※ややグロテスクな描写があります
僕の初恋の話をしよう。
彼は僕のヒーローだった。小さい頃、僕より低かった背は高校に入る頃にはあっという間に伸びた。
「俺には何にもできないと思う」
「そんなわけないだろ!」
震える正巳を叱咤し、背中を押した。
「だって、俺はまだ十七歳だし、ただの高校生なんだよ。ちょっと走るのが速いくらいで、何にもできない」
「そんなことない。何だってできるよ。絶対にできる」
正巳の目が揺れていたことを覚えている。光彩は少しだけ茶色がかった黒。僕はあの朝のすべてを覚えている。背が伸びても、正巳の少し臆病な性格は変わらなかった。
2025年7月17日午前7時7分。
僕たちは初めてキスをした。それは誓いのような、神聖なものだった。
「大丈夫、お前ならなんだってできる。そして、英雄になるんだ」
正巳が悩んでいることは知っていた。誰だってそうだろう。彼は突然に「選ばれて」しまったのだ。
2023年、地球は異邦の者たちの訪問を受けた。地球外生命体、いわゆる宇宙人だ。彼らは敵対的ではなく、だけど友好的でもなかった。僕たちは彼らが何をしようとしているのかよくわからなかった。偉い人がいろいろと分析をしているけれど、たぶん今も、誰もわかっていない。
彼らは地球人を無差別にも思える方法で「選び」、自分たちの惑星に招いた。選ばれる人間は十歳の少女であることも、八十歳の男性であることもあった。共通点も特に見ない。選ばれた人間は、行くか行かないかを決めることはできた。だがいつ戻ってこれるのかはわからなかった。
最初に帰ってきたのは十歳の少女だった。
快活な少女だった彼女は、戻って来たときには老女のように見えた。だけど彼女は宇宙人の持つ優れた知見を断片的にだが理解し、彼女一人の助言により地球の技術は一気に十年は進歩したといわれる。彼女はヒーローになった。
国家は積極的に、招集を受けるよう勧奨した。だが、選ばれた人間が、その先でどのように過ごし、何を学んで来れるのかはわからなかった。現在、地球からは78人が選ばれて旅立っているが、戻って来たのはまだわずか7人だ。そのうちの3人は、戻って来たときには人間の形を留めていなかった。他の1人は発狂し、1人は記憶を失っていた。
「僕たちを救ってくれ、正巳ならできる」
僕たちの社会は行き詰まっていた。何かを変えなければいけないのだ。そのために、正巳が選ばれたのは僕にとっては納得のいくことだった。彼は僕の知る限りもっとも誠実で、うつくしい精神の持ち主だった。好きだなんて言ったことはないけれど、最近になって急にできはじめた彼のファンなんかより、幼馴染みの僕はずっと前から知っていた。
「大丈夫だ。お前なら何だってできる。未来はお前のものなんだよ」
2025年7月17日午前9時7分。
正巳の姿は、学校の校庭で大勢が見つめる中、消えた。「招かれた」のだ。
2025年7月18日午後0時0分。校庭でドッヂボールをしていた生徒たちが、黒い雨のようなものが降ってくることに気づいた。粘度の高い、汚れた水滴だった。
「血じゃね……これ」
2025年7月18日午後0時20分。
正巳は帰ってきた。招かれた中でもっとも早い帰還者だった。
こうして僕の初恋は終わる。
・ ・ ・
2032年3月1日午後8時05分。
「くそまずい」
「ごめん……」
「もっとマシな食いもんはねぇのかよ」
彼は知らない。合成肉でさえ最近は手に入りにくく、三軒隣の家では犬が誘拐された。食用にするためだ。でも僕は何も言わない。
「ごめんね」
彼がひっくり返した食事を、僕は器にかき集める。おじやにでもすれば食べられるかもしれない。僕はもうずっと空腹だった。四畳ほどしかない部屋は息が詰まる。だけど、窓は開けられない。
「ほんと使えねぇな、クズ」
「……ごめん、正巳」
狭い部屋は、ベッドが置いてあることで更に狭くなっている。正巳は外に出られないから、世間のことを何も知らない。この部屋にはテレビも携帯電話もない。だけど僕は何も言うつもりはない。
