「お前、なんか悩みでもあんのか?」
「えっ何ですか、優しいですね」
「そう何度もため息つかれりゃな」

 川下教授の話は相変わらず面白かったが、どこか上の空でいたことは否めない。だが、連に見抜かれていたとは意外だった。
 ゼミ室のそばの休憩コーナーに場所を変え、浅野はペットボトルのお茶を飲む。

「俺……わりと恵まれた人生だったと思うんすよね、ここまで」
「消えろ」

 整った顔を嫌そうにしかめて連は言う。
 浅野が受験をしたのは高校入学のときだけで、あとはエスカレーター式にこの大学まで進学した。まぁ多少厳しい両親ではあったが、ある程度のことをちゃんとやっていれば基本は放任だった。

「いや、確かにふられまくってますけど、一応両親に感謝っていうか」
「お前の悩みなんて聞こうとした俺がばかだった」
「いやー、嬉しいすね、お悩み相談室」

 ぎろりと睨まれて、さすがに浅野は黙った。確かに悩んでいる。でも、連にどう話していいのか、わかるわけがなかった。
 気を抜くと先日のことを思い出しそうになってしまう。正直に言えば……悪くなかった。ベッドの上でのことは。でも、それだけですべては片付かない。

「確かに俺、振られまくってるんすけど、だからこそ振られ慣れてるっていうか、はじめから無理目狙いな自覚はあるんすよ」

 何しろ浅野がいつも好きになってきた相手は美形だ。モテることは明らかだった。だからふられること自体はショックでも、どこかで「やっぱり」と思っていた。拒絶されてもそれほど落ち込まなかったし、すぐに次に好きな相手ができた。

「なんだろう……美形なら誰でもいいつもりはなかったんすけど、なんかそういうとこなくもなかったかなっていうか」

 一応、真面目に考えてみたりもしたのだ。長塚と付き合うことが、ありなのかどうか。
 セックスはできてしまった。でも、それ以上でも以下でもない。彼のことは「友人」として分類されていて、そこで思考が止まってしまう。

「マジで殴っていいか?」
「でも、あいつは違うんですよ。それだけは確かで」
「何が言いたいんだよ」

 呆れたような顔で連は浅野を見ている。考えれば考えるほど、うまくまとまらなくなっていく。

「……いや、友達がいて、そいつの顔は客観的には悪くないと思うんすけど」
「で?」
「生理的に無理とかではなくて、向こうは俺のこと好きっぽくて、なんかまぁ相性とかも悪くなくて」
「なんだこれは、のろけか」

 連は呆れたように言う。もし、これで長塚と付き合うということになったら、ハッピーエンドなんだろうか。それは違う気がする。

「でもあいつとは、付き合うとかそういうんじゃないんすよ!」
「セフレでも何でも好きにしろ」
「そうじゃなくて!」

 確かに連があきれるのも無理はない。浅野自身、あまりうまく説明はできないのだ。でも、長塚とはやっぱり今まで通り友人でいたい。
 そうだ。あいつがどんなつもりだとしても、付き合うという気持ちにはなれない。だが、付き合わないと言ったら彼との関係自体が終わるかもしれない。わがままかもしれないけれど、それも嫌だった。

「うーん……」

 だが、友人のままでいよう、と言うのも残酷なのかもしれない。こんな状況で友情が成立するのだろうか。あのしれっとした男が傷つく様子はうまく想像ができない。

「だいたい、なんでそんなに顔にこだわるんだよ」

 改めて聞かれて、浅野はきょとんとしてしまう。

「誰だってそうじゃないすか? 心の美しさとかちゃんちゃらおかしいじゃないすか」
「お前な……」

 自分だけじゃない。どこの誰だって、美男美女が好きだろう。世の中はそういう風にできている。似たような人間なら、どうせなら外見が美しい方がいい。

「一般論じゃなくて、何かあるんじゃないのか、お前だけの理由」

 うつくしい横顔をした誰かがちらと頭をよぎる。だけど掴めないまま、ひらめきは消え去っていってしまう。

「とにかく、ちゃんと相手と話するしかないだろうな」

 そうして至極まっとうなことを連は言うのだった。

「連さん、人のことだと冷静すね……」
「そりゃそうだろ」

 そういえば一歳年上なんだった、と今更ながら思い出してしまう。落ち着いているのは、やっぱり彼氏との関係がうまくいっているからなのだろうか。聞きたいような聞きたくないような、複雑な気持ちだった。
 そのまま連と別れ、浅野は次の授業の教室に向かう。

