「うーん……」
長塚の家での生活は、正直快適だった。
着替えは無事に届けられ、大学の教科書やノートパソコンまでそろってしまった。大学の友人とも連絡を取って、代返が可能なものはお願いをした。こういうときもあるかと思って、各授業では最低一人以上知り合いを作っている。日頃からの成果だった。
食事はおいしく、ベッドはスプリングがきいていて、長塚もなぜかほとんど大学には行っていないようで家にいた。当然のように、自然な流れでベッドも共にした。満ち足りて、なにひとつ不自由のない生活だった。
だが、黒澤の追求だけは勘弁してほしかった。
「いい加減、思い出した?」
今日の黒澤は髪を一本にまとめて、ジーンズにTシャツというラフな格好をしている。すっぴんだが、やっぱり顔立ちは透き通るようにきれいだった。
でも今彼女を見ると、どうしても長塚の印象と重なって見えてしまう。
「だから俺は知らないって言って……」
「その頭には脳みそが入ってないの?」
「栞」
長塚は嘘をついた責任からなのか、基本的にはかばってくれるけれど、黒澤の追求はやまなかった。いっそ、嘘なのだと長塚からちゃんと言ってほしい。過去のことなんて知らない。家柄だの許嫁だの、どう考えても自分には関係のない話だ。
「あんた、本気で思い出そうとしてる……? 電気とか流せば思い出せる?」
最後には黒澤は本気で困った様子だった。このままだと本気で電気椅子に縛り付けられかねない。
「だから、知らないものは思い出せないって。そもそもなんでそんなにこだわるんだよ」
黒澤は、長塚と親類だと知られることを異様なほどに嫌がっていた。だから、クラスで顔を隠していたのだ。というからには、長塚に対して好意があるわけではないだろう。
「私だってまだ結婚はしたくないもの」
結婚をさせられるのは長塚ではなかったのか。少しして「いとここん」という言葉が頭に浮かぶ。文化人類学の授業でやった。確か家族と家族が繋がりを密にしてとかそういうやつだ。
「……結婚って、黒澤と長塚がすんのか?」
聞いていなかったのか、と栞の方が驚いていた。嘘だろ、と反射的に思ってしまう。だけど栞も長塚も否定しない。
確かに二人が結婚したらお似合いだ。いとこだし法律的にも問題はない。だけど、血縁的にあまりに近すぎないだろうか。胸の中が変な風にざわざわする。
「いやでも、二人ともが結婚したくないなら、それはどうにかするべきだろ……? ていうか、むしろ二人の意志でもどうにもできないもんを、俺の証言一つでひっくり返せるのかよ」
「できるから言ってるんじゃない」
ここ数日の黒澤は焦っているように見えた。確かに、長塚のことを好きでないのなら、結婚したくない、だからどうにかしたいという彼女の動機自体はわかる。それにしても、誰かと共謀すればいいのなら、自分でなくてもいいだろうという懸念は消えないが。
「わかった、じゃあ俺が嘘をつけばいいんだな?」
二人が結婚をしたくなくて、それを自分の証言でひっくり返せるなら嘘くらいいくらでもつく。
実際、二人に結婚をさせたくない気持ちがあった。高校の頃好きだった女の子と、友人だけどなんだかんだセックスをしている男とが結婚するなんて、やっぱり何だか嫌だ。
「だから、思い出さないと意味がないでしょ」
苛々したように自分の腕を指で叩きながら黒澤は言う。
「思い出したって嘘をつけばいいんだろ?」
嘘で言っているのか本気なのか、判別はつかないはずだ。もともと浅野がプロポーズうんぬんというのは長塚のついた嘘で、そんな事実はないのだから、誰にも確かめようがない。
「あんたね……! 口先だけなのもいい加減にして!」
だが黒澤はテーブルにばんと手をついて激昂する。何がそこまで彼女を怒らせたのか、よくわからなかった。
「え、いや、だって……」
確かにまぁ口が軽いと言われがちな自覚はある。でも、浅野としてはむしろ彼女の味方をするつもりだったのだ。黒澤に詰め寄られると本気で怖くて体が萎縮するのを感じる。
