第一章 嘘
1 最初の嘘
言葉には意味なんてない。
「すき」という二文字を口にするくらいのことは、機械だってきっとできる。
そこに、意味なんてない。
「そうだね、まずは油絵の具に慣れる気持ちでいいんじゃないかな」
彼の声は、いつも柔らかかった。
声を荒げたりするところは想像がつかない。いつも穏やかな態度をしているので、「仙人」とか一部では言われているらしい。
光央にはよくわからない。そんな高校生、気味が悪いと思う。
「先輩」
だがその有住は、光央の声を無視した。
「有住先輩」
繰り返すと、明らかに嫌々とわかる態度で振り向く。
有住の顔立ちは、派手ではないけれど端正だと誰かが言っていた。光央にはやっぱりよくわからない。
「俺には?」
「何?」
「俺には何か、アドバイスは?」
「尾代は一人で描けるだろう」
有住はただの部長で、生徒の絵を指導するような立場ではない。実際、光央だって彼のアドバイスが欲しいわけではなかった。ただ有住に少しでも長く足を止めさせたいだけだ。
「描けないこともあるんですよ」
光央は精一杯、愛想笑いをしながら言う。
「いつも熱心に描いてるじゃないか」
有住がそう言って立ち去ろうとするので、光央は彼の制服の裾を掴む。有住の動きが、一瞬止まった。
「先輩。今日、部活後暇ですか?」
「テスト勉強をするから」
光央の手から、制服の布が逃げていく。
有住は、そのプロフィールの華やかさに反して、地味な男だった。父親は有名な起業家。成績は優秀、スポーツもできて、性格は温厚で多くの生徒から慕われている。背も高くて顔立ちもいい。
だが、恋人の気配はない。
「なんで、そんな冷たいんですか」
つまらない男だ。
確かに自分は同性愛者で男が好きだが、有住みたいな人間はごめんだった。
「好きなのに」
本当は彼のことなど、好きでも何でもない。それでも、光央は迫真の演技をする。
有住は光央の方を、振り向きもしなかった。最初のときは、顔を赤くして動揺していたのに。
“先輩、好きです”
“俺も男なのに変ですか? でも、好きになっちゃったんです”
“一目惚れです”
「いい加減にしろ」
有住は低く言い捨てて、光央から離れていった。
かわいらしいと言われる自分の顔立ちが、一部の男に受けがいいことは知っていた。有住はたぶん、ゲイではないだろう。でも、最初は光央が「好きだ」と言ったら動揺していた。脈が皆無というわけではないと思う。
「おい、またやってるのかよ」
近くに座っていた同級性があきれた声を出す。
光央だって、本当はこんなことバカバカしいと思っている。できれば、今すぐにでもやめたい。
だけど、光央には他に方法がなかった。
・
「いつまでやんだよ、これ」
「まだ落とせないのか?」
退屈そうに龍弥は携帯をいじっている。
「あいつ、仙人なんだろ? 無理だって」
いつも龍弥と落ち合うのは駅前のファーストフード店だった。龍弥は短い髪を金髪にしていて、その上ピアスもしているからどこに座っていても見つけやすかった。
「高校生が仙人なわけあるかよ」
その点については龍弥と同意見だ。
店内は込み合っていた。光央たちと同じ高校生も多いが、スーツを着たサラリーマンや家族連れもいる。
「なぁ、もういい加減にこんなことやめよう、無駄だろ」
「いいのかよ」
携帯をいじっていた龍弥が、ちらと光央の方を見る。
中学生の頃、光央は荒れていて、家出を繰り返していた。金もなくどうしていいかわからずに、ネットに頼った。ちょうどその頃、自分の性的な傾向にも気づいていたから、会う相手は男だった。いい人も、卑怯な人もいた。
「……本気で言うつもりか」
公園の公衆トイレで無理やり犯されそうになったとき、たまたま通りかかって助けてくれたのが龍弥だった。
「わかってんだろ」
龍弥は別に、善意で光央を助けたわけではなかった。
光央は何度か命じられて万引きをしたり、バイクや自転車を盗んだりした。彼の周りにはそういうことをする仲間がいつもたむろしていた。
「じゃあ他に有住息子の弱みあんのか?」
苛立ったように龍弥は言う。以前からチンピラめいた真似はしていたが、最近はよりそちらの世界に足を踏み入れているようだった。
「叔父さんたちに迷惑かけたくはねぇだろ」
言うことを聞かないなら、万引きのことや、出会い系で男と会っていたことを叔父に話すと言われている。
光央が思うとおりに動かなければ、龍弥はすぐに実行するだろう。そういう男だ。
「……別に息子がゲイだって噂になったとして、大した意味ないと思うけど」
光央は龍弥の食べているハンバーガーを見ながら、投げやりに言う。余計な出費は抑えたいので、自分では何も注文していなかった。
有住の父親である有住敏夫は、外食チェーンを立ち上げた有名な社長だ。
「それを判断すんのは俺らじゃねぇ」
彼は過激な発言で知られ、特にゲイなど性的マイノリティに対して差別的だった。叩かれもする一方で、密かな支持者も多く、一部ではヒーロー扱いされていた。
「黙って言う通りにしてればいいんだよ」
だけど息子が、実はゲイ。それは有住敏夫への脅しのネタに使えると、龍弥や彼が付き合いのあるチンピラは考えたらしい。少なくとも有住敏夫が大変な資産家なことは間違いない。
“お前、ゲイなんだろ? ちょうどいいじゃん”
人をバカにした話だ。だが、光央は逆らえない。
“やってるとこの写真一枚、撮りゃいいんだよ”
叔父たちは光央を引き取ったことを、既に後悔している。長期の家出の後、これ以上何かしたら施設に送ると言われた。
龍弥の告げ口次第では、もう家にはいられなくなる。
・
有住敏夫。有名な、外食系チェーン企業の創業者。光央はその店を、利用したことがないから味はわからない。
ちょっと検索しただけでも、彼の過激な発言はいくつも引っかかった。炎上することでどんどん注目と一部の人気を集め、最近は政治家への転身が噂されているらしい。
“僕が部長なので、わからないことがあったら何でも聞いてください”
有住祥悟は、父親とはまるでイメージが違う。父を反面教師にしているのか、それとも単にそういう人間なのか。
どちらにしても、光央の好みではない。
「どうだっていい、か」
別に好きでない男とだってこれまでも寝てきた。というより、好きな相手などいたことがない。どうせ相手が誰だって大して変わらない。
有住と寝て、写真を撮って、龍弥に渡す。それからどうなろうと、知ったことではない。
「おい」
そんなことを考えながら学校の廊下を歩いていたとき、急に呼び止められた。
「尾代」
肩を叩かれて、光央は振り向く。
「何?」
光央は、心臓がばくばくいうのを隠して冷静を装った。
「さっきから呼んでんじゃん」
上履きの色からすると、同級生だ。だが、誰だかわからなかった。
「三組ってさ、英語午後だろ? 辞書忘れちゃったんだけど貸してくんね?」
「いいよ」
考えろ。必死に光央は頭を働かせる。
つまり、光央と同じ三組ではない人間だ。そして、光央のことを知っている。
まだ高校に入って一ヶ月だ。これだけ親しげに名前を呼ぶのは、きっと以前からの知り合いのはず。同じ中学からこの高校に来た生徒は多くない。小林は違う、早瀬も違う、山中も違う……今更「誰だ」とは聞けない。
光央はそのまま、名前のわからない生徒と一緒に三組まで歩く。
「助かるわー」
「そっちのクラスはどう?」
「うーん? まぁ普通。大島せんせ厳しいけどな」
大島が担任なのは一組だ。光央は慌てて、頭の中の名簿を繰る。
隣を歩く生徒の外見には、ほとんど特徴がなかった。背は光央より高い……百七十センチはたぶん超えている。有住もそのくらいだ。痩せ型、眼鏡はなし、制服を着崩すこともなく普通に着ている。髪は短め。やっぱり有住と似ている。
光央は何か情報が得られないか、必死に彼を観察する。だがそれ以上は無理だった。
こちらを向いた彼の顔は、うすぼんやりとした肌色の塊のように見える。
「今日の部活は来んの?」
渡辺だ。
同じ中学だろうと考えたのが間違いだった。渡辺は同じ美術部の生徒だ。まだ会って一ヶ月なのに、馴れ馴れしい。
「行くよ」
ほっとして光央は答える。
「また有住先輩困らせるんだろ」
はは、と光央は愛想笑いをする。
「よくやるよな」
自分の机に行き、電子辞書を取り出して渡辺に渡した。
「サンキュ」
渡辺が笑うのが声でわかる。でもその顔はぼやけている。
そこに顔があることはわかる。目が悪いわけじゃない。視力はある。見えていないわけじゃない。
見ようと思えば彼の顔に、目や鼻や、口があるということもわかる。ひとつひとつ、追おうと思えばそのパーツを認識することもできる。色や形も。
だけど光央にわかるのはそれら……パーツだけだ。
パーツの集合が、渡辺の顔だということがわからない。
人の顔が、見分けられない。
最初は単に、自分のことを記憶力が悪いのだろうと思っていた。特に人の顔を覚えにくいだけなのだと。
幼い頃は、毎日会うような相手は限られていたし、髪型や体型で自然と見分けられていた。だが、クラス替えがあるたびに混乱した。三十人の同級生は、光央にとっては難しいパズルみたいだった。
“はじめましてって……昨日会ったじゃん”
“なんで無視すんの?”
