだ」
やっと腕の手錠が外される。
思い切り彼に殴りかかって勝てるだろうか。
腕の太さを見て、五井は悟る。どう考えても無理だ。運動をまるでしない五井に勝てる要素は何もなかった。武器……そんなものあるわけがない、研究室だ。ペーパーカッターが机の上にはあるが、それだけでは皮膚も切れない。
身体を起こそうとして、よろけて机に手をつく。また上から何かが落ちてきた。机に積み上げていた本だろうと思った。
だがそれは、ちょうど書籍と同じくらいの大きさの箱だった。五井が手を伸ばす間もなく、男がそれを手に取る。
「それは……」
家には置いておけなかった。妻にいつ見られるかわからないからだ。
「やめてくれ」
「……これ」
箱を開けた男が、息を呑むのがわかった。中に入っていたのは、古い紙類だった。カブトを折った紙。写真。それから、チラシの裏側に色鉛筆で描かれた絵。描きかけのように見える人間と家の絵だった。
男はそれを、検分するかのようにひとつずつ取り出していった。
「なんで、こんなもの……」
男の手が止まる。
絵の隅には鉛筆で、いくつも「せんせい」と書かれている。それから「だいすき」と。
整った彼の表情に、ヒビが入ったみたいに見えた。
――先生。
成長したといっても、まだ二十歳かそこらだ。大人になったといえるほどじゃない。その整った顔立ちには、はっきりと彼の面影がある。どうして一目見て気づかなかったのだろうと、今更ながら思うほどだった。
たぶん五井の心のなかで、彼はいつまでもあの頃の、九歳の姿のままだったからだ。
彼が大人になるなんて、考えたことがなかった。考えたくなかった。彼の天使のような美しさが、いつか失われるという、当たり前の事実を。
彼の手が、写真をつまみあげる。
本当は、彼だけをアップにした写真がほしかった。だけどこっそりと研究室に隠す箱の中であっても、あからさまなものは入れられなかった。
小学校時代の思い出だと言い訳できるよう、五井がそこに入れたのは集合写真だった。
五井は中心に写っている。そうしてその三人ほど隣に、彼がいる。
顔いっぱいの笑顔を浮かべていたり、隣の子どもにいたずらをしていたり、そういう群れの中にあって一人だけ、浮かび上がるかのように見える。
それだけ群を抜いて、顔立ちが整っていた。やっぱり彼は困ったような曖昧な笑みを浮かべていた。
彼は理想だった。
彼のためだったら何でもできた。あんな子どもは、あれから前にも後にもいなかった。彼だけが特別で、ずっと、手を出した罪も一緒に、抱えていくつもりだった。
忘れたことなんてない。またひと目会いたかった。
――でも、もう違う。
会いたかったのは、あの頃の彼だ。大人の男なんかじゃない。
顔を見せたりしないでほしかった。あの頃の彼の記憶まで上書きされたくない。彼自身にだって、そんなことをする権利はないはずだ。
「好きだったのに……」
小さく呟く声が聞こえた。彼はじっとその写真を見つめていた。微笑んでそこにうつる五井はまだ、二十代前半だった。今の彼とそう変わらないだろう。
大学を卒業して、教師になって三年目。自分は罪を犯したりしない人間だと、固く信じていた。仕事にやり甲斐も感じ、希望に溢れていた。
「ただ、俺は……」
声変わりをした彼の声は、あの頃とは似ても似つかない。
「ケイ」
ゆうに十年ぶりになる名前を、やっと口にする。声はかすれていた。
幼かった子どもは、持て余すほどの体躯でゆっくりと五井のほうを見た。目が光っていて、泣いているようにも見えた。
男は少しだけ小首をかしげた。それは彼が幼い頃、よくやっていた仕草だった。あの頃みたいに髪型は不揃いじゃない。きっとちゃんとした美容院で切ってもらっているのだろう。今風の、大学の教室の中には十人はいるような、普通の髪型だった。
長い指で、彼は写真を引きちぎる。
笑顔の子どもたちが、柔らかな笑みを浮かべた若い五井が、チリになっていく。
「まずは奥さんと別れてくださいね」
彼は笑っていた。やっぱり困ったような曖昧な、迷い子みたいな顔だった。
・
〝遅くなったから、研究室に泊まる〟
妻は申し分のない女性だ。ここの学長の姪で、就職後に紹介された。付き合ってからとんとん拍子に結婚をした。こざっぱりとして女性くささがないところが好きだった。
五井の所属する社会学部では、最近ちょうど定年で退職する教授が多い。このままいけば、数年で五井も教授になれるはずだった。
実力次第とはいいつつも、学内の政治力ははっきりと将来を左右する。
書いた論文の数より、学会発表の数より、五井の地位を確かにしたのは彼女との結婚だった。
〝わかった〟
彼女からは短い返信があった。
今までも、時間がないときには何度か研究室に泊まっている。不審には思われないはずだった。
別に家に帰ることに、後ろめたい気持ちがあるわけではない。あの男に脅されたように、別れ話を切り出すつもりもない。それでも今は、帰りたくなかった。
五井はそっと、携帯電話を取り出す。アプリの機能で、自分の指紋でしか開けない鍵付きのファイルを呼び出す。
「はぁ……」
思わずため息が出たのは、その写真が美しかったからだ。今は出版されていない、古い写真集をスキャンしたものだった。
汚れを知らないまだ幼い肌、無垢な瞳。背筋がぞわりとする。いつも、好みの幼い子どもを見るとそうだ。
性欲だけじゃない。その証拠に、写真の中の少女は服を着ている。単に性欲を吐き出すだけなら妻でいい。これは自分の理想を追う、精神的な行為だ。
厳選された画像に五井は見とれる。
気持ちよく浸っているところに、急に携帯電話が震えた。妻から、何か追加のメッセージだろうかと思って目をやる。
〝明日、二限に10号棟の402号室〟
文面はそれだけだった。
「……くそっ」
胸の中にタールを流し込まれたみたいだった。息をしようとしても、上手く吐きだせない。あんな気に食わない若造に、いいようにされたくない。……だけど、立場が弱いのは五井の方だ。
子供に手を出したことのある男だと知られたら、クビはまぬがれないだろう。社会的な生命が絶たれる。
だけど、ケイは本当に証拠を握っているのだろうか。
「あの時」は彼だって、冷静ではいられなかったはずだ。携帯電話なんて持っていなかったし、写真や映像が残っているはずがない。
今更ケイが被害を訴えたとして、どれだけの人間が信じるだろうか。
五井に前科はない。インターネットの閲覧記録を見られたらまずいかもしれないが、これからでもそれは消せる。
脅しに屈する必要はない。そう思うのに、いざケイと会うと決意がすくむ。
「痛……っ、痛い!」
「声、外に聞こえちゃいますよ」
そこが空き教室だった時点で、いやな予感はしていた。普段五井も、授業に使っている小さめの教室だ。
机に上半身を押さえつけられ、五井は後から貫かれていた。
「痛いんだよ……!」
一応、おざなりにはほぐされた。だけど普段、そんなことには使っていない場所だ。自分がされる側になることに、興味を持ったこともなかった。そんなところに男のものを入れられるのは怖気が走る。
「我慢してれば、気持ちよくなりますよ」
だがケイは、あっさりと言う。彼の力は強く、ガムテープや手錠がなくても五井に勝ち目はなかった。
「そんなわけないだろ……!」
五井を押さえつけ、彼は執拗に性器を抜き差ししてくる。そのたびに強い痛みが走る。
一応、教室に入るときに彼は鍵をかけていた。だけど、用務室にも合鍵はある。
大学の中だ。そして今日も授業はあるだろう。いつ誰が入ってきてもおかしくない。