彼女が最初に暴力を振るったのは、高校時代にされたことへの報復であり、それ以上のことをするつもりがないとは聞かされた。でも、その気になれば彼女はいくらでも暴力を振るえる。
「栞」
そばで無言のまま携帯をいじっていた長塚が言う。もっと早くに助けろよと思うが、あまりあからさまに長塚を頼りたくもない。
「でも……!」
長塚と黒澤のとの関係性もよくわからなかった。日本では確かにいとこでの結婚が可能だし、家柄のためだか何だかわからないが、その方が都合のいいこともあるのかもしれない。
でも二人ともいい年なのだし、本気で結婚をしたくないのなら方法はありそうなものだ。そこまで家に縛られる理由がわからなかった。
「いいから」
長塚が言うと、黒澤は悔しそうに浅野を睨み付ける。
「いや、俺、敵じゃないって……ちゃんと解決方法探そうぜ、そんなにかっかしないで」
「あんたがさせてんじゃない」
浅野は苦笑いをするしかない。思い出せと言われることに何も思い当たらないのだから仕方がない。浅野の生まれは福井だし、途中で東京に越してきたけれど長塚や黒澤と知り合ったのは高校の時だ。
福井でも一応友人はいたが、今となってはもう連絡も取っていない。特別なロマンスなんて何もなかった。
普通の家に生まれた、普通の人間として育った。取り立てて才能や美貌があるわけでもなく、何か特殊な体験をしているわけでもない。
「栞、焦らなくていい」
「でも……」
長塚がなだめるように言う。なぜか、彼女は長塚の言うことは聞く。
「もともと早すぎるくらいなんだ」
そうして長塚は、どこかで聞いたようなことを言った。何が早すぎるのか。その言葉の意味をもっと追求したかったけれど、黒澤に責められるのが怖くて浅野は黙っていた。
・
檜のいいにおいがする風呂からも、大きな窓があって外を眺められた。裏庭というのか、風呂場以外からは通じていないスペースがあって、そこに木々が植わっている。
初日以来、雨は降っていない。木々は青々とした葉を茂らせている。
確かに、これだけの自然があったら精霊だか妖精だかを信じたくなる気持ちもわからないではない。青葉はきれいだけれど、じっと見ていると生きているようにも思えて少し怖い。
「色、変わってきたな」
指さされた痣は、青と黄色っぽくなってきている。正直、あまりきれいな色ではない。浅野は水ごしに自分の腹のあたりを見つめる。ゆらゆらと水を通して、痣は揺れて見える。
「グロいよな」
「治ってきてるとこだってことだろ」
「また蹴られて増えそうだけどなー」
長塚の家の風呂は、確かに温泉ではなかった。だけど普通の家と比べたら格段に広い。そこそこの旅館にあるのと同じくらいと言ってもよかった。男二人で入っても、十分に足を伸ばすことができる。
いくつか荷物を持ってきたもらったとはいえ、とりたててすることはない。ゲームでもあればいくらでも時間は潰せるが、さすがにゲーム機を持ってきてくれというのは憚られた。
長塚も大学には行っていない様子だった。何を示し合わせたわけでもないのに、ほとんど毎日抱き合っていた。
暇なせいだ、と浅野は自分に言い聞かせる。大規模な停電が起きた地域では、出生率が上がったという話を聞いたことがある。つまりみんな、暇だとベッドの上で励むくらいしかすることがなくなるのだ。
「あれは高校時代の分だって言ってたから」
「そうだといいけどさ、またいつ怒るかわかんないだろ」
体はけだるく、お湯は心地がよかった。男二人で入ってもまだだいぶ余裕がある。
「大丈夫」
ほんとかよ、と軽口を叩こうとして、だけど浅野はしなかった。長塚がそう言うなら、大丈夫なのだろうなという気がしてしまう。理屈ではなく、変な説得力があるのだ。
水の中で足を動かすと、長塚の腿のあたりに触れる。浅野はそのままじゃれつくように、軽く長塚の足を蹴る。
「おい」
長塚が浅野の足首を掴む。バランスを崩して湯に顔がつかりそうになり、浅野は慌てて浴槽のふちを掴んだ。
「ちょ……っ」
足の指の数を確認するかのように、長塚の手が触れる。くすぐったいような、変な感じだった。