「あれ、浅野」

 先週、長塚について忌憚ない意見を言ってくれた高校からの同級生たちとも、授業で顔を合わせた。単位が取りやすくて話も面白いと評判の授業だった。ホールのような大教室で行われており、雑談もほとんど自由にできる。

「おっす」

 こいつらは無責任にも美形好きなら長塚がどうこうとか言ってきたけれど、まさか実際に浅野と彼が寝たとは思わないだろう。浅野も言えるわけがなかった。
 やっぱり、考えれば考えるほどわからなくなる。

「そういやさ、長塚ん家ってなんかすごいんだっけ?」

 ちょうど隣の席に座ることになった八巻に尋ねる。まずは情報収集だ。今更長塚についてこんなことをすることになるとは思わなかったけれど。

「なんで俺に聞くんだよ」
「直接は聞きにくいだろ」

 八巻は嫌そうな顔をしている。改めて考えてみると、浅野は長塚のことをびっくりするほど知らない。家に遊びに行くような機会もなかったし、家族構成も謎だ。

「なんかあれだよ、長塚ん家はええと、だいぶ昔からの由緒正しいお家なんだと」
「漠然としてんな。政治家とかじゃなくて?」
「よくは知らんけど。そういや聞いたか? あの総理大臣の孫いたじゃん、あいつってさ」
「いやそれは今いいから、長塚の話だよ。あいつ、いつから俺たちと仲良かったっけ?」
「別に俺は仲良くないけど」
「え?」

 何となく八巻や長田、越坂部などと一緒につるんでいるイメージだった。

「冷たいこと言うなよ」
「いや別に仲悪いわけでもねぇけど、二人で話したことなんてほぼないし、俺は。仲がいいのは浅野だろ?」

 確かに二人きりで何度も飲んではいる。気がついたときには、彼に愚痴を言うのが当たり前になっていた。

「そうだったか……?」

 浅野は昔から、人の輪の中心にいるようなタイプではない。友達はそんなに多くないし、隅っこにいる方が好きだ。
 だが長塚はいつも人に囲まれているイメージだった。美形でスポーツもできて、成績だって決して悪くない。改めて考えると、どうして彼と自分が友人になったのかも謎だ。趣味も合わないし、似ているところもない。

「じゃあたとえば、ほかに長塚と仲いいのって誰かいるか?」

 大学内には、他にも内部進学生はたくさんいる。適当に捕まえて聞けばいいだろうと思った。だが八巻は黙り込む。

「誰だろうな?」
「いや、いるだろ、えっと……」

 長塚の近くによくいた、女子生徒や男子生徒の名前を思い出そうとする。だけど、改めて考えると思いだせない。

「やっぱ、お育ちがいいと俺たちとはなんか違うんかなぁ……」

 八巻はぼそりと言った。大学付属校というところには実際、著名人の子孫など明らかに育ちのいい人間もいる。運転手つきの車で学校に乗り付けるようなやつが、現実にいるのだ。だが長塚はそういうやつとも少し違っていた。

「あいつって何?」

 浅野は思わずつぶやいたが、八巻が答えをくれることはなかった。

 ・

 長塚がどんな人間であろうと、結局は直接話し合うしかない。そんなことくらい、浅野だってわかっている。
 あんまり一人で悩み続けるのは性に合っていない。とにかく行動だ。一年生からゼミに入りたいと教授に訴えにいったときも、髪にパーマをあてたときも、いつだって勢いで行動してきた。
 そう思うともう今すぐにでも長塚に伝えたかった。それに、まだ直接顔を見るのが怖いような気持ちも同時にある。だから電話をすることにした。
 浅野は授業の合間に、校舎裏で一服しながら携帯を取り出す。周囲に人が減ったときを見計らって電話をかけた。長塚も授業に出ている可能性はあったけれど、彼はすぐに電話に出た。

