※kindle本への収録にともない、サンプル掲載に変更しました。
本編その後のお話です。
思ったより多くの乗客が降りるので驚いた。弓生は慌てて座席から立ち上がる。
いつもは通過するだけの駅だ。ホームから見える駅前は、それなりに栄えているようだが、いかにもな地方都市だった。サラ金やパチンコ屋の看板、それから色あせた温泉地の案内が照らされている。
「……ていうか、どう考えても中間じゃねぇじゃねぇかよ」
コーヒーの空き缶を、ゴミ箱に捨てながら呟く。
田中から唐突な連絡があったのは、数日前のことだった。
”中間地点で待ち合わせよう”
大学に入って、彼とは住む場所が離れた。弓生が望んでそうしたことだったが、なぜかまだ、離れられないでいる。
当たり前のように、彼と会う約束をした。ただ他人事みたいに感じられた。わざわざ遠く離れたのに、何をしているのか。
ああ、俺はまた田中と会うのか。
ほとんど毎日のように、どうでもいいやり取りはしていた。twitterに呟くのと同じようなものだ。何食べた、とか何が面白かった、とか。そういう日常の細かなことを、言葉にするのは好きだった。だが、大学の友人たちと繋がっているアカウントでは、そういうどうでもいいことは話せない。だから、田中相手なら気軽に言葉を放れるのはよかった。
別に相手は誰だっていいのだ。
田中は自分のことはあまり話さなかった。彼が進学した大学の名前も学部も、知ったのはつい最近だ。馬鹿にしてやろうと思ったのに、まぁ名前くらいは知られているところで、一体いつ勉強をしていたのか不思議だった。
田中には田中の生活がある。別に、常に東北まで来いと言うつもりはない。
でも、中間地点で待ち合わせるにしては、どう考えても指定された駅は東京寄りだった。つまり田中からの方が近い。卑怯だ。
”ついた”
弓生は短くメッセージを送ったが、既読にはならなかった。もう待ち合わせの時間のはずなのに、まだついていないのだろうか。
先に待ってろよな、と思う。いや、それはそれで女扱いみたいでムカつく。でも俺を待たせるのはもっとムカつく。
だが改札を出ると、すぐに田中が立っているのが見えた。携帯は見ていないらしい。
田中は小さく手を振った。
「遠い」
弓生は開口一番に言う。
だが、田中は弓生の方を見たまま何も言わない。
「何だよ」
「いやぁ」
そうして少し笑った。
照れているような田中の態度が気に入らない。弓生は軽くその足を蹴ってやった。でも、田中のにやけた顔は変わらなかった。
「来たなと思って」
何が言いたいのか。待ち合わせの場所と時間を指定したのはそっちだ。じゃあ来なければよかったのか。
「すっぽかせばよかった」
二時間くらい、ぼうっと駅に立ち尽くす田中を想像した。悪くない。すっぽかさないにしても、少しは遅れてくればよかった。
確かにどうして来てしまったのか。しかも、時間ぴったりに。
家にまで来られるのだったらまだ言い訳もできる。
脅されたわけでもない。待ち合わせて、やって来て、そして会っている。それ以上何も考えたくなくて、弓生は歩きだす。
「俺このへん知らねぇぞ」
「何食べたい?」
田中はのんびり言った。
「名物は?」
「さぁ」
時間がやや遅いせいか、駅の施設はほとんど閉まっていた。駅前にはファーストフード店もあるが、牛丼という気分でもない。
「コンビニでもいい?」
「どこで食うんだよ」
「ホテル」
田中はあっさりと言う。
文句を言うのも、かえって恥ずかしいような気がした。そんなつもりじゃなかったの、なんて処女みたいなことは言いたくない。でもはるばるやって来て、ホテルでコンビニ飯かよとは思う。でも別にデートみたいな場所に連れて行ってほしかったわけでもない。だから何と文句を言っていいのかわからなかった。
結局弓生は黙ってコンビニについていった。田中が持つカゴに、せめてもの嫌がらせと思ってコンドームを入れてやった。
・
本当に、こんなところにまでなぜ来てしまったのだろう。
田中が連れてきたのは、駅から少し行った繁華街の裏の、古びたホテルだった。ビジネスホテルと言うには少し無理がある。いわゆるラブホテルだ。茶色い外見はいかにもうら寂れたものだった。
「やるだけに来たって感じだな」
思わず呟いてしまった。
そのホテルの中で、田中が選んだのはよりによって、大きな鏡が天井と側面とにある部屋だった。他の部屋も空いていた。でも、田中が先に「ここにしよう」とボタンを押してしまった。文句を言う暇もなかった。
「嫌?」
かすかに埃臭い匂いがする。こんな部屋で食事したくはなかった。今度はちゃんと自分で食事処を調べてこようと弓生は心に決める。
「別に」
でも腹はそれなりに空いていたので、弁当はあっという間に食べ終えてしまった。ペットボトルのお茶を流し込む。
田中はなぜだかサラダパスタとかいう女みたいなものを食べていた。弓生より食べるのが遅い。
「この辺観光するとことかあんのかよ」
「観光したいの?」
別にしたいわけじゃない。でもわざわざやってきたんだから、ホテルに来ただけというのもなんだかなと思う。
「後で調べてみるよ」
「お前暇なの?」
「いや?」
「バイトは」
「まだしてない。弓生は次シフト明日だろ」
ついどうでもいいことまで彼に伝えてしまっていたことを、今更後悔する。日常を把握されているのは、自分が話したからだ。自業自得だった。