「な……んだよ」
ふざけているのだと思った。だけど長塚は、あろうことか水の上に引っ張り出した足の指を口に含む。
「ひ……っ、や」
バランスを崩して今度こそ溺れそうだった。思い切り足を引くと、長塚は笑っていた。
「な……にすんだよ」
「いや」
心の中は疑問ばかりで全然落ち着いていないのに、二人きりの時間は穏やかだった。もういっそこのまま、この日々が終わらなければいいのにとさえ思ってしまう。
そんな気持ちをまるで読み取ったかのようにぐいと引き寄せられて、腕の中に閉じ込められる。広い風呂というのはいい。こんなにあれこれ動いても、お湯はほとんど溢れていない。
「何だよ」
長塚の唇が首もとに触れる。さっきもうベッドの上で散々したというのに、じわりと体の奥で熱が生まれる。水の中の胸を長塚の指が撫でる。
「……っ」
刺激に慣れた場所は、すっかりすぐに立ち上がるようになっている。そのまま強めに摘ままれて、声が殺しきれなかった。
「……あっ」
この屋敷に来てから、もう何度しただろう。長塚からは結局振られていて、セフレなんて絶対に嫌だと思っていたはずで、なのに問題から目をそらしてこうして快楽に溺れている。
何かを話し合ったりしないまま、このままずっといられればいいんじゃないかとさえ思ってしまう。快適な生活と気持ちのいいセックス、それ以上に何がいるだろう。
「や……っ、あっ」
胸を強く摘ままれるのと同時に、首筋にかみつかれる。あくまで軽いものだったけれど、単に舐められるのとはまた違う刺激だった。
このままじわじわと溶かされ続けたら、入れないでは済まなくなる。そう思って浅野は体をよじったけれど、すぐに長塚の腕に連れ戻される。
「水の中だと動きにくいよな」
そう言って長塚は浅野を立たせると、浴槽の壁にしがみつくような格好をとらせる。つるつるした壁には縋るところがなく、立っているのは辛かった。
「……っ」
ゴムも何もなく、そのまま長塚のものが入れられる。一度ベッドの上でしたばかりだから、内部はまだ柔らかくほぐれている。
「あ……っ」
浴室は声の響き方も普通の部屋とは違う。力の入りにくい体制も、そういう違いも、何もかもが興奮を高めていく。
後ろから深く貫かれ、同時に胸を摘ままれる。
「あ…、やっ、あ」
まだ外は明るく、本当ならまだ大学に通っている時間のはずだった。なのにこんな風に快楽に溺れている。
確かにここは異世界のようなものかもしれない。迷い込んでしまったのだ。元の世界に無事に帰れるのか不安になってくる。
「ああ……っ」
浴室の壁に自分の白いものが飛び散る。少し遅れて中で男が達したのがわかった。中で吐き出される感覚は慣れない。ここは浴室だからすぐかき出せるからいいけれど。
ずるずるとそのまま倒れ込みそうになる体を背後から支えられる。そのまま顔を寄せてキスをされた。長塚がキスをするのはむしろ珍しかった。
「ん……」
キスをして初めて、自分がずっとキスをしたかったことに気づいた。すがるように首に腕を回し、そのまま深く唇を重ねる。奥まで貫かれたときとはまた少し違う快感が頭をぼうっとさせる。
本当は、ここは異世界でも何でもない。じきに、現実に戻らないといけない時がくる。
そのときにはたぶん、長塚とは何でもないただの友人同士に戻るのだろう。約束も言葉も何も自分たちの間にはないのだから。
だけど彼を相手に失恋の愚痴なんて言えるとはもう思えなかった。
・
中学生の頃、好きになった相手が二人いた。どちらも美形で一人は男で、一人は女だった。男の方は友人で、軽い気持ちで「俺と付き合うとかどう?」と聞いたら「ねぇよ」と一刀両断された。女の方にも「ごめんなさい」と言われた。
少ししてその二人は付き合い始めた。悔しいというよりも、やっぱりなという気持ちが強かった。選ばれた人間は、やっぱり同じく恵まれた人間を選ぶのだ。
自分はいつだって蚊帳の外だ。
やっぱり長塚と栞は結婚すべきなんじゃないだろうか。
何だか最近、昔のことをよく思い出す。
