※本編その後のおまけです。読了後にお読み下さい。
「その中だと誰が好き?」
「え?」
彼の指した先にあるのはマグカップだった。有住が出張に行ったときにもらった土産物だ。様々なアーティストの顔が簡略化されて描かれている。
ピカソ、レンブラント、ゴッホ……。歴史に残る有名画家ばかりだ。
「……ロスコ」
「はい」
差し出された二枚のチケットは、まさに光央が今、口にしたアーティストの展覧会のものだった。
「全作家分、用意してたんですか?」
「そんなわけないだろ」
あきれたように有住は笑う。何か答えが書いてあるんじゃないかと、光央はそのチケットをまじまじと見つめた。
有住と美術館に行くのは二度目だ。だけど、行くにあたっての気持ちはずいぶん違う。
最初のときは再会後、まだ彼の思惑がよくわからなくて、ひどく緊張していた。
今日は違う。有住とはお互い思いを伝え合い、恋人同士になった。
でも、やっぱりあのときと同じかそれ以上に緊張している。
「空いてるね」
「まぁ、平日ですし……」
有住が休みを取れることになり、光央も都合を会わせて急に平日に来ることになった。人が少ないのは光央にとっては助かる。
「ここ前にも来たことあるんですか?」
入館までの有住の足どりは迷いがなかった。
「あるよ」
有住はいろんな相手とデートしたのだろうなと思う。光央とは経験が全然違う。高校生のころから有住はモテていた。住んでいる世界が最初から違うのだ。
そのまま進んでいくと、人だかりがしていた。どうやら、この美術館で所蔵している有名な作品を限定で公開しているらしい。光央は反射的に足を止めてしまう。カップルらしい二人連れ、一人客、友人同士……顔のわからない人の群れがうごめいている。
「ほら」
「え?」
急に手を握られた。わけがわからないまま、その手を引かれる。平然とした顔で、有住は人ごみのなかに光央を連れていく。
心臓が急にばくばく言いだす。この人だかりの中では、誰も自分たちの手なんて見ていないだろう。そう思うのに、どきどきしてどうしていいかわからない。
そのまま有住は、光央の手を引いて絵の前をゆっくりと歩いていった。
有住は「これは悪くない」とか「批評家の誰それが絶賛して」とか短いコメントをしていく。でも、何とか生返事を返すのがせいぜいで、まるで光央の耳には入ってこなかった。
繋いだ手が熱い。頬がほてるのがわかる。誰かに見られているような気がする。見られてもかまわないのだと思う。だけどどうしていいのかわからない。嬉しいけれどそわそわして恥ずかしい。
一通りまわり終えた後、玄関に戻ってきて有住はやっと手を離した。
とっさに光央はその手を握り返した。
「……あの、もう一回、見てきてもいいですか」
「どうした?」
有住が不思議そうに言う。握り返した手を、振り払われることはなかった。彼の体を近くに感じる。じわりと高まった熱はまだ引いていかない。
「途中から、何も見れてなかったので……」
・
二週目は、それぞれ好きなペースで回ることにして、併設のカフェで待ち合わせた。
有住は光央が見つけやすいようにか、半分外の目立つ席に座っていた。遠くからでもすぐにわかった。光央だけでなく周囲の客にとっても同じなようで、何人かがちらちらと有住の方に目をやっている。
「すみません、時間かかって」
目立つ席は嫌だったが、移動してくれとも言えずに光央はそのまま対面の席についた。
「ゆっくり見れた?」
「何とか」
有住がウェイターを呼び、光央は飲み物を注文する。こうしてそばで見ていても、自分と比べて有住はすべてのことがスマートに見える。
注文は、有住につられてついコーヒーにしてしまった。有住がチョコレートブラウニーを追加で注文する。
「……なんで俺が選ぶものわかってたんですか?」
広い敷地には緑が溢れていて、気持ちのいい風が吹き抜けていた。
「実は全部用意してあった」
「やっぱり」
だってその方が確実だ。人の好みなんてわからない。
――俺のことなんて、考えたことないだろ。
そんな風に以前、言われたことがある。でも、いくら自分が考えたって有住のことなんてわかるわけがない。育ちが良くて色んな人に好かれて、一人で絵を描いているしかなかった自分とは違う。
「嘘に決まってるだろ」
有住は笑っていた。
「ここのチケットだけだよ。持ってたのは」
光央はきょとんとする。ちょうどコーヒーが運ばれてきて、光央は無理やり黒い水面に向き直った。
「考えてたんだ。あのマグカップを見たときから、尾代はどれが好きかなって」
「ニューヨークで?」
彼がそこに行っていたのは、もう随分前のことだ。
「当たった」
有住はやたらと楽しそうだった。
「有住先輩って意外と……昔のこととか、よく覚えてますよね」
急に高校時代のことを今でも持ち出したりするので、どきりとさせられることがある。
「モテなかったから」
「何言ってんですか? 美術部の女子なんてだいたい有住先輩のファンだったじゃないですか」
「そうじゃなくて、尾代に」
聞き返す間もなく、店員が近づいてきてチョコレートブラウニーを置いていく。光央はどう反応したらいいのかわからなかった。
「どういうデートがしたいかとか、よく考えてた。ここも一人でよく来てて、尾代と一緒だったらな、って思ってた」
確かに慣れた様子ではあった。でもきっと、女の子と一緒に来たのだろうと思っていた。
「デートだったんじゃないんですか?」
「デート向きか? ここ」
「有住先輩が来いって言ったらみんな喜んで着いて来るんじゃないですか」
「俺をなんだと思ってるんだよ」
有住はブラウニーをフォークで切り分ける。彼が甘い物を頼むのは珍しい。そう思っていたら、ケーキの刺さったフォークを差し出された。この席は通りすがりの人からも丸見えだ。
「何ですか」
「はい」
有住はさっきから上機嫌だ。抵抗感はあったものの、別に通りすがりの誰に見られてもいいかと思い直し、差し出されたケーキを光央は口にする。苦くて濃い甘さのケーキは、コーヒーと一緒に食べるのにちょうどよかった。集中して絵を見て疲れたせいもあり、じわりと口の中に甘さが広がるとほっとする。
「……別に、俺ならどこでも着いてっちゃうな、って思っただけです」
住むところの違う人だと思っていた。でも、本当は変わらないのかもしれない。狭い美術室で必死に絵を描いていた。あの頃、どこにも行けないのだと思っていた。
「本当に?」
「どこだって、行きます」
「へぇ」
有住は笑っている。
高校生のときは、一緒に行けるのは近所のファミリーレストランがせいぜいだった。そして、自分はひどい形で彼を裏切ってしまった。自分が最初から彼に向き合えていたのなら、もっと色々なところに一緒に行っていただろうか。
「高校生の頃から、色々想像だけはしてたから、行きたいとこならたくさんある」
でもまだ遅くない。どこにだってこれから行けばいい。
「じゃあもっと、教えて下さい」
柔らかい日差しが緑の葉を照り輝かせている。気持ちのいい、二人きりの休日だった。