「名前呼ぶな」
「弓生」
田中はパスタを食べながら、なんでもないことみたいに口にする。
「死ね」
イライラさせられたら負けな気がするが、腹が立つものは仕方がない。弓生は苛立ち紛れに携帯電話を取り出す。特に誰からも連絡は来ていなかったが、なんとなく癪なのでニュースサイトを見る。真剣に読もうとするのだが、文字がなかなか頭に入ってこない。
別に弓生だって、暇なわけではなかった。
バイトは相変わらずあるし、授業のレポートだって多い。でもそれは田中だって同じだろう。授業に出席したり飲み会に出たり、やることはいくらでもあるはずだ。
それでも時間を合わせて来た。交通費だってかかるのに。わざわざ待ち合わせて。
「シャワー、先浴びる?」
弓生は携帯電話に見入っているふりをして、田中の質問を無視する。
「先浴びてくる」
いつの間にかパスタを食べ終えていた田中が立ち上がる。しばらくして、シャワーの音がし始めた。
鏡張りのこの部屋は落ち着かない。幸い、入り口はボタンで部屋を選ぶだけだったから、誰かに見られることもなかった。
でも、男二人でこんなところに入るところをもし見られたらと思うとぞっとする。ゲイだという自覚はかなり前からあるが、弓生はツカサ以外にそれを自分から伝えたことはなかった。
これから先もたぶんないだろう。
もし今の家や、実家に近いところだったら、自分はこういうところに入るのをもっと嫌がったかもしれない。だからこそ、田中はこんな何もない町をわざわざ指定したのかもしれなかった。
部屋は少し薄暗い。弓生は鏡にうつっている自分をじっと見る。もったいつける女みたいな態度を取るつもりはない。当然やるんだろうなとは思っている。
まだ釈然としていないだけだ。
もうやめたいと何度も思った。それでもまだ今、どうしてこんな風に、田中といるのかということに。
備え付けのガウンは、ぺらぺらで薄かった。先にシャワーから出てきた田中が着ていたのもこれだった。
いかにも場末のホテルだ。嫌だと思ったが、もともと着ていた服を着るのも気が引ける。結局それに弓生は袖を通した。
シャワーを浴びて部屋に戻ると、田中はベッドに寝転がり、携帯電話をいじっていた。わりと携帯電話依存の自覚がある弓生と違って、田中は返信も遅い時がある。一体何をしているのだろうかと思った。
「何」
髪を拭きながら短く尋ねると、田中は顔をあげることもなく言った。
「ごめんちょっと、友達」
田中と「友達」という言葉とがなかなか結びつかなかった。
「友達とかいんのかよ」
「いるよ」
田中は冗談を言われたと思ったのか、小さく笑った。ざわりと首筋の毛が逆立つ気がした。
それはそうだ。田中みたいな人間でも、友達くらいはいるだろう。高校は別だったし、中学の時以降、彼の日常を何も知らない。誰とどんなことを話しているのか。日々どんな風に過ごしているのか。
うんざりするような長い時間、田中と一緒にいる気がする。心の底から嫌になるくらい。彼のことなんて何でも知っていると思っていた。
でも、本当は何も知らない。
弓生はしばらく髪をタオルで拭いていたが、田中のやり取りはなかなか終わる気配がなかった。
「おい」
田中は答えない。まだ忙しそうに携帯を操作している。
――俺が眼の前にいるのに、シャワーを浴びてきたばかりなのに、そいつとの連絡のほうが優先なのか。
「おい!」
「何?」
田中がきょとんとした顔で振り向く。だが弓生は何も言えなかった。
やめろとは言いたくない。力ずくで奪うのも子どもみたいだ。どうしていいかわからず、弓生は田中の腕を掴む。
さっさと始めてしまえばいいのだ。やり始めたら余計なことを考えてる余裕なんてなくなる。
「寂しがり屋だなぁ」
「はぁ?」
かあっと一瞬で頭に血が上った。田中のくせに。感情が溢れてうまくコントロールできなくなる。
「帰る」
田中はようやく、ゆっくりと携帯電話を枕元に置いた。
「友達、レポートの範囲急ぎで確認したいっていうから」
とりなすように言って、弓生をベッドに座らせる。怒りを覚えているはずなのに、人形のように弓生はされるままでいた。
「ごめんね」
耳の中に吹き込むみたいに田中は言う。濡れた息が身体の中に入ってくるみたいで、全身が震えた。
ご機嫌を取られているみたいで気に入らない。でも動けなかった。
「……っ」
動けないでいる弓生に、覆いかぶさるようにキスをしてくる。苛立っていたはずの感情が、そのまま煮詰まって溶けていくようだった。キス程度で、と思うのにじわりと興奮が高まって、息が荒くなる。
そのまま田中は、弓生をベッドに押し倒した。
頭がぼうっとする。キスなんてそんなに好きでもないはずだった。なんだかいいようにとりなされている気がして腹が立つ。
でも気がつくと、自分から引き寄せるようにして再度キスをしていた。頭の芯がぼうっと溶けていくような感じが気持ちいい。舌を絡ませ、深く吸い上げる。かと思うと舌に侵入され、歯列をなぞられる。何もかもがどうでもよくなっていく。
「ん……」
「仮説があってさ」
ぺらぺらのバスローブは、脱がされるのも簡単だった。田中は器用に片手だけで弓生のそれのボタンを外す。裸の胸に触られると、快楽を覚えているのか、自然と身体が震えた。