「おう」

 気心の知れた友人と話しているだけなのに、気恥ずかしくなるのがもう耐えがたかった。

「どうした」
「あ、いや今電話大丈夫か? いや、今日もいい天気だよな」
「夕方から雨らしいぞ」
「え、マジで」

 長塚の声はいつも通りに思えた。必要以上に浅野は声を張り上げてしまう。だが別にわざわざ電話をして天気の話がしたいわけではない。

「あのさ俺……やっぱりお前とは付き合えない」
「何の話だ?」

 浅野が渾身の力を振り絞って口にしたのに、長塚の反応は鈍かった。そういえば、ふられることには慣れているが、人をふるのは初めてだ。

「いや、だってそういうあれだろ、この間お前、俺のことが好きだって言っただろ」

 自ら口に出すのは恥ずかしくて仕方がない。でも、自分の誤解ではないはずだ。誤解のしようもなくストレートにこの間、長塚はそういうことを口にした。

「ああ、そうか」

 まるで先週のテレビの内容だとか、どうでもいいことみたいに長塚は言った。

「なんだ、付き合いたかったのか?」
「だから!! 無理だって言ってんだろ!!」
「ならよかった」
「え……」
「俺もお前とは付き合えない」

 一瞬、浅野はひどく反応に困った。これは笑うところだろうか。

「……は?」

 たった今自分からふったところだというのに、思わず口にしていた。

「いやいやいや、じゃあ何であんな」

 思いだそうという気もないのに思い出してしまう。それなりの情熱的で、悪くなかったベッドの上だとか……一応の告白だとか。あのすべては何だったというのだろうか。

「それは、まだ……」

 長塚が何か言いかけたとき、電話の向こうで低い男の声がした。

「悪い、ちょっと」
「ああ」

 てっきり大学にいるものとばかり思っていたが違うようだった。あっさりと通話が終了した携帯の画面を浅野はぼんやりと見つめる。

「何なんだよ」

 この間はそれなりにどうかしている愛の告白を受けたような気がするのだが、違ったのだろうか。つまり自分は遊ばれたのか。だがもともと浅野は、付き合うつもりなどないのだからこれでいいはずだった。なのに釈然としない。

「……何なんだよ!」

 空は本当に夜から雨が降り出すのか疑わしいくらいよく晴れていた。勇気を出して振ったはずだったのに、普段誰かに振られたときよりも何だかずっともやもやする。
 浅野は思わず校舎の壁を蹴り飛ばす。だけど足先が痛んだだけで、気持ちはまるで晴れなかった。

 ・

 初めて受験をしたのは中学三年のときだった。大学まである付属校に入ってしまえば楽だと説得され、塾に通った。親が仕事の都合で、東京に移り住むことになっていたらしい。だがその当時住んでいた地方では東京の高校を受験をする仲間はおらず、孤独だった。
 その頃からラジオを聞いたり、ネットでマニアックな音楽を探したりするようになった。無事に進学して東京に引っ越して、世界はがらりと変わった。古い映画を見たり、聞けもしないレコードを買ってみたり、やりたいことはいくらでもあった。
 だが同級生たちに比べて自分はつまらないとすぐに悟った。政治家の親類もいないし、園遊会に招かれたこともない。特別なコンクールに出ているわけでもない。もちろん普通の生徒もいたが、総じて個性的な生徒の多い学校だった。
 地味な自分の風貌が嫌で、金をためてやっと髪を染めた。パーマもかけた。だけどどんな風におしゃれをしても、自信が持てなかった。その裏返しのように、見た目の整った人間を次々好きになった。……長塚だけは除いて。

「やっぱおかしい……おかしいよな」
「浅野、さっきからうるさい」
「すんません」

 浅野は手元の解答用紙の採点を続けながらも、頭の中では常に長塚のことを考えていた。赤い鉛筆で次々に丸をつけていく。
 友人という関係で自分は満足だった。連に振られたのも確かに辛かったし、恋人はほしい。でも、友人関係を犠牲ににする気はなかった。
〝好きじゃなきゃこんなことしない〟
 あの言葉を真面目に取るほうがいけないのだろうか。もしかして、誰にでもああいうことを言っているとか。知り合いに聞いてみたいが、そうすると自分が長塚と寝たことを話さなければならなくなるので言えない。
「あー」
「浅野、うるさいって言ってんだろ」
「すいません!」