学校には多くの生徒がいる。じきに、光央は自然と人付き合いを避けるようになった。
医者はあっさりと、事故の後遺症でしょうと言った。珍しい症状ではなく、俳優などの有名な人にもいるらしい。
――人口の、二パーセントはいると言われてるんですよ。
視力はあるし、顔を見ることはできる。だが、それが相手に固有の、その人の顔だということはわからない。見分けられない。
言われてみるといくつも腑に落ちることがあった。
幸い、光央は比較的軽度な部類ではあるらしい。
――治るんですか。
――治るとか、そういうことは……何とも言えないところはありますが……。
――そんなの、困ります。
叔母が、あからさまに不満げな声を上げたことを覚えている。
――ただでさえ、困った子なのに。
光央は自分の席に座り、じっと俯く。休み時間の教室の中は騒々しかった。
入学して一ヶ月。クラスメイトのほとんどは、光央には区別がついていなかった。
顔がわからないことは、誰にも言わなかった。叔母も積極的に担任などに伝えようとはしなかったから、知られる機会はほぼない。
言うつもりはなかった。わざわざ説明するほどのことだとも思わなかった。何とかそれでも、やってこれている。
事故にあったのは、光央にとっては、ただ「起こったこと」だった。事故前後の記憶はほとんどなく、白くぼんやりとしている。
光央は七歳のとき、交通事故に遭った。そして両親を失った。
光央自身も、頭を打って生死の境をさまよった。七歳より前のことはあまりよく覚えていない。
医師は「脳の他の部分は無事なのが不幸中の幸いですよ」と言っていた。
不幸中の幸い。
――つまり俺は、不幸なのか。
幼い光央が理解したのはそれだけだった。
「……尾代」
光央は顔を上げる。自分がどこにいるのか一瞬、わからなかった。
「はい?」
美術室だった。慌てて窓の外を見ると、もう真っ暗だ。教室には有住と光央以外、もう誰もいない。有住もすっかり帰り支度をしている。
絵を描いているといつも時間を忘れる。絵の中では、焦らなくていい。誰かの顔を、むやみに判別したりしなくていい。楽に息ができる。
光央はいつも、自分に見えている人の顔を描いた。ぼんやりした、歪んだ固まり。だが人から見るとそれは、シュールで怖い、わけのわからない絵らしい。
これが普段見えている世界に近いと言ったら、どんな顔をされるのだろう。
「今何時ですか?」
言いながら携帯電話を取り出すと、何か受信したところらしくちょうど震えた。
「あ」
驚いて、光央は携帯を取り落とす。
「ほら」
有住が差し出す携帯を手に取る。受信したのは、叔母からのメッセージだった。
――今日はご飯、適当に食べてきて。
食べてきてと言っても、金をくれるわけじゃない。小遣いだって微々たるものだ。
高校に上がってからいくつかバイトを試したけれど、どれも続かなかった。接客は壊滅的だし、ただのティッシュ配りでも、通り過ぎる人の顔をたくさん見ているうちにめまいがしてきてしまう。
「……先輩、飯食って帰りませんか」
裕福な有住の家では、立派な食事があるに違いない。いつだって温かい食事が用意されていて、自分の部屋があって、何一つ不自由なんてないのだろう。
家に帰りたくない。だけど他に、行ける場所もどこにもなかった。行きたい場所も、居場所も、どこにもない。
「いいよ」
「え?」
思わず光央は聞き返してしまう。いつの間にか、強すぎるほどの力で携帯を握りしめていた。
「行こうか」
これは、チャンスだ。
有住と食事、それも二人きりでなんて初めてだった。
学校を出る頃には、周囲はもう真っ暗だった。
有住が選んだのは、何の変哲もない、駅前のファミリーレストランだった。制服のまま来るには無難だ。だけど、とてもデートと言えるような店ではなかった。
有住は和食の御膳を頼んだ。光央は季節のオムライスにする。
「よく来るんですか?」
「まぁ、たまに」
会話を弾ませないとと思った。だが、空気はぎこちないままだった。
「部員と?」
真正面から有住の顔を見ても、やはりその顔が整っているかどうかは、まるで光央にはわからなかった。人から聞いて、そうなのだろうなと思うだけだ。
「まぁ、来たこともある」
「彼女とは?」
「……いないって知っていて言ってるだろ」
有住は大げさにため息をついてみせる。あまり機嫌を損ねてもいけない。光央は必死に、話題を探す。
「次はどんな絵描くんですか?」
高校三年生の春なんて、忙しいはずだ。だが、有住はほぼ毎回、部活に顔を出している。公立なので、当然、進学するには受験するしかない。
「受験するんですよね」
「質問はひとつにしてくれ」
「じゃあ、ひとつだけ聞かせてください」
ファミリーレストランに来たのは久しぶりだった。ずっと前に、叔父たちと来たきりだ。
「俺のこと、好きですか?」
あっけに取られたような間があった。
しばらくの沈黙のあと、有住は急に吹き出した。いい加減怒らせたのかと思った光央は、かえって反応に困る。だが、有住はおかしそうに肩を震わせている。
「オムライスのお客様」
ちょうど店員が食事を運んできて、会話が中断される。
「……何がおかしいんですか」
「いや」
有住はカトラリーを光央の方に差し出して言った。
「先にどうぞ」
「……いただきます」
しばらく、光央はもくもくと食事をした。どうして笑われたのか、わからなかった。ちらと有住の方を見る。有住の前にも食事が運ばれてきていた。
「いただきます」
よくわからない。今日、食事の誘いに乗ったのは、部長としてはそうすべきと思ってのことなのだろうか。死ぬほど嫌われている、というわけではない。だけど、このまま押して、いけるだろうか。
有住のことなんて、ほとんど何も知らない。
もともと、光央が一方的に「好きだ」と言っているだけだ。有住の好きなものも、普段の生活も、友人も、光央は何も知らない。
「先輩は」
「尾代は」
口にしたのは、ほとんど二人同時だった。
「何ですか?」
「尾代の方から」
大したことを言おうとしていたわけではない。沈黙が嫌で、何か無理やり話題を見つけようとしただけだった。
「いや、普段テレビとか見んのかなって……」
「たまになら。尾代は?」
「俺は、見なくて」
年上の男には慣れているつもりでいたけれど、全然そんなことはなかった。ネットで出会う相手なら、性的な趣向もわかっているし、結局することはひとつだけだ。学校の先輩とはわけが違う。
うまくいかない。テレビなんて自分には広げようもない話題を、つい振ってしまった。
「何聞こうとしてたんですか?」
後腐れのない、その場限りの人間関係が一番いい。どうせ顔はわからない。やることをやるだけなら、誰だって同じだ。
「……尾代は誰にでも、そういうことを言うのか」
「そういうこと?」
「好き、とか」
光央の目の前のオムライスはまだ半分ほど残っていた。卵とチャーハンがぐちゃぐちゃに混ざり合っている。
「そうだと思うんですか?」
この質問に何の意味があるんだろう。もし仮にそうだとしても、「そうだ」と光央が答えるわけがないのに。
何かを確認したいんだろうか。
……例えば、光央が本気で「好き」と言っているかどうかを?
「有住先輩」
光央はぐいと身体を乗り出した。シャツにオムライスが付きそうだったが、気にしなかった。
じっと有住の顔を覗きこむ。顔が見分けられなくても、落ち着いてやれば、目を合わせることはできる。有住の目の色は、真っ黒ではなく少し茶色がかっていた。
彼の目の中に自分がうつっているのが、ぼんやりと見える。
「俺の気持ち知ってますよね」
なるべく真摯に聞こえるように。心の底から、恋に落ちていると彼が信じるように。
心を込めたふりをする。言葉の中身が、空っぽであることを隠して。
「お前は、俺のことなんて何も知らないだろ」
今度は、有住は笑わなかった。
「知らなくても、好きになったんです」
「……どこを」
「顔です」
有住のまとう空気が硬くなる。きっと嫌そうな顔をしているのだろう。
「冗談じゃなくて……最初に見て、すごい好みの顔だったから。いけませんか」
もちろん嘘だ。有住の顔を、光央はわからない。
たぶんそれは、本当に彼の顔立ちが整っているせいでもあるのだろう。端正な顔立ちは、特徴が少なくて見分けにくい。
「いけなくは、ない」
有住の表情はわからない。でも彼の強張った雰囲気はわかる。
「でも、顔だけか」
有住は、何と言って欲しいのだろう。下手に取り繕うと、墓穴を掘るような気がした。
「顔は大事なんです」
むきになったふりで、光央は言い返す。
「俺にとっては顔がすべてと言っても過言じゃないくらいです」
顔以外だったら、何を褒めたらいいのだろう。
優秀で、部長で、家が金持ちなこと。目立たないところ。地味なところ。悪口に聞こえそうで、どれも口に出せない。
光央は諦めて、深く席に座り直した。残りのオムライスを、一気に口にかき込む。有住も、箸を動かし始める。
「どうせ、好きなんて言われ慣れてるんじゃないですか」
「……いや、全然」
「嘘だ」
有住には今彼女がいない。だが狙っている女は少なくないだろう。龍弥などは、案外本当にゲイなんじゃないかと言っていた。
「ほんとだよ。尾代のほうがよっぽどモテるだろ」
「嫌味なんですか?」
「なんでだよ」
光央の知る限りでも、美術部の女子の一部は有住のファンだ。目立ってきゃーきゃー言うわけではないけれど、その目はいつも有住を向いている。ほとんど存在を無視されている光央とは違う。
「どんな人が好みなんですか?」
有住に本当に彼女がいないとしたら、たぶんゲイだからじゃない。
有住は、あまり内面を見せない。態度は優しいが、その内側はよくわからない。それを、たまに薄い膜が張っているみたいだと思う。透明で透き通った、だけど決して割れないガラスみたいな。
「あんまり、考えたことがないな」
どんな女だったら、彼を落とせるのだろう。
「じゃあ今、考えて下さい」
……いや、自分が落とさないといけないのだ。
有住は真面目に考え込むそぶりを見せる。
「……俺は、どうしても何をするにも慎重になってしまうから……自由な人には、惹かれるかな」
有住は言葉を選びながら、そう語った。
自由。それは自分とはあまりにかけ離れていて、白々とした、作り物めいた言葉に聞こえた。がっかりする。何かもっと、自分に関連のある言葉ならよかったのに。
確かに光央だって自由は欲しい。金が欲しい。自分一人だけの部屋と、誰にも邪魔されない時間が欲しい。思う存分絵が描きたい。好きなものが食べたい。
「へぇ、いいですね」
有住は自分の部屋くらい持っているだろう。小遣いだってきっと少なくないはずだ。恵まれているのに、これ以上何が欲しいのだろう。