「俺、そろそろ帰ろうかと思うんだけど……」
森の中の散歩はほとんど日課のようになっていた。
隣を歩いている長塚は答えなかった。昔のことをよく思い出すようになっても、黒澤や長塚の姿は高校になるまで現れない。
「おい、聞いてるか?」
「聞いてるよ」
ここに来てからもう、あっという間に五日が過ぎていた。とても快適ではあるが、さすがにいつまでも人の家にいるつもりはない。
「黒澤はそのうち諦めるだろって言ってたよな」
「ああ」
「このまま諦めなかったらどうすりゃいいんだよ。俺は延々、あの女に狙われるのか?」
「栞にも、時間が必要なんだよ」
「そうはいっても、限度があるだろ」
この家の中で、長塚や黒澤の家族を見かけたことは一度もない。二人は家のことに縛られているようだけれど、実際どのくらい厳しい家なのか、よくはわからなかった。今の社会なら普通、結婚は自分の意志でするものだ。文化人類学の授業で出てきたような時代とは違う。
「長塚の親って、父親はいるんだよな?」
「ああ。……母親は、俺が七歳の時に死んだ」
土を踏みながら歩いて行く。ここ数日は雨が降っていないから歩きやすい。あまり湿っぽい雰囲気になりすぎるのもかえってよくないかと思い、浅野は軽い口調で言う。
「長塚のお母さんなら、そりゃあ美人だったんだろうなー。会ってみたかったわ」
「思ってないだろ」
軽口のつもりだったのに、呆れたように言われてどきりとする。
「なんでだよ。普通に会いたいわ」
ちらと観察した長塚は怒っている、というわけでもなさそうだった。むしろ苦笑している感じだった。散々美形を好きだと言いつつ、長塚の外見に興味がなかったことにこだわっているのだろうか。
――お前が好きなのは俺の顔だ。
今考えると結構すごいことを言われた気がする。
でも、黒澤に惚れ込んだことからして、近からずも遠からずではある。長塚のことは恋愛対象ではないと思っていた。なのにこの屋敷に来てから、ほとんど毎晩のように寝ている。それがどういう感情に基づいてのことなのか、今はまだ考えられない。
「すぐ適当なこと言うの、気つけろよ」
「何だよそれ、別に俺は……」
「本気にするやつもいるかもしれないから」
「何だよ」
長塚とは恋人同士のようなロマンチックな雰囲気はない。最中にたまにキスはするが、好きだとかそういうことはどちらも口にしなかった。
「黒澤もよくわかんないこと言ってたけど、つまり嘘つけば丸く収まるんだろ?」
黒澤が諦めるのを待つより、そっちの方が手っ取り早い。どうしても浅野にはそう思える。
「それはだめだ」
「でも、俺だっていつまでもいるわけにはいかないしさ」
いくらここが快適でも、ちゃんと帰らないといけない。何だかこの屋敷にいるのは現実感がなかった。バイトだって休みをもらっている。バケーション感があるといえば聞こえがいいけれど、自分だけ世の中から取り残されているような感じがする。
「別に、いればいいだろ」
長塚の言葉は、あまり深く考えてのものとは思われなかった。
「いいわけないだろ」
自分と長塚の関係だって、明確な名前があるわけではないのだ。ふわふわと何も考えないまま、セックスだけを繰り返していても、前には進めない。
「なぁ、お前の家の事情とか、色々俺にはわかんないこともあるんだろうけど。俺がプロポーズしたっていう昔のこと、思い出したら俺らはどうなるんだ?」
一瞬、長塚がためらったのを浅野は見逃さなかった。浅野は今までどうしても聞けなかったことを口にする。
「前に言っただろ、俺のこと……好きだって。あれは何だったんだよ」
聞きながら、自分はもう一回聞きたいのだなとわかってしまった。もう一度、彼に言わせたいのだ。
その上で嘘をつくとかつかないとか、協力を求めるというのなら何だってしてもいい。そろそろバイトにも行かないとまずいし、授業にもついていけなくなる危険があるけれど、それでももう少しここに滞在してもいい。
「それは……今は言えない」
不安なのだ。今のこの、宙ぶらりんの関係が。