 もう勤務時間自体は終わっている。最後の一枚を終わらせて、慌てて浅野は席を立った。こんなときはぐだぐだしていても仕方がない。長塚に直接話をしてみた方がいい。

「お、今日は飲み行かないのか?」
「すみません、今日はちょっと……」

 晩酌好きなベテラン教師の誘いを断って塾を出る。まだ残っていた生徒が出口のあたりにたむろしていて、「先生ばいばーい」と手を振ってくれた。

「気をつけて帰れよー」

 浅野がバイトをしている塾は、中学生から高校生までの生徒がいる。話し込んでいる生徒たちは楽しそうだった。

「あいつ何考えてんだろ……」

 だんだん自分をこんな気持ちにさせる長塚に腹が立ってくる。
 もてあそばれた。そう考えると、「自分の顔が好きなはずだ」と言っていたことにも腹が立ってくる。美形が好きだからって、別にお前が好きなわけじゃない。傲慢にもほどがある。

「うわ、マジで雨じゃん……」

 しばらく歩いていると、ぽつぽつと雨が頬を叩いた。長塚の言っていた通りだ。だが浅野は傘を持っていなかった。
 横断歩道を急いで渡っていたとき、ふと視線を感じた。もうあたりはすっかり暗い。
 浅野のことをじっと見ていたのは、まだ若い女だった。傘も差さず、慌てている様子もない。腰に届きそうな髪は黒く長く、どこか異様な雰囲気だった。
 関わらないようにしよう、と思って浅野は足を速める。だが、しばらく歩いても女の視線を常に感じた。まさかと思う。たまたま同じ方向に歩いているだけだと思いたかった。だが、女は明らかに浅野についてきていた。

――嘘だろ。

 浅野は実家暮らしだ。だが、家には誰もいないことが多く、おそらく今日もそうだった。
 住宅街に入ると、あたりにはひとけはほとんどなかった。このまま家に帰っていいのだろうか。誰かに電話で助けを呼ぶべきかもしれない。
 とっさに手にした携帯にすぐ表示されたのは、昼間かけたばかりの長塚の名前だった。
 浅野はすぐに彼に発信する。あのとき、話が途切れてしまっていたからちゃんと用事はある。
 だが、こんな時に限って長塚はなかなか電話に出ない。しばらく呼び出し音が続いたあと、無情にも留守番電話に切り替わる。

「……っ」

 浅野は思わず悲鳴を上げそうになった。携帯を操作しているうちに、気が付くと女が一メートルほどの近さにまで来ていたからだ。

「あ、もしもし?」

 留守番電話サービスに繋がっただけだったが、浅野はそのまま、電話の向こうの相手と通話をしているふりをする。

「あ、さっきの話だけどさ」

 女は何も言わず、だけどやっぱり浅野の方をじっと見ている。どうしてこんなに自分を見ているのだろう。
 髪は長く、目の下には隈がある。ラフなTシャツ姿でおせじにも身ぎれいとはいえない。だけど、彼女の顔立ち自体は整っていた。嫌な感じに心臓が跳ねる。

「長塚? 聞いてるか? ああ、そうそう」

 女は、長塚の名前に反応を示したような気がした。やっぱりそうだ。
 高校の時、浅野が好きだった女性だった。そして浅野のせいで不登校になり、クラスで孤立する原因にもなった。まさかとは思った。

「今、バイト先から家に帰るとこなんだけどさー」
「浅野」

 吐息を感じるほど近くに女が立っていた。浅野は思わず携帯を取り落とす。普通ではありえない間合いだった。
 髪で顔を隠しがちな、地味な女生徒だった。でもクラスで最初に見たときは、理屈にならないくらい惹かれた。

「あ……あれ、黒澤? 久しぶり?」

 なるべく刺激しないようにしなければと思いながら、浅野は笑みを浮かべる。小雨は降り続いていて、浅野と彼女を濡らしていた。

「何なの、あんた」

 こっちのセリフだと言いたいが言えない。彼女は強く浅野を睨み付けてくる。
 学校に来なくなった彼女は、引きこもってしまったとは聞いていた。励ましのメッセージを書こう、とクラスで盛り上がったこともあったが、浅野にその色紙は回ってこなかった。