光央はぐちゃぐちゃになったオムライスの残りを、一気に口に放り込んだ。
出すとは言ったのだが、有住は奢ってくれた。
「意外と肌寒いな」
ファミリーレストランから、駅までは目と鼻の先だ。街灯で明るい道を、足早に人々が行き交っていた。
やっぱり、こんな男は本当なら、自分は絶対に嫌だ。恵まれているから、ふわふわしたものに憧れられるんだろう。
横目でちらと有住を見る。すっと背筋が伸びている。痩せているので、余計に細長く見える。
いくら、彼に対して興味がなくたって仕方がない。やれと言われたことをやるだけだ。自分の意志なんてどうだっていい。
学校に行くのだって、ネットで会った男と寝るのだってそうだ。自分がやりたいからやるんじゃない。
「有住先輩」
「え?」
わざと小声で口にすると、有住が少し顔を近づけてくる。
その隙を逃さず、光央は彼の制服のネクタイを掴んで、強引にキスをした。
「な……」
すぐにびっくりするほど強い力でぐいと離される。
「今の、初めてでしたか?」
「……な、にして」
ただ一瞬のキスだった。だが、有住の動揺は思った以上だった。
「好きです」
光央は熱のこもった目に見えるよう力を込めて、彼を見上げる。
大丈夫、やれる。
最高の演技ができている自信があった。身体が熱い。きっと今、自分の目は潤んで、彼が好きでたまらないという顔をしていると思う。
「好きです、有住先輩。一目惚れでした」
有住は、何か言いたそうに見えた。初めて告白したときみたいに、顔が赤いのがわかった。
だけど彼は、結局何も言わなかった。
「……おやすみ」
「はい」
乗る電車は反対方面だった。そのまま別々のプラットフォームに向かう。
有住は自分を目で追っているだろう。その確信があったから、光央も線路を挟んだ向こう側に、有住を探した。多くのサラリーマンや学生が立っている。
有住もいるのかもしれない。だが、光央にはわからなかった。
最初からわかりきっているのに、どうして探してしまったのだろう。目を凝らしているうちに、列車が滑り込んできた。
・
有住は、キスをした後も今まで通りだった。光央を積極的に避けるでもない。でも、意識しているようにも見えない。
もともと部活の連絡網があるので連絡先は知っている。だが、メッセージを送っても反応は鈍い。
「有住先輩の理想のデートってどんな感じですか?」
今まで通り、積極的に光央は話しかける。チャンスは結局、部活の時間しかないようだった。
「それ、部活に何の関係があるんだ」
「聞いてみたくて」
「考えたことがない」
ため息をつきながら有住は言う。
「遊園地? 映画? 買い物? あ、美術館とか?」
光央だって、本当はやりたくない。だが、やれと言われたことをやるだけだ。意志なんて関係ない。
「美術館、いいんじゃないですか? そんで、おいしいものでも食べて」
さすがにこの間のようなファミレスではないだろう。光央は一人で話し続ける。
「夜景を見て、お酒でも飲んで美術館の感想を語り合ったりして」
有住は部活をサボらず、いつも来ていた。そしてだいたい、遅くまで残っていく。今年のコンクールに出す作品の、下書きをしているようだった。
それは高校生を対象としたコンクールで、受賞すると近隣の美術館で少しの間飾られるらしい。だが、それだけだった。美大受験に有利になるとか、そういうメリットは何もない。
「今年はどんな絵を書くんですか?」
光央は彼のクロッキー帳を覗き込む。だが、有住はぱたんと閉じてしまった。
美術室の一番後ろの壁には、去年有住が賞を取ったという絵が飾られていた。ひと気のない漁村の風景と、猫が一匹描き込まれている油彩画だ。丁寧だが、これといった特色のない絵だった。
「……見たっていいじゃないですか」
「尾代も出すんだろ?」
「ライバルだと思ってるんですか?」
「そうじゃない」
賞金がもらえるわけでもないし、光央にとってはあまり意味もないコンクールだ。
でももし、ちゃんとした賞をもらったら、叔父たちの反応も変わるかもしれない。美大受験の費用なんて絶対に出してくれないけれど、もしかしたら。そう思って、参加すると伝えた。
「じゃあ見たっていいじゃないですか」
「……完成したら見せる」
そんなの、いつになるかわかったものじゃない。別に本当に見たかったわけでもない光央は、自分のカンバスに向き直る。光央は下絵をあまり描かない。
「三年生で出す人って少ないですよね」
というよりも、部活に出ている三年生自体が少ない。もともと美術部員の半分くらいは、幽霊部員のようだった。
「受験第一なんだろ」
有住の言葉には、少しだけ棘があった。
「有住先輩は?」
「俺は……大学はまぁ、どこでもいいし、最後だから」
「嫌味ですか?」
絵こそまたいつでも描ける。
彼は大学まで行ったら、父親の会社を継ぐんだろうか。ネットでチラと見た、「あくどい」だの「ブラック」だの並んでいた評判を思い出す。有住が商売に向いているとはとても思えない。
「有住先輩、俺とデートしませんか」
「そのサイズのカンバス、使うの初めてなんだろう? 大変だぞ」
聞こえていたはずなのに、有住はあからさまに光央の言葉を無視した。確かに、顧問から言われて、要領で指定されているうち一番大きいサイズを使うことにした。サイズが大きいほど有利らしい。慣れない大きい画面に、困っているのは確かだった。
だが、それは去年有住が使ったのと同じサイズだ。描けないはずはない。教室の後ろに飾られた絵を光央はちらと見る。
「じゃあ、コンクールで俺のほうが上位だったら、デートしてください」
「上位だったらな」
有住はあっさりと言った。
「えっ、いいんですか?」
「……自信満々だな」
有住は小さく笑った。
チャンスだと思った。だけど、家に帰ってちゃんと調べてみると、コンクールの結果がわかるのは半年ほども後だった。それではさすがに遅すぎる。このプランは、どうやら失敗のようだった。
・
その週の木曜、光央は掃除当番のために美術室に行くのがかなり遅れた。同じグループの生徒のサボりがばれて、教師からやり直しを命じられたからだ。
別棟の階段を上がったところで、話し声が聞こえた。
「尾代って何しに部活来てんの?」
女子生徒の話し声だった。同じ部活の……確か三年生だ。でも、名前はぱっと出てこなかった。廊下の水道前で話をしているらしい。美術室に入るためにはそこを通らなければならない。
「男口説くためでしょ」
「いい加減きもいんだけど」
笑い声が聞こえる。有住に何かと甘えた声で話しかけている女子生徒たちだった。
別に光央だって、好きでやっているわけじゃない。それにお前らだって同じようなものだろうと思う。
「あいつさ、なんかウリみたいのやってんだって」
「え、なにそれ。女の人に買ってもらうの?」
「いや、男じゃないの? まぁ顔は可愛い系だしさ」
同じ中学出身の生徒も何人かいる。龍弥は中学の同級生で、彼とつるんでいたことは知られている。色々悪い噂もされた。
証拠があるわけでもないだろうし、どうだっていい。悪く言われることには慣れている。
だけど、続く男の声に光央はびくりと身体をこわばらせた。
「声、響いてるよ」
「あ、部長」
有住が来た途端、女子生徒たちはぴたりと話すのをやめた。
「あまり品のない噂はしない方がいい」
やんわりとした、だけど彼にしては強い釘の差し方だった。
「すみません」
軽い調子で女子生徒たちが言葉を返す。
善良で正しく、誰にとっても平等な有住部長。きっと誰が相手だとしてもかばうのだろう。そうに決まっている。
イライラした。思い切りその仮面を破り取ってやりたい。
俺、男とよく寝てるんですよ。
そう言ったらどうなるだろう。
だから、有住先輩もどうですか?
――品のないことは言わない方がいい。
想像の中の有住の言葉があまりにぴったり来すぎていて、光央は一人で小さく笑った。
その日は、最後まで美術室にいたのは有住と光央の二人だけだった。有住が戸締まりをするのを待って、自然と駅まで一緒に帰ることになった。
「そういえば、聞いたんだけど」
有住が言いにくそうに切り出したとき、あの噂の話だろうと思った。
「これを聞いていいのかわからないけれど……言いたくなかったら言わなくていい。尾代は昔、事故に、あったって」
本当に気まずそうに有住は口にした。
事故のことなんて、どうだっていい。別に隠していることではない。人の顔が見分けられない、ということだけは除いて。
「そうですよ」
光央はあっさりと答える。
「ご両親が、それで……」
「死にました」
有住はたぶん、根から善良な男なのだと思う。それが魅力的かどうかは別にして。
色んな反応に接してきたし、同情されることも多い。だけど、有住は本当に自分の痛みみたいに感じているように見えた。
「ごめん」
彼が悪いわけではないのに、どうして謝るのだろう。
「……ただの事実なんで」
「でも、それだけじゃないだろ」
事故のことを利用して、だから寂しいとでも言ったら彼はなびくだろうか。ただ冷静に、そんなことを光央は考える。
もう十年も昔のことだ。衝撃的だったし悲しかったが、いい加減、事故のことに振り回されるのには疲れた。何も感じないのが一番ラクだ。
ただ起きたこと。それ以上じゃない。だから、別に不幸とかかわいそうとか、そういうわけじゃない。
「……絵、順調ですか」
光央は意識して、話題を変えた。今のところ、最初に食事をしたときのキスが唯一の成果だ。なかなかそれ以上には踏み込めなかった。
早くしないと、いい加減龍弥がしびれを切らす。
「来週から、カンバスに描き始めようと思ってる」
「どういう絵なんですか」
「どうせ、興味なんてないだろ」
急に、有住は突き放すように言う。
確かに光央は、有住の描く絵自体に興味なんてないが、そうは言えない。
「ありますよ。勝負だってしてるわけだし」
学校から駅までは、ゆるやかな坂道になっていて、人通りはそう多くない。夏が近いせいか、まだ空は薄明るかった。
こんな風にまたいつ、有住と二人きりになれるかわからない。ここぞとないチャンスだった。また食事に誘ったとして、有住は来てくれるだろうか。それとも何か別なことの方がいいのか。
「帰りたくない」
悩んでいられるだけの時間ももうなかった。やるだけだ。やるべきことを、やるだけ。
「尾代?」
「帰りたく、ないんです、家に」
光央は立ち止まる。精一杯、繊細に見えるように。
嘘ではなかった。本当に、家には帰りたくない。叔父の家は、あそこは自分の家じゃない。
でも、だからといって行きたいところがあるわけじゃない。
もう光央自身の家はどこにもないのだから。
事故の話を聞いた有住は、きっと断りはしないだろうと思った。