ずるずると彼に傾いていく自分の気持ちを止められないことが。
「何だよ、今はって」
「とにかく嘘は絶対につくな。それじゃ意味がないんだ」
「おい、長塚……!」
「一人で散歩してる」
長塚はそれだけ言って、一人で森の奥の方へ入っていってしまった。浅野は呆然とその場に取り残される。
「何なんだよ、あいつ……」
やっと勇気を出して聞いてみたらこれだ。
確かに庶民の自分にはうかがい知れない事情があるのかもしれない。でもいきなり連れてこられて、何日いればいいかもわからないなんてさすがに付き合いきれない。
もし長塚が自分のことを好きで、付き合えないのも結婚が理由で、だからどうしても協力してほしいということなら嘘だっていくらでもつく。もっとここに滞在していてもいい。
なのに長塚はそういうことは言わない。
やっぱり、自分は利用されただけなんだろう。都合がいいから、たまたまそこにいたから、そのくらいの理由で選ばれた。もう一回、好きと言ってほしいなんてばかばかしい。男なら、寝た相手にさしたる理由もなく「好き」と言ってしまうことくらいあるだろう。長塚が何を言っていたとして、真面目に受け取らない方がいい。
自分はそういう風に、誰かに選ばれるような特別な人間じゃない。
「何なんだよ……」
今日の夜にはこの家を出ようと思った。
黒澤は、ずっとこの屋敷に滞在しているわけではないようだった。昼間は仕事をしているらしく、忙しそうにしている。
浅野の手元には携帯もある。黒澤に暴力を振るわれたら、警察に通報してやればいい。タクシーだって呼ぼうと思えば呼べる。何も黒澤や長塚のいいなりになる必要はないのだ。
もうここにいても何にもならない。一人で何とかするしかない。
その夜、浅野は体調がよくないと嘘をついて早めに寝床についた。演技のためにあまり夕飯を食べなかったので、お腹が空いてくる。
「やっぱ飯は食っとけばよかったな……」
この屋敷で出される食べ物はいつもおいしかった。和食が多いが、デザートには季節のフルーツが出て、そのどれもがみずみずしく甘かった。そういえば、長塚とはいつも居酒屋で会うことが多かったけれど、ここに来てから酒は飲んでいない。急に昔のことが懐かしく思えてくる。
ベッドに横たわっていると、ざわざわと木々がそよぐ音が外から聞こえてくる。今日は特に風が強いように感じられた。ざあっと大きな音が鳴ると、まるで不吉の前兆のようにも感じられる。
浅野はベッドの中でしばらく携帯をいじっていた。だけどとりたてて見たいものもなく、ようやく決意して体を起こす。
「よし」
浅野は持ってきてもらった荷物をリュックの中に片端から詰める。それほどの量ではなかった。やっぱりゲーム機は持ってきてもらわなくて正解だった。
廊下に設置されている明かりは人感センサーつきのもので、歩いて行くと明かりがぱっとつく。だけど廊下の奥は暗闇にしか見えない。
「やっぱ怖いな……」
夜はさすがに手伝いの人たちもみんな寝ているらしい。動くものの気配は感じなかった。
正面玄関に自分の靴はあったが、引き戸の鍵が閉まっている。家の鍵なんだから、内側から開ける方法がないなんてことはないだろうと思ったが、どうしても開かない。
「くそっ」
どこか別の出口ぐらいあるだろう。靴を持ったまま廊下に戻った。そのまま歩いて行くと、廊下が途切れた右手にドアがある。鍵もついていないようだったので開けてみると、そこはもう外だった。
中央には池がある。中庭だろうか。池には少し赤みをおびた月がうつっていた。
「はぁ……」
さすがに外は肌寒くてくしゃみが出かけるのを押し殺す。池には木々のシルエットもうつっていた。人の気配がなく、木々が風にそよぐ以外は静かだからこそ少し怖い。こんなところなら確かに精霊もいそうな気がする。
――森には行っちゃいけない。
そんなことを昔言われた気がする。でも、住んでいた場所にこんな森なんてなかった。あれはどこだっただろう。
――行っちゃいけないよ。
――お前どうしてそんなに美人が好きなんだ?