「先生だって昔、言ったんですよ。『すぐ終わるから』って」
五井はそれ以上何も言えなかった。
ケイはしつこかった。痛めつけるように何度も五井を犯し、執拗に昔のことを掘り返す。
どうしてそんなに鮮明に覚えているのか疑問になるほど、彼の言葉は詳細だった。
「『痛いのは最初だけだ』って」
そんなことを言った覚えは五井にはない。なだめるために、適当なことは言ったかもしれない。だけどもう十年以上も前のことだ。細かい言葉なんて覚えていない。
「男の子は『ここ』で気持ちよくなれるんだって」
「あ……っ、っく」
ひときわ強く奥に突き立てられて、内臓がせり上がってくるような圧迫感に、五井はうめくしかなかった。
「だから、痛いのは最初だけですよ」
ケイは笑っていた。ゆるく腰を動かしながら。
こいつはおかしい。
ここは大学の中だ。もし見つかったら、彼だって居場所を失うだろう。せっかく合格した大学だ。普通、退学にはなりたくないはずだ。だが彼はまるでそんなこと気にしていないように見える。
「……っ、あ、う」
がたがたと机が音を立てる。五井はまっすぐ立っていられずに、ずるずると机に縋った。
「しっかりして下さい」
ケイはそう言って、五井の尻を叩いた。
「……っ」
ぱんと大きな音がなるほどの強さだった。思わず中に入っているケイのものを締め付けてしまい、余計に苦しくなる。
「次の授業の教授来ちゃいますよ?」
五井は何とか体勢を立て直そうとする。だけど埋め込まれたものの違和感は強く、足に力が入らない。
「っ」
どうして、こんな目にあわなければならないのか。
人助けをたくさんしてきたとか、博愛の精神を持っていたとか、そんなことはない。でもちゃんと働いてはいるし、まっとうにやってきたつもりだ。
子供が好きな気持ちは、ぎりぎりまで殺してきた。同じような趣味の男は、だいたい海外へ買春に行くものだ。だけど五井は、そうしなかった。
その理由は病気や逮捕への恐怖や、どうせ自分好みの子はいないだろうという諦めではあったけれど、とにかく事実としてはそうだ。
罪を犯したのはただ一度きり。
「もっと……」
たった一度きりだ。
「何ですか?」
ケイの息も上がっていた。
「もっと、ひどいことをしてる男なんて、いくらでもいるだろう……!」
振り返り睨みつけると、ケイは感情のない目で五井を見下ろしていた。
驚くほど整った顔立ちだった。そこらの俳優にだって引けを取らないと思う。
大人の男だ。細身だが筋肉のついた引き締まった身体。子供らしいふっくらとした頬はもうそこにはない。
……端正だとは思う。だけどそれは、まるで興味のないグラビアを見るような感想でしかなかった。こっそり幼い少女や少年の写真を眺めるときのような興奮はない。
残念だという気持ちばかりが湧いてくる。あの頃の彼は完ぺきだったのに。
もう、ここにはその残滓しかない。
「ねぇ、先生」
ケイは甘えるような声で言った。
五井の腰を押さえつけ、深くをゆっくりと犯しながら。
「他の誰かのことなんて、どうでもいいんですよ。俺は、あんたの話をしてる」
火に油を注いでしまったかと思った時にはもう遅かった。
「あ……っ、やめっ、うっ」
何度も引き抜かれ、奥まで叩きつけるようにえぐられる。
内臓が口から飛び出るんじゃないかと思った。苦しい。吐きそうだ。涙が浮かんできそうになるのを、五井は必死にこらえる。
どうしてこんな目にあわないといけないのか。
自分だけが。
「先生……っ」
そうしてケイは、五井の最奥で射精した。当然のようにゴムなんて使われなかった。
大きなものが抜けていく感覚にほっとするのもつかの間、どろりとしたものが伝う感覚に寒気がする。
「はぁ、はぁ……」
体をぬぐいたかった。だけど五井は、しばらく身動きもできなかった。力が入らない。足ががくがくして、立っていられなかった。
ずるずると床にしゃがみ込む。
背後でケイも荒い息を吐いているのがわかった。
「その先生っていうの……やめろ」
五井はかろうじて声を絞り出す。
「だって、先生じゃないですか」
何がおかしいのか、くすりとケイは笑った。
「先生はずっと、先生ですよ」
・
「ただいま」
マンションは、結婚と同時に買った。妻やその親族は子供も期待しているようだけれど、五井は頑なに拒んでいた。
妻も結局は折れた。もともと、それほどほしいわけじゃなかったからと言っていた。だから二人には子供がいない。
「昨日、どこにいたの?」
妻はリビングで酒を飲んでいた。何だか嫌な雰囲気だった。
「学校だよ、送っただろ」
「ねぇ、やっぱりこれからのこと考えない?」
「何を言ってるんだ?」
「子供がいる生活のこと、やっぱり考えてみてもいいと思うの」
彼女はすっかり酒に酔っているようだった。帰宅直後に、突然何を言い出すのだろう。
「もうその話は終わっただろ」
今更蒸し返すことだとは思わなかった。どうしてもほしいわけじゃない、と彼女だって言ったのだ。二人きりの暮らしは、それなりに余裕があって快適だった。今更、面倒ごとを背負いこむつもりはない。
妻はしばらく黙っていたが、急に立ち上がった。
「これ」
そうして差し出してきたのは、見慣れないDVDだった。
「何だ?」
幼い少女が四つん這いになり、バナナを咥えている。明らかに、扇情的な目的で撮られたとわかるパッケージだ。
五井には見覚えがない。さあっと体温が低くなったような気がした。
「あなた宛てに送られてきた」
勝手に開けたのか、と言いたかったがそれではまるで、自分が買ったと認めるように聞こえるだろう。
「いたずらだろう」
自分の趣味は、完璧に隠してきたはずだ。パソコンも他人が見れないようにしているし、万に一つもばれないように気をつけている。
「私へのあてつけ?」
頭を抱えて、苛立ったように妻は言う。
「何を言ってるんだ……?」
おそらく、これを送ってきたのはケイだ。そうとしか考えられなかった。嫌がらせのつもりなのだろう。
「結局女は、若ければ若いほどいいんでしょ?」
こういうDVDを見たこともあるが、五井は持っていない。好みではないからだ。自ら誘うようなポーズを取っているものは露骨すぎる。もっと純粋で、自分自身の魅力に気づいていないような少女や少年がいい。
「若いって言ったって……限度があるだろ」
五井はわざと茶化すように笑った。その日の話は、それだけで終わった。
だが、その日以降も五井の家には様々なDVDや写真集が送られてきた。
水着の小学生アイドル、裸の少女の写真集、東南アジアの子供たちの出ている映画。
そのたびに明らかに妻はイライラしていた。
〝奥さんと、別れてくださいね〟
もし離婚したら、ケイは納得するのだろうか。
強引に抱かれた体はあちこちが痛んだ。いまだにトイレに行くのが怖い。排泄のたびに痛みが走るからだ。当然、妻とセックスなんてする気にもなれない。そうするとますます、彼女との関係は悪化した。
何度も送られてくる品々を妻は気持ちが悪いと言い、警察に行こうと言い出した。
「そこまでしないで、様子を見よう。たぶん、生徒じゃないかと思う。たまに、逆恨みしてくるやつがいるんだ」
警察沙汰にはしたくなかった。変にケイを刺激して、五井の映像でも送られてきたら、もっとまずい。
「心当たりがあるんでしょ」
「何言ってるんだよ」
「そりゃそうだよね、大学なんて、まわり若い女ばっかりだもん。勘違いしちゃうんでしょ?」
妻は、五井が女子生徒と浮気をしたと思っているようだった。生徒と関係を持ったという意味では確かに同じかもしれないが、本当のことを言えるわけもない。
「あるわけないだろ」