「えーと、俺?」
「いい加減にして」
「いや、ちょっと待てって。そう、黒澤だよな。いやー久しぶり」
「いい加減にしてって言ってるの」
「何の話だよ、高校のときのことか? そりゃ確かに俺が……見てたことに関しては、嫌だったなら悪かったけど」

 浅野にも言い分はある。ただ見ていただけだ。告白さえしていない。でも、彼女が浅野のせいで、学校に来れなくなってしまったことは事実だった。

「でも俺は当時はあんたのこと、ほんとに好きで、悪気はなくて……」

 話せばわかるはずだ、と思った。一応は同じ教室で過ごした仲だ。だけど嫌な予感がして仕方がなかった。彼女の着ている服のサイズは大きめで、左手はポケットに入っている。

「ええと……とにかく、ごめん!」
「あんた、わかってるの?」

 黒澤の声はぴりぴりくるくらい厳しかった。冷や汗が背中を伝う。大学生、刺殺体で発見――そんな文言を思い浮かべてしまう。せっかく大学に進学したのにもったいない、そんなことを言われているところが目に浮かぶ。

「いやちょっと、待って。マジで待って、だから、ごめんって」

 自分がいけないのだろうか。外見に惑わされて、心の美しさを見なかった? 人格を無視した? 外面しか見ていない?
 でも、外見がよくて心が貧しい人も、その逆もいくらでもいる。それならはっきりと見分けがつく、外見の美しい人が好きだというだけだ。ただそういう好みなだけだ。
 何か悪いことをしたわけじゃない。不細工が好きな人間だっている。でもそれは、美形好きより褒められるべきというわけじゃない。どっちもただの好みだ。

「好きだっただけなんだよ!」

 ここで刺されて死んだら、やっぱり内面が見えていなかったと言われそうな気がする。それだけは嫌だった。

「だからあんたは全然わかってないって言ってんの」
「何がだよ……俺が悪かったって!」

 教室で黒澤はいつも長い髪で顔を隠すようにしていた。それがもったいないと思った。直接彼女にそう伝えたこともある。でも嫌がられただけだった。

「あんた、私が『好かれて悪い気はしないな』なんて思うと思ってたんでしょ?」

 黒澤は吐き捨てるように言った。話せばわかる、なんて幻想かもしれない。彼女にはいくら謝っても通じない気がする。

「それは……」

 一歩黒澤が近づいてきた、と思ったら急に視界がぐらりと揺れた。衝撃を感じたと思ったら、地面に叩きつけられていた。
 何が起きたのかわからなかった。黒澤に蹴り倒されたらしい、と気づいたのは腹を思い切り蹴り上げられてからだった。

「うっ……」

 浅野は今までの人生において、暴力とは無縁だった。夜遊びなんかをすることもあったけれど、喧嘩をしている人たちがたまにいても、遠巻きに見ているだけだった。
 痛い。とんでもなく痛い。それだけで思考があっというまにちりぢりになって、何も考えられなくなる。何とか体を起こそうとしたけれど、腹に受けた衝撃のせいで吐き気がした。

「……っ、う」

 一応相手は自分より細身の女性だ。だが、黒澤は何か本格的に鍛えているとしか思えなかった。
 なぜ、ととっさに思ってしまう。ここまでされるようなことだろうか。確かに不登校になったことは申し訳なかった。でももう過ぎたことだ。なぜここまで彼女に恨まれなければならないのか。
 ぐらりと視界が揺れる。さっき落とした携帯が目に入る。留守番電話に残した中途半端なメッセージを、長塚は聞いてくれただろうか。浅野はとっさにそれに手を伸ばし、強く掴んだ。だけどそれきり、意識は途切れた。

 ・

「えー、もっとやりたい」

 小さい頃は、おばあちゃんちに行くのが好きだった。そこにはいとこが住んでいて、最新のゲーム機をやらせてもらえたからだ。

「成ばっかやってんなよ」
「あとちょっとだけ」

 家では勉強の邪魔になるからといって、買ってもらえなかった。でも、泊まるときはあっても数日で、なかなか長いゲームはクリアできなかった。それに、いとこの方がずっと上手だった。