肌がどんどん冷えていき、側頭部が痛む。何か、大事なことを思い出しかけたような気がした。
「あれ?」
だがそのとき、庭に面した部屋の明かりがぱっとついた。浅野は慌てて、壁に体をおしつけるようにして気配を殺す。話し声が聞こえた。聞いたことのない、男の声だった。
「この土地だって、やろうと思えばいくらでも有効活用ができる。ホテルにするとでも考えてみろ。機会損失もいいところだ」
中年くらいの男の声だった。偉そうで、使用人のようには聞こえない。
「いい加減に準備しろ。こっちだって結婚の手続きなんて面倒なんだ」
「わかってます」
答えた声は長塚のものだった。
「それだけ逼迫してるんだ。淫売の血でも、他人よりはマシだからな」
男は更に続ける。淫売、という時代がかった物言いにすぐには頭が理解を拒否する。
長塚は何か言い返すかと思った。だけど何も聞こえない。
浅野は長塚の家の事情について、何も詳しいことは知らない。この男が誰で、長塚とどういう関係なのかも。でも、今のは明らかに度を超した発言だろう。ふざけんな、殴るぞと思う。だけど長塚は静かに答えただけだった。
「わかってます」
いっそ自分が出て行ってやろうかと思う。だけどふいに腕を掴まれ、悲鳴を上げそうになった。
「……っ」
声が出なかったのは、とっさに相手が浅野の口を塞いだからだ。
そこにいたのは黒澤だった。闇に紛れるかのように、黒っぽいパーカーを着ている。また蹴られるかと思うと身がすくんだ。
黒澤は唇に指をあて、声を出さないようにとジェスチャーしてくる。浅野は黒澤に伴われるまま、家の玄関の方に向かった。
「どうしたんだよ」
「送ってく」
「え?」
自分の耳を疑う。思い出せと脅迫をして、帰らせないと言ったのはまさに黒澤ではなかったのか。
黒澤が指さしたのは、暗闇の中に沈み込んでいきそうな黒い高級車だった。そういえば、この家に連れてこられたときもこういう車に乗ってきた。
「な……んでそんな、急に」
「いいから」
そう言って黒澤は強引に浅野の腕を引いた。暴力を振るわれた記憶もあって、彼女には逆らう気になれない。それに、本当に送っていってくれるならまたとない申し出のはずだった。
「とかいって東京湾に沈められるんじゃないよな」
「その気ならとっくに、あんたなんてそこらへんに埋めてる」
これだけ広い森だと妙にリアリティがあって怖い。浅野はそのまま、車の後部座席に乗り込んだ。当然のように、黒澤も隣に乗り込んでくる。
「長塚は?」
「今は取り込んでるから」
長塚は男と話をしていた。使用人でもないあんな男、浅野の知る限りこの屋敷にはいなかった。
「長塚と話してたやつ、あれ誰だ?」
「私の父親」
「何なんだよ、あの言いよう……」
「出して」
黒澤は有無を言わせず車を出発させる。
外は真っ暗だった。浅野自身、もうここからは出ようと思っていた。だけど、こんな風にあっさり、黒澤に助けられて出られるなんて思わなかった。
長塚の出自なんて聞いたことはなかったが、母親が美人であることは明らかだ。たぶん、妾とかそういう立場の人だったのだろう。だけどそれにしたって、あの言い様はない。
「もういいのか? 思い出すとかどうこうっていうのは……」
もっとちゃんと長塚と話をするべきだったんじゃないかと思う。答えを出すのが怖くて、肝心なことは何も聞けなかった。
今もこうして挨拶さえせずに出てきてしまった。体は何度も重ねたのに、いまだに彼のことをわからないままだ。
「あいつは取り憑かれてるの」
「え?」
黒澤はじっと正面を見たままで、浅野の方を見ようとはしない。
「あいつって?」
黒澤はそれ以上何も答えなかった。静かに車は走り続ける。わけのわからないことだらけだ。このまま本当は東京湾にまっさかさまなんてことはないだろうかと、疑う気持ちもないではない。だけど、今の黒澤の雰囲気はどこか前と違っていた。
車は静かに滑るように夜道を走っていく。出たいと思っていても、出てしまえばあっけない。外は真っ暗で景色はよく見えなかったが、既に森は途切れており、住宅街を走っているようだった。
「なぁ、何なんだよ。俺、全然わかんねぇんだけど、黒澤はわかってるのか?」
「……わかってもしょうがないこともあるのよ」
黒澤はふざけているわけではなさそうだった。薄暗い車の中で黒いパーカーの上半身は沈むように見え、白い顔だけがぼうっと光っている。
「私はずっとそういうとこにいる」
どういうことか、と聞きたかった。でも、強ばった横顔の黒澤は、浅野の疑問なんて拒絶しているかのようだった。やっぱり、きれいだなと思う。でももう、焦がれるような気持ちやときめきはない。高校生のときの切実な気持ちはもうなかった。
代わりに体の中を占めているのは、昼間長塚に触れられた腕や、暴かれた深い場所が持つ熱だった。もっとちゃんと、話をすればよかった。時間はたくさんあったはずなのに、できなかった。
車はそれから大きな道路に出た。街灯が等間隔に続き、トラックが多く走っている。浅野はいつのまにか、そのまま眠りについていた。