「……どこか、寄ってくか?」
案の定、有住は静かな声で言った。
計算通りだった。なのになぜか胸の中を空気が通り抜けていくような、変な感じがした。
カラオケと有住は、似合わないことこの上なかった。だが、狭い部屋の中に二人きりだ。これ以上ないチャンスだった。
「何か、歌いますか?」
「うーん……」
有住はリモコンを操作しながら悩んでいる。結局、数年前に流行った男性ボーカルの曲を彼は入力した。
歌は結構うまかった。音痴なら面白いのに、何をやってもそつなくこなす男だ。
好きだとか、大事にしたいとか、そんなことをてらいもなく並べた歌だった。どうしてどんな歌も、恋愛のことばかり歌っているのだろう。
これは、チャンスだ。でも、突然にキスをするだけではこの間と同じことになる。
「はい、尾代の番」
マイクを渡される。
カラオケに初めて来たのは、客の男とだった。金をあげるから、口でするように言われた。気持ちが悪くて、トイレで何度も口をすすいだ。
「俺じゃ、だめですか」
そのときと同じだ。ただ有住ひとりを騙せばいいだけ。簡単なことだ。
相手は恋愛経験も多くない、たった二つ年上なだけの子どもだ。仙人みたいなんて言われていても、その中身はまだ年相応のはず。
光央は、有住の太ももに手を載せる。
「どうして、そんなに焦るんだ」
光央は有住をじっと見つめて、顔を近づけた。だけどそっと、有住に肩を押しのけられる。
「好き、好きです」
どうしたらいいのかわからない。
繰り返し過ぎて、その言葉の持つ意味さえ、わからなくなってくる。
「……うん」
有住の手が優しく髪を撫でる。
壊れ物を扱うような、優しい手つきだった。隣の部屋から、調子外れのはやりの歌が聞こえてくる。
触れられているのに、遠い。膜がある。絶対に触れることはできないと感じる。今まさに、触れているのに。
嘘をついているから。だから、彼が撫でているのは本当の光央自身じゃない。
空っぽの、中身のない入れ物だ。
光央はやっと悟る。
――彼はたぶん、一生自分とセックスなんてしないだろう。
・
「なんか今日、友だちから電話がかかってきたけど」
家に帰ると、叔母が怪訝そうに言った。光央は携帯を持っているから、普段誰も家に電話をかけてきたりはしない。
「誰?」
「中学の知り合いとか言ってたけど、柄が悪くってもう」
龍弥だ。すぐにでもすべてをバラすことができるという、脅しだろう。
「携帯なくしたのかな」
光央は適当にごまかす。
「また変な連中とつるんでんじゃないでしょうね」
「……ないよ」
もう全部やめたい。有住を落とすなんて、自分には無理だ。
光央はリビングの隅でぼんやりとスケッチをする。家には光央の部屋はない。だから油絵の具も使えない。鉛筆で薄く、男の輪郭を描く。だけど全然似ていない気がして、すぐに消してしまった。
“わかってるんだろうな”
やっているところの写真を撮れ、と龍弥には言われたけれど、キスくらいでもいいのかもしれない。
それならばまた、ふいにキスして写真を撮ればいいだけだ。それで納得してくれるかはわからないが、何もないよりマシだろう。
きっと有住は、自分のことを好きになったりしない。
勢いでセックスしたりしない。
リビングのテーブルの上は散らかっている。叔父が飲んだらしきビールの空き缶や、ペットボトルがそのままになっている。それを見ながら、ぼんやりと光央は思う。
彼は本当に好きな相手とだけ、どこかちゃんとした場所で、するだろう。デートをして、きれいな風景でも見て、いい食事を食べて、そしてふかふかのベッドでゆっくりと抱き合うだろう。想像の中で、有住は優しく笑っている。
「……くそっ」
どうして自分がそんな想像に傷つくのか、わからなかった。
次の部活の日、美術室に有住はいなかった。
彼はいつも、早くから来て一番遅くまでいる。準備室だろうか。
――早く、龍弥を納得させないといけない。
美術準備室に足を踏み入れると、有住は棚の中から何か探しているようだった。
部屋は狭く、ぎゅうぎゅうに石膏像や古いカンバスが置かれている。人目もないし、チャンスだ。
――キスくらいで龍弥が納得するかはわからない。でも、やらないよりはマシだ。
キスはこの間だってした。それと同じだ。なのに、心臓がやけにばくばくいっている。光央はそっと、携帯を動画撮影モードにして隠し持つ。
簡単なことだ。今更ためらっても仕方がない。
足音を立てないようにして、光央は男に近づいた。彼は真剣に棚を探している。光央はそっとその腕を叩いた。
振り向いた彼の頬に触れるとほとんど同時に、唇を強引に奪った。携帯もちゃんと動画撮影モードにしたまま構えている。
キスをしていたのは、ほんの数秒間だけだった。だけど、いやに長く感じた。
――よし。ちゃんとやった。これでいい。
「尾代? 何なんだよ、びっくりするだろ」
男はひどく驚いていた。その瞬間、光央は間違いに気づいた。
有住じゃない。
「ていうか、お前……」
「何だよ、冗談だろ」
背格好がよく似ていたからわからなかった。ごみごみした準備室の中なので見えなかったが、上履きの色も違う。渡辺だ。
「本気にすんなよ」
光央は慌てて誤魔化そうとする。突然同級生にキスをされたら、誰だって驚く。光央が有住に言い寄っていることは、渡辺だって知っている。
「なぁ、俺、前から考えてたんだけど、尾代はほんとに……」
渡辺は急に、光央の手を掴んだ。
「どうかした?」
声のした方に振り向くと、男が一人立っていた。声からすると今度こそ、有住本人のようだった。なんでこんなときに、と思ったがもう遅い。
見られただろうか。光央はとっさに、渡辺の手を振り払う。
「違……違うんですって」
光央は笑って、何かをかき消そうとするかのように手を振る。キスは見られていなかったと思いたかった。
「何でもないです」
だが、有住の発する空気は強張っている。
――見られた、のかもしれない。
だとしたら、光央はいつもは彼に言い寄っているのに、別の男にキスした軽薄な人間ということになる。
違う。だが、説明できない。人を見分けられないとは言えない。言ったら、「顔が好き」と言いながら、有住の顔が見分けられていないことも当然バレる。
「ちょっとふざけてて」
渡辺もこんな時に限って何も言わない。ひとりだけ笑っている自分が滑稽だった。
「さっさと部活に戻れ」
有住はそれだけ吐き捨てるように言って、美術室に戻っていった。
最悪だった。順調どころかマイナスだ。有住を落とさないといけないのだ。渡辺じゃない。
「くそっ」
光央は思わず呟く。
「……なぁ、尾代」
「お前には関係ねぇよ」
八つ当たりだとはわかっていたが、それ以上渡辺と話をする気にはとてもなれなかった。
どうにかしなければと焦るばかりで、やる気はから回った。有住とは話せない日が続いた。遅くまで残っても、誰か他の部員も必ずいた。コンクールが近いせいもあるのかもしれなかった。
有住はいつでも、誰か別の部員と一緒にいた。用件を見つけて話しかけても、無視こそされないが事務的に返される。
「有住先輩、コンクールの要領の件なんですけど」
「それなら先生に聞いて」
「有住先輩、絵の具固まっちゃったみたいなんですけど、ライターか何かないですか?」
「さぁ……俺はわからないな」
有住の態度は、明らかに以前よりも硬化していた。どう考えても、あのキスが原因だろう。
やっぱり、見られたのだ。
間違えただけだ、と言い訳したい。でも、できない。顔がわからないとは言えない。何かうまい他の理由がないかと考えたが、思いつかなかった。
「あ、絵の具? 俺カッターなら持ってるけど。貸してみろよ」
渡辺が強引に、光央の手元にカッターを押し付けてくる。
何を勘違いしたのかあれ以来、やたらと渡辺が部活中にまとわりついてくる。
「いい、大丈夫」
「なぁ、そういや昨日のお笑い見たか? すごかったよなぁ」
渡辺の姿かたちは、有住によく似ている。だけど、彼とのキスで龍弥がごまかされるわけがない。間違えるのはきっと自分くらいだ。
普通の人は、間違えたりしない。
「見てない」
「テレビとか見ないのか?」
「うるさいな。どうだっていいだろ!」
渡辺は確かにうざったい。だけど彼の気持ちを損ねても、良いことはない。わかっていたのにこらえられなかった。
「……尾代、部活中だから、声はもう少し小さく」
有住が、穏やかだけれど有無を言わせない声で言う。
「すみません」
何もかもうまくいかない。その原因は、やっぱり有住にあるような気がした。彼が思い通りになってくれたらいい。それだけで、何もかも解決するはずなのに。
固まってしまった絵の具の蓋は、なかなか取れなかった。絵の具ひとつだって安いものじゃない。どうにかこのまま使いたかった。
「どこ行くんだ?」
「倉庫」
着いて来そうな渡辺を手で制す。普段使う備品はほとんど美術準備室にあるが、一階の倉庫にはそれより古いものがしまわれている。望み薄だが、ライターかペンチくらいあるかもしれない。
向かった倉庫の中は、埃っぽかった。渡辺から借りたカッターを握りしめたままだったことに気づき、ため息をつく。どうにか有住の誤解を解けないだろうか。
有住を騙すのは無理だと伝えたら、龍弥は叔父に、万引きや売春のことを話すだろう。
施設は嫌だ。きっと、絵も描けない。今以上に自由がなくなる。
それなら家出をして、生きていけるだろうか。何とか金さえ手に入れれば、一人で暮らしていけるんじゃないか。
考えながら、光央は戸棚を漁る。誰が残したのかわからないような、古い絵筆やパレットがいくつもある。使えそうなものがあったら、ついでにもらっていこうかなと思う。
「おい」
思わずびくりとする。気がつくと倉庫の入り口に、見慣れない男が立っていた。生徒には見えないし、教師でもなさそうだった。チンピラみたいな雰囲気だ。
「有住祥悟はいるか?」
光央を見ると、堂々と倉庫の中に入ってきて言った。龍弥の知り合いに、こんな感じの男がいたような気がした。
「龍弥の知り合いですか」
「……そうだ」
「あの、俺」
「いいから、呼んでこい」
人に命令することに慣れている様子だった。
とうとう光央には任せられないと考えて、別の男を送り込んできたのか。だがここは学校だ。危険にも程がある。龍弥の考えることは、時々わからない。
「あの、呼び出してどうするんですか」
龍弥はゲイが好きじゃないし、犯すとかそういうことはないだろうが、暴行くらいは平気でするだろう。
「いいから、言うことを聞け。呼んでこい」
納得はとてもできなかった。だけど命令されると、逆らえなかった。どうせ同じだ。