「じゃあどうして警察に行かないの?」
五井は答えられなかった。
「ほら、心当たりあるならあるでいいよ。やっぱり、若い女がいいんでしょ。わかってるよ」
彼女は完全に決めつけていた。浮気をしていない証拠なんて見せようがない。それ以上五井が何を言っても無駄だった。
何日か、顔を合わせても言い争いが続いた。彼女は認めろの一点張りで、まともに対話にはならなかった。やっていないと言っても、しているはずだと詰め寄られる。
「そんなに言うならもう、離婚するしかない」
五井は結局自らその言葉を吐いていた。彼女はしばらく、何も言わなかった。予想していた以上に、ほっとしている自分に気づいた。
・
〝離婚をするかもしれない。満足だろう?〟
どこか、晴れ晴れしい気持ちでケイに送った。普段、五井からは決して連絡しないのに。
ケイからの呼び出しは不定期だった。彼は五井の授業を取っていない。五井の属している社会学部ではなく、経済学部の生徒らしかった。真面目に授業を受けているのだろうか。経済学部はこの学校の中でも一番偏差値が高い。
大学生だ。アルバイトをしたり、合コンをしたり、いろいろと忙しいのかもしれない。
自分に構わないでいてくれるならそれが一番なのに、平然とした顔で大学生活を送っているのかと思うと苛立った。
ケイはもともと、シングルマザーの母親から放任されていた。服も食べ物も適当で、ろくに世話をされていなかった。それを見かねて自分の家に連れて行ったのが、始まりだった。
あの母親はまだ生きているのだろうか。何度か会ったが、きれいな女性だった。五井にとっては、どうでもいいことだったけれど。
「経済学部に、槙野ケイという生徒がいるだろ」
「何だ急に」
あきれた口調で作村は言った。
「目立つ生徒だと思うんだ。イケメンで、背が高くて体を鍛えてる」
ケイほど顔立ちのいい生徒を、五井はほかに知らない。
あの体つきも、きっとジムなどで鍛えたものなのだろう。線の細かった小学生時代を知っているだけに五井にとっては残念な気持ちが先立つが、相当目立つ存在なのは確かなはずだった。
「槙野な、知ってるよ」
作村は、五井が世話になった教授の息子だった。妻との関係も、作村教授が紹介してくれたことを契機に始まった。
「確かに目立つ」
混み合う学内の食堂で、二人は並んで昼食を取っていた。
父親に世話になっている縁もあったが、作村自身が大学教員としての五井の同期でもあった。作村は、何かと話しやすい男だった。大学の教員になったのも父親の影響で、七光りなんだと自ら言っている。
「で? 槙野がどうした?」
「何か知ってることがあったら教えてくれ」
「お前……いつから探偵になったんだ?」
「頼む」
世話になった誰かがケイに一目ぼれしたとか、そんな適当な理由も考えていたけれど、たぶん作村には正面から頼んだ方が早いだろう。
「いや……俺もそんなに親しいってほどじゃない。授業にも真面目に出てるし普通の生徒だ」
案の定、彼は不思議そうにしながらも話し出してくれた。
「そうか。友達はいるのか?」
「お前は親父か? 何かのサークルに入ってるんじゃなかったかな。フリーペーパー出してるとこ。まぁ友達くらいいるだろ」
「彼女は?」
「……俺は、お前がどんな趣味であろうと気にしないが、不倫はよくない。それに生徒に手を出すのは教師失格だ」
五井は反射的に笑った。そんな話だったらどんなにいいだろう。
もしそれが失格だというなら、もうとっくに自分にはその資格がない。
「そういうんじゃない。俺は、彼に性的な興味があるわけではまったくないよ」
まごうことない本心だった。
幼い彼のことは好きだった。彼を手に入れられるなら、ほかの何をなげうってもよかった。そのくらい、生涯他の誰かに感じたこともないくらい激しく彼が好きだった。
だが、今の彼は「男」だ。
少年の頃の危うさも、天使のような純粋さも失われてしまった。
五井は成人男性に性的欲望を覚えない。それはもう、はっきりしていることだった。
「それならいいが……」
作村はけげんそうだった。まだトレイに残っていたご飯を口にかきこむ。
「そうだ、そういえばクラスのコンパで飲んだな」
五井も、自分のきつねそばを口に運んだ。この食堂の飯はまずい。かろうじて食べられるのは麺類くらいだった。
「飲み会の席の話だったけど、よく覚えてるよ。槙野は誰とも付き合ったことがないって言ってた」
「……誰とも?」
恵まれた顔立ちと、鍛えた体躯。シングルマザーの母親は、水商売をしていた。箱入りというわけでもない。世間のことだって人並み以上にわかっているだろう。
「おかしいだろ?」
「まぁ、なくはないのかもしれないが……」
「ずっと好きな人がいるんだって言って、からかわれてた」
「……へぇ」
呪いのように、幼い彼の言葉が耳によみがえる。忘れられるわけがない。
――先生が好き。
「まぁ、そうだよな」
作村は笑っていた。彼も今は結婚し落ち着いているが、昔は恋多き男だったのを知っている。
「子供の頃はそういう頑固なとこあるかもしれないけど、まぁ大人になれば現実を見て、変わってくさ」
だけど、五井は笑えなかった。
離婚の話題を出したからといって、今すぐに何もかも終わりにするつもりなんてなかった。
妻の側でもそうだったと思う。ちょっと、危機的な状況だということの共有をしただけ。その証拠に、言い争いは小康状態だった。
半ば見合いのように始まった関係だ。だが、最初に会ったときから妻は五井に好意的だった。友人に対して「当たりだった」と話しているのを聞いたこともある。
数年を一緒に過ごしてきた。そんなにすぐ、終わるような脆い関係じゃない。
そう思っていた。
「この間の、変なDVDだけど……」
その日の妻は、妙に落ち着きがなかった。
「ああ、あれか。捨てたのか?」
そういえば五井はどこにもやっていないけれど、見当たらない。
「あなた……何か、変なことに足を突っ込んでるんじゃない?」
こういうとき、女はどうしてもったいつけた話し方をするのだろう。
何かあったのだなと五井はすぐに見当をつけた。また別のDVDか雑誌でも送られてきたか。だが、そんなことをしても無駄だ。妻の前でならいくらでも平然としていられる自信がある。
「これ、誰?」
妻が差し出して見せたのは、一枚の写真だった。
全身が震えた。どんなにエロティックな少年や少女の写真を見せられても、動揺しないと思っていた。
初詣で撮ったものだろうか。神社を背景に堅苦しい表情で、少年が写っていた。
インスタントカメラで撮られたらしい写真だった。人混みの中で、やたらとごちゃごちゃして見える。
だけど、彼一人だけが浮かび上がるようだった。
五井は思わず手を伸ばしていた。
「貸せ」
あの頃、ケイと二人きりでいるときでも、五井は写真を撮らなかった。集合写真も破られてしまい、五井の手元にはもう彼の写真がない。
「知り合い?」
写真を取り上げるように高く掲げて、妻は冷たく言った。
「貸してくれ、それは他のものとは違うんだ」
「知り合いなの?」
もっと見ていたくて、その写真が欲しくてたまらなかった。妻なんてもうどうでもいいと思ってしまう。
かつての幼く、美しいケイの姿をもっと目に焼き付けたかった。
「貸せ」
五井は気が付くと、強引に妻からその写真を奪い取ろうとしていた。
「何なの……!?」
妻も抵抗して、もみ合いになる。
「あなた、おかしいんじゃないの……!?」
おかしいというなら、最初からそうだ。気づかなかった妻が悪いのだ。
妻は失ってもいい。でも、もうケイの幼いころの写真を新しく撮ることはできない。