「うちにも買ってよ」
「お兄ちゃんのときだって買ってあげなかったんだから、だめに決まってるでしょう」

 母の言う理屈には不満だった。なぜ兄のときに買わなかったらだめだというのか。
 特にストーリーの壮大なRPGに惹かれた。かっこいい主人公が、かわいいヒロインと出会って冒険をして世界を救う。でもそういうゲームほど、プレイするのに時間がかかったから、いつも最後まではクリアできなかった。
 高校生になってやっと、貯めたお年玉でゲーム機を買った。両親は呆れていたが、どうしても欲しかったものだったので満足だった。
 だけど、小学生の頃におばあちゃんちでプレイしたゲームほどには面白く感じられなかった。
 限られた時間の中で、何もわからずに触れたゲーム。
 自分の所有物で、いくらやってもいいと思うと、それほどにはのめり込めなかった。

 わずかな振動で目が覚めた。
「あれ……?」
 周囲は真っ暗だった。揺れていることで、車に乗っているのだと気づいた。車窓を雨が叩いている。

 ――雨が降るらしいぞ。

 そういえば、そんなことを聞いた。あれはいつだったか。もうずいぶん昔のような気がする。どうやら車の後部座席で眠っていたらしいと気づいた。

「起きたか?」

 となりに座っている男は、長塚だった。ほっとして力が抜けそうになる。

「あ、さっき留守電、適当に、えっと……」
「わかってる。落ち着け、もう大丈夫だから」

 そう言われて初めて、自分がずっと携帯を握りしめていたことに気づいた。
 手を開こうとする。だけど、思うように手が動かない。

「あ、れ……?」

 簡単なことだ。指を一本一本開けばいいだけ。なのに変に力が入ってしまって、携帯を握りしめたまま離すことができない。

「落ち着け、大丈夫だから」

 長塚の手が、そっと浅野の指に触れる。長塚は優しく、力が入った浅野の指を開いていった。ぽろりと携帯が膝の上に落ちる。やっと開いた手は、だけどまだ震えていた。
 恐ろしかった。あんな風に、誰かから直接的な暴力をぶつけられたのは初めてだった。相手は女性だけれど、理屈でなく敵わないと感じた。下腹のあたりにまだ痛みを感じる。

「悪かった」

 がたがた震える浅野の手を、長塚が握る。自分より大きくて暖かい手に、安心感を覚えてしまう。浅野は息を深く吐いた。静かに雨の音が続いている。

「大丈夫だから」

 ひどく疲れた一日だった。長塚を振るつもりが付き合えないと言われたり、昔好きだった女の子に襲われたり。車の中は暖かくて、緊張が解けてほっとしたせいか、浅野はそのままうとうとと眠り込む。静かな雨の音が途切れずに続いていた。
 疑問はたくさんあった。長塚の手は暖かい。付き合うとか振られるとか友情とか、今だけはそんなことを気にせずにただこの熱に触れていたかった。

「……浅野」

 揺さぶられて目が覚めた。すっかり眠ってしまっていたらしい。懐かしい夢を見たような気がしたが、何も思い出せなかった。
 車はすでに止まっていて、長塚も運転手も車を降りていた。浅野は長塚に促されるまま、車を降りる。なんだかまだふわふわした気分だった。
 足が少しふらつく。雨はもう止んでいたが、足下の土はまだ濡れている。確かに思ったよりも近場なのかもしれない。
 長い一日だった。長塚と話をしないといけないとも思っていたし、色々言いたいこともあるけれど、今はとにかく風呂にでも入ってゆっくり休みたい。

「……って、ここどこだよ」

 森だった。
 車に乗っていたのはたぶん二十分ほどだ。どれだけ飛ばしたとしても、おそらくまだ都内か、その近郊のはずだった。
 なのに、目の前には森があった。あたりを見渡そうとしても、黒々とした木々に遮られて何も見えない。風が吹くたびにざわざわと木々が鳴る。
 そしてその向こうに、黒っぽい色をした重厚な平屋があった。薄暗い仲で、ぼんやりと黄色い明かりが灯っているのが見える。まるで浅野には温泉旅館のように見えた。

「おい、長塚……」
「うちだよ」

 長塚はそれだけ、微笑みもせずに言った。

「ゆっくりしてってくれ」