絵を描く以外のことは、何も自分で選んで来なかった。この高校を選んだのも、近場の公立にしろと叔母に言われたからだ。命令されて、言われた通りにやってきた。
相手が龍弥でも、誰でも同じだ。
光央は階段を登り、また美術室に戻る。
「有住先輩」
部屋に入ったところで、カッターを忘れてきたことに気づいた。
「どうした?」
目の前に来た彼の顔を、今日もやはり、他の誰かが語るように「かっこいい」とは思えなかった。ただぼやけている。
渡辺にキスしたとき、どうして、彼が有住でないとわからなかったのだろう。
……わからない。わかるわけがない。
何度好きだと繰り返したとしても、有住の顔が見分けられないことは何も変わらない。なぜか胸の奥がざわざわして苦しい。
「先生が呼んでます、倉庫で」
彼の顔を、それ以上直視できずに光央は俯く。
いっそ、有住が他の誰かとは全然違う外見だったらよかった。角があるとか、腕が三本とか、何でもいい。
「何?」
……そうしたら、ちゃんと彼を見つけられるのに。
「運んでほしいものがあるって」
疑われたりするのかと思った。だが、有住はいつも通りだった。
「わかった。ありがとう」
ただ、他の一年生にそうするように。丁寧で優しい声だけ残して、彼は歩いていった。
あの男は、有住をどうするのだろう。ひどく殴ったりするのだろうか。龍弥はどういうつもりなのか。
ちょうど、携帯に龍弥から「すぐに来い」という連絡が入っていた。命令には逆らえない。光央は絵の具を片付け、すぐに学校を出た。
有住は大丈夫だろうか。
歩きながら携帯を開き、有住の名前を呼び出す。
ちゃんと、伝えたい。渡辺にキスしたのは本意じゃなかった。
誤解です、本当に好きなのは有住先輩だけです、と言ったら白々しいだろうか。
いかにもな嘘はだめだ。きっともう有住は疑っている。できるだけ、本当のことを真心を込めた風に伝えないといけない。
“本当のことを、話したいです”
その文章の嘘くささにげんなりしながら、光央はメッセージを送った。
龍弥はいつも通り、ファーストフード店にいた。光央は何も注文をせず、その金髪を目指していく。
「遅ぇ」
龍弥はすぐにぐちぐちと、上から有住の件で進捗がないのかと責められたことを話し出す。それで、しびれを切らして男を送り込んできたのかと思った。だが、龍弥との話はかみ合わなかった。
「そんなやつ知らねぇよ」
「だって、龍弥の知り合いだって……!」
「俺は知らねぇっつってるだろ」
じゃあ、さっき倉庫に有住を呼んだ男は誰だったのか。さあっと血の気が引いていく。教師でも、生徒でもないように見えた。そんな男が、学校の中にいること自体がおかしい。
有住に送ったメッセージは、いまだに既読になっていない。
「俺、ちょっと学校に戻……」
光央は立ち上がる。嫌な予感で、血の気が引いていた。
「あ」
携帯をいじっていた龍弥が言った。
「有住の家、燃えてるって」
後になるまで、光央には何が起きたのか、全体像はなかなかわからなかった。
男は、有住をガムテープで縛り、殴る蹴るなどの暴行をした。最初は誘拐をしようとしたらしい。だが抵抗にあって、カッターで全治二週間の怪我を負わせた。
彼は、有住から家の鍵を奪い、有住の家に裏口から入り、火をつけた。幸い火事は、すぐに消し止められてボヤ程度で済んだらしい。
翌日の学校は、その話題で持ちきりだった。
光央も警察に呼ばれて話をした。男の共犯なのではないかと、随分疑われた。だが、光央は何も答えられなかった。何もわからなかったのだ。
龍弥が白を切っているだけで、犯人は龍弥とグルだという可能性も考えた。だが、有住の家を燃やしても脅しの材料には使えない。そんなこと彼にはする理由がない。
「わかりません……」
「あなたは、男を見てるんですよね?」
「わかりません、普通の……成人男性、だったと思います」
「年は? 髪型は?」
頭が真っ白になる。年は……三十代くらいか? だが、私服を着た若者だった可能性はないか? 声と大まかな姿形の印象しかない。思い返そうとする。だけどわからない。
――どんな男だった?
顔のない男の姿しか、思い浮かばない。
「答える気がない? 馬鹿にしてるんですか?」
警官が声を荒げる。
犯人はまだ逃げていた。彼が有住を傷つけるのに使った凶器は、光央が倉庫に置き忘れたカッターだった。
「違う、俺はほんとに、わからないんです……」
携帯を没収され、クラスメイトからは今まで以上に距離を置かれた。有住に送ったメッセージは、まだ読まれないままだった。
あの男が有住に何かするだろうことはわかっていた。でも自分は、ただ命令されて黙って従った。
龍弥にやれと言われて、有住を落とそうとしたように。
そうしたいわけじゃなかった。でも、何も考えずに従った。
「まぁ、気にするなよ」
渡辺だけが、今までと同じように光央に接してきた。
「金持ちは恨み買ってるから、しょうがないんだって」
どうして渡辺は笑っているのだろう。背格好だけは有住に似ている。だけど彼は、全然違う。
有住が懐かしい。彼に会いたい。
「尾代? 顔真っ青だぞ? 大丈夫か?」
全治二週間というのはどのくらいの怪我なのだろうか。命に別状はないと聞いたが、もし取り返しのつかないことになっていたら。
あの優しい声で、「何でもないよ」と言ってほしい。
息が苦しい。
彼を傷つけるつもりなんてなかった。ぐらぐら視界が揺れる。こんなことになるなら、最初から龍弥の言うことなんて聞くべきじゃなかった。
命令されて従った。自分の意志なんてないみたいに。いつもそうだった。好きじゃない男と寝た。金が必要だったから。命じられることは何でもした。
最低だ。
行けることなら、見舞いに行きたかった。美術部の有志で行こうという話もあったが、有住の家族は断っているらしかった。もちろん、そのメンバーに光央は含まれない。
「そんなに、悪いんですか……?」
女子生徒が顧問に詰め寄っている。
「命に別状はないって。大丈夫よ」
光央はその話の輪には入れない。美術室は針のむしろだった。渡辺以外の部員は、完全に光央を無視した。
警察に対しては人の顔がわからないことを話し、前に診断してくれた医師の名前も伝えた。それ以降連絡がないから、たぶん共犯でないと判断はされたのだと思う。だが生徒達は、ほとんどそれを信じていなかった。
“振られた腹いせだろ”
“えっ犯罪者じゃん”
真正面から咎められたり、これみよがしに陰口を叩かれることもあった。
教室も、美術室ももう光央の居場所ではなかった。
それでも、絵が描きたかった。他にカンバスを置いて絵を描くことができるような場所はどこにもない。家では絵の具は使えないし、他に逃げ出せる場所もない。
結局、光央は美術室に向かった。延々と、部活の日が来るたびカンバスに向かった。
渡辺だけが、相変わらず光央に話しかけてきた。光央は生返事しかしなかったが、彼はあまり気にしていないようだった。
事件から一週間ほどした頃、渡辺は言った。
「有住先輩、退院したって」
光央は思わず筆を止めてしまう。渡辺は、有住のことに限らず部内の人間関係や事件に詳しかった。その点だけは、ありがたいと思う。
「でももう、部活には来ないんだろうな」
渡辺は感情のこもらない声で言う。
確かにもう、彼の絵はコンクールには間に合わないだろう。光央の絵は、だいぶ完成に近づいてきていた。
「残念?」
光央は顔を上げる。
「え?」
「やっぱり尾代って、マジで有住先輩のこと好きだったんだな」
渡辺が乾いた笑い声を立てる。
「冗談じゃない」
光央は笑い返そうとした。だけどうまくできたかはわからなかった。
もう有住と、会うこともないのだろうと思っていた。
学校には復帰しているらしいが、美術室には来なかったからだ。学年が違うと、部活でもない限りほとんど会う機会はない。光央から会いに行くことはできなかった。
謝るにしても、何と言ったらいいのかわからない。
光央はその日も一人で、最後まで絵を描き続けていた。もともと戸締まりは、部長に限らず最後までいた人間がすることになっているらしい。有住がいなくなって、自然と光央の役割になった。
がらとドアが開いたとき、さっき帰った部員が忘れ物でも取りに来たのだろうと思った。
光央はちらとそちらを見る。男が近づいてくる。背のそこそこ高い、痩せた……だが彼の顔にははっきりとした特徴があった。
左の目尻のあたりから、鼻筋にかけて斜めに、ざっくりとした切り傷がある。
「……熱心だな」
声だけが変わらない。以前と同じく、穏やかな響きのままだった。
光央は思わず立ち上がる。
「……っ」
光央は彼の顔から、目を離すことができなかった。見ようと目をこらさなくても、はっきりとわかった。傷は十五センチぐらいはある。少し赤みがあり、隆起していた。
「……あ」
謝らないと、と思った。だけど言葉がない。
有住を呼び出さなかったら。カッターを忘れなかったら。龍弥の呼び出しを無視して、すぐに教師を呼びに行っていたら。
……きっと違っていた。
「あの男を知ってるんだろ」
それらのすべてを、何と謝ったらいいのか、わからなかった。
渡辺から聞く限り、犯人はまだ逃走中らしい。男は犯行中、終始マスクを被っていたという。素顔を見たのは、光央だけだった。
「……わかりません」
龍弥の差し金ではなかったのだとしたら、光央にはまるで心当たりがない。
「じゃあ何で、協力した」
「……知り合いの、関係者かと、思って」
あきれたように、有住は息を吐いた。
「随分な知り合いだな」
そう言われたとしても仕方がない。もうどうせ、有住にとって自分など敵でしかないだろう。
「これだけ答えろ。この中にいるか」
有住が差し出したそれは、数枚の写真だった。スーツを着て、真正面を見た男の写真だ。どれも、似たような男にしか見えなかった。
髪型も輪郭も似通っている。正直、全部同じ人間なのかと思ったくらいだ。
「なん、ですか。これ……」
履歴書の写真のようだった。警察でも、こんな写真は見なかった。
「従業員だったんですか、犯人」
「お前には関係ない」
有住は冷たく言い放った。だがたぶん、有住が持っているということはそうだ。
「警察に……」
「これだけでいいんだ。もうお前には何も期待しない。これだけ答えろ」
有住は、有無を言わせぬ口調で言った。
光央は改めて写真に向き直る。何か違いが見つからないかと思った。ピアスだとか、メガネだとか、わかりやすい特徴がないか。だが、男たちはみな一様に同じような外見をしている。
だめだ。焦って何度見返しても同じだった。どれも同じ男に見える。違いがまるでわからない。
「見たんだろ お前は!」
もう言うしかない、と思った。警察にだって話したことだ。