気が付くと妻は泣き出していた。何とかして奪った写真は、妻の手でぐしゃりと歪めめられていた。
今日の呼び出しは、ビジネスホテルだった。
学校や倉庫よりはまだマシだ。そんな風に、状況を当たり前に受け入れ始めている自分に気づく。
呼び出しの先が、ケイの家であることはなかった。どこに住んでいるのかも、誰と住んでいるのかも知らない。
あの母親のもとにはもういないのだろうなという気がする。どこで身体を鍛えたり、身だしなみを整えたりすることを学んだのだろう。
妻から何とか取り返した写真は、今もカバンの中に入っていた。
捨てるべきだとはわかっていた。必死に「知らない子供だ」と言い訳したが、さすがに納得はされなかった。もし、十歳にも満たなかった子供に入れあげ……挙げ句の果てに肉体関係を持とうとしただなんて知られたら、結婚だけじゃない。
自分のすべてが終わる。
「どういうつもりなんだ」
狭い部屋だった。二人で泊まるようにはできていないのだろう。シングルベッドが一台と小さな机だけでほとんど一杯だ。エアコンがわずかに音を立てている。
「何ですか?」
ケイは今日、見慣れないメガネをしていた。先に部屋にいた彼は、小さなデスクでパソコンをいじっていた。五井が部屋に入ってからも、作業を止めることはなかった。
「写真だ」
妻の前で動揺を見せてしまったのが悔しかった。だけど他のどんな美しい少年の写真だったとしても、ああはならない自信がある。
二度と手に入らない、ケイの写真だったからだ。
何もかもなげうっていいと思った。仕事をなくしても、誰に後ろ指をさされてもいいと。若さゆえの勘違いだ。だけどあのときは本気だった。
本気で、彼を愛していた。
「プレゼントですよ」
ケイは作業を止め、メガネを外して目を揉んだ。
「この間、破ってしまったから」
どこまで覚えているのかは知らない。だけど確かに、あの頃の五井は彼を愛していたし、そう口にさえした。
そうして彼も、ちゃんと応えた。先生のことが好きだと。
「お気に召しませんでしたか?」
彼はわかっている。五井が、その写真に動揺を示しただろうことを。妻に怪しまれながらも、それを大事に財布の中に入れたことも。
きっと全部、わかっている。
「お前……っ」
そして許していない。
「先生、今日、レポートで忙しくなっちゃって」
「勝手にしろ」
「だから、そこで一人でしてみせてください」
「何を言っている」
たまにはまともな大学生らしいことを言うかと思えばこれだ。
「なら呼び出さなければよかっただろ」
「先生の顔、見たかったから」
ケイは笑っていた。あっさりとした笑いには毒気も何もなく見えて、かえって恐ろしい。
「もう見ただろ」
「じゃあ、何ならできるんですか?」
「何ならって……」
人を呼び出しておいて、芸人扱いだろうか。
「お前にしてやるようなことは何もない」
「歌とか踊りとか? できないんなら一人でしてみせてください」
「何を」
五井は思わず聞き返してしまう。
「オナニーです」
「はぁ?」
ケイは不敵に笑っている。楽しいからやるのではない。単に屈辱を与えたいだけなのだろう。
「いい加減にしろ」
「しょうがないなぁ」
眼鏡を机の上に置いて、ケイが近づいてくる。反射的に身体がこわばるのがわかった。
「先生、言ったじゃないですか。ここに触って、変な気持ちがするのは普通のことだって」
そんなことを言った記憶はなかった。いや、近いことは口にしたかもしれない。わからなかった。
のしかかってきたケイは、ズボン越しに性器を強く握ってくる。
「……っ」
確かに、そういう話はしたかもしれない。
性教育の一環という顔をして、マスターベーションも知らなかった彼の性器に触れた。なかなかそれは反応を示さなかった。だから、自分の性器も見せた。
固くなったそれを彼に握らせた。ケイはそれがどういうことなのか、まるでわかっていなかった。きょとんとした顔に欲情した。
「気持ちよくなれるんだって」
小さかった彼の手に、こすりつけるようにして射精した。汚してはいけないものを汚した快感があった。
「最近、これ、使いましたか?」
「お前には関係な……っ」
ケイは握りつぶしそうなほど強く力を込めてくる。握力が五井とは違いすぎる。
彼は平然とした顔をしていた。本能的な恐怖に体がすくむ。
「ほんとに、もう使えないようにした方がよくないですか?」
まるで次のテスト範囲について話すみたいに、あっさりと言う。平然とした顔をして、そのまま握りつぶしそうだった。
「先生、後ろでも気持ちよくなれるし、いらないですよね?」
間近で見るケイの瞳は、興奮で濡れていた。五井はじわりと全身に汗をかいていた。
「やめ……、やめてくれ」
むきだしの暴力にさらされると、自分がこんなに心もとない存在なのだと初めて知った。叫んでもきっと誰も来ない。何もできない。ただ彼に従うことしか。
「必要あるって言うなら、見せてください」
言われるまま、五井はズボンを脱いだ。握られた性器はすっかりしぼんでいる。
五井はそれに手を触れてみたが、こんな状況で興奮できるはずがない。ケイの目がじっと、やわらかいままのものを見ている。
――男の子のここが、大きくなるのは自然なことだ。
母親に放任されていたからか、単にまだ幼かったからか、ケイは性知識をほとんど持っていなかった。五井の言葉に動揺し、素直な反応を見せる彼は可憐だった。
「かわいいですね」
ケイはそう言って、やわらかい五井のものをつつく。そうして五井の前にしゃがみ込み、それを口に含んだ。
「やめ……」
――や、怖い……先生っ。
「やめろ……っ、ケイっ」
彼の顔立ちには、あの頃の面影が確かに残っている。当たり前だろう。月日が経ったとはいえたった十年だ。
彼は確かにかつて少年で、自分はその少年に夢中になっていた。
生暖かい口の中に含まれても、いつ歯を立てられるかという恐怖が消えない。とっさにケイの髪をつかんでしまう。短い髪は硬い手触りだった。
五井はまぶたの裏に、必死でかつてのケイの面影を再現しようとする。いっそそのまま、永遠に目を開けたくなかった。
あの写真が送られてきてから、妻との話し合いは、どんどんうまくいかなくなった。芋づる式に妻は五井について不満な点をあげつらい、何時間も泣きながらなじる。そして結局、話はまたあの写真に戻ってくる。
「あの子供は何?」
「だから、何でもないって言ってるだろ」
「離婚するのはいいの、でも、ちゃんと話をして」
「これ以上何を話せって言うんだよ!」
考え得る限り最悪の事態だった。話し合いはもつれにもつれた。離婚はほぼ確定的だったが、財産についてなどは話がなかなかまとまらなかった。そのことを理由に、妻は離婚届を提出することを延期し続けた。
じきに話は両親や義理の両親、そして同僚たちにも漏れた。だが電話がかかってきても、離婚の理由は言えなかった。
言えるわけがない。
終わりについての話なのだから、もっとあっさり終わると思っていた。
人はわからない。妻はもっと、さばさばした女性だと思っていた。こんな風に彼女が取り乱し、じとじとと五井の欠点を責め、書類にサインもしようとしないとは思わなかった。
気分が高まると泣き、何年も前のことを突然持ち出す。感情的で、話は通じない。うんざりして五井が話を打ち切ると、自分は被害者だと訴える。
最後にはお願いだからもう、五井はサインしてくれと懇願するようになっていた。
西向きの部屋になったのは偶然だ。
たまたま大学に通いやすい部屋を選んだら、そこしかなかった。