「相変わらず天気悪ぃな……」
「そうだね。もう春なのに」
「うちの両親からの連絡、まだないのか」
正巳の両親は一年半前に、宇宙人との戦争を起こすべきだと主張する一派に殺された。だけど僕はそのことを伝えていない。
「うん、たぶん忙しいんだよ」
「ったく……一人息子をこんなとこに閉じ込めて」
帰ってきたとき、正巳は右腕と右足と、左足の膝から下と、それから腎臓と肝臓を失っていた。今もこうしてベッドに横たわったまま、動くことができない。
もちろん帰ってきた彼のことを、政府や企業は放置したりしなかった。だけど、正巳は何も答えなかった。ずっと眠ったままで、何も見てはいないというのだ。たったの一日でも、彼は何かを学んできたのではないかと、僕たちは期待していた。
「そうだね、ひどいよね」
正巳は半身を奪われたのに、何も持ち帰らなかった。それが結論だった。それでも、彼は有名人だったし、それなりに利用しようと近づいてくる人間はいた。
僕は帰ってきた正巳と、しばらくは会話することさえできなかった。やっとのことでストレッチャーの上の彼と顔を合わせたとき、言われた。
――殺してくれ。
やつれきった顔で彼は言った。自分では動けず、テレビや各種メディアからの取材に晒され続けていた。
――正巳、何があったんだよ。
――俺はあんなことに耐えられない。
――あんなこと? 取材か? テレビか?
――違う。あの、『向こう』の……。
彼はそれ以上答えなかった。僕は彼を殺す代わりに誘拐した。そうして借りたこの狭い部屋に、彼をずっと閉じこめている。
「正巳は英雄なのに」
「招待」は今も続いていたけれど、まっとうな形で帰ってくる人間はますます少なくなっていた。結局、誰も最初の少女ほどには成果を残せていない。そもそも招待を受けるべきではない、彼らは敵だという声も高まっている。
正巳はずっと、ベッドの上にいる。僕は実家とも縁を切り、細々とアルバイトをしながら金を稼いでいた。治安も景気もどん底だ。
帰還者は、最近ではほとんど原型をとどめていない。招待自体を断る人も増えた。だけど一説には、政府が無理やり承諾させているともいう。それで、莫大な報奨金を家族に出すのだ。
「正巳はちゃんと、行くことを選んだんだ。偉いよ」
それは僕の本心だった。彼なら何だってできると思っていた。その気持ちに嘘はない。今だってそうだ。
寝たきりでも、髭が伸びた薄汚い姿であっても。僕は彼の上に屈んで、キスをしようとする。でも、正巳は顔を背けた。
「そんなことより、舐めろよ」
言われるまま、僕は顔をそのまま彼の下半身に埋める。思ったように動けない彼は、僕の手にすべてを委ねている。
雨音が聞こえる。僕の口の中で達したあと、正巳は黙ってしまった。洗面台で口を拭って戻って来たとき、彼は言った。
「……はやく、殺してくれ」
僕はその口を、強引にふさいだ。
2032年3月1日午後8時32分。
「やめ……」
「正巳はヒーローだよ、誰が否定したって、僕だけは、信じてる」
正巳は何も持ち帰らなかった、無能な帰還者だと言われた。だけど本当にそうだろうか。
ーー俺はあんなことに耐えられない。
本当は彼は、何かを見たのではないのか。宇宙人たちはそもそも僕たちの味方ではない。その知識がたまたま僕たちの技術の発展に寄与したことがあるというだけだ。
正巳は何かを知り、それを語らないことで僕たちを、地球を守っているのではないか。
たった一日。彼が何を経験したのかは知らない。何も彼は語らないから。でも語らないこと、こうして僕たちがまだ地球で生きていること、それが答えなのではないのか。
「正巳は僕の、ヒーローだよ」
暗い町に雨が降り注いでいる。
僕の初恋は終わった。だけど初恋よりもやっかいな、信仰のような愛だけは終わり際を失い、ただずっと続くのだ。この日常がいつか断ち切られる、その日まで。