これまで、誰にも言ってこなかった。特別に不幸な子どもみたいに思われたくなかったから。他のみんなと同じようにできるのだと、証明したかった。
両親はいない。でも、そんなに不幸じゃない。
俺はみんなと同じだ。大して変わらない。
「俺……実は、人の顔がわからなくて」
だけどそれは、あまりにもこの状況で言うには、白々しい嘘のようだった。
“すごい好みの顔だったから”
「人の、顔が、見分けられないんです」
“一目惚れでした”
それは、光央の口にできるもっとも真摯な言葉だった。
何度も繰り返した告白より、口にしたくない真実だった。
「バカにしてるのか」
あきれたような声が振ってくる。
違う。だけど、声にならない。
――嘘じゃない。
でも、嘘だった。何も言い訳なんてできない。
「俺は……ちゃんと」
「もういい、お前に何か聞こうとした俺がバカだった」
こんなに冷たい有住の声を聞くのは初めてだった。
「尾代は、中学の頃から問題行動があるんだってな」
有住はただ冷静に写真をポケットにしまった。突き放すような声と態度。もう、彼と会うことは今度こそないだろう。
有住は部活に来ない。卒業していく。
「不特定多数の男性と、そういう……」
じわりと胸の奥に苦いものが広がる。確かに自分は有住とは違う。
誰の顔もわからなくて、いつも落ち着かない。絵が描きたくても、好きなように過ごせる場所もない。頼れる相手もいない。
学校の知り合いとファミレスに行ったり、カラオケに行ったりするのは初めてだった。
楽しかった。あんな風に誰かと過ごすのが、楽しいと思えるなんて知らなかった。
でも、一緒に過ごした時間のことを、有住はきっともう、記憶から消したいくらいだろう。
「……騙される方が、悪いんだろ」
絞り出すように光央は言った。
本当は、ちゃんと謝りたかった。でも、もう無理だった。
恵まれた立場の彼に、わかってもらえるはずがない。光央は精一杯、有住を睨みつける。
「あんたが金持ちで、有名な奴の息子だからこんな目にあったんだろ」
何とか押しとどめようとしたのに、涙が一筋流れた。泣いていいのは自分じゃない。辛かったのは有住だ。わかっているのに、どうしようもなかった。
有住は、怒るかと思った。殴られたって構わなかった。
むしろそうしてくれた方がよかった。
だけど、彼は押し殺したような声で言っただけだった。
「祖母は、煙を吸ったせいでまだ意識が戻らない」
有住が、手のひらを握りしめるのが見えた。
「絶対に許さないからな」
有住はそれだけ言った。どんな顔をして言っているのかは、やっぱり光央にはわからなかった。
次の部活の日、光央はいつも通りに美術室へ行った。
だが、美術室の中がやけにざわめいている。光央の姿をみとめて、渡辺がすぐに近寄ってきた。
「なぁ、尾代、あれ――」
それはこの夏、光央が美術室でずっと描き続けていた油彩画だった。コンクールに出すために、普段よりも大きめのサイズを選んだ。苦労したが、もうだいぶ完成に近づいてきていた。
普段は準備室にしまってあるはずのそれが、美術室の一番後ろの壁にかかっている。それは、かつて有住の絵がかかっていた場所だった。サイズもちょうど同じだ。
ただ壁にかかっているだけではなかった。
カンバスにはざっくりと、斜めに大きく切りつけられた跡があった。刃物で切り裂いた跡だった。
「うわ……」
絵はべろんと、むき出しの傷跡みたいにめくれていた。光央が悩みながら、何度も重ねた線や色はざっくりと切り裂かれている。
「ひっど……」
「自業自得でしょ」
誰かが呟くのが聞こえる。
光央はゆっくりと、絵に近づいていく。
自分には何もない。絵を描く以外には、できることもやりたいこともなかった。だから、描き続けてきた。時間の許す限り。
否定してやると、言わんばかりの乱暴さだった。光央の絵も、光央自身も。
「何だよこれ……」
大型のナイフか、あるいはカッターだろうか。刃を思い切り振り下ろしたのか、カンバスはざっくりと切り開かれていた。
「……くそっ」
きっと、これが彼の答えだ。
結果的に、龍弥はもう有住については諦めたらしい。たまに思い出したように、連絡が来る。どうせまた、何か命令するつもりなのだろう。光央は無視していた。
もう叔父たちに何を言われても構わない。なるべく早く家を出ることが最優先だった。もう誰にも命令されたくない。自由がほしい。
……金さえあれば、それが叶う。
光央はしばらく接続していなかったサイトに書き込みをする。以前会って、金払いがよかった男にも片端から連絡をした。
人の顔がわからないから、接客のバイトはできない。そもそも、時給の安いバイトでは無理だ。他に方法は思いつかなかった。
「……俺、お金ないんです」
光央は精一杯媚びた笑顔を浮かべて、男の腕にからみつく。
「嬉しいな、おじさんの顔、好みです」
この男に「好きだ」と言うことにためらいなんて覚えない。この先もきっと、いくらでも心のない言葉を吐くだろう。
それは告白の言葉じゃない。ただの音だ。何度でも言える。
「好きなんです」
光央は男に笑いかける。嘘をつくのなんて簡単だ。
言葉には、意味なんてないんだから。
もう美術室には行かなかった。油彩にこだわらなければ、絵を描くことはどこでもできる。時間さえあれば、様々な場所で少しずつ絵を描いた。
ラブホテルの隅で、図書館の座席で、高校の授業中に。時間さえあればどこでも描いた。
有住の印象も、少しずつ薄くなっていく。
――彼はどんな顔をしていたのか。
光央は急かされるように、スケッチブックに鉛筆を走らせる。ごちゃごちゃした線だけが積み重なっていく。彼とは似ても似つかない。
わからない。光央はいまだに、それを知らない。
――好きです。
つまらない嘘だった。ただ自分の身を守るためだけの。
言葉には意味なんてきっとない。
「すき」という二文字に、どれだけの中身があるのだろう。機械だって口にできる。たった二文字の言葉。
――どうしてあのつまらない嘘を、続けられなかったんだろう。
でももう、何もかも遅い。平穏な日々は終わってしまった。有住はきっと、誰かと付き合って完璧なデートをして、幸せになるだろう。
手を繋いで、キスをして、それから――。
甘い想像に自分自身が裏切られる。光央は一心に、鉛筆を動かし続けた。そうしないと、気が狂いそうだった。
・ ・ ・
「ああ、尾代君」
またタバコを吸っていたのだろう。光央が室内に入ると、梶野がちょうど裏口から入ってくるところだった。
「お疲れ様です」
梶野の持つギャラリーは、そう広くない。六畳くらいの部屋がふたつ、それが展示スペースのすべてだった。
今日は二人展の最終日だった。
菜月の絵に売却済みを示す赤いシールが貼ってあるのを横目に、光央は自分の絵の前に立つ。シールはひとつも貼られていなかった。
「長い時間見てる人もいたよ」
もともと乗り気ではなく、菜月に誘われて参加した展示だった。
光央の絵はいつも、気味が悪いとか、怖いと言われた。だから売れないのはわかっていた。家に飾りたいような絵でもない。似ていると言われたことがあるフランシス・ベーコンの絵には百億以上の値段がついているが、光央の絵では、投機目的にしても上がる要素がない。
「別に、いいんです」
「よくはないよ。売ってんだから」
適当な男と寝た方が、よっぽど早く楽に稼げる。
それでも絵を描くことはやめられない。絵の具の染み付いた指を見る。
光央の描く絵は、今も昔も同じだ。人間の顔。写実とは正反対の、焦点の合わない醜く歪んだ人の顔。何度描いても、満足できることがない。何度も色を塗り重ね、理想に近づくよう失敗を繰り返しながら何とか完成させて、それでも、完璧からはほど遠い。
「悪くないと思うけどね」
梶野は五十代の女性だ。このギャラリー自体、彼女の趣味のようなもので、あまり儲かってはなさそうだった。光央や菜月など、まだあまりぱっとしていない若者の作品を取り扱っているのもその証拠だ。
「焦燥感があって」
どうしていいかわからなくて、絵を描き続けてきた。そうして気がつくともう二十五歳だ。別に誰かに見せるためだけにやっているわけじゃない。だけど、たまに無力感に襲われる。
全部が無駄なのかもしれない。
何も、意味なんてないのかもしれない。
「……この絵、このまま置いておいてもらえるんですか?」
「展示は今日の七時までだから」
たった一時間で、これまで一週間売れなかったものが動くはずがない。そのままギャラリーの中にいるのも嫌になり、光央は外に出た。
外はどんよりと曇っていた。今日は何を食べようかとぼんやり思う。
家を出て以来、生活はいつもかつかつだった。スーパーの値引きまでにはまだ時間がある。何か安い材料で自炊をするのが一番いいのだろうが、気力がない。
絵を描くのだって、道具代がかかる。それでも描き続けるしかない。一生人間の顔を見ないならもう描かなくてもいいかもしれないが、そんなことは無理だ。
今はちゃんと、顔がわからないことも相手に伝えるので、昔のようなトラブルはなかった。それでも人付き合いは苦手だ。専門学校に通っていたときも、菜月以外の知り合いはほとんどできなかった。
――早く帰って描こう。
光央は今、倉庫のアルバイトをしている。それだけでは一人暮らしを続けるのも厳しいので、必要があれば男と寝る。絵が売れれば助かると思って菜月からの誘いに乗ったが、世の中は甘くない。
わかっていたはずだったのに、ため息が出る。電車に乗ろうとした直前に、携帯電話が震えた。梶野からだった。
「あ、尾代君!? 急にごめんね」
「はい?」
「売れたよ」
「え?」
「今、君の絵を全部買うって人が来てる」
「ほんとですか!」
梶野は珍しく、興奮した様子だった。だが無理もないだろう。一枚も売れなかった絵が、突然全部売れるなんて、奇跡だ。
目がさめるような思いだった。梶野がつけた絵の価格は決して安くはない。数万円、大きいものは十万円以上になる。取り分は何割だったか。全部といったら、バイト代何ヶ月分になるかわからない。
「そう。まだ近くにいる?」
「すぐ戻ります」
光央はすぐに踵を返し、ギャラリーに駆け戻った。
一枚でも売れてくれたらありがたいことだった。何より、自分の絵をそんなに気に入ってくれた人がいるというのが嬉しい。自分に居場所を、認めてもらえたような気がする。
一体どんな人なのだろう。金を持て余した、年金暮らしの富豪のような人だろうか。
「戻りました、あの」
スーツを着た男が、ギャラリーに立っていた。背が高い。もとから広くないギャラリーが、更に狭く見える。
ぱっと見ただけでも、男が非常に洗練された身のこなしをしていることが見て取れた。
人の印象は、顔以外の部分で大きく左右される。