大学の授業は週に三日。それ以外の日の研究はどこでしようと自由だ。だが何かと会議や雑事もあり、結局週に五日は大学へ通っていた。
離婚の話し合いが泥沼化して精神的に辛くなってきた頃、とにかく逃げ場所がほしくて契約した。一人の部屋は、こんなにほっとするものなのかと思った。
妻とはうまくやっていけると思った。運命の恋じゃなくても、お互いを尊重し、うまくやっていけると。でも、一人の方がずっと楽だ。今まで、やっぱり自分は無理をしていたのだと思う。
西日の入り込む部屋を眺めながら、五井は思い返していた。
新社会人の頃に暮らしていた部屋も、やっぱり窓が西向で、夕方になると日差しが強かった。
彼は、窓際にいるのが好きだった。頬の産毛が、黄色っぽい光に照らされて光っていた。今もこんなに克明に思い出せるのに、どうしてあの少年はもういないのだろう。
――先生。
どうして、もうどこにも存在しないのだろう。
2
「あなたは、結局、自分が一番好きなんでしょ?」
反論したら負けだ。だから五井は黙っていた。どんな罵倒を浴びせられても、黙っている方がマシだ。
自分が結婚していた女性が、こういう人間だとは知らなかった。もしかしたら、最初は違っていたのかもしれない。少しずつ、こうなっていったのかもしれない。
わからなかった。ただわかるのは、何を反論したとしても、自分に勝ち目はないということだ。
「……あの写真の子、誰だったの?」
「親戚の子だ」
あまりとぼけるのも逆に変かと思い、五井は可能な限りあっさりした言葉を心がけて言った。
「へぇ?」
嫌味っぽく妻は言った。
「それだけ?」
何か言い返したら負けだ。
説明なんてできない。ケイは、ケイだ。彼が自分にとって何者かなんて言えない。
今となっては、自分を縛る忌々しい男。過ぎ去った美しい時間の象徴。
「あなた、おかしい。自分でわかってないかもしれないけど、正気じゃない」
それが妻と話した最後だった。妻は最後には離婚届に判を押し、五井が区役所にそれを提出しに行った。事務的に受け取られ、それで終わりだった。
その日、ケイの呼び出し先は居酒屋だった。
妙だなと思った。ケイは別に、五井と酒を飲みたいわけではないはずだ。大学からほど近い、学生御用達の安い店だった。店内に足を一歩踏み入れた瞬間から、騒々しいざわめきに襲われる。
「あー、五井先生じゃん!!」
座敷に立ち入って、それが生徒たちの飲み会だと初めて知った。
「えっうそー」
生徒が二十人くらいはいるだろうか。ケイはすぐに見つかった。部屋の隅っこで、壁に寄りかかってジョッキのビールを飲んでいる。
もう場はすっかり盛り上がっているようだった。顔の赤い学生も多い。
五井は普段、ほとんど学生と飲むことはない。作村のように学生と飲むのが好きな教員も多いが、時間の無駄だと思っていた。騒々しく、学生の汗が匂ってきそうな空間だった。
「珍しいですね、五井先生が来るなんて」
「たまにはな」
苛立ちを抑えながら、五井は空けてくれた席に着く。
「ビールでいいですか?」
ケイは、隅で女子生徒と話し込んでいるようだった。さっきちらと視線をよこしたので、五井が来たことには気づいているはずだ。なのに、熱心に二人で何か話し続けている。
「五井先生?」
「ああ、ビールで」
〝来てやったぞ、これで満足か〟
無視されるのに苛立って、五井はそっとケイにメッセージを送った。だが、気づいていないのか、ケイが話を止める様子はなかった。
店の中は騒々しく、二人が何を話しているのかは、五井のところまでは聞こえない。
「先生、この間の授業難しかったです」
「何がだ?」
隣に座った女子生徒が話しかけてくるのに、五井は上の空で答えた。
「今度のレポートも難しいんですか?」
「別に普通だ」
「えー、先生の授業、難しいってみんな言ってますよ」
だから何だ。運ばれてきたビールを五井は苛立ちとともに喉に流し込む。
「……あいつ、授業にいたか?」
「え?」
「あの隅にいる男」
五井はそっと、女子生徒に耳打ちした。
「ああ、ケイくんですか? えっと……リナの彼氏なんだっけかな?」
「彼氏?」
たぶん、この女子生徒の勘違いだろう。そうとしか思えなかった。五井に繰り返しあんなことをしている男だ。
「ねぇ、ケイくんって五井先生の授業取ってないの?」
せっかく耳打ちをしたのに、彼女はあろうことか身を乗り出してケイに直接尋ねた。
五井の手元で携帯電話が震える。
〝女子大生にセクハラですか?〟
「……くそ」
「え? 何?」
「取ってないよー!」
ケイが大きな声で返した。酒を飲んでいるからか、彼は笑顔だった。
「単位すごく厳しいんですよね?」
ケイは今度は、五井に向かって大きな声で言う。
「君が不出来ならな」
周囲がうるさいので、返す五井も大声になった。
わざわざ呼び出して、騒々しい場所で消耗させて、何がしたいのか。五井に命令できる自分の権力を確認したいのだろうか。
ケイはまたすぐ、隣の女性との会話を再開してしまった。
こんなの、時間の無駄だ。生徒たちは誰も彼も単位の話ばかりする。別にそれほど難易度をあげているつもりはない。普通に勉強をしていればクリアできる水準のはずだ。勉強をする気もなく単位がほしいだけなら、何のためにお前らは大学に入ったのか。
イライラしながらビールを飲み続けていると、五井の隣にいた女子生徒が席を立った。空いた席にケイがやってきて、長い足を窮屈そうに折り曲げて座った。
「何の話?」
「えー、レポート厳しいなって」
五井をまたいで、ケイと五井の反対側にいる女子生徒が会話する。
「先生、これおいしいですよ」
「五井先生、全然御飯食べないんだよ、さっきから食べたほうがいいですよって言ってるんだけど」
学生向けの、とにかく無限にビールが出てくる以外利点のない安い居酒屋だ。食事もまずそうで手をつける気になれなかった。
「先生、食べてくださいよ」
ケイはやたらとじっとりとした目で五井を見て言った。
「ほら、唐揚げ」
安い油で揚げた唐揚げなんて最悪だ。だが、五井は言われたとおりに唐揚げを口に運んだ。じわりと油っぽい肉の味が口の中に広がる。
「二人、仲いいの?」
不思議そうに、五井を見て女子生徒はつぶやく。
五井の前には、サラダなどが取り分けられた小皿が既に置かれていた。だが、五井はそのどれにも手をつけていなかった。
「いや」
五井はかろうじて、短く答えた。
「何がしたいんだ、お前は」
「あ、五井先生だ」
酒量が増え、飲み会は収拾がつかなくなってきていた。学生たちの声は大きく、酒は薄く、頭が痛い。ケイがトイレに立ったのを見て、五井は追いかけてきたところだった。トイレの中には、他に誰もいない。
「俺はもう帰る」
「来たばっかりじゃないですか」
ケイはそらぞらしい笑みを浮かべている。
「その顔やめろ」
「何ですか?」
「嘘くさい」
そう言うと、ケイはすっと真顔に戻る。
「嫉妬しました?」
「……は?」
彼が何を言い出したのか、本当にわからなかった。
確かに、自分を呼び出しておいて女性と楽しげに話をしていることには苛立った。だが、それは嫉妬とは違う。
「先生、女子生徒にモテるんですね。知ってたけど」
「何の話だ」
よく絡まれるのは、彼女たちが単位をほしいからだ。比較的若手の教員なので、たまにかっこいいだの言われることはあるが、本気にはしていない。
「俺が妬いてどうすんですかね」
「いい加減にしろ」
ケイの恋愛ごっこに付き合うつもりはなかった。
だいたい、彼にしたって五井につきまとっているのは嫌がらせのはずだ。幼い頃に、されたことへの復讐。それが執着の原因であることは明らかだった。それ以外にはありえない。