光央は相手の服装や髪型、靴などをよく観察するクセがついている。顔がわからなくても、そういったパーツだけで相手のことはかなりわかるからだ。男が身につけているのは、どれも高級品だった。だけどさりげなくて、いかにもという嫌味さはない。
知らない男のはずだった。だが、なぜか全身が震えた。
「え……?」
男の顔には、一筋の傷が走っている。それだけが、あの時と同じだった。
「久しぶり」
穏やかで柔らかい、優しい声。
「あ、俺のことわかる?」
何事もなかったかのように、笑みさえ含んだ声で彼は言った。
「ああ……これがあるからわかるかな」
彼は自分の頬を指差す。傷跡は薄くなっていた。だけど見逃しようもないくらい、はっきりとそこにある。
「ここにある絵、全部買おうかと思って」
男の全身は、頭のてっぺんからつま先まで、完璧に整えられていた。だが、傷だけが何かの間違いのように、生々しく存在を主張している。
美術室の絵が、ざっくりと切りつけられていたことを思い出す。
悩みながら丁寧に描き進めていた絵だった。ここにある一枚一枚だってそうだ。何時間もかけて、必死に描いた。ひとつひとつ色を練って塗り重ね、形づくっていった。
多くの人に好かれるようなものではないかもしれない。だけどちゃんと梶野に値段をつけてもらった。この数年の、光央のすべてだった。
「薪にしたらいい暖が取れそうだ」
有住の声はあくまで穏やかだった。あの美術室にいた頃と、同じように。
2 コンポジション
「すごい評判の映画なんだよ」
人付き合いは苦手だ。それは今も昔も変わっていない。
光央は高校を卒業後、何とか金を貯めて、専門学校に通った。美大を受験するほどの金も時間もなかった。それでも、もう少しちゃんと絵のことを学びたかったからだ。
「行こうよ、一緒に」
「俺はいい」
菜月は学校時代に知り合って以来、何かと光央のことを気にかけてくれている。梶野への紹介もしてくれた。
「いいじゃん、たまには」
菜月は繊細で薄く、うつくしい絵を描く。光央とはまるでタイプが違ったけれど、なぜか菜月は光央の絵を高く評価してくれていた。
「描きたいものがあって」
そう言うと、菜月がそれ以上は強くごねないのを知っていた。お互い、何時間でも一人で絵を描いているのが好きというタイプだ。菜月は光央よりずっと社交的だけど、そこだけは一致していた。
「それだけ? また変な男と会ってるんじゃないの」
「……誰のことだよ」
「光央」
菜月はため息をついた。
「別に、まともに恋愛しろなんて、私が言う筋合うじゃないけど……そのうち事件とか、巻き込まれるよ」
彼女には何だかんだ、光央の事情はほぼ知られている。でも、それならどうやって金を得たらいいのか。バイトはしているが、収入は微々たるものだ。実家が裕福な菜月とは違う。
「怒った?」
思わず黙ってしまった光央に、菜月が言う。
「いや」
「今度、落ち着いたら二人展のお疲れ様会もやろうね」
「……そうだな」
菜月のことは嫌いじゃないし、よく連絡をしてくれるのもありがたいと思っている。
だけど今、到底遊びに行くような気分にはなれなかった。
光央はカンバスに向き直る。一人暮らしの部屋は狭く、薄暗い。古いアパートの一階が、光央の予算で借りられる限界だった。
隣の部屋にはどこの国の人だかわからない家族が住んでいて、よくケンカしている。うるさかったけれど、我慢した。
叔父たちと一緒に住むよりはずっとマシだ。
自分ひとりだけの部屋。ここでは、どれだけ絵を描いていてもいい。何をしても、しなくても責められない。
床の上には、ギャラリーから送られてきた手紙がある。売れた絵のタイトル、金の振込予定日が書かれたそっけない書類だった。
あのときギャラリーで有住は、何事もなかったかのように、あっさりと言った。
「探してたんだよ。友だちとも、連絡取ってないんだろう?」
「友だち、って……」
頭が混乱した。確かに、龍弥とは連絡を取っていないし、叔父たちともほぼ絶縁状態だ。「何て言ったかな、たくや……たつや君、だっけ?」
姿を消したのは、もう誰にも振り回されたくなかったからだ。叔父にも龍弥たちにも。
誰にも命令されたり、やりたいことを左右されたくなかった。
「でも、すぐわかったよ。尾代の絵だって」
「嘘だ」
モチーフは同じだ。だけどあの頃とタッチや色使いだって、多少は変わっている。
「わかるよ」
有住はもう一度繰り返す。
「すぐわかった」
背筋がぞくりとする。こんな小さなギャラリーでの展示を目に止める人間なんていやしないと思っていた。見たとして、自分に気づくわけがないと。
「……美術室にあった絵、壊したの、有住先輩ですよね」
「何?」
「買って、また壊すんですか」
光央は有住を強く睨みつける。有住が自分を探したのが、旧交を温めるためのはずはない。有住にとっては、自分は何でもない後輩だったのだから。
絵を買うのだって、善意からではありえない。
――薪にする、と言っていた。あながち冗談とも思えなかった。美術室にあった絵のように、自分の絵がまた壊されると思うと、文字通り身を切られる思いがする。
「あれ? 尾代君、戻ってたの?」
携帯電話を片手に梶野が戻ってくる。
「そうそう、こちらの方が絵を買ってくださるって。ご存知かしら、あの有名な飲食店の……」
「知ってます」
「え?」
梶野が光央と有住を交互に見る。きっと、わけがわからないと思っているのだろう。金も地位もあるのだろうこの男と、ぱっとしない自分とが、結びつかないのも無理はない。
「高校で、一緒だったんです。一時期」
「まぁ! そうなの! 素敵な偶然ね」
背筋を嫌な汗が伝う。展示なんてしなければよかった。展示をしてもらえることになって、本当は少し浮かれていたのかもしれない。
「ええ。昔から彼の絵が好きで」
有住は愛想よく梶野に向けて言う。
嘘をつけ、と内心で呟く。有住がコンクールに出した絵は、穏やかな田舎の風景だった。暗くて怖いと言われがちな光央の絵とはほとんど対極だ。
「すてきな話ねぇ……」
「売らない」
「なぁに?」
「この男には売りません」
「何言ってるの」
梶野は冗談としか思っていないようだった。あははと笑っている。
「本気です、嫌だ。絶対に」
「……尾代君」
たしなめるように梶野が言う。
有住は何も言わなかった。だけど、圧倒的に優位なのは彼だ。梶野は絵を扱う以上、売ることができるなら売る。わかっている。光央だって、金は喉から手が出るほど欲しい。
「なぁに、恥ずかしいの?」
上機嫌な声で梶野が笑う。絶対に有住には売りたくない。
――あの、切り裂かれた絵。
前衛的な作品みたいに、ぱっくりと切りつけられていた。きっとあの絵と同じ末路になる。ここに飾っている絵は、それほど価値なんてないかもしれない。でも、どれも光央が心血を注いで描いたものだ。
切り裂かれ、叩き壊され、焼かれる自分の絵を思う。
確かに、有住だって痛かっただろう。でもだからといって、光央だけが悪かったわけじゃない。直接何かをしたわけじゃない。
でもそのくらいのこと、有住だってわかっているはずだ。それでもきっと、有住は完膚なきまでに壊すだろう。
――憎まれているから。
焦りで心臓がどくどくいっている。有住とはもう会わないだろうと思っていた。認めるのは嫌だった。だけど確かに、恐怖を感じている。
そんな光央の心情を知りもせずに、梶野と有住は笑いあっていた。
梶野には改めて、有住に絵を売らないよう頼んだ。だが、まるで聞く耳は持ってもらえなかった。
「なんでですか……!」
「なんでって、当たり前でしょう。買い手を選ぶなんてできません」
「でも、あの男は」
梶野を説得できるような言葉が思い浮かばない。ちゃんと説明するなら、光央が嘘をついていたことから伝えなくてはならなくなる。
「とにかく、もう売買契約は結んでますから」
絵を売ることが彼女の商売だ。光央の絵は他に欲しいという買い手もいない。絶好の機会を逃すはずがなかった。
「あまり変なことを言うなら、尾代君との契約自体を見直しさせてもらうことになりますよ」
光央は普段、雑誌やテレビをほとんど見ない。高校の頃逐一情報を知らせてくれた渡辺はいないし、何も有住に関する情報はない。会社を継いだのか、次期社長なのか。どちらにしろ、きっと順風満帆な人生だろう。
最初から、立場が違う。
絵を買ったのも、彼にとってはきっとはした金だ。スーパーで弁当が割引される時間を待って買い物に行く自分とは雲泥の差だった。
「くそっ」
誰も買い手なんてつかなくてよかった。わかってくれなくてもよかった。なのに、あんな風に金で顔をひっぱたかれるのは納得がいかない。
取り戻さないと。
有住の好きなように、させるつもりはなかった。
「来なくていい……って、どういう意味ですか」
自分の言葉は随分間抜けに響いたのだと思う。困ったような声で、責任者は言った。
「いや、そのままなんだけどね」
人とほとんど会話しなくて済む、倉庫での仕事は向いていた。重い荷物もあって、疲れることには疲れるが、接客などよりよほどいい。荷物にはちゃんと、商品名やタグがついているから判別できる。それに、同僚もわけありそうな人が多く、ほとんど話しかけてはこなかった。
真面目に働こうと思って、やっと見つけたバイトだった。
「俺、何かしましたか?」
仕事はさぼらず、ちゃんとやっていたと思う。遅刻や欠勤もしていない。
「ここは商品を扱っているから……」
奥歯に物が挟まったような言い方だった。
「だから、何のことですか」
「窃盗の前科があるって聞いたよ。……窃盗はね。前にもそういう人がいたんだけど、やっぱり繰り返すんだよね」
「それは……」
前科はない。捕まらなかったから。
だけどそんなことを言っても無駄だろう。確かに万引きをしたり、自転車やバイクを盗んだりはした。龍弥に言われてのことだ。
「今日までお疲れ様でした」
もう縁は切ったが、だけどそれで過去が消えるわけではない。
ずっと昔のことだ。それに自分のためじゃない。それでも、窃盗は窃盗だ。倉庫で働く人員に、代わりはいくらでもいるだろう。光央はそれ以上、何も言えなかった。
・
有住のせいだ。今更龍弥ではないだろう。他に考えられない。あの男が、わざわざ光央の過去を知らせた。
胸の中にじわじわと黒い感情が湧き出してくる。有住は、きっと光央から奪えるものは、何でも奪うつもりだ。もとから大してこの手の中にはないのに。
それでもきっと、何もかもだ。
あまり乗ったことのない路線だった。車窓にうつる町並みは見慣れない。光央は電車の中で、画像を見返した。
それは、ギャラリーでこっそり撮影した、契約書だった。有住の名前と、都内のマンションらしき住所が書かれている。
バイトはいい。頑張れば他を見つけることもできるだろう。だが、絵には代わりがない。
そのマンションがあったのは、駅からほど近い大通り沿いだった。いかにも立派な構えの、高級ホテルみたいな外見をしていた。
今更ながら緊張してくる。
「いいとこ住んでんな……」
有住との年の差は二歳だから、二十七歳のはずだ。その若さで、これほどのところに住めるのか。どうしようもないことだとわかっていても、不公平だと思ってしまう。
携帯に撮った部屋番号を確認する。十一階。最上階か、それに近い。
バイトも首になって明日の生活も危うい光央にとっては、別世界みたいだった。
「いらっしゃい」
休日だし、有住は部屋にいないかもしれない。そう思ったのにインターホンに出た彼は、あっさりと「上がっておいで」と言った。
光央は靴を脱ぎ、部屋に上がった。グレードの高い部屋であることは入る前からわかっていたが、廊下ひとつをとっても広い。
「こっち」
リビングは、黒を貴重とした落ち着いたインテリアだった。大きな窓があって街が見下ろせるようになっている。きっと夜景がきれいだろう。
「急だから何もないけど」
どうせ歓迎する気なんてないくせに。光央はおずおずと、部屋の中に足を踏み入れる。
「ソファにでも座って」
言われるままに、光央は腰を下ろす。落ち着かなかった。有住はスーツを着ていたこの間と違って、ラフなジーンズ姿だった。
「まさかここに来るなんて思わなかったな」
有住は冷蔵庫を開けたり、キッチンで何か探しているようだった。その声は、あくまで柔らかい。
その声の印象だけは、かつてと変わらない。でも、同じわけがない。
「そうですか?」
彼は光央が反発をすることも、わかっていたはずだ。自分が描いた絵を、大事に思っていることも。だからこそ、買った。それ以外に、彼にとって光央の絵の価値はない。
「……絵を、返してください」
光央はすぐに本題に入る。有住と懐かしく思い出話ができるとは思わなかったし、するつもりもなかった。こんな家、一刻も早く立ち去りたい。
「うん?」
キッチンから顔を出した有住が言う。
「金は持ってきました」
カバンの中から札束を取り出す。持ち運ぶ方法がわからなかったから、いつものカバンにそのまま詰めてきた。これだけの紙幣があったら、一年は余裕で暮らしていける。光央にとって、死ぬほど惜しいものだった。
だが、光央はそれを無造作に掴んで突き出す。
「あれは買ったんだ」
有住は手を伸ばさない。札束を見ても、何の動揺もしていないように見えた。
「だから、返品してください」
「嫌だよ」
札束なんて見慣れているのだろうか。
「酒しかないな。飲む?」
キッチン戻ってきた有住が手に持っていたのは、ウイスキーらしい酒のボトルだった。
光央は首を振る。まだ昼過ぎだし、こんなところで飲む気にはなれない。札束を取り出して話をしているのに、有住はいやに冷静だった。
「飲みなよ」
「いや、俺酒は……」
「飲んで」
有無を言わせない口調で有住は言う。光央は酒に強くない。わかっているから飲みたくなかった。光央はため息をついて、札束をひとまずテーブルの上に置く。
小さなガラスのコップに、有住が酒を注ぐ。手渡されたそれは、きれいな黄金色をしていた。つんと酒の匂いが鼻をつく。
光央はおそるおそる口をつける。やはりかなり度数が強い酒のようだった。
有住は光央から少し離れて、ソファに座った。それでも二人がけのソファだ。十分に距離は近い。
「おいしいのにな」
有住は酒には強いらしく、ためらいなくグラスに口をつけている。
傷跡は薄くなったようにも見えたが、近くで見るとはっきりそれとわかる程度には目立つ。手術で消せるのではないだろうか。金だってあるだろう。なぜ、そうしないのか。
「俺、聞きたいことがあるんだけど」
「……返してください」
「ちゃんと質問にくらい答えなよ。返すかどうかはそれから考える」
どうせ言うことなんて聞いてくれないに違いない。だけど、光央には他に方法もなかった。有住は酒を飲みながら、ゆっくりと口を開いた。
「今、何人くらい相手がいる?」
「相手って……」
「わかるだろ」
こんな質問、嘘をつくまでもない。光央は頭のなかで、関係のある男たちを思い返そうとする。だけどどこまでを数えるべきなのか。一度きりで終わるつもりで続くこともあるし、何とも言えない。
恋人と言えるような存在はいない。できたこともない。
「その時々だから、わからない」
正直に光央は答えた。
はは、と乾いた笑い声を有住は立てる。
「そんなこと聞いてどうするんですか」
有住は空になったグラスに酒を継ぎ足す。酒に強いにしても、ペースが早すぎる気がした。
「金さえもらえれば誰でもいいんだ?」
そうだ。だけどさすがにそれを正直に答えるのははばかられた。
「有住先輩には、関係ないじゃないですか」
光央は強い口調で言い返す。だが、余裕ある態度の有住に対峙しているとむなしくなる。どうしたって勝てるわけはない。
「懐かしいね、その呼び方」
有住は、手の中のグラスをわずかに揺らした。そう言われても、他の呼び方がわからないのだから仕方がない。有住さん、というのも何だか変な気がして、今更呼べなかった。
「高校の頃、自分が何て言ったか覚えてる?」
「……忘れました」
そうとしか光央には言いようがない。だめだ、と思う。これは不利なゲームだ。相手のペースに乗せられたら負ける。
有住は、感情のよくわからない声で淡々と言った。
「“好きです”」
それを持ち出されたら、光央には勝てない。
「“好きです、有住先輩”」
光央は笑い飛ばそうとした。だけど、できなかった。
もう二度と思い出したくない記憶だった。空っぽの嘘だ。ただ人を欺こうという目的のためだけの、気持ちの伴わない最悪な言葉。
有住の手が光央の腕を掴む。信じられないくらい強い力だった。
「離して下さい」
「“顔が好みなんです”」
光央はうつむくしかなかった。……ここに来たのは失敗だった。だけどもう戻れない。
「やめろ……!」
何とか腕を振り解こうとしたが、びくともしない。怖いほどの強さだった。
二度と会わないだろうと思ったし、会うつもりもなかった。彼とは生きている世界が違う。あの頃二人で食事をしたりしたのは、ただの間違いだった。
「じゃあ、この金でお前を買うよ。何時間くらい買える?」
腕が軋むんじゃないかと思うほど、強い力だった。
「ふざけないでくださ……っ!」
思い切り腕を引き抜こうとすると、有住の力が急に弱まった。光央は勢いあまって、ソファの肘掛けに背中を打つ。
「……っ」
革製のソファが軋む。グラスを持ったままの有住が、光央を見下ろしていた。
有住に何も売るつもりなんてない。絵も身体も。もう龍弥に命じられていた頃のように、誰かに従いたくはなかった。
「思い出せよ、尾代」
飲みかけの酒のグラスを、有住は突きつけてくる。つんと強いアルコールが香る。顔をそむけると、無理やり押し付けられたグラスの中身が唇から喉に滴った。
だけど、有住に敵うものが何もないのも事実だ。財力も腕力も何もかも。あまりにも無力だった。
「……っ」
間近で有住が、目を覗き込んでくる。目が茶色がかっている。そうだ。ずっと以前にも、そう気づいたことを思い出す。
「いい加減に……!」
逃れようと身体をよじると、体重をかけて身体を押さえつけられた。
「金さえもらえればいいんだろ?」
光央は何とか掴まれた腕を動かそうとする。だけど体格が違うのでびくともしない。本能的な恐怖に襲われる。別に、相手なんて選んでこなかった。でも、こんな風に金を盾に無理やりされるのは嫌だ。
「い、やだ」
口を塞ぐように、有住にキスをされる。押しのけようと有住の肩を掴んだが、びくともしなかった。むせるような酒の匂いがする。
「や……っ」
有住は深く光央の口の中を蹂躙すると、やっと唇を離した。ただキスをされただけなのに、息が苦しい。頭が働かない。さっき無理やり飲まされた酒のせいかもしれない。
有住の手が、光央の胸のあたりを服の上から撫でる。
「や、め……っ」
――この人は、一生俺とセックスしたりしないだろう。
高校の頃、そう思った。なぜだか大事な思い出を、汚されたような気がした。
「やめろ…、やめてください、有住せんぱ…っ」
必死に光央は抵抗したが、再度唇を塞がれてそれ以上の声が出なかった。有住の手が光央の下半身に触れる。性器を服の上から触られて、本能的な恐怖を感じた。
「っ、あ……や、だ」
身体から力が抜ける。
有住はそのうちに、ズボンの中に手を入れてきて直接性器を握り込んだ。怖い。恐ろしくて、逃げたいと思うのに、力が入らない。
「や…っ、ぁ、あ」
緩急をつけてしごかれて、こんな状況なのに血が集まっていく。
同時に、角度を変えて有住は何度もキスをしてきた。口の中を舌で探られ、飲み込みきれない唾液が口の端からこぼれる。
「や…めっ、あ、あ」
光央はそうしてあっさりと、有住の手を汚した。
頭がぼうっとして、身体に力が入らない。もう何もかも投げ出したいような気持ちだった。
有住は身体を起こし、テーブルの上にあったティッシュを何枚か取って手を拭った。
「なんで……」
光央は呆然と、それだけ呟く。
許されないことをしたのかもしれない。恨まれていることはわかる。でも、こんな風に辱めるのはどうかしている。有住はゲイではなかったはずだ。吐き出したあとの虚脱感で身体がだるい。
「何なんだよ……」
「これはちゃんと、持って帰れ」
有住はテーブルの上に出しっぱなしだった札束を指差す。
「何の……代金ですか」
「なに?」
目の前にある札束の異様な存在感に、だんだん頭が現実に引き戻されてくる。
「絵を、返して下さい。代わりに俺を買うなら、それでいいです」
光央は有住の方を睨みつける。
「すればいいじゃないですか、最後まで!」
有住はたぶん同性愛者じゃない。そこまでする気はもともとないのかもしれない。
でも、買うというのなら。
「いいのか? それで」
絵は同じものは描けないけれど、身体なら減らない。どちらも差し出したくはないけれど、でも身体のほうがまだマシだ。
光央は有住を睨みつけたまま頷く。
「……わかった。でも、これだけの金額なんだから、もっとサービスしてくれたっていいだろう?」
光央は唾を飲み込む。たまに縛ったり、打ったりするのが趣味の男がいる。痛いのは好きじゃない。無理やりされたこともあったが、嫌な記憶しかなかった。
有住にはそんなに変な性癖があるようには見えないけれど、わからない。どんな難題を言い出すかわからない。
「何、をすればいいんですか」
有住はどこか楽しそうだった。そうしてたっぷりともったいつけてから、ゆっくりと言った。
「デートだよ」