確かに、小さい頃のケイは五井のことを好きだと言った。だがそれは、父親のような相手に対する尊敬や甘える気持ちの大きい、性的な感情とは言えないものだった。
五井は、それを理解していた。そのうえで、利用した。好きならばこういうことも普通にするのだと言って、丸め込もうとした。今更言い訳をするつもりはなかった。
でももう、ケイはあの頃の彼とは違う。
「……先生」
「あれー、いっぱい?」
ドアを開けて入っていたのは、さっきの酒席にいた生徒の一人だった。
ケイはそっと、五井に耳打ちした。
「二人で抜けましょう」
やっと騒々しい店を出る。外に出るだけで、息が楽になった気がした。
「なんで腕、触らせたりするんですか?」
ケイはあまり酔っていない。だが、苛立っているように見えた。
「知らない」
「べたべたと……わざわざ先生の食べ物だけ取り分けたり、見え見えじゃないですか」
あの飲み会に原因があるのなら、わざわざ五井を呼び出した彼自身の責任だ。何もかもばかばかしかった。
五井はタクシーを拾った。当然のように、ケイも乗ってきたが、拒否できなかった。こんなところ、あの店にいた学生に見られたら何と言われるだろう。
アパートにケイを連れて行くのは嫌だった。だが、自分からホテルに行くのも絶対に嫌だ。どうせ居場所はすぐにケイに知れるだろう。気疲れしたこともあって、早く眠りたかった。
だが、アパートについても眠ることはできなかった。
ケイは、彼の性器を口で愛撫するように命じた。酒を飲んだ後だから嫌だと言ったが、彼は聞かなかった。
前にも一度、やらされたことがある。嫌だが、後ろを犯されるよりはマシかもしれないと思った。
「あの場にいた奴ら、先生がこんなことしてるって、一生知らないでしょうね」
だが、それが間違いだった。
直接的な痛みこそない。だけど、口で男のものを頬張るのは、思った以上に苦痛だった。硬くなった性器が気持ち悪い。息が苦しい。さっき食べたまずい唐揚げが、逆流してきそうになる。
五井がえずきそうになって、口を離そうとするのを許さず、ケイは頭を押さえつけてくる。
「……っ」
「あんたが、クズだってことも」
息が苦しい。口の中が大きくなったケイのものでいっぱいになる。目に涙が浮かんできて、本当に吐きそうだった。
だがそれでもケイは許さず、五井の頭を押さえつけてくる。喉の奥を突かれるようにして、つんと鼻の奥が痛くなった。
「……っ」
ケイはそのまま射精し、五井はげほげほと咳き込む。何がそれほど気に入らなかったのかわからないが、今日のケイはいつにもまして乱暴だった。
五井はそのまま、洗面所に駆け込もうとする。だが、ケイが腕を掴んだ。
「何す……」
そのまま、敷きっぱなしの布団の上に身体を押さえつけられる。
口でするなら、後ろでされることはないだろうと思って従ったのだ。だが五井を押さえつけるケイの力は強かった。
「はい、ティッシュ」
ケイはそう言ってティッシュの箱を引き寄せる。
「……っ、うぇ」
とにかく気持ちが悪くて、何枚もティッシュを取って、五井は口の中に吐き出されたものを出す。それでも口の中の違和感はなくならなかった。
「口、ゆすがせろ……」
ケイはまるで聞く耳を持たず、五井のズボンを引きずり下ろす。
どうせそちらもするのなら、口でさせられた分だけ損をした気分になる。何がなんでも拒絶するべきだった。それか、本当に吐いてしまえばよかった。
「……クズなのはお前だ」
五井はぼそりと呟いた。
生徒たちが、「こんなことをしてる」のを知らないのはケイについてもだろう。周囲に溶けこむケイは、何の不満もなさそうな、今どきの若者の顔をしていた。
モテないわけがないだろう。もっと話題が合って、体力もある同世代と付き合ったほうがきっと楽しいはずだ。同性愛者の仲間だって探せばいるだろう。
「俺なんてどうでもいいんですよ」
「おい……っ」
今でも恨む理由はわかる。だから、それ以上五井は何も言えなかった。
言えるような状態でもなかった。
さっき一度射精したばかりなのに、ケイのものはもうすっかり固くなっている。
「……う、っ」
ケイの手付きは乱暴だった。それでも、無理にやっても入らないことは学習しているのか、指で奥をほぐし、それから性器が入ってくる。押し当てられると息がすくんだ。
「ああ……っ」
圧迫感に息が止まりそうになる。何度繰り返されても慣れない。自分が自分でなくなってしまうかのようだった。ばらばらになる。奥まで無理やりに暴かれて、揺さぶられる。
何をしているのだろう。
狭いアパートの部屋で、日に焼けきった畳の上の煎餅布団で、かつて自分が欲情した子供に抱かれている。
生徒たちはまだあの店で飲んでいるのだろうか。別の飲み屋か、カラオケにでも行ったかもしれない。安い酒で酔って、無為な時間を過ごしているのだろう。
この部屋で起きていることなど誰も知らない。
「…っ、あ、ああ」
知られては、ならない。
五井がシャワーを浴びて部屋に戻ると、ケイは布団の上で静かな寝息を立てていた。さっきまで五井に乱暴をしていたとは思えないほど、無邪気な様子だった。
「寝てるのか?」
二度も吐き出して、気が済んだのだろう。寝顔は幼く、小さい頃そっくりだった。まだ若い肌は、柔らかそうに透き通っている。
彼を家に泊めるつもりはなかった。揺さぶって起こしてしまえばいい。そう思いながら、五井は何もできなかった。
すー、すー、という穏やかな寝息の音がずっと聞こえていた。
ケイは結局、深夜近くになって起きた。部屋の中は静かだった。
「あれ……」
五井は眠れずに、授業の資料を手直ししているところだった。それほど難しい作業ではない。だけど何となく気分が乗らず、時間がかかっていた。
「俺、寝てました?」
ケイは寝ぼけた顔であたりを見渡している。
「ああ」
「終電……」
「タクシー代なら出してやるから帰れ」
「なんで、起こさなかったんですか?」
ケイは五井の真後ろに立った。五井はただ意地で、振り向かなかった。
「よく寝てたからだ」
「泊めてください」
「だめだ」
「なんでですか?」
「お前はうちの生徒だろ」
五井の授業を取ってはいなくても、教師と生徒という立場には変わりがない。他の生徒たちに知られたら、示しがつかない。
「は」
ケイは鼻で笑った。
「何ですか、それ。今更」
彼は面白そうに笑い続ける。
「それに、うちには布団がない」
「あるじゃないですか」
「一人用だ」
「俺、意外とスペース取らないですよ」
「でかい図体して何言ってる」
「やっぱり、俺、小さいままの方がよかったですか?」
五井はとっさに、振り向いてケイの顔を見てしまった。
彼は真顔だった。何の感情も読み取れなかった。
「先生、小さかった俺にしか興味ないんですよね?」
彼は五井の嗜好を知っている。幼いころならともかく、今の彼は十分に理解しているだろう。
なのに、改めて口にされて衝撃を受けていた。なぜだろう。ケイは最初からわかっているはずだったし、そのことを五井も知っていた。それでも、それをケイが口にするとは思わなかったのだ。
〝俺に会えて嬉しくないんですか?〟
五井が固まっている間に、ケイは布団に寝転がってしまった。
「おい」
シングル用の布団だ。大人の男二人で寝るのは難しいだろう。ケイは布団の隅っこで、五井に背中を向けていた。
「でも、俺だってどうにもできない」
五井は何も言えなかった。
今日の飲み会では、その顔立ちが目立ってはいても、それでもケイは周囲に溶け込んでいた。だが小学生の頃、ケイはもっと如実に周囲から浮いていた。
〝先生が好き〟
生徒から告白されたのは、正直に言えば初めてではなかった。ませた小学生の女子生徒は、周囲の同級生よりも教師に目が向くらしかった。
彼女たちの恋愛ごっこは、笑って済ませられた。勘違いだと。恋に恋する年齢だから、大人がかっこよく見えるだけだと。
でも、幼かったケイが口にした言葉はまるで違った。
それは魔法のように、五井の心を捉えた。
……勘違い。恋に恋をしているだけ。そんな大人らしい言葉はどこかに消え、免罪符のように輝いた。
両思いなら、許される。
だけど本当はわかっていた。他の女子生徒と同じで、彼の口にする恋情が、まだ淡いぼんやりしたものでしかないことを。他に頼れる大人がいないがゆえの、保護者を求める感情とごっちゃになった心細さから来ていることを。
わかっていて、免罪符をかざした。
「ケイ」
ケイは背中を向けたまま、もう振り向かなかった。眠ってしまったのかもしれない。
大人になった彼の顔を見たいわけじゃない。でも、振り向かない後ろ頭を見ていると胸が苦しかった。何か言いたかった。でも、五井の中にはなにも彼にかけられる言葉がなかった。
ケイは五井のアパートに入り浸るようになった。
鍵を渡すつもりなんてなかった。だが、気がつくとケイは合鍵を手にしていた。
「……勝手に合鍵を作るのは犯罪だぞ」
「先生がくれたんじゃないですか」
ケイはしれっとした顔をしていた。
「そうですよね?」
だが、学校の空き教室で無理やり犯されるよりはマシかも知れない。ユニットバスだがすぐにシャワーも浴びられる。
ホームセンターで買った安い布団は、ろくな厚みもなく腰が痛かった。寝心地が悪かったのか、ケイは無理やり、五井を駅前のインテリアショップに連れていきマットレスを買わせた。大した金額でもなかったが、寝心地は格段によくなった。
安いアパートだ。壁は薄かった。
隣なのか、夜になるとどこかから女の声が聞こえた。猫が鳴いているような、悲鳴のような嬌声だった。こちらの声も、向こうに聞こえているのかもしれない。甘いあえぎ声とはほど遠いけれど。今のところ、文句は言われていなかった。
ケイは五井を犯した後、そのまま眠り込むことが多かった。寝顔だけは子供のようで、五井はよくそれをじっと眺めた。
もし、自分に殺意があったらどうするつもりなのだろう。
五井は行為の後、必ずシャワーを浴びた。学校で事に及ばれると、とにかく嫌だったのが、そのまま服を着て帰らなければならないことだった。最近のケイは避妊具を使ってはいたが、まれにそのまま中で出されることもあった。そうなると悲惨だった。
今は、少なくともすぐに洗い流せる。
何度抱かれても慣れることなどないけれど、すぐに流せる。いつの間にかこの異常な状況に慣れ、少しでもマシなことを探そうとしている自分がいる。
五井はぼんやりと、薄い布団にくるまって眠っているケイの顔を見つめた。
自分は同性愛者ではないはずだ。性の未分化な幼い子どもに欲情するとき、その子が男なのか、女なのかは気にしたことがない。むしろ、男でも女でもまだない、天使のような子供が好きだった。
前立腺を刺激されれば勃起はする。ケイはたまに、意地になったように五井に快楽を感じさせたがった。刺激が的確なとき、五井は射精することもあった。
そこには、一応の快楽はある。だけど、違和感と痛みのほうがずっと強い。
ケイだって、五井を抱くのは自分の快楽のためというより、報復のためなのだろう。
不毛だ。
そしておそらく、ケイもその不毛さには気づいているだろう。
「何をやってるんだろうな……」
寒いのか、ケイは布団を自分の方に抱き寄せて、身体を丸めていた。
彼と同じ布団で眠る気にはなれず、五井はパソコンを開いた。本当は、もう一組布団を買ったら快適なのかもしれない。ケイは週に二、三日は泊まるようになっていた。
だが、そんなことをしたらケイの存在を受け入れているようで嫌だった。
あくまで押しかけられているだけ。
この関係は無理やり、嫌がらせとして続いているだけ。
それだけだった。
チャイムが鳴っていたが、隣の部屋だろうと思った。
頭がぼんやりする。昨日の夜やってきたケイは、珍しく酒を手にしていた。自分は大学の友人じゃないし、ここは無料の宴会場でもない。そう言ったのだが、ケイは五井も酒を飲めと言って聞かなかった。
何か嫌なことでもあったのかもしれない。だけど五井は聞かなかった。そういう関係ではないから。それこそ、愚痴だったら友人にでも聞いてもらったらいい。
酔ったケイは、いつにもまして強引なセックスをした。後ろから何度も貫かれ、声を出すように強要されて、呻くような声で喘ぎながら五井も射精した。
ケイは、ゴムをつけなかった。何とかシャワーを浴びた五井は、疲れ果ててケイの隣で眠ってしまっていた。
チャイムが鳴っている。今は何時だろうか。夜なのか朝なのかもよくわからない。
「槙野?」
聞き覚えのある声に、慌てて身体を起こした。布団の隣にケイはおらず、彼がドアを開けた後だと気が付いた時にはもう遅かった。
「なんで槙野が?」
来客は作村だった。
「ちょっと、泊めてもらったんです」
狭い部屋だ。玄関からの声は筒抜けだった。かろうじて服を着ていた自分に感謝する。だが、変な匂いがしていたりはしないだろうか。五井は慌てて窓を開け、散らばっていたティッシュをゴミ箱に捨てる。
「おい、五井」
作村にはこの家を教えている。だが、こんなに急に来るとは思わなかった。
「よう」
作村は部屋に入ってきて、あたりをぐるりと見渡した。
「来る前に連絡よこせ」
「さっき思いついたんだ。どうせ貴花ちゃんと離婚して寂しく一人でいるだろうと思って……まさか槙野がいるとは思わなかった」
五井は必死に言い訳を考える。作村が探るような目をしているのがわかる。不審に思われても仕方がない。
だがまさか、ケイが無理やり五井を犯しているなんてことは考えつかないだろう。昨日の夜、この部屋でどんな行為があったか、彼にはきっと想像もできないはずだ。
ケイは傍観するように、部屋の入り口に立ったままでいた。
「あ、そうだ、土産」
作村はビニール袋を五井の方に差し出してくる。焼き鳥だった。
とりあえず冷蔵庫にしまったほうがいいだろう。五井は部屋から出て行くとき、すれ違い様に、「布団畳んどけ」とケイに耳打ちする。
「槙野は五井の授業受けてんのか?」
五井がキッチンに向かうと、二人の話し声が聞こえてきた。
「受けてないですけど、ちょっと」
ケイの声は五井と二人きりのときより大人しい。どういう態度を取ろうか迷っているようでもあった。
だが、それもそうだろう。誰に対しても、五井に対するみたいに傲慢なわけがない。
五井はポットにお湯を入れてセットする。キッチンには、空になったビールの缶が逆さになってならんでいた。
「そういや槙野、結局あれ買ったのか」
お湯が沸くまでの間に、五井はカップを並べる。二人が話している声はキッチンにいてもよく聞こえた。
「あ、はい」
「いいだろ」
「最高ですね」
「だろ? そうやって人は沼にはまってくんだよな」
何の話をしているのだろう。なぜだかいやに気になった。
五井が茶を入れて部屋に戻ると、作村は窓から外を眺めているところだった。
布団はケイによってたたまれていて、隅にあったテーブルが中央に引っ張り出してある。五井はその上にポットとカップを並べた。
「お前が生徒を家に上げるなんて珍しいこともあるもんだな」
「さっき、何の話してたんだ?」
もう二人の間では終わっている話のようだったが、どうしても気になった。ケイと作村との間に共通の話題があるとは思わなかったのだ。この間尋ねたとき、作村はあまり親しくないと言っていたはずだ。
「カールツァイスです」
「は?」
「レンズの話だよ。槙野は写真サークルに入ってるだろ」
「街歩きの会です」
「似たようなもんだろ」
「……へぇ」
初めて聞いたことだった。実際、ケイは五井の前でカメラを取り出したことなんてない。
携帯ならよくいじっているが、作村が言っているのはちゃんとしたカメラのことだろう。そもそも、作村がカメラに詳しいことさえ知らなかった。
「いいだろ、高いレンズは」
「全然違いますね」
ケイが普通に作村と話をしているところを見ていると、世界が歪むような妙な感覚があった。
作村にとってケイは、ただの生徒の一人だ。だから当たり前に世間話をしている。
ケイにとってもそうだろう。作村は、授業を教えてくれる先生の一人。
「……カメラ、いつから好きになったんだ?」
五井は思わず口にしていた。
「え?」
ケイがきょとんとした顔でこちらを見ていた。
小学生の頃、彼の口からカメラという言葉が出たことはなかったと思う。もしそれがほしいと言っていたら、自分は一も二もなく買い与えていただろうから。
「高校くらいですかね」
ケイはもう、戦隊ものの番組を見たりはしない。組み立て式のロボットで遊んだりもしない。
当たり前だ。わかっているのに、自分の知らないところでケイが変わっていったことを見せつけられると、奪われたような気持ちになる。
ケイはもう、あの頃の子供とは違う。そんなこと一目瞭然なのに。
「お前、カメラなんて興味ないだろ?」
作村が呆れたように言った。
ケイは作村と同じタイミングで帰った。自分だけ残ると、怪しまれると思ったのかもしれない。二人でまたカメラの話でもするのだろうか。
二人が去った後の部屋は、狭いはずなのに広く感じた。繁華街にほど近いので、足音や車の音が聞こえてくる。
やることは色々とあるはずだった。授業の準備や、夕飯の支度や、細々とした事務的なこと。住所の変更もしないといけない。わかっているのに、億劫だった。
五井はぼんやりと、出窓に座った。
付近の店から、肉を焼く匂いが流れてくる。腹は減っているはずなのに、むしろ気持ちが悪かった。
西向きの窓は、夕方に日差しが一番強くなる。ごみごみした黒い町並みの向こうに、夕日が沈んでいった。
何か聞かれるだろうとは思ったが、案の定、作村からは夜に電話がかかってきた。
「知り合いだったんだな、槙野」
「そうだよ」
「この間、やたら詳しくあいつのことを聞いてきたの、何が知りたかったんだよ」
小学校教師だった頃の教え子だ、という話はしなかった。だが、五井とケイの年齢差から、気づいたかもしれない。作村はカンがいい。
少なくとも、五井にとってケイが他の生徒と違う存在であることはもうばれてしまった。五井は普段、生徒と個人的な付き合いをしたりしない。
「まぁ、ちょっと、うまくやってるのかなと思って、気になっただけだ」
「ずいぶん仲がいいんだな」
「押しかけられただけだ」
とっさに口にしてしまった。
何か言われるだろうなとは思った。だが、続く作村の言葉は五井にとって予想外のものだった。
「なぁ……俺は偏見とかないし、あまり深入るつもりはないんだが、一応聞いとくが、槙野、もしかしてお前のこと好きなんじゃないか?」
「……は?」
言いにくそうに作村は口にした。もうそれなりに長い付き合いだが、こんな風に彼が五井に対して気を使って話してくるのは初めてかもしれなかった。
言葉を選びながら、慎重な様子で作村は口にした。
「いや……別に、カムアウトしろとかそういうんじゃないんだ。変なこと聞いてすまん。だが、一応相手は生徒なんだし……気をつけた方がいいんじゃないかと思って。余計なお世話だな、すまん」
どうやら彼は、五井も実はゲイなのではないかと疑っているらしい。
「いや……」
「貴花ちゃんもあんまりはっきり離婚のこと、何が原因とは言ってなかったし、急だったから気になってて」
作村は、別れた妻とも以前から付き合いがある。親同士が大学人なので、古くから知っているらしい。彼女からも色々話を聞いているのだろう。
確かに五井が実は同性愛者ということなら、唐突な離婚の理由も説明がつく。先生を好きな生徒。一人暮らしを始めた、やもめの男の部屋。一組しかない布団。
「はは」
五井は思わず乾いた笑い声を立てた。
隠していた同性への思いが断ち切れず、世間体を重視した結婚を解消する男。教師と教え子との、禁断の恋。とはいっても、ケイももうすぐ成人だ。世間的に、許されないというほどでもないだろう。
「ははは」
もし、彼のシナリオ通りだったら、よかったのかもしれない。それならば少なくとも、作村は味方になってくれるだろう。
「どうしたんだよ? 無理に別に答えなくていいからな」
付近の居酒屋から出てきた酔客が、輪になって何やら大声を上げている。騒々しい街だった。五井はまだ夕食を食べていないことに今更気づく。
「いや……お前の想像力がすごいなって思っただけだ」
「何だよ」
きっと彼だって、東南アジアで幼い子どもたちが性を売っていることくらい知っているだろう。彼らを買う、けしからん大人が……幼い子供に欲情する成人男性がいることも。
だけどそれは彼の中では、目の前の友人とは決して結びつかないだろう。彼にとってはきっと遠い国の出来事なのだ。
それは本当はこの国の、この町で起きていることなのに。
「残念だけど、お前の思っているようなことじゃないよ」
もし自分がただの同性愛者だったら違ったのだろうか。
成長したケイと再会して初めて関係を持ったのだったら。
「全然、違う」
歪んだ始まりから、美しい恋愛など生まれようがない。罪は罪だ。
性的な嗜好自体は責められることじゃない。生まれ持ってしまったその欲望は、仕方のないことだ。でも五井は、絶対に越えてはならない一線を越えた。
「そうか……いや、変なこと言ってすまん」
作村は素直に引き下がったが、五井の言うことを信じているかは怪しかった。何となく、まだ疑っているのではないかという気がした。追求して聞き出すようなことではないと思ったから、やめただけなのだろう。
「どうだった、前期の試験」
「どうもこうも、やる気のないゴミばかりだ」
「はは。俺は嫁とまたグアム行ってくるよ」
「ああ、もうそんな時期か」
作村は毎年、妻とリゾートに出かけている。彼によると、それが夫婦円満の秘訣らしかった。
「お前は? たまには旅行でも行ったらどうだ」
「ああ、そうだな」
五井はリゾートに興味などない。もっと若い頃は一人で旅行したりもしたが、最近はそんな気にもなれない。作村との電話を切ると、ひどく疲れていた。
五井はパソコンを開いてメールチェックをする。前期の授業がやっと終わり、レポートの採点業務が溜まっていた。
もともと、授業はやるべき仕事のごく一部でしかない。夏休みだからといって浮かれていられるのは、文系学生くらいで、やることは山積みだった。
気がつくと、ぼんやりとインターネットで旅行サイトを見ていた。妻は海外旅行が好きではなかった。一緒に旅行したのは数えるくらいだ。
せっかく一人になったのだから、どこかに行くのもいいかもしれない。ケイには何も言わずに出発すればいい。海外までは追っては来れないだろう。
携帯電話が震える。まるで見透かしたようなタイミングにどきりとする。
ケイからの呼び出しはまた唐突だった。
「何だ……?」
〝明日、朝九時に東京駅〟